海外の劇場、オペラハウスに倣って、新国立劇場も 「巣ごもりシアター」 と題して、COVID-19 対策で自己隔離している人々のためストリーミングを始めています。 第一弾の William Kentridge のプロダクションによる Die Zauberflöte 『魔笛』は 劇場で観たのでストリーミングでは観なかったのですが、 第二弾は未見だったので観てみました。
演出はバルセロナの La Fura dels Baus の Àlex Ollé。 以前に cinema で観た The Royal Opera の Norma での Ollé の演出が好みだったので [鑑賞メモ]、 どんな解釈で見せてくれるか少し期待いていたのだけど、今回はさほどではありませんでした。
美術はオリエンタリズムを排した現代的なもの。 Turandot と父 Altoum こそ中国皇帝を意識したと思われる服装でしたが、純白もしくは黒白グラデーションとすることで抽象化。 Calaf, Liù そして Timur の3人はコーカサスか中央アジアのイスラム系住民の紛争難民を思わせる出で立ち。 Turandot の国の住民にしてもベトナム紛争時の難民を思わせるノンラーを被った人がいたりと、 Turandot と Calaf の物語と抑圧的な政治や紛争の暴力 (含む性暴力) とその連鎖の物語として描こうとした演出ようにも感じられました。 しかし、第二幕冒頭の Ping Pong Pang の服装が廃棄物処理か何かの防護服風で、 映像ではあまりちゃんと映らなかったのだけど、その周囲に防護服姿で消毒だか洗浄だかしている人がいたように見えたのですが、 これが何の寓意だったのか掴み損ねるなど、腑に落ちない箇所も少なからずありました。
Calaf は愛というより Turandot を「征服」するためには Liù を見捨てる冷酷な人物のように描かれる一方、 Turandot も Celef を通して愛を知るのではなく屈辱より死を選ぶというラスト。 特に第三幕後半、歌詞では愛を歌いながらも、Celef も愛など信じていないし、Turandot も Celef に愛を見ていないという、 演技が歌詞を裏切っていくかようなドライな、愛の無さ、暴力の連鎖の救いの無さを強調するかのような演出にも感じられました。
Turandot は、Berg: Wozzeck (1925年初演) [関連する鑑賞メモ] や Weill: Die Dreigroschenoper (1928年初演) [関連する鑑賞メモ] とほぼ同時代の1926年初演の作品です。 戦間期モダニズムに通じる何かがあるかもしれないということも気にしつつ観てみたのですが、戦間期らしさを感じることはありませんでした。