TYO & SKY/DOMO/羊通信/羊通信パラパラ版/ネタちょー(ネタ募集中)
『戦闘美少女の精神分析』が面白そうだなっと思ったのは 著者の斎藤さんの次のようなラジカルな問題提議があるから。 ラカンの誤読は、至るところにある。 つまり「象徴界を想像的に把握しうると信ずること」だ。 ....と指摘し具体例として東さんをあげてます。 例えば東浩紀氏は現代の文化状況を指して「象徴界が機能していない」とする。 氏はその一例として、ポップ・ミュージックの歌詞が衰退しているという状況を指摘する。 それ自体は興味深い指摘であるが、これも同根の誤りである。 ....と東さんの誤読を指摘。 そして斎藤さん自身の立脚点を明らかにしてます。 私は今後一貫してメディアと想像界の相互作用に論点を絞り、 象徴界と現実界についてはいかなる変質・変容も想定しない。 そこではおたくは想像的にしか語り得ない存在となるだろう。 つまり「非おたく主体」と「おたく的主体」との間に、 いかなる構造的な差異も想定できないのだ。 この立脚点の披露はラカニアン宣言みたいなもんでしょう。 特に「想像的にしか語り得ない」というのはフロイトと違って理念上で理論を展開するラカンの特徴であり、 フリーハンドであるメリットですね。 斎藤さんはこのメリットの部分をフル活用するとともにその限界を知っていて、 ドウルーズやベイトソンでそれを突破し現実的な展開をはかる努力をしてるんですね。 その部分に関しては浅田さんや吉本さんとオーバーラップするところでもあり、 ウチの狙いは最初からそこをフォーカスするコトなんです、当然ですが。 「「媒介される―媒介されない」という意識の差異は、まさに想像的なものでしかないのだ。」 と看破する斎藤さんの認識は心的現象論の原理と同定するものでもあり、 脳神経学や心理学、現存在分析から言語論まで包括し統括しうるものだからです。 宗教的修行から言語コードの成立までアフォード?しちゃうもんですね、コレ。 (^^)v
何日か前にカツオだしとチョットだけ昆布だしのラーメンを食べたけどウマかったなあ。 チャーシューの厚さが1センチくらいあってたじろいだんですが。 まあクロマニヨン人出身の羊くんにはちょーどでした。 元祖ノマド民族だからねえ、血液型はO型しかいないし。 肝臓は熊みたいな栄養貯蓄量過多だしい。 何を書こうとしたんだっけか? そーだ羊通信は内容がメチャクチャでパラパラ版もジャンル分けが狂ってきたんで、 なんか構成を考え直しましょーとゆーことでした。 10月からチョット変更する予定でーす。
某社株価の急上昇でワザワザいちゃもんのコメントをつけたN証券。 そのクセに直後に某社の株を大量に買ったとか極秘にファンドへの組み込み狙ってるとか、 いろんな情報が流れてますねえ。 個人投資家のことを「ボウフラ」と呼んでるらしいとの情報もあるね。 あまり個人投資家を怒らせない方がいいぜえ。 ネットでのトレーダーの増加で株価上昇時のレスポンスが全く変わったのは確か。 終わり値と寄りつきも関係ないしね。 信用買残の意味も変わってきてるしさ。 N証券がガセこいても上がり続けてるしなあ。 ドウルーズ=ガタリ的な分子革命つーのはこんな感じかなあ、と。 日産だけ上がってるしなあ。(笑)
賛否両論はもちろん、最近シンパからの結構シビアなジャッジもあるようで 名実ともにモノホンの批評とスタンスを求められちゃってるハズなのが東浩紀さん。 浅田彰さんと福田和也さんに関して.... 文章を書かないことで浅田彰という名の意味(ブランド力と言ってもよい)を保持し続け、 文章を書きすぎることで福田和也という名を限りなく無意味に近づけている。 (『郵便的不安たち』収録「棲み分ける批評」) ....と分析批評した東さんはスルドイですが、浅田さんとの緊張関係?なんかも考えてもーちょっと ハゲシクまたキビシイ物言いなんかいかが?と思っちゃうのは羊のサガでしょーかあ。 まあラオウとケンシロウじゃなくても父子相伝はキビシク美しくあってほしいもんですよん。 たとえば『逃走論』の書評を除いた前半部分(いわゆる本文に相当する)の半分以上を占める 浅田さんと早過ぎた?思想家今村仁司さん(浅田さんをメディアデビューさせた人)の クールで激しい対談は大人である二人の静かな父子相伝のヤマ場的なシーンでしょね。 まあメインテキストの半分以上なんだもんね。浅田さんと今村さんのクールな応酬が凄いんだけど、 『逃走論』を巡ってこの対談を話題にした向きはないんじゃないかと思います。 そーゆーの、羊的にはばかだぜえ。 浅田が書かないことも、逆に福田が書きすぎることも、 私たちはともに彼らなりの批評的実践と認めてよい。 (『郵便的不安たち』収録「棲み分ける批評」) ....とのことですが、期待感からいっても浅田さんの沈黙?は無視できない気がしますねえ。 まあ前回(↓)書いたように浅田さんが書かないことによって隠されているコトや、 塞がれている可能性を開くのも楽しいジョブだと思うのが羊のココロってな感じです。
なんの理由かってゆーと、 ニューアカの聖典である『構造と力』『逃走論』以降、浅田さんが理論書を書いてない理由ですね。 「書かない」のか「書けない」のかは今後明らかにしていきますんで。(^_^;) どちらにしろ自己言及しないと「書くこと」はできないんで、 浅田さんは自らダブルバンド状態を創出しちゃってるのは確かです。 柄谷さんが“吉本隆明は自分でデッドロック(ダブルバインド状況)を作り、自分で超えていく”と スルドク認識してみせたよーに、浅田さんは何で書かないのか探究してみましょー。 『構造と力』でのラカン評価とラカンの限界指摘とラカン後(ポスト構造主義)の可能性示唆とゆー テキストの衝撃は未だに新鮮です。 だって、どれもケリついてないんだもんね。 ラカニアンも高く評価する浅田さんのラカン論でしたが、 でも、その延長には現在進行形のラカンの方法論の限界や間違いがそのまま巷にあふれてます。 特にサブカルやポストモダン論議ではこれがほとんどでしょー。 浅田さんがラカンから引用する「原初的不調和」という用語概念や 「視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ」という発想そのものが原因なんですねえ。 ただ浅田さんの面白いとこは、そーいった間違いや限界そのものを超えていく可能性のあるトコを示唆してること。 オープンエンドですねえ。 そんなワケで、ここでも間違いや限界を超えてくためのヒントなんかはちょこっとづつ出していきまーす。 まずラカンのラジカルな再検討として「大文字「A」くんの正体」くらいは追究しないと、ね。(^^)v
本日、調布の深大寺の鐘がお役目ご苦労さんになったとか。 600年も使って来たらしいですね。 太平洋戦争中も軍需局の略奪にあわずにすんだ梵鐘ですが、 ヒビが入ったり欠けたりで、とうとう天寿を全うてなコトでしょう。 お疲れさまでしたあ。 ところで調布といえば、ストロベリーファームの大きなケーキとドライカレーが美味しかったなあ、と。 バブルなトコでした、フントニ。 吉祥寺のストロベリーファームの建物なんかそのまま栄華の面影を残像するゴーストビルだけどね。 あのフロアとか西海岸はゼロジェネレーションぼうや向けに大きなワンルームで売り出したらいいのに。 まあ作業場にしてもヒップなフロアにしてもいいよな、あれ。
メールのやり取りと複数の掲示板での東浩紀&吉本隆明論議をはじめとしたニューアカ論議?や何かで ボクの対応がいい加減なため消息不明になっていたものを、木棚さんの7月15日の掲示板での質問をタネにちょっと応答します。 メインの文章は7月中下旬に書かれたものですが、本日読み返して少し書き足してUPしました。 オープンエンドなので更に問題を広げて開かれたままで終わりにしてます。まあハンパな応答なワケです。(笑) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− >>『存在論的、郵便的』がデリダの後継者へのスタンスの研究であり、 >>それは東が大人になるための必然であり冗長性なんだ(中略) >デリダがデリダ派へとった態度の研究という点は分かりますが、 >それが、東さんが大人になるために必要だったのか?東さんの文章は冗長的なのか? 結論からいうと東さんが「大人になるために必要だった」し、その結論への過程は「冗長的」です。 ただし「文章は冗長的」ではありません。文章をとおしての冗長性こそがポイントだ、ということですね。 『存在論的、郵便的』ではラカンとデリダの後継への姿勢を比べてますが、「大人になるために必要だっ たのか?」どうかについては、必要だったとボクは見なします。 では、ナゼそういうふうに読解したのか? そのヒントは東さんのテキストにも木棚さんの問いそのものの中にもハッキリ書かれていますね。キチ ンとしたコンスタティヴなテキストだからこそ、コンスタティヴに読めば木棚さんが指摘したように以下 の問題がクローズアップするでしょう。 >デリダの著作の歩みを紹介するのみで、東氏自身がそれに対しどういう評価を下し、 >どう考えどう振舞うということが一切書かれていないんですよ。 >つまりこの本はデリダの入門書であって、東氏の思想は2冊目の「郵便的不安達」に >書かれている。 ....となります。 木棚さんはその根拠として以下のように説明してます。 >一つは、この本のはじめに「デリダはなぜこのような奇妙なテキストを書いたのか、 >そしていま書かなくなったのか」が問われているにも関わらず、この本の最後で東氏 >自身が「デリダが用いる古名をその文脈から引き抜き、それら諸隠喩=概念の配置を >形式的に整理するという作業を行ってきた」と書いてるように、 ....以上、『存在論的、郵便的』に書かれているとおりでコンスタティヴに理解すればそうです。ただし テキスト量の多さは同時に書かれていることの多さをも示していますね。他にこんなこともハッキリと書 かれています。東さんの決意の表明ですね。 「僕はこのような本をもうニ度と書けないだろうが、また書くべきでもない。」 本文の内容がデリダの研究であることは間違いないとして、東さんはナゼこんなことを書くんでしょう。 デリダ研究のコンスタティヴな全体像を示したうえで、それそのものを「もう二度と書けない」「書くべ きでもない」と宣言してます。ここには東さんが自ら設定・構築した不可逆さがあります。本書以前へは 戻れないという自覚と自戒ですね。実にコンスタティヴにそう書いてあります、この一行は。 東さんは本書を書くことで何か不可逆なステップを通過したことになるでしょう。簡単にいえば“大人” になったワケです。そう認識することがボクの読解です。これが東さんが柄谷・浅田両氏から得た最大の 賜物であり、ニューアカの良質な部分に触れて獲得した自らの成長というものでしょう。(ついでにいう と宣伝コピーに使われた浅田さんの言葉は自ら「古名」と化してみせたパフォーマンスですね。と ても上手なセールスプロモーションだし“知の産婆役”だと思います。)コンスタティヴな読解だけでも ここまでは確認できます。文字どおり、というとおりです、まったく。 研究の内容と研究に対するスタンス。物語の内容と物語へのスタンス。内容と内容へのスタンスを考え る時、内容がどんな形態をとっているのかは無視できません。内容はフォルムに規定され、メッセージは メディアに規定されます。デリダ研究の内容はコンスタティヴなテキストに規定され、そのテキストへの スタンスはどうなっていてそれは何を示しているか? フォルムやメディアへのスタンスなしには内容や 本質を読解できない、というのがマテリアルでテクノロジカルな方法ではないかと思います。たぶん哲学 の基本もそこにあると思います。本質に先立つ形式..というように。少なくともボクの方法はそうです。 たとえばそれは『言語にとって美とはなにか』はなぜ、どうして書かれたのか? といった<?>の必要 性ですね。 今ここで題材になっている東さんに関してであれば、なぜデリダを取り上げ、なぜコンスタティヴに書 いたか? それをナゼ不可逆に超えていくのか(卒業するのか)? それは研究の対象となったデリダそのもののスタンスとして(も)浮かび上がって来ます。以下はちょっ と長いですが「番外コラム」から以下を引用します。 東は80年にラカンがパリ・フロイト学派を解散したことに注目している。これはラカンという強靭な父性に対する 弟子たちの「父親殺し」の画策を、子供性を持ったラカンの方が敏感に察知して先手を打ち、弟子たちの集うパリ・ フロイト学派を解散してしまった事件である。拠り所を失った弟子たちは右往左往してしまう。ラカンによる後継管 理あるいは親権の放棄だ。東はこの「解散後のラカン派たちの迷走」を指摘し、弟子や後に続こうとする者に対する スタンスとしてデリダの戦略をラカンのとった手段に対置させて取り上げている。このデリダの戦略に対する詳細な 検討が『存在論的、郵便的』の主な内容なのだ。特に何かが新規(新奇)なわけではないが、丹念に詳細に執拗にデ リダの戦略に関する仔細な考察がなされ、恐らく世界最高峰のデリダ研究の書であることは間違いない。 大胆に言えば、デリダは「管理職になるカクゴ」をしたのだが、東によればその方法は弟子や後継による解釈を 「拡散」させ「その中心から内破させておくため」に「より過激に「主」として振る舞う」こととその「加速化」だ。 このデリダの戦略を東は4年という月日をかけて確認したわけだ。それは何のためにか? もちろん彼自身が明言し ているように東自身の実存のためである。彼自身が大人になるためであり、彼自身がカクゴするためである。そして、 それに費やした年月やテキスト表現の冗長性こそが東のアカデミシャンとしての証しでもあり、同時にそれが彼に与 えられた社会的存在としての意味でもあるのだろう。 (『存在論的、郵便的』『終らない消費社会』/大塚英志と東浩紀、それぞれの解決)から パリ・フロイト派の解散という父性の暴力(子殺し)を行使したラカンと、あくまで後継(子)にメッセージを送 り続けるデリダの戦略との比較。東はデリダの実践から後継を究極の自己言及である内破へ誘う戦略を読み取った。 もちろん自己言及は後継そのものにおいて完結するものだ。この考察をとおして東自身が獲得した自己言及による結 論こそ「僕はこのような本をもう二度と書けないだろう」であり「書くべきでもない」のだ。この不可逆な自己への 関係性(自己言及)は自己における時間の確立(不可逆性)であり成長というものである。それは大人になるという ことだろう。 (『存在論的、郵便的』/当り前の思索からたどり着いた最高の哲学)から 「東はデリダの実践から後継を究極の自己言及である内破へ誘う戦略を読み取った。」というのは後継 (読者)を自己決定せざるをえない状況へ追い込むことです。デリダの研究を指し示しながら、その解を 提示しないことによって、つまり指示表出しないことによって読者を自己決定(表出)の世界へ追い込む という東さんの戦略は、こうやって今ここでも成功してるじゃありませんか!?(笑) 東さんはコンスタティヴな到達性に期待していないし、逆にその分だけ読者にパフォーマティヴな何か を期待しています。もちろん「パフォーマティヴ=行為遂行的」という意味で。誤配に期待するとはそう いうことでしょう。 指示表出が指示表出でなければならないのは宮台さんの「吉幾三問題」で否定されているように実は大 した問題じゃない(ホントの問題は別のところにある)かもしれません。むしろニューアカにおいてなら ばダブルバインドとされた状況さえクリアできる可能性がそこにはあります。現実には正配or誤配を問う ことこそダブルバインドの情況を生む(実際これでたじろいでいる東さんの同世代やシンパは多いのでは?) かも知れず、またそういった問い(言語レベルの世界)などとは無関係に現実があるというリアルな確認 でもあるでしょう。
どっかで書きましたが長ーい文字数ン千てなメールから、できるだけ色々な人に届くよーに、 ここでのカキコミにほぼシフトしたんですが。問題はココでの書き込みもおぼつかないとゆーコトでしょか。 そんでもメールの代わりや問い合わせへのレスポンスを意識して書いたものはいくつかあるんで、 ちょっと並べてみましたん。独り言でテキトーに書きっぱなしよりは、少しはまとまりがありますね。少しだけだけどね。(^^;) ついでにゆーと固定読者のリストはPCがぶっ飛んだ時に喪失してしまい、コマッタちゃん状態ですが。 だいたい100+数十人くらいの固定?読者がいて定期的に読んでくれたり、 何か気がつくとメールをくれたりします。エヴァ批評に対する感想は最近になってもきたりしますね。 これはウレシイことでまっとーな批評は経年変化しないもんね、てなポリシーが喜んじゃうワケです。(^o^) まあ、まっとうなどうかそのものがもんだいでしゅが。 ■浅田vs東?・・・ 2000/3/28 ■そこから見えるもの、っと・・・ 2000/3/19 ■キルヒアイスがくたばってさあ・・・ 2000/1/20 ■今日から現実へ、っと・・・ 2000/1/5 ■2000年ねえ、どーなるかなあ・・・ 2000/1/3 ■ニューアカと精神病・・・ 99/12/16 ■匿名希望の『郵便的不安たち』・・・ 99/12/5 ■「non title」というE-mail・・・ 99/11/21 ■「東浩紀さんに関して。」というE-mail・・・ 99/11/20
「人の迷惑になるっ」と一喝されて取材できなかったことがあって、こっちは戸惑うワケです。 まあ、思考能力なくてルサンチマンと場当たり的なご都合で作ってるスキャンダル雑誌とは違って、 ちゃんとした目的のある取材なんて、大変だよねえ。 第2次世界大戦または太平洋戦争を自ら戦ってきた人たちは心身に想像以上の負担を負ってたりする。 でも、年々少なくなる戦友や途絶えていく消息のなかで、自分が体験したコトを話しておこうとする 元軍人のおジイサンたちがいるのも確かだ。 老人ながら若者より歯切れのいい言葉で淡々と語る姿は口承文化の担い手みたいなもんで、 一次資料か二次資料かてなレベルで信憑性のでっち上げを競ってるデータオタクとゆー学究輩や、 数値が多いか少ないかという相対的な根拠で事態が認識できると断じている愚鈍な論者の存在を、 あっけなく忘れさせてくれる説得力がある。 リアリティやリアルというものそのものでさえないマテリアルな事実がただ眼前にあるという感慨かもしれないが。 このクールさはピアスやタトウーに代表される勘違いしたままの リアリティや皮膚感覚というジャンクでフラットなザマと比べちゃバチが当たるもの。 特攻隊の生き残りでもある坂井三郎さんだったかが軍人勅諭を肌身離さず持っているのは、 その軍人勅諭の絶対的な間違いを忘れないためだという話しをTVで見た時に、 そこに収斂するだろう生死を賭けた一人の軍人のリアリティを考えさせられた。 「自らの手で天皇を裁かなければいけない」という日本人へ向けた彼の一言がどれほどリアルな認識であるか、 ということ。 日本のおこした戦争に関して日本は自己言及してないじゃないか、という柳生流そのもののような認識提起は、 また日本古来の認識でもあり、天皇家のそれでもあったのは以前にも書いたけど。 問題はそれらの認識をクールにリアルに解釈できる人間が既に居なくなってきているコトだね。 戦争当事者の老兵の言い分さえ否定するガイキチ論者のバッコは、 皮膚への物理的なアプローチが皮膚感覚だと思ったり、象徴界認識が視覚情報に代替されてるという誤読を 生んじゃうサブカル全般とも相まって、愚鈍の拡大再生産でしかない。 当事者のリアルが否定される時、否定するサイドのリアルを否定してあげるのが最大のカウンターだが、 その後もコワレないでいられるのはマテリアルな認識に依拠するサイドだけなのは弁証法のイロハだよね。 人がコワレるのを何度か見たことがあるけど、 指示決定を自己確定できないで崩壊していくのは、 何故か全然同情も何も感じさせないね。 それが救いかもしれないけどさ。 サバンナでライオンに食べられちゃう同類をキョトンと見てる草食獣の眼差しは、 ホントにクールで澄んでるもんな。
科学者になるんだ、とゆーのはガキの頃にありがちなまっとーな夢じゃないでしょか。 自分的には、万国博覧会だの新幹線だのアポロだの、なんだの。 子供の頃には毎日のよーに科学が大活躍ってなニュースがいっぱいだったもんね。 毎日踏切まで蒸気機関車を観に行った記憶と交替していったのが科学への興味かな。 ありがちな空想は、この世は3次元空間であるとゆー感動ものの認識から、 時間をプラスすれば4次元である、てな理論構築と概念構成のダイナミックな面白さまで、 ホントーに面白くて大カンドーな感じいーですね。 ものごころついて論理学の基礎で「タテ」「ヨコ」「タカサ」だとか、 三浦つとむの本なんかで「量」「質」転化する弁証法を読んで アタマがタケノコみたいな毎日でしたん。 マルクスとか読んで理論と実践の関係なんかが難解だったりした時に、 「パラドキシカル・ジャンプ」とか言っちゃう『構造と力』に出会ったのは、 求道としては最終仕上げに近かったですねえ。(^_^;) まあ、青春にありがちな心理学本読みまくりもあったし、 『実践論・矛盾論』やマルクス批判の方が全然先に読んでたけど、 『構造と力』みたいにカタカナ並べてわかった気にさせてくれる本の貴重さは、 絶対に天下一品でしょー。 その気になるって、コワイもんですよん。(笑)
もう自動販売機にも「ひやしあめ」はありません。 中心街にもないしなあ。 残念ですう。
日曜日の夕方に橿原神宮の隣の駅から電車に乗ったら乗客は自分だけだった。
えー、例のラカニアンでありドルージアンでもあるらしい、まーなんでもいいけど、斎藤環さんいわく.... このままでは困る一番の理由は、 ひきこもり状態が、自然に解決することが、 ほとんどないためです。 『社会的ひきこもり』(斎藤環・PHP新書) だったらそこからどう類推するのかな、専門家は? あーん? <自然に解決することがない>のは、その状態が<自然だから>かもしれないよん。あーん? 宮台さんなんかはそーゆー風に捉えてるんじゃないかな。もしかすると。 すると<そのままの状態>で<社会参加>とか<社会化>できる方法としてメディア云々を考えるワケでしょ。 システム論は。ま、いいや。 香山リカちゃんが指摘するよーに国会議員とかタレントとかの「みてみて」「これってアタシイ」の方が異常だと ゆーのは、その通りなんじゃないかな。まあ心的現象論的には「異常」つーのはないんで、「迷惑」とでもしときますか。 人前に出て来たがるのって迷惑なヤツが多いんだよな。 人前に出るならウツクシク! 他人に迷惑をかけないよーに! いい加減な象徴界チェック無効みたいな戯言を言わないで! 慎ましく淑やかに、なさい! .....ね。 まあ、ブスとバカは引っ込めってゆーことか。 で、ひきこもりな方には関係ないかもしれないけど、 ウチのモバイルはご破算なんで、 どこへ行っても何にもできないジョータイですう。 季節柄デスクにいるのは苦痛だし、 性格的にもジッとしてられないんで、旅先なんかで....と思っても、 モバイルがない。 モバイルがないと物理的には出かけててもヒッキーな気分になったり。 観念的に拡張された空間意識をマテリアルに再把握しようとする時、何がポイントかって。 自己コントロールなんだよ、やっぱ。 そんなワケで、逆に、座したままお坊さんなんかは世界や宇宙を観ちゃうんですねえ。 俗な羊は、やっぱ、 ノートパソコンどーしよーかなー、 なんだけどね。
知り合いが株式投信で80万円の損害。 そりゃー証券会社のいいなりじゃなあ。 雑誌の特集なんかだと 保険なんかも解約して全部ネットトレードに注ぎ込んでご破算になった人も少なくないとか。 そーだろーなー。そーだろそーだろ。ソーカルくん。てな感じい。 去年からのハイテク投信や金融のご都合ウソ宣伝「証券株はイケる」とか信じてる人はヒサンだね。 ちゃんとチェックすれば見込みどおりに急上昇した建設株だってあるのにさ。 ファンダメンタルがベターアンドベストな数十銘柄は上昇トレンドのままだしなあ。 証券ニュースも何を流してんだか。 ネガサの話しはもーいらねーってことなのにさ。 自分で考えられないヤツがウオーサオーだもんね。 つーことでインターネットの株式口座開設ははじめてマイナスに転じたとか。 対前月マイナス10数%だっけかな。数字忘れちゃったな。どっかにスクラップあんだけど。 ま、犠牲者が減るってなワケでもあるし、でも縮小均衡になんないでねってな心配もあるなあ。 コンピュータぶっ飛んだおかげで銘柄情報数100件を喪失。 うがー、トレードが面倒くさくなったあ。 で、先日右翼も騒ぐ店頭株で労働報酬1〜2ヵ月分の益。 2000株でこんだけゲットすりゃいいか。てな世界ですね。 ファンダメンタルのチェックはモダンな価値判断だけど、 株式相場そのものはもろにポストモダン市場。 ケインズの偉大さがわかったかな? 浅田オタクや、柄谷オタクは。 ポストモダニストは荒れ狂う市場でこそ欲望のアナーキーに戴冠せざるをえないのさ。 オシャベリ連中は何やってンだかなあ。
フロイトの言う通りそれが「死せる《父》」(略)だということは、 象徴界がつねに―すでに主体に先行しており、 生きた主体の織りなす相互関係の平面をいわば過去から包摂している ということを意味する。 『構造と力』(浅田彰・勁草書房) ラカンのゆー「絶対的な《他者》」のことね。大文字の「A」くんですかいなあ。 1983年9月10日発行の『構造と力』でのテキストは今でも新鮮でインパクトじゅーぶん。 昨日、本屋で見たら44刷だったし、こりゃ、やっぱスゴイ本です。 で、ホントにスゴイのはラカンの限界を指摘してるトコなんだけどさ。 もっとスゴイのはその限界を突破しちゃう可能性をさりげなくオーソドキシーに言い当ててるトコですね。 ま、流行スタレでモノゴトを考えてる人には関係ないでしょーが。 実は、その解答がそれより18年も前の1965年10月25日発行の某誌に載ってるんだけど、こりゃ秘密として封印もん。 そーゆー<未だ―既に>てな感じの双数性がこのWEBの本質だったらなあ、などと願う毎日です、ハイ。 つーワケで、その封印を解いていくのも、ココの趣味つーコトかなあ。 「死せる父」だの、大文字の「A」くんだの、ってまったくなあ。 ハードな哲学くんやオタクなサブカルくんやイイカゲンな心理くんに人気な意匠ですが、 だーれも意匠さんたちがどっから来たか知らないんだもんな。 浅田くんは知らないの? 知らんぷり、かな? 18年前のもの読んでるのに「わからない」とか言ってるしなあ。 ぼく、ホントなの? トボけてんのかな? 大文字の「A」くんはどこから来たか? 本当は「何」くんなのか? ヒントは『構造と力』のラカン後の可能性を指摘したトコに書いてあるんだけどさ。 まあ明示されてないからね。 なんでその先を書かないのかな浅田くんは。 ではでは解答を・・・・・・ ホントは、「S」くんなんです。 ブリンクつきだぞ、すごいだろ。(^_^;)
そーいえば「ヤマカガシ」って漢字だとどー書くのかなーなどと思ったりするです。 先月東京は青梅市の御岳へ行ってヤマカガシに遭遇接近ケリ一発てな風でした。 御岳の川べりのハイキング道をお散歩。 ガキの頃は多摩川河川敷草むら生活が長かったので気配に敏感。 風の音とか水の流れの音とか草木のこすれる音がたくさん。あと虫とカエルなんかがいっぱい。 自然のノイズの中である型をともなった音や景色を瞬時に捉えるのは大脳皮質や意識じゃないですね。 音でも景色でも自然のなかにちょっとした異和感が生じます。そこがターゲット。 違和感がした方へ感覚を集中すると必ず何かいるもんね。 で、いたのはヤマカガシ。 背中のエビ茶色の模様がなまめかしいニョロニョロくん。 胴体を鷲づかみするとカワイソーなんで、尻尾が目の前に来るまで待って、ケリ一発。 茂みに入ったあとコッチを振り返ってきょとんとしてましたが、まあトンビに食われたりしないよーに 生き抜いてくれることを祈ってバイバイ。無事に60cmくらいにはなってほしいですねえ。 ヤマカガシにもマムシ並みの毒はあるんで気をつけようね。まあヤマカガシの口に指でも突っ込まなけりゃ ダイジョーブだとは思うけど。 ところで自然のノイズのなかの異和感からターゲットを捕捉しますが、 音の場合、これは音の大きさじゃないです。大きな音がしてもあんまり意味がない。 あきらかに、異和感を与えるのは音圧みたい。 視覚的なものの場合は動きですね。マンデルブローとか複雑系的な自然景観のなかにある異和として まず目立つのが周囲とは違った動き。 音圧と動き。 これをフォローしてくと無敵のマタギになれるかもよ。 えー、以上に嗅覚をプラスすると、そえはもー獣そのものです。 問題はどーして<音圧>と<動き>なのか、ってことかなあ。 ナゼでしょー。 ....と提起しておいてちゃんと解答しないんで気にしてる人がいるそーで、 まあ、スイマセン。 でも、直しません。(^^;)
『戦闘美少女の精神分析』はちょっと読んでもこんなにたくさん面白そうな問題提起がされてまーす。 これならいろんなところに届くのになあ。(^^)v さすがわラカン卒業派ですね斎藤さんて。 「ディズニーおたく」は、原則として存在しない。 (P41) おたくにあって作者という超越的であるべき他者が、 内面的他者の位置に限りなく接近させられるのである。 (P45) 「性」は虚構の枠組みの中で解体され、再び統合されるだろう。 ― (略) ― なぜならおたくの「語らい」とは、自らのセクシャリティに対する、 永遠に答えのない問いかけであるからだ。 (P48) おたくとは思春期以降の生き方であり、 「子供のおたく」は存在しない。 (P52) ..だのになんでハズすんだあ? (笑)
いいテキストなら届くでしょー、と楽観的なのが浅田さん。 届ける努力をしなくちゃ、とゆーのが東さん。 特に短期のものでも工夫しなくちゃだワ、と東さんはグワンバっているとか.... まあ、浅田さんはコミュニケーションのベースは一方的な発信に任せるってなポリシーがあって、 それはココでもそーなんだけどね。基本的に独り言だからさ。 で、『戦闘美少女の精神分析』に対する東さんのレスポンスみると、ちょっと、ハズレ。 「東浩紀のウェブサイト」にある「網状言論たち」という企画の 最初の試みで「『戦闘美少女の精神分析』をめぐって」とゆーのをやってます。 ウリは「ひきこもり」研究でも注目の臨床精神科医の斎藤環さん本人が東さんたちの批評に直接解答してることですね。 ただその一発目の東さんの質問そのものがハズしてる気がします。 東さん自身が唱えている“テキストを届ける努力”からするとね。 論者として初歩的な失点も大きいです。どーしてかなあ。 1.オタクという共同体の問題 ―― オタクという集団について語るのは有効か? 2.セクシャリティの問題 ―― 性の問題をどこまで特権化するべきか? 以上の2つが東さんが冒頭で掲げてるお題目つーこと。 まあ、コレに関しては『戦闘美少女の精神分析』を読んでみればそれなりの答えがでると思います。(^^;) 羊的な答えでは東さんの2つの問題意識はどちらも誤読か、 ある種の恣意性に引き寄せられた認識によるものですね。 その恣意性のあり方そのものが深〜く大きな解を与えてくれる可能性はデカイでしゅが。(笑) その後東さんの発言4では斎藤さんに対してラジカルな批評がなされます。 「オタクという幻想」について語るのなら、オタクの発言をそのまま聞いていても何にもならない。 ウン、これは決定的で、ホントにラジカルな感じ。 なぜなら斎藤さんは精神科の臨床医であって、「患者の発言をそのまま聞いてる」んですね。 いちいち第三者に患者について語ってもらってるワケじゃないでしょー。 初歩的なテクノロジカルな問題でもあるけど、 ここで斎藤さんのプロの日常的な方法(論)にさえ考え及ばないで 「社会学的に考える必要がある」とオタクにそのまま聞くことを否定してみせたのはどーしてなんでしょー。 この唐突に感じちゃう物言いに東さんそのものをめぐる深〜く大きな解を与えてくれる可能性を またも見い出しちゃいました。(^^)v 「これからの若者のモデルは東浩紀」なんだから、こーやって分析されちゃうコトをヨシとしないとね。
『大航海』35の宮台真司×東浩紀の対談「新しい若者のモデル」が面白かったね。 宮台さんが「これからの若者のモデルは東浩紀ではないかと思っているんです。」と強調。 うーん、まったくそーなんでそー思ってる人って多いんじゃないでしょかね。 別の言い方をすると典型例としてもね。 そんワケで斎藤環さんがオタクを現代一般人の典型例として分析したりして、 それに対する非分析者も含めていろんなレスポンスからさらに典型例なんかを探っていくのなんか もーサイコーにポストモダンですねえ。 まあ、これがケインズの株式投資論だしニューアカが説明に使ってた美人投票論だよね。 今的には応答可能性つーもののコアも本質的にはコレだからね。 ベンヤミンやルフェーブルじゃジョーシキなんだろーがさ。 で、宮台さんの大きなお題目が一つ。 言い難いコトかもしれないけど、言っちゃう宮台さんは、やっぱりミヤダイ的でーす。 いやらしい言い方だけど、 インターネットマニアとぼくたちとは、 教養水準が違う。 うーん、いやらしいつーか言い難いコトだろーね。 しかし、田中康夫先生の影響かどーか知らないけど、宮台さんは言っちゃいましたん。 ヤッホー でも、問題はその先にあるよん。 水準クリアしてても?が多いコト。 まあ、ご両人は除いてね。 宮台さんや東さんはいろいろ実感してるみたいですが、 ボクが実感するコトが多いのは、 「理解力が違う」とか 「認識力が違う」てな感じ。 いわゆる構成同一性の欠如かな。 (欠如させている心的機制は何か?....てなトコまで分析しないと何を分析したって何も見えてこない。 分析方法そのものが分析されるからね。そのループを切断突破する力こそ、 浅田さんが1982年に書いた「ラカン」の「構造と力」の「力」だってゆーことさ。) この違いを“人間の最後の差異”として取り上げてた正統派マルキストが名古屋大かどっかに昔いましたよん。 “美醜”のジャッジとともに最後の差異だってことらしい。 何が差異でもいいんだけどさ、面白いのはその解決は無いってな結論かな。 解決が無いって悩んでる正統派マルキストのテキストがとっても可笑しかったです。 おわり
つったって、まあ、日本でデイトレードなんかやってる人は少ないでしょー。 インターネットトレードならぎょーさんいるでしょが。 多くの人はホーカイかな、ホーカイ。 せっかく戦闘美少女なんかも登場してさ、 オタクちゃんだって経済活動だもんね、んパーセントは経済に積極的に関与して、 まったり経済論の証明実態とでもなって、ヒッキーだけどばっちりアンガージュてなおもろい世の中に なるかなあ、と思ったんだけど。早くもホーカイですね、ホーカイ。 インターネット口座の新規開設数がはじめてマイナスに転じたとか。 そりゃーそーでしょー。 光通信に代表される根拠ゼロリクスいっぱい気がつきゃトンずらボンズラに代表される銘柄で 通信だあ、ITだあと自分で思考できない典型的ビビリ日本人客をそそのかして泡銭を手にしたのは 証券会社と銀行。 羊君が3月決算前にピックアップした銘柄は年初100円台〜200円前後だったのが今400円〜600円以上だよ。 それも2回目の上げトレンドだったり。いろんな業種でね。 どこで企業がくたばってんのかねえ。優良企業はピンピンしてんじゃんかよー。 バカなハイテク投信とサギなコンサルタントで 人生ホーカイオメメハ出目金財布はないっすになっちゃったヤツがいっぱいいるぜ。 自分で考えられないヤツや思考能力のないヤツにどーじょーはしないけどさ。 毎日経済ニュースじゃ下げばかり。うそばっかじゃんか。 バブル絶頂期よりマネーサプライ増加してんのに市場にゃ資金不足つーのは、 下げニュースばかりこいてるのが原因。下げさせたのは証券や銀行のデマトークが原因でしょ。 いちばん原因なのはそれにノルにわか投資家なんだが。 根本原因は手数料でちまちま儲ける計算しかしてない官製企業もろだしの金融各社かねえ。 薬中ムスコに自己中そーりーが英語のジョークもわからず仕切ったつもりのサミットから株価はホーカイ。 目先の利益追っかけて市場の需給は縮小均衡トレンドへ。 ポストモダンジャッジ最大のリアルフィールドで自ら下げトレンドつくるバカは日本だけでしょね。 岩井克人さんよー、不均衡累積過程はどんだけパスバンドあるか知らないけどさあ。 ボクちゃんのパスバンド広いし、レゾナンスは任意なんで、孤軍奮闘しま〜す。 個人投資がなぜ市場を形成するかって堤清二さんに聞いてもいいがそりゃ10年遅かったか。 3割を占める外人投資家が縮小均衡を破ってくれるのかねえ。 ロジカルな変数はゲットしてるんで、またリアルフィールドでバトルしましょーね。 意味不明だろーな。 いいんだそれで。(笑)
トラブル3週間以上。 もー、結局再インストールどころか、メモリーの176Mも64Mにしたり2枚単位で順番変えたり、 CPUアクセラを3種類とっかえひっかえ、本日やっとこ最速のAMDK−3に復帰。 うーんでもトラブル避けてセカンドキャッシュはCPU内蔵モノだけであきらめ。せっかく増強してあった セカンドキャッシュ(AMDK−3搭載でサードキャッシュになる)512KBを放棄。 なぐり書きテキストがいっぱいあるんだけどタイプすんのがメンドオだあ!!! っと。 しかし速くて使いやすいなあ、まったく。XT13はまだまだ現役だあ。 メモリー空間圧縮で176Mのメモリーが490Mで作動。スワップ全然なしでもち快速。気持ちイイ。 UNIX系のメモリーデフラグでトラブルもないし。 アプリケーション入れ過ぎなきゃ、このまま快適なんだろーけどさあ。
客がウインナーコーヒーを注文したら「ウインナーとコーヒー」がでてきた。 客は何も言わずにウインナーを食べコーヒーを飲んで店を出ていった...。 これは「ウインナーとコーヒー」をだしたウエイターが吉幾三なんで 吉幾三問題と宮台さんが呼んで提議?してる 誤配とコミュニケーションに関する問題ですね。 こうやって 誤配が正配?として受けとめられてトラブルもなく世の中は成り立ってます... という社会認識です。 たぶん多くはそーですね、キット。 ここでトラブルを生みだしそーな危なっかしい存在は吉幾三なんですが。 実はそれは問題じゃありません。間違いはどこだってあるんだしい...。 現実にはここで誤配を顕在化させなかった客こそが問題とゆーかキーポイントですね。 客こそがトラブルをヘッジしてるワケです。 吉幾三問題は「誤配でも世の中成り立つからOK」とゆー問題なんじゃなくて、 「何が問題を起さないでいてくれるのか?」とゆー問題なんですね。 本質はソコです。 誤配も正配も郵便的問題は配達する方じゃなくて受取る方がポイント。 発信する方じゃなくて受信する方ね。 宮台さんの『権力の予期理論』が抜群にスゴイのは、 この受取る側の選択決定構造だけにフォーカスしてるからこそ 透徹した観点でパースぺクティヴを獲得できたトコにあるでしょー。 近代政治学やゲーム理論はプレーヤーの自己決定だけに依拠します。 システムは選択肢をプレーヤーに提示するんであって、 システム側からの積極的な強制力が働くワケじゃありません。 プレーヤーが自己決定する振る舞いだけで、その政治空間なりエリアの政治が機能すれば いいワケです。 ゲーム空間とはそーゆーもん。 そして以前に提議したよーに、ゲーム空間では気が狂わないのはナゼか? とゆーとーってもジュウヨウな問題のキーポイントもココにあります。 <郵便的問題>の問題も<戦闘美少女>で斎藤環さんが追究しようとしてる問題も、 同じ問題なんですね、ホントは。 別の位相からいえば、 その辺にころがってるサブカル論議などの多くが発信者やシステムばかりを対象にしてることそのもの... を巡るラジカルな問題なんですね。そこには自己言及がありません。自分を振り返ることのない虚ろで独り善がりなジャンクカルチャーなワケです。 そしてその解は『心的現象論序説』のひとつのポイント。 もちろん『戦闘美少女の精神分析』においてのいちばんラジカルな問題だし、 ラカンの有効性そのものを問うものでもあるでしょー。 ふははは 追伸... 今日横浜中華街で食べた汁なしのネギチャーシューらーめんとゆーのは、 ぶぶかなんかの東京的油そばには負けるかもしれないなあ、と。
『戦闘美少女の精神分析』(斎藤環・太田出版)はそのブックデザインだけでも目立つ本ですね。 美少女のフィギュアはともかく、そのカラーリングが目を惹きます、パンピーの。 結構前に立ち読みしたんだけど本体価格2000円にたじろぎうなだれて帰宅。 しかし斎藤さんが『社会的ひきこもり』の著者でもあり、 何と言ってもラカンやベイトソンの正当?な理解者としての精神分析医でもあるんで買いました。 まあほとんどの評論家が批評どころか読解さえも出来なかった『心的現象論序説』と、 何かオーバーラップするイメージがあったんですねコレ。 『戦闘美..』への批評やスタンスを見るだけでも、ラジカルなジャッジは可能だしね。面白いんだなあ、コレが。 評論家は「『心的..』は読まれていない」とか言って読めない自分を弁護してますが、 柄谷行人さんのキレ味スルドイ解説(原生的疎外と純粋疎外を大衆と知識人に例えたアレね)もあります。 東大の森山さんの『心的..』や吉本思想全般への批評もスグレモノ。 つまり、読める人には読める。ただそれだけのことでしょー。 実際『心的..』は後に東大病院の院長(だっけか?)になった森山さんをはじめ、 臨床の現場や病院関係者の間で多くの読書会・研究会が作られ、 「心的現象論序説講演会」なんかは心理学会のオジサンが軒並み立ち見とゆー盛況ぶりでした。 思想や認識が影響力を持つということを実感させてくれた具体例でもありますね。 都立の精神病院で『心的..』を研究した医者が患者を傷つけて逮捕されたこともあるし。 どーゆーいきさつだかは知らないけど『心的..』を研究した自分なりの確信犯だったというのが 興味をそそります。患者を殴って従わせた河合隼雄センセイみたいなもんでしょか。(笑)
たとえばぼくや村上隆さんが注目している 「おたく的なもの」なんて、 本当は、日本と言うより東京のものですよ。 「大航海」35での宮台さんと東さんの対談「新しい若者のモデル」の東さんのイキでダイレクトなコメントです。 だから東京を語れなきゃ、 今の世の中じゃ、 何もわからないのと、 同じなんだよね。 大声で語れよ、東京を! カッペの犠牲エリアを! 保守与党のない空間を!
わあああ、3週間ぶりだあ。 Windows 95はコケるは、会社はアブナイは。 3週間ぶりに復帰したシステムで気持ちよーくオンラインすると、 インターネット経由のメールが約100通。 まあ、パソコン通信の方は旧式のWindows 31でカバーしてましたが、 なんつーか運用が苦しいもんですねえ。32ビットのスピードになれちゃうと。 Windows2000を購入したものの、デュアルCPUマシンでのセッティングはまだ。 Windows NT4.0でもイジョーに静かなシステムでしたが、 Windows2000はもっといいハズ。 でもマシンの設定スペースがないとゆービンボーでヒサンな作業場...。 ノートパソコンも突然電源がオシャカ。 ケータイぶっ差して移動デスクを気取ってたものの、コケりゃホントに御荷物になるだけですね。 うおー、インターネットと無縁な3週間はツライもんでした。 でもね、オンライン無しの3週間は新鮮だったのも確か。 ああ、大塚英志さんと吉本隆明さんの対談が笑えましたよん。 吉本さんの宮台さんへの評価が予想どおりだったので安心。 レーニンへの言及の仕方を見ると中沢さんのレーニン評への肯定もあるのかな、 などと考えながら面白く読めました。 竹熊さんの文庫本はリアル過ぎて一気に読んでしまいましたよん。 サイコエロマガジンのJAMのコトなんかも書いてあって、もー、リアル。 作業場の段ボールの中に某が送って来たJAMがあるしねえ。 国立のアシッドカンパニーだあ? まったく、なんつーリアルなんだ、こりゃ...。 そーいえば東京おとなくらぶもあったなあ、どっかに。
『心的現象論序説』読んでると、 東京工業大学出身のバリバリ理系の吉本さんが、 インターネット駆使してデイトレードなんかやったら、 スゲーだろーな、どと思うのはボクだけだろーか。 バブル崩壊後真っ先に一般消費から経済を分析してた吉本さん。 間抜けなシンクタンクが同じことを言い出したのは去年から。 ジャンルが違ってもデキル人はデキルんだね。 フーコーのオーダーどおりに『共同幻想論』は仏語訳されましたが、 ホントは『心的現象論序説』の方がいいと思います。 だってえ、ソシュールもラカンもハイデガーも、ブッ飛んじまうよ、アレ。 アメーバの原生的疎外からイデオロギッシュな指示表出まで、 あーもこーも原理的に解析できる魅力はアブナイくらい。 まあ実効性のある効果をイッパイ生んでるよーですが。 村瀬学さんの『理解のおくれの本質/初期心的現象の世界』なんか、その代表かも。
本日本屋で香山リカちゃんの書いた西田哲学の本を発見。 たいそーりっぱそーな雰囲気のあーゆー本である。 ニューアカやPOPがなんとかてな軽々しいモノではないのである。 で、リカちゃんと西田幾太郎の写真が並んで印刷してある。 対等ってなことか。 上等じゃねーか。 でもお金がないんで買えなかったの。 クスン ま、本日一発目のトレードは買ったとたんに10万円も上がっちゃうんだから ヤクザはやめられないなあ、てな感じもしますが。 ちなみに、ボクはヤクザじゃないよ、と。
えー、まー、散歩に行くのは、作業場の周辺か、中央線のどこかか、 多摩川だの玉川上水の辺りか、京王線のどっかだったりします。 それから最近話題の多摩モノレールの周辺とか。 今日は泉鏡花の世界がコンセプトらしいラーメン屋「鏡花」で鶏ガラのラーメンを一杯。 BGMが「高野聖」そのまんまでけっこーナニでした、ナニ。(笑) 佐藤慶の朗読だったらもっといいのにとか、思ったな、ちょっと。 せせらぎや鳥の声、ふくろうさんでも雰囲気は出てるけど、ね。 その後ちょっと散歩。 モノレールの立川南という駅の近くで、なんか変です。 歩行者の雰囲気とゆーか街の喧騒の中にキンチョー感ちょっぴりな感じ。 何だかガシャンガシャンとか音がします。 モノレールの下の道路わきにあるマクドの前が少しキンチョーな感じい。 歩行者が何人か何かを観てます。まあ見物ですね。 おおー、マクドの店員がガシャンガシャンやってます。 店の前の自転車を持ち上げては数メートルわきのガードレール沿いの 不法駐輪の自転車の列の上へ投げてるんですねえ。 自転車を投げてるのね。 大魔神みたいな感じつーか。 自転車を持ち上げてはスタスタと駐輪してある列までいって 柔道一直線おいらが肩車ってな感じで投げてます。 必死の形相とゆーか、キレてる感じもちょっぴりの店員さん。 でもなあ、法律的なことなんか知らないけど。 自転車の持ち主が来て、ワオーとか大魔神ゴッコになっても知らないよお。 店員さんが肩車でグワーんとか投げられる光景なんかを想像しながら散歩続行。 マテリアルな闘争は上には上がいるからねえ、などと青春時代を回想もしました。 オシマイ
そんなワケでどーしても現代日本思想と ますます因縁深くなっちまうのがこのセクション。 ココでいく度も言及してきた東さんが コミュニケーションや表現のポイントとして「助詞」の使い方を指摘してるトコは、 まあ羊的には吉本さんの出番なワケですね。 もちろん言語論としてはスターリン言語学の透徹した問題意識だってグレートだし、 関係もあります。 「コンスタティヴ」と「パフォーマティヴ」という東さん式の問題設定は、 吉本理論では「指示表出」と「自己表出」の関係になるでしょー。 『言語にとって美とはなにか』に狩猟人がはじめて海岸へ迷い出て、 海を見て<う>と叫ぶというシーンを設定して説明してるところがありますが。 まあ、「指示表出」「自己表出」について、 ここでも「う」で説明したりするとすると...(『言語美』での説明とは違います) 「う」と発声されただけの次元では「指示表出」か「自己表出」か決定不能です。 「う」という発声は空気振動というマテリアルな事実として確認したり再現したりできます。 でも「指示表出」か「自己表出」かはマテリアルからは決定できません。 「う」が「指示表出」となるのは、 その対象となるモノゴト(この場合は海)を他者へ伝えようとする時ですよね。 ここからコミュニケーションがはじまります。 「う」が「自己表出」となるのは、 「う」の発声によって「自己確認」する(自意識)時です。 ここから思考がはじまります。 このように「う」そのものだけで指示表出か自己表出かは定義できません。 情況によって、つまりTPOや場所的限定によって決定されるワケです。 「う」は可能性として「指示表出へのベクトル」と「自己表出へのベクトル」 の両方を持っています。 TPOによってどちらにも機能するワケです。 しかも、これは固定した静態的な決定ではありません。 「う」と声を出したら「海」のことだ、という2者間の合意があって成立するもの。 それが対幻想です。 共同体レベルであれば共通コードの成立でしょう。 それが共同幻想です。 そして発声の分節化が進めばやがてそれは各種の「詞」の登場を意味するワケです。 それが、言葉の進歩ですね。
つーことで4、5つレスポンスをいただきました。 「2ちゃんねる」の浅田さんや宮台さん東さんなんかを話題にしてるトコで、 「TYO & SKY」が取り上げられてたんですね。 うーん今夕方の9:28現在で642ヒットを突破してます。
うわああ、結局昨日は参照数が409ヒットいってます。 何コレえ?
夕刻8:37時点で今日一日の参照数が352ヒット。 どーなってんっだあーろーか。 いつも20〜30ヒットくらいなんだよ1日あたり。 大学生とかが休みに入るとガクッと参照数が減ったりもするし。 まあ50を超えたら何かあったあ? てな感じなんだけど。 今日みたいに300超えると、もう原因究明命令発動冷麺食べるは後回っしてな風です。 それでお願いでーす。 あなたはどーゆー経路でここへ来たんですかあ? 検索サイトで発見とか、どっかのリンクからとか、掲示板に出てたとか。 まあ何でもいいんだけどここへ来た経路を簡単に教えてください。 メールで一言くれればハッピーですう。 まあついでに感想とか書いてくれるとウレシイです。(^^ゞ 「ココから来たメール」宛先はココ