新たな「抵抗としての無反省」をめざして


北田暁大(あきひろ)

(わら)う日本の「ナショナリズム」

NHKブックス(日本放送出版協会)、2005年



6.「日本のナショナリズム」について少しだけ


最後に「思想としてのナショナリズム」について

 さて、最後に、そのナショナリズムについて少しだけ触れておこう。

 この本はけっしてナショナリズムを思想として問題にすることを否定していない。ただ、その前に、「シニカルなナショナリスト」という、「2ちゃんねる時代」のナショナリストのあり方を問題として採り上げようというのがこの本の姿勢である。そのあり方を検討しないでいきなり「思想としてのナショナリズム」を扱っても、「若い世代の右傾化」のような、事実かも知れないけれども無力な認識しか出てこない。だから、北田さんは「2ちゃんねる時代」の「反省」の仕組みを懸命に解き明かそうとしているのだ。

 その指摘は正しいと思うし、北田さんの方法も成功していると思う。

 だが、「2ちゃんねる時代」の「ナショナリスト」のあり方だけを明らかにして「日本のナショナリズム論はこれで終わりだ」と考えるのであれば、それはそれで別の問題を抱えこむことになると思う。つまり、「2ちゃんねる時代のナショナリズム」は「繋がる」ことだけを目標にしているのだから、その思想内容が世のなかに影響を与えることはないなどと考えてしまうならば、それはそれで問題を見過ごすことになってしまうのではないか(もちろん、最初から思想内容には関心がないから問題にしないという態度はあっていいと思うが)


国際環境の大きな変化

 この本での北田さんの説明では、現在の日本のナショナリズムは「ロマン主義的シニシズム」の「ネタ」として登場したということになっている。たぶんそのとおりだろう。しかし、それが唯一の理由ではない。その背景には、まず、日本を取り巻く国際環境の大きい変化がある。

 1990年代初めごろまでの中国は、「社会主義から脱却しようとする圧倒的に貧しい国」だった。日本は圧倒的な経済力の優位を背景にその発展を見守っていればよかった。中国はこのころから核武装した軍事大国だったし、インドやベトナムに対して力を背景とした外交政策を展開する覇権国家でもあった。けれども、国民に経済的にまあまあ満足できる程度の生活さえ送らせることのできない国にそんなに脅威を感じる必要は感じられなかった。心の底からでも、また、心の底で「中国が経済的に日本に追いつくにはかなり長い時間がかかるだろう――もし追いつけるとしても」と思いながらでも、安心して声援を送っていればよかった。

 しかし、その中国は、もともと軍事大国であったのに加えて、1990年代後半から経済大国としての存在感を強めてきた。中国の指導部もそのことを国際社会での中国の影響力の向上に利用しようとしている。それとともに、中国にとって、近隣の産業・経済先進国としての日本の位置づけは低下してくる。

 同じく、1990年代初めごろまでの韓国は、軍事独裁国家から脱皮を図る国家だった。日本はその「民主化」の動きを見守っていればよかった。しかも、政治体制の民主化が達成できた後には、日本に続いて経済的先進国の仲間入りかと思われていた経済力の脆弱さが露呈する。時代遅れになった財閥経済、過去の手抜き工事がたたって発生した大事故が相次ぎ、ついに1997年からのアジア通貨・経済危機で韓国は大きな経済的打撃を受けた。1990年代後半の韓国はその復活に懸命になっていた。しかし、現在の韓国は、民主化とともにナショナリズムへの動きを強めている。

 北朝鮮は「工作船」を送りこみ、日本人を拉致したことを認めながら、それらの事件の真相を十分に明らかにしないまま早急に問題を解決済みにしようとし、それにクレームをつける日本への非難を強めている。しかも核開発疑惑を指摘され、自ら核兵器を保有していることまで宣言している。

 さらに、1990年前後のアメリカ合衆国は、民主主義とアメリカン・ドリームの国で、「東側」社会主義独裁体制を変革する上で大きな役割を果たし(「じつは果たさなかった」という見解もあるようだが、事実としてどうだったかはここでは問題にしない)、無法に隣国を侵略したイラクの独裁者サッダーム・フセインと戦った。その直前までアメリカはサッダーム・フセインを支援していたとかいうこともここでは問題にしないことにしよう。1980年代末から1990年代初めにかけてのアメリカは、世界の「民主化」をリードする国家と見られていたのだ。

 ところが、そのアメリカは、国際組織の容認をも取得せずに、本国から遠く離れた地域で戦争を行い、また、地球温暖化防止のための国際的合意から離脱するなど、「巨大わがまま国家」の性格を隠そうとしなくなっている。日本は、国内でその「対テロ戦争」の「大義」への共感が高まらないまま、その「巨大わがまま」におつきあいせざるを得ない。

 なお、この本を読むと、北田さんが「ナショナリストはイラク派兵に反対しないはず」という想定を持っているように読める部分がある(215ページ、224〜225ページ)。しかし、伝統的な右翼の論理でも「イラク派兵を強要するアメリカ」や「アメリカ追従の政治家」を非難することは可能である。右翼が1930年代から1940年代前半の「日本を盟主とする東亜の連盟」や「大東亜」共同体の考えかたを継承するのであれば、それがアメリカ批判に向くのは自然である(「東亜」と表現すれば右翼で「東アジア」と表現すれば左翼――というような単純で情緒的なものではない)。現在の「日本のナショナリスト」が「アメリカ追従保守」を批判するからと言って、従来の「右‐左」図式が無力だということは言えないと思う。「右」はアメリカを支持するはずという「右‐左」図式は、冷戦の「米‐ソ」図式を単純に国内版に移したものだが、それで日本の実際の「右‐左」の図式を十分に読み解くことはできないだろう。ただし、現在の「日本のナショナリズム」なり「日本の「ナショナリズム」」を読み解くには「右‐左」図式だけでは不十分だという北田さんの考えそのものには反対ではない。


「進歩」的・「良識」的言論の場当たり主義

 しかも「進歩」的・「良識」的言論(その代表はやっぱり『朝日新聞』だろう)が、その1990年代半ば以降の情勢の展開を先取りできず、それどころか情勢の展開に十分についていくこともできなかった。

 「冷戦」構造が崩れて、世界じゅうで民族と宗教と国家とが複雑に絡まり合い、各地で暴力を使った衝突や紛争が起こる。いったん起こるとなかなか治まらない。世界じゅうで人びとの相互不信が高まる。しかも、情報化が進んだことで、これまでは表に出ることのなかった対立や不信感が世界じゅうに伝わってしまう。

 1980年代までは、世界が平和でないのは「冷戦」構造のせいだと「進歩的」な人びとは考えていた。「冷戦」構造がなくなればすぐに平和な世界ができると単純に考えていたかどうかは知らない。けれども、少なくとも「冷戦」構造がなくなってかえって紛争が多発し、しかもそれが解決できなくなるなどとは考えていなかったはずだ。

 1990年代初頭には、民主化が社会問題や紛争を解決できると考えられていた。ソ連と東欧圏の民主化がその証拠であるように思われた。世界じゅうの国が民主国家になれば、紛争も暴力もなくなるという楽観的な期待があった。

 けれどもその期待はすぐに裏切られた。湾岸戦争で、西側先進国とアラブ諸国の連合軍にこてんぱんにやられたはずのイラクで、非民主的なサッダーム・フセイン政権は生き残った。内戦で政府が崩壊したソマリアは無法状態に陥った。西側諸国から非難を浴び、制裁を受けても、セルビアのミロシェヴィッチ政権は生き延びた。民主化は平和をもたらさない。いや、平和をもたらす以前に、民主主義は暴力の前に無力だということが暴露されてしまった。

 民主主義と平和は、相互不信と対立が紛争に発展する世界では無力である。もちろん、相互不信と対立が紛争を生みやすい世のなかだからこそ民主主義や平和という価値観は貴重だということは言える。しかし、その世界でどうやって民主主義と平和を実現していくのか? 少なくともどうやって民主主義と平和を守ればいいのか? 自分たちがたとえ民主主義や平和を信じていても、その自分たちに敵意を持つ人びとや、民主主義や平和を信じない人びとが自分たちを攻撃してきたとき、その民主主義と平和を信じる自分たちを守れないのでは何の意味もないではないか。

 そういう問いに、「進歩」的・「良識」的な言論は十分に答えることができなかった。暴力に対しては暴力で対抗するしかないという単純明快な論理に対抗する論理を、「進歩」的・「良識」的な人びとは十分に用意することができなかったのだ。

 たとえば「進歩」派・「良識」派は国連中心の解決を主張する。だが、現状では国連は必ずしも十分に平和維持の機能を果たせていない。それ以前に、「進歩」派・「良識」派は日本の国連の平和維持活動への参加に否定的だったではないか。

 「進歩」派・「良識」派は、アメリカ合衆国の独走を強く批判し、大国の協調に期待するという。だが、大国が協調してアメリカの暴走を抑える可能性があると同時に、大国が協調して武力行使に踏み切ることもあり得る。アメリカ単独の武力行使は悪で、大国が協調して武力行使するならいいのだろうか? げんに、1991年の湾岸戦争では、「進歩」的・「良識」的言論は大国協調による武力行使を強く非難していたではないか。

 1990年代から21世紀初頭の世界情勢に対する「進歩」派・「良識」派の言論を追っていくと、場当たり主義的なところが目についてしまう。少なくとも「進歩」派・「良識」派の主張に賛成しない人たちからはそう見えるはずだ。もちろん、「進歩」派・「良識」派のなかでその主張を一貫させようと努力している人たちはいる。だが、それが「進歩」派・「良識」派の全体に共有されるまでにはいたっていない。

 そのような状況も、現在の日本のナショナリズムの抬頭の背景となっているのであって、「2ちゃんねる化する社会」だけをその背景だと考えてしまうとしたら(北田さんはそんなことは言っていないが)、それは正しくないと思う。


「思想としてのナショナリズム」は「戦前回帰」ではない

 この現在の「日本のナショナリズム」(「日本の「ナショナリズム」」ではなく)を論じるのは、この評の目的ではないし、それを全般的に論じるような準備はとてもいまの私にはない。

 ただ、この「日本のナショナリズム」を、「戦前」への回帰をもくろむ一部の老人たちの思想と理解するのはまちがいであると思う。まして「軍国主義の復活」と見なすことには同意できない。

 私は、現在の「日本のナショナリズム」は明らかに「戦後」に基盤を持っていると考えている。

 日本は、戦後ほぼ六十年の長いあいだ、「平和国家」としてともかく戦争の当事者にならずにやってきた。ところが、それだけ「平和国家」をやってきたのに、中国も韓国も北朝鮮もそれをまったく評価せず、「軍国主義」の影を(さらにはその実体を)現在の日本に見出そうとし、しかもそれを外交的に日本への圧力として利用しようとしている。日本は核兵器の被害の悲惨さを世界に訴えてきたのに、近隣の国のなかに核武装を公に宣言した国が出現した(中国は早い時期から核保有国である)。さらには、国際紛争解決の手段としての戦争の放棄を日本に強く求めたはずのアメリカが、いま自分のかかわる国際紛争解決のために日本の軍事力を(いまのところ非軍事的に、だけど)利用しようとしている。

 この「現実」に直面して、「平和主義の日本」は21世紀初頭の国際情勢に裏切られたのだという認識が出てくる。そうなれば、従来の「平和主義の日本」というあり方をやめて、日本のあり方をもういちど考えようという思想が出てくる。これが思想としての現在の「日本のナショナリズム」だというのが私の現時点での考えだ。

 その思想自体が正しいかどうか、それが出てくるのが良いことか悪いことかの判断は別として、そういう思想が出てくること自体は、現在の日本が置かれた国際環境を見れば私はそんなに不自然なことではないと思っている。

 だから現在の「日本のナショナリスト」には自分が「右翼」だと見られることに対する強い違和感がある(ように私は感じる)。自分は国際協調主義者であり、平和主義者であるが、国際環境を顧みないで従来どおりの「国際協調」・「平和主義」を唱えていても、日本が損するばかりで、しかも問題は何も解決しない。だから自分はナショナリスト的立場を採るのだという「戦略」論が、いまの「日本のナショナリスト」には強いように思う(自分が「右翼」とは違うと思っているからこそ、「ウヨ」という罵倒が成立しうるのだ。209ページなど)

 もう一つ、現在の「日本のナショナリズム」が「戦後」思想から引き継いでいるのは「無力な日本」という想定だろう。「戦後」思想ではその「無力さ」を「平和」と置き換えて基本的に肯定していた。しかし現在のナショナリストはその「無力さ」を否定的にとらえている。だから現在の日本のナショナリストは日本が「毅然たる態度」を採ることを強く求める。その一方で、現在の日本が、現状のままで世界に与えている影響力の「強さ」について十分に認識しているかというと、その意識はあまり強くないのではないかと感じる。

 このように、現在の思想としての「日本のナショナリズム」を問題にするのであれば、「戦後」思想を引き継ぎ、また「戦後」日本のありようを「反省」した上で出てきているということをまず認識する必要があるだろうと私は思う。


「平和国家日本」の失敗

 こう考えると、この本の15〜18ページで紹介されている窪塚洋介の発言が「思想としてのナショナリズム」として理解し得ないとは私には思えない。「日本のことを知らない」、「日本人なのに日本の愛しかたがわからない」といういら立ちは、「平和国家日本の失敗」という認識を背景に置けば、十分に理解できると思う。

 「平和国家日本」が「失敗」していなければ、「日本は平和国家だ、日本は平和国家であることを世界に誇るべきだ、もし日本が真に平和国家でないのなら(「左翼」や「進歩派」の多くはそう考えたわけだが)、日本を真の平和国家として確立することこそ日本人の誇るべきつとめなのだ」で「日本のことを知る、日本の愛しかたを知る」という問題は解決した。それで解決しなくなった(と「日本のナショナリスト」たちが認識している)からこそ、「日本のこと」、「日本人としての日本の愛しかた」がわからなくなったのだ。

 「失敗平和国家」の人のアイデンティティー意識では、コリアン・ジャパニーズの人たちのアイデンティティーをめぐる苦悩を理解する点まではとても到達できない――そういう負い目を窪塚洋介という人が感じたとしても、それは不思議でも何でもないと思う(もちろん窪塚がほんとうに何をどう考えたのかは知らないけど)

 もちろん、「知らない」・「わからない」ならば、まず知ろうとし、わかろうとすべきで、「知らない」・「わからない」とことさらにひとに向かって言うべきものではない。

 だが、一方で、この窪塚の発言に思想として共感を感じるひとは多いのではないだろうか。その感覚はなぜ生まれてきたか。その一つの理由は、「戦後」思想が描く「日本」像が「平和国家」という面のみに限定されてきてしまったことがあると思う。


「2ちゃんねる時代」批判という困難に挑む

 何度も繰り返すように、北田さんの『嗤う日本の「ナショナリズム」』は、思想として「日本のナショナリズム」を問題にするものことを否定してはいない。だから、ここに書いた思想としての「日本のナショナリズム」試論は、けっして北田さんの議論の値打ちを貶めるためのものではないことを、もういちどお断りしておきたい。


 北田さんは、「アイロニー」が仕組みとして社会に組みこまれ、それが「ロマン主義的シニシズム」をもたらしていると言う。そして、自らも「ロマン主義的シニシズム」の人であることを認めつつ、それでも北田さんはその「ロマン主義的シニシズム」の社会に対して「抵抗としての無反省」を方法として立ち向かおうとしている。私はそう見ている。

 この見かたが正しいのかどうか、また、それが正しいとして、北田さんはどんな画期的な「抵抗としての無反省」の方法を見出すのだろうか? それは、糸井重里のように日本社会全体を巻きこむようなものになるのだろうか、それともナンシー関のように孤独な闘いになるのだろうか?

 北田さんの「抵抗」がこれからどうなるかに、私は注目していたいと思う。それも、「アイロニー」的に上から見下すのではなく、共感しながら見ていくことができれば嬉しいといま私は思っている。



―― おわり ――


第1回:「サルにはできない「反省」の歴史」
第2回:「連合赤軍事件をめぐる「さらなる総括」 」
第3回:「「反省」をやめようという時代」
第4回:「「泣きつつ嗤う」時代への「抵抗としての無反省」」
第5回(前回):「感動とアイロニーの共存をもう少し考える」