新たな「抵抗としての無反省」をめざして


北田暁大(あきひろ)

(わら)う日本の「ナショナリズム」

NHKブックス(日本放送出版協会)、2005年



5.感動とアイロニーの共存をもう少し考える
―― この本全体への私のコメント ――


この本の時代像は私の実感に近い

 この本に書かれている1980年代以後の時代像は私の実感に近い。

 東浩紀さんに「1995年からは完全に動物化した時代だよ」と言われても、また、ササキバラ・ゴウさんに「1990年代には男性が自分の無力さを意識しすぎて暴力的になっている時代だ」と指摘されても、そうかも知れないなとは思いはしたけど、どうも自分の実感には合わないように感じていた。しかし、北田さんの描く時代像は、私が生きてきたそれぞれの時代の感覚を手際よく表現したものだと感じた。

 北田さんのこの本の眼目は、「2ちゃんねる時代」を、1970年代後半から1980年代初頭の「抵抗としての無反省」時代から連続するものとして説明している点にある。

 「抵抗としての無反省」時代に、主体性を強要することへの「抵抗」として生み出された「アイロニー」という方法が、『ビックリハウス』やPARCOなど西武百貨店資本に支えられつつ日本社会全体に受け入れられていく。そのアイロニーが「抵抗」の意味を失い、アイロニー自体が「反省」(自分や自分たちについてよ〜く考え直すこと)の形式として広がり、日本社会を覆いつくす。日本社会を覆うその「アイロニーの共同体」が、背後でそのアイロニーを支えてきた「ギョーカイ」の枠組すら超えてしまったのが「2ちゃんねる時代」だ。

 それが北田さんの描いた時代像だ。1980年代以後、私がそれぞれの時代に持ちつづけた違和感に、この本は具体的な名まえ(「抵抗としての無責任」とか)とイメージを与えてくれたように思う。ちなみに私は北田さんより5歳ほど歳上だ。


時には昔の話を

 1970年代後半、当時の「若者」たちは、当時の「良識」的な大人たちから「シラケ世代」と呼ばれていた。当時の「若者」たちが政治的関心を急速に失って行ったことへのいら立ちと違和感がその表現には表れていた。しかも、当時の「若者」たちや、その「若者」文化を煽っていた「イデオローグ」たちは、その「シラケ」を非難として受け取らず、半ば自嘲のことばとして、しかし半ば抵抗のことばとして、自分たちを表現する(アイデンティファイする)ために自ら肯定した。

 この「シラケ前世代」と「シラケ世代」の違いの断層を、そのころ中学生や高校生であった私は何度か実感として体験している。

 何かの用事で一つ上の学年の教室に行ったとき、その教室には、政治的な内容のビラとか、「文学」の新しい動向についての記事の切り抜きとかが貼ってあった。私たちの教室にはそんなものはカケラもなかったので、「なんだこれは?」と驚いた記憶がある。私たちよりも上の学年の学園祭での出し物は、展示にしても演劇にしても非常にまじめなもので、「文学」性や社会批判性を前面に出したものだった。しかし私たちの学年でその気風は大きく変わった。私の同級生は、学園祭で、タイトルとはほとんど関係のないパロディーだらけの出し物をやったらしい。企画の責任者はあとで先生に呼び出されて怒られたという話をあとできいた(私は関係者ではなかったので正確なところは知らない)

 私は、そのころ、生徒雑誌の編集をやっていた(ついでに言うと、そのころから私の書く文章には「長すぎる」という苦情が寄せられていた。私はその苦情に対してたんなる「無反省」を貫いて、いまも私の書く文章は長い)

 一学年上が編集した生徒雑誌までは、社会批判が載っていたり、純文学的なまじめな小説が載っていたりした。「まともなものを読んだぞ」という充実感があるかわりに、読むとけっこう疲れる本だった。

 ところが、私たちの学年が中心になって編集した号からは、エンターテインメント小説(のような小説)が増えた。また、かならずしも「保守的」ではないけれど、「良識」的な教育内容とは対立するような、これまでは出なかったような傾向の(上の世代から見ると「稚拙な」ということになるのだろう)評論が寄稿されたりした。それをぜんぶ無批判に載っけたため、ここでも私たちはけっこうクレームやお叱りをいただいた。とくに、私の身近な友人から寄せられた「分厚いわりに読んでもぜんぜん読んだ気がしない」という批判が私にはこたえたものだ。

 まあ、編集者のマナーが悪くて印刷会社に迷惑をかけまくったことは認めるけどね……ごめんなさい! > 印刷所の人。でもおかげさまでいまも同人誌を作るたびに締切に間に合わなくなって印刷会社さんに泣きつく日々を過ごしています……ってダメじゃん(ちなみにこれは私が編集を担当したオフセ本の話で、私も編集に参加しているWWFさんは締切数日前にはちゃんと入稿しているという優等生サークルさんです)


「抵抗としての無反省」と「良識的無反省」のすれ違い

 ともかく、私より少し上の学年と較べて、私たちは、政治意識も社会批評の意識も「文学性」も、信じられないくらい低い世代と見られてきたのだ。同じような「世代の断絶」は、学校帰りにアニメイトに寄り道できたような都会では(まだ言ってる……)もっと早い時期に訪れたのではないだろうか。

 この「シラケ」の一部に北田さんのいう「抵抗としての無反省」が含まれていたのだろう――「シラケ」=「抵抗としての無反省」とは言えないとしても。その「抵抗として」の部分を理解できない歳上の世代が、ぜんぶ合わせて「ただの無反省」と見なして非難したことばが「シラケ」だったのだろうと思う。

 だが、「抵抗としての無反省」の人たちも「無反省」なら、当時の「良識」的文化だって「無反省」じゃないか。この本を読むとそう思えてくる。それが北田さんの意図ではないとしてもだ。

 連合赤軍事件のような展開を受けとめて「抵抗として無反省」に走った人たちに対して、「良識」的文化の人たちは、「政治意識を持て」とか「社会に対して批判意識を持て」と叱咤しつづけた。しかし自分たちの「良識」が凄惨な連合赤軍事件へとつながっていったことについてまるで「無反省」だったように見える。まったく無関係な暴力事件として自分たちの世界から切り離してしまった。でなければ、自分も暴力事件の被害者だとしての立場だけを強調した(大学の研究者はこの時代には学生運動の攻撃対象になったから)。そのどちらかの態度をとったのではないか。もちろん例外的に自分の問題として受けとめたひとはいただろうけれど。

 「抵抗としての無反省」がまだ少し前までの自分たちの思想の暗黒面について自覚的だったのに対して、「良識的無反省」はまるでその自覚がなかった。当然、「抵抗としての無反省」と「良識的無反省」とのあいだには対話は成り立たなかった。この本の事例で言うと、それを象徴するのが稲葉‐津村論争ということになるのだろう。

 「抵抗としての無反省」は、「アイロニー」で「一つ上のレベル」に立つことによって「良識的無反省」との対話を回避し、「良識的無反省」もその「抵抗としての無反省」を説得するために強いて対話しようとはしなかった。「良識的無反省」の側は「抵抗としての無反省」を「下のレベル」に押しこむこともせず、「相手にする値打ちもないもの」と「なかったこと」にしてしまった。だから、1970年代の末から1980年代初頭には「良識」と「シラケ」のあいだに対話の成り立たないまま存在した。たぶんそうなんだろうなと思う。


北田さん、ありがとう!

 私自身は、「抵抗としての無反省」時代のなかで、学校の先生たちに教えられたとおりに「良識」的になろうと努めていた。努めてはいたけれど、とても学校の先生たちの求めるような「良識」人にはなれなかった。とくに「純文学」らしい文学はずっと読まずに来た。いまもほとんど読まない。でも、そうやって無理をして「良識」的になろうとたおかげでいまの私がある。それで損をしたと思うこともあるが、得をしていることも確かにたくさんある。だから当時の「良識」的な人を責めることはできない。

 ともかく、強いて「良識」的であろうとした私は、糸井重里的な広告から、当時の「面白くなければテレビじゃない」というフジテレビの番組、漫才ブームといった「抵抗としての無反省」や「無反省」にずっと違和感を感じてきた。違和感というより、「これをおもしろがったら終わりなんだ」という意識というか意地がずっとあったように思う。

 それは、たぶん「良識」的であろうとした者が、「アイロニー」の図式で上から見下されることに対して感じていた抵抗感だったのだろう。私が感じてきたその感じを「良識」対「アイロニー」という図式でこの北田さんの本はすっきり整理してくれた。そういう意味で、私にとってのこの本は「癒し」の本であった。

 北田さん、ありがとう!


疑問に思う点

 だが、この本の図式に私は疑問がないわけではない。

 その一つは、1960年代の連合赤軍、1970年代の糸井重里と津村(たかし)、1980年代の田中康夫と川崎徹という「代表的人物」の選定と、それを結びつける論理についてだ。

 連合赤軍は1960年代から1970年代の初めの日本社会では非常に特異な集団に過ぎなかった。その連合赤軍をほんとうにこの時代の日本社会を代表する存在と見ることができるのか? 連合赤軍の「裾野(すその)」として「70年安保闘争の人びと」まで含めても、この時代のある世代集団の代表とは言えても、ほんとうにこの時代を代表する存在と言えるだろうか? また、糸井重里は1970年代後半から1980年代初頭の日本の大衆社会に広く受け入れられていた。こちらはその時代の「代表的人物」と見てもおかしくない。けれども、その糸井が「もと過激派」だったからといって、連合赤軍とつなげて論じることが妥当なのかどうか?

 時代をだれか人物に代表させて語るばあい、その人物にだれを選ぶかによって、時代像には非常に大きな違いが出てしまう。これは、人物だけでなく、文学作品とかアニメとかゲームとかで語るばあいでも同じだ。

 もちろん、だからといって時代を「代表的人物」で語るという方法が意味がないとは言わない。ただ、自分の議論の進めかたが先にあって、それに都合のいい人物を選んでいるのではないことをいちおうは示す必要がある。たぶん北田さんは根拠があって「代表的人物」を選定しているのだろう。でもそれが十分にわかるように説明されているかというと、それが十分でないばあいもあるように感じる。

 糸井重里や田中康夫などの主要登場人物は、作家の田中康夫と、CM作家の川崎徹と、歌人の俵万智を「ベタ」でつづける例のように違和感を感じるところもあるけれど、それもそれほど強い違和感ではなかった。しかし、時代を解釈するための枠組に援用されている浅田彰・柄谷行人などの知識人(ここに名を挙げた二人については登場人物でもあるわけだが)については、なぜその人の議論を援用するのかの説明が少なく、「なぜこのひとが引用されるのだろう?」と感じることも多かったように思う。

 ただこのことについてはあまり深く追及しても意味がないと思う。私自身は、いま書いたように、自分の実感からいうと「連合赤軍‐糸井・津村‐田中・川崎‐電車男・窪塚洋介」という「系譜」での説明は成功を収めていると思う。もしこの「系譜」に納得がいかないのであれば、自分で納得のいく系譜を見つけ出して自分の「20世紀後半〜21世紀初頭」論を組み立ててみればよいのではないかと思う。北田さんと違う素材も、また北田さんと違う組み立てかたも、いくらでもあるのではないだろうか。


「感動」と「アイロニー」の共存は異常か?

 それよりも強く感じる疑問は、「感動」と「アイロニー」が共存するというのがそんなに異常な事態だろうかという疑問である。私の実感は違う。「感動」と「アイロニー」はむしろ同時に起こるのが普通ではないだろうか。

 つまり、アニメの最終回とかでいやが上にも感動する場面に出会ったとき、むしろ「この回の作画監督ってだれだっけ?」とか「こんな場面は昔の○○という作品にあった、したがってこれはパクリだ」とかいうよけいなことを考えてしまうのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。そんなことをやっているうちにだんだん感動できなくなってくるので……困ったものなんだけど。

 こういう例は、アニメや音楽に接したときだけではなく、日々の生活のなかでもいろいろ経験するのではないだろうか。特別に嬉しいことや悲しいことがあったときのことは、その場の情景までけっこう細かく覚えている。日付は忘れても、それどころか何年のできごととか何歳のときのこととかいうことまで忘れても、あの日は雨が降っていたとか、そのことを告げられたときの部屋の壁紙の模様はどうだったとか、映像や音声の情報はいっしょに記憶に残っていたりする。

 感動すると、自分に感動を与えてくれているもの以外のものごとにまでかえって気がつくものだ(というのが私の実感だ)

 それは、一つには、感動して心の活動が活発になることで、自分に感動を与えてくれているもの以外の情報まで拾ってしまうからだろうと思う。

 また、感動すると、その感動を与えてくれているものによって自分の存在が奪い去られそうになる。これまで長い時間をかけてできあがった自分が、外からいきなり自分のなかに入ってきた物語なり風景なり音楽なり映像なりに乗っ取られそうになるのだ。それに対する自分の防衛反応として、その「感動を与えてくれたもの」以外にわざと関心を向けようとするのだろう。

 そして、その「感動」が生み出す「よけいなこと」への関心一つ、または、「感動を与えてくれるもの」からの自分の防衛反応が、「感動している自分」を「下のレベル」に置いたまま、「上のレベル」に「自分はなぜ感動しているかをなんとか説明しようとする自分」を生み出すという方法ではないだろうか。本気で感動しているからこそ、なぜ自分が本気で感動しているかを懸命に説明しようとするのだ。これは、「自分を一つ上のレベルに置いて相手を見下す」という、北田さんの言う「アイロニー」の方法へとつながる。

 だから「感動させられていることを知りつつ、本気で感動する」ということ自体は、私はそんなに奇妙な現象ではないと思うのだ。


「逃げ」としての「アイロニー」

 「アイロニー」には別の働きもある。他の人に自分を説明するときの「逃げ」としての働きだ。

 自分が何かに感動したとき、下手に「感動したぁ!」とかすなおに伝えると、「そう?」とかいう冷たい反応を返されて自分が傷ついてしまうかも知れない。「あんなの○○のまねだよ」とか「あんなのに感動するなんて幼稚だね」とか言い返され、自分を感動させてくれた作品(とか風景とか)と「感動している自分」の両方を否定されてしまうかも知れない。いつも「アイロニー」の素材を探している者にとって、こういう「ベタな感動」(「一つ上のレベル」を持たない感動)ほどいい「カモ」はない。

 いや、相手も同じものに心の底から感動しているかも知れないのだ。だが、その相手は、自分では、すなおに感動したことを認めずに「自分がなぜ感動したか」を説明しようと懸命になっているかも知れない。そんな相手は、他のひとに「自分も感動した」と伝えるのをためらう。自分は感動していないように装おうとする。そのときに「感動した」とすなおに伝えても、冷たくあしらわれてしまうだろう。

 そんなばあいに備えて、自分のほうであらかじめ「感動した自分」を「一つ上のレベル」に立って相対化し、相手に否定されたばあいに備えておく。「あれはたしかに○○という作品のまねなんだけど、それでも感動した」というふうに、相手からの攻撃を先取りし、相手を牽制する。「あれは○○という作品のまねだけど、それでも感動した。あんたは感動できなかったの?」(それは、つまり「○○という作品のまねだというぐらいで感動できないほど、あんたの感受性は鈍いわけ?」ということだ)と、相手より「一つ上のレベル」に立って反撃を加えることもできる。

 感動したときには感覚の鋭さが高まり、ほかのものごとにも注意が行き、意識しないでも多くの情報を集めてしまう。それが「アイロニー」の素材になる。あまりに強い感動でそれまでの自分のあり方が崩れるのを防ぐために、「一つ上のレベル」から「感動している自分」を見下ろそうと努めることから、「アイロニー」が発生する。また、感動を人に伝えようとするときに、こんどは「感動している自分」を守るために、また「アイロニー」は発生する。それが「感動」から「アイロニー」が生まれる道筋だ。それはいつの時代でも存在する道筋だと思う。

 だから、私は、「感動」と「アイロニー」が共存している事態を、1990年代に起こった特別なできごととは考えない。自分が感動していることを自分でバカにしつつ、それでも涙が止まらないということは、私はそんなに特異なこととは思わない。いつでも、どんな条件の下でも起こることだ。


シニシズム時代とは何と民主的な時代だろう!

 でも、私は、「人類始まって以来ずっと2ちゃんねる時代だった」などというむちゃくちゃな議論をする気はない。

 「アイロニー」の方法が社会の仕組みとして組みこまれ、その意図がなくても「アイロニー」の方法を採ることがあたりまえとされるような「シニシズム」の社会を前提とすれば、「2ちゃんねる時代」になって「感動とアイロニーの共存(それも極端な共存)」が社会の表面に出てきたことはわりとかんたんに説明できる。

 「シニシズム」の下では、「こんなものに私は感動なんかしない」と発言すること自体が、本人がどんなにほんとうに感動していなくても「あ、感動してるんですね」と解釈されてしまう。「抵抗としての無反省」のところで糸井重里の広告に絡めて書いたように、どうもかわいくない人の横に「かわいい人」というキャッチコピーがつけてあるのに反応して「こんなのかわいくないよ」と言ったとしたら、それもコピーライターの罠に落ちたことを意味する。それと同じである。

 でも、それは、「コピーライター」が特権的な地位を持って、すべての商品を「横並び」にしてしまった「抵抗としての無反省」時代のことだ。そんな時代は終わったのではないだろうか?

 たしかに「コピーライターが特権を持ち、その下ですべての商品は横並び」という時代は終わった。「シニシズム」の時代はだれもが「一つ上のレベル」を目指す。しかし、それは、みんなが「一つ上のレベル」を目指すという点で「横並び」の仕組みができるということだ。また、それは、ほかのだれかが「一つ上」に到達していれば、自分の言ったことが「下のレベル」(「ベタ」のレベル)の位置に置かれてしまうという危険をつねに抱えているということでもある。

 「シニシズム」の時代とは、みんなが「コピーライター」のように「一つ上のレベル」に立とうとし、同時にみんなが「コピーライターの下の商品」のように「下のレベル」に横並びにされてしまう危険から逃れられない時代なのだ。なんと民主的な時代であることか! 民主主義とは「みんなが支配者であり、みんながみんなの支配を受ける」仕組みなのだから。


「感動+アイロニー」か沈黙かの二者択一

 北田さんの言っている「2ちゃんねる時代」の「繋がりの社会性の上昇」はそこから起こったのではないか。

 自分の発言に接続してくれる(レスやコメントをつけてくれる、トラックバックを打ってくれる)者がいなかったということは、自分の発言に感動してくれる者がいなかったと解釈される。

 逆に、嘲りであっても罵倒であっても、自分の発言に接続してくれる者がいれば、それは自分の発言に感動したものとして解釈される。

 それは自分の発言が社会のなかで影響力を持ったことの(あかし)になる。その「影響力」の大きさは異なっても、「発言が社会で影響力を持つ」という点で、その発言者はたとえば『朝日新聞』と同列に立つことができるのだ。また、じっさい、ネットの掲示板やウェブログでは、『朝日新聞』の一面トップの記事よりも多くのコメントを集める発言はいくらでも存在しうるのではないだろうか。

 他方で、その「シニシズム」の下では、何かについて発言することが、それに「感動した」ということの表明になってしまう。だから「感動しない」ことの表明の方法は無視すること以外にない。

 しかも、無視することは積極的に「感動しない」ことの表明にはならない。沈黙していたのではネット上ではなぜ沈黙しているのかが伝わらないからだ。ネット上では、ただ何も書かないだけでは、だれかがその対象を無視していることすら伝わらない。一つの発言にたとえば一日で1000件のコメントが集まった(またはトラックバックが打たれた)としても、ネットにアクセスしている全体の人数と較べれば、コメントをつけたのは絶対的に少数で、コメントをつけない者が絶対多数なのだ。だから、「コメントをつけない」という対応では、単にコメントをつけない名もない(名を知ろうとも思ってもらえない)絶対的多数にただ埋没するだけだ。

 名も知られないままに絶対的多数に埋没しないためには、非難や不快感の表明であっても、ともかく「感動」したことを表現するしかない。しかも、ただ(「ベタ」な)「感動」を表明しただけでは、他の人に「一つ上のレベル」から見下され(アイロニーの対象にされ、「ネタ」にされ)て終わってしまう可能性が大きい。その予防策として、「感動」の表明に加えて、「自分は感動している自分をも見下せる一つ上のレベルにいるんですよ」ということを表明しておく必要がある。

 「2ちゃんねる時代」には、「感動+アイロニー」を表明するか、名も知られない絶対多数に埋没するかのどちらかの対応しかない。もちろん、「ベタ」な感動を表明して嘲笑われて傷ついてももかまわないのならそれでもいいのだが、そういう人は、名も知られない絶対多数に戻っていくか、自分もアイロニー的な態度を身につけるかのどちらかに向かうことが多いだろう。

 だから、「2ちゃんねる時代」には、ネット上のウェブログや掲示板などをすべて含めた「メディア」に表れる部分を見るかぎり、そこには「感動+アイロニー」の共存がごく普通に見出されることになる。

 しかも、ある一つのものごとに多数のコメントがつくようなばあいには、ただの「感動+アイロニー」を目指すだけではやっぱり埋没してしまう。そこで目立つためには、思いきり気の利いたアイロニーを示すか、それとも多くのアイロニーを誘い出すほどの感動モノを書くかしかない。だから、「2ちゃんねる時代」には、アイロニーのユニークな技法が考案されると同時に、感動を誘い出す技法もまた磨かれる。強烈で独創的な皮肉と感動物語が併存する「2ちゃんねる文化」はそうやって成り立ったものなのだろう。


技術的要素からの説明

 では、なぜ「2ちゃんねる時代」より前はそうではなかったのか?

 それは、やっぱりインターネットが普及しておらず、多くの人がインターネットにアクセスしなかったからだろう(実際には、インターネット時代の前に、大型パソコン通信上で、顔を知らない者どうしのコミュニケーションが行われていた中間的な時期があった)

 インターネットが普及していなかった時代でも、テレビ番組や文学には「アイロニー」的なものが溢れはじめていたと北田さんは言う。これはそのとおりだろう。しかし、それはメディアに載るものに限った話で、大衆的メディアに接する以外の生活の場面では必ずしも「アイロニー」的な態度が貫かれたとは言えない。テレビを「アイロニー」的に楽しんでいる人も、その同じテレビ番組を見ている家族や友だちに対していつも「アイロニー」的に接していたら愛想をつかされただろう。そのかわり、感動したことを表現するのにさしてその表現の技法を身につける必要もなかった。テレビを見て目を潤ませていれば、その場にいる人たちには感動していることは伝わるし、いっしょに見ていない相手でも、ふだんからよく知っている相手であれば「よかったねー、泣いちゃった」程度のことばで伝えることができた。この時期には、無名のまま絶対多数に埋没するか、「感動+アイロニー」を表明するかの二者択一にはならない部分がまだ大きかった。

 インターネットは双方向性のメディアである。いや、「双方向」というより、どっちに向いて情報を出すこともできれば、逆にどこから情報が飛んでくるかわからない、極端な「多方向」性のメディアだ。いま自分が受け取った情報がどこのどんな人のものかを確定するのは、不可能ではないにしても非常な労力が必要だし、受け取る情報のすべてについてそんなことはやっていられない。逆に、相手にはどこのどんな人が送った情報かを探知されないで情報を送りつけることができる。その超多方向性と匿名性が現在のインターネット上のコミュニケーションの特徴だ(インターネットがほんとうに「匿名」かどうかは、東浩紀・大澤真幸『自由を考える』の評で採り上げる予定である。ここでは「インターネットは匿名」ということにして先へ進もう)。「多方向」であり「匿名」であり、ことば(アスキーアートとかそんなに容量の大きくない画像や映像――フラッシュとか――も含む)によってのみつながっていることが「2ちゃんねる文化」にとっては重要だ。

 そこでは、ある「アイロニー」を送り出す人間からは、「そのアイロニーの送り手」という以外のどんな属性も――本名もどこで何をやっているどんな人かも――伝えられない。その人間を特定して「アイロニー」を仕返すこともできない。そうなると、アイロニーで一方的に傷つかないためには、全員が「アイロニー」の送り手になるのがいちばんいい解決法だろう。そこで、インターネット上では「アイロニー」が共通の表現法になる。

 超多方向性の匿名のメディアが人びとに普及し、しかも日々の生活のどんな時間にでもそのメディアにアクセスできるようになったことが、人間がもともと持っていた「感動+アイロニー」の表現法を表面に押し出すことになった。「2ちゃんねる時代」の到来にはその技術的要素がやはり決定的だったと思う。

 なお、インターネットが存在するだけでは多くの人がインターネットに接続するとは限らない。インターネットへの接続が容易であり、しかも安価であることが、インターネットへの接続を飛躍的に進めた。常時接続サービスが普及していなければ、ちょっとしたアイロニーを書きこむためにインターネットに電話代を払って接続するのはやっぱりためらわれただろうし、掲示板やウェブログに書きこむ人数はある程度は限定されただろう。また、2000年ごろまでのパソコンは、ネットに接続するまでにかなりややこしい設定をクリアしなければならなかったし、携帯電話(PHSも含む)のネット接続能力も限定されたものだった。接続に手間がかからなくなり、さらに無線LANが普及したことが「2ちゃんねる時代」の文化をさらに普及させたという面も大きいと思う。


なぜ「ナショナリズム」なのか?

 ナショナリズムがその「2ちゃんねる時代」に共有される(怒り、抗議、糾弾なども含む広い意味での)「感動」の大きなネタになるのも、ある程度は技術的な事情から説明ができる。

 インターネットでは世界じゅうにつながることができる。しかし、日本にいながら英語を使って世界じゅうの人びととコミュニケーションをとろうという人は、現在の日本のインターネットユーザーの全体と較べれば非常に少数だろう。多くの人が日本語を使ってネット上でコミュニケーションをとろうとする。

 ところで、日本語は、現在の日本の領域で通用し、また海外在住であっても日本人のあいだで通用する。他方で、他の国では「母国語」としては通用しない。海外在住の日本人以外では、日本語をよく学んだ人以外は日本語のサイトはあまり見ないだろうし、見てもわからないだろう(もちろんサイトの中味は見ないでサイバー攻撃をかけるとかいうことはあり得るわけだけど)。国のなかに二つの言語が存在するとか、一つの言語が二つ以上の国で使われているとかいうことがないのだ。

 そうなると「日本語でインターネットに接続するユーザー」の範囲は、ほぼ日本人のコミュニティー全体に重なってくる(国籍上の日本人とは限らず、外国籍でも日本語を自在に使いこなす人も含むが)。その範囲で「感動」を共有できるネタとして、日本の国に関係することが浮上してくるのは自然だと私は思う。

 だから、国のなかで複数の言語が使われている国や、他の国と同じ言語を使っている国で、もし「ロマン主義的シニシズム」が登場したとしても、それが「嗤う「ナショナリズム」」へと展開するかどうかはよくわからない。



―― つづく ――


第1回:「サルにはできない「反省」の歴史」
第2回:「連合赤軍事件をめぐる「さらなる総括」 」
第3回:「「反省」をやめようという時代」
第4回(前回):「「泣きつつ嗤う」時代への「抵抗としての無反省」」

第6回(次回、完):「「日本のナショナリズム」について少しだけ」