デヴィッド・リンチ 「インランド・エンパイア」
DAVID LYNCH "Inland Empire"

・・・その私的推察


キューブリックが亡くなって以来、その新作の公開が
「心待ちにしていた格闘技の試合が間近に迫った」ときに似た
「高揚感」で、私を居たたまれなくしてくれる映画監督は、
デヴィッド・リンチだけである。
もう少し正確に言うなら、それを継続させてくれているのは、
デヴィッド・リンチだけである。

最近、酔狂な友人にUSBカメラで耳の中を(度々)覗かれ、
PCに映し出された画像に「奥から悪魔が覗いているみたいだ・・・」
と怯える私に、(その友人は)笑みを浮かべる。

レコードに落とされる針・・・

耳に指を入れると、音が聞こえます・・・

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・エンディングの曲を再生するまでの、
 針とレコード
・顔をぼかされた男女の交わり後の、
 精子と卵子
・訪ねてきた怪婦の、一瞬の妄想、
 その過去と未来

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・人の脳ミソに曲として届く、ごくごく一部の音と、
 単なるノイズとしか認識されない多くの音たち
・受精して生命の元となる、ごくごく一部の卵子と、
 排泄物として流されてゆく多くの卵子たち
・ハリウッドで成功するごくごく一部の女性と、
 チャンスを掴むことなく堕ちてゆく多くの女性たち

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「インランド・エンパイア」は、
これら僅かな時間の、儚くも愛おしい営みを
「映画」として映し出したものである。

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登場する女性たちは
(映画のオープニングとエンディングで会話する二人以外)、
プレスされたレコードや、輪切りにされる木、に象徴されるように
ほぼ同一の女性であり、かつ、個別の女性であり、
彼女たちの存在する時間や空間は、その本質とは関係しない。

X壁に穴が開きできた経路は、結婚における不倫と同様
女性にとっては絶望的な、生命へとは繋がらない運命。
夫から出産を拒絶される絶望とも同様に。

X壁に穴が開き、腹を刺されたことによる貫通は、
傷口の縫い目にも見える記号が示す入り口から
彼女たちに時空を越えさせる。

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ハリウッドの成功者も、路上の娼婦も、
子供を産み家庭的幸せを得た者も、破綻した者も、
これからそれらになる者たちも、
全ての女性たちは、共感する。

なぜなら彼女たちは、
全て同一であり、かつ全て単一に存在する者たちだから。

殺された女優は、成功した女優に救済され、
子供を産めない女性は、子供を産んだ女性に救済される。

わずかな卵子が受精し、生命の元となれば、
受精しなかった多くの卵子たちも、救済されるのだから。
(擬人化するなら、悔いなく)消滅できるのだから。

映画上で起こる殺人さえも、救済へと導く切っ掛けであり、
彼女たちに殺人の動機などありはしない。
それは、生命の仕組みだから。
彼女たちは死ぬことによって、生き続けることができるのだから。

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「これがハリウッドよ」のセリフは、
キューブリックが遺作「アイズ・ワイド・シャット」のラストで
ニコール・キッドマンに言わせた「XXXX」と同義か。

キューブリックにまんま?とやられたあの夫婦は、
映画の中で夫婦を演じるという「二重構造」に挑んだが、
リンチはそこまで悪趣味ではない、ということなのか。

進化しなかった「サル」は、
キューブリック2001年の「人の元」との対比か。
(道具を持たず、クソをふりまく)

そして、3匹の「ウサギ」は、
2001年「モノリス」のように
神の計画、あるいは共時性の象徴のごとく
映画にカットインする。
(おそらく、ウサギたちはTVを見ており・・・)

同時にあの「ウサギ」たちは、
映画を値踏みするスポンサーか、気まぐれな我々観客か。
(いずれにせよ、平穏そうな仮面を付けながら、
無責任な立場で、無神経なことをしていそうである・・・)

窓越しに探し合う男女を妨げているのは、ゴムか。
ロコモーションを歌う女性たちは、どこを泳いでいるのだろうか。
下世話な推察も、始めればキリが無い。

キューブリックのメタファーは整合性があり、
骨太な解りやすさがあるが、
リンチは、まさにリンチらしいイメージ、切実さ、遊び心で、
メタファーを絵の具のごとくに散りばめてくれた。

そして、素晴らしいエンディング。

「インランド・エンパイア」のオープニングとエンディングの間は、
それが数十分であれ、数十時間であれ、
何人の女性が登場しようが、その本質とは深く関わらない。

エンディングに向かって進み、
ほとんどはエンディングのための前置きであるが、
そのエンディング自体に大した意味は無く、
だが、そのエンディングが無いと成り立たない。
全てはエンディングのために。

リンチは、「落語」を知っているのだろうか・・・
とも妄想したくなる。

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リンチが女性を愛している、ことは確かだ。

そういえば、
登場したほとんどの男たちは、イヤなヤツらだった。
旨いこと言って利用する男。
黙って値踏みする男。
暴力を振るう男。
逃げる男。

女性を幸せにしているように見えたのは、
妻と子供を抱きしめる男と・・・
エンディングで女性を謳歌させるピアニスト
ぐらいなものか・・・。
(ひたすら木を切る男も、か)

そして、そのピアニストが
ベン・ハーパー(ローラ・ダーンの夫)であることは、
偶然なのだろうか・・・。

キューブリックのクソオヤジが仕掛けた「二重構造」。
またもや、ここに符合を見てしまう。

この幸福な「二重構造」が、リンチの仕掛けだとしたら?

いや、本作自体、
ローラ・ダーンの過去と未来への
彼女と彼女以外も含めた、彼女全てへの、
リンチからの祝福だとしたら?

「インランド・エンパイア」は
「僕からのプレゼントさっ」
「僕なりのね」

そして、
「全ての女性たちへの感謝さ」
だとしたら、
出演者たちの顔ぶれにも頷けるか。
(まさか遺作にしてしまわないでしょうね・・・ Mr. LYNCH )

なんという粋さ。

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私がリンチの映画で心打たれるのは、
何かを上位に置くことをせず、夢のようなリアリティで描くこと。
そこで描かれる、切実な、切実な悲しみ。

そして、本作「インランド・エンパイア」で描かれた
悲しみも好きだが、
この救済と賛歌も、素晴らしかった。

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映画のメタファーは、感じ、言葉にする寸止め
の状態にしておくのが心地よいが、
今回はちょっとした切っ掛けがあり、個人的趣向で読み解いてみた。
(その解説を放出するなどは、恥ずかしさでいっぱいだが・・・)

また、キューブリックとの符合を強調することは
全く本意ではないが、
大好きな二人の監督のことを想い楽しんだ
というのが正直なところ。

無意味な行為ですが、
極東の島国に住むイチ・ファンのやること、
Mr. LYNCH には、許していただけるでしょう。

この映画に、感謝を。


耳に指を入れると、音が聞こえます・・・

2007/8/16
wann 副代表: 指田克行


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