新たな「抵抗としての無反省」をめざして


北田暁大(あきひろ)

(わら)う日本の「ナショナリズム」

NHKブックス(日本放送出版協会)、2005年



2.連合赤軍事件をめぐる「さらなる総括」
―― 第一章をめぐって ――


健全な「反省」のできない時代

 この本で描かれるここ50年ほどの日本社会の「反省」の歴史はどんなものだろうか?

 235ページにこの本の「反省」史の記述を「総括」した表が載っている。時代を (1)1960年代〜70年代前半、(2)1970年代半ば〜80年代初頭、(3)1980年代、(4)1990年代から現在までの4つの時期に区分し、それぞれの時代について「人物・出来事」、「反省の形式」、「人間(内面)の形態」をまとめたものだ。(1)が第一章の「連合赤軍時代」、(2)が第二章の「糸井重里の時代」、(3)が第三章の「田中康夫と『元気が出るテレビ!!』の時代」、(4)が第四章の「2ちゃんねる時代」に相当する。だが、残念ながら、本文をよく理解していないとこの表はなかなか理解しづらい。

 そこで、僭越ながら、私がここで「さらなる総括」を試みてみようと思う。

 「反省」とは、さっきも書いたように、「反省する自分」と「反省の対象になる自分」に分けてみて、「反省の対象になる自分」についていろいろ考える行いのことだ。

 「反省」すると人間的に成長するというのがふつうの考えだろう。何かのイベントや試合のあとの「反省会」などを考えてみればよい(当然ながら「反省会と称するたんなる飲み会」は除く……って反省会ってたいていそういうもの?)。たとえば、自分の何かの過ちを「反省」するばあい、その過ちがどうして起こったかを考え直してみることで、こんど同じような状況に直面したときにも同じ過ちをせずにすむようになる。何かの成功体験を「反省」すれば、その成功をまぐれに終わらせず、どんなばあいにでも通じる成功パターンのようなものを身につけられるかも知れないし、その成功に潜む「失敗のもと」に気づいて早めに対処できるかも知れない。

 だがこういう健全な「反省」はこの本にはほとんど出てこない。それは、この本で扱っている1960年代以後の日本社会には何か健全な「反省」を失敗させるような仕組みがつねに存在したからだ。1960年代の連合赤軍時代から現在の「2ちゃんねる時代」までの日本社会は、ずっと「(健全な)反省のできない時代」のなかにあった。


それは「近代」の始まりから始まった

 その「反省のできない社会」はいつ生まれたか?

 それは、突きつめて言えば「近代」が始まったときに生まれた。

 近代より前の時代には「反省」には終着点があった。神が望まれるあり方とか、お天道様のお許しになる生きかたとか、そういうところにたどり着けば「反省」は終わりだった。もっとも、この時代にだって、じゃあだれが「神が望まれるあり方」かどうかを判断するのかという問題はあったわけだが、そのことはここでは触れないことにしよう。

 ところが、神様とかお天道様とかいう、人間を超えた権威は、近代には失われてしまった。そこで、人間は、人間がこれまでやって来たことを考え直すことで「反省の終着点」を見つけ出さなければいけなくなってしまった(35〜38ページ)。

 だが、自分のやったことを考え直すために、人間がこれまでやって来たことを考え直すという「反省」のやり方は本質的な不安定さを持っている。なぜかというと、人間がこれまでやって来たことをどこまで考え直せばいいかという限界がはっきりしないからだ。

 自分がやったことを考え直すために、前に同じようなことをやった人の例を引っぱってきても、もしかするとその人は自分と同じ過ちを犯していたかも知れない。かといって、自分とは違うやり方で成功した人のことを参考にしようとしても、たまたまその人が(『ギャラクシーエンジェル』のミルフィーユ・桜葉のように)超ラッキーだったから成功しただけで、何の参考にもならないかも知れない。前の人が自分と同じ過ちを犯したのかどうか、前の人が成功したのは方法が正しかったからか単にラッキーだったからか――それを確かめるためにはさらにまた別の人の例を参考にしないといけない。そうすると、その「また別の人」も、やっぱりまちがっていたかも知れないし、単にラッキーだったから問題を起こさずにすんだだけかも知れない。考え直すための材料として、法や規約のようなものを持ってきても、法や規約を定めた人たちの考えがまちがっていたとか、いまの時代には合わなくなったとかいう可能性がある以上は、そこで「反省」を終わらせることはできない。そうやって考えつづけて行けば、「反省」はどこまで行っても終わらなくなってしまう。


「大きな物語」の失墜した時代

 では、どうして「近代」の始まりから始まった「反省のできない時代」の問題が1960年代まで噴出しなかったのか? 答えは二つ考えられる。

 一つの答えは、その問題はつねに噴出していたのだが、たんにこの本では扱っていないという答えだ。話を日本に限っても、その「反省できない時代」の問題は夏目漱石や田山花袋(かたい)の時代から存在した。しかしこの本は1960年代の終わりから話が始まっているので出てこないだけだ。そういう答えである。

 もう一つの答えは、1960年代までは、近代社会でありながら、近代より前の「神」や「お天道様」のような存在がじつは存在して、「反省」はそこにたどり着けば終わりだったというものだ。それは、学校や会社の共同体的な決まりごとだったかも知れない。また、全社会的にも、その社会全体を覆う「人間とはこういうもの」とか「社会とはこういうもの」とかいう合意が存在したのかも知れない。東浩紀さんのいう「大きな物語」だ。最後には、自分の言ったこと・やったこととその「大きな物語」とを引き比べるところまで行けば「反省」は終わる。

 東浩紀さんは日本社会では1970年代から「大きな物語」の力が失われはじめたと論じている。北田さんの本の舞台となる「反省のできない時代」は、「大きな物語」の失墜とともに、とくにその失墜がはっきりした部分から現れてきた。そう考えてみてもいいと思う(東さんはこの本について「(僕の言葉で翻案すれば)「大きな物語なき時代にいかにメタレベルを担保するか」という切実な問題意識が横たわっている」と評している。「渦状言論」2005年3月14日の項)

 1960年代までは「大きな物語」があったから日本社会に住む人たちは「反省」できた――そう言ってしまっていいかどうかは私にはわからない。少なくともそれが1960年代以前を理想時代のように描くことにつながるならば、それには私は居心地の悪いものを感じる。でもこのことはこれ以上は論じないことにしよう。

 この「これ以上は論じないことにしよう」というところにまさに「近代」の「反省のできない時代」としての性格が表れている。1960年代以後を論じるためには、ほんとうは1960年代より前を論じて、1960年代以後という時代がどんな時代かをはっきりさせなければならない。けれども、こんどは、たとえば1945年から1960年ごろという時代区分――「戦後復興期」ということになろうか――を採り、その時代と1960年代以後との対比をはっきりさせたとしても、こんどは「では1945〜1960年というのはどんな時代なのか? その時代との対比で1960年代以後をはっきりさせられるのはどういう面についてで、どういう面についてはこの対比でははっきりさせることができないのか?」という疑問が起こる。それをはっきりさせるためには、こんどはたとえば1940年ごろから1945年の「戦時体制期」などを持ち出さなければならない。こういうふうに「どこまで行っても百パーセントはっきり言い切るための基準が見つからない」ということが、近代が「反省のできない時代」である大きな原因なのだ。そういう状況では、どこかで「問題はあるかも知れないけど、とりあえずこの場にいるみんなは合意できるでしょ?」という点を無理にでも探さないと、議論が組み立てられない。「反省」のばあいにもこの「とりあえず合意できるところ」が基準になるのだが、それが見つからないときにどうなるか? それがここで北田さんが問題にしている状況だ。


連合赤軍事件

 この「近代」の病理が強く現れたのが連合赤軍事件である。

 連合赤軍事件が起こったとき(1971〜1972年)には私はもう生まれていたが、どういう事件かはまったく知らなかった。この本で遅まきながらその凄惨な実態を知り、何かやりきれない暗い気分になった。

 連合赤軍事件というのは、「革命」集団の連合赤軍が山中に引きこもり、その環境のなかで仲間どうしで凄惨で異常な殺しあいを展開したという事件だ。この殺しあいの理由になったのが「総括」という行いだった(らしい)

 「総括」とは一種の「反省」のことだ。一人のメンバーの「反省」をみんなで聴き、疑問点を問いただして、そのメンバーの「反省」をやり遂げさせてやる。メンバーの「反省」をネタにしたミーティングみたいなものらしい(なんかそれだけでイヤ〜な感じがするけど)

 ところが、この「総括」と呼ばれた「反省」には終着点が存在しなかった。「ここまで反省すればもういいよ」という「落としどころ」がなかった。だから、たとえば会議中に化粧をして他人の発言を聞いていなかったとかいう些細なことの「反省」が、過去の恋愛体験とか生い立ちとかにまで(さかのぼ)ってしまう。そして、ついにその人の人生を全否定し、人生を否定するだけでは足りずにサディスティックなやり方で死に追いやる。そうやって「総括」は異様な殺しに発展した。それが北田さんの解釈だ。

 「総括」が「終わりのない反省」である以上、途中で終わるというのはあり得ない。どこまでもやり遂げようとすると、自分が死ぬことで中断するしかない。つまり、「総括」については、「総括を終えないまま生きている」か「総括を終えないまま死んでしまう」(=「敗北死」)のどちらかしかあり得ない。「総括」を求められる場から脱出するしかないが、実際にはそれも難しかったようだ。

 では、生きて総括をやり遂げる方法はないのかというと、ある。「総括」をやり遂げていちど死んで、死体となってなお生きつづければよいのだ。

 したがって、「総括」の場は「ゾンビ」が支配することになる。

 もちろん「ゾンビ」というのは比喩であって、具体的には森恒夫という、生物としてはちゃんと生命を持った男だったらしい。ではなぜ森は「ゾンビ」なのか?

 この森という人物は自分の「総括」の途中で泣き出してしまった。しかも、その森の「総括」というのは、内容から言えば凡庸でごくつまらないものだったらしい。ところが、森が泣き出したのが、その「総括」の場にいた者たちに伝染してしまった。みんながもらい泣きして、なんだか知らないけど感極まって、最後には「インターナショナル」の大合唱で終わったという。

 ちなみに、「インターナショナル」と言っても「近ごろの若い者」にはわからないだろう。1889年にできた国際労働者組織「第二インターナショナル」の歌として作られ、その後、全世界で革命歌として歌われるようになった歌……だったと思う。ちなみに私は(日本語版の)一番だけなら歌詞を知っている。まあみんなで歌えば盛り上がる歌ではある……と思う。

 ともかく、これで森は「総括」をなし遂げたことになってしまった。終わりがないはずの「総括」をやり遂げたのだから、森は死んで、しかしなお生き残ったのだ。そして、その森は、他のメンバーが同じように「総括の終わり」に到達することを絶対的に妨害する存在になってしまった。他のメンバーが「総括の終わり」に到達しそうになっても、森が「総括」をやり遂げた者として何か疑問をさしはさめば、そのメンバーの総括を「未完」にして出発点まで引き戻すことができるからだ――それがどんなに本筋からはずれた「揚げ足取り」のような些細な「ツッコミ」であっても。


なぜ「ゾンビ」なのか?

 北田さんが森の存在を「ゾンビ」という不気味な存在として捉えているのがこの文章の特徴的なところだろう。

 もっとも、「ゾンビ」という表現が北田さんのオリジナルな発想かどうかは私は知らない。少なくとも、この本の後のほうでこの「総括」ゾンビと対照されている「消費社会的ゾンビ」のほうは必ずしも北田さんのオリジナルではなく、浅田彰も同様の捉えかたをしているようだ(167〜168ページ)。

 いったん死んでなお生き残っているのであれば、「生まれ変わった」とか「復活した」とかいうポジティブな感じの表現もできるはずである。「不死身」とか、さらには「復活」を証明した救世主であるとかいう、神々しいカリスマ的な表現もできたはずだ。じっさい、自分の達した境地に達することをだれにも許さない権威の高さは「神」とか「救世主」とか呼んだとしてもおかしくはない。

 しかし北田さんはあえて「ゾンビ」と呼んでいる。これは、あとで出てくる「消費社会的ゾンビ」と対照させるための伏線なのかも知れない。あるいは、森はどうもカリスマ性のない人間だったらしく、それを神やカリスマに類する存在として描くのはおかしいということかも知れない。けれども、もう一つ、「ゾンビ」は、いちど死んでいながら身体は持っているという特徴がある。その身体の存在に北田さんは注目しているのだと思う。

 森がどうやって「総括」の場の主人になったかというと、なんかつまらないみっともない話をして、それで他のメンバーをもらい泣きさせてしまったからだ。けっして他人にはまねのできないカッコいい演説をやってその場の主導権を握ったのではない(もしそうやったのなら「カリスマ」と言っていいだろうけど)。理屈ではどんなにツッコミどころがあっても、どんなにつまらない話でも、ともかくもらい泣きという身体的反応を引き出したことで森は「総括」の場の主人になった。森は身体のレベルで共感されたために主人になり、森のつまらない話で泣いてしまった他のメンバーは、その身体的な反応をさらしてしまったために、森の主導権に反論できなくなってしまったのだ。

 「総括」の場ではだれも理屈では終着点に達することができない――生きつづけても死んでしまっても総括は終わらない。だが、理屈で到達できないその距離を、身体のレベルで「なんでか知らないけど泣いてしまった」という共感を引き出すことで森は埋めてしまったのだ。

 もらい泣きしてしまった他のメンバーは、森が「総括をやり終えた」ということへの疑問を提起できなくなる。理屈で――論理で納得したわけではない。だが、森の凡庸な話でもらい泣きしたことはみんなに見られている。しかも、ほかのみんなもそれぞれがもらい泣きをしたことは身体感覚として覚えている。それでなお森に疑問を提起すれば、自分が身体で認めたことをあとから否認したことになるし、他のみんなが身体感覚として覚えていることをも否定することになる。そんなことをすれば自分のほうが「総括」共同体から浮き上がってしまい、そのことについて新たに「総括」を迫られることになってしまうだろう。

 身体は論理ではどうしても解決できないことを一瞬で解決してしまう存在なのだ。そして、森は、理論的に、または論理面で優れているからではなく、もらい泣きを引き出した身体を持っているために、他のメンバーより絶対的な優位に立てた。じっさい、その身体を持っていれば、「共産主義化」とかいう、およそ体系性のない、論理的には超えーかげんな論理を振り回しているだけでもその場の絶対的指導者になれたのである。

 論理や精神の面では死んでいても、ともかく身体を持っているだけで絶対的な存在として君臨しつづける「総括」の指導者を北田さんは「ゾンビ」と呼んだのだ。


身体と「共産主義化」理論

 論理ではどうしても到達できない距離を身体と身体感覚はかんたんに埋めてしまう。身体のこの性格が、次の章以後に出てくる津村(たかし)の戦略につながっていくのだろう。津村は、自分で全国各地に出かけることで自分の文章の読者とじかに対面し、活字媒体が一方通行であることの不十分さを埋めようとした(98ページ)。また、津村は、『なんとなく、クリスタル』ブームのころ、消費生活を送ることに何の疑問も持たない「クリスタル族」を批判し、自分で体を動かして自分で消費するものは自分で作ろうとする「ドゥ・イット族」を持ち上げたという(128ページ)。その後は津村は太極拳の専門家になってしまったらしい。これも身体の動きを重視する運動である。

 身体を同じ場所に置いてコミュニケーションをとることを重視し、自分の消費するものは自分の身体を使って作るべきだと主張する津村の考えを背後から支えているのは、この「論理が到達できない距離を身体が埋めてしまう」という信念だろう。

 連合赤軍事件のなかに、「身体」という要素は、この「ゾンビ化」を除いても何度も姿を見せている。

 「ゾンビ」であり「総括の場の主人」であった森は「共産主義化」というおよそわけのわからない支離滅裂な思想――運動の指導原則――を好んで口にしていたらしい。

 もっとも、「共産主義化」思想を支離滅裂だと書いているのは北田さんであり、森という人は一貫した思想だと考えていたのかも知れない。しかし、たしかに北田さんが53ページで引用している森の「共産主義化」ということばの用例を見ると、とてもそれが体系立った思想とは思えない。

 ちなみに、ここに引用されている「共産主義化」とは、縛られても「総括」に集中しなければならないことを要求する思想であり、タバコをやめる思想であり、「自分の女房と子供」を連れてくることを当然とする思想であり、ろくでもないことを言って討論の中心になるのを許さない思想であり(たぶん森本人は適用対象外――ということだろう。森はろくでもないことをしゃべってもらい泣きしてもらって「中心」にのし上がった人物なのだから)、だれかが逃亡することを見抜かなければならない思想である。たしかに、連合赤軍事件という舞台を外して考えれば、こんなことばかり言っている人間の支配する空間は喜劇的というより笑劇的である(ジャイアン的とでもいうのかな?)。何を言われても「共産主義化」ということばばかりを唱えているゾンビが支配する空間というと、何かシュールなギャグマンガみたいな世界だ。

 ただ、「共産主義化」理論の気分みたいなものはここから感じ取ることができる。森が中心となる「総括」共同体を危うくしそうなものはぜんぶダメで、したがって森が中心となる「総括」共同体への異議申し立てはすべて否定され、逆に、森が中心となる「総括」共同体を強化すると森が考えるものはすべて肯定される。こう表現すればやっぱりギャグマンガに出てくる暴君的人間のわがままみたいだ。

 けれども、問題は、森という人自身がおそらくそれを「自分本位の考えかた」と気づいておらず(これはまあよくあることだ)、それどころかその場のメンバー全員もその「森の自分本位の考えかた」を共通の指導思想として認めてしまっていたことにある。みんなが自分たちのやっていることがギャグであることに気づかず、大まじめで、悲劇的な気もちで、だれが命を失うかわからない場としてその笑劇を生きていた。それが連合赤軍事件の起こった場だったのだ。

 森のこの「共産主義化」理論を指導思想として認める基盤となっていたのは、理論的な整合性や精緻さではなく、「森が総括をやり遂げた唯一の人物だ」という「事実」だ。それは、メンバーのなかでただ一人、森の「総括」だけがもらい泣きをさそったという身体のレベルでの共感――共感を示してしまったのを身体感覚として覚えていること――に由来している。

 森は「共産主義化」理論を「革命を志す精神とそれを遂行する身体」を融合させるための思想だと整理していたようだ。ところで、マルクス‐レーニン主義っぽい表現で言えば、革命戦士は革命のために「鉄の規律」に服して行動しなければならず、そのためには「鉄の規律」に自分から積極的に服従して行動する身体を作らなければならない。自分の身体を「鉄の規律に服従する身体」へと変えていくのが「共産主義化」だということなのだろう。


「総括」の異常さはどこから来たか

 精神的には死の境地を踏み越え、身体はなお持ちつづけている「ゾンビ」が支配する「総括」の場には、「身体」は別の現れかたも見せている。たんなる「厳しい体罰」ではすまない異常なサディスティックな虐待の対象としてである。

 たとえば、北田さんが例に引いている遠山美枝子という被害者は、先に殺された被害者の死体を埋めに行かされ、それに従うとこんどは「死体を埋めに行くことを恐れていない」ことへの「総括」を迫られ、何を答えても森(と、森と同じように立場にいた永田洋子)に「総括になっていない」と追及され、ついに取り乱して、自分が埋めに行った被害者のような死にかたはしたくないとわめく。その遠山に対して、森は自分で自分の身体を殴るように命じ、30分も自分で自分を殴らせたうえ、遠山は髪の毛を切られて柱に縛りつけられる。それから数日後、遠山は縄を解かれて「総括」の場にまた引きずり出され、今度は過去の恋愛体験を洗いざらい語るように強要され、足を広げるように迫られてその間に薪を突っこまれ、逆エビ型に縛りつけられて、その翌日に死亡したという(30〜31ページ)。

 いじめっ子の言うことを聞いたらさらにいじめられるというのは、「いじめ」ではよくあるパターンである。別に子どもたちのいじめに限らない。無理とわかっているスケジュールを押しつけられて全従業員が夜も寝ないで必死でがんばって納期に間に合わせたら、「前にできたじゃないか」と言ってさらにきついスケジュールを押しつけられるという「下請けいじめ」みたいな話もよく聞く。だから、命令に従って、その命令を忠実に守ったことをネタにさらにいじめられるというのは、べつにこの事件に特有の構図ではない。

 しかし、自分で自分を殴らせたあとの行動はいかにも常軌を逸している。

 どうしてこんな極端で異常な暴力が身体に向かうのか? そのことを北田さんはあまり問題にしていないようだ。そこで、北田さんがここまで示している枠組で説明を試みてみよう。

 森としては――そしてその森を「総括」の場の主人と認める他のメンバーとしては、遠山と森とを身体のレベルで徹底的に区別する必要があった。死体を埋めに行くことを要求され、怖がるだろうと思っていたらそれをわりと平気で果たしてしまった遠山は、森と同じように「精神的には死の境地を踏み越え、身体はなお持ちつづけている」という存在になる可能性があった。

 私は森や遠山がどういう容姿の人だったかをよく知らないから(森の行為に積極的に加担している永田洋子という女性の顔写真だけはテレビか何かで見たような記憶がある。でもどんな顔だったかぜんぜん覚えていない)確たることは言えないが、会議中にリップクリームを塗っていたり指輪をしていたりという遠山の「問題行動」を見るかぎりでは、遠山のほうが森よりも人の目を惹きつける身体を持っていたと考えていいだろう。そうすると、遠山が身体のレベルで森よりも共感を集めてしまう可能性があった。それは、森にとっての脅威であるだけでなく、森を「総括」の場の主人と認めている共同体を崩壊させる危険がある。そのことを他のメンバーも感じ取っていた。

 そういう事態を阻止するために、遠山は、自分で自分を殴らされたり、髪の毛を切られたり、縛りつけられたり、性交を誇張したようなポーズでさらしものにされたりして、その身体の魅力を徹底的に傷つけられなければならなかった。このメンバーたちは遠山の身体の女性的な魅力をさらしものにすることでその魅力を消そうとしたのだろう(こういうところで、この「革命」集団のメンバーたちが、革命で打倒されなければならない社会と同じジェンダー的な感性を持っていたことがバレてしまう)。しかし、もともと持っている身体の魅力というのはそうかんたんには消せないもので(東浩紀さんと大澤真幸さんが対談で出している「ハエに変身してしまう」というような極端なばあいは別だけど。『自由を考える』119〜120ページ)、これをやったら遠山は身体的魅力を失って森への脅威はなくなるという想定をつねに裏切ってしまう。これは遠山自身が何をどう思ったり考えたり発言したりしてもどうしようもないことだ。どんなに従順に「総括」の要求に応えようとしても、問題は「総括」の論理のレベルにはないのだから。森としては、また森を「総括」の場の主人と認める「革命戦士」の共同体としては、遠山を身体ごと葬ってしまうしかなかった。

 それがこの「総括」がサディスティックな方向へと発展してしまった理由ではないかと私は思う。


「身体」について

 ところで、北田さんの説明は、この連合赤軍事件以後、「身体」という要素から離れて行ってしまう。「抵抗としての無反省」時代の津村喬の部分で少し触れられた後にはほとんど出てこない。いや、じつはときどき思い出したように出てくるのだが、出てきかたが断片的で、なぜそこに「身体」ということばが出てくるのかが私には十分に理解できないのだ。

 たとえば、この本の登場人物たちでも、ハンサムな容姿の糸井重里(「抵抗としての無反省」)、失礼ながら風采はあまり上がらなさそうだけどブランド品を着飾ることでその身体の存在をアピールする田中康夫(2005年現在、長野県知事。抵抗を棚上げした無反省)、命を縮めるほどの肥満体だったナンシー関(2ちゃんねる時代の「抵抗としての無反省」の後継者)、見たことないけどたぶん風采が上がらないであろう電車男(「嗤う日本」=2ちゃんねる)、スマートな窪塚洋介(2ちゃんねる時代の日本のカッコつき「ナショナリズム」)と「身体」を系譜づけてたどってみても、それはそれでおもしろい「歴史‐社会学」の本にはなったかも知れない。

 けれども、北田さんの説明は、「身体」を舞台の背後にいつもいるであろう登場人物、しかし表舞台にはごくたまに脈絡なく出てくるだけの登場人物として扱っているような印象を受ける。少なくとも、このあとに出てくる「身体」ということばは、この「総括」事件のときのような生々しさを持っていない。

 なお、先に、論理では絶対に到達できない距離を身体は埋めてしまうと私は書いた。しかし別に身体が神秘的な能力を持っているというわけではない。人間にとって、身体のほうが先に存在し、人間は身体と長くつき合ってきた。思想とか論理とかいうものは後から出てきた。それは人類全体についてもそうだし、個人についてもそうだろう。だから、思想や論理が、身体と人間との関係を十分に説明できるところまで追いついていない。身体で感じることをすべて表現しきれるほど、私たちのことばは――まして私たちの論理は豊かになっていないのだ。それだけのことだろうと思う。

 しょーもない内容の話にもらい泣きしてしまったという身体の動きと、それを身体の感覚として覚えていること、同じ身体の感覚をその場にいるみんなが感じたこと――それが人間の行動を決めようとする力に対して、論理の力は対抗できない。それどころか、論理は、その身体の感覚が行動を決めようとするのに従属し、身体の感覚とそこから出てくる行動とを正当化するために使われてしまう。


「共産主義」と身体感覚の暴走

 その論理の力の弱さは自由主義をはじめどんな論理についても言えると思う。だから私たちはどんな理論についても理論は万能だと思ってしまわないほうが安全だ。

 しかし、連合赤軍事件の「共産主義化」理論のばあい、やはりその背後にある「共産主義」理論に、身体感覚の暴走を許し、それを助長するような要素があったのではないかと私は感じる。

 細かいめんどうな話を抜きにすれば、「共産主義化」の「共産主義」とはマルクス‐レーニン主義のことだろう。そのマルクス‐レーニン主義は整然とした理論体系を持つ思想である。

 だが、それは、同時に、身体の感覚が行動を決めるような場をコントロールできず、それどころかそれを正当化し強化するような体系にもなってしまった。

 ソ連のスターリンが力をつけ、ライバルを蹴落とすための手段として理論闘争を活用したとき、理論の論理的正しさを決められるのはスターリンただ一人になってしまった。スターリンをたたえるためにスターリンの理論をよく研究し、それを正当化するような理論を考えたとしても、スターリンが思いつきもしない理由を作り上げて「それは違う」と言っただけで、その人は反スターリンということで逮捕され、殺されてしまうかも知れない。

 東浩紀さんと大澤真幸さんが『自由を考える』で語っていることによると、じっさいにスターリン体制下では人びとが逮捕されることに理由はなかったという。逮捕される側に「思いあたるフシがない」というだけではない。逮捕する側にもなぜ逮捕するのかという理由づけがないのだ。ではなぜ逮捕するかというと、スターリン体制下では「社会のこれぐらいの割合は反革命分子とか裏切り者とかだ」という数字があって、その数字に合わせて管轄地区に住む住民を何人か逮捕しないと、逮捕する側が反革命や裏切りを疑われてしまうからだ。数字より多くても少なくてもいけない。数字より多いと無罪の人間を逮捕していることになり、数字より少なければ反革命分子や裏切り者を見逃していることになるからだ(『自由を考える』49〜52ページ)。

 数字があり、その数字に合わせた人間を「反革命」や「裏切り」の罪状で逮捕し、そしてあとからそれを説明するために理論が使われる。というより、理論と言うほどのものはなくてもいい。たとえば、「スターリン同志がソ連共産党なんとかかんとか会議でこう言った」ということを断片的に引用して正当化すればいいのだ(その引用だってもしかするとあとでスターリンの一言で覆されてしまうかも知れないから、それができれば百パーセント安心とは言えないが)。「スターリン主義」とは、スターリンの書いた論文や演説の寄せ集めというより、はるかに、スターリン体制下の官僚たちがスターリンの言ったことを断片的に引用して自分の行動を正当化しようとした膨大な事例の寄せ集めとして成り立っていたものなのだ。


森は毛沢東になりたかった?

 ところで連合赤軍の「総括」の場の主人であった森は毛沢東の「三大規律、八項注意」というのを好んで引用し、それを自分の「共産主義化」理論を正当化するために使おうとしたらしい。これを考えると、森は毛沢東のまねをしたかった――毛沢東になりたかったのではないかと考えてみたくなる。

 スターリン主義の下での暴力が広く大衆に共有されたのが毛沢東の下での文化大革命だった。大学生を主体として、共産党組織自体を批判の標的にし、当時の共産党・政府の指導者たちをつぎつぎに「打倒」していく文化大革命(プロレタリア文化大革命)は1966年に始まった。連合赤軍事件の6年足らず前である。そのリーダーはいったん国家の最高指導者の地位を引退していた毛沢東だった。

 この文化大革命では、学生たちが共産党・国家の指導者を学生たちが引きずり出し、多くの人たちの面前で罵り、殴り、道化師の帽子のような三角帽子をかぶせたり、その人を侮辱する内容のプラカードをぶら下げたり、髪の毛を変なふうに(パンクっぽく)刈ったり、身体的にもきつい上に屈辱的なへんな恰好をさせたりした。

 森という人はこれのまねをしたかったのではないか。

 もちろん、森は山のなかにこもっている「革命」小集団の主人に過ぎず、毛沢東は人口十億人の大国の最高指導者だ。しかし、その毛沢東も、この文化大革命の40年前には山のなかにこもる小集団の中心人物の一人に過ぎなかった。当時の(中国)共産党が弾圧下の小勢力だっただけでなく、毛沢東はそのなかでも異端の小集団のリーダーに過ぎなかった。毛沢東はその時代に「星のように小さな火もやがて野原を焼きつくす」(「星火燎原(りょうげん)」)と唱え、そしてほんとうに中国の全土を支配する「偉大な革命指導者」になってしまった。森も、山に根拠地を持つことで(すくなくともこの思想は毛沢東に倣ったものだと思う)、やがては毛沢東のような革命指導者になり、革命日本に君臨するという夢を抱いていたのかも知れない。

 毛沢東が山にこもったのは、中国古来の伝統的秘密結社に属する山賊団みたいなのと手を結んだからであり(福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』中公新書)、ただ山への情緒的な思い入れで何の計算もなく山に入ったわけではない。しかも、毛沢東がこもった南中国の山地には、「太平天国の乱」(1850〜1864年)のように、その秘密結社系山賊団みたいな勢力が政府に対して決起し、その反乱を持続させた伝統がある。さらに、毛沢東はもらい泣きしてもらうことでリーダーになれたような情けないリーダーではなく、明確な権力意志を持ったリーダーだった。だから森が毛沢東になれるはずがなかった。その土地の伝統も性格も違いすぎるからだ。

 毛沢東は「矛盾論」とか「実践論」とか「持久戦論」とかを書いていて、けっして理論的思考のできないリーダーではなかったようだ。しかし、文化大革命の時期には、毛沢東の言ったことの一部分だけを抜き出して編集した『毛沢東語録』『毛主席語録』が広く読まれ、本場中国の学生たちにも日本の学生たちにも運動の指針として利用された。断片の寄せ集めだから論理的一貫性はあまり強くない。その場の成り行きに合わせてどうとでも利用できた。引っぱり出してきた共産党や国家のエリートに「暗唱してみろ」と強要し、言い間違えると「毛主席に忠実でない証拠だ」と言って責め立てるという道具として使えたのだ。

 だいいち、「毛主席に忠実かどうか」で、共産主義として正しいかどうかを判定するというやり方自体が異常である。理論的にいうなら、「毛主席」が言ったことでもまちがっていれば批判すべきだし、「毛主席」に反対する意見でも正しい意見は擁護しなければならない。毛沢東が「実践論」で言っているのもそういうことだろう。

 しかし実際にはそうはならなかった。「毛主席」に反対すれば修正主義であり、アメリカやソ連の手先ということになってしまう。毛沢東の図像があらゆるところで利用され、また、毛沢東への「忠実さ」を表現する「忠の字踊り」というのもあったそうだ。『毛語録』も、引用されるだけでなく、文化大革命に参加している者が、胸の前に持ったり、高く掲げたりして、毛沢東への「忠実さ」をアピールする「革命的な身体」の装飾具でもあった。毛沢東の身体を表す図像や、身体を使った「踊り」、「革命的な身体」必須の装飾具としての『毛語録』など、文化大革命では「身体」的な要素が理論よりずっと優位な地位にあったのだ。

 指導者の図像の活用は文化大革命より前の共産主義運動から見られる。マルクス、レーニン、スターリンの図像は共産主義国家ではよく使われた(エンゲルスってあんまり見た記憶がないな)。図像の活用はべつに共産主義政権だけで行われたことではないけれど、すぐれて「科学的」で理論的なはずの共産主義で図像が盛んに使われたことには、たてまえと実体の大きな落差が見てとれるように思う。

 この時代、共産主義自体がその場の成り行きに合わせて利用されやすい思想になっていた。それは、共産主義(マルクス‐レーニン主義)の解釈がスターリンや毛沢東によって精緻化され、スターリンや毛沢東にしか論理的正しさが判断できないような論理になり、そのためにスターリンや毛沢東やその取り巻き・手先たちによって恣意的に利用されたからだ。スターリンや毛沢東が理論を権力闘争の手段に使ったこともその理論の性格を決めた。論理的な正しさが理論の正しさを保証するのではなく、だれが判断したか、またはだれに味方して判断したかが理論の正しさを決めた。理論より人間が優位に立ち、その人間への忠誠を表現するために図像や身体運動などの身体的なものが多用されたのだ。

 そういう意味での共産主義の理論的性格の衰退こそが、それが化けた「共産主義化」の理論的めちゃくちゃさを生んだとも言えると思う。だから、この「共産主義化」理論の支離滅裂さは、いきなり、連合赤軍事件の起こった異様な空間で生まれたものではない。

 だとすれば、そのことは、1960年代的なものを代表する事件として連合赤軍事件を描く北田さんの捉えかたには十分な根拠があることを証明しているといえるだろう。1960年代の世界を吹き荒れた「文化大革命」の衝撃を極端なかたちで受けとめて発生したのがこの事件だったというのだから。



―― つづく ――


第1回(前回):「サルにはできない「反省」の歴史」

第3回(次回):「「反省」をやめようという時代」
第4回:「「泣きつつ嗤う」時代への「抵抗としての無反省」」
第5回:「感動とアイロニーの共存をもう少し考える」
第6回(完):「「日本のナショナリズム」について少しだけ」