イラク戦争について思うこと

清瀬 六朗



12.

 一方で、私は、軍事力を行使することを絶対に否定するつもりもない。最終的に解決がつかなければ軍事力を行使することもやむを得なかったと私は思う。だが、その「最終的に解決がつかない」という段階まで行ったという証明が、開戦したアメリカ・イギリス側から十分になされていないと現在の私は判断している。だから、いまのところ、今回の戦争は支持しないという立場をとりたいと思っているのだ。もちろん、現在の認識に基づいた判断だから、認識が変わればあとで訂正することになるかも知れない。ただ、現在の私の認識がどういうところから来ているかは、ここまでの文章でなるだけ書いてきたつもりである。

 私は、ある政権を存続させることが、国際的に、また、その国内に暮らす人たちにとって有害であって、しかもその政権の有害な動きを止める方法がほかにないばあいには、軍事力の行使に訴えることはやむを得ないという考えを、現在のところ、持っている。

 アメリカ合衆国は「ならず者国家」という非難のしかたをする。もちろんアメリカの一方的で主観的な決めつけという面は否定しない。しかし、国際社会には、客観的に「ならず者国家」と断定するしかないような政権が出現することはあり得ると私は思っている。そして、その「ならず者国家」が、自国民や周辺国民に取り返しのつかないような脅威を与えようとしていて、それを制止する手段が軍事力以外にはないときには、軍事力行使はやむを得ないと考えている。

 これに対して、どんなひどい政権であっても、そこの国民が選んだものであるから、そこの国民以外にその政権を倒す資格はないはずだという反論があるだろう。

 原則的にその考えかたを認めたいと思う。だから、圧政を行っている政権があったとしても、その国内の勢力がそれを正すのをまず気長に待つべきだと私は思っている。

 ある政治体制が圧政かどうかは外からは判断しにくい。情報が公正に伝わるとは限らないからだ。不満分子が意図的にその政権の悪い面だけを外国に流している可能性もある。それにいちいちつき合ってそこの国の政権を倒したとしても、こんどは倒された政権の支持者が不満分子になって、こんどは新政権の圧政ぶりを外国に宣伝するかも知れない。そういうのにいちいちつき合っていてはきりがない。

 また、軍事行動というのは資源を大きく消費するのであって、やたらと軍事行動を起こすと貴重な資源を浪費することになってしまう。それよりは他の手段でその問題の国に圧力を加えたほうがいいという可能性も大いにある。私が言っているのは、そういう可能性も最終的に絶たれたばあいに、軍事行動がやむを得ないこともあり得るだろうということだ。

 私がそう判断するのは、現代国家では、政権が暴力を握って圧政を行ったとしても、それを国民自身の力で覆すのは、よほど好条件がないかぎり困難だと判断しているからだ。

 フランス革命時代までのヨーロッパならば、政治権力に不満ならば、バリケードを築いて立てこもれば政権を打倒することもできたのである。しかし、フランスでも19世紀後半のパリ・コミューン事件のときにはそのような抵抗が不可能になっていた。また、20世紀前半の中国のように、中央政府の支配の力が広大な農村の隅々まで行き渡っていないようなばあいには、革命も可能だったかも知れない。だが、いまの中国で、かつての中国共産党のように、貧しい農民たちを組織して革命を起こそうとしても、それはかなり難しいだろう。共産党が社会の隅々まで組織の網を張り巡らせているからだ。

 現代国家では、軍隊も警察も政治権力が握っている上に、国民の動きを監視することのできる技術だって政権側が段違いに大量に動員することができる。政権以上に国民を組織できる主体を作ること自体がかなり難しい。

 それでも東欧の社会主義体制は続々と打倒されたではないか? だが、先に書いたように、これには、軍事大国であり、これらの社会主義国のモデルを作っていたソ連が、先に変革をなし遂げていたからである。また、中国が民主化運動を弾圧して国際的非難を浴び、孤立したことが政権に与えた恐怖心もあるだろう。巨大な中国だからこれだけの非難にも耐えられているが、東欧の小国が同じ国際的圧力を加えられたらひとたまりもない。それならばものわかりよく政権を手放したほうがましだと考えた。そういう動きがあったのだろうと思う。

 政権側が何らかの理由で「戦略的な退却」を選択するとき、反政府運動は成功しやすい。

 また、政権内部に何らかの分裂があり、その一部が反政府側に回ったばあいにも、反政府運動は成功するだろう。

 しかし、どちらの可能性もないときには、暴虐な政府を国民自身の手で打倒するのはかなり難しいと思う。

 国民自身の手で暴虐な政府を打倒できる可能性が残っているばあいには、その暴虐な政府によってその国民が苦しむのを見殺しにすることになっても、よほどその程度が高まるのでないかぎり、軍事力を行使してはならないだろうと思う。また、ある政権が、国際社会に大きな危害を及ぼしていたり、回復不可能なほどに大きな危害を及ぼす可能性があったりしても、それを止める手段が戦争しかない場合以外には、やはり軍事力の行使は思いとどまるべきだと思う。

 だが、圧政のための手段を政府が独占して、国民に反抗を許さない状況にすることは、現代国家では十分にできることである。また、政権内部から反対派に回りそうな勢力を排除して、政権内部から反対派が出る可能性をつみ取ってしまうこともできる。反対派の排除は、長期的に見ると政権の生命力を弱めることにつながるが、それでも数年間や十数年という長さでならば十分に存続は可能だろう。

 戦争以外に経済制裁という手段もある。だが、経済制裁のしわ寄せはどちらにしてもその国の庶民に及ぶ。そのときに、その「一般」の国民が、このような経済制裁を受けるのは政府が悪いせいだと認識する契機があり、しかも、その「一般」国民が政府を倒しうる手段を持っていれば、経済制裁は有効であり得る。だが、逆効果になることもある。「一般」国民に対して「自分たちが苦しむのはどこかの大国が力に任せて自分の国に不当な圧力をかけているからだ」と信じこませることができれば、その政権の支持基盤は固まってしまう。そこまでいかないまでも、経済制裁下の乏しい資源を政権が独占して、国民の反抗をますます無力化させることは十分にあり得る。経済制裁の有効性には限界があるのだ。

 だから、「ならず者国家」が出現し、それが国際秩序に大きな損害を与えたり、与えようとしていたりして、戦争以外にそれを制止する手段がないばあいには、私は軍事力でその動きを止めてもしかたがないと思う。どこで戦争に踏み切るかは、過去のいろいろな例なども参照しながら、戦争に踏み切らなければ将来の国際社会の負担が格段に増えてしまうような点を見いだす必要があるだろう。

 それは、国際社会の問題だから、国際社会が共同で決断を下す必要がある。

 もちろん、現状では「国際社会の意思」を一つにまとめるのは難しい。国連安保理決議にしたって、その協調体制が、ヨーロッパの伝統的な国際協調にアメリカとソ連と中国を参加させ、さらにほかの国も参加させるというかたちをとっていることは先に書いたとおりで、それが「国際社会」全体の意思をどこまで代表できるかというと疑問はある。おそらく完全に代表することはできないだろう。だいいち、この国際協調体制ではイスラム圏の国が主導的役割を果たすことが非常に困難である。一方で、超大国アメリカを頂点とする軍事同盟網による国際秩序も存在する以上は、この軍事同盟網によって決められたことも、ある程度は「国際社会」の意思を代表していると認める必要があるだろう。

 国連安保理に代表される「国際社会」の意思と、アメリカを頂点とする軍事同盟網(今回は米英の同盟関係を中心とする)が代表する「国際社会」の意思が対立してまとまることができなかったのが今回のイラク戦争の例である。そのどちらを「国際社会」の意思として認めるべきかは、それぞれの事例で個別に判断すべきだと思う。今回は国連が代表する意思のほうがより「国際社会」の意思に近いと私は判断した。もしかするとアメリカが代表するほうが「国際社会」の意思に近いのかも知れないけれども、アメリカはそのことを十分に説明しなかったと判断したのである。でも、いつもそうだとは言えない。国連のほうが非常にまずい決定をすることだってあり得ると思う。

 理想を言えば、国連が、そのときどきの「国際社会」を代表しうる体制を柔軟に整えていき、そのうえで、「ならず者国家」が出現したときに迅速に対応できる体制を作っておくべきだろうと思う。国連が、総合的に、「国際社会」を真正に代表しているという権威を持って、迅速に対応していれば、「ならず者国家」の成長はかなり抑制できるのではないかと思う。そうすれば、軍事力を最終的に使わなければならないと認めるにしても、その段階に至るまえに事態を収められる可能性はより大きくなるだろう。

 少なくとも、イラクのサッダーム・フセイン体制は、国連と近隣諸国とアメリカ・イギリスとが、ばらばらにその場その場で対応してきたことによってここまで延命してきた。国連と近隣諸国と米英が、互いの思惑や利害の違いを乗り越えて、国際的な圧力を組織的に加えることができていたら、サッダーム・フセイン体制がここまで増長することもなかっただろうと思う。

 それに、パレスチナでも国連がもっと積極的に役割を果たして問題解決に当たるべきだっただろう。中東地域の問題は、前の湾岸戦争以来、世界の注目を集めてきた。しかし、「国際社会」は、中東地域の個別の問題に、ばらばらに、しかも場当たり的に対応してきたように感じる。当事者たちに任せきりにして問題が解決したかどうかはわからないにしても、「国際社会」がかかわったことでこの問題がよけいこじれた一面も出てきてしまったのではないかと感じるのだ。

 国連が積極的に役割を果たしてパレスチナ問題を適切に解決の方向に持っていっていれば、全世界のイスラム教徒の不満がイスラム原理主義運動支持に向かう勢いも減殺されただろう。イスラム世界と欧米世界の関係は現在よりよくなっていたかも知れない。そうなればサッダーム・フセインはイスラム世界の人びとのなかで孤立してしまっていたかも知れない。

 もちろんこういうことは言っても詮ない理想である。だいいち「柔軟」な体制で「迅速」な対応をとるのはけっこう難しい。それ以前に、先に書いたように、民主主義的な国際協調体制というのを長続きさせること自体がかなり困難だ。それに、強力な国際協調機関を作り、それが個別の国家により強力に組織的に介入できるような体制を作ったら、その国際協調機関が一部の党派的な勢力に乗っ取られたばあいにはかえってやっかいなことになる。その危険性も十分に考えておかなければならない。そういう困難さを考えれば、けっきょく理想は理想に過ぎず、現状を追認するしかないという気分にもなってしまう。

 けれども、現実を踏まえながら、それを理想的な方向に持っていることはできるかも知れないし、やってみる価値はあるのではないかと思う。現在の国際協調のあり方はいろいろと問題を抱えているし、理想的な国際協調がどういうものなのかはまだ十分に見通せていないけれども、現在の国際協調が抱える本質的な困難さを十分に自覚しながら、一歩ずつ、そちらの方向を模索していく必要はあるのではないだろうか。

 なんだか「いい子」な発言で、自分自身でも「いいのか?」と思うけれども、いまはこのあたりまで言うのがせいいっぱいである。


前に戻る ○ つづき




はじめに 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13.