ゴールデンウィーク中は神保町シアターで特別企画 『巨匠たちのサイレント映画時代4』。 2012年以来恒例、ということで、今年も通ってしまいました。 観たものの中から、まずは松竹映画4本の鑑賞メモを、観た順ではなく公開年順で。
あらすじ: 杉野 浩一郎は実家を飛び出し東京で音楽家をしていたが、 東京の音楽界を追われ困窮し妻と娘を連れて故郷の実家へ帰ろうとする。 その途中、出獄者2人組に襲われるが、逆に憐れまれパンを恵まれる。 浩一郎は実家に辿り着くも父に受け入れられず、食事も得られず、吹雪の夜を納屋で過ごすことになる。 父は納屋からも追いだそうとし、娘は凍死し、浩一郎は吹雪の中に飛び出していく。 一方、脱獄者2人組は令嬢の住む別荘に辿り着く。 忍び込もうとする所を見咎められるが許され、憐れんだ令嬢は彼らを別荘でのクリスマスパーティに参加させる。 翌朝、令嬢と杉野家の樵夫 太郎は雪の中に倒れている浩一郎を発見する。
新劇運動の中心人物 小山内 薫 が松竹蒲田撮影所から分かれて主宰した松竹キネマ研究所の第1回作品で、 ヴィルヘルム・シュミットボン『街の子』 (Wilhelm Schmidtbonn: Mutter Landstraße, 1901) と マクシム・ゴーリキー『どん底』 (Максим Горький: На дне, 1902) が原作。 実家に戻るも受け入れられない息子と別荘に忍び込もうとして救われる出獄者を対比して描き、憐れみの重要性を説く内容で、 互いに接点を持つ2つの話をカットで切り返しつつ並行して進める編集や、登場人物の想像を画面にオーバーレイで写し込むような効果の使い方など、 当時にしては複雑な物語を表現するための試行錯誤がとても興味深い映画でした。 といっても、そんなことよりも、本とかで名ばかり知った映画をやっと観た、という感慨が先に立ちましたが。
小山内 薫 というと新劇の偉い人という印象があったのですが、 この映画で俳優として動く姿を見て、少々親しみが湧いたような気がしました。 鈴木 傳明 演じる息子が父との和解を訴える場面などを見ていて、 こういう所は十年後の1930年前後の松竹映画とあまり変わらないな、と。 あと、英 百合子 演じるヒロインの令嬢がお転婆過ぎて可笑しい程。 しかし、それが深刻になりがちなテーマを救っていたようにも感じました。
3月に観た『水郷情歌 湖上の靈魂』 (松竹大船, 1937) [鑑賞メモ] と どこか似た所があるのではないかと、観ていてずっと気になってしまいました。 結局のところ似ているのは、東京で挫折したミュージシャンが妻と帰郷するが受け入れられない、という所くらい。 テーマもほとんど関係ありませんでした。 そんなことを気にせずに『路上の霊魂』を観たかったという意味でも、 『水郷情歌 湖上の霊魂』と観る順番が逆だったなあ、と。
あらすじ: 実業家 寺尾家の乳母の子 峰岸 荘一 は、母の死の際に寺尾家の者に辱められていたことを知り、 寺尾家を出てプロレタリア運動に身を投じる。 また、妹も実業家の令嬢 道子の許嫁に誘惑されて寺尾家に居辛くなり、兄と一緒に暮らすようになる。 照代が寺尾家を出た理由を知るために荘一を訪れた 道子 は、 雷雨の停電の中、密かに好意を寄せ合っていた荘一と関係を持ってしまう。 妊娠した道子は、父の秘書 長島と娘婿になることとの取引で形だけの結婚をし、生まれた子供は密かに庶民の家に預けて育てる。 その後、荘一は病のため入院することになり、照代はカフェーの女給をして稼ぐようになる。 それを知った道子は共通の知人である文士 酒井を通して峰岸兄妹を金銭的に援助する。 同志に誘われ病院を出た荘一は労働組合幹部として活動し、寺尾家が所有する会社と争議することになる。 交渉のために押し掛けた寺尾宅で、荘一と道子が相対することになるが、道子は卒倒してしまう。 それをきっかけに、荘一は労働運動から足を洗うことにする。 道子も離婚を決意するが、道子は部屋に閉じ込められてしまう。 寺尾家が火災になり、部屋に閉じ込められた道子は逃げ出せないでいたが、 駆け付けた荘一が決死の思いで救出するが、壮一は救出した直後に息を引き取ってしまう。 その後、道子は郊外の家で実の子二人暮らしを始めたのだった。
身分違いの男女の成就しない恋というのは、1930年代後半の松竹メロドラマでもお約束の枠組みですが、 1931年の時点では実業家の令嬢とプロレタリアの闘士として対決とかなり直接的で極端な図式を取ることもあったのだな、と。 1930年代後半では令嬢役は 高峰 三枝子でその相手の貧しい家出身の男が 佐分利 信 という感じですが (例えば『暖流』[鑑賞メモ])、 お嬢様の実家も、道徳的に堕落しているというより、没落しつつも品位は保とうとしているように描かれます。 もう一方の貧しい家の出の男も、プロレタリア運動に身を投じるような男というより、 勉学に励んで出世したビジネスマンや学者として描かれるようになります。 恋愛が成就しない理由も、克服し難い階級対立というより、生活様式の違いや本人の階級意識による躊躇。 これが1930年前後から1930年代後半の社会の雰囲気の変化なのでしょうか。
荘一に思いを寄せスキャンダル隠しのために取引で形だけの結婚をする強かな令嬢を演じるのは、八雲 美恵子。 こういう美しくも迫力ある女性の役が似合うなあ、と。 相手の荘一を演じるのは、サイレント時代の三羽烏の一人、高田 稔。 しかし、むしろ、道子に密かに好意を寄せながら道子の相談役となり荘一との間を取り持つ文士 酒井というちょっと切ない役を演じる 斎藤 達雄 の方が印象に残りました。 酒井に思いを寄せる女給の話がサイドストーリーとしてあったのですが、結末で回収されずに途中で消えてしまったのは、惜しいなあ、と。
あらすじ:
前篇・処女篇:
弓枝 は 富豪 八木橋家の譲と相愛の仲だが、譲はブルジョワな家風が合わず八木橋家と折り合いが悪い。
その従兄の武彦は、八木橋家のガーデンパーティで弓枝を見、親ぐるみで弓枝を騙し、弓枝の貞操を奪って捨ててしまう。
病気で臥せていた弓枝の父はそれを知り憤死し、姉は発狂してしまう。
譲は八木橋家を飛び出し、弓枝と暮らし始める。
それを知った譲の帝大時代の友人 宗像は彼を支援し、
商店会仲間で八木橋家贔屓の洋品店主 山万は誠意を見せろと八木橋家と掛け合う。
八木橋家は大金を持って弓枝を訪れ、武彦との結婚準備金とするか手切れ金とするか、と問う。
譲はそんな金は突き返せと言うが、弓枝は武彦との結婚を選ぶ。
後篇・貞操篇:
新婚旅行中、弓枝は武彦に仇だから結婚したと告げ、寝室を別にすることと、月々大金の小遣いを要求する。
形ばかりの結婚生活と金遣いの荒さに弓枝と武彦や八木橋家の関係は悪化するばかりだが、
武彦は弓枝を庇おうとするため、八木橋一族内の関係も狂い始める。
そして、ついにそれが漏れてスキャンダルとして新聞記事となり、八木橋家の信用は失墜する。
事此処に及び、弓枝は離縁を言い渡されるが、これが女の貞操を弄んだ代償だと言い残して八木橋家を出る。
弓枝は譲を訪れるが、自分を捨てて武彦と結婚した弓枝の言い訳など聴きたくないと拒絶する。
しかし、宗像や山万が結婚生活中に付けていた日記を偶然目にしてその真意を知り譲を説得。
自殺を決意した弓枝もそれに至らず譲とよりを戻し、姉も回復して、一同幸せを取り戻した。
『銀河』ではほとんど感じられなかったのですが、『七つの海』では、 特に前篇・処女篇で、後のトーキー時代の 清水 宏 [鑑賞メモ] を思わせるカメラワークが堪能できました。 冒頭の列車最後尾から遠くへ流れる風景を捉えた映像、 舗道を早足で歩くモガな女性記者をすれ違う人や車越しに追いつつ捉えた映像、 そして、モダンなオフィスを窓枠越しに横滑りで捉える映像。 八木橋家の金に物をいわせたモダンな意匠もふんだんに使われているのですが、 このようなカメラワークもこの映画のモダンな印象を強めていました。
弓枝演じる 川崎 弘子 は戦前松竹メロドラマのお約束の不幸な女。 『銀河』でもそうでしたが、誘惑されて堕落して「私が馬鹿だったんです」と言うような役で、 この映画でもそれを堪能しました。 しかし、ひたすら不幸になるだけでなく、後篇では形ばかりの結婚で復讐する強かな女も。 形ばかりの結婚をした後は『銀河』の道子とも似た役どころになるわけですが、 八雲 恵美子に貫禄で負けるけど、川崎も良かったかな、と。 最後には譲と結ばれ、幸せを取り戻しますし。
サイドストーリーとして、譲に恋心を寄せる女性記者 彩子と彼女に好意を持つ宗像の三角関係もあったのですが、 八木橋家の話に絡まない上、結局、譲とも宗像とも結ばれずにアメリカに行ってしまうという。 自立したモガという役割だっただけに、弓枝との対比という意味でも、もっと活躍させて欲しかったな、と。 これを演じた 村瀬 幸子 も良かったけど、1930年代後半なら 桑野 通子 が演じてそうな役だな、と思ったりもしました。
あらすじ: 芸者菊江は女手一つで息子 義雄を育てている。 義雄は母が芸者稼業をしていることを嫌い、中学もさぼりがちになり、不良グループに加わっている。 菊江の妹分で義雄とは兄妹のような仲の芸者 照菊は、そんな義雄を見て、彼を海辺の実家へ連れて行く。 彼女の家は貧しく、父は遊び暮らしており、彼女だけでなく妹までも芸者として売ろうとしていた。 そんな様子を見て、義雄は照菊に何でもする、何処へでも付いていくと約束する。 改心した義雄は足抜けするため不良グループと喧嘩するが、それを見て義雄を庇いに入った照菊が刺されて重症を追ってしまう。 一命を取り止めた病床で、妹を身売りから救うためより稼ぎの良い他の場所へ移ることにしたことを、義雄へ告げる。 傷の癒えた照菊は旅立つことになり、見送りに来た品川駅での別れ際、義雄と菊江は互いの好意を忘れないと約束したのだった。
子供を育てるために、そして貧しい実家のために、したくもない泥水稼業をする芸者の女性の切ない身の上を、 母子の情、若い二人の淡い恋心を交えて描いています。 切ないながらもしたたかな女性二人に対して、義雄はまだ自立しておらず無為無力。 それゆえ、親子の情はすれ違い、恋は成就せず、とあまり救いのない話で、 観ていてなんともやるせなくなるような映画でした。 感情が激しくなる場面で早いズームの動きを使ったりしていますが、 モダンさを強調した『限りなき舗道』 (松竹蒲田, 1934) に比べて落ち着いた編集も、話が染み入るよう。
照菊を演じる水久保澄子の可愛らしさも、切なさをつのらせていました。 同年の 小津 安二郎 『非常線の女』 では田中 絹代のライバルの役でしたし、 その後見なくなってしまうので、この頃が彼女のピークだったのでしょうか。
『限りなき舗道』[鑑賞メモ]もそうですが、 松竹蒲田時代の成瀬 巳喜男のサイレント映画は、女性の描写が魅力的。 その後、松竹を去ってしまうわけですが、 1930年代後半の松竹大船の豪華な女優陣を使った成瀬の映画が観てみたかったな、と、つくづく。
救いのない話にビアノ伴奏も美しくも感傷的で思わす涙してしながら観てしまいました。 今回の特集上映で観た映画の中では『君と別れて』がベストでしょうか。
しかし、3月に東京国立近代美術館フィルムセンターの特集上映で 戦前松竹映画観まくっていろいろ強化されたせいか、映画の観え方が全然違いました。 2年前に神保町シアターでのサイレント映画特集に初めて通って 成瀬 巳喜男 『限りなき舗道』 や 清水 宏 『港の日本娘』 (1933) とか観た時は[鑑賞メモ]、 今回のような映画の見方はできなかったなあ、と。