NHK教育 (Eテレ) 『プチプチ・アニメ』で放送された短編 『カロとピヨブプト』 (1992) や 『バベルの本』 (1996)、 落語を原作とする短編『頭山』 (2002) など、 子供向けに始まり、実験的な作風のアニメーション作品で知られるアニメーション作家 山村 浩二 が初めて作った長編が『幾多の北』です。 2021年以来様々な国際映画祭で上映されていたようですが、2023年に入って 山村 自身の作を含むプロデュースした新作短編3作を併せて劇場公開されました。
『幾多の北』は東日本大震災から1年余経った2021年4月から2014年12月まで月刊誌『文學界』 (文藝春秋社) に発表した絵とテキストからなる連載に基づいた作品とのこと。 明確なストーリーのない映画ですが、抽象アニメーションではなく、 作品を通してある世界を描いており、そこを旅するかのように通して登場する男女2人1組の登場人物も設定されています。 そのような「北」の世界と登場人物を通して仄めかされるナラティブな断片的なイメージの連鎖の1時間です。 描かれる「北」の世界はノイジーな描線、彩度低くむらある色面で描かれた荒涼として生命感乏しい大厄災後を思わせるポスト・アポカリプティックな世界で、 長く根が伸びる様な造形などもグロテスクで不条理感の強いものです。
明確に物語らずに断片的なナラティブを連ねる様は20世紀半ばのポストモダン文学 ––特にその不条理なイメージの連鎖は南米のマジックリアリズムのような小説–– をアニメーション化したようとも思いつつ、 その進め方も含めて時間的に拘束される映画の鑑賞体験は、自分のペースで行き来して読める小説とはかなり異なります。 『幾多の北』では警句的な字幕はあれどセリフやナレーションが使われていないこともあって、 Dimitris Papaioannou [鑑賞メモ] や Philippe Genty [鑑賞メモ]、 Maguy Maran: May Be [鑑賞メモ] など、 活人画のようにシュールレアリスティックでグロテクスなイメージの連鎖の描いていくコンテンポラリーダンス作品を観るような鑑賞体験でした。
『幾多の北』の音楽には、Willem Breuker: Drums In The Night - The Resistable Rise Of Arturo Ui (BVHaast, 1975/83; 2004) から採られていました。 戦間期のカバレット・ソングだったり Brecht ソングなどを思わせるちょっとノスタルジックなフレーズが逸脱していく様な彼らの音楽は、イメージに合っていたでしょうか。 2017年 ユーロスペースでの 山村 浩二 『右目と左目でみる夢』で観た 『サティの「パラード」』でも、 Willem Breuker Kollektief, Mondriaan Strings: Parade (BVHaast, 1991) が使われていましたので、 これに続いてです。 Willem Breuker の音楽 [2002年ライブ鑑賞メモ] も山村のアニメーションの着想源だったりするのでしょうか。
短編3本のうち『ミニミニポッケの大きな庭で』は自由詩の様な言葉をその字幕を挟みつつ 鮮やかながら粗い絵でアニメーション化したもの。ノイジーな立体音像も印象的でした。 『ホッキョクグマすっごくひま』のダジャレのような言葉遊びの様な言葉に誘われる様に 言葉遊びに出てくる動物を色彩を抑えた淡く柔らかい絵で描く、まさに動く絵本の様なアニメーションでした。 『骨噛み』は、父の葬式のエピソードから父との山登りとそこにあった弾薬庫跡の記憶を辿るアニメーションで、もっとオーソドックスな絵でも良さそうな今回上映された中では最も物語性の強い物でした。