去年11月に観た 『バシールとワルツを』 (Ari Folman, Waltz With Bashir, 2008) [レビュー] と、 先週末観た 『チェチェンへ —— アレクサンドラの旅』 (Александр Сокуров, Александра, 2007; Aleksandr Sokurov, Aleksandra) [レビュー] に関する話を徒然に。 きちんと根拠付けて関連付けられるという程でも無いのですが、 他の似たような表現のあり方について連想させられる所があったので、それについて。
一ヶ月程の間でこの2本の映画を観たせいか、2本の映画の共通点を強く意識させられました。 もちろん、レバノン戦争とチェチェン戦争、 いずれも非対称戦争を舞台とした映画という点もあるのですが、 その戦争の描き方に共通点を感じます。 それは、ドキュメンタリー的な手法を用いていながら、 取材によってその戦争の背景や経緯といったマクロな国際政治状況を明らかにしていくのではなく、 あくまで私的な体験のようなディテールを描くことに注力しています。 この2本の映画には、どうしてイスラエル軍がレバノン侵攻したのか、 もしくは、どうしてロシア軍が臨戦体制でチェチェンに駐留しているのか、 ということについて、全く手がかりがありません。
これについては、現在の進行中とも言える非対称戦争を 強者側 (それぞれ、イスラエル、ロシア) から描いていることによる限界なのかもしれません。 しかし、それも派手な戦闘シーンや凄惨な犠牲者で劇的に描くのではなく、 アニメーションやソフトフォーカスで彩度を押さえた映像で幻想的に描くそのやり方は、 監督の問題意識が、マクロで個別的な戦争の構図ではなく、 ミクロな部分に潜む普遍的な問題にあったのだろう、とも感じました。 特に、Sokurov の映画は、昔からその傾向がありましたし。 例えば、Hitler を描いた 『モレク神』 (Молох, 1999; Moloch) とか。
ミクロ側からのアプローチという点では、 沖縄米軍ヘリ墜落事故 を題材にした 照屋 勇賢 の作品 [レビュー] を連想させられる所もあるのですが、 現代美術でのやり方が比較的形式的なのに対し、映画はナラティブだよなあ、とも思ったり。
『バシールとワルツを』について、ジャーナリストの 土井 敏邦 が レビューを書いていることに気づきました: 「日々の雑感 127:イスラエル映画『バシールとワルツを』を観て」 (2008-12-08)。 「イスラエル国内で「大絶賛された」のはこの映画が“治癒”の効果があるからだ」 という指摘は Gilad Atzmon の指摘とも重なり、さもありなんという所ですが。 冒頭の「たとえイスラエルの政策に批判的と思われる映画も、私たちがきちんと伝えようとしている姿勢を見てほしい」 と、イスラエル大使館の担当者からの招待でこの映画を観た、というエピソードが目を引きました。
このエピソードで思い出したのは、アルメニアやクルドの音楽も演奏するトルコのグループ Kardeş Türküler の話 [関連発言]。 国内的にはビデオが放送されなかったりコンサートが許可されなかったりする一方で、 彼らのCDをトルコの外務大臣がヨーロッパで贈りながら 「トルコではこのように全てが自由に行われている」と言って回っている、という。 このような、政治的に微妙な使われかただけでなく、 政治性を意識してその抑圧や矛盾を指し示しながらも、抗議に声を荒げたりしない Kardeş Türküler の淡々とした表現も、 いくらか、『バシールとワルツを』や 『チェチェンへ —— アレクサンドラの旅』と共通する所を感じます。
『チェチェンへ —— アレクサンドラの旅』にはロシア連邦文化映画局が後援に付いています。 チェチェンのロシア軍基地でのロケが実現したのも、その後援があったからと思います。 「2月にソクーロフに会ったある人の話だと、ソクーロフは「撮影に関して、当局からの干渉があった」といってえらい落ち込んでいた」 という 噂 もありますが。 ま、それでも『チェチェンへ —— アレクサンドラの旅』がこうして公開された背景にも、 『バシールとワルツを』や Kardeş Türküler と同様のものもあるかもしれない、 と想像させられます。
『バシールとワルツを』だけでなく、去年に観た 『迷子の警察音楽隊』 (Eran Kolirin, Bikur Ha-Tizmoret (The Band's Visit), 2007) [レビュー]にしても、 今年2月から上映が予定されている 『シリアの花嫁』 (Eran Riklis (dir.), The Syrian Bride, 2004) にしても、 アラブ=イスラエルの一連の戦争が生んだ困難な関係に目を向けた映画です。 そういうイスラエル映画が日本でも紹介されるようになってきた所での イスラエルのガザ侵攻。 このような一連の映画の日本への紹介も、イスラエルへの批判を緩和するための、 イスラエル政府のポーズという面もあるのかもしれません。 しかし、もしそうだとしても、 これらの映画が持つアラブ=イスラエルの一連の戦争が生んだ困難へ向ける視線の意義を 損なうものではないとも思っています。