LDP・スクラッチ 1998.1.10〜3.13

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余計なものの価値−3



■初源のない余計なもの?


なぜなら、それは論理において定義さえされていないからだ。
なぜなら、それは論理において定義され得ないからだ。
なぜなら、それは論理において定義され得ないことに依拠するものでしかないからだ。

なぜなら、それは、とるにたらない、からであり、それこそ、余剰にすぎないからだ。

つまり、いらない、からである。
余剰とは、そういう意味だ。

ルーマンは正直にそう述べ、

過剰を剰余に回収したマルクス

は、それ以上の関心を持たず、吉本は2〜3行で済むこと、と説明する。

もちろんベンヤミンはアウラに収斂させながら、その消失していく過程こそが資本主義の進行であることを繰り返し主張する。


もちろん、マルクス自身にとっていちばんラディカルな問題意識にあったように、

余剰がいらないというよりも、いらないものを産出してしまう人間の、その意味

こそが問題だった。


たとえば吉本のパースペクティブでは、その余剰が生成する初源を、原生的疎外から解き明かしだすポテンシャルを持っている。『心的現象論序説』の内容は深くフロイトと相対しながらも、心理学のそれではなく、おそらく人間に関する認識論つまり哲学や思想のはじまるところそのものを捕捉しようとしている。そして、事実、それは成功してもいるだろう。そこでは、たとえば、人間の感情が「世界・内・存在の仕方として、この存在そのものから立ち昇ってくる」などという文学的な響きに満ちた美文で自らの認識力のパースペクティブのなさ、射程距離の浅さをカバーしようとするハイデガーなどが呆気なく看破される。ハイデガーが詩作文学に逃げ込んで自閉したコッケイさを遠慮なく指摘する柄谷や浅田といったイデオローグのスタイルを別とすれば、吉本が理論的にフロイトと現象学をつめ、全くオリジナルの心的世界(情報の内化≧感覚→認識→外化≧発話など)を描いたその力量は驚異的だ。さらに「外化」に関して『言語にとって美とは何か』をはじめ多方面への展開を見せている。『言語にとって美とは何か』に関する柄谷の批評はニューアカの良質な水準を示しているのものかもしれない。



  <感情>は、心的現象の領域であるために、
  なんらかの意味で<時間性>が介在すべきはずであるにもかかわらず、
  ただ心的空間性の領域としてだけやってくるという
  了解作用の本来的な矛盾として存在している。
                      (『心的現象論序説』・吉本隆明)



余計なものは、マテリアルにも社会的にもここからはじまる、とするようなダイナミックな思考は、どこにある

のだろうか?



余計なものの価値−2



■資本主義は余計なものを価値化する?


いずれにせよ、「芸術」も「過剰」も論理においては価値を発揮しない。

余計なものは論理的ではない

のか?

しかし、それらは経済において大いなる価値を発揮している。
マテリアルには布キレと塗料にすぎない絵が高額で売れ、イベントから乱痴気騒ぎや戦略核ミサイルまで、明らかな過剰こそ相応な高額取引商品であるのも確かだ。
論理においては価値はないが、経済において価値がある。
これを芸術は社会の付加価値などといったならばバブリーなニューアカの最悪な解釈でしかない。

他方、商品において剰余価値は(付加価値ではなく)労働価値だとするサヨクの主張に一定の正当性はあるが、それはラディカルではない。

また、価値は差異から生じるというポストモダンな認識も説得力はあるが、それもまた交換を前提としているワクを超えはしない。

価値というものは、それを体現するモノゴトの、その存在を前提にしている。この当り前のことにこそ価値の原初的な意味があり、その社会的な前提は本源的蓄積であると考えられる。

価値を体現するモノゴト≧商品を存在せしめる契機としての諸々。それこそが初源の価値、哲学的価値ではないのか。価値のはじまるところではないのか。そのファクターの一つとしての

余計なものからのバタフライ効果的な不均衡累積過程こそが資本主義

ではないのか?



余計なものの価値−1



■バタイユ、余計なものの価値とは?


バタイユが文学的な言辞、芸術的なニュアンスにおいて「過剰」と言ったものは、社会科学的には単に「余剰(剰余)」である、というのはマルキストやシステム論者にとっては常識だろうか。もちろんポストモダン言説の影響下などでは「ノイズ」を含む言葉の響きが相応しいかもしれない。

それらは余計なものを象徴している。




「文学」や「芸術」を論理において定義すれば、それは瞬く間にテクノロジーとサイエンスに解体(批評)される。解体に怯えるビビリにしか芸術は存立し得ない。もちろん、論理から芸術へ自らダイブしていく者はいるだろう。それは自らの論理的破綻を直視し得ない弱者(能力的にも)のたどる、しかも最後まで自画自賛と自己顕示に酔うナルシスな輩だ。たとえばハイデガーでありユングである。あるいはバタイユか。ただし彼らの提議した問題は受けとめる。それがあるべきサイエンスのスタンスだ。

余計なものの(主張の)根拠は何か?




なぜ、論理において「文学」や「芸術」はあり得なく、テクノロジーとサイエンスの問題になるのか、という自己言及的な問題は、まるで柳生流の奧義だが、奧義といったものは、ほとんどそういうものだ。柳生流が不敗なのは勝負したことがないから、という当り前の解でしかない。しかも、これが理解できる思考能力には滅多に出会うことはない。当り前すぎるからか? 「不敗」という輝かしく崇高な理念は、「勝負しない」という闘争からの逃走という日常的なやり過ごし方にかかっている。この誰もが手にすることが出来る方法こそ、いちばん大衆的な、いちばん安易な、まったりとした、誰のものでもあるたった一つのイデオロギーなのだ。そこにはヒエラルキーはない。たとえば憲法9条がそうだ。闘争はヒエラルキーにおいてしかあり得ず、それはまた論理矛盾はクラスタリングにおいてしかあり得ないのと同様のことだ。反闘争はヒエラルキー無化の運動であり、逃走はそれへの助走でもあるだろう。一部が独占していたテクノロジーとサイエンスは資本主義によって商品化し、誰もが手に入れる可能性を持つようになった。テクノロジーとサイエンスの大衆化。表現においてもこれは常識で、絵の染料やキャンバスから彫刻の道具における金属の強度までが、大衆の衣服や包丁の切れ味に反映していった過程こそが資本主義そのものだ。

資本主義とは余計なものを微分しながら積分すること

だ。


ヨーロッパにキリスト教権力の象徴である巨大な教会は数多い。その大聖堂の威容に人々は平伏してきたに違いない。しかし、同じ権力を目指す者なら建物の立派さなどに心を奪われたりはしないものだ。その大聖堂の建築を可能にした資金力や動員する労働力、あるいは建築技術といったものにこそ関心を持つだろう。だが、権力者であっても、このうち入手しにくいのは技術である。技術者を連れてくればいいようなものだが、どこにでも何人ものガリレオがいるわけではない。したがって、技術や知識といったもの、テクノロジーやサイエンスは隠匿されたのだ。

余計なものはテクノロジーに保障されてきた。




ところで、大聖堂への反応ひとつにも大衆とインテリとの違いは明白に現われている。大聖堂の威容に平伏し、感動する大衆。視覚的、感覚的なレスポンス。大きいとか綺麗とか主にビジュアル情報をはじめとした感覚的な情報に認識を任せている。ところが権力者は違う。そのコストを計算し、威容が大衆に与える影響を計り、自分にとって同じようなものができるかどうか、できない場合それに対抗しうる手段が得られるかどうか、考えをめぐらすだろう。権力者は大衆に比してはるかにインテリだ。もちろんいわゆる極楽トンボのインテリはひたすら大聖堂を可能した建築技術や、まだ見たこともないもっと巨大な建造物や、あるいは街中に響きわたるように設計されたパイプオルガンの構造や、信者の感動をより強固にする絵やその位置、ミサで自動的に開く扉の仕掛けなど、さまざまな夢想にひたりひとり喜んでいるに違いない。基本的にインテリはオメデタイということにつきる。それは

余計なもののオタクであるということ

だ。



3月1日報告



4ヶ月と2週間ぶりの報告。


 意味は問うが名は問わない
 価値は意味するが名辞は無意味


というコンセプトは、このセクションの基本なんだけど。
名辞関係を回避した関係性なんて成立し得ないよな、などと逡巡する反省、因果は輪廻、してます。確かなのは直線的ではないことかな。

それも、関係の絶対性に捕われた一つの結果でしょうか?。→ 吉本シンパの皆さん
でもね、名辞の無意味化でもってマテリアルな関係性の露出を狙ってみたいという若気はあります。ふははは → マルクスシンパの皆さん

まあ、吉本隆明氏が沈黙への移行を正式表明した以上、氏の仕事への総体的な評価が本格化してほしいと思います。

吉本vsフーコーで通訳を務めた蓮實重彦氏ぐらいしか吉本の仏語訳なんて出来ないでしょうが、是非やってほしいところ。吉本は造語が多くてわからない、とか言ってる浅田彰氏のなさけなさにゃ涙がでちまいますぜ。→ ニューアカシンパの皆さん


えー、やはりちょっと気になる存在は若人。
ワタシも昔は若かったからか? サルサのクラブで大学生に間違えられて逆ナンパされたのはついこの前のような気もするが。(笑)


  僕はつねに「真面目」に「芸がない」氷体で書くことにしている


と言い放てる東浩紀さんへの興味はつきません。
団塊ジュニア世代でこう自己表明できる器はちょっとすごいでしょ。
“芸でつる・つられる”程度の関係性(オウムからオナカマまで)がモノゴトを規定しているように見える団塊ジュニア文化とその世代において、それを拒否できるスタンスはそれだけですでに倫理的な表明だし、自己のインテリ性の根拠でもあり確認でもある清々しさがあります。
彼が同世代からスポイルされる時、彼のホントの力量が問われるでしょうね。

孤立せよ、東!

実のところ“芸でつる”オタッキーな楽しみとか、“個人的に楽しいか”程度で自己の正当化を振り回すガキの根拠はバブリー80年代の下卑た継承でしかないでしょう。ところがその手の輩ほど何故か吉本、ニューアカ、TK、宮台への批判を口にする傾向があるという大笑いなザマが何故継起するのか、という疑問があるわけで。
まあ、その解も出つつあるんで、それはそれでいいけど。


とにかく、東浩紀さんはじめ団塊ジュニア世代の論者に期待と興味の探りを入れつつ、戦略的にも本質的にも、今後の展開が楽しみなとこです。

そのくせ、『批評空間』なんて読んでないものな。ガッハハハ

そんなものより、いつもインスパイアされるWEBの論者(nambaさん、増田さん、UKIさん、michelさん、他大勢)のテキストの方がイケてます。



Respect Everyone



  ラッパーもDJも“与えてくれた対象”に金を払うのではなく、
  “リスペクト”を捧げるのが本来の仁義

                   (『そんなにまでして』・いとうせいこう)



勝手にカットアップしたいとうせいこうの文だが、イデーのリミキサーを気取るワタシにとってコンテクストの意味やオリジナルの示すところなど関心はない、と啖呵をきっておこう。

もちろん全文他人の文章で表現することが夢だったベンヤミンはアイドルであり、また、それをある意味で実行し、しかもオリジナルな表現として商品化したテクノロジストTKへの尊敬の念は当然にすぎる、ということがその呑気な説明でもある。


DJとTK、そのプロダクトの過程においては大した差はない。


ただTKには大衆の要望を抽出するマーケティングがあり、また彼が実存の問題として密かに描いているコンセプトがあり、情報と理想を具現化するテクノロジーとサイエンスがあり、それをトータライズするマネージメントの能力がある、ということだろう。資本主義のおいてこの3つの能力は名実ともに三種の神器であり、それは万能とも呼ばれるものだ。もちろん、現在ますますマーケティング、テクノロジー(サイエンス)、マネージメントのそれぞれは分かち難くなりつつある。ハードウエアとソフトウエアのように、もはや分別しようとする認識そのものが可能性を奪っていくだけであることは、デジタルな環境を前提とする人間において新たなコモンセンスになることを願いたい。否定形はいらない、ということにつきる。全面肯定こそ資本主義をパーフェクトにする。



共産趣味的であるいとうの主張にはニューアカ由来のスルドさと、真面目であるがゆえのオメデタさがある。

いとうが「ヒップホップ/インターネット/ボランティア」の3つから読み取ったつもりになっている未来への可能性は、共産趣味的な人間性善説を前提にしたオメデタイ言説であるような気がする。(もちろん、いとうにケチをつけて得意になっている程度の宮崎など論外だ)

インターネットは共産主義だ、といういとうの言説を全面否定するつもりはない。むしろ逆で、今時共産主義に期待できるそのスタンスと、それを表明できるセンスは、得難いものでもあり感心してしまうのだ。それに、島宇宙的認識やオタクであることが常識となった現在、ようやく陽の目を浴びる共産趣味こそ、もっとPOPに遊ばれるべきものであるし、遊びを経過しないで大衆に対して説得力を持ち得るモノゴトなどPOPであってはならないという強固な思いがある。遊びを経過しない大衆化などファシズムのファクター以外には成り得ないのだ。



  テイクに対するギブが、
  与えてくれた対象に向かわなくてもいいようなギブ&テイク。

                    (『そんなにまでして』・いとうせいこう)



では、どこに向かうのか?
その向かう先を考えることこそ楽しみの一つでもあるだろう。
この先にこそインテリのフイールドがあるのではないか。

たとえば、その一つとして最近主張されつつあるものに“ボランティア経済”という考え方がある。中心的な論者である金子郁容や松岡正剛のジャンルを超えたフイールドワークと研究、そして認識力はアカデミシャンのそれではなく、実効性も説得力もあるものだ。しかし、“ボランティア経済”の考え方に関しては保留が必要な気がする。
“与えることで与えられる”とそれらを紹介するいとうせいこうだが、この美しいコピーに惑わされることなく考察されなければいけないのではないか。

かつて、

     能力に応じて働き、必要に応じて供給される、と定義された社会主義と、
     希望に即して働き、希望に応じて供給される、と夢想された共産主義。


以上は実現したか?
いや、実現の兆しは見えるか?

今や単に可能性を内在させているとしたうえで資本主義をパラノドライブすることにしか歴史の方向がないことは、インテリから大衆までの、それこそ暗黙の了解ではないか。もちろんそれを明示したマルクスやその影響下にあった多くのインテリはいるし、それ以外にも純粋にテクノロジーからそれを推察したシュンペーター、あるいは権力の先導が必要であることを知っていたレーニンなど、いわゆる識者は少なくないだろう。



問題は、“今、ここ”、についてである。

マルクスがたった一つの商品に資本主義の全てが集約されることを知ったように、あるいはフロイトが一人の具体的な心に人間の不可視な公理を見出したように、今、ここ、を探究しなくてどうするのだろうか。

自らラップにのせて柄谷のテキストを遊んで見せたいとうせいこうが、もっとマテリアルに、クールに、その旺盛な好奇心でカルチャーアイテムと戯れて、より多くの何かを見出して欲しいと感じた人間は少なくないのではないか。

“与えることで与えられる”という楽観的な考えは、「意志においては楽観主義者たれ」とグラムシの言葉を引いて見せる浅田彰のそれとは違う。浅田の「楽観」の言外には厳然とマテリアルを感じることができるからだ。

逆にマテリアル抜きだからこそ自在に思考し、例えば貨幣理論の究極として各国中央銀行発行の通貨の消滅を電子マネーに推察する岩井克人の論理展開のように、ゲーデル的決定不能性として演繹される貨幣の消滅を見出すというどんでん返しさえ、今や“あり”だ。しかも、それがやがてマテリアルな現実となることの可能性は否定し得ないことを知る者は少なからずいるわけでもあるだろう。岩井(あるいはマルクス)の主張から神がどうやって創出されるかを推論することも楽しい。

同じように、ラッパーをはじめ多芸ないとうに多彩で深い言辞を求めたくなるのは身勝手ではないだろうと思う。

東浩紀が“読んだ人のアタマがバージョンアップするようなテキストを書きたい”と語っているのを見て、テキストのみならず表現者の、そしてなによりインテリという者の最大公約数であればいいのにと思ったのは2ヶ月ほど前のことだったか。もちろんインテリというのは吉本やアンリ・ルフェーブル的な意味であって、大衆とは別の特殊な存在を指すものではない。また、大衆とは別のスタンスから都市や文化に関するまともな認識が出てくるわけではない。そのような蒙昧な認識によって自己保身にやっきになるのは西部や宮崎くらいのものだろう。

スタンスは市井から、アプローチは正当にというリサーチや研究は難しいかもしれないが、そういったものこそ我々のアタマをバージョンアップする契機を提供してくれるはずだ。



『拡散する「作者」−現代ポピュラー音楽とテクノロジーに関する一考察』


最近、インスパイアされたテキストがいくつかあるが、まだ焦点を見せないパースペクティブにこそ可能性があるし、自在な解釈が楽しいものだ。いとうが“リスペクト”から見出そうとするものと、上記を含むWEB「増田」にあるテキストのクールな考察がやがて見出すであろうものとの位相の違いは何を示すのだろうか。



ある所で、ある機会に“言説をエンターテイメントな商品とした(ニューアカなど)論者はやがて消費されて誰も残らないだろう”というニューアカ派(シンパ)自身のコメントに対して、“それでは賭けにならない”という真面目なレスが団塊ジュニアの人間からついた。前者は見事な自己言及(覚悟?)でもあるが、後者もまた“賭け”という浅田彰の主張そのままの期待(投企?)を示して、まんまニューアカでもある。新人類フラッグであるニューアカのどの部分がそのまま団塊ジュニアに継承されていくのだろうか? さらに差異のない世界での問答はループしながら、何が“リアル”かわからないというリアルな状況が続く(終わりなき日常!)のだろう。そこに差し込まれる“切断”は自己以外にはないことさえ確認できればいいのだろうが。



リスペクト、新井将敬



数時間前に新井将敬議員が自殺した。約3000万円相当の証券取引法違反などより、新井将敬の政治家にしては珍しいセンスに興味があった。興味などと言っては失礼かもしれないが、マガジンハウスから刊行した『エロチックな政治』のテキストはその辺の政治家はもとより凡百の思想家より深く説得力にあふれている。全面肯定するつもりはないが、同じ団塊の世代や全共闘オヤジらが支持集会まで開いて応援する将来の自民党総裁あるいは総理大臣といわれる加藤などより、一人孤立し、加藤らによって党から追放されそうになり「民族差別だ」と反駁するしかなかった在日韓国人である新井のスタンスは、これからの日本でこそ理解されるべきものだし必要な存在だったに違いないと思う。スタンドプレイと必死の現状維持=保守に名を借りた自己保身以外には何もない団塊の愚劣輩100人よりも、ひとりの新井将敬こそが必要だったと思う。


新井将敬ホームページ・旧版
『エロチックな政治』第1章 戦争か恋愛か
『エロチックな政治』第2章 死にたがる男たち
『エロチックな政治』第3章 金丸脱税事件の意味するもの
『エロチックな政治』第4章 自己への恐怖を知れ



『グラウンド・ゼロ』、ニューアカへのクリアな一撃



  そのつど時点ゼロでディファレンシェート(微分=差異化)してる


「時点ゼロ」という浅田彰のコトバ(『逃走論』)はカッコイイ
いかにもレプリカントライクな(名実ともに)浅田らしいコピーワークは、資本主義はおろかデジタルなフリークも射程していて、オタクさえも振り返らせそうな磁場を形成する。

そして、すでに第41刷りにおよぶ『構造と力』の魅力と価値をこの数行に込めたいと思いながら、もう一つの「ゼロ」というコピーがワタシの頭を占めるエリアは拡大しつつもある。


  グラウンド・ゼロ


このコトバがラディカルに、しかも事実上はじめて「時点ゼロ」を照射するメッセージとして、きゃしゃなバイオ中央演算処理回路=シナプスと不飽和脂肪酸のスタックエリアをフローしつつあるのだ。

無制限転向が無数のシンタグムを用意してくれるように、無制限夢想は無限のパラダイムを示してくれる。

『レス・ザン・ゼロ』と新山の手のボーイ&ガールに『She’s Rain』などという小説を思い出しながら、三浦雅士がプレゼンテーションした「ゼロの発見」と“編集とは交通である”“編集は時系列である”などのコンセプトがワーキングメモリに際立ったりする。

なぜなら、それはベストセラーとなった『超整理法』のイデオロギーでもあるからだ、とでもアバウトな言葉を索しておくか。


ポストモダンとノマドといったフランス現代思想は厳然と屹立するドイツ思想との対応の中でこそ成立した、という視点につらぬかれた『グラウンド・ゼロ』(富士書店)は、久しぶりの思想書でもある。原本はドイツ語による現代フランス思想家たち20名のガイドのようなものらしいが、まったく違った視線を提供してくれるということそのものにおいてマニフェストを超え、一つの世界観として読ませてくれる一冊だ。


  浅田彰さんの『構造と力』だって、アクセサリーとして持ち歩く人が大半だったのに。
  紹介書となると、ほとんどありません。



訳者によれば邦訳のキッカケの一端は以上のとおり。
この一言に、ゼロから無限大までの伸縮自在な価値を見出したい、と思うのは、演算回路のタイプによるある特定の判断であることは否定はしないでおこう。

ライン川東岸からのパースペクティブが捉えたフランス現代思想のレイヤーにニューアカをオーバーラップするのは簡単だ。
これに比するスタンスでマルクスを捉えたのが柄谷の『マルクスその可能性の中心』ならば、より『グラウンド・ゼロ』的もしくはドイツ的・東方的な批評としてニューアカをフォーカスした科学的社会主義者による『ニューアカデミズムその虚像と実像』がある。いずれもマーケティング的には難あり、でもあるが。

『グラウンド・ゼロ』の面白さは日本では他にない観点を提供してくれることだけではなく、それを求め探しあてた新人類世代である一人の哲学者・関修の実存的意味合いにある。
そこには『新世紀のリアル』で自らの戦略的方途の露呈を恐れず、はじめて実存的意味合いこそが動機であることを告白した宮台の賭けにも通じるものが見出せる。システム論に非人間性を発見したつもりになり非難を繰り広げるオヤジやガキどもには理解不能な世界ではあるが、その非人間性そのものが自らの姿であることに無自覚であるのは、放って置かれることではない。

『グラウンド・ゼロ』は何よりも、ポストモダンとニューアカに対する虚ろいやすい評価への疑問から探し出されたものだ。しかもドイツ語圏からの批評であるというマイノリティなスタンスは逆にユニークな視点となっている。また理論的な意味合いにおいてヘーゲル、ニーチェ、マルクス、ハイデガーの国そのものであるドイツからの解釈は大きくフランス思想を俯瞰し精緻なトレースに成功している。


  今度は<あなた>の番です。


訳者あとがきで読者にメッセージする関修の言葉は、フランス思想でなくても軽やかにノマドであることを表明し、難解な印象に神隠しされるルーマンの思想や宮台のスタンスにも通じて、解る者だけへの呼び掛けであるかもしれない。

この事においてのみ、POPでなくとも可としようか。
“何も隠されてはいない”というルーマンのコトバにもカッコヨサを感じて。



新人類世代のコンフリクトから見えるもの



いちばん人口が少ない新人類世代が、いちばんメディア関係者やクリエイターが多い理由は、団塊世代へのコンプレックスであることは確かかもしれないが、もう一つ大きな理由がありそうだ。
それは新人類世代内におけるコンフリクトだ。
自分の個人的な体験や周囲への見聞でも同世代内での軋轢は大きかった。しかもそれは団塊世代へのカウンターと同時に同世代内でもブローしなければならないことを意味している。


高度成長のおかげで日進月歩で豊かになっていく少年期から学生時代まで、日々増加する選択肢を前に同じ野球チームや同じサッカーチームにまとまっていた友人知人は次々と自分が知らない世界、選んだことのない場へ領域を広げてバラバラになっていった。放課後は野球やサッカーだった単純な選択肢に塾が登場し、進学とともにマンガや音楽も加わり、同じ音楽でも軽音楽とクラシックに、ポップスとロックに、ハードロックとニューミュージックに、テクノとフュージョンになどとどんどん分化していった。そこではジャズとロックの融合であったはずのクロスオーバーまでもが新たなジャンルとなり、さらにフュージョンへ発展していくというような絶え間ない差異化を数ヵ月単位で経験する毎日があった。当時テクノが分かりやすかったのはシンセサイザーというツールとテクノロジーというマテリアルな前提ゆえであり、シーケンサーとサンプリングもやがては演奏しない音楽へ、本物ではない音へと発展していったわけだ。

小説は国語の教科書に登場するエライ芥川龍之介と身近な星新一だったが、ハヤカワSF文庫が加わり、安部公房に感動し、村上春樹に共鳴していった。手に取ったものすべて、知ったもの全部が、複雑化するジャンルそのものとして増殖していった80年代同世代の友人知人との関係では、捜せばどこか何か必ず共通項がある一方で、トータルとしては絶対に相容れない価値観(世界観)を各々が育み着色されつつもあった。2つと同じ価値のない“いきっぱなしのエリア”に放りだされたような感じは、たわむれに浮き雲や遊民を名乗っても解消はされるもではなく、なんとなくみんなが、お互いにそれぞれのオタクに見えもした。いや、それは事実だったろう。

それを何気なく、そして呆気なく指摘するマニフェストとしてニューアカが登場した明るく軽く楽しいバブリーな日常にどこか混迷と不安を予感させる世相のなかで、新たなる確信をニューアカは与えてくれたのだ。
同時に新人類文化のフラッグであるニューアカは、さらなるゴールのないGOサインをだしてもいた。それはゴールは自分で設定する、という強力な暗黙の了解のもとであったが、これに耐えられない弱者が反ニューアカに転出したのは予見通りであり、草の根保守が広がっていった。

自分でゴールを想定も設定も出来ない輩が保守化した。オタクの新人類非メジャー化つまり裏POP化は自閉空間形成による自己保全だが、草の根保守化は意味が違う。新人類文化のなかで尖鋭化する差異化がその頂点として“認識力の差異化”に到達したのを見て、もともとの保守も含めて差異化の脱落者は反新人類ほどではなくてもそのフラッグであるニューアカに関しては反ニューアカのスタンスを取り始めたことがうかがえる。ビビッたのだ。

自由な自己決定と、自己決定の自由に耐えられない弱者が自由から逃走する、この最期の逃走こそエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で解析してみせた“弱いゆえのファシズム”の生成であり、ナチス研究の成果だったろう。

新人類メジャーが(最終的な価値観の差異化を超えて)自壊した後、最期の逃走にかけるほど臆病でも弱者でもない一部の者たちが永劫回帰をしつつ踏みとどまった姿こそ最大多数の表現者たちだといえる。しかも、それ以降まともなテキストの表現者はほとんどいない。

各種サブカル、オタク本、コギャル関連、そしてエヴァ、もちろんTKも、それらの表現者はすべて新人類世代である。

新人類文化のイデオロギーであるニューアカに反対する反ニューアカのイデオローグさえも新人類世代という構図に、2度目の笑いをクローズアップしてみせるのは誰だろうか?



日常にあふれる権力から見えるもの



■権力とは何か?


  国家権力や組織権力だけを取り出して扱うような仕方では、権力が存在するのに
  それを意識しないで日常生活を送れるような社会がいかにして可能なのか、
  といった問いに答えられないのだ。(『権力/何が東欧改革を可能にしたか』・宮台真司)


至言である。権力や国家がどこか日常生活と別の世界にあるわけではなく、それはまさしく“今、ここ”にあるということはホントは誰でも自覚なしに知っている。ただし自覚(自己言及する意識)がなければ“裸の王様”を見破ることはできず、現状はまんま続く、ということだ。また、自覚のない輩に王様が裸であることを説得するには科学的に証明するしかなく、ここに唯物論が登場すると考えてもいい。バカが増えるほどサヨクはハードにちがいない。


では“権力”とは何か?

ラディカルには“ワタシは誰”“ココはどこ”といった哲学的な問いでさえ問答無用とばかりに決定してくれるものこそ権力に他ならない。理由抜きの強制力こそ権力だ(ちなみに国家が徴収する税金は強制収奪経済と呼ばれる。理由抜きの経済活動だからだ)。ジョージ・オーウエルの『1984年』に描かれているものはファシズムというよりも純粋な権力のカタチだ。



■権力がはじまるところ?


  実際、私たちが他者を相手に行為をするとき、相手の反応を絶えず気にしている。
                  (『権力/何が東欧改革を可能にしたか』・宮台真司)


まるで繊細な若者を観察した心理カウンセラーのコメントみたいなこの言葉は、宮台の権力論のスタートとなる一文でもある。
もちろん“相手の反応を気にする”から権力が成立するのではない。「相手の反応」だと思うことが、実をいうと自己創出した幻想でしかないことから権力へ至る共同幻想の端緒が生成されるのだ。これらはマルエン全集や吉本に詳しい。
相手を気にしても、実際には相手自身が何も思っていない事が少なくないのは多くの人が経験する事だろう。このギャップとこのギャップへの無自覚つまり自己言及性のなさが権力を成立せしめているすべてである。



■権力は計量できる?


ついでに権力度(権力の強度)というものを想定するとすれば、自己言及のなさが権力の強度に比例すると考えられる。権力さえも計量可能なものにすぎない。ジャック・アタリなどが試みれば定式化できるだろうが。

余計な事だが、こうして権力さえも計量可能であるにもかかわらず、現在の日本の経済(マテリアルな社会関係)の混迷を解析できない計量経済や近代経済といったものは何をやっているのだろうか。マルクスの貨幣論をベースに情報資本主義を描ききる岩井克人のような存在を別にすれば、今ほど経済が非経済学の視点からしか語られていない情況はない。逆にアメリカ的なスタンスのマルクス主義者であるガルブレイスなどはケネディの顧問であったなどということばかりではなく、バブル経済への批判や権力論など実効性のある主張でも大きな成果をあげている。またミッテラン大統領の顧問でもあったジャック・アタリなどは自己言及とネットワーク(交通)のような概念を駆使してEU統合=個別国家の消滅のビジョンを描き、実行への理論的指導ばかりか東欧民主化の支援を欧州復興銀行総裁職を通じて実現してきたのだ。



■権力する日常はファシズム的?


ところで、権力論の一典型であるファシズム論では、“自分の地位が低下するのを怖れて、同レベルの他者を蹴落す”という中間層=プチブルの自己保身の強迫観念による個々の微細な闘争行為が、全体としてまたは結果としてファシズムを成立させているという主張が説得力を持つ。スターリンもナチスもだ。このファシズム論は社会のヒエラルキーが相対的にフラット化し、中間層が肥大化する現代においてこそより一層権力論としての意味を持つものだ。前論は埴谷や吉本が、後論は宮台が射程しているといえるだろう。

団塊世代の親とその子供である団塊ジュニア世代によるファミリーが割拠するニュータウンのコンフリクトは「同じレベルの他者」とのデイリーな闘争状態でもある。親世代におけるコンフリクトが「他者」への意識も確立しない(逆に自らの自意識も確立しない、アイデンティティの未形成な状態)子供世代に影響した場合は、子供らの自他に対する関係意識はそれこそコンフリクトする。“透明な僕”や“ナゼかムカつく”状態の生成だ。

権力の行使、力関係、政治的取引はこれらの言葉のカタサに関わらずどこでも日常的に生じている。朝食を食べようとしない子供を母親がしかり、先生や先輩の姿を見て学生が挨拶し、秋葉原で旧タイプのPCを値切ってみる、というようなことは誰でも経験があるし行なっていることだ。このデイリーなプロットに宮台は権力の萌芽を見、鮮やかに権力論を描いて見せた。

権力に限らず、日常のなかにこそ全てがあると見なすのは、今やいちばん説得力があるイデオロギーだろう。たとえばそれがマーケティングなのだ。
マルクスは資本主義を最も道徳的な科学だと述べているが、資本主義にとっての道徳的な科学は、もちろんマーケティングではないだろうか、と考えたい。



新人類文化のニューアカとオタクの関係



バブリー80年代のメジャーであり表POPのリーダーに秋元康と泉麻人を数えたいというなかば当り前の思いがある。当初、泉麻人には田中康夫に継ぐ遊び人的ニュアンスもあったが、同じ遊びでも、その内実が全く違っていた。彼はオタクなのだ。湘南方面へのドライブやそれに付随するナンパ話などを披露しても、泉の伝える世界は個人的な趣味の世界の趣が強く、とつとつと自分の世界を語るそのスタンスもスタイルもオタク的だ。実際、自らをダシにしてオタクをメジャーに表出させたのは泉の功績であるし、そもそも、オタクの元祖のカタチである昆虫採集少年だった彼は、それだけで充分オタクなのだ。

オタクの先駆けを「M」事件やその周辺だの、ありがちなステレオタイプに求めるのは判りやすいかもしれないが、ある意味で、それは間違っている。泉は表POPにオタクを表出させ、新しいジャンルなりアイテムとしてオタク的世界を展開させ、ホビーのバリエーションを豊富にしてくれた。このことは結果として団塊ジュニア文化へ向けての準備をしたことにもなり、現象の普遍化、社会化、顕在化といったことのファクターとして社会科学的な意味を持つ。

それに比べステレオタイプのオタクは裏POPとして今日までそのニュアンスを持ち続け、エヴァンゲリオン現象でようやく表に出ることができたとも言えるのではないか。もちろん新人類文化以後も止まることのない細分化によってエヴァもカルチャー商品として一隅を占めたにすぎず、エヴァ上映の売上げ額が『もののけ姫』の10分の1以下であるという事実からも、POPメジャーであるアニメとの差は明確だ。そして、POPになり得ないからこそインテリジェンスな言説空間においてエヴァが語られたのは当然のことだろう。

80年代の表POPはイメージリーダーへの追従のために「見栄講座」やマニュアル化が急激に進み、そのはてに散滅した。この時、マニュアル化ではなく自らの思考方法としてもニューアカが注目されたが、追従者レベルには意味不明であることは無理もなく、現在に至っている。つまりバカには理解不能であり裏POPにはルサンチマンの対象でしかないということは現在もリアルなのだ。

新人類文化のフラッグとしてのニューアカは分節化と浮遊を超えて異種交配や融合をとなえたが、それはイデオロギーゆえの先見性(先験性)でもあり、現実(的)ではなかった。そして、それを承知した上で語ることそのものがインテリ(ジェンス)の自覚であるべきだが、そのことがミニマムな言説でしかないという相変わらずオメデタイ情況こそ現在のリアルなのだ。もちろん、現在の主人公こそ、そのオメデタサの主人であるのは言うまでもない。



オタクを飽きたオタキング



先日新聞に「オタクはもう飽きた」というオタキング紹介の記事が載った。
オタクを飽きたというのはオタキング自身の言葉だ。
オタクを飽きることなど何の感慨もないが、
オタクを卒業してどこへ行くのかは大いに気なるところ。

すでに昨秋には女子学生であふれた東大のゼミを辞め、
今は下町を歩いてレトロなおもちゃ集めに勤しんでいるという。
楽しみなのはオタキングの今後の展開だ。


オリジナルな情報資本主義の観点から歴史を解説してみせた『ぼくたちの洗脳時代』が示したものは見事な内容だったが、共同性への分析(特に成立の要因)はまったく踏み込めないものでもあることは、このサイトでもいく度か指摘しているとおりだ。オタキングの思考には柄谷や浅田といったニューアカやあるいは吉本と比しても、分水嶺のアッチとコッチの差がある。ある意味では、それこそがオタキングがニューアカを嫌い吉本を揶揄したホントの理由なのではないかと考えることもできる。それは共同性を語ることが出来るものへの、出来ないものからの典型的なレスポンスでもあるかもしれない。しかも、その辺を東浩紀などは見抜いた上でオタキングへの批判をした可能性が強い。

そんなことはともかく、オタクの自己正当化に成功したオタキングは、間もなくオタクの限界を知るとともに同時にオタクのコンフリクトを誘発し、めんどくさくなって「飽きた」と転向を表明してしまった訳だ。「飽きた」というのもオタクらしい転向表明だが、転向のあと、今度は何を目指すのだろうかという興味がある。記事では“「オタク」を超える洗脳力を、ひそかに練り始めた”とコメントされているが、オタキングのこれまでの主張では共同性の否定性によるファクターを正当に認知する能力は見出すことが出来ない。また、それこそがニューアカや吉本への否定的なスタンスとなっているのだが、それはコンプレックスや怯えといった認識能力の根幹を左右するレベルの問題でもあるのだ。このコンプレックスと怯えにおいては反ニューアカの論者とベースを共有するものであったのが、これまでのオタキング人気の本質でもある。たぶん、このことに基本的に気がついているサブカル文化人であり団塊ジュニア世代の人間は東浩紀だけだろう。それが東への興味でもある。


エヴァへの評価をめぐる論議のなかで、オタキングの発言の根幹は80年代のニューアカとほとんどそのまま一致すると批判する東の言葉は、逆に80年代から15年間経ながらカルチャー全般に変化がないことを示してもいる。それが60年代以降の西側先進国文化全体の典型的な症例だとも指摘し、ポストモダン文化に対し「もはや」「信じることができない」と表明している。東が師と仰ぐ浅田や柄谷、実際に教室の師である蓮實などはポストモダンの旗手と言われたイデオローグである。では、東は彼らを超えたのか? もちろん東には(まだ)そんな能力はない。ただ東は直裁に師らのテキストを読んでいるのだ。

ニューアカに対する「すべてを相対化した」「共同性、関係性をバラバラにした」「価値観をコンフリクトさせた」などの欠伸がでる批判(これそのものが見事に認識能力の欠落と怯えを体現している)への予め用意された浅田らの言辞は説明するまでもない。そこには、ニューアカとレッテルされたテキストのほとんどを実際には読んでいないか読む能力がないという現実が露呈しているに過ぎない。ニューアカなり日本のポストモダンとレッテルされた浅田や柄谷の思想の根幹はサイエンスとテクノロジーへの正当な評価であり、それがすべてであることを読解した人間がいかに少ないか、ということだろう。この点、やはりインテリジェンスにそれなりのものを感じさせる見田宗介などは、早くから浅田がサイエンスだけを肯定していることを見抜き、それを正当に評価している。柄谷がテクノロジーだけを評価し、蓮實が文体だけを評価するのも同様だ。つまり徹底してラディカルなモダンなのである。資本主義を徹底するしかないことをマルクスが知っていたようなものだ。もちろん「二度目の喜劇」としてだが。

オタキングがこの「二度目の喜劇」の「喜劇」にしか言及できないという限界を、オタクを超えると自称する「洗脳力」で超えられるのだろうか。

自閉した自己の正当化だけをはかったオタク論、「楽しい」「ハッピー」の個別それぞれの肯定は単にニューアカや新人類文化の表層のコピーにすぎない。「悲しい」「シリアス」を読解する能力も引き受ける度量もない輩は、そのまま判断停止状態である保守やオウムにジャンプする。しかも、それさえも他者に依拠し追従した行為であるという脆弱さは、コギャルに圧倒されている現実そのままであることは宮台らが指摘する通りだ。


喜劇しか読まないものと、悲劇を喜劇と読み込んできたニューアカとのギャップはあまりにも大きい。
それはちょうど一回性に消費され内輪でしか評判にならなかった『エヴァ』と、すでに数十万部のロングセラーになってしまった『構造と力』や『都市の論理』の違いのようなものだ。資本主義は均質を仮装するからこそ差異を暴き、それにより取捨選択を可能にさせてくれる。オタキングがオタクに飽きたことだけはとりあえず正しく、次に何を選ぶかは見物だと言えるだろう。



エヴァはまだ・・・2



■エヴァ現象の示すものは何か?          橘 公司     [e-free-p 19980108]ヴァージョン



●メディアの違いが示すものは?

TKのヒットとエヴァの閉塞は、そのメディアの違いに起因する、と考えてみた。

具体的には、

 TKは音楽であり、聴覚によって受容される商品(作品)で、
 エヴァはアニメであり、視覚による受容を第一義としている、

という違いである。

この聴覚と視覚という感覚器とその受容の形態の違いこそが、TK現象とエヴァ現象の違いそのもののファクターなのではないか、と。


●感覚の違いの特徴

 聴覚の場合、どこかでふと楽音を耳にしたとき、それがアムロの新曲ならば「アムロの新曲だな」と理解(指示決定)され、次に「やっぱりいいなあ」とか「いまいちだな」などと納得(自己確定)される。そこまでの認識の過程に介在する要素はとても身体的だ。聴覚(空気振動による触覚)は、それまでの積み重ねてきた聴覚の体験や記憶(経験値)に影響される。これは味覚や嗅覚(浸透・浸潤による触覚)でも同様だ。それらは生きていく上で必要な身体への直接のTPO情報であり、TPOを生きる場とする(それ以外にはないが)生命の大前提からして、生きてきた経験値に大きく影響されるという当たり前の特徴を持っている。

 視覚は“生きる(生きた)場”に影響されないで情報を収集することができる感覚器で、ある種特権的な意味を持っている。視覚が影響を受けるのは可視光線の有無だ。身体が直接に触覚しなくても情報を得ることができる感覚器というのは視覚だけなのだ。人間の腕の長さではテーブルの向こうまでも手は届かないが(触覚は到達できないが)、視覚はモニターを介在させメディアを通してアメリカの街角の眺めることができる。このことを逆手にとった発想こそがMITメディアラボのヴァーチャルに関する基本的な概念だったと思う。

 視覚は感覚を統合する脳に直結し、各触覚をはじめとする情報の受容(≧解釈)をアシストするサブシステムとして機能する。視覚から得られる情報は理解されやすい(指示決定として受容される)が、納得されるとは限らない(自己確定として了解される確度は高くはない)。納得(自己確定による了解)とは“生きる場”における受容と確認であり、触覚とその経験値による照応と確認である。視覚によって受容される情報とは、まさしく抽象度の高い“情報”であり、これは視覚が電磁波を媒介とした物質の空間的延長をデータとして受容している感覚構造そのものに由来する。

 触覚が受容する情報は具体的な情報であり、それらは迅速に自己確定される。味、香り、肌ざわり、温度、そして音などのリアルな活き活きとした情報だ。それらの情報は直接的に“生きる場”を意味し、身体は即座にその情報に対して判断=反射しなければならない。この連続が生きることそのもので、たとえば“痛い”という触覚に対していちいち思考をめぐらせ、あらゆる情報と照らし合わせながら判断を下していく、などという優雅な対応をしていれば、それは生命の危険をともなうことになるだろう。触覚による情報に対する自己確定は迅速であり、無意識的であり、身体的なのだ。
 他方、視覚の情報によって生命が即座に危険にさらされたりすることはない。物質から延長された抽象度の高い情報を受容する視覚は、思考を通した後に知識として情報を集積(記憶)することが主で、そこでは危険さえも情報や知識として指示決定され自己確定されていく。視覚は高度に頭脳的であり、逆に、視覚の身体性は低度だ。


●『エヴァ』の成功と限界が示すものは?

話題になりながら知られず、ヒットしながら閉塞したエヴァ現象をメディアとその受容器官である感覚の違いから考えてみたいが、それはそのまま世代文化の違いや社会の特徴、サブカルチャーそのものを考えていくポイントでもあるだろう。

 TPOと絶えずシンクロしているのは“生”そのものであり、その感覚プラグは触覚である。触覚が生命と世界を媒介している。世界のスピードは生命を走らせる。
 延長された空間性を受容する視覚では、世界が身体までの距離を持ち、受容された情報は自己確定までの時間を持つ。生命は世界に対してスタンスを持ち、構える。

 本来サブシステムの修正情報である視覚情報が受容判断(≧思考判断)に中心的な影響を持つ時、何が、どうなるのか?
 そこでは、判断そのものにズレとデフォルメと絶えずオーバーフローがつきまとい、不安定なものとなる。視覚認識にともなうズレや距離といった外部からの介在を可能にする過程の多さは、現実社会の反映のしやすさとなり、高度に頭脳的であることは言語による反応を触発し、身体性の低さは自己確定のなさと虚いやすさとなる。つまり、ブームや熱気、言説や噂の多さ、飽きやすさと忘却など、典型的なレスポンスとオタク的情況を形づくる根拠がここにあるといえるのではないか?

 視覚という高度に頭脳的な、つまり身体性の低い(生と場のシンクロ率の低い)感覚とその判断が決定権を持つメディアこそ、エヴァだった、と。

 視覚メディア商品(作品)としてエヴァは、視覚メディアとその表現その感覚のある極限を現象させたといえる。もちろん、それは同時に視覚メディアの限界を現しもしたし、視覚メディアによる伝播が、どのように生命や場そのものからの乖離を生じるかも表した。
 エヴァの成功はその形態にあり、その限界もその形態にある。そして、それは別に時代や社会の必要でも要請でもなかった。ただ、視覚メディアの表現者であった庵野が、視覚メディア表現の頂点と限界を、現在のテクノロジー(庵野のノウハウ)において試みたということにすぎないだろう。指摘される物語性の崩壊も以前から他の表現ではあることであり特に意味はないとも考えられる。ただ、TKと同様にマーケティングによるつかみや引っ掛けといった意味でのガジェット(死海文書からビールまで)と組立ての成功があり、何ら努力や才能の見られない近年の小説やTVより価値があったということではないのか?


●エヴァを終わらせること

 たとえば、エヴァに関して最良の批評をしてみせた東浩紀は、作品をつくるという素晴らしさに感動するとともに、エヴァを見たことによって「オタクへの共感は非常にあるのですが」「それはどうでもよくなりました」とあっけらかんと述べている。団塊ジュニア世代最高のイデオローグである東浩紀の象徴するものの意味は大きい。エヴァを見て、そのアニメ表現の素晴らしさと内容の凡庸さを指摘した彼は、オタクカルチャー最高峰の作品を知ることによって、オタクカルチャーを卒業したのかもしれない。

 一時的な視覚情報ではなく、触覚とこれまで生きてきた時間を凝縮させた経験値による実感。自分が生きているTPOへの回帰=シンクロこそが自分を起動させるという事実だけが、実感であり、すべてだ。

 “まったり”であっても実感は視覚情報程度のものに代替されてしまうわけではない。熱しやすく醒めやすく自閉しやすいオタク的レスポンスの終息とともにエヴァも、そしてエヴァが提議した問題も終わりつつあるだろう。その一つが東浩紀のオタクへの別れでもある。

 結論は、何の変哲もないが、エヴァはオタクが見ていた、ということだ。宮台真司らの調査では新人類文化崩壊の後、オタクは無傷のまま団塊ジュニア文化に融合している。団塊ジュニア文化はオタクから生まれたと考えることもできる。つまりエヴァは団塊ジュニアが見たということにもなるだろう。もちろん、その終わり方、終わらせ方も団塊ジュニア文化全般のそれとシンクロするはずだ。



エヴァはまだ・・・1



■アニメ、話題の真相          橘 公司     [e-free-p 19971202]ヴァージョン



●世界が観る『もののけ姫』

 10人に1人が観た『もののけ姫』。
 今も上映は続いていて、その売り上げは100億円を超えたという。制作費も20数億円以上かかっており、費用と売り上げのどちらをとってもハリウッド映画と互角かそれ以上の作品だ。ディズニーを通して欧米に配給されるが、どう評価される今から楽しみでもある。
 室町時代にシーンを設定し、自然保護や環境問題というコマーシャルなアプローチと登場人物をはじめテーマそのものに神話的要素を塗り込めたこのアニメ映画は、フォトグラフィック以上の美しいカットとともに、いくつもの感動を与えてくれる、子供もおとなも楽しめる大作だろう。
 この『もののけ姫』とさまざまな面で比較されたもう一つのアニメがある。
97年の春と夏の2回にわたって上映され、それがその1年も前に放映されていた同名TV番組の完結編だという『エヴァンゲリオン』だ。


●ネットが生成した『エヴァ』人気

 エヴァの人気はパソコン通信とインターネットによって生成されたもので、TV放映終了後1年も経てから人気と話題が盛り上がったという異色の展開を見せ、そのことそのものが話題でもある。一部での熱狂ぶりと経済波及効果300億円という不況下での例外的な成功は一般のニュースやTVでも取り上げられ、「エヴァ現象」と呼ばれるほどのレアな話題になった。エヴァ関連の情報がネットでさかんに交換され、書店にはエヴァ関連本コーナーが設けられた。関連本の種類は数十冊を超えるだろうし、論文並のコメントや言及した記事は数百を超えるのは確かだ。そして、それらの内容や受け取られ方にも大きな特徴があった。
 エヴァに関する評価の多くは専門的であり、まるで社会や文芸に対する批評のように深い意味と大きな問題をともなっている。そもそもこれらの言説そのものが評論家をはじめフランス現代思想の研究家などなんらかのプロフェッショナルで、一般的に観れば相当偏ったジャンルや観点からの分析や主張だったのだ。そして、エヴァ現象のもう一つの大きな特徴はそういったファンやディレッタント以外の一般的な人々には興味を持たれなかったことだろう。


●『エヴァ』を観たのは誰か

 エヴァのターゲットやファンのゾーンはTK(小室哲哉)のそれとほぼ同じで、当初、TKの熱心なファンだった15万人のコアの多くはアニメファンでもあった。その後ブレイクしたTKはそのファミリーから一度に4名も紅白に出場させ、国民的ヒットメーカーであることは誰もが認めるところ。今ではアジアでも人気があり、ロサンゼルス辺りでもそのヒット曲は耳にできる。
 では、エヴァはどうか? 誰もが知っていて、国民的話題であり、なによりもオーディエンスを楽しませてくれる作品なのだろうか?
 エヴァ現象の特異点はここにあると言える。一般のニュースで取り上げられるほどでありながら実際のところ、誰も何も知らない。知っているのはファンだけであり、話題にしているのはファンの一部であり、その作品は楽しむというより衝撃を受ける類のものだ。エヴァは一般の話題になるほど大きな「オタク現象」だったと言える。アニメファンはもとよりコギャルから評論家までがその虜になり、しかも部外者にはまったく関心を持たれなかったという特異な現象であったのだ。
 それは何故か?
 これを解くには、オタク現象のみならず、特異な事件や物語を解読していくようなポイントがありそうだ。

 ここではそんなことを考えてみたい。

(続く)