プレ展を含めると今年で3回目の『所沢ビエンナーレ美術展 引込線』は、 「引込線」の名の由来となった西武鉄道旧所沢車両工場から会場を移しての開催。 第一会場の所沢市生涯学習推進センターは廃校となった小学校の校舎をほぼそのまま手を加えず使った施設で、 その体育館と屋外プールサイドを展示場所として使っていた。 第二会場は数年前に使われなくなった給食センターで、ここも設備類はほぼそのまま残った状態。 第一会場は航空公園駅から徒歩15分程、そこから第二会場までさらに徒歩15分と、公共交通では若干不便な会場となった。 作家主導の展覧会ならではの手作りっぽい雰囲気は相変わらず。 新展開を感じたわけではないが、その緩さを含めて楽しんできた。 ただ、会場が変わったせいか、以前の2回より作品が少々こぢんまりしてソフトに感じられた。
前回までの鉄道車両工場同様、こちらの会場も、雑然として視覚的にノイジーな空間。
やはり、ホワイトキューブに近いギャラリーで観たら映えるかもしれないだろうけど、
そういう空間に埋もれてしまっていると感じた作品も少なくなかった。
もしくは雑然とした外観の作品が、雑然とした空間に同化してしまっているような。
給食センターのような空間の面白さが無いだけに、
所沢市生涯学習推進センターでは作品が苦戦しているように感じられた。
そんな第一会場の中では、タムラサトル 「バタバタ音をたてる2枚の布 #2」は
体育館を少しだけ狭く感じさせるような存在感を放っていた
[以前に観たことある作品だけれども]。
第二会場の給食センターは中小の食品工場のような建物。
様々な配管やダクト、ステンレスやアルミでできた厨房什器や各種調理器具、冷蔵庫等の各種装置・設備が
ほとんどそのまま残っており、それを流用したインスタレーション作品が目に付いた。
しかし、そんな空間を異化する強さを感じるというより、その面白さに寄り添った作品が多かったように思う。
その結果、会場に作品が溶け込み過ぎているようにも感じた。
そんな中では、給食センターの器具・什器・装置の類をマッシヴに積み上げた 中崎 透 のインスタレーションは、
そのインスタレーション作品中の黄色い丸印とメッセージ、スピーカーからのメッセージを読み上げる声で誘って、
観客をその山の中に分けいらせてせて、
金属質の物体が雑然と組み上げられた眺めをより近くで取り囲まれたような視点から観させることにより、
空間を弄るというより、観客の視点を誘導することにより異化するような所が面白く感じられた。
自分が観に行った9月5日には、15:00から
利部 志穂 + 皮 (SONTON) 「給食テクノ」 というパフォーマンスがあった。
給食センターの建物と給水タンクの間にある野外のスペースに、
ステンレスのカゴやアルミの鍋ぶた等を使ったインスタレーション作品が作られていたのだが、
その前の空間で、調理の音を拾って演奏するパフォーマンスだった。
アルミのボウルや鍋ぶた、ステンレスのスプーンやカゴ、包丁やミキサーがなどがたてる
金属音を拾って、エフェクタで加工していく演奏だっが。
ループでビートを組み立てていくのではなく、
金属音にディストーションをかけてテクスチャを作っていくような音作りで、
テクノというよりノイズに近いテイストを感じた。
少しユーモアを感じる所もあったし、狙ったわけではないのかもしれないが、
まな板に向かう 利部 とエフェクタのコンソールに向かう 皮 の体勢がシンクロするような所など
楽しんで観ることができた。
しかし、パフォーマンスの細部の粗さが、気になったのも確か。
こういう物音をライヴで拾って音作りをするというと Matthew Herbert のパフォーマンス
[レビュー] を連想させられるとことがあるし
ライヴでは観ていないが、Plat Du Jour
(Accidental, 2005) という調理・食事を素材とした作品も制作している
[レビュー]。
そういった Matthew Herbert のパフォーマンスや作品のような洗練は
今回のパフォーマンスの狙うところではないとではないのかもしれないが、
粗さにしてもコントロールされたものでもないようにも感じられた。
レタスを刻む音を使うところでも、ディストーションと音圧に頼るのではなく、
シャリッという元音のテクスチャ自身を使って面白いことができそうなのに、
など思いながら観たパフォーマンスだった。
毎回そうだが、会期は残暑が厳しい時期。鉄道車両工場もそうだったけれど、 空調の無い体育館や給食センターの中はちょっとむわっとしていて、観ていると汗ばんでくる。 今回は会場が駅から遠く、残暑厳しい日差しの下での移動も厳しかった。 (といっても、往路の第一会場から第二会場への移動は、 タムラサトル氏の車に同乗させてもらうことができ、大変に助かった。) しかし、観る方よりも、会場に張り付いている作家の方が大変だろうとは思う。 このビエンナーレはそんな季節感の記憶とも結びついた美術展になりそうだ。