TYO & SKY/DOMO/羊通信/羊通信パラパラ版/ネタちょー(ネタ募集中)
そーいえば10日くらい前に新聞に発表されてた投信のワースト10が笑えるんだよん。 マイナス20%の損害を客にプレゼントしてくれてる日興や野村をトップに、 マイナス3%ほどの国際証券まで。 まあ、共通してんのは自己判断能力がない人には立派に見える3社つーことかなあ。 パートナーズもあるけどさ。 去年公的信託の元本割れが小さな記事になって出た時にもフ〜ンとか思ったんだけどさ。 自己判断能力がない人には立派に見えるものって、投信から地方債はもちろん日本国の国債まで、 ほんとに食えないもんばかりだね。 日産の株価は300円がテキトーと言った証券会社がトヨタのインサイダー取引疑惑起こしたり、 珍しくまともなベンチャー株価に難クセつけて、そのくせ自分じゃそれをこっそり買ってたり、 かつて立派に見えた企業の笑えるザマってスッゴク迷惑でもあるんだよね。ウザイだけ。 まあ人間でも同じよーなヤツって多いけどさ。 そーゆーのって自分で逝っちゃうからイイケドね。 資本主義は自分で墓穴を掘る、ってゆーマルクスくんに聞くまでもないよなあ。 ¥160からチェックしてた日揮は今¥800代。もーすぐ¥900だなあ。 ¥100代からのチェック組は今ほとんど2倍以上、¥400〜¥500代になったのが多いね。 持田製薬なんかは¥1000代を前進中だしい。 どれも最初のチェック段階では業績に特にマイナスのないコトを確認して、 それにちょっとある分析をしてセレクト。あとはテクニカル分析とあわせて買い時売り時をキメるだけえ。 シャープに三洋、昭和電工に東洋紡。まあ、どれもこれもよくイってくれるよなあ、と。 去年の夏にハイテク・通信関連バブルでSONYなんかの株価が適正だと思ってた人の その後がイタイよね。光通信なんて問題外だけど。あ、コレって浅田さんも指摘してたよなあ。 いつも浅田さんの悪口ばっかり書いてるようなゲス雑誌にも浅田さんて寛容だしい、と。 SPAなんかでお笑特集にしてくれるガキな自称デイトーレーダーたちの末期が爆笑もんでしょ。 アメリカでも日本でも個人投資家の数が大幅減。 インターネットが出来ればデイトレだと思ってるお子様たちの500万円スったり、 1000万円投げたりした姿って、ホントにカッコイイよねえ。蕩尽でしょー、栗本さんってば。(笑) リアルフィールドにして完全なポストモダ〜ンな証券取引。 ニューアカもなあ、当時ポストモダン理論そのままのケインズの株式理論で説明なんてやってたけど、 読者は所詮自分を代入して遊べるやり方でしかアプローチできないからねえ。 オタクのはしりが泉麻人だった事実から考察する向きがないのと同じでさあ。 宮台さんも関わってる『戦後若者世代の光芒』なんて誰も読んでないものね。 アカデミックには基本文獻へのチェックなしつーことでその時点で失格だけどな、そんなの。 誰もサブカルを考察できないワケかあ。 まあいいや。 うんで株式に戻ってと。 誰も金持ちになれないのかあ、なんていわないよん。 松井証券の社長さんみたいに 「株式って損するもんですよ。だから儲かる人がいるんだから」 てなこと言っちゃう人って、もーソリッドでマテリアルだねえ。 まあ生態学的にも利得するのは4%だしなあ。 4%を目指そーね。 目指すだけならタダだからさ。 目指すだけ、ならね。 NAMみたいなもんだよ。(笑) ボクはイヤだけど、そんなの。(^^)v
映画「バトル・ロワイヤル」に関するコメントがどんなもんだか全然知らないけどお、 勝手に想像すると、たぶん、ハズした批評ばっかだろーなあ、と。 青春にも映画にも暴力はつきものだけど、 バトル・ロワイヤルが非西欧的で特徴的なのは同級生同士で殺し合うコトでしょーか。 青春ものでコッポラの「アウトサイダー」や「ランブル・フィッシュ」は バトルする当事者に上下関係や兄弟関係があって、 典型的なファザーコンプレックスの父子相伝の物語になってます。 その意味ではDG的です。「文化は、まず垂直の力のドラマ」と浅田さんが『構造と力』で書いてるヤツね。(笑) さらに「スタンド・バイ・ミー」では死者を見つけに行くという ニーチェ=ハイデガー的な、つまり西欧的な大人への物語りの典型にもなってますねえ。 ところで、バトル・ロワイヤルは「生」を見つけに行くという物語であり、 さらに、そのために戦う相手が同級生だとゆースグレもん。 何でスグレてるかとゆーと、 同級生・同世代と戦わなければ個(の生)を確立・確保できない という事実を全面的に認めているからでえーす。 さすがバトルというものの本質に詳しい深作欣二監督さんですねえ。 異なる世代間のバトルはファザコンと親離れのレベルで、 ガキからヨタまでやってるコトでしかいないでしょー。 家庭でも学校でも会社でも社会でも。 ファザコンや世代間の闘争は個のスタートを意味してるけど、 個の確立は自分と同じレベルの個同士のバトルを通じてじゃないと 得られない経験なんだよねえ。 同世代との仲良しゴッコは学園祭レベルの盛り上がりやナンパ程度には有効ですが、 まあ、せいぜい同好会や同窓会レベルで終ります。 おわり、っと。 終らないのは新人類的葛藤かあ? 団塊世代のよーに自分たちのジュニアをしかれないオヤジ弱者とちがって、 新人類世代のよーな同世代内コンフリクトが激しかった世代の、 どーしよーもないガンコ?さが、まあ浅田彰さんや田中康夫さんの特徴でもありましょー。 世代的には宮台さんからその後2〜3年の幅までカバーするのかなあ新人類世代って。
ずーっとひとつの問題意識しかないんで、何を取り上げても気になるトコも同じっつー感じですねえ。 もちろんいちばんインスパイアされるのは他人の言い分。メールだったり雑談だったりしますが、 へえっと思うことがイッパイ。音楽でも社会でもラーメンでも、そんな感じです。トレードでも、ね。 最近もらったメールでは音楽や音の関係についてのものがいくつかあったので、その辺にウエイトをおいて 書きましたん。 まず音階でゆーと楽音である単音への理解と調性という全体性への理解を混同するとメチャクチャになるんで、 その辺から考えてみましたん。まあ単語と文みたいなもんですね。結論をゆーと文が先なんだけどさ。(^^)v /////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// 感性的な事実からすると♯(アップベンドする)と♭(ダウンベンドする)が同じ音になる調性はないでしょう。 A♯とB♭が併記されるスケールはないだろうし、ベンドした結果がある同じ音になるというトーナリティもない ワケです。 ◆理論の間違い?限界? 直角三角形の長辺は他の二辺の合計と等しいことを証明できる理論がありますが、 現実には長辺と他の二辺が等しいことはありません。この現実にはあり得ないことを 推論するのが非ユークリッド幾何学ですよね。それは観念や思考の自由さと可能性 を示しているワケですが、別に現実を示しているワケじゃありません。リアルじゃ ないワケです。テキストごっこには面白いでしょうが、リアルフィールドでは、 はあ?で終っちゃう問題だから。 「直角三角形の長辺は他の二辺の合計と等しいことを証明できる」のは理論の中 だけであり、微分オンリーのデジタルな認識に基いた故に成立する証明に過ぎない ですね。デジタルな分節化とその単なる溯行の自由はあってもリアルはないワケです。 アナログにはマテリアルでテクノロジカルな制約がありますが、それはリアルでしょ、 リアルそのものなワケです。 音楽も理論でアプローチするともろにハズレます。音楽理論家やプロほど激しく TKを批判したのはその逆説的なリアリズムですね。TKや坂本は感性に依拠して いるので、そのまま合致する音楽理論がありません。これは同時に音楽が理論では ない証拠だし、もちろん数学的でもありません。ただし、とても物理的です。 ◆12音階という幻想 数学的に算出された音楽理論である12音階、つまり指示表出(決定)どうりの音階 なんてどこにもないんです。普遍的でコンスタティヴに認知される音階などどこにも ないんですよ。民族は各民族がそれぞれに自己確定(決定)できる音階を使っている だけだから。 そもそも自然音の再現を究極の目的としている音の再現行為を数理的に算出した 12音階に収斂させようとするのが問題ですね。ただし自然というマテリアルに依拠し ないで音の再現のイメージ=調性を確立しようとしたことは、自然からの自由という 人間のラジカルな問題そのものでもあるでしょう。 ◆言語という幻想 これと同じことを言語において知っていたのがレーニンやスターリンなんですよね。 スターリンが国語を制定しなかった、どの民族にも通用する指示表出としての国語 というものを制定しなかったのは、どの民族にも自己確定される言語などないことを 知っていたからですね。それはスターリン自身が少数民族のグルジア人だからこそ リアルに知っていた事実です。 コンスタティヴに認識される言語なんて無いワケです。いろいろな言語の民族が いるのに国語を制定するというのは強制でありファシズムであり得るんです。特定の 言語の強制はファシズム的です。 各民族が各民族の言語を使用するという民族自決権というのは文字どおり自己決定 権ですね。ありもしない国語という共同幻想を正当化することをテクニカルに拒んだ のがスターリンだ、と考えることができます。 言語は必ずどこかの民族の言語でしかないワケです。クレオールとか日本の標準語も 複数の具体的などこかの言語から生成するものであって普遍性があるとしても相対的な ものでしかない。これはそのままグローバルとかCSとかの限界だし欺瞞なんですよね。 ◆違う音であるA♯とB♭を同じだと思う幻想 楽音にとってのコンテキストであるトーナリティ・調性・スケールから考えると、 たとえばA♯とB♭は違う音ですね。一定の理論に沿ったコードというコンテキスト から考えても違います。これは専門用語ではエンハーモニックといいますが、Am9の B音とCM7のB音は違うワケです。 さらに、メロディが上昇する時と下降する時では違う音を使うスケール(コンテキスト) があります。ラテン系の曲やチック・コリアをテキトーにアドリブで弾いてみた時に、 上昇する時と下降する時で1、2ヶ所違う音にしないと曲想のイメージが壊れることが あって気がついたんだけど。簡単にいうと上昇する時に弾くある音で下降する時には 弾いてはいけない音があるワケです。またはその逆が。一般的にスパニッシュ・モード などと呼ばれているスケールのなかでHMP5D(ハーモニックマイナーパーフェクト 5thダウン)とかいわれるスケールがそうだと思います。これはメロディの上昇時と 下降時で違う音を使うスケールなんですね。 ◆現実と接続するのは感性だけ 人間の感性は音域の上昇と下降に対してまったく違ったイメージを持ちます。これは 青と赤に対するイメージが全然違うのと同じです。音の変化は敵や獲物や仲間の接近 あるいは遠ざかりを意味したり、光線の変化は朝がくることや夜がくることを示したり するワケだから。 ドップラー効果なども含めてマッハ的な意味で感性のベースの大きな問題でしょう。 いずれにせよあらゆる情報の意味は主体の位置する場との空間的係数によって差異化 し続けるし、主体の内部では時間的係数によってやはり意味が変化し続けます。 現実界がアンタッチャブルだというのは単にラカンの限界です。観念や理性が現実界に プラグできないだけで感性は常に現実界と接触してますから。『構造と力』の帯の宣伝コピー に書かれた「ぼくは時代の感性を信じている」とはそういうことを示しているワケです、 ホントは。現実界をマテリアルに解体するのはDG式なんだけど、認識主体の側の感性を もっと探究する必要があるでしょう。 ◆指示決定と自己確定として 日本人の感性では1オクターブは18音階か?という問題は、ダイレクトに指示決定と 自己確定の問題として考えると、指揮者の指示する強度に対して奏者として2/3程度の 弱化?した自己表出しかレスポンスできない(しない)ということでしょう。楽譜という エクリチュールの指示表出に対して2/3に縮減した自己確定をするということでもある ワケですね。コレは、鏡像界の機制をめぐるラジカルな問題でもあるハズです。 メリハリのある半音によって構成されたトーナリティに対して日本人は2/3に縮減された イメージを持っているということ。それこそがセンチメンタルな感性の根拠でしょう。それは 与えられた指示決定に対して自己確定されるイメージが、そのコミュニケーション空間の テクノロジーにおいては2/3に縮減されるということでしょう。 ◆日本という問題 日本の文化を「箱庭文化」だと評する人がいますが、たしかに「箱庭」に縮減させたり、 「ママごと」に見なしたりすることができるかもしれません。大人と子供がそれぞれ別々の 文化を持っている欧米と違って、日本の文化は通過儀礼を経ても継続する子供と大人の 関連性があると思います。 それはガキのような甘ったれた大人がいることや、やけにマセたオヤジのような子供がいる ことを示しています。そのコンフリクトした存在としてのオタクを解き明かすことは日本の 現在を解明することであり、“子供のオタクは存在しない”という斎藤さんや “管理職=大人になる覚悟”を問う大塚さんたちの仕事の価値でもあるでしょう。 それに対して“大人への反発”だけのレスポンスならば意味も強度もありません。 ◆すべてがはじまるコンテキスト たとえば50音という日本語のコードの「ア」音が、「アメリカ」という発音の「ア」か、 「アオイ」という言葉の「ア」かという問題は、コンテキストを前提にしなければ決定不能な 問題です。同じ音でもスケールや調性というコンテキストによって表記も意味も違う音に なるということですね。同じ音をB♭と表記するかA♯と表記するのかは調性・スケール (コンテキスト)によって違ってくるワケです。 トーナリティや調性、スケールといったコンテキストそのものはどこから生まれるのか というと、それは差異が前提で、ある情報の差異を全体性として見なせるクラスターに 対する感性からですね。音程の違う音が複数あれば、そこから音群のトータルなイメージ が生じます。その最高音と最低音を結べば、その音群の一応のトーナリティになるでしょう。 12音階理論は全然違います。数理的に設定された12音階では12音ごとに周波数が倍数化 する、つまり12音階を分節化の単位とする構造を考えますが、現実にはC1とC2といった 同じC音でも音程がオクターブ違う音はそれぞれ別々の音として認知されるのが人間の 感性です。「同じ音で、高さが違う」のか「高さも違う、違う音」なのか、ということです。 音の高さが違うということは音源のマテリアルな差異を示しています。当り前ですが 理論より感性の方がスルドク現実界=物自体を受容しジャッジしています。現実界や 物自体にプラグできないとかリアルじゃないというのは理論や指示決定からしかアプローチ しないからですね。
やっぱりスゴイのが『不過視なものの世界』。東さんのスタンスが大きな可能性を感じさせてくれるし楽しい問題もあるしい。 さっそくCDも購入しちゃってチェックしよーかな状態です。で、これは利用しなきゃとゆーことで新企画。 内容は『不過視なものの世界』のコメントを取り上げて逐次チェックするとゆー安易なものです。(^^;) 精神分析からオタク論、アニメから文化一般へのスルドイ批評を繰り出す 斎藤環さんとの対談なんてサイコーだなとゆーことで、まずはそこからスタートしちゃいます。 今日はその第1回目ね。 ●メランコリー=うつ病とは? ○『不過視なものの世界』「精神分析の世界 斎藤環との対話」のP13より メランコリーはまさに積分回路なわけで、 シニフィアンをどんどん負債として抱え込んでしまう。 その負債に押し潰されてしまう、 これがメランコリー=鬱病の典型的なモデルですから。(斎藤環) 「メランコリーはまさに積分回路なわけ」という斎藤さん。 ラカン派精神分析医として実践的?にも活躍中で、要予約の名医師と医者名鑑に紹介され名実ともに期待されてる 臨床医にしてラカニアン。つーことで『文脈病』や『戦闘美少女の精神分析』は必読もんでーす。 ところでメランコリーは積分回路だからシニフィアンを負債として抱え込んで潰れちゃう病だ、 とゆー斎藤さんの主張はどーなんだろ? 「典型的なモデル」だから現実とは違うのか?っと思ったりもしましたが、 そーゆーラカン的な逃げは通用しないのがリアルなフィールドなのさ、と。 指示決定を自己確定できないから元気がなくなるのがメランコリーだよん、とゆーのがウチらの立場。 まあ、病としてはその常態化が前提かもしれないけど。 もちろん、分子化学レベルではセロトニンの不足でしょ。 ついでに、遺伝子レベルではセロトニン感受性に関する遺伝的特質の問題だね。 そして、そーゆー獲得形質を遺伝化することになった環境・TPOについては 松岡正剛さんの宗教発生へのスルドイ洞察と併せて考えるといろいろと解ったりしまーす。 宗教だろーがマルクスだろーが、あるTPOにおけるある対応の仕方に過ぎないからさ。 んで、シニフィアンも負債も抱え込んでない赤ちゃんの生活時間にもメランコリーな瞬間がいっぱいあるね。 いっぱいどころか赤ちゃんの生活時間の半分以上はメランコリックだよ。だっていつも泣いてるじゃん。 源初的欲望の指示決定を亮受して自己確定できなけりゃ泣きわめくのが赤ちゃんでしょ。 しかも、赤ちゃんはこの欲望の断念を自ら志向するんだもんね。 『ポケットの中の野生』でフロイトのエピソードを援用しながらそのことを指摘した中沢新一さんのスルドサは ラカニアンを超える可能性もんだしなあ。 欲望と欲望の断念をワンセットにして自己創出される志向性こそすべての認識のベース。 原点はイナイイナイバアだよ。
先週だったかなあ、 鏡花の世界をモチーフ?にしたらしい創作ラーメン屋「鏡花」に入りやしたん。 食べたのは「今昔鶏想麺」。 品書きによると「支那そば」だとゆーことです。 まあ、なんでもいいんだけどさ。 味は薄味ですがあ、実は違います、キット。 西欧料理のシェフならコンソメのデキでレベルがわかるんでしょーが、 そーゆー風にジャッジされたがってるよーなスープなんですね、コレが。 鶏ガラベースらしい味にコゲ味みたいな感じがしますが、 これをコゲ味と感じるのはそのままボクの味覚の限界を示してるよーなもん。 これは、ちゃんとした味つけです、たぶん。 おまけに薄味なよーでいて、ホントはそーではない証拠に、 薄味をゴマかすための塩分が少ないとゆーバイオセンサーによる事実確認があります。 亜鉛とマグネシウムなどをフルに利用したバイオセンサーで確認しましたん。(^^;) 塩分が少ないのに塩味をかもしだしてるこのテクはそーとーのもんです。 「これはオリジナルな味じゃ、フムフム」とゆー人と、 「味が薄いいー」と絶対にリピーターにならない人の両極端な評価があると思います。 味覚の経験不足とミネラル不足の不健康から後者が多いんじゃないかなとも思いますねえ。 ついでに後者はアタマ不足も多いとかあ。 東証続落より大変な問題だぜ、ほんまに。カカカッ うんで、お店の中は泉鏡花の「高野聖」にでてくる山深い雑木林みたいな、妖しい川のせせらぎみたいな、 そんな感じなんですが、決め手がその音響効果なんですねえ。 まあ、音響効果つーほど大袈裟じゃないんだけど、虫の音、鳥の声、川の水音なんかが流れてます。 精神鎮静効果のあるストレス解消自然音シリーズみたいなやつ。 で、こりゃ泉鏡花の世界だっ! と思わせるのは、カエルのゲコゲコ。 カエルの声聞いた途端に納得しちゃったんだけど、何でだろ。
書きかけ、なぐり書き、落書きがイッパイで困ってまーす。 床にまで落ちてて、作業場に来る人はイヤーな顔をして床を見てますが、 それをこちらは見ないフリっと。 ブラインドタッチ出来る人いいなあ。 そんなワケで、今日もココの新しい連載?企画を考えてしまいましたん。 もちろんテキストも書いちまったよ。でも、タイプしてないですう。 週末にはムキになってもアップできるかなあ。 収拾できないのって気分がドンヨですねえ。 ドンヨリ....
やっぱ、『アヴァロン オリジナル・サウンドトラック』聴くんだったらコレじゃないとねっと、 ゆーことでえ、 「Fabrique en Hongrie」のシールが張られてる、 いかにも東欧製とゆーコゲ茶色の堅い段ボールで梱包された多連装CDチェンジャーで 「Logg off」を聴くと、もー、気分でーす。 06曲目の「Nine Sisters」なんかもー、 オクターブの息継ぎなしの男性コーラスのパッセージと女性コーラスのメロディとの カウンターぶりがカッコイイですが、聴きようによってはモロに上手なシンセサウンドなんだけど、 コレはワルシャワのオケなんですねえ。やっぱ音楽担当の川井さんてスゴいなあ、と。 おまけに本日「灰色の貴婦人」とゆー紅茶レディグレイが届いたのとのメール連絡あり。 え? 『灰色の貴婦人』って『アヴァロン』の小説原作名だよなあ.... ダイジョーブかなあ、羊のリアリティ。
舞踏家とゆーかダンサーなのかな? とにかくそーゆー人であるらしい「ダンバラ照和/Dambala Tellkaz」さんからE-mailをもらいましたん。 内容はあの横浜の都市伝説?のメリーさんのことで、ウチでも書いてるのを読んでE-mailをくれたとのコト。 馬車道でメリーさんを見かけたことがあったから、「メリーさんの行方・・・98/9/30」でちょっとだけ書いてたね。 ダンバラさんはメリーさんのドキュメントを書いてWEBで公開してるから、読んでできたら感想をちょーだいよ、とのこと。 で、読んだら何やらマテリアルな優しさを感じさせてくれる文章で、いかったいかったです。 しかし、メリーさんの事実がこーやって明らかになるって、なんかイイねとゆー感じがするもので。 メリーさんにとってもイイコトなんじゃないかなっ、 とゆー思いを書けないコトにもどかしさを感じさせるよーな、 そんなテキストで、これはキット、ステキなことなんだよ。 まあ、読んでごらんよー。 ダンバラ照和さんのWEB.... 舞踏遊戯(http://dambala.virtualave.net/) そのなかにメリーさんのドキュメントがあるよん.... 「さよならメリーさん」**白いメリーさんの真実**(http://dambala.virtualave.net/merry_story.html)
音楽はもちろんTVだの格闘技だの身近な話題から突っ込んだ批評日記が深く面白い木棚さんから E-mailが来たんで掲載さてもらうコトにしました。木棚さんへは書きかけのE-mailやレスを複数ため込んでる羊5の パソコンでのうのうとこーやって遊んでるのはチト反省してますがやさしい木棚さんはオコッテないねえ、と勝手な 認識論的切断を毎日のように更新しながら今日に至っているこのWEBです。(^^;) (改行・行詰めなど変更。参考にリンクを設定) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 1 INET GATE INM00101 01/01/29 05:16 題名:お久しぶりです Date: Mon, 29 Jan 2001 05:29:22 +0900 From: 木棚 環樹 <kidana@pat.hi-ho.ne.jp> Reply-To: 木棚 環樹 <kidana@pat.hi-ho.ne.jp> To: 羊5さん<sheep5@1.104.net> 日本人は18音階という話面白かったです。 音楽理論系の入門書を軽くななめ読みしてみると あっちの本とこっちの本で言ってることが違って面白かったりします。 ある本では「コード進行さえ決めれば、そのルート音がベース音に、 トップの音がメロディーになるのでメロディーもベースの音もコードを決めれば自然と決まる。」 ってなことを書いてあるのに対し、 「カウンターメロディー(ベース音というか伴奏というか)は、コードの構成音と重ならないようにするのがベスト。 重なるとそれぞれの印象が薄くなる。」 ってなことが書いてあってですね。 おそらく、前者の理論は羊5さんのいうエレクトーン・カシオペア系の古い理屈ですね。 自由現代社のコード進行による作曲入門ゼミという本によると、 「クラッシック音楽でも、バイオリニストの弾くA#とB♭は同じ高さではなく、 A♯は少し高く、B♭は少し低めで(P41)」 とあり、その理屈で行くと、 バイオリンの場合黒鍵が♭と♯の2種類あるので17音階になるという話になります。 羊5さんの18音階は、最初、17音階の計算し間違いかと思ったのですが、 私の早とちりだったようで。 面白いのは日本人の場合、シャープで3分の2しか上がらないという話で 最初、3分の2あがるというのは上記のバイオリンの話のように 長二度(Exド・レ)に対して3分の2だと思ったのですが、 「3分の2しか」という以上、「半音上がるべきところを、半音の3分の2しか上がらない」 と取るべきだと思ったんですね。 つまり、上記のバイオリンとは逆に日本のバイオリニストは 「A♯の方がB♭より低い」と。 よくある話ですが、黒人のブルースの場合ミ・ソ・シが4分の1音上がる。とか ジョン=ケージのサイレンスという本によると 色んな民族の音階と12音階とを色分けして壁に貼ってる音楽家の人が居て、 それを見ると 正確に12音階と同じ音階を取ってる民族は どこにも居ないそうでして。 〜〜〜〜〜〜〜〜 木棚 環樹 kidana@pat.hi-ho.ne.jp http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/ −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− けっこうラジカルな問題提議にもなってるんで、他の人のE-mailの問いなんかも含めて、 ここのWEBの説明のなかなどでRESします。(^^ゞ
結構いいねこの曲....と思ったら。 そりゃ、CARL ORFFの『Carmina Burana』とそっくりじゃんと言われたんで、 聴いてみましたよん。 1 O Fortuna 2 Fortuna plango vulnera ああ、ホントだなあ、と。 さて、CDでも買ってくっかなあ。 「アヴァロン オリジナル・サウンドトラック」.... 「見本」のステッカーが貼ってあるパンフや本を買ってった人が2名もいた。 まあ、人が読んでる見本を横から手伸ばして欲しがってた女の子がいたけど、 押井さんのファンなのかアニオタか、認めてやるよ、オジョーさん。 ふーん、いいねえ、ファンつーのは。 何かにイッショーケンメイになれるっつーのはさ。 しっかり生きてけよお。
セガ、死んだままなのか? ....だか セガ、倒れたままなのか? ....だったか忘れたけど、まあいろいろとオモロイ広告でしたん、セガさんも専務も。 つたって、ホントに死んじゃったセガ。ドリキャスが製造中止だって。 まあ、株価もくたばってたんで喜んだのはデイトレーダーたちでしょーね。 売れないドリキャスをリストラすれば、これから株価は上がるんだもんね。 ゲーム屋さんの売れ方じゃ、プレステとドリキャスは100vs1とゆー圧倒的な差で勝負あり、つーことだったとか。 完敗でんねんドリキャスう。 これってとてもモダンな出来事です。 つーか、解決です。 ポストモダンの解決、ね。 秋元康さんによるセガ・ドリキャスの広告戦略の効果もなくドリキャスがくたばったのって、もー、モダンでしょ。 象徴効果に訴えるよーなやり方に左右されるコトが少なくなった、てゆーこと。 気分や象徴的な面白さじゃ人気は得られないワケです。 みんな現実的なもんを追求してるからね。リアルつーか、リアルです。 まあ、バブル崩壊以降商品はスペックが命なのはまっとうなマーケッターやリサーチャーにゃ常識なんだけどさ。 たとえば自動車の購入時も、それまでデザイン重視だった女性がスペック重視になってカタログをよく読んで比較する ようになって、日本経済の根幹を左右するようになったりとかさ。 浅田さんがいうよーに経済以外に問題なんてないんだよ。ホントは。 そろそろホントのことに気がつかないとね。リアルとかマテリアルとかの根本にね。 こーやって亮受者たる消費者こそがすべてにイニシアチブを持っていくんですね。
そんなワケで、 ジジェクが『共産主義者宣言』150周年版の序文として書いたのが『いまだ妖怪は徘徊している!』でーす。 そーいえば同じように日本でも150周年を記念して出版された本があります。 ジャック・アタリの難解な訳に挑んでる金塚貞文さんが訳した『共産主義者宣言』で、 「明晰な現代日本語文として鮮烈に蘇る90年代の新『宣言』」なんだってさ。 解説を書いてるのが柄谷さんで、いろいろと意味深なもんです。 この柄谷さんの位置づけってジジェクと同じに考えられるでしょ。新訳共産党宣言の序文であり解説なんだから。 それだけに状況認識や、なによりも浅田さんが『構造と力』で主張した構造主義以降の「力」の可能性をも、 そこに見出せるハズなんだよね。見出せなきゃ意味はないんだし。 金塚『共産主義者宣言』の解説はNAMの伏線であり柄谷さんの希望の原理の表明で、 「共産党」を「共産主義者」と訳し直したコンテクストに沿った意訳と、 そのコンテクストの指し示すものに希望を見い出そうとしてるワケですね。 ジジェクの方は『共産主義者宣言』序文『いまだ妖怪は徘徊している!』で.... ヨーロッパの保守的な神学者のある者は、 タマゴッチがサタンの最後で最新の具体物だと触れ回っている。 ....なんてゆー面白くてスルドイ指摘を繰り返してます。 ジジェクがいちばん問題にしてるのは「相互受動性」の概念。 これはたぶんこのWEBで基本認識にしてる受動性や消極性とそれを具現化してる亮受者・消費者というモノゴトに ダイレクトに関係するコトなんですが。 相互受動性どうしの関連がお気楽にリゾームとかいうレベルで肯定されてないトコが限りなくGOOD。 ホントに凄まじいマテリアルとテクノロジーのコンフリクトを超えて来た者が持つ ソリッドでタイトな認識と、クールなスタンスがたまりませーん。 現実的にモノゴトを解決する認識ってこーゆーもんなんだね、とゆー説得力があります。 まあテキストゴッコはテキトーにガンバってくださいとゆーことか。
いまだ妖怪は徘徊している! 『いまだ妖怪は徘徊している!』(スラヴォイ ジジェク・情況出版) この本の帯のコピーが「マルクスが(を)リサイクル!?」でダサくて最高。 流行言葉か環境派に媚び売ってんだか、まあ、カッコワルイ。 マルキストだったら“マルクス再生産”てな風な ヨタった評価を拒む固くてデクノボウなコピーにして欲しかったです、ハイ。 で、本書はクロアチアのザグレブで出版された『共産主義者宣言』150周年版の序論らしいですね。 へえ、ジジェックって共産主義者なの? もーちょっとモダンでデジタルな認識を気取っちゃうインテリかと思ったら、 マジメにマルキストなんだね。いいなあ、気に入ってきたな、このお方。 第三世界の代表として、 自主管理社会主義で成功を収めつつある希望の国として、 民族を捨象したユーゴ人国籍を申請できるユートピアの地として、 そして、 それらをいっぺんにご破算にした、 地方交付税?の不当配分でワケのわからない戦端を開いちゃった連邦国家として、 瞬く間に25万人がよくわからん理由で殺されたエリアとして、 そんなリアルを一身に担ったジジェクの認識はどんなのかなあと思ったら。 ポストモダンはモダンの中でしか解決しないコトを知ってる、 マテリアルでテクノロジカルな共産主義者なんですねえ。 ま、ポストモダンがモダンの中でしか解決できないのや、 現実の解決だけがラジカルだとゆーこのWEBと同じ主張なんでウレシイんだけどさ。 批評がフォーカスするところとして、 問題提議の仕方が同じなんで、 なんかオドロキつつ感動もんでーす。
CATVの24時間ノンストップニュースを見てたら繰り返し流れるのが イスラエルのメルカバ戦車がハマスの仕掛けた爆弾でブッ飛ぶ映像。 世界でただ一つ国民と国家を同じウエイトで考えてるある種究極のイデオロギッシュな国家イスラエル。 そこに世界でただ一つあるのがメルカバ戦車。 そーなんですねえ、この戦車は世界でただ一つ搭乗員が死なない戦車です。 搭乗員が死なないよーに設計するなんて当り前かと思ったら大間違いで、 戦車は装甲を貫通されたら中の人間は焼却炉待遇。火葬が省けるほどじゃない半端さが やっぱ戦争はイヤーねえてな感情を呼び起こすかどーかはともかく残酷で無様な近代兵器でしょ。 でもメルカバ戦車は違います。設計が違う。なんつたって設計思想が違う。 だって国民と国家が同じウエイトだから。スゲーなイスラエル。ユダヤ人。 シオニストはどーだか知らないけどさ。 メルカバの構造は搭乗員が別々の棺桶みたいな防護ボックスに入るよーな設計になっているらしくて、 戦車が破壊されても搭乗員が助かる確率がヒジョーに高いんですね。 完全マルチタクスで個別のアプリがブッ飛んでもシステムは破壊しないWindows2000の系統が イスラエルで開発されてるのもうなずけるつーもんですよん。 具体的なテクノロジーやマテリアルとして発現するイデオロギー。 圧倒的なイスラエル軍事力の前に石つぶてを投げ続けるパレスチナや 常にスキをうかがって激しい効果的な攻撃を仕掛けよーとするハマス。 パレスチナのサイードはどんな風に何を考えてるんでしょか。 25万人が死んでヨーロッパが文明国でも何で無いことと、 文明や文化そのものが戦争の端緒や拡大のトリガーであるコトさえ教えてくれたユーゴ・スラヴィア、のジジェク。 この人たちのリアルって、まあ、スゴイでしょーねえ。 たるんでる日本のリアルも中央線飛び込みイケイケどんどんなんで、 まあそれはそれでスゴイんだけどさ。
ジジェクには感激でしゅが、 立川北口のメインストリートにウシの旗がはためいてるのも感動もんでしたん。 いつの間にかGatewayが進出。 あの日本古来の巴マークをしのぐかのよーな白黒ウシウシマークがはためくビルがありますんね。 世界最速パソコンとして一部ゲーマーの間で伝説的存在だったGATEWAY2000。 ボクが知ったのはパフォーマンスで当時のNEC98シリーズを抜いた唯一のマシンだったからですね。 GATEWAY2000 500 NEC9821 380 某DOS/V 180 てな風でさ。 こーゆーデータがサッとアップされるPC通信がなんか懐かしかったりします。 niftyserveやPC-VANが一般開放された時って確かコアメンバーが5000人くらいづつだったんだよね。 まあ富士通とNECのプログラマーが使ってるVANだったんだろーけど。 ライターの武田徹さんが「パソコン通信はジャーナリストには必要になってくる」とか発言してたのが印象的だったなあ。 周囲で使ってたのはライターと自分の2名だけで、オタクあつかいされてたもんね。 出版社はGサーチ系なんかのデータベースに加入してて端末があっても使ってる人がいないありさま。 建築事務所じゃ設計者がパソコン通信に入ってる人もいたけど、やっぱマイナーな存在だったしね。 編集プロダクションがワープロに偏見持ってたり、原稿用紙命の笑えるザマだったしなあ。 PC通信で哲学や思想が語られはじめた時は感動もんでした。 いまや伝説のバトルや闘争があって雑誌で記事になったり特集になったりしてたし。 初期の草の根ネットワークじゃ「天皇制」と呼ばれるよーなBBSが大人気大評判でこれまた伝説もん。 テクノロジー以外に何が進歩したんでしょかねえ。 確かにデジタル志向でも浅田さんや山口昌男さんは早かったかもね。
JR中央線の立川のファーレ立川とゆー幕張のチッコイ版みたいなエリアにまた新しいビルがでけたんと。 ちなみにファーレ立川は本来だったら立川の都市計画エリア全般にわたって適用?されるハズだった方式で つくられてるみたいで。それは個人の地権者も全部含めて街区ごとに巨大なビルを一個づつ建設するとゆーもの。 それで街を丸ビルが並んでるみたいな風にする予定だったらしい。飛行場があるので高いビルは御法度だそーで。 でもなあ、地権者がいろいろあるし、公共事業につきものの不明確ななんやらかんやらで、 まあ、こーゆー現状に収まりつつあるよーですね。 ファーレ立川の街区のひとつの大きなビルの上に家が建ってるみたいなのがあります。 そーこれは家が建ってるとゆーコンセプトの屋上部分なんですね。ビルの最上階にそれぞれちがう形の個人の お家が何軒か建ってるワケです。地権者の家でしょー。 エリアは映画館はルーカス・スタジオ認定とかゆー本邦最高のシアターがあるし、図書館も充実してるし、 映画館周りの喫茶店も意外といいしい、イタリアンとかもOKだしい、てな感じなんだが。石丸電気も出来て、 もーすぐビックカメラのパソコン館が本店よりビッグになって出来るしい、とゆーことでモノレールとともに良くなってんだが、 そこに100万冊ベースの書店が出来たんだねえ、とゆーのがいいたいコトでした。 パークアヴェニューというビルの3Fがそのオリオン書房ノエル。駅の南には姉妹店のサザンがあるな。 ビルのワンフロア全部が書店で、こりゃ広いです。何ヵ所かにタッチパネルの検索端末があって、 これが、100万冊のデータベースなんだと。書籍データベースは珍しくないけど、どこのコーナーにあるかがわかるので便利。 で、さっそくマンガの『石の花』だのジジェクの本を買っちまいやしたん。 おおお、よく考えたら『石の花』もジジェクもユーゴ・スラヴィアじゃあーりませんか。 ふーん。 こんなにジジェクの本が並んでるのははじめて見たなあ、と感心しつつ、ユニークともいえる品揃えに感心しちゃいました。 出版社の在庫を持ってきて並べてるんでしょー。古い楽譜とかもあるしね。このMD?が崩れないのを祈りつつ、 湾岸戦争開始当日UFOがビュンビュン飛び回っていたのを数十人が目撃した横田基地と有事に臨時政府が置かれる 立川基地方面をながめながらモノレール下のデッキを歩きました。さぶい〜い〜。 そうだ、ノエルの下のフロア、外部の通路になってるデッキから直接入れるトコにHMVもオープン。 しかしなあ、DVDでモスフィルムの作品とかないから個人的にはパスかなあ。売れ筋ばっかのCDあってもつまらないね。
ひとつの商品のなかに、資本主義のすべてがある と主張するマルクスの言い分はまるでオタク。 つーかオタクのアニメに対する批評眼みたいで面白いですねえ。 ひとつのセル画ですべてわかっちゃうアニオタさんね。 マルクスって資本主義オタクなワケじゃん。 ちなみに斎藤さんはオタクのオタクなワケでしょー。 しかし斎藤さんのオタク分析も面白いけど、 もちろん精神分析オタクでもって対象はあらゆる個人つーか人間てことか。 でアニメ批評なんか最高だもんね。宮崎アニメに<運動>を見出すとこはオッソロシイほどです。 イデオロギーから批評(眼)まで最高のものをチェックすればOKなのは 古来父子相伝の武道もお稽古ごとも同じ、だなあ。 まあ東さんのエヴァ批評や浅田さんの「EUREKA」批評みたいなもんで。 実をいうと3者は同じスタンスで批評してます。 ホントは当り前だけどさ。 優れた批評の観点やスタンスなんて一つか二つしかないからね。 印象批評はオーディエンスや受容者の数だけ無限にあるけど、 そのパースペクティブを自由に行使できるのは小林秀雄くらいだしい。 まあマテリアルに戻って批評すればあらゆる表現への批評はその形態への つまりメディアへの批評になるワケってことさ。 ところで資本主義や経済が.... モノゴトを媒介にした人間関係 ....なら、 <ひとつの商品のなか>に<すべて>の<人間関係>が読める、つーこと。 マルクス、スゴ過ぎだよ、コイツ。 んで、ジジェクは「タマゴッチ」ですべてを読んだりするんだわなあ。
人間にも生物としての神経の反応時間があって、 最低刺激量(クロナクシー)以上の刺激が加われば、 神経はある時間をかけて反応します。 たぶん多くの場合は、 この生物的な反応時間を超えて長い時間がかかります。 この超過した時間分が人間的なものだと考えることができます。 つまり生物的な反応時間に比べてね。 余計にかかった時間が人間的な時間だつーこと。 生物的な反応ではなく観念性が高いとゆーことでもあるね。 クロノス時間を超える時間量は心的現象としての時間であり、 時間量が超過するほど認識の時間化度は高度だ、といえます。 そして、この高度さは観念の自由度を(も)示してます。 <文字を空間性>として<行を時間性>とする<1:1>のコードだと.... こーゆー普通の形態ですねえ。 んで、時間性が高まってくると.... (この場合は相対的に時間化度が高く(1行が消費される程度が高い)なってるので躁鬱病的。 逆に空間化度の低下(1文字の冗長性が高い)により認識の進展がノロマで堂々巡り風。 セロトニン感受性の過多がベースに考えられる) こ ん な 形 態 に な っ た り し ま す う 。 もっと正確には 躁状態だと.... こんなんこんなんこんなんなったりなったりなったりするんよするんだわかったあなたあなたわかったこんなんなるの・・・ 鬱状態だと.... こ う な ん で え え す う 。 そんで、さらに空間性が高度になってコードが歪んで分裂病的な状態だと.... (時間化度と空間化度の対応のバランスが崩れてます。そのうえ空間化度の高度化があって 通常コード以上の意味が付与されます。ドーパミンやヒスタミン感受性の過剰がベースに考えられます) こ ん な ん なったり し ま す う 。 ま、ランボーみたいに象徴界レベルでの空間性が分裂病的になると.... (オーディエンスの想像界的認識のキャパが受容可能性を保障してくれてます。(^^;) ポストモダン〜サブカルまで。たぶんこのキャパに反比例して象徴界への保障が 弱体化してるつー認識がありうるのはわかるけどさあ) 字 に 色 が つ い た り し ま す う 。 まーでも、芸術家は認識の時空間構造の錯合の仕方がパターン化してるし、 所詮理解される範囲内での、それもトーナリティを失ってない、とゆー強度のない歪みなんで。 こんなもんでしょ。しかも認識の時空間構造の柔軟性は無いから、ダメつーか、まー、そんなもん。 まあ、どれもこれも指示決定と自己確定のバランスがポイントでしょーが。 指示決定(表出)が空間性に依拠する対象性なら 自己確定(決定)は時間性に依拠する志向性です。 本質的には不可分だけどさ。 存在論的には空間性は関係性で、時間性は了解性てなこった。 まあ、表現とかってこんなもん。 象徴界だろーが鏡像界だろーが、認識とメディアの関係の原理はこの範囲内でしょ。
はじめて見たのに「あれ? 知ってるう」てゆー感じとか、 何か懐かしい雰囲気とか、 味でもそんな感じのモノってあるし、 白昼夢みたいな体験だってあるでしょー。 まあラリってんのは別ね、ってゆーワケでもなくて。 どれも共通の認識現象だもんね。 既視現象やデジャヴの説明で納得できたのが吉本さんの説明だったな。 アッケなく説明されちゃうワケで、もー、クールなんだこれが。 東大医局をはじめとして吉本理論が席捲したとゆー理由がわかるよ、まったく。 心的現象論とゆー、まあ、心理学的な領域をメインとしつつ、 認識全般の基礎をカバーする時空間概念が駆使された理論で、 認識の中でもいちばん難解な感情をいちばんカンタンに解説しちゃってるトコなんか、 まあ、マジックみたいな魅力もん。 でも概念構築は典型的な理数系のクールな論理に拠ってて、 グラフでの説明も解りやすくてグッー。 もー、最高なコーフンと、 ダンジョン探しに駆り立てられる衝動は、 比叡山や高野山の存在を必然とさせるほどのもんでしたん。きゃはは コラムとかエッセイで書くと何でもないけど、 やっぱ認識のシステムって、 ちゃんと知ってると便利だよねえ、キット。 デジャブは 個体が<そこに在ること>の 自己関係自体と自己了解自体の 心的な表出である。 羊書のノートだとこんな感じだよん。 より正確にはこの心的表出を<原関係>と<原了解>のレベルで了解すること。 どっかで<原関係>や<原了解>とゆー心的現象論からのタームの説明をしなけりゃいけないんだよねえ。 ヒントはさあ、マルクスの経済学批判大綱か何かに書いてある問題意識でさ、 金持ちと貧乏人の感性の違いとかそーゆー問題なんだよね。 感性の違いって一歩間違えるとバブル日本アレからバカよってな現実問題と混同されちゃうんで、 まあポストモダンの悪い面つーかさ。 そーゆーのじゃなくて、なんだけどさ。 貧乏人が腹イッパイを目指すのと、金持ちが美食を堪能するのとの志向の違いなんかだね。 ダイレクトに視床下部で認識するか大脳辺縁系を通じてチェックするかってなもんではあるけど。 デジャブになると海馬の影響とかもろにウケてるだろーしさ。 うー、眠いなあ。
そーいえばちょっと前にやってたクローズアップ現代の「浜崎あゆみに瘉される少女」って、まあ、そーか。 オープニングのリストに宇多田ヒカルの名が無くて、小室系もなかったなあ。 HikkiもTKもリアルな歌詞でウケたもの。 で、等身大の歌詞が瘉しでもあったつーこと。 まあ「わかる」し「わかって」の世界でさ。 紅白出てくれないHikkiにはシカトこいて、 旬を過ぎたTKは対象外か。 フントにNHKって自民党とともに典型的な日本風レスポンスかましてくれるねえ。 どーでもいいけど、あゆの曲とか、ますますglobeそのままみたいな感じだし、 E.L.Tもなんか前より巧みにTK風なんだよね。 露骨に昔の外タレをパクってた以前のE.L.Tの方が荒々しくてイカったりする。ウフ マテリアルでテクノロジカルな実効(支配)とともに象徴が消えるとゆー宿命に TKは消えたし、 逆にまるでTK風の音楽は増えたつーことさ。 共産党宣言の大部分が実効されてるよーにね。 そして共産党や前衛の人気がないよーにさ。 NAMとかいってよろこんでんじゃーなあ。 ちゃんとPOPとか大衆とかって考えたほーがいいのになあ。 ちゃんとルフェーブル読めばなあ。 消費者=受身の者が決定的なワケがわかんのになあ。 浅田さんのルフェーブルの読み方って凡だしなあ。 複製芸術云々すんだったらそーゆー視点で考えないとベンヤミンも浮ばれないねえ。 アウラがどーのこーのって、いくらウシみたいに反芻したって認識論的切断にゃなんないもんね。 アウラが消失するワケをそのまんま考えてみりゃいいんだよ。 モノゴトって、ナンデモ、カンタンでしょ。
“通りすがりのラーメン好き”さんより 「揚州商人」 ....とゆーメールをいただきましたん。 もちろん内容は「ラーメン三代目」(12月31日)で取り上げた「揚州商人」のこと。 まあ三代目になるラーメン屋というのはフィクションだよんとゆー指摘でしたん。 中国へ修行に行って来るとゆーのも演出で。 そーなんだよね、お店はトータルコンセプトが良く出来てて、 風水も計算?されてて窓や軒毎に福神さまかなんか飾ってあって、まったく中国の地元のお店みたいな感じです。 お店を出来る時に、壁に飾ってあるセピアな三代それぞれの写真を見て、 一緒に行った人が「中国人の三代目のラーメン屋」とゆーのを信じてたとゆーのが真相ですね。(^o^) 自分でも企画やSPをやってるんでこーゆーのはスゴク興味があるんですが、よくできてます、このお店。 最近は内装材や壁の漆喰とかコンクリート打ちっ放しの場合は防汚剤やなんかまで気になっちゃいます。 ところでメールではラーメンの味の分析をしてて面白かったです。 「豚足をベースに鳥の頭ともみじなどが使われていますね」とゆースルドイ指摘や チャーシューの八角の臭いを抑えているという推測があって、おおっーてな勉強になりました。 「マイナス点をあげるとすれば、塩が効きすぎてるのか少々しょっぱかった」とゆーことで、 たぶん最近の味の傾向を反映したゆえの欠点?が指摘されてます。 今塩味に鈍感な人が多くなってきていて、健康上医学上有意なほど問題なんだよね。 亜鉛やマグネシウムの摂取量が少ないとかストレスで不足気味だとか理由はいろいろありますが、 とにかく味に鈍感で薄味も嫌われる傾向にあるし、塩と脂分が多いのがウケてるとゆーのは問題。 ボクも何年も前にインフルエンザで味覚がそーとー麻痺して、 サンプリメントを摂るようになって味覚が回復するまで数ヵ月かかりましたん。 今じゃ塩味は苦手。 微妙な塩味はフレンチシェフの到達点らしいし、なにより健康が前提ってなワケだよね、食は。 韮饅頭みたいにナッツ系のオイルで味つけたり、塩や脂以外での味つけが切望されちゃいます。 ちなみに韮饅頭の基本コンセプトは、オバさんが入りにくいお店、です。 きゃきゃきゃ ところで、メールのはじめに書いてあったのが羊通信の感想で、 「見ている者を突き放しているところが愉快です」 だそーです。ほめられちゃったよ。(^^;) で、「揚州商人」のHPを紹介してくれたので 載せときまーす。いろんなラーメン屋やってるみたいだなあ。 http://www.whistle-miyoshi.co.jp/
今日は「鏡開きの日」です。 鏡餅を手で割って食べちゃいます。 手で割るコトの意味は<自然成長>や<主体の運動>でしょね。(^^;) んで、三種の神器でも鏡は大事なもの。 神が現れるものだから。神そのものとか。 どーしてかってゆーと<鏡>だから。 鏡像界ってことだね。ぎゃははははははははは そー決めた、っと。(^^)v まあ認識論なんてその程度でいいやい。 大事なのは現実だよん。 で、鏡開きは精進落としの年中行事じゃないのかな。 神聖な時空間からリアルでマテリアルな現実に戻るコトね。 コレがいちばん大事でしょー。 つまり鏡像界とゆー認識界から現実界に戻るコト。 モダンとゆーもんは鏡餅をツールで割るけど、 本当は手で割るもの。 現実を主体(性)のもとに置く行為なんだからさ。 ツールとゆー合理的道具は自然風化するしね。 <類>は延々と続くもんね、<個>が断続であってもさ。 ただし予定では、かな。
えー、一定の条件下で一定の反応を示すのは化学反応ですが、 生命反応や生体反応は化学反応をベースにしつつ 生命体のエントロピー閉鎖系をホメオスタシスするために フィードバックを含む自己言及システムをベースにした複雑で高度なシステムになってます。 だから分子レベルの生体生理反応の研究がどんなに進んでも 複雑化し高度化した人間を単なる反応システムとして解析することはできません。 人間が観念を持つがゆえに人間ならば、観念それ自体の考察が絶対に必要でーす。 この原理原則だけでソーカルくん的な批判はブッ飛ぶんですが、 なぜかソーカルくんにノックアウトされちゃうケースが多いのは、 ソイツらがソーカルくん以下だからです。かっははは 我々はドゥルーズにならって、 《構造》は「形態に関係ない」と断じなければならない。 と啖呵を切って、ついでにそれを 「要素」も「実体的な全体もまた存在しない。あるのは差異の共時的体系のみである。」 と説明する浅田さん。 ひとことで構造主義の使える部分をこうやってシンプルに擁護できるとこがスゴイなあと。 浅田さんはクールなテクニカルな認識の人ですが、 要素や実体に還元する単なる科学とDG(ドウルーズ=ガタリ)的な認識をハッキリと峻別してます。 ついでにいうと現象学的還元も排除して、マテリアルでテクニカルな認識を追究してるんでしょー。 浅田さんて読めば読むほどアタマがイイのはもちろんだけど、 なんかケンカが強そーだし、より正確にはケンカが好きそーてな感じがするのはボクだけでしょかあ? まあソーカルくん的な批判は最初から浅田さんには無効ですねえ。 浅田さんに有効なのはターゲットのデッドロックを内破に導けるタイプの批判だけですよん。 ところでとにかく、 『構造と力』『逃走論』以降全体を包括するテキストを書いてくれないのは残念なんですが、 その理由を追究したいのは、もー、常識的疑問は終わりなき日常的欲求よっ、てな感じでしょ。 オープンエンドなテキストを標榜しながら、そのパースペクティヴではデッドロックであるコトがバレちゃって そのままだと内破しちゃうテキストを産出しちゃったら、対応策は多くはありませんねえ。 1.デッドロック以降のパースペクティブを示すものを一切提出しないコト。 2.論理的統一や整合性をシカトしてムチャクチャに提出し続けるコト。 3.デッドロックを確認し自己検証し必要な修正をするコト。 3はまあ柔軟な弁証法つーことでしょーか。 2は多くの方がやってます、ハイ。 1は浅田さんです。(^^;) その昔M・ウエバーさんなんかもやってました、とか。 正直でソーメイなタイプの人がとる姿勢ですね、きっと。 インテリジェンスに倫理がともなってるワケです。 存在するだけで価値があるよーな方ね、たぶん。
羊書的にいうと.... エスが主体を確立しようとする時に、必然的にある志向性を持つけど これは「主体を確立しよう」とすることそのものであって、 この志向性とエスとの異和はどこまでも自我(主体化したエス)に影響を与えるワケね。 だから主体が対象を認識する時に、その認識の仕方を基本的に左右してるのは志向性のあり方なんだよね。 基本的な志向性は2方向しかないんだ。 それは「主体を確立しようとするコト」と「エスへ戻ろうとするコト」の2つ。 つまり、主体化志向とそれへの抵抗だね。 そんでえ、人間は個人として存在するけど、同時に人類なんだよねえ。 この<個>だけど<類>という二重性がいろいろな問題の初源なんだけど。 マテリアルな存在としては<個>だよね。 個別的現存、個人、現存在、ガイキチ、アキラ、シンジ、アンタ、ワタシ、なんでもいいけどさ。 アンタもワタシもボクもマテリアルな存在で、その限りでは分子レベルでの解析が進むと いろいろなコトが解ってくるでしょー。 でも<個>に生じる<観念>の位相は分子で把握できるワケじゃないんだよな。個別科学は部分認識だけだからね。 人間は<常に−既に>全体的存在だからさ。 そしてこの<観念>とそのリソースになる<情報>の結果として<類>が生成されるワケだよね。 まあとにかく<個>と<類>の二重性は、<商品>と<貨幣>の二重性みたいなもんでしょ。 資本論第1版に記述されてた、例の、柄谷さんの主張する「価値形態論」の、重要なポイントね。 ライオンと動物とかさ。 なまじ経済学やっちゃったボクには新鮮でしたん。交換価値と使用価値で考えてたからねえ、ウチら。 フォイエルバッハの「類的存在」としての人間の本質という考えをマルクスは超えたし、 浅田さんもその立場から「類的存在」という発想を批判する。 フォイエルバッハが間違ってるのは「類的存在」という前提だけで社会を批判したことでしょー。 「人類」という種族が具体的には「個人」によって形成されてるように、 「類的存在」と「個人」(個別的現存)は実態として不可分で同じもののこと。 一つの個別的現存から派生する2つの認識でしょ。 ここでマテリアルに存在する個別的現存である個人を社会関係の総和として考えたのが浅田さん。 もちろん『資本論』のマルクスもそう。 『経済哲学ノート』で人間を「類的存在」としてテーマにしてたマルクスは 『資本論』では人間を「社会的諸関係の総和」として分析。 疎外論を物神性の概念導入のもとに社会を解明する理論へ発展させたワケだよね。 個人を解析しても社会を解明できないからそーしたんでしょー。 もちろんそーだと思う。 でもホントにアルチュセールのよーに問いそのものをもう一度逆転させると全然違うものが分かるんじゃないのかね。 社会を解明しても個人は解析できないとゆーこと。 それにい、マルクスは変わったんじゃなくて、社会経済の問題が先にテキスト化されただけでしょー。
『文脈病』の序章の「「顔」における主体の二重化」の「「顔」という言語」のP27に大事な大事なポイントが書いてありました。 われわれは、みずからの感覚に問わねばならない。 その刺激が「いつ」「どこで」「何(誰)によって」「誰に対して」「どのように」もたらされたか。 これらすべての疑問詞に「固有性」への問いが潜在している。 この問いを通じて、刺激ははじめて、意味へと回付されることが可能となる。 これって今まで問題にしてきた『文脈病』の「抱擁函(Hug Box)と自閉症児の主体」(P279〜)で示されている 「自閉症児はしばしば欲求を二人称の疑問文で表現するという。」という事実やその理由を「主体化への恐れ」だという 斎藤さんの主張そのものにとって大きなヒントになるでしょ。 それに「すべての疑問詞に「固有性」への問いが潜在している。」という上記の文章は「顔」についての考察。 「固有性」とは「顔」の本質的な属性のことで、感覚刺激が「固有性のコンテクスト」をとおして「意味」になることが 説明されてますね。 自閉症児ドナが「誰でもない顔のドナ」の写真が好きで、自分らしい顔を肯定できないという事実はダイレクトに、 この「顔」の問題と関係してます。とゆーか、顔の問題そのものでしょ。 羊的な答えって、もーここに出ちゃってますねえ。 「すべての疑問詞に「固有性」への問いが潜在している。」ならば 自閉症児が「欲求を二人称の疑問文で表現する」のは 二人称を借りて「固有性」を問うてるんじゃないでしょか。 二人称を借りなければ問えない理由は、 「自分らしい顔を肯定できない」からじゃないでしょか。 そして「「自分らしい顔を肯定できない」から」 「二人称を借りて「固有性」を問うてるんじゃないでしょか。」.... これは単なるトートロジーじゃなくて自閉症児が主体を確立しようともがいてる姿じゃないでしょか? それを自閉症児は主体化を恐れていると判断するのは間違いですね。 事実はそれとは逆で、 自閉症児にあるのは自らの主体を確立しようとする強い志向性でしょー。 主体の確立という目標に到達してない分だけ強度を持った志向性です、キット。 それが自閉症の特徴である反復行為、常同行為の強度でしょ。 主体を上手に確立してしまった(つもりの)健常者(のつもり)の常に意味(自分にとっての価値)を問う生き方からは なかなか理解しにくい強度ですね、コレって。 まあ、とにかく、多くの精神分析だの心理学関係からの見解は大きく間違ってる可能性があるんじゃないかなあ。 もちろん面白いのは斎藤さん。 自閉症を主体化への恐れだという斎藤さんの見解は全然逆だと思いますう。 けどね、「主体化への恐れ」以外では誰よりも優れた可能性のある見解を示してるのも斎藤さんなんだよね。 自閉症をとおして「器質的主体」を検討するトコなんかスゴイ元気で。 これなんかダイレクトに心的現象論の重要なポイントになる問題だし、 浅田さんが『構造と力』で「根源的脱自態」の概念を導入して封印しようとしたものを明らかにする可能性があるしね。 そんなワケで、がんばってねえ、と。
FRB定例会議なしの緊急決定で利下げ。 グリーンスパンは割切ったのかな。 アメリカがバブルなのは確かなんで、 バブル相当分のリソース=金融×ハイテク通信相当分をどーやってストック化?させるかがポイント? でも貯蓄率なんて最近の調査でもマイナスだからね、アメリカは。 浅田さんが、アメリカは貯蓄率がマイナスでガンガン消費できるのはその分のリソースを日本から奪ってるからだ、 てな風に単純明快に指摘して批判してるのは、もー、ありがたいこっちゃです。共産党と同じ見解だな。 事実は誰が見ても同じだもんね。石原さんが見てもね。そーゆー認識や見解が少な過ぎるんじゃないかな、最近。 個人的な趣味の範囲でディテールの解析やってもサブカル論の自己満足にしかならないしさ。 まあ、キャッシュフローが多いのはいいけど、この言い分をグローバルスタンダードにしようとしたのは 単なるアングロサクソンかアメリカ系金融資本のエゴな戦略でしょ。 200兆円〜400兆円くらいアメリカに貢がされてる売国国家日本つーポストモダンの八百万神国には それこそどこ吹く風なんだなあ、たぶん。 マネーサプライから算出すれば日経平均が5万円つーのは不思議じゃないしね。 土地に回らない分のお金があるワケで。 で、実際にはその金が赤字国債666兆円になってるワケでしょ。ぎゃはははははははは 個人資産合計1200兆円とか1900兆円とか。 これをどこまでも食い潰していくのが今の政府のやり方ね。 自民党や保守バカのやり方。タコみたいだなあ。テメーの足を食うなよお。 でも食べちゃうんだな。だって自分の足だと思ってないからね。 まったく浅田さんの言う通りで、経済問題以外は問題ではないし、すべては階級闘争だよん。 サブカルの領域が階級闘争のフィールドであるかどーかは別として。 観念の自由度とマテリアルな不自由度の錯合がどんな結果をもたらすかは、 それぞれがテメーで検証しないとダメかもね。 唯一それを批評できる前衛だって説得力なんてすでにないワケだしい。 盗聴法案に反対した人たちって 真面目過ぎの当り前過ぎ。 で、こーゆー人たちが少な過ぎるのが日本の最大の問題だねえ。 石原さんが最近になって、日本を守ろうとしたのはむしろ左翼かもしれない、とか言い出してるけど。 今頃気がついたのかよ、オッサンよお。 樺太以南全千島列島返還だって共産党だけの要求だし、 農業や米を守るための闘争だって左翼や226事件の将校だけだもんな。 モノホンバカ売国やろーは、小林から自民党まで見事に揃ってるけどね。 金子教授もグローバル化の危険を警鐘するだけじゃなく、 なんか対応策を提示できないのかな。 宇野派マルクス主義系のアカデミンヒッキーな言い分はテキトーに切上げてよねえ。 ドウルーズ=ガタリでもなんでもいいけどさ、ああゆー風に現実に直面しないとね。 現実的解決以外はどれもこれも意味はないの。 その意味での浅田さんは<未だ=既に>有効なんだけどさ。
昨日は初腰痛。 初詣に行く途中に腰痛がでたんで途中で引き返しちゃいました。 休みたくってイタリアめし屋さんに入ったんだけど、 まあモグモグ食べちゃったんでカロリーオーバー。 足りないのはキャッシュだったんで焦ってオワリ。 高機能自閉症児がワイン飲んでケラケラ笑ってたなあ....
あああ、そーなの。 そーなの、そーなの、そーなんだああ。 『心的現象論序説』で吉本さんが参考資料として精緻に読み込んでいるのが、 ルネさんの分裂病の発病から治療までの記録『分裂病の少女の手記』ですね。 斎藤さんが参考にしてるのが自閉症だったドナさんの『自閉症だったわたしへ』 という本人の手記です。 吉本さんがルネの記録から考察したのは分裂病の基本的な特徴としての「三人称」「他人称」によるコミュニケーション。 斎藤さんがドナや臨床の現場から見い出しているのが自閉症の多くに見られる「二人称」による自己表出やコミニュケーション。 斎藤さんはそこで.... 「二人称」による自己表出という「一人称の不在」の理由は「主体化への恐れ」だと主張しています。 これについては「その「恐れ」ている主体は何なのか?」という疑問や「主体に先立つもの」についての提議がありますが。 吉本さんの主張はちょっと複雑になります。 それは、そこにはそこから共同幻想(論)へと遠隔対象化(転回・展開)されていく理由そのものが含まれているからです。 羊的解釈では.... 「三人称」でのコミュニケーションが成立するのは、任意の「三人称」である指示決定は自己確定の可能性が高いからです。 これは自己確定可能な指示表出を任意に設定できる場合はコミュニケーションが成立する、ともいえます。 逆にいえば「一人称」や「二人称」での自己確定の失敗や不可能性がコミュニケーション不全=分裂病(のトリガー)であり、 また「一人称」「二人称」でのコミュニケーションが可能ならば「三人称」でのコミュニケーションがいくら多様化しても、 それは正常であり、観念の自由度の高さを示していることになります。 そして.... 「三人称」や「他人称」にさまざまなものを代入していく過程そのものが共同幻想化、観念の遠隔対象化ですね。 この「三(他)人称」に代入できるアイテムを増加させ生産していくのが資本主義です。 サブカルとはこの代入できるモノゴトについてのカルチャーそのもののことです。 それはPOPであってもマスとは限らず、流行であっても必然とは限らない、 大衆ベースのしかも大衆意識の異和そのものであるよーなモノゴトでしょー。 アアア、 また朝メモったコトと違って、 行き当りバッタリで書いてるなあ、羊くーん。
まあ繰り返すけど無いよりある方が楽しいジェットコースターと左翼かな、っと。 あらためて、面白いと言っておきたい御本かな、っと。 『神戸から長野へ 新・憂国呆談』(浅田彰・田中康夫/小学館) 浅田さんて、いい意味での左翼だね。 ところでグルジアじゃスターリンの名誉回復だそーな。(?_?) ウーン、ウーン、ウーン。 トロツキ-はまだかなあ?
つーことで資本主義をパラノドライブする羊くんにはハレもケもなし。 うんまあ毎日が好き勝手にオメデトーだったりドンヨ(リ)だったりしま〜す。(^^;) ブローカーやゴト師のニイちゃんから年賀状。 会いましょー話しましょーか。ハイハイ 今年は何を仕掛けるのかなあ、オッサンたちは。 G3買ったデザイナーさんがいたり。 とーとー孤高のフリーハンドからDTP導入ですかいな。 ハイハイ、ぐあんばってねえ。 フランスじゃなく古都に引っ越したとか、 三途の川がなんとかとか、いろいろな人がいますね。 ....ハイハイ、ハイ。 ああ、グリーティングカードもいくつももらいましたあ。 どーもお。 ああ、預かってる作品ですか....何年か前の....ヤバ.... とーぶんさっかせんせいにあうのはきけんかもしれないなあ.... ああ、日経平均株価の予測は、マネーサプライから算出できる可能性より低いですが。 そりゃ政治だの何だのが原因でしゅねえ。 まあ、算出の限界高値を超える予測をする外資系のアナリストって、何を考えてるんでしょー。 マジに知りたいですよん。 明日何かお店やってるかなあ。 ソース焼きそばかホットケーキかなあ。
宇多田ヒカルちゃんの「プレイバック part2」ってなかなかカッコイイですね。 椎名林檎さんのモノマネもスゴ過ぎい〜、ってな感じだ。(^o^) 中高域で急激に高調波倍音が増すツヤのある声も、 まるで動物が自分の四肢を駆使するよーな風だなあ。