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text by Takawo Nishi


〜98-99シーズン編・その6〜

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1月22日
 熱はすっかり下がり、屁現象もやや沈静化へ向かいつつあるが、やたらと咳が出て困る。
 ……あら? おいおい、ちょっと待て。咳が出る? 参ったな、またかよ。咳が出るって、何が出るんだ。出るのは、ごほごほとかげほげほとかいう音であって、咳なんかどっからも出てないぞ。咳の場合、屁よりもさらに実態がないじゃあないか。唾液とか痰とか場合によっては涙が付随して出ることはあるが、まさかそれが「咳」の実態ではあるまい。やはり咳も、ついでに言うならくしゃみも、屁と同じ「現象」を指す言葉なのである。つまり、咳は出るのではなく起きるものなのだ。あーあ、誰か止めてくれ。いや、咳じゃなくて、この無内容きわまる日誌を。

1月21日
 風邪はだいぶ落ち着いてきたものの、こんどは腹の具合がおかしくなってきた。やけにガスがたまり、屁ばかり放っている。おお、「屁をひる」は「屁を放る」と書くのか。知らなかった。しかし、これは何なんだ。抗生物質の副作用か。どんな薬だ。それとも、もしかして放屁病か? ほうひびょう。なんてイヤな病気なんだ。ものすごく治したい病気である。ひとりで仕事してるからまだいいようなものの、屁が止まらないほど困ることが他にあるだろうか。悲しみが止まらないのと屁が止まらないのと、あなたはどっちがイヤですか。

 昨日、簑島×星稜の延長18回について書いていたのだが、あの試合、14回裏に「隠し球」で簑島の3塁ランナーがアウトになってたんですね。一部始終を見ていたはずなのに、そんなシーンはまったく記憶に残っていない。アウトになったのは森川という選手で、こいつが16回裏に2本目の同点ホームラン(12回裏の1本目は嶋田宗彦)を打ったのだ。あと、このときの星稜にいま中日か広島(行ったり来たりしてるんで、ようわからん)にいる音重鎮がいたのも、資料を見て初めて知った。あれ? 音って、そんな大ベテランなのか。どうでもいいけど、野球の試合経過って、めちゃめちゃ文章にしやすいよなー。

 あー、また屁が出そうだ。出た。何書いてんだ俺は。かつて、日誌の中で放屁を告白した者がいただろうか。俺が世界初か。……あ、おい、読むのやめないでくれ。

 ところで、BS−1はなんでいまごろからスペインリーグやってんだ。このあいだのR・マドリード×ビジャレアルって、開幕戦だろ? 「賞味期限」の切れたゲームは放送権がもらえるということなんだろうか。ただでさえ俺はCSでいまごろセリエAの第13節あたり(ちなみに昨夜はインテル×ウディネーゼを観戦)を見てたりするんで、よけいに時系列が混乱してしまうぞ。

 でも(何が「でも」だかわからんが)、屁ってどの時点から屁なんだろう。「屁が出そう」と言う以上は腹の中にあるときから屁なわけだが、しかし「腹にガスがたまる」とは言っても「腹に屁がたまる」とは言わない。屁がたまる。ためるなそんなもん。やはり、出てからが屁、出てこその屁、なのだろうか。だとすると、「屁が出そう」は不正確で、「ガスが出そう」もしくは「屁になりそう」と言うべきである。
 屁になりそう。うーむ。なんか言った人間自身が屁に変身してしまうみたいだな。忍法、屁がわりの術。元に戻る術がなかったらどうしよう。ダメだ。屁になりそう、は却下。
 しかし「ガスが出そう」では事の本質を表現しきれていないし、近くにいる人間の危機意識を高めにくい。待避準備をしてもらうには、やはり「屁」という言葉の持つインパクトが必要だ。
 あ、わかったぞ。屁とは放出されたガス自体を指す言葉ではなく、それが放出される現象全体を意味する言葉なのだ。たぶん。フェーン現象とか毛細管現象とかと同じだ。現象としての屁。したがって表現に正確を期すのであれば、「屁が起こりそう」とか「屁が起きた」とか「おいおい、こんなところで屁を起こすなよ」とか「おまえの屁は臭い」とか言えば良いのである。あ、最後のはふつうそう言ってますね。
 しかし屁が現象だとするなら、「音はすれども姿は見えぬ。ほんにおまえは屁のような」に代表される「屁のような」という比喩表現も解釈し直す必要があるのではないのだろうか。いや、いいのか。屁を現象とすることによって、むしろ「ほんにおまえは屁のような」の比喩としての正しさが証明されたのか。よくわからんな。あー、くだらない。くだらなすぎて腹が張る。また屁が起きてしまいそうだ。厄介な屁め。

1月20日
 ベティス×バルセロナ観戦。ルイス・エンリケ、絶好調である。0-3でバルサの勝ち。「今のラツィオは世界一」と書いたが、やっぱ今のバルセロナにはかなわないかもしれん。いや、でもベティスに攻め込まれる場面も多かったしな。ビエリ&サラスの決定力とNE−NEコンビ(ネスタ&ネグロ)の守備力をもってすれば互角に戦えるか。戦う機会がないから何とでも言えるが。
 それにしてもデ・ブール兄弟である。俺は昨日のバルサ戦を見るまで知らなかったのだが、バルサへの移籍、いつ決まったんですか。早ければ次節から出場可能とか。驚いたね、どうも。バルセロナ、オランダ人8人(監督も入れりゃ9人)だ。レギュラークラスに8人もオランダ人がいるチーム、いまどきオランダにだって少ないぞ。ほとんど代表選手なんだから、いっそのこと監督をライカールトにしてみたらどうだ。ともかく、これでアヤックスの来季CL出場はほぼ絶望的になったと言えよう。
 しかしまあ、この際、俺はカタルーニャ人でもスペイン人でもないことだし、バルセロナのオランダ・サッカーを単純に楽しむことにするか。だけど、フランクはともかく、ロナルドはどう使うつもりなんだ?

1月19日
 まだ微熱はあるが休んでばかりもいられないので、根性で仕事に復帰。昭和44年の三沢×松山商業の延長18回について、文字どおり「熱筆」をふるう。俺が5歳のときの試合だから知識があるわけもなく、資料と著者のインタビューを頼りに書き起こしたのだが、聞きしに勝る名勝負だったようだ。書いてて、ますます熱が上がってきた。読み手の熱も上昇させるような文章になっていれば良いのだが。明日は星陵×簑島の延長18回(昭和54年)について書くことになる。

1月18日
 やや持ち直したとはいえ熱はあるので、久我山病院へ。連休明けのせいか猛烈に混んでいて、文字通り「3時間待ちの3分間診療」であった。ま、そんなもんだろう。医者には同情する。俺の兄も医者なのだが、昨年末には1日に260人の患者を診たこともあったという。260人だぞ。たぶん俺は、1日に260人もの人間と言葉を交わしただけで気が狂うと思うね。しかも、それがすべて病人なんだから、イヤな商売である。ともかく、俺の風邪は74年型オランダTFウィルスのせいではなく、喉がバイ菌でやられたのが原因らしい。バイ菌め。抗生物質やら解熱剤やらうがい薬やらトローチやらを大量にもらって(買わされて)帰宅する。
 夜、コンテストの主催者からのメールで自分が逆転優勝したことを知る。おお。そうであったか。先週のウディネーゼの2点目はやはりオウンゴールだったので、やはり俺にはツキがないと嘆いていたのだが、中田のPK、バティのハットトリックという逆境にもめげず、シニョーリが、サラスが、ビエリが、ゴールを決めてくれていたのだった。しかし俺は、これをもって自分にツキがあるなどと言うつもりはないのである。この勝利は俺の実力によるものであって、ツキによるものなどではないのだ。どうだ、偉そうだろ。がはは。言わせておけ言わせておけ。熱もあることだし。がおー。
 それにしても、ラツィオの強さときたらどうだ。フィオレンティーナとパルマを連破した今のラツィオは、たぶん世界一強い。スクデットの予感、十分である。なんてことを俺が言うと、とたんに負けが込むのが通例なんだけど。がははのはー。

1月17日
 体温が38.8度まで上昇。死んだも同然で、セリエAも観戦できず。深夜、熱冷ましのタオルを取り替えに来てくれた妻に、「中田がPK決めたよ」と教えられ、ほんとうに気を失いそうになった。俺を殺す気か。

1月16日
 感染だとか闘病記だとかほざいていたせいかどうか定かではないが、夕刻から発熱。インフルエンザか、はたまた74年型オランダTFウィルスの仕業か。

1月15日
『フィジカル・インテンシティ '97-'98 season』(光文社)の中で村上龍が、自分は何物にも従属したくない、しかしサッカーには自分を従属させる魅力がある、だから自分はずるずるとサッカーに従属してしまうのがイヤでフランスW杯を最後まで現地で見ずに途中で帰国した、という意味のことを書いていた。なるほど。俺も去年からサッカーに従属しっぱなしである。つまらぬ語呂合わせだと承知の上で言うなら、サッカーは観戦するものではなく感染するものなのかもしれない。サッカー感染記ってのも、なんか怖いが。この日誌は闘病記か。もし、2〜3年前から顔を合わせていない古い知り合いが初めてこのウェブを見たら、その急激な感染ぶりに言葉を失うかもしれない。近頃は、突然「ああ、シュートが打ちたい」などと口走って妻を困らせることもある。こうして仕事場にいても、無性にサッカーが見たくなる瞬間がしばしばあるのだ。
 人はなぜサッカーに染まるのだろうか。前後半の各45分間、ピッチの上を停滞することなく流れてゆくボールと選手の動きには、人の脳を痺れさせるようなヤバイ習慣性でもあるのかもしれない。そう言えば金子達仁と馳星周の対談本につけられたタイトルは『サッカー・ジャンキー(蹴球中毒)』だったような気がする。もっとも俺の場合は専らテレビだから、スタジアムでの中毒とは質が違うんだろうが、不健康なぶん、余計にヤバイのかもしれない。

 そんなわけで昨夜は、74年W杯西ドイツ大会のオランダ×アルゼンチン(2次リーグ)に「ビデオ感染」した。なんか、その前にテレビで見てた「リング」みたいだ。
 こういうビデオって、実況もナレーションも一切入っていないんですね。聞こえてくるのは、場内の歓声とホイッスルの音ばかり。最初は面食らったが、次第に気持ちよくなってきた。純度の高いドラッグみたいな感じだ。つまりスポーツ中継における実況や解説などの「言葉」は、不必要と言うつもりはないが、やはりある意味で不純物なのだ。テレビでスポーツを見ていると、自然とそこにある「物語性」(選手の経歴とか、監督の性格とか、ロベカルの左足は世界一とか、中田は野菜を食べないとか)に依存するようになるが、これも多くはアナウンサーや解説者によって付与されるものである。実況のない「素」のビデオを見ていると、それがよくわかる。物語など成立するはずもなく、ひたすらリアルな身体性を突きつけられるのだ。これは、酔う。

 ただし実況がない上に、オランダのオレンジは鮮やかすぎて画面上でハレーションを起こしてしまい、背番号さえ見分けがつかず、しかも今と違ってオランダ代表はオール白人であるせいもあって、どれが誰だか全然わからない。唯一クライフだけはキャプテンマークをつけているので、辛うじて動きを把握できた。ま、どれが誰でもいいんだろう。何しろ「トータル」フットボールなんだから。

 クライフは、クールでエレガントだった。なんでそんなことを想像したのかよくわからんが、クライフがどんなふうに車のドアを開け、どんなふうに女の髪を撫で、どんなふうにメシを食い、どんなふうに電話をかけ、どんなふうにジャケットを脱ぐのか、そんなことが全部わかるような気がした。端的に言って、こういう状態を「惚れた」と言うのだろう。

 ゲームは一方的だった。先制点はクライフ。24年後に同じアルゼンチン戦でベルカンプが見せた勝ち越しゴールを彷彿とさせる、絶妙なトラップだった。いや、ベルカンプのトラップが、クライフを彷彿とさせるものだったわけか。その後、やはり24年後のユーゴ戦でダビッツが決めた勝ち越しゴールを想起させるようなクロルのミドルシュートもあり、2-0で前半を折り返す。後半にも2点を加えたオランダは、4-0でアルゼンチンを粉砕したのであった。
 相手は韓国ではない。アルゼンチンである。当時の力量がどれほどのものだったのか知らないが、4年後には地元でのW杯を制したチームだ。弱いわけがない。そのアルゼンチンが、90分を通じて一度も決定機を作れなかった。一度もだ。それどころか、ペナルティ・エリアに近づくことさえ叶わない。たぶんCKさえ一本もなかったと思う。オランダが壁を作るようなFKも前半に一本あっただけ。それもGKの手を煩わせることなくあっさりと跳ね返されている。おそらくスタンドを毒々しいオレンジ色に染め上げたオランダ人サポーターは、試合が終わるまで一瞬たりともヒヤリとしなかったに違いない。

 俺は試合の途中、「いま何点差でどっちが勝っているのか」をほとんど意識していなかったが、これは実況や得点表示がなかったせいばかりではないように思う。オランダは、得点差や残り時間といった数学的現実などまったく眼中にないかのように、相手にカットされてカウンターを喰らうリスクをかえりみず、ぎりぎりのところを狙ったパスを出し続けた。W杯の、それも決勝進出のかかった試合で、である。まるで奴らは勝つために戦っているのではなく、自分たちのイメージを具現化することを唯一の目的としてボールを動かし、ひたすらおのれの美意識を貫こうとしているように見えた。奴らにとって、勝利とはいったい何なんだ?

 俺は今までサッカーの世界でしばしば使われる「イマジネーション」という言葉をうまく理解できずにいたのだが、この試合を見ると、それがきわめてシンプルに理解できる。オランダとアルゼンチンの間にあったのは、圧倒的なイマジネーションの差だ。質・量ともに、オランダの選手たちはアルゼンチンをはるかに凌駕するイメージを持っていた。たぶん、クライフ一人でアルゼンチンの全選手を上回る大きさのイメージを持っていたと思う。そして、そのイメージが脈々と受け継がれているから、今もオランダのサッカーは美しいのだろう。

 それにしても驚いたのは、現在の選手たちとの「容貌」の差だったな。25年前の人類って、あんな感じだったのだろうか。オランダ人、クライフを筆頭に、なんであんなに痩せてたんだ。オランダの白人って、みんなベルカンプやデブール兄弟やヌマンやコクーみたいな顔してるのかと思ってたけど、そんな顔は一人もいなかった。アルゼンチンのほうも、みんな妙な髪型してるし、身も蓋もない言い方をすれば、へんな顔した奴が多い。ときおり映るアルゼンチン・ベンチなんか、刑務所の慰安野球大会みたいな雰囲気だった。なんだそりゃ。あ、べつに刑務所の人たちがへんな顔してるという意味じゃないです。なんとなく剣呑かつ陰惨な空気が漂ってるっていうか。

 ビデオ感染を終えてCSのWOWOWをつけてみると、マンチェスターU×ブレンビー(CL第4節)の後半が始まるところで、なんの因果かジョルディがピッチに送り出されようとしていた。さっき見たオランダ×アルゼンチン戦の4ヶ月ほど前に生まれた、クライフの息子である。ま、要するにカズシゲみたいなもんだな。父親と同じ14番をつけているのを見て、「やっぱ、そういうもんなのか」と思った。前半で4-0と大量リードしたために監督からチャンスを与えられたジョルディは、たまに冴えたパスを出して相手ゴールを脅かしはしたものの、おぼっちゃま然とした気迫のないプレイで、オールド・トラフォードを埋め尽くしたファンの溜め息を誘うことのほうが多かった。ちょっとだけ、クライフへの恋が冷めたような気がした。

1月14日(午後)
 さっきアップデートしたばかりなのに、また書いている。明らかにこれは仕事からの逃避である。今月も、もう半分終わってしまった。逃避している場合ではない。今月中に野球の本を書かねばならぬのだ。サッカーのことばかり書いていてどうする。
 その野球とサッカーの話なのだが、何度も書名を出している加部究『サッカーを殺すな』(双葉社)の指摘によれば、日本人は野球に関して野茂が渡米するまで完全にドメスティックな視点しか持ち合わせていなかったが、サッカーに関しては初心者のファンでさえ国内を飛び越えて「世界」に目を向ける傾向があったという。そのためスポーツ紙の野球担当者でさえ、大リーグのどのチームがア・リーグなのかナ・リーグなのかを把握していない、といった現状があるらしい。たしかに、俺もこんなに野球が好きなのに、大リーグのチーム名をすべて挙げることができない。それどころか、一体いくつチームがあるのかもわからん。んで、試しにセリエAの18チームをソラで言えるかどうかトライしてみたら、驚いたことに、言えた。ビリー・ジョエルの名前さえど忘れする俺が、である。
 べつに、だからどうだと言うわけではないんである。
 ところで、これもふと思っただけなのだが、たとえば韓国人は野球とサッカーを比較して語ったりすることがあるんだろうか。俺はこのあいだ、シードルフのスルーパスを見て、なぜか三遊間をきれいに抜く篠塚の打球を思い出したりしたのだが、そういうことが韓国のサッカーファンにはあるんだろうか。サモラーノのボレーシュートに原辰徳のホームランを重ね合わせたり、マジョルカに広島カープの幻影を見たりすることがあるんだろうか。それとも、日本人の中でもそんなふうにサッカーを見ているのは俺だけなのか。ま、どうでもいい話である。仕事しなさい。

1月14日(午前)
 どうも昨日の文章は長いくせに言葉が足りなかったような気がするんだけど、要するに、長沼が悪い、岡野も同じ穴のムジナだ、大仁には任せられん、釜本に何ができる……などと協会幹部の個人的資質をあげつらっていても何ら根本的な解決にはならないということだ。俺もそれをあげつらったことがあるし、これからもあげつらうことはあると思うけど、そういう批判はせいぜい自国開催のW杯でとりあえずの結果を出すための対症療法にしかならない。日本人に共通のメンタリティにメスを入れるような視点を持たないかぎり、たとえ2002年にベスト16入りを果たしたとしても、それはメキシコの銅メダルと同じように「過去の栄光」という「点」で終わってしまう恐れがある。たぶん永遠に続くはずのサッカーの世界に、細くとも途切れることのない日本という「線」を引くにはどうしたらよいか、を今こそ考えるべきなのではないだろうか。
 もちろん、たまに出現する「点」を愛でながら生きていくという選択肢もあるんだけどさ。にしても、だ。3年後に迫った「とりあえずの結果」にさえ危機感を抱いていないように見える関係者には、ほんとうに呆れる。まあ、「ベスト16入りが開催国の義務」という常識が、日本や韓国に当てはまるのかどうかも疑問だけど。たとえば今回フランスが1次リーグで敗退したら大問題になっただろうが、もし94年にアメリカが(大方の予想どおり)予選敗退していたとしても、「世界」は何とも思わなかったような気もする。本気でそれを義務だと考えているなら、その時点でW杯の出場経験がない国とW杯で1勝も上げていない国に開催権を与えたりするわけがない。そう考えると、開催権を獲得しただけで「とりあえずの結果」を得たつもりになっているかのような協会関係者の気持ちも「わかってしまう」俺であった。

 ま、そんなことはともかく、コンテストの主催者によれば、例のオウンゴールはアモローゾの得点に訂正されたらしい。むふふふ。誠実に生きていれば、たまには報われることもあるんである。さらに前節はビエリとシニョーリもゴールを決めてくれたため、あと1節を残したところで俺は単独首位に立ったのであった。がんばれ俺。負けるな俺。
 ところで加部究『サッカーを殺すな』(双葉社)を読んで初めて知ったのだが、アモローゾはヴェルディに入団したとき、帰化して日本代表入りを目指すつもりがあったそうだ。ところがヴェルディは彼を大して使わないまま、クビにしてしまったとか。すばらしい。すばらしすぎて、あくびが出る。セリエAで得点王争いにからむほどの才能を見抜けなかった、眼力なきニッポン・サッカーよ。もっとも、アモローゾ本人にとって、どっちが良かったのかは別問題だが。

 またまた話は変わる。前に「胸にスポンサー名が入っていないのはバルセロナだけじゃないか」という意味のことを書いたが、これは間違いであることが判明した。少なくともスペインでは、バルセロナとA・ビルバオの2チームがそうであるらしい。スポンサー名を入れないことで、「市民クラブとしての矜持」みたいなものを示しているわけだ。あれだけのビッグ・クラブを支えられるのが、市民の底力ってもんだと思う。それにひきかえ、日本における「市民」という語の耐えられない軽さよ。

1月13日
 昨夜、不運な食事を終えて帰宅すると、バルセロナ×A・ビルバオ戦の放送が始まっていた。4-2でバルサの勝ち。実況が倉敷アナではなかったのであまり真剣に見ていなかったのだが、ゴールこそなかったもののクライファートはポスト役として十分に機能していたようだ。
 引き続き、マジョルカ×レアル・マドリードを観戦。放送時間がバルサ戦と30分重なっていて、チャンネルを変えたときにはすでにホームのマジョルカが先制していた。やれやれ。その後、サンチスの信じられないようなオウンゴールもあり、前半を2-0で折り返す。75%のボール支配率で圧倒的に攻めまくるレアルだが、堅牢なマジョルカの守備を崩せない。「CLに出てきたらシラけるだろう」などと書いたが、マジョルカ、意外にいいチームである。ひたむきで献身的な守備ときびきびした動きは、フランスW杯におけるパラグアイ代表や、阿南監督時代の広島カープを想起させるものがあった。
 しかし後半開始直後、キックオフから一度も相手にボールを触らせないまま、シードルフのゴールでレアルが1点を返す。さすがに支配率にこれだけの差があったのでは、同点、逆転も時間の問題のように思われた。ところが、実はそれからがマジョルカの見せ場だったのだ。前半、最終ラインを下げてひたすら守りながら、カウンターで幸運な2点を手に入れたチームである。こういう場合、1点差に詰め寄られれば、ますます守備に専念するものだ。だがマジョルカは違った。ラインを上げ、猛然と攻めに転じたのである。
 これがセオリーに反するものなのか、当然の戦術転換なのか、俺にはわからない。いずれにしても、相手がレアルであることを考えれば、ひどくリスキーな戦い方であることは間違いないだろう。しかし、この勇敢な姿勢がレアルの調子を狂わせた。1点返して勢いに乗るはずのレアルは、すっかり受けに回ってしまい、「まるで1点リードしているチームのような」(金子達仁)闘志なき戦いぶりに堕してしまったのである。
 しかもサンチスが二枚目のイエローをもらって退場。左サイドはロベカルとヤルニが噛み合わずにぎくしゃくし、右からはパヌッチが懸命にクロスを上げ続けるが、トップのスーケルは相変わらず精彩がない。ラウールのシュートもクロスバーを叩く。試合はそのまま2-1で終わり、マジョルカが首位をキープした。ひょっとするとひょっとするチームである。
 ところでこの試合では、イエロが通算100枚目のイエローカードを受けたとのこと。100枚ってすごいな。何か景品と交換してもらえそうだ。10試合に1度ぐらいのペースで退場を喰らっているというモンテーロ(ユベントス)もすごいが、およそ360試合でイエロー100枚というのも立派な数字である。

 最近読んだ(or 読みかけの)本。加部究『サッカーを殺すな』(双葉社)、福田和也『この国の仇』(光文社)、吉田一彦『暗号戦争』(小学館)、櫻井よしこ『日本の危機』(新潮社)、村上龍『フィジカル・インテンシティ '97-'98 season』(光文社)。この5冊には、(やや乱暴に)突き詰めると、ほとんど同じことが書いてある。我々の暮らす日本が、いかにコドモの国か、ということだ。
 それぞれの本に共通のキーワードは山ほどある。甘え、責任回避および責任転嫁、「自由」のはき違え、危機感の欠如、決断の先送り、そして長期的な視野と大局観のなさ。生物の世界にはオタマジャクシがそのまま成体になってしまうような「幼形進化(ネオテニー)」という現象があるそうだが、日本もまさにネオテニー国家なのではないだろうか。オトナびた表情や言動で表面をコートしつつコドモじみた欲求を満たすために売春に走る女子高生の姿は、そのままこの国の現状を映し出しているのかもしれない。
 コドモとオトナの違いは、ざっくり言ってしまうと「落ち着き」があるかどうかだと思う。自分でもサルを一匹飼っているのでわかるのだが、コドモは寝ているとき以外はたいがい興奮している。嬉しいことがあると舞い上がり、意に添わないことが起きると泣き叫ぶわけだが、どちらにしても「落ち着いて物事を見極める」ことができないのがコドモだ。そして、ヒステリックなマスメディアの体質を見ているだけでも、この国がコドモの特質を十分に備えていることは明らかである。
 コドモは、オトナの保護下にあるときにはある種の「強さ」を発揮する。親に守られていれば子の心身はぐんぐん成長するし、アメリカの核の傘の下にいれば経済もぐんぐん成長するわけだ。しかし、ひとたび庇護を失って「外」に出ると、コドモはこの上なく弱い。だからこの国は戦争にも負けたし、W杯でも下らない結果しか手に入れられなかったのではないだろうか。とりわけ、情報戦を軽視して「何とかなる」とばかりに無謀な作戦をくり返した旧日本軍と、世界の現状に目を向けようとせず「何とかなる」とばかりに岡田監督にフランスでの指揮権を与えた日本サッカー協会の姿は、驚くほど似通っている。自らの力量を客観的に知ろうとせず、必要十分な準備もせずに「本番」を迎え、根拠もなく「神風」が吹くことを信じるコドモじみたメンタリティは、おそらく大昔から変わっていないのだ。それが2002年までに改善されることは、たぶん、ない。

 もっとも、自分が日本人であることを棚に上げて、「日本はダメな国だ」と缶コーヒーの宣伝に登場する口先だけのサラリーマンのような態度で言い募るのは、少なくとも俺の本意ではない。仮に自分が軍やサッカー協会の幹部になったとき同じ過ちを犯さない保証があるのかどうか、そこに思いを馳せるのが誠実さというものだ。正直に言えば、俺には自信がない。協会を批判するサッカー・ジャーナリストは多いが、彼らもまた自らの中に、立場がかわれば同じことをやってしまう可能性が潜んでいることを無意識のうちに感じ取っているからこそ、口を極めて罵りたくなるのではないだろうか。相手のやることが理解できてしまうときほど、それを非難する調子も激しくなるものだ。近親憎悪、というやつである。
 もちろん、批判は必要だ。しかし、「犯人探し」をしてはしゃいでいるだけでは、コドモと同じである。サッカー協会はたしかに愚かな組織だと思うが、批判する側が彼らの行動を「信じられない愚挙」として切り捨てるのではなく、その発想が自分たちにも「わかる(わかってしまう)」ことを正直に認めながらオトナとしての当事者意識を持たない限り、おそらく何も変わりはしないのではないだろうか。この「コドモの国」にあって、ひとりサッカー協会だけが数年のうちに「オトナ化」することなど考えられないのである。

1月12日
 まったく、俺のツキのなさときたら、やはり天性のものとしか言いようがない。
 夜、某健康雑誌の連載の取材と新年会を兼ねて渋谷のフランス料理屋で著者のN医師、担当の女性編集者、編集長と4人で会食したときのことだ。ひととおり取材を終えていざ食事ということになり、われわれはメニューに目を通し始めた。店員が来て、「メニューにはあっても本日ご用意できないお料理」を説明する。それを確認した上で、俺は、アボガドと小海老のなんとやら、オニオンなんたらスープ、子牛のステーキうんたらかんたら風の3品を注文した。
 やがてワインが運ばれてくる。よく知らんが、ブルゴーニュ産のなんとかという白ワインである。ボトルを持った店員が、N医師と2人の編集者のグラスを満たした後、俺の横に立つ。そして彼は何を思ったのか、ワイングラスでななく、水が1センチほど残っているグラスのほうにブルゴーニュをどぼどぼと注ぎ始めた。
 そんな場面、あなたは見たことがありますか。
 それもアルバイトの小僧ではなく、いかにもプロフェッショナル然とした気取った感じの店員である。その店員が口元に微笑を浮かべながら、慣れた手つきで水のグラスにワインを注いだのだ。
 しかし、まあ、ミスは誰にでもある。きっと魔が差したのだろう。「……も、申し訳ありませんっ」と言いながら狼狽している店員に向かって、俺はにこやかに「そっちじゃないよね」と言ってあげた。
 俺のグラスが取り替えられ、われわれは何事もなかったように乾杯し、なごやかに談笑を続けた。しばらくすると、またさっきの店員が俺の横にやってくる。
「たいへん申し訳ありませんが、アボガドのほうが本日、あまり状態がよくないようでして……」
 ふむ。まあ、そういうこともあるだろう。俺は再びにこやかに「ああ、じゃあ、しょうがないよね」と言い、替わりに鴨のなんとかかんとかを注文した。まあ、前菜など何でもよろしい。
 せっせと食事を平らげながら、われわれは「ツキのある人、ない人」をテーマに語り合っていた。俺はいかに自分がギャンブルに弱いかを熱心に話した。とくにダービーで軸にして買った馬がスタート直後に騎手を振り落とし、わずか2秒で馬券が紙屑と化したときの話は、3人を大いに喜ばせていた。
 食事が終わり、デザートを注文することになった。さっきの店員が来て、メニューを説明する。俺はシャーベットを頼もうと思っていたのだが、木イチゴとパッションフルーツの2種類があるという。迷った挙げ句、俺はパッションフルーツのシャーベットを注文した。
 そして、俺が続けて麻雀で友人に大逆転の四暗刻単騎を振り込んだときのエピソードを話そうとしたときのことだ。またまた店員が俺の横に来た。半分、泣きそうな顔をしている。
「たいっへん申し訳ありま……」
「ないの?」さすがの俺も笑みを作れなかった。「パッションフルーツが、ないんだな?」
「は、はいっ。……木イチゴのほうはご用意できるんですが……」
 いったい、何故なんだろう。さっき、木イチゴとパッションフルーツの2種類があると言ったばかりじゃないか。その舌の根も乾かぬうちに、無いとはどういうことだ。そして俺は、どうして無いほうのメニューを注文してしまうんだ。
 メニューに載っている料理が切れていることは、そう珍しいことではない。それだけなら、ことさらツキがないと言うほどのことではないだろう。しかしアボガドもパッションフルーツも、何が無くて何があるのか事前に説明を受けた上で注文しているのだ。それが、俺が注文した途端に傷んだり無くなったりしてしまう。おまけにワインを水と混ぜられてしまうのだから、呪われているとしか言いようがない。
 この場合、ふつうの人は店の不始末に対して腹を立てるものなのだろう。しかし俺の場合は、原因を自らの「引きの弱さ」に求めてしまう。そして、たぶん、そう考えるのが正解なのだ。ほかの3人は正しくワイングラスにワインを注いでもらい、頼んだ料理を頼んだとおりに食べることができたのだから。
「そんなタイプには見えないけど、ホントにツキがないんですね」と、女性編集者がとても嬉しそうに言った。俺はやけにすっぱい木イチゴのシャーベットを口に運びながら、「……でしょう?」と何故か得意げに答えていた。

 ちなみに食事した店は渋谷カンピオーネの隣のビルにあった。待ち合わせ時間より少し早く到着した俺は、ついふらふらとカンピオーネに入り、またビデオを買っていた。74年西ドイツ大会のオランダ×アルゼンチン戦である。このあいだ買った『トータル・フットボールのすべて』がとんだ食わせ物だったので、どうせなら一試合、ちゃんとクライフの戦いぶりを観戦しようと思ったのだ。ついでに、82年スペイン大会の西ドイツ×フランス戦も買ってしまった。まだどちらも見ていないが、その後にレストランで起きたことを考えると、ちゃんとその試合が収録されているかどうか不安である。



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