『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界

清瀬 六朗


『氷のスフィンクス』

― ヴェルヌの小説を読む  6. ―

 【ものがたり】 博物学研究家ジョーリングは、南半球のケルゲレン群島でスクーナー船ハルブレイン号に船客として乗りこむ。ハルブレイン号のレン・ガイ船長がジョーリングを乗せたのは、ジョーリングがアメリカ合衆国コネチカット出身であり、ナンタケット島に行ったことがあるからだという。ナンタケット島は、エドガー・アラン・ポーの小説『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の主人公ピムの出身地とされる島だった。船長はジョーリングにピムの冒険は現実のできごとだと言い張る。ジョーリングは一笑に付す。しかし、航海の途中、ハルブレイン号が遭遇した流氷には、まさしく『ピムの物語』に登場するジェイン号の航海士パターソンの遺体が乗っていた。物語は事実だったのだ! そして、レン・ガイ船長はピムを乗せたスクーナー船ジェイン号の船長ウィリアム・ガイの弟だった。

 『ピムの物語』とパターソンが遺した手記を頼りにハルブレイン号は南極海へと乗り出す。流氷の海を抜けると、『ピムの物語』に記されたとおり、氷のない海が広がっていた。だが、ジェイン号が遭難したとされるツァラール島まで行ってみると、島のようすは一変していた。ジョーリングは火山性地震のもたらした大災害によって島が壊滅し、住民も全滅したと推理した。もはや兄ウィリアムの生存は絶望と見たレン・ガイ船長は北へ引き返そうとする。だが、そこに現れたのは、ピムの同行者だったインディアン(アメリカ先住民)との混血の男ダーク・ピーターズだった。ダーク・ピーターズの説得でハルブレイン号はウィリアム・ガイとピムの手がかりを求めてさらに南へと進む。事故でハルブレイン号を失った後も、一行は、霧に閉ざされた南極点のすぐ近くを通り過ぎ、やがてピムが書き残した白い雪のようなものの舞う海域へと突入していく。そこには巨大なスフィンクスのような姿が浮かび上がって見えた。




 エドガー・アラン・ポーは探偵小説・怪奇小説・SFなどのジャンルを一人で切り開いたアメリカ合衆国の作家である。

 現在の探偵小説のフォーマットを作り出したのもポーだった。天才的だが非常に風変わりな探偵、その相手役を務める平凡な推理力しか持たない聞き手、素材を示して読者を犯人当てにいざなう話の進めかたなどだ(ただしポーの小説には現在の謎解きの基準からいうとフェアでない部分がある)。そのスタイルは19世紀の探偵小説に大きな影響を与えている。日本の探偵小説家・探偵小説研究家の江戸川乱歩の筆名もこのエドガー・アラン・ポーから取ったものだ。

 ヴェルヌもポーの影響は強く受けている。ポーは、ヴェルヌに先んじて、気球旅行や極地探険、月世界旅行の物語や海洋奇譚(きたん)を書いた。また、冒険物語と科学的な知識を交互に織り交ぜながら書き進めていくというヴェルヌの語り口もポーの影響を受けたものだろう。ヴェルヌは「驚異の旅」シリーズを書きはじめた直後の1864年に「ポー研究」という評論も発表しているらしい。とくに、『ハテラス船長の冒険』(清瀬による評は→こちらには、極地探検物語という題材や、乗組員間の対立、極地近くに「氷のない海」が存在して独特の生物が存在するという設定など、この『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』の影響が強く見える。

 ヴェルヌがそのポーの思い出と「多くのアメリカの友人」に捧げたのがこの『氷のスフィンクス』だ。ヴェルヌ晩年の作品である。

 なお、ヴェルヌとポーの関係については、パシフィカ版『氷のスフィンクス』下巻に江口清氏が詳しく書いておられる。江口氏は、『地球の中心への旅』(『地底旅行』)、『海底二万リュー(里)』、『月世界へ行く』、『八十日間世界一周』などの訳者でもあり、また、パシフィカの「海と空の大ロマン」シリーズの翻訳にも参加しておられる。


 『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』は1837〜38年に発表された。「短編作家」と言われるポーにしては例外的に長い作品で、翻訳(『ポオ全集』東京創元社、1969年)で200ページ以上もある。

 アメリカ東海岸のナンタケット島出身のピムが、密航を企てて友人の父の船にひそかに乗りこむ。友人とともに船上の反乱事件に巻きこまれ、漂流する。ピムを密航にさそった友人を含めたほとんどの乗組員が反乱事件や仲間のうちわもめ、漂流中のさまざまなできごとで死ぬ。わずかにピムとダーク・ピーターズの二人だけが生き残ってウィリアム・ガイ船長のジェイン号に救助される。ケルゲレン群島のクリスマス・ハーバーを出港したジェイン号は、ウィリアム・ガイ船長が躊躇したにもかかわらず、ピムの強い勧めで南極へと乗り出して行く。

 流氷群を越えた向こうには氷のない海が広がっていた。そこには見たこともない動物や植物、鉱物が存在した。また、氷のない南極の島には「白いもの」を極度に怖がる原住民が住んでいた。ウィリアム・ガイ船長の一行はその狡智(こうち)()けた原住民の罠にはまって全滅し、ふたたびピムとダーク・ピーターズだけが生き残る。二人を乗せたカヌーは、天から流れ落ちる白い水蒸気(湯気?)の滝のなかへと進んでいく。その滝の裂け目からは巨大な「屍衣を着た人間」のような姿が見えていて、ピムとダーク・ピーターズはそこへ引き寄せられていく。物語はそこで終わる。この先に何が起こったかは語られていない。いわば未完のまま終わるのだ。

 先回りして言うと、この未完のまま終わった作品を完結させたのが『氷のスフィンクス』である。


 ところで、『ピム』は、いかにも「ポストモダン」の人たちが喜びそうな複雑な構造をしている。

 この物語は、最初のほうはピムの手記にもとづいて「ポー氏」がピムの語りとして書き、途中からピムが自分で書いていることになっている。ところが、南極での冒険物語がクライマックスに達したところで、物語はあと2〜3章を残すのみだとしながら物語はとつぜん中断する。そこで「ピム氏」とも「ポー氏」とも違う語り手が登場し、中断の理由をピムの「痛ましい死」・「自殺事件」だと説明して、物語に少しだけ解説をつけて終わるのである(なんか多重人格の症状の説明みたいだなぁ)

 つまり、『ピム』には、語り手として、自らの体験を語るピム、その体験をもとに小説を書く「ポー氏」、さらにその二人とは別人でピムと「ポー氏」の物語を解釈する「解説者」の三人がいるのだ。しかも、序文をピムが書いているという形式をとっているので、最後に登場してピムの死を告げる「解説者」が序文の筆者のピム本人である可能性もある。つまり、ピム自身が自分を死んだことにして「ポー氏」の語りを終わらせ、物語を封印してしまったのかも知れないのだ。

 話を「ポストモダン」方面にもっていけば、ポーは「作者が作者であること」の根拠のなさを利用して物語を遊んでいるのだということになるのだろう。だが、そういう議論はここではやめておこう。

 ともかく、この物語では、ピムも「ポー氏」も、同じように物語の語り手であり、同時に作中の登場人物なのだ。ヴェルヌは、それを利用して、ピムとその物語の登場人物は実在の人物であるという設定でこの続編を書いたのである。ピムもポーも、ウィリアム・ガイ船長もダーク・ピーターズも同じ世界に住んでいて、『氷のスフィンクス』の物語はその同じ世界で展開する。

 しかも、ヴェルヌは、ピムは実際には帰還しておらず、「ポー氏」にピムの手記をもたらしたのは同行者のダーク・ピーターズであるとしている。ポーの『ピム』が現実のできごとを書いた物語(現在風にいえば「ノンフィクション」)だとしながら、ヴェルヌはまさにそれゆえにそこには虚偽や不完全な情報が混じりこんでいるということにしたのだ。そして、その情報提供者ダーク・ピーターズは『氷のスフィンクス』の後半に登場し、物語を引っぱる役割を果たす。

 ポーの『ピム』が発表されたとき(1837〜38年)にはヴェルヌは10歳前後だった。次の年(1839年)に少年ヴェルヌは家出して遠洋航海の船に乗るという密航事件を起こしている――『ピム』でピムがやるように。でもヴェルヌは父親に追いつかれて連れ戻される。ポーが『ピム』を発表したのは29歳のときであり、そのほぼ10年後にポーは亡くなっている。ヴェルヌが「驚異の旅」シリーズの第一作『気球に乗って五週間』を出版して文壇の注目を集めたのは1862年で34歳のときで、ポーが『ピム』を書いたときより年齢が上だった(ヴェルヌもそれ以前から小説・戯曲は書いていたけれど)。34歳という年齢はポーにとってはすでに晩年である。ヴェルヌは自らの晩年になって、29歳のポーの作品の続編を書いたことになる。


 続編ではあっても、物語はポーの『ピム』とはいろいろな点で違っている。

 『ピム』では、南極の流氷群の向こうは全くの「異界」で、動物や植物から鉱物までぜんぜん違ったものが存在していることになっている。たとえば、川を流れている水の性質まで違っていて、流れている水をナイフで切り分けられるというような描写がある。また、そこには、純朴で友好的に見えてじつは抜け目がなく残酷な原住民が住んでいるとする。その原住民は白いものを極端に怖がり、実際、その住んでいる環境には白いものは一つも存在しないという(南極なのに!)

 『氷のスフィンクス』では、こういうものの存在は否定していないが、火山活動に伴う大地震――いま風にいえば地殻の大変動で珍しい動植物も原住民もすべて失われてしまったということになっている。だからヴェルヌ自身はほとんどこの「異界」的な存在を描いていない。『氷のスフィンクス』の南極世界に出てくるのは、植生も動物もほとんどが実在の世界のものである。ピムが南極点附近で見た異様な情景は幻として解釈される。そのかわり、同じ南極点に20年後にノーチラス号のネモ船長がやってくるという註釈がついている。なお、『ピム』でも『氷のスフィンクス』でも(また『海底二万里』でも)、南極大陸の存在は否定されていないが、南極には海(広い海峡)があるという設定で話が進んでいる。

 『氷のスフィンクス』では原住民が作った小舟には鉄がいっさい使われていないことになっている。ヴェルヌの書いた実録物語(ノンフィクション)『ラ・ペルーズの大航海』(清瀬による評は→こちらには、18世紀のフランスの航海者ラ・ペルーズが太平洋地方で鉄を知らない原住民と何度も出会うようすが描かれている。たぶんそのことが念頭にあったのだろう。

 『ピム』に出てくるダーク・ピーターズはいいかげんなところのある陽気な人物だが、『氷のスフィンクス』では、まじめ一点張りでひたむきで、そのかわり性格の暗い取っつきにくい人物として登場する。また、『ピム』ではピムの向こう見ずな冒険精神が肯定的に描かれ、反面、ウィリアム・ガイ船長は優柔不断で臆病な性格だと描かれている。

 もっとも、『ピム』の登場人物の性格の描きかたには、だれについてもどことなく病的な両面性があり、どの登場人物の性格ももうひとつはっきりつかめない(わざとやったことなのか、執筆時のポーの心理状態が反映しているのかは私にはわからない)。主人公で語り手のピムにしてもそうで、陽気で自信に満ちて一面では用心深いという冒険者らしい前向きな性格をしているくせに、最後にはわけのわからない自殺事件で死んでしまうのだ。

 『氷のスフィンクス』の説明では、ダーク・ピーターズの性格が大きく変わったのは、『ピム』に出てくる人肉食事件のもたらした(いま風にいえば)トラウマだということだ。この人肉食事件の経緯の描写も、ヴェルヌはポーの『ピム』を引用してほぼ忠実に進めながら、重要な部分をあいまいにしている。『ピム』では、人肉食事件の被害者は自分の運命を知ってから殺されたことになっているのだが、その点をヴェルヌはおそらくわざとぼかしているのだ。

 『ピム』のウィリアム・ガイ船長は優柔不断な人物だし、ともかくあまり印象の深い役ではない。しかし『氷のスフィンクス』のレン・ガイ船長にとっては、ウィリアム・ガイ船長がだれよりたいせつな身内である。レン・ガイ船長にとって、ピムは兄を無謀な冒険に巻きこんだ人物である。ピムを慕うのはかつてその同行者だったダーク・ピーターズだけで、あとはジョーリングが同郷人としてまたポーの愛読者として関心を持っているだけだ。

 この違いが生まれたのは、たんにウィリアム・ガイ船長の弟を重要な登場人物として配したからという理由だけではないように思う。

 ヴェルヌは、『ピム』での痛ましい自殺事件というピムの最期をフィクションとして否定し、その後のピムの物語を別に用意している。ポーの書いたピムの痛ましい最期とは違った壮絶さがその物語にある(ネタバレになるので詳しくは書かないが)。その壮絶さは、ポーのピムよりもむしろヴェルヌの他の作品の一群の登場人物に通じるものがある。たとえば、北極点への到達者ハテラス船長や「征服者」ロビュール、天才発明家トマ・ロック(『パタパタ飛行船の冒険』のカマレ博士に相当するキャラクターの一人)、それに最後に「全能の神」への信仰を取り戻すことで破滅から救われるネモ船長などだ。

 ヴェルヌにとってピムは神に挑んで「返り討ち」に遭う一群の人たちの一人なのだ。もしかすると、ヴェルヌは、自分が繰り返し描いた「神への挑戦者」の起源をポーのピムに見ていたのかも知れない。

 ハテラス船長やロビュールやトマ・ロックやネモ船長など、ヴェルヌ作品の「神への挑戦者」の物語は直接の同行者によって語られる。『氷のスフィンクス』のピムはもっと突き放されている。ピムがどんな人物なのかは、ポーの『ピム』の引用かダーク・ピーターズほかの人物のセリフでしか描かれない。

 ほかの冒険者が行くことのできなかった「異界」にピムが入りこんだために、ピム自身がポーが描いたよりもずっと壮絶な運命をたどらざるを得なくなる。しかもピムが触れた「異界」自体も大地殻変動で滅亡してしまうのだ(この展開もヴェルヌの他の有名な作品の結末部分に似ている)。ジョーリングやレン・ガイ船長は、その滅亡後に普通の世界に戻ってしまったその世界に立ち会っただけだから、めぐり合わせのもたらした僥倖(ぎょうこう)にもめぐまれて無事に帰還することができた。

 人間は神の領域をかいま見ることはできる。しかし、その領域はすぐに人間の手の届かないところに行ってしまうし、それをかいま見たものは相応の罰を受けなければならない。『ハテラス船長の冒険』(「驚異の旅」以前の作品も含めるなら「ザカリウス親方」なども入る)から『世界の支配者』にいたるヴェルヌ作品に一貫している主題を、ポーの作品を借景として含みこむことでより大きなスケールで描いたのがこの『氷のスフィンクス』だと言えるのではないかと私は思う。


 ところで、『氷のスフィンクス』でのピムの壮絶な物語には「空気中の微小な電磁力」が関係している。『世界の支配者』でエプヴァント号の動力として使われ、また『世界の支配者』での説明ではネモ船長のノーチラス号も利用していたエネルギーだ。

 電子の発見が1895年だから、それが何かのヒントになっているのかも知れないとは思う。現在のように原子の構造が明らかにされていたわけではないから(しかしヴェルヌはすべての原子はもっと小さくて種類の少ない根本物質から成り立っているはずだという見通しを持っていたらしい。短編「西暦二八八九年・アメリカの新聞王の一日」、『南十字星』)、電子の存在が「空間のいたるところに存在する電力・磁力の微小な偏り」としてイメージされていたのかも知れない。

 私には、この「空間のいたるところに存在する電力・磁力の微小な偏り」の向こうにヴェルヌは神の存在を見ているように思えるのだ。それは無限の動力として人間に利便を与えもする。しかしそれは同時に恐るべき力として人間を罰しもする。


 こうやって書いてきて、でもヴェルヌはそれほどピムを突き放しているのだろうかと最後に気になった。たしかに、ポーの描かなかったその後のピムについて描くヴェルヌの筆致は乾いている。少なくともネモ船長を描いたときのような温かさはない。

 ピムの運命は、同行者のダーク・ピーターズの運命を含めて悲壮ですらある。読んでいくと、追い求めてきた相手がじつはこんな運命をたどっていたのかという、肩すかしを食ったような脱力感とむなしさを感じる。やっぱりそこからは人間のどうしようもない悲劇性が感じられてくるのだ。

 ヴェルヌは「神への挑戦者」をその作品のなかでなかなか許そうとはしない。けれども、例外(たとえば『地軸変更計画』はあるにしても、ヴェルヌはその「神への挑戦者」を嘲笑はしない。『世界の支配者』など、その「神への挑戦者」に捧げる葬送曲として書かれているようにすら感じる。

 ヴェルヌはその「神への挑戦者」にどうしても心惹かれる心情を最後まで持ちつづけたのではないか。

 『氷のスフィンクス』のピムはダーク・ピーターズに最後まで強く慕われつづける。それを読むと、もしかしてヴェルヌはポー以上にこの主人公を愛していたのではないかという思いにとらわれるのだ。

― おわり ―

古田幸男 訳、パシフィカ「空と海の大ロマン」(プレジデント社発売)、1979年(訳)
集英社文庫「ジュール・ヴェルヌ・コレクション」にも収録。

原書:1897年発表