羊通信 1999.8.3〜12.30


TYO & SKYDOMO羊通信羊通信パラパラ版ネタちょー(ネタ募集中)


■デイ・トレーダー・・・   99/12/30


『デイ・トレーダー』(馬渕一・メディアワークス)は10月の発売その日に買った本。だってねえ、待ちに待った本だもんね。

内容は哲学書、ってゆーか、宗教書か。思想書かな。

一言でゆーと、“自己制御できないヤツにデイトレードは出来ない”と書いてあるんですねえ。まあ当り前なんだけど。つまり、裸の王様を見破るコトができないヤツに証券取引は出来ないよとゆーこと。マテリアルにモノゴトを観るコトができなきゃダメとゆーコトですね。ナゼなら、自己の不安からデッチ上げられる幻想に自縛されちゃダメなワケで、激しい闘争の場でもある市場で致命的な一撃を食らう可能性そのものが不安による場当たり的な行為から生じるからですよん。ホントの一撃はマテリアルな面からしか生じないのにね。この不安を逆手に取ったのがデリバティブ最強の理論であるヘッジファンドなのは知ってる皆さんはご存知のとーりですう。まあブラック・ショールズ式とかさ。

で、じゃー、デイ・トレーダーに相応しい人とゆーのはどんな人様なのかあ?とゆー素朴な問いがありますよね。
具体的には、人生で失敗したコトがある人。人生経験豊富な40才以上の人。煙草を吸わない人…てな感じい。



■Windowsがなくなる〜・・・   99/12/23


どーしてかってゆーとお、Windows2000になっちゃうからあ〜。
とゆーのはクダラナイじょーだんですが、ホントのコトです。
2000年の2月18日に発売されるWindows2000で、95年のWindows 95の大ブレイク以来大手を振ってイバッテきたWindowsは終わりです。終止符ね。ふふふ
どれだけこの日を待ったコトか。(^^)v

2月18日に登場するのはカタチはWindowsでも、中身は全然違うOSでござる。
その名はWindows2000だが、その筋は周知のWindows NTの後継OSでやんす。
複数のアプリを起動すれば、それは複数のマシンと同じ状態であり、1台がフリーズしても他の台は影響なくバリバリと元気に働き続けるのがウリ。
まあ、当初から企業用つまりUNIXをライバルとして作られてきただけあります。

Windows NTの故郷は数日前にもレバノン南部を爆撃してケンカにケンカ売ってるワイルドなイスラエル。そのイスラエルでユダヤとシオンの丘の運命を担って100程の敵を同時に捕捉するシステムこそWindows NTの原形。しかもOneToOneのターゲットが諸ともブッ飛んでも他のターゲットに関してクールに戦闘遂行のターミネーターみたいなマシニックオペレーション。

で、しかもWindows2000はWindows NTのウリであるデュアルプロセッサに対応。
2個のCPUで作動するんやなあ、コレが。4個もありとか。
まあ、実際にはスピードが速くなるとゆーよりも、いろいろ同時に動かしてもスピードが低下しないとゆー渋い演出で効果が解ります。うーん、大人のマシンだねえ。



■ニューアカと精神病・・・   99/12/16


精神病がゲームの中では精神病でないのはナゼ?
とゆーとっても重要なテーマを出したのは香山リカさん。

でもホントの問題はどこからもその解答が出てこないコトでしょーね。
ホントにニューアカ系でも読んで理解してりゃ、答えはカンタンかも。


 『<じぶん>を愛するということ』のなかでリカちゃんはニューアカの旗手に文句を言ってます。ポストモダンのイデオローグさんがオウム真理教事件を「単にバカ」と評したことを怒ってるワケ。そりゃ、正しいかもね。“単バカ”とゆーならば、たとえば宮崎哲哉さんが小林よりのりさん一派?を「オウムと同じ」とTVで言ってましたが、それも同じこと。オウムもオウムと同じ人も単バカなのはそのとーりなんでしょーが、そこから先が探究されないと意味がないですよねえ。M君や少年Aを精神病だとジャッジするのも同じ。そりゃカンタンだけど、それで終わりなワケがないよん。そんじゃ、何の解決にもなってないもんなあ。

 リカちゃんは言います。<大塚氏の繊細さこそが、この世代の人たちが90年代まで持ち込めた唯一の“財産”なのだ>と。そーでしゅねえ。問題はそこから一歩進めて、そのスタンスが新人類以降・団塊ジュニア世代にどー受け止められているか、つーことでしょね。リアルなテーマとして。サンプルはゴロゴロしてるし集まり過ぎてるんですが、そんなのはともかく。そこから何が抽象化できるのかなってゆーこと。でなけりゃ、単バカやガイキチ評価で済むワケないし、そんな対症療法で何が解決するのか、つーことだもんね。柄谷さんみたいに“ボクはビョーキだから”ってゆー自己説明は透明なんだけど、そこで終ったら他者にとっての意味はないでしょー。そんなのはエヴァのシンジくんにかこつけて「ボクはシンジ(ビョーキ、ガイキチ、諸々)でーす」で自分をごまかしてるラディカルな単バカと同じでーす。それに、自己の正当化のために「公」や「国家」を持ち出すほど異常になったら再びユダヤ問題はそこらじゅーに発現しちゃうんだもんね。あ、もーしてるかあ。


『心的現象論序説』とゆー暴力的な本は、この本に触発された精神科医だかなんだかが、確信をもって精神病患者を刃物でブッ刺して傷害事件で逮捕された事件とゆーニュースと実際にそれで患者は治癒したとゆーコトでジャッジと同時にチェックされたのでありました。

 もちろんチェックOK!


 なんつー強度なんでしょ『心的現象論序説』って…アッパレであります。
 おまけにこの本への批評ってほんとんどないんだよねえ。

 でもって精神病患者くんは象徴界(一応まだ法律とか権威とかがあるらしい世界)に復帰したんだとか。ガンバレ、患者くん。
 まあ、羊的には現在の象徴界そのものがガイキチなんだけどさ。

 そーいえば若い女性になんかも人気のある臨床心理学の河合隼雄センセイも患者をブン殴って治療したとゆー武勇伝の持ち主。


 ところでドーナツ的世界じゃ象徴界の手がかりそのものを消去することで治療するんだけどね。アイコンが一つもなくなったデスクトップでオペレーターたる患者さんはどーするか? 
 まあカフカなんかはとっくに提出してる問題設定なんだなコレ。

 「ボクはシンジ君なんで、うーんと、えーと、もー、困ってまーす」なんつーレスポンスだったら、もうザマだな、ザマ。ケケケ

とゆーことで笑ってあげる。
 患者くんのほとんど全部は対他関係における妄想なんで、笑いとゆーポストモダンさいこーのウケをとれたことで満足しなきゃね。だってサブカル論議なんてそれしかないじゃんねえ。ウケるかどーか、だけ。

 もちろん強度はそのズーッと先にあるんですう。

 とゆーのもサブカルオタクか…



■ニューアカと精神病院?・・・   99/12/16


9/3

ニューアカって何やったのか?ってを考えるときに、フランスの政治状況もあるけど、精神病院って結構大きなテーマちゃうかなぁーと思う。フーコー&ラカン&フェリックス=ガタリが精神科医で、アルチュセールが精神病患者(笑)!日本だと香山リカが・・・バンドマンって・・別に良いとして。アメリカで精神科ってぇーと、ヤク中患者 が集まる場所ってイメージだけど、フランスだとさ、フーコーがかつての刑務所がいまでは精神病錬になったって言い方するし、アルチュセールが精神病錬で講義をしていたって話とかから、お洒落なカルチャーセンター・・じゃなくて思想犯の集う場所で、そこで思想犯・政治犯のボス:フェリックス=ガタリと哲学者ジル=ドゥルーズが出会うってカッコイイじゃん。てな高度な話題を低いレベルでしゃべるのがお洒落だと思ってたんだけどなぁ俺は。



 以上「HP管理者日記」より



■Dの食卓かあ・・・   99/12/13


TVで飯野さんを取り上げた番組をやってましたが、自分が母を求めても母がいなかった自分にとってはマザーのイメージがわかないとゆーよーなことを淡々と言ってましたね。自分の欠落を直視できてるってスゴイなあ。

不在であることによってNONレスポンスでしかない母親像に対して、透明に、マテリアルに<わからない>ことそのものが自覚できるのは哲人でも思索者でも理想的な原点ですね。

<わからない>ことや<NONレスポンス>に関してわかった風な(妄想を)自己創出するのはガイキチのスタートですが、まあ喜劇は、この幻想(妄想)から妄想者そのものが自縛されていくザマにあるんだわさ。

悲しいのは妄想性を除去するためにその自己創出をリアルだと思い込んでいくことなんですね。肌で体験したとか、身をもって知ったとか、今流行のトレンドはほとんどコレなんでね。笑えますけども。ウフ
アタマがない分だけ体験なんかを強調するんですが、そりゃ、田中康夫さんのような皮膚感覚とは違い過ぎますねえ。頭脳も度胸も、さ。



■急だなあ、っと・・・   99/12/5


そんでもってボクはノロイので、急なオーダーでコラムを書くのはお腹が減ります。
だから今回過去4回分のギャラをもらってもみーんな消えちゃうんだなあ、キット。

グッー



■匿名希望の『郵便的不安たち』・・・   99/12/5


■「匿名」を望む人が示すもの

「僕が本当に望むのは、その名が匿名となること」とゆーのはもちろん東浩紀さん。
『郵便的不安たち』のあとがきで99年5月17日の日付。
東さんは「著者名とは無関係に」『存在論的、郵便的』や『郵便的不安たち』を「読まれ」たいと望んでるワケね。


で、匿名性は何を志向してるかってゆーと、みんなのなかへ没入していくこと。

 >大衆が<そこに、はじまり><そこに、おわる>
 >マテリアルな現実を生きているというシンプルな真実
 −「リアルというダンジョン/レーニンとポケモン」(98.4)−

みんなが生きている「マテリアルな現実」つーと、まあちょっと流行ったおコトバじゃ「終わりなき日常」ですねえ。そこへダイブする、そーやってダンジョンをクリアしていく、つーこと。匿名性のダンジョン。それは無底の通底。以上は空間性かな。時間的にいえば終わりなき日常生活、ま、運動ね。エロスでも可。生きていくそのもの、さ。


■ポケモンでファイト・クラブなレーニン

 >その子供の直観とは
 >「<ここには何の神秘主義もない>」(トロツキー)ことをはじめから知っていて、
 >「無の世界の記憶」を失っていない、「無底である<物質>の運動」を察知している、
 >リアルでシンプルな認識のことだ。
 −「リアルというダンジョン/レーニンとポケモン」(98.4)−

中沢新一さんは『ポケットの中の野生』のなかでレヴィ=ストロースの「野生の思考」とオーバーラップさせたけど、そりゃ価値論的には「強度」でしょ。資本主義的に指摘するんだったらブラッド・ピットが『セブン』の監督とともに思い入れたっぷりで作った映画『ファイト・クラブ』じゃあーりませんか。おまけに『ファイト・クラブ』じゃお子さまな<実存>のステージからアナーキーだけれど党派と闘争へシフトするつーとこがイケルねー。リアルへの接近ね。だって党派がモダン化すればレーニンの党だからね。クロポトキンでも可だけど。「強度」だけ(だと思ってるだけだが)の殴り合いから党派へ、闘争やテロルという意味ある現実へターンバックしていくブラピたちの姿は、グノーシス的だもんね。これにモダンがジョイントすれば前衛党だろーさ。きゃきゃきゃっ


■TPOに自らを解消する春樹ワールドなクールさ

 >穴的存在の五反田君。輪である超高度資本主義社会の前に
 >文字どおり空虚な穴として消えていってみせるクールさ。
 >TPOに自らを解消(解体デハナイ)するダンディズム。
 −「ゴタンダくんとブレードランナー2のカッコイイ人たち」(96/7/26)−

ダンディズムはシャイであり無邪気なのさ、とゆーホントの審美判定をチラッとレクチャーしたのは『構造と力』。無邪気な笑いはレーニンも、てな感じ。

でも哲学書なんてフツーの人は読まないから、みんなが読むんだったら村上春樹とゆー選択は当たりなんだよね。「五反田君」も「僕」も「鼠」もクールでダンディ。でもって超高度資本主義の人。全く個別的現存なんつーテクニカルタームとは無縁の健康な消費者たち。A.ルフェーブルはなんてゆー射程を持ってるんだろーか。やっぱカッコイイ。もちベンヤミンもね。実存関係は持ち出したとたんぜい弱な自己の正当化でしかないからね。強度とは無関係なガキどものさ。ガキは現実を直視できない、あるいは、現実を直視できないからガキなんだけどね。リアルにマテリアルを感知できないとゆーこと。


■著名性とヤッカミへのバイバイ

 >制度や肩書きや署名性でかろうじて保障される作家ではなく、
 >単なる大衆の中の表現者としてライターというもの、
 >その無署名性(大衆性)ゆえのリアル(ドキュメント・ルポ)に
 >価値を見い出してるのが中森明夫 
 −「中森、春樹、リアル」(97/7/18)−

つーことで、こーいったリアルへの希求やスタンスは皆さん同じ。真にコンスタティブであるのはマテリアルそのものであって、表現なんてどれもこれもメタフォリカルでしかないから。もちろん享受者からはパフォーマティブでしかないつーこと。概念にどんな名辞つけたって変わらないものそのものがマテリアルなんだもんね。この点じゃ、福田和也さんのインテリ批判は正しいのさ。哲学者はそーゆー言い方をするからダメなんだってな感じの、ね。

マテリアルへのスタンスを求めた村上春樹がドキュメントを目指して『アンダーグラウンド』を書いたら、ノーベル平和賞狙いだとかなんとかネタミソネミのオンパレードになるよーな日本のジャーナルに可能性があるわけないじゃん。そんなのは党派の表明以外のなにものでもないでしょ。この手の言説は何を語らせてもひがみとやっかみでつまらないだけ。ビッグなもの(春樹、吉本、TK、などなど盛り沢山)へのコンプレックス以外ないよーな輩なんでバイバイしましょーね。もう、したか、ボクのばやい。けけけ


■みーんな悩んで大きくな−る

東浩紀的世代の東浩紀に対する評価そのものが東浩紀さんの悩みそのものであるとゆー笑のタネこそ解決でもあるんだよね。東さんが期待する世代こそ郵便的誤配にビビってるけど、解決はそのザマを笑ってあげることでしょ。笑われてキレるガキが昼休み中の自衛隊員に失笑されながら切腹した右翼作家とどこが違うんだ? そりゃ作家か作家じゃねーか程度の違いだねえ。しかも作家が無効なのは東さんが指定するとーり。だって匿名じゃなきゃだわ、だもん。


■東京的であることの必然とビョーキ

東さんは言語における助詞の使用法に注目してるけど、やっぱ彼はスゴイ。時枝の言語論に注目してて、特に時枝の問題意識そのものに興味を持ってるとこがさすがだね。時枝の影響からは吉本隆明(特に『言語にとって美とはなにか』など)や三浦つとむが日本最高レベルの成果を出してるワケだけど。

限定可能性を示す助詞の使用法を関西の多くの学生・院生が理解できない事実を指摘してる言語学のレポートがあるんだけど、まあ、東京ならではの東さんてゆーことなんだろーね。これはテッテ-的な差異だよなあ。

このサイトがあらゆる価値判断を東京の虚構性だの東京ビョ-にフォーカスしてみせるのはそれがいちばんラディカルだからなのはわかる人にしかわからないことなんだろーね。



■新しいコーナーだあ?!・・・   99/12/1


つーことで年末進行は忙しいんだけど世紀末で人生も末な感じなんで明け方にフロアで寝ころがって凍えるよーな貧乏くささを守る会風なライフスタイルが常態のボクにはトレードが待っているっと。

みんながどんなコトに興味を持ってるんだかKGBのよーにチェックするコーナーを作りましたあ。可能なもんはここのネタに使わせてもらいますんでありがたく思ってねえ、と。
と思ったんだけどE-mailのエンコードが失敗でしゅ。文字化けで読めしぇん。
どーすんだったかなrimのばやい。

と仕事で作ってるHP制作も兼ねて本屋で立ち読み調査。あ、そーかtext/plainでいいのかあ、と投稿できるヨーになりました。

と思ったらやっぱダメ。他力本願はモーゼのごとく道を開く〜っと。

ココね
 

 
ターゲットは何ですかあ!?



■最近のショック・・・   99/11/21


9月の下旬から一ヶ月以上更新しなかったらヒット数激減。
まあ1週間更新しないとヒット数減るけど、30〜40日更新しないとスゴイですね。ゼロ状態だよん、と。
てな実施体験に基づいて企業向にWEBのレクチャーやプレゼンをやっても社長さんをはじめ担当者諸氏にはご理解いただけないコトが大部分。
設備投資とかするのに、インターネットには金も手間ひまも人材もかけよーとしない企業が多いんですよね。
「インターネットって金かからないんでしょ」だってさ。
だのに経済新聞朝読み情報オヤジの注文は「ポータルサイトを作ろうと思ってね」とかくるんだよな。
コスト計算できないクセに。つーか、コストかけないクセに、か。
ああ、フローやコピーやいっぱい仕事が残ってるぞお。
設計もあるなあ。仕入に視察もだあ。
また参照数激減したらどーすりゃいいんだ、っと。



■今日のショック・・・   99/11/21


仕事の関係で出かけ、立川のモノレール近くにある高島屋による。
目指すはレストラン街の「マハラジャ」。
あのカレーの店ね。日比谷や銀座じゃ老舗にして旧大英帝国連邦関係者?ご用達だったりするよーなインド料理がヒリヒリしてるレストラン。(ちなみにデザート類の味つけはただの砂糖水シロップだったりします)
で、目前のターゲット「マハラジャ」立川店はなーくなっていましたあー。
ナ〜ゼデスカア???

原稿が没になるより落胆しつつ、トボトボと地階へ向かう。
だってえボツにするのはバーカが大部分なんでえ、気にならないんですう。バカあいてにしないしい。でーも、マハラジャがないのには耐えられないのおー、おー、おー。タンドリーチキンやシシカバブ、日本人向けと思われるドライカレー、熱々のナン。アタマの中でホカホカのアイテムがグルングルンな感じいで、ちょっとセンチいだなあ、この気分。

で、地階、食品売場。
目指すはMY伝家の宝刀的中華料理店、その名は「陶々居」。小さなカウンターに4、5人座れます。
生まれて初めて「煮込みソバ」とゆー逸品を食べたのは銀座店でしたが。
大根餅も胡麻団子も、汁ソバもオイチイのですね、コレが。
と、何気で座ったカウンターに「醤油ラーメン」のPOP。
「ん?」、他のお品は…? ? ?! ! !!!
こ、ここはトートーキョではない…
ど、どどこだあ、トートーキョはどこだあああ
まるでシンジくん&いまや時代の多数派くん並になっちまったボクはホーシンした顔面を紅潮させてさぶい街の中へ戻りました、とさ。



■「non title」というE-mail・・・   99/11/21


以前にもらったタイトル?名のE-mail。
句読点がなく一行空きの原文は、形態も内容もピュアな印象が。


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>どう言うことですか

羊通信ほかサイトの内容や主張については、
あの(この)通りなんですが、解釈は人それぞれですよね。
独り言で戯れ言が基本なんですが、
“裸の王様”を見抜く思考を探究したりしたいです。


>あたしは
>村上春樹をこよなく愛しています
>そして
>ジャズピアニストになろうとしています


春樹ワールドに登場しそうなイメージが浮かんできますね。
羊5はボビー・ティモンズとハービー・ハンコックのファンです。


>あなたは
>どんな人なんですか
>羊について
>よく知ってるんですか


自分のことも羊のこともよく知らない、そんな人です。たぶん。
だから自分のコトを知りたいなあ、と、サイトをはじめたんです。



■「東浩紀さんに関して。」というE-mail・・・   99/11/20


タイトル名のE-mailをもらいました。
他にもまだ返答してないE-mailがいくつかあります。
いつか返答したいとか思ってるんでヘンな時にE-mailがきてもクールに読んでください。(^^;)

「東浩紀さんに関して。」は羊通信をはじめとしてこのサイトの全体像を読み込んでくれているので、それをキッカケに羊通信からの主張や説明に使わせてもらおうと勝手に返答をここに掲載する他力本願ものです。(笑)


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>はじめまして。一読者です。
>ポストモダン的状況で消費者がジャッジすることを認めない東さんは
>まだ子供かという問いに対して、ぼくはイエスだと答えます。
>ただその状況に対するイノセントさが東さんの良いところだということは、
>以前にここで言われていたことで、ぼくはそこから学んだのですが。


もちろん今でも「イノセントさ」が良いという認識は変わってないです。
むしろ強くなってますね。イノセントさが無い天才や革命家はいないし。


>あまり「ポストモダン」「消費者」「資本主義」という言葉をキーワードと
>して使いすぎると、東さんに、そして言葉自体に足元をすくわれちゃうと思います。
>これはデリダから僕が学んだこと。


この「足元をすくわれちゃう」ことに没入していくのがボク自身が選んだ方法です。
たぶん、ボクも“大人になりたい”んでしょうね。(アナタは?)
しかも、こういう方法しかなかったのかもしれないです。


>ここでの東さんの評価は僕がいろいろ目にするものの中でも最もおもしろい
>ものです。ただそれはパフォーマティブに読むという次元において、です。
>それは先日の日記(全体)に端的に現れていると、僕は感じました。
>つまりTKや宇田多ヒカルのことも含めてですね。たしかに東さんなら
>「くだらない」の一言で終わりです。


すべての表現はパフォーマティブでしかない、という認識がボクにはあります。
羊通信をはじめた時点で“このサイトは「独り言」「つぶやき」でしかない”ことを表明しているのはそのためです。

コンスタティブな「1」や「2」を見たことがありますか?
「1」「2」が何らかの真理や真実だとしても、現実の「1」「2」はリンゴ1個の1だったり、恋人同士2人の2だったり、印刷された数字の1だったり、ディスプレイ上の2だったりしますよね。コンスタティブな1や2はドコにあるんでしょう?
ボクの認識ではパフォーマティブはメタフォリカルと同じなんです。

デリダが自分をパフォーマティブに認識されるのを避けようとして写真を撮られることや肖像が掲載されることを長い間拒否していたことがありますよね。でも、文化大臣に任命された前後からあっけなく写真で登場するようになりました。それはデリダが大人になったからだ、というのがボクの認識です。つまり、自分を公的なジャッジに委ねるコトを受入れ認めたワケですよね。
この「公的」の実質的な主体は超高度資本主義社会では消費者です。
たとえばそれを国家だというのはそれこそマンガチックなマンガ派の漫画的なスタンスですよね。

デリダが柄谷・浅田両氏との3者鼎談か何かのインタビューだかで、写真を撮られても大丈夫になったワケをたずねられて簡単な返答しかしなかったのを覚えています。
大人になるのは当り前のコトなんで簡単な説明なり解釈でいいんですよね。
それは意味より強度であることのいちばん基本的な構図だと思います。
あえて言えば、それが時間性であり通時的な強度です。


>どうやら今の日本でコンスタティブに『存在論的、郵便的』を読解しているのは
>鵜飼哲さんだけみたい。高橋哲也さんが言ってることは違うし。


東さん式のジャッジからすれば両者とも?


>ただ東さんが少し行き詰まっているのも確か。
>でもその原因はあまりにも東さんが孤独であることに尽きると思います。


孤独な自分に自己言及しただけの思索だから、彼の指摘は面白いんですよ。
既に大人になったのに主張しつづけなければいけない柄谷さんなんて「僕は病気だから」とか自己弁明しちゃってつまらないでしょ。「僕はシンジです」と同じくらいダサイ
病気だからと言い訳しながら主張するのと、過剰な自己言及(成長過程の特徴さ!)から出て来る指摘じゃ、どこか魅力が違いますね。浅田さんは他者にその辺を察知されたくないから何も書かないんだ、とか勝手に推測しちゃうコトもあります。


>今の日本に東さんに拮抗しうる力を持った人、ひとりもいませんよね。
>ただ時代が東さんを求めている以上、大丈夫だとは思うのですが。


自分に換る他者はいないという認識からは、東さんに拮抗しうる他者はいないですよね。
しかし逆に、東さんはその他者に替わることもできないですよね。
この当り前の状態がマテリアルであり、これが空間性であり共時的な強度です。

この強度がハイデガーの強度であり、そこで思考停止したハイデガーは“時代が求めている力”としてナチスを支持し、数ヶ月後に大きな間違いだったコトに気がついて、停止してしまった思索から詩作へと逃げていくんですよね。
もちろん停止するコトのない思考方法を身につけている人たちはナチスと戦いつづけたワケです。笑いながらですね。ドリンドリン、て。

東さんにパフォーマティブに触発されればいいのであって、彼を時代のヒーローにしてしまったら東さん自身にとっていちばん不本意だろうし、それより誰もが「自分が大人になるコト」を目指すべきだと思います。
ただし子供の心を持った大人ですよね。ダンジョンに飛び込んでいける、ゲバラみたいなヤツ。
それが猿岩石レベルだからポストモダンにケリをつけようと東さんは企てたんでしょう。

ガタリや浅田さんと一緒に山谷なんかをロケハンしたこともあるリベラシオンの記者だった人に「誰に期待するか?」とたずねたら怒られてしまいました。「他人に期待するのは失礼だ!」としかられました。その人は革命家だし「心は左のポケットに!」といわれる左翼的な国家フランス人だからかもしれませんが。でも確かに他人に期待するのはお子様のするコトでしょう。大人は自分で何かしなくちゃ、と思います。
東さんの闘争は大人になるための戦い。
東さんの主張も思考する楽しみであって、思考停止は彼にとっても最大の敵でしょうね。
彼が思考する楽しみを主張し続ける限り期待しちゃいますが。

「間違った読者に本の誤配を望む」という東さんや宮台さんの「吉幾三問題」は、このサイトのポリシーでもあるし。



■「パソコン買うな」だって!?・・・   99/11/17


「お客さん、買わないほうがいいよ」
「そーゆー考えなら、パソコン買わない方がいいですよ」

…と大きな声を出してるのはアキバの某大手パソコンショップの店員さん。 話しの内容も声の大きさも大勢の他の客の注意をひいてましたよん。

まあ、パソコン買って翌週には売っちゃう人もいるワケで。
カスタマイズしないで、いつまでも不安定な状態で使ってる人もいるワケで。
まあ、自己責任なワケです。

で、シェアウェアってほんとに便利。
メモリーのデフラグするヤツでUNIXからWindows用に転用されたのがあって、それ使うとグーンと安定するもんね。
時々ファイラーをDOS風に変えてノートパソコンで仕事すると気分いいです。
でもバッテリーが短命なんだよなあ



■詩人は石とも話すハズ!?・・・   99/11/11


チェストの引出しに丸い石があるのを発見。
爪切りをとろうとして見つけたんだけど、どーしたんだっけ、この石。
穴がブツブツあいてる熔岩みたいなヤツで、その楕円形とゆーかフットボールとコッペパンの合の子のような丸さと長さは、なんか黄金比のよーに芸術的。だから拾ってきたんだよなあ。
その粗い表面は宇宙空間をブッ飛んでくる隕石みたいで、コックピットでこれを正面に発見したら思わず身をよじって顔をそむけちゃいそーな、スターウォーズな想像力をかき立ててくれるヤツでもあります。

そーいえば他にも石はいくつかありますねえ。
初めて石を「とっておこう」と思ったのはコランダム。
人造ダイヤモンドとかなんとかで、雑誌の附録についてきた科学の学習材料のサンプルだったもの。
確か硬度が9で、ダイヤの次に硬いとゆー説明と、オニギリみたいなカタチが気に入って最初から「これマイコレクションね」と思わせた石ですね。今もどっかにあるハズです。

ところで「詩人は、石とも話す」とゆーのはお気に入りのマイフレーズ
自分で思いついたコトバですが、まあ、ラディカルな批評性を持ったコトバです。
だって「石と話せないのは、詩人ではない」とも言ってるワケですよん。ふふふ

今までに何度か繰り返し指摘してきたよーに、石から何も感じられないよーな感性のヤツが詩人を気取ることに対する批評なんですね。コレは。
「ただの石じゃないか、そんなものに芸術性はないね。私が言う芸術とは…」
この手の芸術鑑賞とか音楽鑑賞あるいは芸術家そのもの音楽家そのものが意外に多いことに対する疑問がルーツなんだけどさ。そーゆーエラそーな鑑賞態度やスタンスにケチをつけてみる楽しみってあるじゃないですかあ。ひひひ

「石」を小室哲哉や辻仁成に置き換えたりすると、リアルにわかりますよこのコト。なんとサンプルの多いことか。小室を聴いても何も感じないとか辻が評価されるのは間違いだとか。きっとそーゆー風なケチつけにも何か根拠があるんだろーと思って探ってきたんですが、ご本人たちの自己(が主張するTK批判や辻否定の論)の正当化程度以外はなにもないんですねえ。ごく一般的に言っちゃうと成功者へのヤッカミや嫉妬以外には何もなくて、その論を黙って聞いてると苦痛になってくるほど惨めにご本人の認識力やキャラがさらけ出されちゃって、人生ではじめて「時間の無駄」とかを感じちゃうほどでしたん。『宇多田ヒカルの作り方』もその代表じゃんねえ。

ただの石を祭祀するよーなところから始まった宗教の原点と、その霊性をゾクチェン派などの研究を通して極めつつある中沢新一さんや、モダン以降の全知性をアフリカの属性から可塑的に解明する突破口を作ってみせた吉本隆明さんとか、大衆の心性をその共同的展開である霊性や幻想の基底として捉えられるインテリジェンスな人たちが少なからずこの日本にいることには、なんかホッとします。

まあ、ボクにとっては資本主義以降の消費者とゆー受動性(A.ルフェーブル的意味で)こそがそれなんですが、ポストモダン状況で消費者がジャッジすることを認めない東浩紀さんて、やっぱ、まだコドモなのかなあ、なんて思ったりもするんです。ふはは

たぶん
『存在論的、郵便的』で大人になったハズなんだけど。



■日本が作ったWindows・・・   99/11/7


一緒に仕事してるMacユーザーが「Windowsって日本が作ったんですねえ」と言うので、 「そーだよ」と応える。
だって、そーだからさあ。
なんかそんなドキュメントか何かをTVでやってたそーな。
そーそー以前もやってたよね。TBSで。

大阪のダイナウエアの元気のいい文系社長はWindows 31の画面を見ていいました。

   なんや、これ、うちとおないやんかあ

あれはその1年前、マイクロソフトの社員がダイナウエアの「ダイナウインド」を買っていったんだとか。
一太郎には「ジャストウインド」とかあったし、ウインドウはWindowsだけじゃなかったんだよね、当時。
その中でスクロールバーがあったのは「ダイナウインド」だけ。それをマイクロソフトの社員が購入後1年たって発売されたWindows 31にはスクロールバーがついてました。
で、ダイナウエアの社員はビックリなワケです。

ボクも企画書なんかを何枚かこのダイナウエアの統合ソフトで書きました。
「UP2」という統合ソフトがそれで、DOSの上で展開するワープロや表計算やプランニングのアプリが「発行」「引用」「埋め込み」ができるスグレもの。DOSでマルチタスクとゆー感じで、もースゴかったです。ライバルのWindows 31はハードの性能が良くないとノロマでダメで。当時のプロフェッショナルなマシンて「486DX・60MHZ」だったりします。ヒー、懐かしいなあ。
「486DX4・100MHZ」を購入してからよーやくWindows 31を導入ってな風でした。
ま、Windows 31(正確にはWindows 3.1A)はマルチタスク+アルファ程度の性能でMacと比べたらカワイソーだったかもしれません。
アイコンを使って、GUIがどーだろーが、DOSのスピードにはかなわないWindows 31でした。エディターもDOSのVZのスムーススクロールには未だにかなわないでしょ。ウフ

ま、その後どーにかユーザーを増やしたWindows 31ですが、それはカスタマイズの自由さが魅力だったからかも。Windows 31のデフォルトの状態をそっくり変更してプロフェッショナルなビジュアルシェルにし、タスク処理やファイラー機能を強力にしちゃうシェアウエアなんかが続々とユーザーの手で開発されました。フォルダー機能ができたりとか。エディターや通信ソフトも。企業が提供したものではゼロックスが開発したシェルがWindows 30の機能を拡張するやつがあった程度で、多くは個人の開発だったですね。今のLinuxみたいに、みんなでWindows 31の機能を使いやすくしたり拡張していったよーな雰囲気がありました。中にはDOS時代からユーザーが作って鍛えてきた辞書WXシリーズみたいに現在Windows 95や98でも評判のWXGに発展しバイリンガルになった辞書もあるし。

Windows 95でブレイクした以降、マシンとのセットアップ販売でユーザーになった人たちがOSのメモリーリークやIEのあるヴァージョンまでのメモリー管理のトラブルなんかで困ってても、カスタマイズはしないことに異様に違和感を感じるのはDOS経験者や出身者のサガかもしれないけど。まあ、なんか、自業自得な感じがしますね。トラブル回避できないってゆーのは。1、2年前からはメモリー空間のデフラグやリーク対応のシェアウエアもあって、未完成なWindows 95でさえノントラブルランニングできるんだけどさ。

来年発売されるWindows2000は外見はWindows 98っぽくても中身は別物で、正体はWindows NTの発展版つーとこ。この堅牢さはスゴイですよん。
何かと最近話題のLinuxですが、Windows 95などのカスタマイズなどをしない大部分のユーザにはそのスタンスからして全く関係ない代物でしょーね。全部手作業でやらなきゃならない導入から各種設定まではDOS以上のシビアさだろーし。でも9801や9821なんかのNECの旧98シリーズなどはフルに活用できるし、自分で設定できる面白さもからも久しぶりのブームが形成されつつあるのかもしれない、てな気がします。



■ああ、ロンリーハートだ!・・・   99/11/7


今日NISSANの新車「バサラ」のCFを見てカンドー。
なんと音楽は「ロンリーハート」じゃないですかあ!
あのYESの。
宇多田ヒカルの起用といい、今回といい、まあ、なんつーか、ボク好みなのでヨシっと。

そんだけさ。



■オタクなNISSANはどーなるか?・・・   99/10/31


フレンチコメディアンのゴーン氏のおかげでNISSANは甦るんでショーか?
広告にはビーンで、最高執行責任者ゴーンで、売上げはドーンってな感じになるんじゃろか。
そーなると他社はガーンってな風でしゅかねえ。同業他社を応援しゅる心構えがほちいでしゅね。キャ、キャ、キャミ〜

先日NISSANの黒子ちゃんだった人にあってスゲー話しを聞きました。いい話し。オタクな興味をそそる話題です。
日産はトヨタの売上げの半分ですが、車種のラインナップはほぼ同数でした。
売上げ低くてもテマヒマかかるのが日産の体質なんですね。
それに部品会社の利益率が高い。一部上場会社の利益率は1%を割ってますが、ヌアンと日産系部品会社の利益率は1.5%とかあったよーです。

で、問題は自動車です。
一つの商品に資本主義の全てが含まれてる(K,Marx)よーに、自動車にゃ自動車に関する全てが含まれてます、トーゼン。
多彩な車種があって、それぞれのグレードごとに部品まで違うのが日産の特徴でした。
たとえばパワーウインドウのモーターも車種のグレードで違うワケです。
低コストカーは安いモーターでチト音がします。
高級カーは高いモーターで静かです。
この辺が大衆車からエグゼクティヴ向けの車まで同じモーターを使ってる他社との違いなんですねえ。
まるで群馬工場生産の国民機9821初代MATEシリーズみたいな感じです。(笑え!)
個人的な感想ですが。

世界に誇るNECやSONYの品質管理みたいに、日産も世界に誇れるものを持ってます。旧プリンス自動車や旧中島飛行機が持っていた技術とそのプライドは今も後継した日産や富士重工にあります。以前に北米で新しいレオーネの売り出しにコケた以外は海外での評価が高い富士重工は、今もケッコウ順調な業績。
カメラマンは機材が重いんで運搬用に頑丈なボルボを買いますが、ボルボは高いんでセカンドチョイスは富士重工・スバルなんですねえ。それからプロのレーサーやジャガーのオーナーなんかでも評価が高いのは富士重工と日産。ヨーロッパ在住のレーサーもNISSANを讃めてたけど。
まあオタクなチョイスってなワケ。

問題はあんたもオタクなのかどーかとゆーことでしょね。
消費者のチョイスっていい加減だからねえ、なんて言わけどさあ。



■システム変更とか・・・   99/10/31


インターネット関係の環境をWindows 95に移行中。
FTPもWindows 95からPUTするようにしたんで以前より快適です。
うーん、まあ、以前のWindows 31環境は緊急用として永久スタンバイってな感じでしょか、今後はね。
当初Windows 95でFTPアプリを使おうとトライしてたら不安定でしょーがなかったんですねえ、コレが。けっこう有名なのを2〜3種類試したんだけどファイル転送中不安定になって回線が切れちゃったりボクがキレたりするわけです。わはは
昨日からFTPアプリを変更して御機嫌ですう。

で、WEBの企画と制作を請負って仕事やってますが、まあ広告関係者はあのバブリー経験が忘れられないんでしょーか、もーインターネットの低コストの嵐に値切り三昧でストレスモーレツ、知り合いはまたも入院てな毎日です。早く広告業界って全滅しないかなあ、と。

まあ、書きたいことイッパイでラリルレロな気分なんで散歩に行ってこよーな気分です。
行ってこよー、っと。



■6月14日に寝て9月15日に起きた・・・   99/10/30


とゆーのはポルナレフ。
あの「シェリーに口づけ」の大ヒットで有名なエキセントリックなお方です。
何日か前に特集をNHK・BS放送でやってましたねえ。
アルバム『ポルナレフ革命』を最期に沈黙しちゃってますが、どーなさってんでしょーか。ヒジョーに気になる存在。
特に再びメロディー志向に回帰しつつある音楽シーンじゃ、あのポルナレフの偉大さがよーくわかりますね。
「シェリーに口づけ」やビートルズの「Let It Be」やヴァン・ヘイレンの「Jump」なんかも、みーんな単純明快なC調一発の名曲だもんね。そーいえばSHAZNAが「シェリーに口づけ」を歌ってたなあ。

ところでポルナレフは6月14日から9月15日までどーなってんたんでしょー。
トランキライザーでも飲んでたとかなんとか。

気がつくとこの更新も35日ぶり。
企画書とプレゼンと見積の嵐は苦手なんですが、最近は原稿も苦手なんで、どーすんだ、ってな感じでした。

スパゲティ食べながら聴くポルナレフは最高さ。



■まんまるですねえ・・・   99/9/25


お月さんがまんまるです。真ん丸。マンマル。
久しぶりに月なんか観ました。
冷蔵庫にはいつも木ノ実の月餅があるんですが。
食べると太る。



■さよなら98・・・   99/9/24


作業場にはキョーフのNEC−9821オンリーのシステムがあります。
DOS、Windows 31、Windows 95(OSR1)が7台でLANしてます。NOTEもあってこれもLAN対応。キーボードはなんつーか入力がラクチンななんとかとゆーやつや、ナゼか98用のDOS/Vボードとかなんとかとゆーヘンなのがあります。あとはNECのオリジナルでWindows 95以前のタイプとWindows 95対応のものが、まあ、でーんとあります。

昨日、昭島駅前のLAOXへ行って久々にパーツなんぞをチェックしたところ…。98対応のTENキーボードがありません。マウスも1つだけ。カバーが1種類。ウー
心配になって今日は八王子のヨドバシへ。ゲー、ない、ない。98用なんてないんですねえ、もう。メモリーはケッコウ数があるものの、カバーもなかったよーだし。

オプションや周辺機器がなくなりゃホントに終わり。
最近アキバに行ってませんが、あんのかな98パーツ。

単なるDOS環境では軽快な98くん。LinuxやBSD環境でも軽快でしょーが、まあWindows環境じゃもーツカレタ感じもチョット。ウーン、このWindows 31のレスポンスにゃ血圧がアブナイし。まーよーやくWindows 95へ大部分を移行する時期がきたよーな気が。でもWindows 95に対応できるのは3台。まあ、そのうち1台はWindows NTで2CPUのハードなヤツ。それをWindows2000にしよーかーなどと思案中。

締め切りが近いと余計なことがアタマを巡るのは小学校以来のビョーキだろーか。きゃはは



■ナイスな野獣系・・・   99/9/17


宮台真司さんの『野獣系で行こう!!』を読むとなんでもかんでも突っ込んでる宮台さんの分かりニクイかもしれない全体像がチョット分かりやすくなってる気がします。
たとえば吉本隆明さんへの評価なんかが面白く読めました。

それから東浩紀さんがらみのインタビュー原稿(非公開)が期間限定でwebで公開されてますが、それを読むと宮台さんていちばん正統なニューアカ継承者なんだなって思いました。東さんは人脈的にはニューアカ系ですが、全く離れたスタンスの宮台さんが全く正当(正統)にニューアカの提起した問題に解を与えてるのは、やっぱり大きな発見ですねえ。

まあ趣味で読んでるとルーマンてハーバーマスよりマルクスなんで異和感全然ないけどね。それよりハーバーマスだけじゃなくて左翼的なもんとか市民運動的なものほど非マルクスなのはなんででしょー、なんつー疑問が前からあるんだけどさ。



■働くのはバカのこころ?・・・   99/9/11


「デイトレーダー」なんつー言葉が出て来ましたね。毎日証券をトレードして収入にしてる人です。以前に大手BBSでそんな感じの人たちの情報のやり取りを見学させてもらいましたが、まー、その最中にバブル崩壊で、多くの人も崩壊しちゃったよーでした。


あちこちにある湧き水や井戸でアルプスの水をガブガブ飲んでちょっと健康な感じで虚構都市東京に帰ると早速アポイント。ビジネスはスピードだっちゅーけど、ナマケものにゃつらいもんです。うげー

ひさしぶりに行くブロスパロットを楽しみに、いっぱいの駐車場で山ンバギャルの数なんか数えてると、駐車スペースを探してるブローカーがボソリと言いました。


  「働いてるヤツあ、バカだって。言われちゃったよー」


そりゃ、そーなんですが、そんな哲学的真理を何気なく口にしてしまうのは誰でしょ?
それがデイトレーダーのオッサンだったんですねえ。日収30万円以上だとか。
バカにもなれないボクはデイトレーダーになれなくてマンスリートレーダーでクールな日々を過ごしてる自分を想像してみましたあ。いいなあ



■ダッタンそば・・・   99/9/8


ダッタンそば”と聞いて、「アレね!」と知っていれば、その人はホントにグルメさん! もちろんこのグルメってゆーのは揶揄じゃありません。まあフランス料理にウン千円以上使うのは単バカさん(単なるバカの略である)だし、街のジャンクフードを味わえないのはこのサイトじゃ問題外さんでしかないけどね。

えー、“苦そば”とか“甘そば”とかいうそばのジャンル分けもあるよーですね、そばフリークの世界じゃ。ボクはそばは好きですがそばフリークじゃないので、こーいった知識はどーでもいいんだけど、そば畑のある大きな街の中くらいの本屋でそばの本を立ち読みしてたら、その本にそー書いてあったんですねえ。ついでに私見では“苦そば”の究極の種類が“ダッタンそば”じゃないかと思います。
それからそばの作り方の違いで「更科そば」と「田舎そば」がありますが、“苦そば”は「田舎そば」にするのがあってるのかな、などと想像してます。

で、食べました“ダッタンそば”。
色は黄色っぽくて、味はちょっと苦いです。どっか薬膳みたいな感じもしちゃう味ですが、とにかく美味い!!! おー、こりゃ野生の味やなあ、タタール(ダッタン)の大草原が目に浮かんできちゃうよーな。痩せた土地で乾季が長くて、ちと殺風景な草原で、チンギス=ハンの血を引く人たちが背のチッコイ馬なんかを乗り回してます。そばで体調を整えて、スタミナは山羊の乳のチーズなんかでとるんでしょーか。そんな感じの光景ね。
そば屋さんやものの本の説明によると“ダッタンそば”は栄養が豊富。ルチンが普通のそば(甘そば)の100倍とか。ほかにもなんだかかいろいろ入ってます。トリプトファンとかミネラルとかナントカいっぱーい。

ついでに、余計なことでしゅが、あの、「イイモノいっぱーい」のマツキヨのCMの女の子は、ぬあんと、NHK教育CHのイタリヤ語講座に出てるんですねえ。ちとオドロイタんです。そんだけ。



■バーカの有害指定・・・   99/9/7


『完全自殺マニュアル』が有害図書指定になったとか。
東京都ではまだですが、5〜6県で指定を受けたらしいです。どんな県でしょかねえ。
理由は、この本の影響で自殺したと思われる若者が何人かいる、とゆーことらしい。何人か、だとさ。自殺現場に本があったとか、さ。

ところで今流行のナウイ自殺は年間3万ウン千人とか。
ここ数年急激に増えているそーな。
特に去年今年はウナギ昇りで天まで昇るとかナントカ。
が、マスコミが煽りたてたイジメ自殺を別にすれば(イヤ!含めても)若者の自殺は増えていないのが事実。

ここんとこ急激に増加した数千人の自殺の大部分は不況のよるもの。リストラや会社倒産によるものが多い。まあ、破産宣告順番待ちが200万人もいるんじゃ、トーゼンかあ。
某有名な言葉のよーに「自殺は社会による他殺である」なんていったら犯人は誰でしょネ。

経済や社会や対して国家が責任を持つなら(でなけりゃ、何に対して責任を持つのかね、国家とか政府は、あーん?)、もちろん自殺の責任は国家にもあるでしょー。

つまり、有害指定を受けるつーことね、国家が。自殺の原因に責任負うんだからさ。
で、有害なものはこの世から消去する…これがポイントでーす。

うんで、国家を有害指定して、みんなから見えないところに置くワケ。見えにくいトコね。

うーん、するってーと、考えよーによっては首都機能移転っていいゾ。
見たくもない、役にも立たない国会とかを東京の二番煎じを狙ってる魅力のない「東京ビョー」エリアに放置する
んでしょ。ナーイス!!!

けっこう、ナイスです、首都機能移転って。けけけ



■バーカの電話・・・   99/9/1


出版社からの電話を待って、ちと待機。
椅子はぶっ壊れ、室温は30数度(一説に38度らしいが)なんでもちろんエアコンで30度にして、まあ電気代がねえ。空気浄化装置のフィルターは新品なのに目詰まりしちゃうブレードランナー第3話風なこの空間…。左肺にも見つかったウイルス感染症の原因と関係ないかなあ、などと考えつつ脂肪肝の診察に納得する有り様な毎日。
と、電話。ひゃっほー、グッドタイミング。あんたは運がイイゼエ、てな感じ。

「おー、生きてる?」

オー、コイツは年に1、2度電話をしてくるトンデモ君だった。
1年中この作業場の留守録にしか電話できなくって怒ってるらしい某財閥系某社某次期社長より運がイイヤツ。次期社長ゴメンナサイ。

で、コイツは、お前レバノンじゃねーの。そーか、今はアフガンだよな。それともチェチェン…とか言いたいこと言ってるけど、まあ、原因はボクにもありますんで。

アフガンでソ連軍を蹴散らした“パンジシールの虎”ことマスード将軍の写真集?なんか出しちゃった某カメラマンをホームで見かけたのは8月はじめ頃の真昼のJR国立駅。「戦場では音に敏感になります。自分に向かってくる銃弾はキーンとした音になりますから。他に向けられた銃弾はダーンという音なんですよ」とドップラー効果による銃撃音の見分け方を披露してリアルとはテクノロジカルだ、と確認させてくれるカメラマンですね、彼は。なんつーコトをちょっとアタマにかすめつつトンデモ君の電話に耳を傾けると、音が悪いしワウフラッターつき。東京駅から携帯電話だとか。前も東京駅と50qくらい離れたこの作業場でケータイで話したらワウフラッターつきでした。どーにかなんないのかねえ。

今日仕事休みで遊んでンだけどサ。うんでさー、金だよ、金。デカイ宗教団体の幹部とつるんで金もーけの話し。特殊な話しだからお前に話しとこーと思って。突然なんだけど○○航空の社長室に電話かけていきなり搭乗、いきなり某国首都行きかな、今日。ビジネス、ビジネス…

アー、ハイハイ、ご勝手に。

で、また電話スッからさー

あんまりよく分からないのである。トンデモ君は何が言いたかったんでしょーか?
キツネの黒焼きインターネットで売らない?とか言ってたしなあ、以前は。名だたる某流宗家と何か企んでベトナム行ったり。貨物要員でいきなりフランス行き空路にただ乗りしたり。
何やってもいいけど、ちゃんとした結果を見たことがないのも不思議。ビジネスのね。
イスラム教徒の殺し屋に仕事をくれと言われてコマッタとか言ってたことがあるしなあ。
シラクに会うためにパリで1ヶ月も待たされたオヤジの鞄持ちやったり。
まあ、無事でいてくれよ、トンデモ君。


ところでボクのビジネスにCFで森高千里が乗ってる車の同型車を売るとゆーのがあるんだけど、現在日本で3台。誰か買わないかなあ、と。アンタが4台目ってな感じでしょーか、ね。


本日、聖跡桜ヶ丘で観たワーゲンのニュービートルはカッコヨカッタです。
先日、国立でも観たホワイトのビートルなんか最高だったな。


そーいえば、昨日TVにポルポト派の指導者だったイエン・サリが出てたけど、ポルポト派と現政権の内戦時代にジャングルの中でイエン・サリにフレンチで接待されたカメラマンの某氏は元気でしょーか。どっかのBBSでハンドルを見たよーな気もするなあ。



■観たよ南条あやちゃん・・・   99/8/31


フジTVで『インターネットな女たち』を観ました。
ネットでBFをゲットした女の子や銀座のママさんだのインターネットな女性がいろいろ出ました。

もちろん印象に残ったのは最後に出た南条あやちゃん。
画面では本名でしたが、その顔がなんだかさびしそうでした。
あの収録から2週間もしないで他界した彼女の最後の詩と日記のコントラストが文章そのものより気になります。



■アメリカに従属してるって?・・・   99/8/28


自民党からマヌケ保守論客に勘違いフェミニスト、括りが朝ナマ新世代の論客とかってゆー笑うのにも疲れるメンバーでますます魅力を失いつつある朝ナマに夏の肝試しと思って付き合ったのが運のつき。だってえ、疲れたあ。

新しい発見はただ一つ。

日本はアメリカに従属してる、

つまり自立していない、とゆー従属論をパネラー全員が認めたこと。

ぎゃははは、おそい! おそ過ぎる!

そりゃー、もう、何十年も前から主張してる人たちがいるの、

知らないのかなあ。

いや、知らんふりしてるんだよね、気が小さいから。

怯えてるからさ。

何十年も前から主張してるのは共産党だ

っつーのは、最近一部で出てきた共産党オタクちゃんばかりか相当数の人たちが知ってることだしね。
「対米従属論」…こりゃ、だって、共産党の基本的な認識でしょ。この対米従属論とゆー認識にたって共産党のさまざまな戦略やら活動やらが練られてるんだろーから、さ。

問題は…

この対米従属論を共産党が主張しても反対され無視されてきた、この数十年。いやガイキチ扱いされてきたね、共産党は。

自民党ほか多くの人は反対するか馬耳東風ってな感じだったでしょ。無視か反対ね。
ところが…
それが、ここへ来て、朝ナマの天皇であられる田原さんが対米従属論を主張すると、「そのとおり!」てな感じ。自民党から論客?までね。
どーしてだ…

チビクロサンボ狩りで差別狩りやってるつもりになったりしてんだったら、アカ狩りや反ユダヤとゆー地球レベルの都市伝説風真性差別意識をテーマにでもした方がいいんじゃないのかね。

「東京ビョー」「カッペ批判」はその身近な相転移だからさあ。

と思いつつ、ノロマな羊くんが自問自答し続けているのがこのサイトなのは繰り返し言及してる通りでやんすよん。

グローバルがなんとか、とか、地球が、エコロジーがどーした、とか、知らないけど。「人間的自然」や「自然的人間」や「類的存在」だの「個別的存在」だったかなんだか、そんな27才のマルクスのノートの方が面白いと思うのが羊の心ってなワケさ。


しかし、カッペ狩りとゆーのはあるんだろーか?



■宇多田ヒカルは小室のファン?・・・   99/8/24


8月12日(木)04時33分の「Message from Hikki」によれば宇多田ヒカルちゃんは 「TM Networkの”Get Wild”!」に「マジで惚れてた!」「シティーハンターの」「エンディングの映像がマッチしてて、一生忘れないと思う。」とのこと。

「一番印象に残ってる」とゆー5歳時の記憶だって。

うおー、HikkiがTKをどう評価するかって興味があったんだけど。
すおーだっつたのかあ、てな感じです。


うんでは気がついたことは発作的に書きなぐりー。

TKとかTM NetworkはFUNKやHipHopじゃ進んでました。ロックやポップスサイドの存在としては。

駆け出しの頃、TKはロック雑誌でレコード評なんか書いてて、ある時スタンリー・クラークのアルバム『スクール・デイズ』を取り上げて“ハードロックとファンクで2度美味しい”と批評してるのをみて、ボクはこの人は注目だなあ、と思いましたよん。ロックとファンクの両刀使いなんていなかったからね、その頃。

TKの友人のあるキーボードプレイヤーにチック・コリアやハービー・ハンコックを聴かせたら「わかんない」って言われちゃったもんね。他にもロックバンドをやってる知り合いに聴いてもらったんだけど「何これ」とかヒドイと「音楽かよ」ってなレスポンスばかり。

なんつーか、新しいジャンルが次々と登場しつつ、各ジャンルのファンはお互いに無視しあってるよーな感じがあって。まあ、無視つーか、完全にコンフリクトしてたな。一般的なファンだと興味のないジャンルを無視どころか罵倒してたからねえ。自分のバンドを入賞させないコンクールをボイコットしたりすんのもいたくらいで、他者には批判的否定的なのがカッコイイくらいだったでしょー。特にサブカルの源流となるよーな皆さんの間じゃね。ロック雑誌やサブカル雑誌同士の論争とか内ゲバ?があったくらいだからねえ。サブカル界は全共闘のママごと版だったのさ。クハハハ。みんなすげー勝手。元気だったけどさ。渋谷陽一の「プログレはロックの批評だ」とゆーよーな見解を除けば、あとは面白いのなかったね。TKの『スクール・デイズ』批評なんか理解出来るやついなかったでしょー、たぶん。ジャンルを超えて、それも作品そのものにおいて批評できたのはTKだけ。あとはオタクコメントのオンパレードだからねえ、ロック評論もレコード評も。岩谷宏は単なるバカだったし。まあロック批評に政治を持込んだスタンスは新鮮だったけど。インスパイアされた上野俊哉さんが現在マトモなのはパチパチもんですう。

そんな雰囲気つーか状況の中で、しかし、TKはモダンジャズが電気を取り入れて大きくシフトしてそこからファンクが誕生する時の大きな立て役者スタンリー・クラークを聴いちゃうんですね。ロックやポップスサイドの人間のハズなのに。それも一応ファンクを極めたS・クラークがハードロックとゆーものに興味を持ったとゆーそこんトコをとらえてTKもS・クラークを聴いてみる、ロック雑誌で紹介してみるってゆー芸をやってみるんですね、この人は。TKは。もー、ニクイ。人気歌手西条某や白竜のバックなんかやりながら、さ。

その頃から通ウケとかプロに人気のファンクミュージシャンやハードコアなファンカーは幾人かいました。ハービー・ハンコックを筆頭に、レニー・ホワイトだのジョージ・デュークだの。まあ元をたどっていくとマイルス系なんだけどさあ。

そこでも小数派だったアルフォンソ・ムゾーンとかが最近一部で売込みだされてます。これにストーン・アライアンスとかも出て来たらもー大変。革命党の党員全員がレーニンやトロツキーのクローンになったよーなもんです。ガオー

そしてその頃ビリー・コブハムの『インナー・コンフリクツ』なんか聴きながら「あいつスペクトラムのヤン・ハマー、リングモジュレーターまで完コピだって」なんつってたらプロのキーボダーかプロデューサーですよゼッタイ。笹路クラスだよそりゃ。ふっほほほ
まあ、アメリカなんかじゃH・ハンコックのフレーズを全部コピーしてるハンコックオタクちゃんが幾人もいるよーですが。


うーんと元に戻って?
で、Hikkiは新しい「Get Wild」に関してせつない?思いを告白するのであった。「あの10年前の映像と音との思い出があまりにもカンペキすぎて、だからモロすぎて、壊すのが怖くて新しいヤツ聴けないよぅ」と。

うーん、すげえ。
表現と亮受(≧感想)が相互に照応する弁証法的関係であるならば、Hikkiは何を感じ、何を見抜いているのか?

「映像と音との思い出があまりにもカンペキすぎて、だからモロすぎて」とゆーのはHikkiの思い出なんだが、それだけじゃないんだね。それは10年前の時点において作品が彼女にとってカンペキであったこと、当時のアニメソングとして完成度をも示してますう。ひとりのオーディエンスの亮受内容ってなワケだ。もちろんそれはTKの表現能力の高さを示してるワケだし、商品としての完成度を示してるワケね。

そしてコワイのはHikkiの感受性。「カンペキすぎて、だからモロすぎて」とゆー感想は10年間の時を経たパースペクティヴとして批評的なスタンス。10年の経年変化が単なる記憶にならないで、批評性としてのスタンスを獲得してるスゴサは、ウンもー、です。

えっ、どこが批評的かって? そりゃ「カンペキすぎて、だからモロすぎて」とゆー彼女の思いに表出してる批評性ですよ。ダイレクトにいえばHikkiはTKの完成度の高さが「カンペキすぎ」であり「モロすぎ」であることを見抜いてるんですね。あるTPOでのカンペキさはTPOが変わればモロさになり得るのは当たり前。すでに10年間の時を経るというTPOの変化そのものが彼女の批評性を高めてると同時に、彼女はそれを自覚してるからこそ10年前の亮受を「壊すのが怖くて新しいヤツ聴けないよぅ」と自己表明しちゃう。

ココにHikkiの音楽の基本もあります。もちろんTKの表現の基本もあるなあ。
たぶん彼女は経年変化しない、いつ聴いても、いくつの歳の人が聴いても、OKってな音楽を目標にしてると思いますね。TKはその実績でも明らかな、TPOでジャストフィットしたものがとりあえず目標でしょー。


TPOでジャストフィットしながらも時がたってもOKなもの。

うーん、こりゃ分かりやすいかな。
当時大ヒット、今名曲ってなやつでしょ。


今ジャストフィットしながらも“今”に届かないもの。

こりゃミリオンセラー級大ヒットの条件かも。
まあ、このサイトで取り上げてるユーミンやTKクラスの大ヒットの条件でしょう。
“今”に届かないから、届かせようとする“何か”をスターターすると大ヒットになるんですね。

でも、それは音楽性とか芸術性とかいう陳腐なものじゃないのさ。
それが全然わかんない
プロはHikkiのヒットの理由を「音楽性」と誤読しちゃうんだね。正確には誤読しちゃうんじゃなく、そーゆー読解しかできないつーこと。認識力や批評性がない、ってことさ。ナゼかプロに多いんでしゅよ。けけけ


最後に、「Get Wild」で「途中でブレークして、エレクトーンかな?で弾いたメロディーが「ポン♪ポン♪ポロロン♪」って言っててヴォイスパッドかなんかでコードを弾いてるところが一番の感動の山だったワ☆」と思い出を述べてるHikki。
アイアン・バタフライのアニメソングみたいな曲とか聴くと、TKのカンペキさがUSAでも通用するもんだろーと確信できるんだよ、コレが。


最近はTKのパースペクティブは日本でのマーケティングから乖離しつつあるんで、それがどーいった意味なのかが今後の楽しみですね。

TKみたいに世界がターゲットじゃないけど、都市をターゲットにして展開されてきたオシャレがバブル崩壊と前後しながら浮き足立ったユーミンは『春よ』でアクロバットみたいに見事に着地しました。着物や染物に囲まれたセイシュンを過ごしたユーミンには当然かもしれないけどね。
TKの着地?がTM Networkなら、そりゃなんだろ。YMO最後のアルバムと交錯するタイミングのTKの先祖返りは、どーもテクノとの最終的なケリのつけ方を巡る問題になるよーな気がしますねえ。20年も前になるH・ハンコックやマテリアルですでにDJは出来上がってたし、B・コブハムなんかのギミックやパフォーマンスもその頃。
結局再生産されてないのはシンプルで簡単なメロディ
最もベーシックで、音楽の原点である、単音で奏でられ発声されるメロディ。
オーケストレーションも和声もリズムも、それらで構成された全体を奪いとっても流れるのはメロディだもんね。
スケールやモードを尽くしてメロディの勝負になるですよ、キット。

もちろんHikkiはすでにコレじゃがな。
歴史的?にはロックとロマンの出会いと評されたM・ポルナレフなんかコレだしね。

HikkiとTKの差は、届くか、届けようとするか。
届くようにオーディエンス側のスターターを刺激するTKのテクニカルなアプローチと、
オーディエンスに届いちゃうHikkiのメロディ。


…てな感じなんだが。
再考したらリライトするですよ、この項は。



■『ブラック・レイン』ウツクシイ画面・・・   99/8/20


画面はまったくブレランなブラレン、と言えばご存知『ブラック・レイン』。観ました、?回目。

あの漆黒のシーンに艶めかしいカラー。アナログフィルムの映像美の極致ってな感じです。
少ない露光にフィルムの増感で対応したのか、どうか? この辺の評価つーか批評で批評能力が確認できますね、そのレベルが。マテリアルとテクノロジーをおさえてないと無理なのさ。「画面がキレイだった」のは誰でも言える感想でしかないから。「スキ」「キライ」ですべてをジャッジするポストモダン最悪の大バカぶりはサブカルから芸術まで今やアクビもんだし。まずCSもそのレベルだしね。


さてさて、あのウツクシイ画面のヒミツは…
カラーの発色がいい画面を観てアナログカメラ経験者が考えるのが「増感」でしょー。
でも問題があります。まず黒ツブレが多いよね。増感してるとしたらオカシイぞ。増感してるのに暗部がツブレるワケがない。暗部を描くために増感するんだしさ。
それに色温度が上がってない。もうちょいアナログカメラに詳しけりゃご存知でしょーが、増感すると色温度が上がります。これはこれで味があるんでボクなんかもカメラマンにゃよく注文したし、自分の仕事でテイストがあうカメラマンて色温度なんかを使いこなしてくれるタイプだしね。
うーん、黒ツブレしてて色温度が上がってない画面、もちろんカラー部分の発色はいいとゆーことですなー。

アチテュードの高いフィルムで低露光撮影、てなワケか。
高感度フィルムで液温下げてさっさっと現像かな。
まあ、以上がボクの判断ですね。


オタキングがよくブレランを材料にオタク的にレクチャーしてたみたいだけど、こーゆーことはテーマにしたことあるのかな?

では、もー一発。
刑事ニック(M・ダグラス)が訪れたマサこと松本警部補(高倉健)の自宅の居間に「功者労」とゆー書面の額が飾ってあります。
うひゃひゃひゃ、こりゃどー考えたって「功労者」のことでしょ。
もしかするとリドリー・スコットはジョークでコレやったんじゃないのと思ってしまうほどウケちゃいました。うーん「七味」の文字が画面に広がったり、ちょっと日本フェチ風。ラストの方で大阪府警の署内でのシーンも見事ですね。カメラのパンからその他大勢のちょっとした演技まで、あんなに上手に“日本”を表現できるなんて大したもん。

「功者労」「七味」を観てとっさに思い出しのたのが『エイリアン』で出てくる古い「平凡パンチ」の表紙。小道具さんもクローしてますねえ。
でも、そーいったマテリアルの準備とテクニカルな工夫が表現を完成に導くんですね。
表現や芸術が感性だとか個性だとかゆー言い分ほどつまらないもんはないです。
そんなのは表現に仮託した自己愛の駄目押しに過ぎないから。(ちょっと香山リカ風)

と思った頃から、音楽も映画も絵も見てないなあ。
本場冷麺でも探してる方が楽しいんだもんね。けけけ


つーことで、アナログフィルムの理解出来ないヤツはデジタル映像も作れないと力説してた高城剛さんなんて、やっぱよく知ってると思う。つーか、ホントに制作の現場を知ってるんだよね。ついでにCG学校なんかでCGならってもプロのCG作家が登場しない日本てもーサイコーな感じい。けけけ



■ちょそんな味・・・   99/8/20


浅草や上野のコリア街でもなくなったのが本場ちょそんな味の冷麺。
以前、浅草でコリアンのお店の主人をつかまえて「醤油味じゃない冷麺はないの?」と聞いたら「日本人向けに醤油味になってきたんだ」とのこと。「本国製造の味も醤油味になった」とのことでした。
うー、残念。 あの肉のダシと、キムチの味を和えた本場コリアン冷麺はないのでしょーか。
とここ数年失意の中にあったのですが、先日かすかな希望と遭遇。
場所は泣くも黙るファミレスのジョナサン。
ああー、そーだー、ジョナサンの冷麺は醤油味じゃなくて本場ちょそんを思い起させる肉ダシキムチ味のヒーヒー風なスープなんですね。
行くぞ、ジョナサン、ちょそんな味がある限りい…。
ところで中野駅前のソウル冷麺は健在だろーか?



■Jeff Beckに感動する・・・   99/8/19


観ましたJeff Beck。NHKのBS放送で。

相変わらずスゴイです。

やっぱりワイヤード制作の時期に出てたアイディアがいちばんな感じがします。
ヤン・ハマーのパートを女性のギタリストが弾いてましたが、さりげなくヴァン・ヘイレンのマネなんかしてお茶目ですねえ。
ベックのギターはテクニカルなんですが技巧に走ってるんじゃないとこがシブイです。
またカーマイン・アピスなんかと組んでた頃のブルースも評判だけど、乾いたブルースつー感じのベックのプレイは、やっぱりベックな感じ?

アイディアでもプレイでもギターを圧倒し、ロックに衝撃を与えたヤン・ハマーとベックのコラボは最高でしたが、そのシンセやキーボードなしでステージを何気なくこなしちゃうベックもこわいもの知らずですね。
ギター2名にベースとドラム。
シンプルな構成であれだけの聴かせるプレイを見ると、あらためて3名だったクリームなんかのスゴサがわかります。

明日はワイヤードをクリームを聴く予定に決定!



■すっぽんに追われる・・・   99/8/15


本日小石川後楽園の池ですっぽんと対面。
人馴れしてるよーで、このすっぽん君はクビを伸ばして近寄ってきます。
すっぽん屋?で売ってるヤツより大きい。クビを伸ばすと70cmくらい。
岸に上がってこちらにこようとして必死に岸に前脚をかけてクビを伸ばします。
伸ばしたクビでジーっとこっちを見ながら前脚に力を入れるみたいですが、ガクンとダウン。
えー、そんなことを何回も繰り返してるすっぽん君。
こっちが池の端まで歩くと、すっぽん君も2匹で仲良く池の端まできました。
また前脚をかけて踏ん張ります。
こいつあ、そーとー人様からエサをもらってるんでしょネ。
ところですっぽん君は無事岸に上がれたとしたら、どーするんでしょ?
エサをくれえ、とボクを追いかけて来るのだろーか?
普通すっぽんはカメより神経質で人間には近づきません。興福寺の池なんかだとよくわかりますね。
このすっぽんは例外か、大胆か、甘ったれか?
今度はエサを持ってこよー、と固い決意をしながら神楽坂を目指しました。
遠くにはイシガメ君が日当ぼっこなんかしてて、橋を渡るとアカミミガメ君もこっちを見上げてました。

平和な日だなあ。



■タメ口きいて消えるオナゴ・・・   99/8/7


●同じだった男女のコトバ

昔、むかし、男女は同じであったとか。
ま、話し言葉ですね。日常に会話する時の。
フツーのタメ口つーか、平常心で同じ言葉使いだったよーです。
つまり、コギャル並みってゆー感じい。


●国家には違いが必要

ところが明治時代になって、女言葉が作られました
そーなのヨ、とか、そーだワ、とかさ。
そーやって男女間に差異を作ることが必要になったんですね。
明治という近代国家を目指すために。富国強兵とか。

どーしてかって、国家は差異の集積だからさ。 ワザとでも差異差別を作らないと国家は成立しませんので。

強いオレが弱いオマエを守ってやるぜ、それが国家ってものよ、てなコトでしょか。強い役を登場させるためにワザワザ弱い役が必要なんでしょ、プッ。


●差別を固定化する法律

その差異を法律で固定化し、それを強制管理する装置こそが近代国家(≧法治国家)なんですねえ。部族共同体だったり酋長がいたりしたら、ケルトの制度的井戸端会議やインディアンの酋長の判断みたいにTPOによっていちばん合理的な結論が出せたり、連日話し合ったりして常に最適化が図れるし、それを上手に仕切れる人が長として選ばれるワケでしょ。法治国家では「法律だから」という理由だけで全てが一面的価値だけの判断で処理されてっちゃうんですね。バカの一つ覚えの原点みたいなもんです、こりゃ。事務処理ね。その専門家が官僚ですが。

法治国家の法律は立法時の権力にとっての最適化でしかなく、まもなく風化しはじめちゃいますからね。動態である社会に静態でしかない形式論理を持ち込んだ法というものは、やがて社会にとって最大の障害になってきますよ、キット。


●近代化で差別化した男女

で、ま、江戸時代まで男女の言葉の差がないとして。
ま、野良仕事なんかしながら、「おみゃあ」「おみゃあよお」とかってな感じの男女差のまったくない言葉でしゃべってたワケです。今だって、近代化っつー洗脳をあまり受けてない世代の田舎のオジイちゃんやオバアちゃんの言葉は男女の区別がつかないでしょ。


●女性の商品化

ところが同じ江戸時代だって吉原なんか色街じゃ女言葉があったんざんすね。「ありんすコトバ」とかさ。

どーしてか?

そりゃ、マーケティングの初歩でっせ。
だって、色街じゃ女性は商品なんで、差別化して際立たせる必要があったんですよん。女性に付加価値を付けるワケね。
特に江戸の色街にゃ、上方の公家言葉のニュアンスを導入したりして、イロイロ工夫するんですウ。
創意と工夫。
商売とマーケティングの基礎
でっせエ。

そんなワケで女性の話し言葉ができましたん。それが女性の特徴であり価値だったんです。


うーん、象徴的女性管理はそのまま国家管理のベースだなあ。まあ、エンゲルスとかマルキシズムとかにとっては常識なんでしょーがねえ。こーゆー認識。


●全面サブカル化へ

石油ショック以降資本主義経済のフラット化が進行し、経済成長しても価値基準がワンパターンという状況で、ついに80年代には文化もフラット化してサブカルへ、てな感じです。全面サブカル化。文化が商品であることがハッキリしたのはイイコトです。で、その混乱?をポストモダンは遊んだワケですが、逆に“遊ぶ”以外には取り扱い方はないワケで、この時、遊びを否定するトレンドが保守であり反動であるのも当り前ですね。


●タメ口で消えた女性

90年代にストリートでの使用言語もフラット化して、コギャルの言葉が非女性化。
で、気がついたら生活文化、社会文化レベルでも固有価値を失ったコギャルは自ら積極的に売り出しました。

コギャルは女性文化としての特徴や固有価値は失っているで、自ら女性性を売り出していかないと単なるストリートの風景になっちゃうんですね。売り出しが「ウリ」なのは、まあ、資本主義的ダイレクトさでしょーか。


まあ、単に女性の固有の価値が消失しつつあるのをどう認識するか、なんですが。
固有の価値を失ったからこそ売り込む「ウリ」も、単に全面フラット化じゃねーか、とクールに認識するのも自由ですよねえ。

文化のフラット化→バカ化とコギャルのウリはこーゆー背景があるのを知ってた方がいいかもね、なんて思いますウ。

どう?


●新人類世代女性からはじまったホーカイ

コギャルが男言葉を使いだしたとゆーよりも、コギャルが非女性化したっつー結果でしょね。これらに先がけて新人類世代の若い女性が「ボク」を使って、チョットつっぱって見せてましたね。するとフラット化、バカ化の一端を担ったのは新人類世代の「ボク」女だったつーこと? まあ大塚英志さんなんか、ちゃんと女性解放論者?やフェミニズムなんとかを理論的にコッパ微塵にしてくれたから、イインだけど。

なんかワイルドな理屈ですが、イケるかなあ。