東浩紀氏のオタク論を読む

清瀬 六朗



第六回 おわりに

とりあえず終結宣言

 2003年夏、WWFで特集『WWF No.26』で特集「「萌え」の構造・非構造」を組むことになった。この特集では、執筆者が読む共通のテキストとして東浩紀氏東氏のホームページの『動物化するポストモダン』が指定されていた。その特集に寄稿する原稿の執筆準備のために書きはじめたのがこの「東浩紀氏のオタク論を読む」のシリーズだった。

 ところが、この連載のための原稿が仕上がらないうちに、『WWF No.26』への原稿執筆を始めることになってしまった。ここで書く予定にしていた内容は、『WWF No.26』に自分の原稿として書いたり、座談「動物化って何?」への発言に流用したりした。また、一部は、この『WWF No.26』への執筆をはさんで、「シュレディンガーの猫」のページにも、『動物化するポストモダン』についての議論を書いた「シュレディンガーの猫」バックナンバー。つまり、この連載「東浩紀氏のオタク論を読む」で順を追って書く予定だった内容を先にあちこちに「つまみ食い」的に引用してしまったのである。

 ここで、現在(2004年3月16日更新時)までに執筆した関係文書をリストにして並べておきたい。

 また、この連載を書いていた時点では、私は、東氏の文章はこの『動物化するポストモダン』一冊きりしか読んだことがなかった。その後、WWFが、冬のコミックマーケットに向けて、再度、「萌え」特集を組むことになり『WWF No.27 ―「萌え」という名の決定論― 』、私は『動物化するポストモダン』以外の東氏の著作も読んでみた。『網状言論F改』(青土社)などの「オタク論」も読んだし、また、『動物化する世界の中で』(集英社新書)のような「オタク論」以外の著作・対談・座談なども読んでみた。昨年末からは、東氏のメールマガジン「波状言論」も購読している。

 その結果、東氏の議論について、「オタク論を読む」という流れからだけではなく、よりいろいろな方向からコメントしたいと考えるようになった。

 そこで、『動物化するポストモダン』を最初から読んで内容を紹介し、コメントするというこの企画は、いったんここで終わりにしたいと思う。


今後の予定

 ただ、それは、東浩紀氏のオタク論へのコメントをやめるということでもないし、「萌え」論をやめるということでもないし、また、『動物化するポストモダン』について言及するのをやめるということでもない。

 現在、『動物化するポストモダン』の第三章で「超平面性」・「過視性」ということばで採り上げられている議論についてのコメントを準備している。

 「超平面性」も「過視性」も東氏が指摘している現代社会の特徴である。「超平面性」とは情報がどこまでも横並びに並べられ、そのあいだを何の抵抗もなく移動できるような現代社会の特徴をいう。インターネットで、あるサイトからリンクをつぎつぎにたどっていくうちに、最初に見ていたのとはまったく違うテーマやジャンルの情報を載せたサイトに行ってしまうようなことを想像すればよい。しかも、最初に別のリンクをたどっていれば、ぜんぜん違う情報にたどり着いていた可能性もある。ここでは、テーマとかジャンルとかいう「壁」がまったく効力を持たなくなってしまう。このような特徴を東氏は「超平面性」と呼んでいる。その結果、社会のなかで情報が「見えすぎてしまう」という特徴が出てくる。これが東氏のことばでいう「過視性」だ。

 次には、この「超平面性」・「過視性」論についてコメントしてみようと思っている。

 また、東氏がこのところ関心を寄せておられる現代世界での「自由」の問題についても何かコメントできたらと考えている。これは「シュレディンガーの猫」に掲載する予定である。どちらもなるべく近いうちに掲載したい。


 というわけで、中途半端になってしまったこの連載の最後に、東浩紀氏の「オタク論」について、現時点で私が考えている考えを述べておきたい。


現代社会論としての「オタク」論

 それは、東氏ご本人の位置づけはどうあれ、東氏の「オタク論」はその現代社会論の一環として位置づけるのが妥当だということである。

 東氏が「オタク論」の読者として想定しているのは、おそらく、日本語で本を読む人びとのなかで「オタク」について具体的にはほとんど何も知らない層である。しかも、ある程度は「現代思想」的な議論に慣れた読者を想定しているようだ。

 「オタク」自身の視点で『動物化するポストモダン』を読んでいると、「解離的」とか「超平面性」・「過視性」とかいうわけのわからないことばがいくつもいくつも出てきて辟易(へきえき)する。なぜわざわざそんなことばを使わなければ自分たちのことを論じられないのかという反感が生まれるのは当然だと思う。


「動物化」――挑発的・刺激的な概念

 その極点がタイトルにもなっている「動物化」ということばだ。

 この「動物化」論の背景にはヘーゲル哲学的な「人間」への理解があり、その上に成り立った術語である。これはかなりの程度まで西洋哲学の考えかたに通じていないと理解しにくい。「ヘーゲルってだれ?」とか言っている程度ではわからないし、おそらく高校でヘーゲルについて「正、反、合」とか習った程度でも理解は難しいのではないか。

 で、その流れを抜いて考えると、「動物化」とは通俗的な意味での「ケダモノ化」を意味すると解釈されてしまう。「オタクの動物化」とは、つまり「オタク」とは「ケダモノ」であると取られるのだ。つまり、「オタク」とは、理性も遠慮も会釈(えしゃく)もなく、その情欲のままに自分の「萌え」の対象に向かって突っ走る存在だ東氏は言っている――そう解釈されるわけである。

 自分がケダモノ呼ばわりされたと思って喜ぶ人はそう多くないだろう。そのことばが、現実の哺乳類の生態を反映していないとしたらなおさらである。

 「動物化」ということばは「オタク」に対しては非常に挑発的なことばだ。社会に対しても十分に刺激的だと思う。問題提起を含んだことばと取られる。それも論争を引き起こしかねないような問題提起だ。その「オタク」論の本に『動物化するポストモダン』と名づけたとき、そのことに東氏自身がどの程度まで自覚的だったか? 私は、「動物化」ということばのそういう煽情的(センセーショナル)な性格への配慮が不十分だったのではないかと思っている。もっとも、このタイトルでなければ売れなかったかなとは思うけれど――『不過視なものの世界』(朝日新聞社)とか『網状言論』ではもうひとつインパクトないもんねぇ……。

 東氏の「動物化」論に、理性や人生の目標などに何の関心も持たずに情欲に突っ走る人びととして「オタク」を描く側面があるのは否定しない。それについては私は異論を持っている。少なくとも極端であることはたしかだろうし、「オタク」の活動を一面化・単純化しすぎているように思う。また、ヘーゲル哲学の「人間」観は明らかにキリスト教を背景に持っていて、それとの対比で「動物」ということばが出てくる。だから、その枠組をそのまま20世紀〜21世紀初頭の日本社会にあてはめるのも短絡的ではないかとも私は思う。


なぜ東氏は「オタク」をとり上げるのか?

 ただ、東氏は、「オタク」だけが「動物化」していると言っているのではない。東氏は日本社会全体が「動物化」していると言っている。それを「オタク」のあり方を例に論証していこうというのである。

 ではなぜ「オタク」が例になるのか? この点については、東氏は「オタクは現代社会で無視できない重要な存在だ」と言っているだけで、必ずしも明確に説明はしていない。おそらく、まず、「オタク」が1990年代前半までの社会的な規範(きはん)(「こうしなければならない」というよりどころや基準。憲法・法律から「社会的雰囲気でなんとなく〜」というようなものまで含む)に強く縛られていない人たちだということがあるだろう。しかも、インターネットやパソコンなど情報化の進んだシステムに何のためらいもなく積極的に対応している人たちが「オタク」だからだろう。

 ここから先は完全に私の解釈である。1990年代前半までは、自由主義か社会主義かとか、東側か西側かとか、革命か改良かとかいう議論で社会の議論の全体的枠組がつくられていた。しかし、1990年代後半以後の社会では、そんな議論のしかたをまるで知らない人たちが主導的な立場に立っていく。また、1990年代後半以後の社会では、仕事でも遊びでも勉強でも、何の抵抗もなくパソコンやインターネットを使うのが普通という人たちがやはり社会を代表していくことになるだろう。そういう人の集団を現在の社会で探せば、それにはやはり「オタク」集団――それも『エヴァンゲリオン』放映前後に「オタク」になった層――がいちばん近いということになる。それが東氏の「動物化」論が「オタク」を題材にしているいちおうの理由であろう。

 「いちおうの」というのは、東氏自身も自分のなかに「オタク」的な感性があることをおそらく自覚しており、その「オタク」的感性を現代社会論に組みこむことを通じて社会に認知してもらいたいという動機があるのもたしかだと思うからである。『波状言論』(バックナンバーも購入できるようになったそうです)の西尾維新氏へのインタビューを読むと、東氏の「オタク」としての面と批評家としての面が交錯していて興味深い。


現代社会を語る素材としての「オタク」

 他方で、東氏は、けっして「オタク」を理性を失った人たちとしては描いていない。たとえば、「オタク」活動では過激な性表現を追求しながら、現実生活では保守的な性生活観を持っているのが「オタク」としてはむしろ普通だと東氏は論じている。

 だから、東氏は、「オタク」だけが「動物化」しているとは言っていないし、「オタク」にしてもその生活の全面で倫理観や理性を喪失してひたすらケダモノ化していると言っているわけでもない。悪口を浴びせるならともかく、批判するのであれば、その点は押さえておく必要がある。

 ただ、そうはいっても、東氏の議論は、「現代思想」を議論するために「オタク」を題材に使っている――いわばダシに使っているのは確かだ。それを「オタク」側から見てやっぱり不愉快だと感じることもあるだろう。また、「オタク」自身の視点からいっても、どうしてわざわざわけのわからない概念を持ちだして議論しなければならないかもわからない。しかし、それは、そういう難しいことばを使って議論するのに慣れた「現代思想」と話を合わせるためだと了解するしかない。「オタク」の側から「現代思想」に対して「わけのわからないことばを使って何の意味もないことをやっている」ということばを投げつけるのは自由だが、そのかわり、「現代思想」が「オタク」を素材にああだこうだ議論することの自由も認めたいと私は思っている。


システム的制約と文化の自律性

 もうひとつ、東氏の「オタク論」に見られる特徴は、システム的制約や文化の自律的な発展を軽視して、「オタク」に見られる現象を直接に現代社会論で解釈してしまおうという傾向である。

 たとえば、東氏は、「ギャルゲー」の画面構成をただちに現代社会の「データベース」的な構造につなげて議論する。当たっていないとは思わない。けれども、これには、やはりパソコン上で動くゲームとして売るための制約が大きい。東氏が例に挙げているような「ギャルゲー」は、CPUの能力やメモリの大きさ、ハードディスクの容量などを考えたうえで、止め絵のセルを重ね、ばあいによってはその上にさらにテキストを重ねるような構造になっているわけで、そのことへの考察を抜きにして1990年代後半以後の現代社会の構造に話をつなげてしまうのは乱暴だと思う。少なくとも、1980年代のファミコンゲームの画面からの「ゲームの画面」の変遷については考えに入れておくべきだったのではないだろうか。

 また、文化はもちろん社会の影響も受けるけれども、社会とは独自にその文化の内部での発展というのもあって、それも無視してはならない。「いきなり異世界に飛んでしまう」ような物語が受け入れられるのも、1980年代からアニメやゲームでそういう物語に慣れ親しんできた人たちが受け手にいたからである。また、作り手の側にも、そういう作品を10年以上もつくってきた蓄積があり、それを語るための技術や方法が豊富に蓄積されている。その上で現在のアニメやゲームや10〜20歳代の読者を想定したファンタジーの隆盛がある。

 社会を論じる枠組として、自由主義か社会主義かとか、東側か西側かとかいう議論が成り立っていた時代には、アニメやゲームで身につけた世界観で現実社会を論じようとしても、その時代の「社会を論じる枠組」に阻まれていた。その「社会を論じる枠組」やそれを背後で支えていた仕組みが、東氏のいう「大きな物語」というものなのだろう。ところが、それを「大きな物語の失調」と呼ぶかどうかは別にして、1990年代になってたしかにそんな枠組はなくなってしまった。それで、アニメやゲームで身につけた「現実」感覚が、何の原則の制約もなく、社会全体を感じたり論じたり、また社会のなかで行動したりするための感覚として通用するようになってしまった。そういう一面は私は認めたいと思う。

 けれども、同時に、日本のアニメやゲームのそれまでの蓄積がなかったならば、その「社会を論じる枠組」がなくなってしまったときに日本社会のあり方が現在とは別の方向に行っていた可能性もなくはないわけだ。それを検討するのに、最初からアニメやゲームを社会のあり方によって動かされる要素として位置づけてしまうのは、やはり手順の飛躍と言われてもしかたがないのではないかと思う。


結び

 私は東浩紀氏の「オタク論」には違和感を持っているし、東氏の「ポストモダン」論にもやはり違和感を持っている。この違和感については、「唯物的オタク論!」「祝祭の時間としての近代、「ポストモダン」の憂鬱」や『WWF』誌の「萌え」特集(No.26〜27)に書いたので繰り返さない。

 ただ、私は東氏の試みを基本的に支持しているし、その立場から東氏の書くもの・書いたものにはコメントを加えていきたいと思っている。

 ということで、とりあえずこれで「第一期」連載を結ぶこととしたい。


―― おわり ――


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