LDP・スクラッチ 1997.3.30〜7.11

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TK批評が、暴くもの


TK批評4パターン


TKをめぐる評価は、TKのビッグさに応じて多種多様だ。これが資本主義の本質を示す事実であるのは説明するまでもない。多様に評価されるのはそれ自体見事に多様で自由な周囲を反映した商品であることの証明だからだ。商品にその社会が反映されるのは、都市化の度合いに応じて精神病のアイテムが増えるのと全く同じ理由による。ジャングルには精神病がないし、商品もない。



いままで見聞してきたTKへの評価はほぼ4パターンに分けられる。


ファン・・・
これは簡単にファンである。楽しい、かっこいい、ウレシイ、面白いといった肯定的な評価であり、この肯定は資本主義の健全な側面を現わしている。文句のないスタンスだ。何事も肯定からしかはじまらないことを無意識のうちに自覚したジェネレーションが多数を形成しつつあることを示している。個人の嗜好を肯定するのは社会の基本だからだ。個人の財産を肯定するのが従来の私有財産を前提とした資本主義だったが、これからの情報資本主義は個人の嗜好(情報に対する価値判断)を肯定することが前提であり、当たり前のことだからだ。この点で代表的は主張なオタキングの『ぼくたちの洗脳社会』(岡田斗司夫朝日新聞社)などがある。

分析・・・
TKに戦略やマーケティングを見い出すタイプで比較的良質の認識に基づいている。少なくとも分析能力があることが前提になっているだろう。

反発・・・
これはけっこう多い。かつてTKに近いところにいた人間も含めて、そうとう強い反発もある。興味深いことに音楽そのものに関心がないような部分からはTKへの反発は全く出ていない。強迫観念の代表である対人恐怖症や関係妄想にも似て、TKへの距離が測定できる人間が強く反発するケースが目立つ。つまり音楽ファンやロックファン、同じジェネレーション、同じ楽器(キーボード、シンセサイザー)をプレイするなどTKへの類似性や距離が近いほど反発が大きくなる傾向があるようだ。いわゆる強迫観念なのだが分析するには面白い。当たり前か。もしかすると社会の問題の多くはこのビョーキを起因としているのではないかと思う。これも当たり前か。

疑問・・・
ビッグヒットするTKに対してクールな眼差しを向けるタイプで「分析」に比較的近く、そのクールなスタンスは根本的に他の現象に対しても向けられている。流行に流れるタイプではないので確かな指針となりうるタイプでもある。しかし、彼らは何に対してならホットになるのかは想像がつかない。ニヒルではないがペシミストか。ちょっとハルキワールドしてるタイプ。



自己言及できるかどうかが分水嶺


あるクラシックファンで、とてもよく古典の名曲と各指揮者を聴き込んでいる人間が「TKはどれでも同じに聴こえる」という。
多くの人間には「クラシックは、どれでも同じに聴こえる」のだが、そのことには彼は気がつかないようだ。その認識の偏りが彼そのものの特徴を現してるが、その自覚が彼にはまったくない。自己言及できていない、それだけのことだが。

誰でも人間は自分の依拠するものには気がつかないものだ。これがあらゆる間違いのはじまりなのだろうが。自己言及が至難のワザでもあることは確なのかもしれない。分水嶺ということか。

貧乏人にとって空腹を満たすことは目的だが、余裕のある人にとって食事は味わうことが目的だ。資本論の前書きにあたる経済学批判大綱序説とかいうマルクスの本にそう書いてあるらしい。それは日本では「貧すれば、鈍する」とクールにいわれてしまうコトにすぎない。芸術を味わうというような感性はどういう由来によるものか、実をいうとそういったことにしか興味がない、とマルクスがいったとかいわないとか、どうでもいいが。

TKに対して鈍している人間は、他の音楽でさえ聴いてることにはならないかもしれない。たまたま単に思い入れできる対象が音楽だったにすぎないのだ。対象が人間ならばストーカーとどっこいどっこいなのかもしれない。いや、そのものか。



BBSでビョーキと思われる嫌がらせも含めて多くのTK批判が掲示されたことがいく度もあるが、TK擁護が目立たないのも“TK現象”の特徴かもしれない。
そのなかで気になったし、気に入ったTKシンパのコメントが一つだけあった。


   批評してる人たち、カッコ悪いよ


なるほど。
資本主義において、常に未来が現状に含まれているのは真理だ。
批評性はともかく、否定形の価値判断は通用しない時代になりつつあるのは確かであり、だからこそ未来への希望も可能なのだ、と解釈したい。



4大要素が、暴くもの


表現の4大要素


個人的、批評的、政治的、哲学的(イデオロギッシュ)といった表現の4大要素は、大ヒット作に共通するものだ。また、個別の表現だけではなく、芸術運動や表現行為のムーブメントはみなそうだといえる。そして、世界で日本だけがそうではないスタンスで芸術や表現を評価している。何故だ?

サルトルが評価したように、シュールレアリズムは今世紀最大の芸術運動だった。そのシュールレアズムは4大要素に彩られた典型的なケースでもある。クセジュ文庫の関連書籍を読むまでもなくシュールレアリズムはフロイトとマルクスのイデオロギーを柱にし、有名なシュールレアリストはダリを除くほとんどがフランス共産党に参加していた時期がある。しかも、共産党のサイドに残ったアラゴンやエリュアール以外もトロツキーと交流したブルトンや急進的な左翼運動を指導したナヴィルなど政治的な側面で積極的に活動している。これはサルトルでもガタリなどでもそうだが、ヨーロッパの表現者や思索者には共通のスタンスだろう。左翼的かどうかは別としても政治的でない表現運動はありえない・・・これがヨーロッパの常識なのではないか。



3大要素による強迫観念


奇抜な構図とか雰囲気のいい絵とか、ひどいと有名な作品というところで、たとえ突っ込んでも美術史的な知識の範疇だけで表現を楽しめる日本は幸せだと思う。これは一般消費者のレベルでは肯定されることだし、それが資本主義というものの成果でもあることは了解できる。しかし、多少なりとも専門的に関与するものや、表現について語ったりするものが4大要素のうち作者個人に関することという1つの要素についてしか語れないのはバカに等しい。もちろん、実際はバカではなく、ある種強迫観念が表現の3大要素についてアンタッチャブルでいることを求めているからだ。理由はカンタンで(強迫観念の理由はいつも単純で簡単だ)、3大要素は自らのアイデンティティを脅かすからである。もちろん“脅かす”という自覚そのものが強迫観念によるものだが。批評的、政治的、哲学的という3大要素は日本ではアンタッチャブルなようだ。



ビビリが生んだもの


この表現をめぐる日本のビビリ、3大要素を回避するビビリは、回避した分の余ったエネルギーを別の方面に向けそこで発現?されている。それは日本の特徴でもあり、その方面では日本は特異な成長さえしユニーク(批評性や政治性さえまとっていることもある)でさえある。それは、テクノロジーと性である。

つまりテクノロジーを駆使した表現と性を含む私小説のような表現である。

それは“宗教のない日本人ってスケベなんですよね”とかつて『なんとなくクリスタル』で喝破した田中康夫の読みの深さと、テクノロジーのもとでしか表現できないことを知っていた坂本龍一や小室哲哉などに代表されている。
もちろん田中や小室の表現はビビリによる回避ではなく確信による肯定でありマーケティングに基づく商品化であって、否定されるべき面はない。むしろ肯定されるべき表現であり作品だ。ビビリによる回避を“芸術的”“オリジナル”“ユニーク”などとといった美辞麗句で糊塗するアートや芸術を自称する詐欺表現とは違う。またそれを評価する言説とも、だ。



ビビらないケースが暴くもの


たとえば、これほど重要なことを、これほどわかりやすく表現できるのか、と感心させてくれたオタキングこと岡田斗司夫の『ぼくたちの洗脳社会』は徹頭徹尾ラディカルな批評性に貫かれている。ここではコメントは刺戟的にまで政治的であり、その全体は見事に一貫した哲学=イデオロギーに貫かれているのだ。あるいは宮台真司はまったく政治に期待しないがためにかえって政治的な言説で狙い撃ちされるほど先鋭な政治性を帯びている。

オタキングや宮台を語っても、オタキングや宮台のようには語れない現状は何なのか? マスメディアでは取り上げられないアブナイ人間だからこそインターネットで取り上げるといった高城剛のような戦略の批評性や政治性でさえ見つけるのは簡単ではない。HPランキングの上位をアダルトサイトが圧倒的に占める日本のインターネットとは何なのか?



村上龍、失楽園の暴くもの


村上龍が暴くもの


理想の女性を見つけ、その女性に自らの身体を切り刻まれてしまうサイコ・ラブ・ストーリー『オーディション』は村上龍のベーシックな作品だ。

村上は男は消耗品だと悟って以来、女性の本質を描いてきている。

彼のお気に入りである荻野目洋子をゲストに招いた時のRYU’S BARでのアガリようでもわかるように、シャイな彼は、その繊細さゆえに女性の本質を見極めている。もちろんこの繊細さは弱さでもあるだろう。
知る人ぞ知る、彼の子供好きとその家族サービスぶりには、その人柄が現われてもいるだろう。つまり、普通のオヤジさんなのである。


被支配者や使用されるものや消耗されるものが、支配者や使用者や利用者の本質を関知しているのは当然のこと。それだけが消耗品の生きる道だからだ。

村上は男の生きる道に敏感である。そしてそれは、当然だが女性からの大きな支持を受けることになる。誰でも、自分の立場を肯定するものを支持するのは当たり前だ。当たり前ゆえにその結果は・・・ということはここでは問わないが。



失楽園が暴くもの


ところで、この村上の『オーディション』と同じように女性の本質を描いた作品が最近、映画でも原作としても話題になっている。『失楽園』である。

それに先立つ作品である『化身』も含めて、渡辺淳一の、この2作は日経新聞に連載中から評判となり、会社と家庭につくしながらも粗大ゴミ扱いされる弱き男性にとってはリアルな物語としてエロティックに心を弾ませる作品だろう。しかし、このエロティックは弱きものにとってのリアルな皮膚感覚であって、ポルノのそれとは全く違う。

『化身』でも『失楽園』でも、その主人公の相手女性役を演じた女優の黒木瞳は、誤認のもとにそれを指摘している。先日『失楽園』に関してのコメントを新聞に寄せた黒木は、そこで渡辺のことを本当は女性に対して弱い男だと一言しているのだ。黒木は現実の女性はもっといろいろあって、強くて、ということを示し、渡辺が描く女性は臆病で弱い男による女性像だろうという。

そうだろう。

村上や渡辺は、その弱さゆえに女性の本質を見抜き、それでも女性に魅せられる男あるいは自分自身にあきれている、そういった表現(者)なのではないか。



作品性が暴くもの


 『トパーズ』における女の子の口語表現のリアルさに村上の才を確認できるが、それは『失楽園』の紹介コメントで“自分がモデルだとも言われてる”と答えた花田と正反対のものだ。このメデタイ自己顕示欲は別としても、立花隆のアシスタントであったこと以外は編集者としてこれといった何もない、あるいは『uno!』で有名人を登場させる以外は何もできない、あるいは“アウシュビッツはなかった”という記事を平気で載せるようなスタンドプレイ以外は話題がない人間の、滑稽な心理的動きでさえ『失楽園』という話題性は暴いてしまうのだ。ちょうど、小室の登場と相次ぐ大ヒットがいたるところで必然性のない反発を誘発したように、である。

 かつて日本最大の精神病院である都立松沢病院には天皇や将軍を自称するその手の患者が仲よく日向ぼっこなんぞしていたらしい。共同性の上に君臨する象徴は、真に強力であれば、このように共同性という幻想上の存在であるがために個人の内面に病変(幻想)を誘発する。同じように優れた作品は、その優れた作品性ゆえにオーディエンスにさまざまな心理的動態を引き起す。その顕在化した一般的な現象はヒットであり反発である。この“作品性”がアウラであることはベンヤミンやマルキストには自明のことだろう。これを“芸術性”などのタームと置き換えれば吉本の『言語にとって美とは何か』をはじめとする表現論が理解しやすくなりもする、そういった類のタームだ。
 大ヒットするような、つまりその作品性やアウラゆえに亮受者のさまざまな反応を引き起す作品とか象徴というものは探せば見つけられるが、問題や興味はむしろ亮受者の反応の方にある。小室のヒットをしたり顔で論じるより、そのヒットに対する反応を見ていた方が面白いだけではなく、共同性を解くカギの一つや二つは見つけられそうな気がするものだ。


 なぜ松沢病院には、もう、天皇や将軍を自称する患者はいないのか?
 なぜマイケル・ジャクソンや小室を自称する妄想患者は登場しないのか?

 時代とともに、妄想を触発する共同幻想の“作品性”でさえ変ってくる。ベンヤミンやマルキストが説くように、資本主義は確実にアウラを解体し消滅へと導きつつあり、代って観念が打ち震える一回性は、自己の観念へのコントロールを失った人間にとって無意識の任意性として突発し、世間はそれをストーキングと呼んだり空間性としてはオタクと呼んだりしている。
 優れたマーケッターだったら気がついているだろうが、CIで広告代理店や企画会社が暴利を貪ったとき、ある明白な企業の類型があったのだ。社長の存在感があり客観的にもそれが認知されている企業はCIを必要とせず、生産性向上やQCなど経営管理の流行に弱い会社がCIにも踊らされた、という事実である。
 偶像・イコン崇拝が教義・理念の現実化とともに消滅するのはヨーロッパ宗教改革のベーシックなコンセンサスだった。別の言い方をすれば消滅しつつある偶像に未だ拠所を求めようとする守旧派と、現実化しつつある幸福をためらいなく亮受しようとする改革派との軋轢が宗教戦争だったのだ。
 たとえば、生産性向上やQCといったマヌケな経営管理の流行にのったような企業だけがCIをも受け入れた。そこには実力としての社長のリーダーシップはなく、結果としてバブル後の業績回復もない、それだけのことである。


 で、フラジャイルな弱い存在である男が、その自分の情けなさにあきれながらも幻想の女性を表現し、それがヒットする状況とは、いったい何を示しているのか?



 結局、村上龍のヒット作や、失楽園が暴いているもは何か?
 村上は『オーディション』のあと書だかで、すべての女性の本質はこういったものだと思うというようなことを書いている。この一言のリアルさに震えてしまった男性もいるだろうし、ギクッとしたものも少なくないと思う。逆に、そんなことには何も感じもしなかった人も少なくないかも知れない。ここにも分水嶺はあるのだ。
 女性はどう感じただろうか?
 このことを女性に問うには、まだちょっと勇気がいりそうだ。これ以上のリアルに疲れたくないし、ワタシも臆病なのである。



共同性のビョーキ、ベンヤミンの日常


複雑系の可能性・・・“集合・共同性”の場合


生命の起源が遺伝子という情報と、その情報の環境に対する認識と、それに基いた自己組織化であることは明らかだ。自己組織化は自己修正を含み、それは原理的に自己否定をも前提としているのも確かだろう。

このように単体の生命は容易に把握し定義できるが、その“集合”における、集合そのものへの認識がどういったものであるかはナゾが多い。複雑系はそれに対する回答の可能性を用意するとともに、そのことそのものが複雑系という問いへの自己否定ともなっている。すべては自己言及するというのはここでも真理であるようだ。

複雑系がシミュレーションによって発見した大きなポイントの一つに、集合とその“全体性”への認識がある。それは個体相互の認識によるそれぞれの自己制御が結果として構成する全体性が、個の集合であるところの全体性の形成要因であるとするものだ。
ここに複雑系そのものを否定する大きな問題と、結局全体性そのものには全く言及していないという複雑系の限界を示すダブルバインドがある。

個の相互関係が全体性の形成要因ならば、全体性そのものはあり得ないことになる。個の相互連関というネットワーク理論の範疇でケリがつくことになるからだ。
ゆえにネットワーク理論からの複雑系に対する批判が成立する。
また、複雑系が全体性そのものに言及できないとすれば、それは個別科学の一派に過ぎない並みの理論であるということになる。



共同性の問題・・・社会科学の可能性


個別な存在であるところの人間が何故に“類”なのか、という究極のテーマも含めて全体性とは、宗教から芸術までが人類の歴史とともに挑んできた未決のテーマであり、人類そのもののことでもあるだろう。


ところで、この全体性は社会科学においては“共同性”である。


経済学では主に“市場”と定義され、社会学では“都市”でもあり、時系列的には“歴史”と呼ばれ、一般的には“世界”とか“社会”などと誰もが口にするありふれた言葉で表現される当たり前のモノゴトのことだ。政治学的にはもちろん“国家”であり、聖書における怪物であるところのリバイアサンである。

これらの共同性に対するアプローチは資本主義の発展とともにある程度啓蒙としては行き渡ってきている。それは書籍が商品として流通することをはじめとして、まさしく全てが商品化する資本主義のもと、あらゆる呪縛を解体する知的な道具と財産をあらゆる人に供給してくれるからだ。もちろん商品として、である。共同性は共同性の成立要因でもある商品そのものによって解体する。そしてそれは次の共同性を準備するものでもあり、この生成消滅の連続した変遷が歴史でもある。



認識力・思考能力の問題・・・社会科学の可能性


全体性、共同性への認識方法はいろいろあるが、それぞれ時代と文化のレベルに見合った理屈が流通している。

日本でのその一つに、物理的には存在しない共同性=国家が“ある”と感じるのは幻想にすぎない、とする主張がある。これは原理的に正しいのだが。たとえば、その代表の一人である岸田は唯幻論でそう主張する。そして、共同幻想というタームが使われる。

しかし、これは、このコトバの最初の使用者である吉本隆明の定義とは全く違う。

この違いを認識できるかどうか、言及できるかどうか、というところが認識力や思想の大きな分水嶺になっている。この分水嶺は鬼が世間を渡る程度のレベルや資質では超えられないものであることもわかる。この分水嶺に気がつかないことそのものが、その認識力・思考能力のレベルを自己表明してしまう、そういった分水嶺だ。

分水嶺のアチラとコチラは、遠すぎるのであり、それを無理に飛翔しようとする者は、多くがどこかへダイブしてしまう。それは認識装置の崩壊であり、背伸びしたまま転倒して硬直した全身とアタマが砕ける散る安手のサイバーなワンショットであり、カルトであり、洗脳願望であり、金属バットであり、ラリることである。つまり、クズとなることだ。
クズをクズとして扱うことを倫理というが、これを生産諸関係を含む社会科学の視点から考えるものとしてベンヤミンやフランクフルト学派などを考察することができるだろう。



アウラの問題・・・ベンヤミンらの可能性


たとえばベンヤミンは“アウラ”という共同性を容易く、素早く、喝破してしまう。まるでエンゲルスかマルクスのように、である。

アウラが量産技術や複製技術といった近代資本主義の技術によって瞬く間に消失することをベンヤミンは正統派マルキストのように呆気なく論じてしまう。そのアウラを都市における何らかの共同性、都市の共同幻想として論じようとした時、ベンヤミンは都市へ限りなくシンクロする存在として“娼婦”を取り上げる。両極を自在にしかも極性無しの弁証法的同一態として自在にアプローチする視点とその転移は、ベンヤミンのパサージュ論のタームとしての、典型的な都市遊民のものでもある。

宮台が取り上げるコギャルや大塚が取り上げるM。そして何よりもそれらの取り上げ方そのもののなかに可能性を見い出したいと考えるのは、未だ“国家”などの共同幻想にとらわれているダイブしそこねのガキORガイキチよりもいいだろう。ダイブしそこねた表面的なエリートが、すでに崩壊してしまった自分自身にすら気づかずに全身全霊をかけて構築するものを制度といい、その担い手を官僚と呼ぶ。うんざりだね、ということ以外に感想はないが。



日常のビョーキ、凡庸なハルマゲドン


エヴァンゲリオンのベース・・・“バタフライ効果”の意味


ホントに『エヴァンゲリオン』をめぐっての言説は数多いが、物語の構造やキャラ解析には興味があまりないし、同時に意味もないかもしれない。しかし、そのさまざまな仕掛けやフェイクは興味をひくものだ。


使徒の固有波形パターンと人間の遺伝子の99.89%の一致、という設定が複雑系における“バタフライ効果”に拠るものであること、“初期条件に対する鋭敏な依存性”という時間の経過とともに指数関数的に差異を増幅させていく複雑系の認識律に合致した設定であること・・・などをはじめとしてエヴァンゲリオンは複雑系にあふれている。

そもそもシンクロ(率)という発想そのものがそうだ。

音楽と音声においてシンクロとは空間的にはハーモニクスであり、高調波倍音とその相互の関係性、時間的には時系列変調の循環によるビート・・・などなどだろう。もちろん電磁波の波動周期のシンクロによって上位の新しい電磁波を生じるFM放送のFM波のように、メディアとしてこれほど役に立った例もあるわけだ。レーザーも、である。



シンクロの微分・・・悪の解析


ところで、このシンクロ率の微分、バタフライ効果の逆算解析によって明らかになった現実の大問題がある。それは意図されたハルマゲドンを遺伝子のシンクロ率の微分から白日のもとにさらした大事件であったが、何故か日本では巧妙に隠蔽されてしまった。

WHO(世界保健機構)はAIDSの起源、つまりHIVの発祥を1970年代ニューヨークと特定している。この事実は何故報道されなかったか? 一部指摘はあったものの、どうしてマスコミは黙殺したか?

(まあ、それはどうだっていいのだろう。ハルマゲドンが現実のものになろうが、どうなろうが。AIDSの因果を問うことを放棄する以上、そういったことはどうでもいいはずだ。それが倫理というものだ。時代や社会に合った、という条件つきの、だが。そして、その延長にAIDSそのものに対する倫理の本質も見え隠れするかもしれない。それもそれでいいんだろう。ただし、だからワタシにとってもどうだっていい、とは言わない。だから、ここに書くのだし。特に政治的な意味合いによる隠蔽、黙殺であることは、逆にそのことによって何らかの利益がどこかに生じるのだろうから、それもそれでいいだろう。願わくば、AIDSの被害者に利益が生じることを希望する。これもワタシの本音だ。病んでるものが済われることを願うのはワタシにとっても真っ当なことだ。当り前だけどね。)


ここで指摘したいのはシンクロ率の微分から起源を特定できたという事実だ。
WHOは優れた日本人ウイルス学者の遺伝子解析の成果と論文からAIDSの起源を特定した。これは複雑系の逆算であるだろう。

結論をいえばHIVの指数関数的な変化のスピードは2種のレトロウイルスの可変部分の積分であり、感染と病変のパターンは2種のウイルスの加分であることが証明されてしまったのだ。

疑問はただ一つ。
誰が、何のために、そんなウイルスをつくったのか?



言説のビョーキ、日常の凡庸から


言説のビョーキ・・・問題の起点


自問自答であれ、「自己把握」と「自己意識」であれ、それは、ニワトリとタマゴの因果律のように、というよりそのものとして、マンガチックな問題にすぎない。

ある種哲学はしたり顔で、即自存在から対自存在へ、などという具合に100%ウソの論理展開を用意して何かを探究しようとしてきた。探究すべきは、そういったウソそのものや、ウソを真理だと思うビョーキであって、けっして「自己そのもの」なのではない。

何故なら「自己そのもの」など存在確認できないからだ。
身体的には水分や蛋白質であり、言語的にはある種の特定の空気振動を言語として使う主体であり、物理学的には微弱な重力を発し少なくない電磁波を放射しつつある…そんな存在である。
「自己そのもの・自分そのもの」はどこにある?

実をいうと自分自身というのが「自分そのもの」のメタフォアとしてしか存在確認できないことは、ちょっと考えればわかる程度のカンタンな事実にすぎない。ある程度の哲学やイデオロギーへの興味があれば自明のことだろう。そして、このことが自明でない場合、そこに問題の起点があるといえる。



女子高生の誤解・・・しょーがないよな


たとえば「向き合っているのは「日常」ではなく自分自身なんです」という女子高生のコトバは(自己分析は)、その大きな誤解・誤認に基いていることがわかる。

「「日常」ではなく自分自身なんです」という思い込みは何故生じるか? 「自分自身」という直接には確認できないもの、「自分そのもの」を探して、例えば、プリクラに興じるのではないか? あるいはルーソーに、である。
それが彼女らの知らずしてそうする自分探しの日常なのではないか?



自分探しは、“あり”か?・・・


“自分探し”は、周囲や環境が複雑だから困難なのではないし、自分が生きている日常がオカシかったりヘンだったりするから戸惑うのでもない。もちろん、社会が間違っているから、でもない。環境汚染や人権問題があるからでも、オウムが登場するような世の中だからでも、ない。

自分を探すことが困難であり、自分と向き合うことが辛いのは、基本的な誤解・誤認そのものに基いている。では、何故、その誤解・誤認は生じるか?

「自分自身」や「自分そのもの」は自分という場を構成するさまざまなTPOごとに、それぞれのいろいろな要素から構成されている。さまざまな構成要素が自分のメタフォアとして存在するのが資本主義なのだ。自分探しは、この構成要素へのアプローチからはじまり、そして、そこをゴールとする認識の冗長性にすぎない。

資本主義は、この構成要素を無限大まで多種多様化するシステムであり、それは、自分探しの冗長性を無限大まで差異化延長する必然をともなう。だからこそ、自分探しはありとあらゆる物語を包含する可能性を持っている、といえる。

問題は、どこで、どの物語性に同着するか、ということなのだ。


たとえば、ふと知り合った相手に対して同着してしまう。これが度を過ぎればストーカーと呼ばれる、質的にはその程度のことである。むしろ、この同着をコントロールする能力が問われているといえるだろう。もちろん、同着とは、シンクロすることであり、成長過程においての必要にして必然の内的構造変換の契機(だからストーカーを分析するには心理的な発達過程をフォローし、同着たる“刷込み”の段階をチェックする必要がある。このことをあるネットで書いたが誰も理解できなかったようだ)だ。大塚英志はこれを通過儀礼として社会的にコントロールされるものとして民俗学を解き、資本主義はそれを代替するものを商品として提出することを示してみせた。



自己解体のイメージ・・・微分のバカさへ


このように「自己把握」をするということは、認識論上は「自己解体」のイメージがつきまとうだろう。宗教からポストモダンな表現まで、この「自己解体」をその時々のガジェットにまで微分したにすぎないのだが、そしてそれは確かに「科学」と呼ばれるものの認識方法でもあった。すべてを微分する。すべてを解体する。すべてを分節化して考える。結構なことである。
このひとつの極めつけな認識として分析哲学や現象学がある。文字どおり現象のレベルまで分節化、解体してみせる。もちろん、オモチャを壊すのが楽しい年頃の子供の遊びとそれほど変りはない。しかし、解体する一方で何が解決するのか? 何のためになるのか? 哲学者や科学者の自己満足は認めるとして、それ以上の何かがあるのか? つまり価値があるのか?

当然、ない、のだ。

モノゴトを解体する一方ならば価値はない。
本来、科学の価値というものは分析の次に組立てがあることが前提であった。
むしろ、新たな可能性の構築のために分析があったはずだ。

デジタル信号と同じで、アナログ信号に復帰変換されない限り、全く意味はないのだ。

もちろん無意味という意味はあるが。


問題は解体されたものを、意味あるものとして復帰あるいは変換させる契機が、
どこにあるのか、ということになってくる。


人間の存在の契機とはそこにしかないし、それがすべてなのだが。



たとえばフロイトの解・・・オーソドックスな日常


無意識を解析し、意識や身体への影響を把握しようとするフロイトの精神分析でさえ、組立て(復帰、変換、意味化…)がちゃんとできるケースはまれであることをフロイト自身が認めている。精神を病んだ人間を救えるとしても、それは一生に1〜2人だ、というのがフロイトの結論だった。

逆に考えてみよう。

一生に1〜2人は救えるのだ。

ここに、人間が類として存在する契機がある、かもしれない。
たとえばマルクスが27歳の時の走り書きである『経済・哲学ノート』が参考になるかもしれない。

かもしれない、である。

その程度のことなのだ。



アンタの日常・・・解の原点へ


疑問があったら自分で読んでみるのがいちばんだろう。
興味があったらもちろん読んでみるべきだ。

で、何を読み取れるかは当事者のオツムの問題なので、結果がどうであるかは知りません。当然ですが。


詩人は、石ころとも話すが、TK(小室)からでさえ読み取れない人間が少なくない現在、無理な注文や期待はつけません。

ワタシ、優しいから。

宮台氏はもっと優しいよーだが。



エヴァンゲリオン、ワタシの凡庸から


エヴァンゲリオン・・・小室といい勝負だぜ


 物語の解体を示した物語

 過剰な情報から自分で形を作って楽しむ物語


エヴァンゲリオンをめぐる数多い言説をめぐって、この2つの主張に目がとまった。
前者は批評のスタンスを、後者はファンのそれを示している。
文字どおり前者は分析を、後者は組立てを語っている。

前者の解決は後者であり、後者の前提は前者であることは理解に難しくない。

批評の射程が鈍り、亮受の様子が歪む現在にあって、こういった言説の芽に今後の期待を寄せるのは間違いではないだろう。


物語の解体と再構築の弁証法は、それ自体市場規模の構造をもって生成することをも、これらは示している。エヴァンゲリオンが立派な商品である以上、それは当たり前のことだろう。そして、それ以上でもそれ以下でもないことも、である。
が、生成の契機は個別的現存たる人間存在だし、それ以外には考えられない。

一つの商品の中に資本主義のすべてがあるように、一人の個人の中に世界のすべてがシンクロするのは過去も現在も同じだ。
エヴァンゲリオンの亮受者のなかに、何がシンクロするのを見て取ることができるのか?


ワタシたちには、基本的に不可知も不解決もない。

100年前のマルクスにも、今日のネットにも、それは見い出せる事実だ。

エヴァンゲリオンを一度も観ることも読むこともなく、
こんな批評を書くことそのものが、それを示しているかもしれない。


笑っちゃうネ、まったく。



エヴァンゲリオン、宮台、ワタシの凡庸まで


エヴァンゲリオン・・・ヒット作の遊べる可能性


 『エヴァンゲリオン』をめぐっての言説は数多い。インターネットでは1年以上前から関連のHPがあり、新聞でも昨年の春から話題が絶えない。TK(小室哲哉)関連の話題と同じで、ヒットというものはそのヒット作品に触発された話題の豊富さにおいても測ることができるかもしれない。ただ『風の谷のナウシカ』のように今回のエヴァ題目の多さと比して言説そのものが少なかったヒット作もあり、一概にはいえないが。
 しかし、言説や話題が多いほど、その話題の中身から“話題にしている人々”を解析することができる。話題は多くの場合オーディエンスの思いや意見、プロも含めた評論や分析であって、単なる個人的な感想を超えてある普遍的な意味を持ちつつあるのも確かだ。これは結果としての作品が貧弱になったためか、あるいはメイキングオブのように過程をも商品化(作品)する資本主義的な行為の延長か、作品を論じることが作品ともなる批評のスッキリとした矛盾であり拡大再生産そのものである特徴によるか…。
 いずれにせよ、作品を語ることを語ることで語る情況や語り手を検証できるというある種遊びにはもってこいの今日この頃ではある。



宮台真司・・・システム理論ゆえの可能性


 「アニメに逃げ込んでいるだけじゃなく、現実に帰れ」

これがエヴァの作者庵野秀明の意図だという。


 「主人公たちが、監督が、向き合っているのは「日常」ではなく自分自身なんです」
 「自分自身に向き合うのがこわくておびえている、そんな話しなんです」
 「……最近チョット毛色の変わった非日常が描かれると「オウム」との関連をとなえるでしょ。もう飽きたのだ」

これがある女子高生の言い分らしい。


以上は宮台真司が援用した言葉でもあるが、オーディエンスとしての女子高生のコトバからはオーディエンスとして肯定されるべき以上の何かを見い出すことができる。

そして、このオーディエンスとしての女子高生というゾーンに関して第一人者と呼べる宮台の、その根拠でもある分析と方法論を知っておくことはムダではないどころか必要だ。彼がその社会システム論をもってして話題のコギャルをあつかった著作『制服少女たちの選択』(この本の帯びのコピー“「売り」は「悪い」こと? 大人はそれに答えられるか?”というのはあらゆるコピーの原点みたいにシンプルで気に入っている)で主張しているのはそう難しいことではない。それはちょうど「売り」が「女性」最古の「商売」というシンプルで厳然たる事実を当たり前として認識することとたいして違いがないほどシンプルだ。社会科学に興味がある者なら『家族・私有財産・国家の起源』でも読めばその程度のことは書いてある。もちろん、どう理解するかは他人のアタマの能力によることなので保障はできないが。エジプトやローマ帝国以来の一夫多妻制の根拠や集団婚、家族や女性という概念の変遷まで、社会と呼ばれるものの存立要因の勉強にはなるだろう。

コギャルとその相手をする男性との関係において、紳士(真摯)であるところの宮台が心配? するのは次の一点に集約される。もちろん、コギャルの側に立っての認識だ。コギャルが「売り」をすることによって…


 ただはっきりしているのは、
 「感覚のほとんど不可逆な変容が生じる」という事実であり、
 「変容が生じてしまってからは、もはや後戻りできない」という事実である。


彼のシステム理論からマルクス的な認識を逆算したり、あるいは、通過儀礼的な高校時代のマルクスの洗礼をも垣間見るのは簡単だが、それはやがてどこかの誰かがやるだろうところの宮台論にゆずるとして、ここではその優れた、故に、シンプルな彼の指摘を指摘しておく。


 自己把握は自己意識と同じではない。
 自己把握はおおくの場合自己意識を脅かすからである。


この指摘が優れているのは明示的には、最初に引用した女子高生の言い分とのシンクロ度(“率”ではない、(笑))の高さによるが、もちろん、システム理論としての認識力の賜物であることこそを指摘しておきたい。でなければ、“学”とか“世界観(価値観)”とか“認識力”というものを話題にひっぱり出す意味がないからだ。つまり、話題にする意味がないからだ。くり返せば、エヴァ評だろうがなんだろうが題目をとなえる以上、それがコミュニケーションの端緒であることを明確に否定できるケース以外はすべて価値判断のやりとり=交換だということにつきる。独り言以外はすべてそうだ。

コミュニケーションスキルが問題になるのはコミュニケーションが求められるからであって、それ以外には理由がない。これは貨幣が問題になるのは交換(市場)が求められるからであり、それ以外には理由がないことを解き明かして見せた『マルクスその可能性の中心』(柄谷行人)の提議と同じ問題だ。

もちろん「自己把握」と「自己意識」の関係もこれと同じ構造を持った問題にすぎない。自己を把握するのは自己の意識以外の何ものでもない。

この自己言及の自律性がギリシャ哲学以来弁証法の根幹だが、それはマルクスに100年遅れてやってきた科学者らの自覚なき反省=複雑系のニュースをも含めて考えるに楽しいテーマでもあるだろう。



自己把握・・・無限大の対象


ところで、何故「自己把握はおおくの場合自己意識を脅かす」のか?
それはアバウトな表現をすれば対象が無限大に多様化しつつある時代性によるだろう。
無限大に多様化するものをフォローできる認識方法や認識力など、個人のものとしては理性的(科学的)にはあり得ない。無限大を最初から平気で対象化し得る認識は、それ自体非理性=狂気であるところのもの、つまり宗教や狂気以外の何ものでもない。

狂気は平気で空中浮遊やビルの通り抜けなどをやってみる。あるいは宇宙とコンタクトする。アレである。アレね。



ワタシは誰?・・・マンガチックな自己問答


しかも、自己とは何か? 「ワタシは誰? ココはどこ?」といった哲学の根幹にしてマンガチックそのものである問いには、誰も解答を出してはいないのだ。

何故か?
より正確には「誰も“ワザワザ”解答を出してはいない」ということになるだろうか?
どういうことか?

それは、すでに答えは出ているからだ、ということにすぎない。

当然である。


これは、コギャルに関しても、エヴァンゲリオンに対しても、最近の宮台をめぐる言説に対してもいえることだろう。

ラディカルな問題など、1つか2つしかないし、
もちろん、その解も1つか2つしかない。

世界は、その程度のものだ。

そして、その認識に立って、やれやれとやっていくのが、村上春樹の主人公ではなかったか?

その認識に立って、ラッパを吹いていたのが、マイルスではなかったか?

じゃ、なかったか?

ちなみに、1978年以来、ワタシもそうだけどさ。



5月8日報告


「走り書き」で「なんでもあり」しかも「社会的な意味を問う」って、全然そうなってないじゃないかあ、と指摘やそれから揚げ足取り(笑)があったので走り書きを載せます。くくくっ



カーツの希望と恐怖…『地獄の黙示録』


「爆撃で、せん滅せよ」

T・S・エリオットの詩集の上になぐり書きされたこの一言が、
西欧的父性の理想を徴て、銀幕を閉じる。

せん滅せよ、とは自分のことであり、
カーツ大佐の率いる宗教じみた特殊部隊と、その陣地のことだ。



アジアへの蔑視という二流の人権思想のような酷評と、
欧米の限界を示したとかいう一流の誤評価に囲まれて、歴史的な名作になった映画。



うず高く積まれた切取られた白い腕の山というエピソードの代わりに、
本物の屍体では、とも噂された数多くの遺体に飾られて、彼の王国は静かにその時を待っている。
父性の理想を徴す時を、である。


では、父性の理想とは何か?

それがこの映画の根底をなしている。





儀式の前の静寂が、あらゆる意味付けを拒否し、意味を成さぬ事が恐怖と不安を意味する世界観において、この映画がその原作の『闇の奥』の名に導かれたとおり闇への恐怖を描いたと評されても、仕方がない事かもしれない。

しかも、もっとも卑俗なインテリジェンスにおいて、未知なる密林の奥への恐怖と、
世界に冠するアメリカが完敗したベトナム戦争の不可知性とがオーバーラップし、
アジアを畏怖するコンセンサスを示したのだとしても、それは単に彼らの認識能力の不全だの不自覚にすぎないだろう。


当初撮影されていた密林に暮らすフランス人家族らの映像を省く事によって、より直裁な表現に昇華した映画は、識者らの指摘する欧米の限界ではなく、視聴者の限界を、密林の狂気ではなく、数多い批評家の能力のレベルを、それぞれ露呈させてしまった。シンプルなものは常に周囲を映し出してしまうようだ。ホントは、どのような写真にも撮影者自身が映っているように、である。

フランス人家族の映像を省き、エリオットの詩をカットアップした、そのコッポラの編集における才だけで、装置は充分に働き、表現は説得力を増している。





さまざまなタイプの作品に神話的構造を見つけて喜ぶのは、構造主義にでも影響を受けた趣味の範囲内のことであって、批評における本質的な目論見ではないだろう。少なくとも、ここでは違う。

むしろ神話をどうのように隠蔽しているかという技術論や、何故神話をもちいるのかという探究ならば意味はあるのだ。

より意味があるのは、神話ならば神話が、何故に視聴者にウケるのか、ということだろうか。

オーディエンスを問わない作品の批評に意味はない。もちろん、作品が純粋な“独り言”“一人芝居”ならば、また意味も違ってくるだろうが。独り言についての思索がベンヤミンぐらいしか見当たらない現在、それは別のテーマに預けたい。

『ランブルフィッシュ』で兄を慕い、兄の死によって河を下り、はじめて海原を見た弟に新たなスタートを読み取るのは正当だ。『ゴッドファーザー』の物語がファーザーの死によりはじまりファーザーの死により終わるのも、『スター・ウォーズ』でダース・ベイダーが実をいうと父であったのも、コッポラや神話を学んだルーカスならではのファザーコンプレックスの物語による作品だ。もちろん、そこにファザコンを発見することが目的ではない。ファザーコンプレックスの物語性によって何が示されているのか、ということにつきる。そして、それ故に視聴者にウケたのかという問いでもある。問われるのは最終的にオーディエンスなのだ。





R・ストーンズの「サティスファクション」と黒人兵のステップがメコン河に響き渡り、「サヨナラ」の声が途切れ、ナパーム弾のガソリン臭の中でサーフィンに興ずるアメリカ兵の姿に戦場の狂気を見い出すのは、昼メロで恋の行方を想像するよりも簡単だ。それはもっとも安易な平和ボケによる認識にすぎないのではないか。
たとえば『三光』という本の初版本には「試し切り」に振り下された日本刀の先に、すべり落ちる頚の一瞬を捉えた画像が掲載されていたが、それは中国における日本軍の日常の1コマであり、どちらが狂気であるかは論を待たない。

誤解のないように説明すれば、平和ボケとは、平和が長く続いてそこに安住してしまう事ではない。平和の事由を問えない愚かさの事だ。

故に、平和ボケを非難するPKO賛成論者や国家主義者は「わからないこと」は否定する動物的な怯えに基いて強迫観念の衝動を覚えているにすぎない。(むろん国家という観念が宗教を除けば最大級の強迫観念であるために無理はない)

あたかも、闇の奥に恐怖があるかのように、である。

しかし、闇の奥に何があるのか?という事態に対する策はいかなる場合であっても“知る”ということ以外の手だてからははじまらない。“知る”以前に怯えるのは妄想か強迫観念にすぎない。それは事態の悪化を招いたとしても何も解決しはしない。それをフツーはビョーキという。


「恐怖を友にしろ」というカーツ大佐の言葉のとおり、である。



闇の奥へは、この恐怖を克服しながら進む以外には方途がない。

闇の奥へ至る唯ひとつのルート、たとえば、このメコン河を鉄路に置き換えたとしたらどうだろうか。たぶん、物語の本質は変わらないのではないか。鉄路というTPOによって物語がより一般的になること以外は、そう言えるだろう。たとえば『スタンド・バイ・ミー』がそうだ。

もちろん『地獄の黙示録』は、ベトナム戦争と言う狂気のTPOをプレゼンテーションのギミックに使ってはいる。しかし、その本質は恐怖を克服しながら闇の奥へ進む事であり、最期に目にする“死”にしても、そのエンディングは『スタンド・バイ・ミー』と共通でもある。しかも、ヘーゲルが示唆したようにエンディングは単にスタートを示しているにすぎないのだ。

スタートとエンディング、このくり返しを歴史と呼ぶが、文字どおりそれはくり返され、今日もどこかで戦争が行なわれているのは知ってのとおりだろう。歴史はくり返す、ただそれだけのことである。

究極的には、このくり返しをストップすることが“矛盾の止揚”なのだが、当然、それは夢物語でしかない。くり返される歴史に悲劇を読み出すのはハンパな知性だが、シリアスな話しなど生きる糧にはならないだろう。
せめても夢を見よ、ということか。
というよりむしろ、夢を実現すべく生きよ、ということか。

カーツ大佐は、そう生きたのだ。



ウィラード大尉の言葉によれば

 「大佐自身が死刑執行を望んでいた」
 「俺に苦痛を取り除いて貰うのを待っている」

カーツ大佐の希望=夢は自分の死刑が執行されることであり、
不安は「息子がわしを理解してくれるか・・・」という1点に絞られている。



カーツ大佐は、息子のように頼りにするウィラード大尉に言う。

 「息子に全てを伝えて欲しい」
 「見たこと全てを」

ウィラード大尉は次第に募るカーツ大佐への尊敬の念のなかで、その生命を奪う。



このくり返しをストップ=止揚できない事と知りながらも、笑ってそのゲームにかけた粋な人間もいる。それは、この限りにおいてシーシュポスの神話に意義を見い出せるような意味合いの事でもある。


「恐怖を友にしろ」とはそういうことだ。

自ら「死刑執行を望」むことの恐怖。
この「恐怖」を「取り除」くのは、死刑が「執行」される以外には道がない。
それが闇の奥への道である。

最期に、これも当然の答えにすぎないが、明示するとすれば、
エンドの次はスタートでしかない。
闇は明ける、ということである。

「息子」の日が来る、ということだ。


父から息子へ、父子相伝の繰り返される物語を描いた、ありきたりの映画。
繰り返される人間史を、繰り返される歴史に織り込んで、つくられた映画でもある。



経済の本質



経済の本質は2つある。
それは、どちらを欠いても経済が成り立たない、重要なファクターだ。
少し哲学的になるが、その経済の本質は、そのまま人間が生きていくうえで絶対必要な2つの原理のことでもある。


 モノゴトを媒介にした人間関係

 商品やサービス、あるいは働いたり楽しんだりというモノゴトを通じて、人間は社会を形成している。これらのモノゴトを媒介にした人間関係を経済という。



◆2つの原理


 人間が生きていくうえで必要な2つの原理。これを基本とするのが他の学問にはない経済学本来の視点であり、同時に人間が生きていくうえでの原則を解き明かすものでもある。

 それは人間にとって大切な“2つの関係”のことを指している。

 “自然との関係”と“人間との関係”。
 この2つの関係なくして、人間は存在し得ないし、生きていくことができない。




◆自然と人間


 どれほど都市化が進み、コンクリートと鉄骨やアクリルでできた人工空間で生活を営んでいても、人間が自然のなかで生きていることに変わりはない。また、人類として生きるためには、個人単独での生存は意味がないだろう。

 コンクリートや鉄骨をはじめあらゆる産業の生産物が、自然を原材料として産出されている。経済は自然のなかにしか存在し得ない。また、食べ物である野菜や肉は自然そのものである。自然抜きでの人間の生存は考えられないだろう。
 石灰石や粘土からセメントを造ったり、鉄鉱石から鉄を生み出したりする産業というものは、最も大がかりな自然と人間との“関係の現場”だといえる。この対自然関係が社会を支えているベースとなるものだ。
 具体的には自然の成果を直接的に手に入れる農業や漁業であり、自然の成果を加工する工業である。そして、これらの産業から生産される商品によって、資本主義社会は形成されている。また、その商品を生み出す人間のあらゆる行為を労働という。
 労働とは人間が自然に働きかけることであり、世界に商品を存在させるためのいちばんラディカルな行為なのだ。いわゆる“万物の創造”とは、この意味での人間の働きを指している。

 そして、対人間関係は、人間を人類として存続させているただ一つの人間の在り方なのである。



◆歴史と世界


 人間社会のすべてを規定している原則が、この対自然と対人間という2つの関係だ。
 ホントの経済学はこのことを前提にしているし、現実に経済(資本主義)はこのことだけに沿って発展してきている。
 歴史とはその進展のことであり、世界とはその様々なタイプが同時にいろいろなところにある様子を示しているものだ。

 歴史観とか世界観とかは、その観点(視点)のことである。
 本来、それをイデオロギーという。

 あるイデー(観点)に基いたロゴス(言葉)である価値観。経済を考えることは、最も必要な価値観を自分のものにするということだろう。経済用語がわかっても、経済がわかったことにはならない。
 経済を理解するということは、社会と自分を理解することであり、同時に、世界と歴史を考えるという大切なことでもある。だが、一方で、それは、とても日常的なありふれたことでもあるのだろう。
 何しろ、毎日のニュースや出来事を、しっかりした視点に立って見直してみるだけのことだからだ。自分のこととして考えてみる、それだけのことである。



レイチェルの恋が示すもの…『ブレードランナー2』



 「レイチェルは、生きている」

 この一言の確保のためにブレードランナーであるデッカードが突っ走る物語『ブレードランナー2』(以後省略形は“ブレ2”)は前作を凌ぐ出来栄えで、読者を引き込んでくれる。

 12年前にLD普及のキッカケとなり、デジタル映像の時代を切開いた『ブレードランナー』(以後省略形は“ブレ1”)は、今またDVD市場形成の突破口として期待されている。もちろん、ブレ1の原形であるテキスト作品=小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』における期待も、これを裏切らない。使い古され、今ではキッチュな観さえ免れないSF小説というカテゴリーを超えて名作であることは歴史に銘まれるに違いない。
 そして、その映像も、近未来の都市の景観としてだけではなく“取って付けたよう”とキビシイ評価を得たエンディングをも含めて、映画としての評価を声高に表明することに躊躇するものではない。むしろ、次作を期待させる含みを残して幕を閉じたことがウレシクさえある作品だったと言える。
 『ターミネータ』のエンディングでサラ・コナーが臨月の腹をさすりながら荒野に車を走らせた映像から7年、期待通りに作品は『ターミネーター2』として戻ってきた。この時、密かに『ブレードランナー』に同様の期待をねだった人は少なくないはずだ。

 そして、今、『ブレードランナー2』はその期待に見事に応えるテキスト作品として、ここに生み出されている。―『ブレードランナー2…レプリカントの墓標』早川書房・1800円・96年7月31日発行―

 映像作品であるブレ1と、その次作映像のベースを担うであろうテキスト作品のブレ2との不整合は1、2ヶ所。ブレ1でレプリカントのロイ・バティにタイレル社のエルドン・タイレル社長とともに殺されたはずの生物工学技術者セバスチャンが、ブレ2では生きて登場するのが目につく程度だ。が、これもセバンスチャンが生きていることによる物語の継承性の保障と狂言回し的な役割などを考えれば、むしろプラスと言える設定でもある。

 『ブレードランナー』で開示された4つの糸は、『ブレードランナー2』においてさらに太くなり、複雑さをまして物語を績いでいる。大雑把には以下の4つだ。

 1.タイトルでもある「ブレードランナー」の思いと意味、自問自答
 2.レプリカントとブレードランナーのチェイス
 3.レイチェルとデッカードの恋
 4.そして、レプリカントの思いと意味、アイデンティティを求めての彷徨


 ブレ2の物語ではブレードーランナーであるデッカードとレプリカントであるレイチェルとの恋のその後をフォローする形で導入口を開け、ブレ1においてサイバーパンクな背景に馴染み過ぎ映像装置と化していたブレードランナーの意味と自問自答のイメージを、あらためて言葉として顕在化させながら、同時にブレ1におけるレプリカント達のアイデンティティへの狂おしい憧憬にも応答する形で展開する。
 すなわち、ブレ2ではブレ1におけるレプリカントの自問にブレードランナー自身の自問をオーバーラップさせながら、人間とその摸造、オリジナルとコピー、ホンモノとイコンといった2項目を対立よりも相互補完、因果律よりも同一律、並立ではなく螺旋として描き、レイチェルのテンプラント=鋳型・原形となった人間サラ・タイレルのさまよいと救済の物語を、恋の成就としての側面に支えさせながら収束させる。

 眠りの森の少女は、レイチェルとしてサイバーな束縛を受けながら、救済の主デッカードの登場を待っていたのだ。

 しかし、それでは物語が直線に過ぎ、スタートからゴールが見渡せる短距離競走と変わりがないことにもなる。

 デッカードが知らずしてレイチェルの原形であるサラ救済に突っ走った走破線に並行する前作当初からの本質的なテーマ、ブレードランナーの意味とレプリカントの思いは、封印されたまま物語は終える。この封印の解は、読者の暮らす現実界のテーマとして自覚されるところにある、と考えてみたい。生と死、そしてアイデンティティといった人間本来のテーマにクローンとオリジナルという変数が導入された新しいテーマが、ワタシたちの視界にすでにあるものとしてだ。もちろん、その距離は次第に狭まってもいる。啓示として、哲学として、自問自答として読める一作でもある。