神保町シアターの 『戦後70年特別企画——1945-1946年の映画』 で観た中から、松竹の3本。
あらすじ: 大曾根家は、軍人の一族の出ながら亡き父は大学教授のインテリでリベラルな家風。 しかし、既に父を亡くした一家は、陸軍将校で途中から同居することになる叔父 一誠 夫婦に圧力をかけられている。 長男 一郎は政治犯として投獄、画家を目指していた次男 泰二は招集され、素直な末っ子 隆は志願して特攻隊員となる。 娘 悠子も叔父に出征した明との婚約を破棄させられ、望まない縁談を持ちかけられる。 終戦後、次男と末っ子は帰らなかったが、 混乱の中でも戦争の反省もせずに不正を続ける叔父夫婦へ、母娘の怒りが爆発し、 ついに叔父夫婦を家から追い出すことを決意。 そんな所に、明が復員し、一郎も出獄し、大曾根家が「朝 (あした)」を迎える。
1946年のキネマ旬報ベストワンだったという映画で、 映画や演劇に携わる人たちに少なくなかったであろう反戦とまではいかなくとも戦争に乗り気でなかったリベラルなインテリ達の 戦争に向かう社会の雰囲気の中での心情を描いた映画ということは判るのですが、 このテーマの扱いも生硬く感じてしまいました。 細やかな描写の積み重ねで心情を表現するのを得意とする松竹大船映画にあって、 思想心情を直接語るような場面が目に付いた (特に最後の場面など) のも、生硬く感じた一因でしょうか。 松竹大船も戦前から相変わらずの人情物だけでなく、 『大曾根家の朝』や 溝口 健二 『女性の勝利』 (松竹大船, 1946) [鑑賞メモ] のような、 妙に力んだ映画も作ったのだなあ、と感慨。
最後の「朝」の場面以外は大曾根家の邸宅内だけを舞台に映画は進行し、まるで舞台劇を観ているよう。 そんな狭い空間に動きや視線が限られているせいか、息苦しささえ感じられました。 これも、戦中の息苦しさの表現なのかもしれませんが。 杉村 春子 や 東野 英治郎 といった新劇俳優の出演もあり、当時の新劇ってこんな感じだったのかな、とか、思ったりもしました。
あらすじ: 九段で父親とはぐれた子供 (幸平) を、田代は築地の長屋へ連れて帰るが、 長屋の皆も厄介に思い、長屋で独居する初老の女性 おたねが面倒を見るはめになる。 おたねは最初のうちはきつくあたり、親を探しに前に居た茅ヶ崎に行った際には、そこに置いて帰ろうとさえする。 しかし、寝小便で怒られるのがいやで幸平が家出したことがきっかけで、 おたねは 幸平 へ情が移っていることに気付く。 田代が 幸平 を九段で見つけ、長屋へ再び連れて帰ってくると、おためは我が子として育てることにする。 幸平 に小学校用の服を買ってやり、動物園へ連れて行き、記念写真まで取って、すっかり我が子気分になって長屋に戻ると、 幸平を探す父親が長屋にやってきた。 おたねは、幸平への情を圧して、父親に幸平を返すのだった。
飯田 蝶子, 笠 智衆, 河村 黎吉, 坂本 武, 吉川 満子 という松竹大船鉄壁の布陣での人情劇。 といっても、飯田 蝶子 や 河村 黎吉 が調子よく喋る場面は多くなく、 象徴的な場面のモンタージュで寡黙にしみじみと描くところなど、小津らしいでしょうか。 長屋の寄合からの流れの宴で 笠 智衆 が「のぞきカラクリの唄」を歌う場面なども良いのですが、 おたねが幸平を連れて行っての茅ヶ崎での砂浜でのやりとりを引いて撮った場面、 ランドマーク的な築地本願寺を巧く写し込んだ長屋周りの風景など、ロケでの絵も良かったなあ、と。
幸平を父親に返した後、おたねは他の子を貰おうかと言い出し、 上野界隈で浮浪児となっている戦災孤児の様子を映し出します。 この映画の背景であることはわかるのですが、説明的に取って付けた感は否めません。 自然に取り込むことは難しいのだろうなあ、と、つくづく。
近世江戸の浮世絵師 歌麿を題材とした映画。 遊郭の場面など終戦直後にしては豪華な衣装、セットを用意したのでしょうが、 フィルムの状態があまり良くなく、俳優の顔の見分けも付け辛い点は残念でした。
歌麿の女性遍歴を描いた映画と思いきや、歌麿はむしろ傍観者という立ち位置。 歌麿の画力に屈して、狩野派の絵師の身分を捨てて歌麿に弟子入りする勢之介、 若旦那の 庄三郎 という、二人の男性を巡って、 水茶屋 難波屋の おきた、花魁の多賀袖太夫、町女出身の腰元 お蘭、狩野家のお嬢様で勢之介の許嫁 雪江という、四人の美女が火花を散らすメロドラマでした。 五人目の女は配役字幕によると おまん ということになりますが、彼女の影は薄く、むしろコメディリリーフの おしん の方が存在感がある程でした。 男性陣が、歌麿と勢之介の画業への意気込みは別にして、受動的で優柔不断な優男という松竹メロドラマに典型的なタイプ。 まるで、戦前モダン東京から近世江戸へ舞台を移した松竹メロドラマのよう。
例えば、浮世絵の版元をレビュー劇場に、歌麿を劇場付きバンドのマスターに置き換えると、いかにも戦前モダンなメロドラマになりそうです。 ここでは、絵師が美女を描く、という関係は、ミュージシャンが女性歌手もしくは女性ダンサーの伴奏をする、という関係に置き換えられるでしょうか。 遊郭の太夫はレビュー劇場のスターの歌手かダンサー、水茶屋の女はカフェーの女給。 一方、勢之介は、ジャズに惹かれて家出してレビュー劇場のミュージシャンになった名家の子息で、 庄三郎 はレビュー劇場に通うパトロンで金持ちのぼんぼん、 お蘭はレビュー歌手に憧れるオフィスのタイピスト、雪絵はもちろんお嬢様、といった所でしょうか。 こういう設定であれば、バンマスは上原 謙、家出してミュージシャンになる男は 徳大寺 伸、その許嫁は 高峰 三枝子 がハマり役、なんて想像してしまう程です。 そんな戦前の松竹メロドラマとの相似性を感じながら、楽しんで観た映画でした。
『戦後70年特別企画——1945-1946年の映画』 は、結局11本観ることができました [他の鑑賞メモ 1, 2, 3, 4]。 中でも最も良かったのは、五所 平之助 (dir.) 『伊豆の娘たち』 (松竹大船, 1945) [鑑賞メモ]。 もちろん、小津 安二郎 (dir.) 『長屋紳士録』 (松竹大船, 1947) も良くて、 松竹大船の映画が好みだなあ、と、つくづく。 しかし、つい松竹大船の映画ばかり見がちですし、 衣笠 貞之助 (dir.) 『或る夜の殿様』 (東宝, 1946) [鑑賞メモ] を観たときもそうでしたが、他の映画を観ても、つい松竹大船映画と比較してしまいます。 そればかりでは良くないので、少し広めに観て他のリファレンスも少しずつ増やしたいものです。