羊通信 2001.5.1〜7.29

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羊通信ドーナツ版

TYO & SKYDOMO羊通信羊通信パラパラ版ネタちょー(ネタ募集中)


■感情の生成するとこは?・・・   2001/7/29




     <感情>とは
     <時間>として了解すべき判断を
     <空間>として作動させている状態である。

     あるいは
     了解作用の<時間>性が
     <空間>性として疎外されている状態である。

     空間化された了解作用が、
     対象を受容するための本来の空間化作用と二重に錯合して対象を借定するのが感情である。

     <感情>は消滅するのではなく、
     心的な時間性の<空間>化という本質的な作用の強度に転化する。

     対象に対する知覚の空間化度と
     対象への了解の時間性が空間化した感情がシンクロした場合、
     これを<純粋感情>とする。




ハイデガーだと....

     世界・内・存在の仕方とし、この存在そのものから立ち昇ってくる

....だってさ、「感情」が。
ダサ過ぎバカ過ぎアホ過ぎ。
なんつたってハズし過ぎだねえ。



■共同(幻想)性の生成するとこは?・・・   2001/7/26


ところで17日はちょっとしたケリの日でしたん。
共同幻想や共同性が個人の観念の中で、どこでえ、どーやって、ナゼ生成するのか。。。。
とか感覚受容と認識情報の心的な処理や観念化。。。。
ってなことへの理解にケリをつけたワケです。

今までモノゴトを考えるのに共同幻想や共同性を
「100人の社会・世界から100名分の人生を捨象しても残るもの。」....


  歴史−人生=共同性

  共同性≧システム


....とか定義してきました。このソリッドな認識はヒジョーにCommunism的だしDG的なんですね。
これで社会科学はOKでしょー。

ただ、ボクが興味を持っている、もーひとつの面は、共同幻想や共同性という認識が個人の内面において、
どー生成するのか?ってなことです。共同幻想が社会的ジャッジとなる契機は宮台さんの『権力の予期理論』なんかで
鮮やかにあっけなく分析されちゃってますが。もともと受胎してから系統発生をフォローしつつ発達していくなかで
神経的≦心的システムはどーゆー風に生成していくか、そもそもどーゆーもんなの、とゆーことです。
つーことでメモを作ってたんですが、まとまらないので、例のごとく中途で掲載てなことですねえ。





▲自己幻想の中にある共同幻想

共同性だろーが個人的妄想だろーが、
それを認識してるのは個人(幻想=自己幻想≧妄想)。

そーすると、個人の認識の中に共同性の根拠もあるワケだすな。
個人幻想の中に共同幻想の場があるとゆーコト。

マテリアルっぽくゆーと、個人の幻想の中のどっかに共同幻想のエリアがあるワケです。
そのエリアを見つけりゃいいのさ、とりあえず。

ちなみにい、このエリアを見た?人の話しが『心的現象論序説』に引用されてて、
それへの吉本さんの解説がサイコーでしたん。もちろん病識さんです、ハイ。

それって、白くて丸〜いオバケちゃんを思わせるよーな「空白」なんだよね。
どこでもいつでもついてくるんだってえ。ぎゃははは〜〜〜。
コワイけど、カワイかったりするかも。



▲共同性とゆーのは恣意性じゃないとゆーこと

共同幻想への理解のポイントで重要なのは、共同幻想は個人の恣意性で介入できないものだよ、とゆーことですね。
まあ、当り前なんですがあ。
逆にいえば個人的なジャッジで左右できないからこそ、それが共同性を表わしてる(代理してる?)ワケでさ。

人間はナニゴトも個人的にしか認識できませーん。つまり、主観だけ。
だのに共同(幻想)性とは個人的な認識では左右できないものです。
個人の認識の中にしか存在しないけど個人の認識ではどーしよーもないものが共同幻想、とゆーこと。



▲自己言及&コントロールできないところ

共同幻想とは個人幻想の中にありながら個人の恣意ではアンタッチャブルな領域。
つまり、個人幻想の中にある非個人幻想なエリアなワケです。
個人の観念の中にありながら個人の観念がおよばないあるいは個人の観念で左右できない部分で、
自己言及&自己コントロールできない部分つーこと。ゲーデル的決定不能性そのものである世界ですね、こりゃ。
すなわち論理ではない世界。リアル、とか。現実ね、力の場さ。ロゴスじゃなくパロールなのよん。
実をゆーとリアルとゆーものが外部(性≧他者性≧共同性)からやってくるとゆーコトとも大きく関係しますねん、コレ。



▲指示決定を生成するところ

カンタンに、もーちょっとクワシクいえば、個人の思念で左右できない概念構築のエリアです。

このエリアで生成する概念で言語として表出したものの代表が名詞。
名詞の認識の前提となるのはその表象の承認だけであり、個人的な思考や観念が必要とされるワケではありません。
名詞がコンスタティブに流通する理由がそこにあります。
そしてそれは同時に指示表出の特徴でもあるんですね。



▲ブンレツの可能性としての指示空間

人間が対象を認識する時に、意識が対象へ向かいます。志向性ですね。
対象へ向かった志向性のうち、自分自身ではどーにもできないものが共同性として認識されます。
この志向性は対象へ投射された自己(関係)意識として、対他関係(意識)の要素やトリガーになり、
概念構築の前提になる指示空間や均質空間を形成します。
この点で対象との関係性が均質空間化されている視覚や聴覚との照応性や親和性が高く、
これが分裂症において幻覚や幻聴が多いこととも関係してるワケですね。
また、純粋な思念によるイメージと感覚の運動性による主観的視覚的直観象との類似性も同じ理由でしょ。

問題は概念と視聴覚、イメージと直観象それぞれの親和性や類似性にかかわらず各々はまったく別物だとゆーこと。
観念と感性は違うし、想像力と視覚の運動性も全然違いまーす。



■心的ぶつぶつ・・・   2001/7/21




     身体的なマテリアルとしては、
     感覚器の分子レベルの代謝からは神経が遠隔化され、
     脳神経の情報レベルの交通からは分子が遠隔化される。

     以上の反応過程をへて、
     感性から意味が遠隔化され、
     意味から感性が遠隔化される。





もちろん、はじめの3行は身体システムをマテリアル(寄り)で考えたもん。
あとの3行は心的現象を考えたもんすね。
特にあとの方は「生の凝縮されたスタンスとしての非リアル化と意味化....」なんすけどお、




     「非リアル化」は身体を含めた自然的環界との乖離の進行を、
     「意味化」は指示表出化、コンスタティブ化であり
     スターリン言語学で指摘されるコンピュータ言語化および形式論理化を示している。





....んだよ。
ホントかよ....羊書。


ついでに、
「2者関係(≦対幻想性)に公準とか客観とか第三者の観点からのジャッジが導入されるコトにビビる」のを
コミュニケーション不全とか郵便的不安とゆーなら、
オワリだね。96%は、ね。
正直、おわってほしいけど。(笑)



■38度℃・・・   2001/7/20


やっぱコンスタントに38度℃の作業場はエアコンを作動させてもグルジイー感じ。
メチオニンを肝臓にぶち込んで温度耐性高めよーなんて思っても、ここまでダレてると効果ないしい〜。
なんかマトモな仕事の打診が来たり、久々に仕事のブローカーの兄ちゃんとタプタプするまで飲んだり食ったりしたら、
もーだめ。だめえ。ダーメン。

羊書のメモ書きが数万文字に達して、かつ心的現象論の理解用のメモがトオゲをこえてえ、っと。
個人幻想の中で共同幻想が形成される場のメドがついたんだけど。連日ムナシクノビテルノガ実情ー。
冷し飴のおニューを開けてもなあ、飲みすぎると太りそーだしい。



■心的現象論ぶつぶつ・・・   2001/7/18


生の凝縮されたスタンスとしての非リアル化と意味化....と17日に書いてるんだけど、
これって原生的疎外と純粋疎外と環界としての身体の錯合の状態の経年変化みたいなことでさあ、
ひとことでゆーと老化とかモウロクのことなんだけど、TPOから異化した生命の通時的な変遷なんだよなあ....
とかいっても上手にカンタンに説明できないんで、ウゲッてなワケです。ウゲエ。

まあ、この辺の表現でハイデガーの死への定義と吉本理論じゃピンキリの違いなんだよねえ。

個別的現存や現存在にとって死だけは他者と交換できないコトを喝破したハイデガーだけどさ。
死って何?とゆー問いそのものに関しちゃ哲学オタクの限界モロ出しだね。
あの程度のアタマだと不可換な死を可換たらしめる共同性として民族を肯定しちゃうんだね。
(このハイデガーの共同性への認識はビョーキだけどね、羊書的には)
対幻想性に収斂させるならいいけどさ。それがマルクスだろ。恋愛で決闘したこめかみの傷はダテじゃないからねえ。イエーニ〜。
ホントに2者関係(≦対幻想性)に公準とか客観とか第三者の観点からのジャッジが導入されるコトにビビるヤツって駄目だね。ダメ。
ルネ・ジラールの『世の始めから隠されていること』をはじめポストモダン理論の重要点だろーに。
つまり同一論理内での決定不能性をジャッジする外部論理の存在、これを排除しようとする動きとして
否定性として噴出するある志向性....。コレこそが、うんもー、ガイキチの根拠なんだよね。つーか、
狂うことそのものの動因だな。
ラカンや斎藤さんが人間はみんなキチガイとかゆーのはいいんだけどさ、その根拠とか動因とか説明されてないしなあ。

吉本さんはギンギンの理系&マテリアリストだから感覚から帰納する説明を用意してるね。
まあ、羊書的には各感覚の作動条件に決定不能性が生じたときを異常としてるんだよね。
個別感覚内で決定不能と化した状態は他の感覚と統合認識への影響をとおして異常を発現するワケさ。
感覚や認識の異化結合ってなもんで。このトーナリティを統括するのはもちろん構成同一性だね。
構成同一性がないと指示決定ごとにバラバラの認識しか持てないで、それを分裂症と呼ぼうが多重人格と呼ぼうが
トーナリティの維持が不可能な点じゃ同じ。まとめてガイキチとゆーことでさ。
まあ、ベースは自他峻別の混乱だね。解りやすくゆーと免疫的根拠である他者認識が心的現象レベルで狂ってるワケ。
そーゆーのってハンニバルみたいにヘーキで自分の腕切り落したりするからさ。
自傷行為なんて、そんなもんだしい。悲劇つーか、お笑いつー感じ。
その点、ある種サブカルの笑は正しかったりするかもね。

こー考えて感じるのって、ラカンってバカ?とか、そんな感じで不謹慎です、ハイ、ゴメンナサイ。
でも、バカはバカじゃん。けけけ
ま、フロイトへ帰れって叫んでるから許してヤッかあ。
象徴界とか想像界とかである種の論考がしやすくなったのは確かでしょーが、
そーいった指示決定のタームを並べて自己満足する以外はアイデンティティを確保できないよーなお方たちに
他人の心理とか理解できんのかって疑問ありますが正論ですコレ、文句ある?



■東証ホーカイでっか?・・・   2001/7/17


日産にゴーン社長が来てから、ズーッと、気が小さくて頭が悪いコトが特徴的なヒトビトから、
依然として「外人に進駐された」とか「日産は終わり」とかゆー声がするんだね。
何日か前も、外人に進駐された財界とか新聞に書いてあったしなあ。
でも銀座の老舗なんか三国人の店が多いんだぜえ、きゃははは。
そーゆーとこって美味しいしねえ。そーゆーのは占領されてるとか占拠されてるとかゆーのか?
台湾外交部へ嫁に行ったあの娘も、そんな銀座華僑だったしなあ。


どーでもいいが大手バカ証券会社のヤッカミに関らず、
この東証ホーカイの最中、日産の株価は上がったりする。
適正価格は300円といった最大手証券会社は転落の最中だしい。
日産は問題外とのたまわってた人は目指せJR中央線なのか青木ガ原樹海なのか知らないが、
中央線で迷惑だけはかけないでねっと。それ以外はむしろ歓迎。逝ってください。ナ〜ムウ。


さてデイトレのオッサンたちはこのポストモダンなリアルフィールドでこそ勝利の連日みたいだね。
1000株あたり10万円以上の大勝利で、今年の年棒目標額をクリアした人も多いし。
某商社、某海運、某エンジニアリング、某自動車....と換金しつつ。
これから大化けする某カードや某電気関係はホールドッすね。
でも、どーして上がる株ってシカトされるのかね。きゃきゃきゃ



■暑くて心的現象論にケリだあ・・・   2001/7/17




     現実の世界がモノゴトそのものとして把握されるならば、
     モノゴトそのものについてのイメージは生成しない。(視覚・聴覚以外の知覚にこの傾向は顕著)

     逆に、
     モノゴトそのものについてのイメージが生成するのであれば、
     モノゴトそのものについての知覚は遠隔化される。

     身体的なマテリアルとしては、
     感覚器の分子レベルの代謝からは神経が遠隔化され、
     脳神経の情報レベルの交通からは分子が遠隔化される。

     以上の反応過程をへて、
     感性から意味が遠隔化され、
     意味から感性が遠隔化される。





つーことでえ、
指示決定から自己決定への過程と
そのマテリアルなシステムと
生の凝縮されたスタンスとしての非リアル化と意味化....
つーよーな何かクラ〜イメモでしたん。
ソリッドなメモじゃないなあ、失敗かもー。(^^;)



■暑くて心的現象論だあ・・・   2001/7/16




     対象に関する志向性(≦了解の時間性)は作為体験として、
     対象との関係そのものに関する志向性(≦関係の空間性)は不可避体験として、
     表出する。


     原認識の原時間性と原空間性そのものが受動態としてしか構造化しないのは、
     心的世界そのものが先験的に存在する環界との関係性においてのみ生成するものだからである。


     正常な意志の恣意性は、対象に対する自由な選択性である。





もーすぐ羊書のケリだなあ〜、暑い〜。
遠隔対称化しきっちゃってるリンクはまるでアタイだわさ。
冷しタンタンにしよーかなあ。旬坊もいいなあ〜。



■サンダー・アサダーの限界・・・   2001/7/6


ゴミの山デスクの左下の床に落ちてたのがコレ。
AとBとゆーメモ。
何かに挿入するハズのメモなんだろーけど、まったくワスレ。
もったいないのでココでコーカイってな感じです。
いつもと変わんないけどさあ。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


『構造と力』はラカン本で、その後84年3月10日に発行した『逃走論』はドウルーズ=ガタリ本ですね。
現代思想のラカン特集でラカンの見事な分析と紹介を書いて注目されたのが浅田さん。
そして早過ぎた思想家今村仁司さんのススメでそのラカン論を中心にまとめたのが『構造と力』です。
この本の特徴の一つはイロイロなカタチでラカンについて書いてること。
アプローチの方法が豊富であり、それだけで浅田さんの才能がわかる本です。
もちろん内容はラカニアンが絶賛するほどの深いラカン解釈と
マルキストが喜ぶような68年以降のマルクス主義のラジカルな進展が書かれています。
注目すべきなのは本のベースになったラカン論で、
ラカンの先鋭さとその限界とラカンを超える可能性について示唆してるとこでしょう。


以上....A



「記号論を超えて」というサブタイトルのとおりでラカンの提示する「構造」解釈の論理モデルへの評価と、
そのスタティックな限界を超えるための「力」に言及しつつ、ドウルーズ=ガタリ論へと進展していきます。
ところが実際にはラカンを超える可能性として、はじめに示されるのはマルクス・ニーチェ・フロイトです。
ドウルーズ=ガタリがマルクス・ニーチェ・フロイトの有用性を上手に利用してるのは確かですが、
だからといってラカン後がドウルーズ=ガタリだけというワケではありません。
この本の問題点がココにあります。
「マルクス、ニーチェ、フロイト」を「《力》の思考を展開した――あるいは可能性として内包している」と評価しつつ、
その現代的な後継としてドウルーズ=ガタリをプッシュする姿勢に勇み足が見える理由ですね。
モダンの知的成果としてのマルクスやフロイトといった系においての「《力の思考》」がどのように発展していったか....
という考察が成就されていません。マルクスやフロイトを評価し紹介しながら、その発展をフォローしていないのは
ナゼでしょうか? ナゼいきなりDGへいってしまったのでしょうか?
そこには敢えて何かに対してシカトしてる浅田さんの意味深げなスタンスが見え隠れしてます。

唐突なメルロー・ポンティの引用に曲解かもしれないと予め弁解を書き、
しかもポンティとラカンの関係を説明しないという乱暴な展開をさらしてる、その理由は?


以上....B


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まあ、高級言語とゆーイメージで隠蔽された(とゆーか正確には隠蔽する為にデッチ上げたのが高級言語とゆー概念だが)
専門用語の中で行なわれた幼稚な父子相伝の失敗の物語がソコに露呈してるんだケドさ。
東さんみたいにスムーズに出来てないトコが、やっぱ、世代的な限界かなあ。
世代つーと悲しいけどねえ。柄谷さんのよーに割と楽にクリアしてる人もいるからさあ。
やっぱ個人的な限界かあ。そんな気はしますねえ。その点をダイレクトに突かれてガイキチとまでハッキリ指摘されてるしなあ、
サンダーバード・フィギアなアサダッチは....。
まあ、ガイキチつーかヨーチなんどけどね、単に。(笑)

はふー



■カシューナッツ昇天?・・・   2001/7/4


昇天つーか、ご帰還つーか。
天へ。



■動くカシューナッツとか?・・・   2001/6/28


ガキの頃にビックリしたのが、
ペンキ屋のボウズが宝にしてたドングリたち。
だって動くんです、そのドングリたち。

「あのねー、見ててごらん。動くんだよー、これえ」

とゆーことで、
原っぱから近所の庭先まで毎日探検してまわってたガキが数名、ペンキ屋の土間に集合。

大きな缶の蓋を囲んでみんなチョット緊張しつつ、
蓋を土俵がわりにしたみたいな気分で、
そこにバラバラと放り出したドングリに注目。

大小のドングリが何個もあって、
どー見ても、どれも、ただのドングリ。

自分たちが草むらのカエルみたいな気分になって、
ジーッとしてると。

コトリ、コトコト....
ゴロン、ゴロン、ゴロ、ゴロ、ゴロ....

あわわわ、動き出したあ....

そーなんです、動くドングリがあるんですねえ、とゆーか、
魑魅魍魎なんだか、シキ神様なんだか、何だかが居るんですねえ?

フーン、動くもんは動くんだなあ、....ッフ。
そーか、そーか、と納得して今に至っております。
その後、
高尾山の薬王院で修行した山伏が、
遠当ての術で遠くに居る鳥を倒すのを見て、
フーンとか思ったんだけど。
どこにでもあるんだねパワーって。わははは


そこで我が家でもヘンなものを手に入れましたん。

ヨコから見るとカシューナッツで
タテから見るとマンデルブローさんかオジゾウさんな感じ。
まったりしてるとバームクーヘン風でもあるとゆーヘンな存在。

眺めてるとソイツもコッチを眺めてて、
一応キョロちゃんと命名したくなったんで、そーしてます、キョロたん....

はじめのころはチョロチョロと動きまわっていましたが、
最近は犬座りして、いつもコッチを見てる感じ。狛犬風?
コッチから近づくと、コッチを向いたまま後ずさりするとゆーヘンなヤツです。キョロ....
なんか『さようなら、ギャングたち』にでてくるヤツに似てたりするんで、んもー、です、ん、もー。



■3番目においしい?・・・   2001/6/18


   ○○で3番目においしい店


とゆーコピーとPOPがさん然と輝くのがレストラン「サン・モリノ」でっすう。

食べたぞ「カルボナーラ」 600円。
飲みたかったパインジュース 250円。

中野ブロードウエイでサブカル三昧生活を送るために東京に出て来る人がいるよーに、
中野につぐサブカルの殿堂にしてキラキラとマブシイ郊外のオタク拠点「第一デパート」の地下で
ヒッソリと息づくのがランチの懐古サブカルが爆発する「サン・モリノ」のスパゲティだ!
コレを知らないヤツがサブカルを語るのは許さな〜い。絶対ユルさなーい。
ちょっと先には必殺の「四つ角飯店」もあるしい。



■陰陽師・・・   2001/6/16


山手線沿線で活躍する占師70数名を仕切っているのが目黒不動尊を拠り所にしてるある陰陽師。
リッチな人やエライ人を直接会員化してるのが、深川不動尊ゆかりの陰陽師。
どちらも女性ですね。

そんでもって、どちらにもイロイロ当てられちゃいました。
持病?とかケガとか近親者それぞれの病や具合の悪いところの部位とか、ザクザク金の山は何回か?とか。
で、5年悪くて4年良いのが運のさだめえ、とかさ。

まあ、星運術つーか天文学つーか、
まるでえ、1年に一度だけ誕生日の午前中に脳に変成?が起るコトを
証明しちゃったツノダテストみたいなもんで。
生命存在のTPOをマテリアルにテクノロジカルに解析出来るつーのはシュゴイことですねえ。

神なんぞ、いないけどさあ。
TPOの条件づけは自己言及不能にして不変だしなあ。
TPOによる本源的蓄積こそが、生命なんだね。
うーん、K,Marxのタームは結構有効です。



■山小屋風の喫茶店「くすの木」・・・   2001/6/13


>チロリアン?な山小屋風の喫茶店「くすの木」

....のあるのはJR中央線武蔵境駅から北上した玉川上水沿いでーす。
桜堤団地ゆー団地が最寄りかな。
吉祥寺や三鷹からでも桜堤団地行きのバスに乗ればOK。
桜堤団地か玉川上水周辺で降りて、玉川上水の北側の道路を眺めると山小屋があります。
自家焙煎豆がいい香りでしゅが値段が高いかも。
コーヒーキャンディーは安いのよ。



■蕎麦屋・・・   2001/6/9


三鷹にある美味しそうな蕎麦屋に行ってみたら準備中でしたん。

おわり

うんで、コージー・コーナーでピスタチオのアイスとか食べたら、
ココナッツとミントと妖しい味がして、ハイになれました。ハイに。

はい....



■仕事ギライ・・・   2001/6/3


この前も書いたけどさあ。
仕事の発注がくるとタジろいだりメンドかったりすんだけどお。
免疫活性剤とSAMeでも飲んで眠よーかなあ。

書きたいコト書いていいならやろーっと。
とゆーことで山形さんか東さんの書評でもトライしよーかなっと。
どっちかが先になるけど、どっちも書くんだもんねん。

批評を批評するのってポストモダンチックな構図でしゅが、
大塚さんが講師やってたらしい小説書くためのテクニックの講座とかいったら
誰でも文学書けちゃう気になれるつーのこそ文学の基本だしさあ。

批評もドーナツや東京の魅力の根拠と同じで、
100%自由な観念の運動なんだけど、
100%をキープする努力ってゆーのは江藤惇がカンタンに失敗したみたいに、
あるいは小林秀雄しかリアルには感得出来なかったみたいに、
何も感得出来ない鈍麻を何でもできると思ってる前頭葉未発達ボーヤが渋谷にウジャウジャしてるみたいに、
もーどーでもいいことなんだけどねー。

でもマテリアルな関係性と、
観念のパースペクティヴから
基本的な生の志向性を叩き出した
S,FreudやK,MarxやY,Takaakiみたいにさ、
表現や表出の志向性なんてチョロイんだよね。
基本的な方向って2つしかないから。
まあ、バイアスは無限個だけど。

チョロでもキョロでもいいんだけどさ。
キョロ元気かなあ....



■カナヘビ・トカゲ・・・   2001/6/2


えーと、たぶん4月中のコトだったよーな5月の始めだったよーな、
アルツっぽいアタシのアタマにゃ既によーわかってないジャンルにアーカイブされちゃってる記憶に、
4匹のトカゲ発見物語があります。

お気に入りの昭和記念公園の横の通りで見つけたんですが、
散歩してたらトカゲが4匹いましたん。
正確にはトカゲが1匹でカナヘビが3匹です。
カナヘビの大きなヤツは30cmくらいあって立派。
近年人気の爬虫類ショップで売れそうなゴールドに光る眼光スルドイ個体でしたん。
そーいえばガキの頃、親戚の大きな邸宅の芝生にウジャウジャとトカゲが居て驚いたことがありました。
裏庭の雑木林にはアオダイショウまでいたっけ。

小学校1、2年時に通学路に面した飯場に住んでた同級生が居て、
タライの直径くらいのアメリカザリガニを見せてくれて、ビビりました。
夏休みに田舎で獲ってきたらしいけど、ケガしなくてよかったねー、
とか思ったもんです。あのハサミだったら指くらいとれちゃいそーだし。
しょっちゅう多摩川の川原で遊んでたもんでザリガニの大きなヤツのハサミの強さは身にしみて知ってます。

今日は玉川上水沿いを散歩して、
中央ヨーロッパ帰りと思われる主人が経営してるんじゃないかと推測される、
珈琲をはじめその味は結構グレードが高いと評価されてると予想される
チロリアン?な山小屋風の喫茶店「くすの木」でゆっくりしてたんですが。
そこにたどり着くまでに玉川上水の散歩道で大きなマイマイを2匹見っけました。
1匹は頭上真上の桜の木ノ葉の裏。
恐らくは2000分の1秒をはるかに陵ぐスピードでレスポンスする脳幹に、
何だか心地よさを感じられるのはシアワセなんだろーなどと思いつつ、でした。

ちなみにマイマイは倉木麻衣ちゃんとは関係ありませんが、
あなたとは危険な関係があります。ポリネシア方面からの寄生虫がいるので、
マイマイやカタツムリに触っちゃダメよ、ってなことね。
脳に障害を起して死ぬ人もいるので気をつけてちょ、っと。

まあ、高山寺で見たホンモノのマイマイには感動したっけ、と。



■セイジョー・イジョー・ブンレツ・ソーウツ・・・   2001/5/31


片づけ物ができない、整理整頓ができないとゆーケッコウ致命的なビョーキのボクは毎日ウンザリなんですが、
メモやテキストもどーかなっちゃってるんで、今日は、ちょっと、なんか、いちばん気にしてて、
ウチの方法でありポリシーであることに関して、たぶんいちばん有効なことなんかについて書きます。
まあ、いつもとカワんないけどさあ。



▲正常と異常を区別しない吉本さん&斎藤さん

 斎藤環さんや吉本隆明さんの方法論で基本的にスバラシイのは正常と異常を区別してないコトですね。
そして、モダンな方法論の最大の特徴であり欠点である分類やその細分化なんぞまったく無縁な認識論でもあります。
ナゼなら彼らのゴールは人間そのものだからです。まるでK,Marxだけどさあ。


▲異常を設定して自己を正当化する宗教&モダン

 宗教は禁忌(異常)を借定することで自ら(正常)の正当(統)さや絶対性を主張します。それは
モダンであれば100点が合格でゼロ点が不合格だったりする....その程度のもんなんだけど。
 太陽の神殿で生け贄の少女の心臓をえぐり出すのは宗教上もっとも大切な儀式かもしれませんが、
ハンニバルがやればただの犯罪です。
 いずれもリアルな生に無関係であるどころか、むしろ、生そのものに反する行為ですが、ゆがんだ共同性
(による指示決定)ゆえに正当化されちゃいます。



▲分類と細分化がアイデンティティのサブカル&プロ

 分類と細分化はオタクやプロのアイデンティティ(そのもの)をかけた能力ですが、分類したり細分化したり
するだけじゃ何の役にも立たないのは確かでしょー。
 まあ、実をゆーと一つだけ役に立ってるのは、そーいったタームやデータを並べたりまるで自分の知識であるか
のよーにペチャクチャすることそのものがその人にとっての自己発現である、とゆー場合ですね。これが病識のある
レベルになるとペチャクチャだけでコミュニケーションは成り立っていません。応答してるようにみえてまったくズレた
レスで溢れかえる空間があったりします。宮台さんや東さんがスルドイ考察をしてますよね。山形さんも。
 サイバースペースはその典型的なものでしょー。もちろんそーいった意匠を提供することで成り立っている世界が
サブカルの一面です。資本主義の一商品として。ただし、コレはそーいった空間が<?>を誘発するのではなく、
もともと<?>だったものが顕在化しやすくなる、といったコトに過ぎません。
 だからこそサブカル分析には「正常と異常の区別をしてない」吉本さんや斎藤さんの認識論が有効
なんですね。いずれにせよ先験的に「正常」と「異常」を借定するのはマチガイです。


▲予め超えられていた浅田さんの歪み

 ところで、1982年にラカンのメリットとその限界を鮮やかに指摘して注目されたのが浅田彰さんの「ラカン」。翌年に
『構造と力』として出版され、ニューアカの原典となったテキストです。さらに、その18年前にフロイトをテッテー的に
考察し、その論考から共同幻想に至る認識論のベースを構築したのが吉本隆明さんの『心的現象論序説』。
 『構造と力』に散見する浅田さんらしくない歪みや矛盾する論理展開は、この『心的現象論序説』という
圧倒的な力を払拭しようとする無理から生じたものですね。だからこそ、その影響は見過せない事実として
現在進行形です。実際、浅田さんは書いてない(書けてない)しい。
 フロイトをテッテー的に読み込んでいるために、理念型モデルでしかないラカンをカンタンに超えているのが
吉本さん。また、斎藤さんもラカンの弱点を超えるべくオリジナルな展開が謀られてますね。



△ブンレツ・ソーウツ・メモ


schizophrenia

指示決定に固執するために統合認識=構成同一性が生成しません。
モノゴトを(指示表出レベルに分節化し)微分できても(指示表出から抽象し再統合する)積分はできないワケです。

他者に対して分析的な対応しかできません。
日常的には「ああいえば、こういう」というようなありきたりのスタンスでもあるでしょう。しかも、この分析は
自己の不安から生じる対応であり、この不安が対象に投影される自我象そのものであるという自覚は
全くありません。自分の不安に気がついていない不安ということです。


manic-depressive

指示決定を自己確定することができないために認識が安定しません。
常に不安定であり流動的です。
自己認識に積分されたもの(指示決定のアーカイブ)が何であるか自己確定できないために常に思索的です。
(アーカイブが自己のものだと認知できない場合は幻聴や幻覚となることがあります。そのレベルではschizophreniaが
生成します。)

タイプが二つあります。
一つは指示決定の空間性の水準を超えてしまっている自己決定であり、もう一つは指示決定の空間性の水準に
達していない自己決定です。前者が躁であり、後者が鬱です。
たとえば、片づけるという目標(指示決定)の空間性に達し得ないというのは、日常的なウツの典型例です。



■ヒローコンパイ!・・・   2001/5/20


ヒローコンパイ?

4月5月は疲れることがあって、
サイテーでも3日間連続脱力したりしてましたん。
そんなコトの繰り返しい....限りのないデジャ・ヴュ、繰り返すたびに悪くなっていく....なんつーのもいいかな、っと。

まず4月。
ひさしぶりに雑誌まるごと一冊の見積りやSP戦略のトータルな見積を要求されてビビる。
うー、まともな仕事を示されてたじろぐなんて初めて。
そーとーヤクザになっちまったんでしょーかあ、この根性。
ピーク時の1/5程度の仕事量のプロジェクトなんだけど、
なんかゾッとしたのはどーしてか....。

1年間未払いの広告の仕事を大企業へのプレゼンの直前に降りて、
未払分の請求の訴えを起こした知り合いのデザイナーの勇姿なんか思い浮べながら、
低賃金労働ゆえに社会的な責任をまっとうしなければいけない30代以降には無理な仕事を
若者の感性とかいうデッチ上げで若者に無理強いする日本的業界に一言ありかな....。
そーゆー批判が同時にサブカル批判になるスタンスを持ってる人はスルドイなあ、
などと思ってキョロちゃんを眺めたりしてましたん。キョロたん....。

5月12日には緊急にして重要な打合せのため京都に急行。
何も考えなかったので往復グリーン車の「のぞみ」でGO。
ぎょえ、飛行機の方が安かったんじゃん、などと反省しつつ新幹線車中でもメモ書きも進まず、
コーヒーも飲まず、見慣れちゃった景色を年期もののカセットテープでリメイクして、
どーんと思い出なんかにひたりながら、行きました京都。行きませんでした東寺。てな具合に忙がしかったんで
帰京後の脱力ハゲシク、でもゆったりできたかな、てなスケジュールですね。
1週間後にはヘンなレギュラーも作ちゃったんで、脱力後にはヒマがないいつものパターンでしたん。

そーゆーワケでデイトレーダーじゃないけどネットトレーダーとしてそろそろギャラをね、っと。
22日出金で、まあヤクザな給料日を楽しみにトレードの再検討でもしよーかなとか思ったりします。
出来高や売買高のベスト5位や10位に手持ゴマが2つも3つも入ってたりすると、
このリアルフィールドで損こくヤツは死ねやあ、などとらんぼーなことを考えちゃったりして、
実地のポストモダンって運命がスピードだね、とかわけわからないセリフが浮かんだりします。



■カメレオン?・・・   2001/5/18


昭和記念公園の周辺とか、ダイクマのそばとかでカメレオンを肩に乗せて歩いてる人がいるとか。
「カメレオン連れて買い物に来る人がいるよ」とゆー証言をダイクマのオバはんから得ました。
ニュースです。ちょっと。
カメレオンを肩に乗せて歩いてるなんて、あの野生の女の子ティッピちゃんくらいかと思ってました。
それにあれはケニアだかタンザニアだかだしなあ。
ティッピちゃんはカメレオンを頭に乗せたりポケットに入れたりしてたみたいだけど、
肩にカメレオン乗せてる姿も、けっこうカッコよさそーですね。

そーいえば、以前、タカを肩に乗せて歩いてる人は見たことあります。
うーん、ちょっとコワかったな、一瞬、アレ? タカじゃん、鷹....てな感じ。
コワかったのはタカそのものより、肩や腕に装着してる鞍みたいな防具みたいなのを見て、
やっぱ、タカはヤバそーだあ、と思ったから。
あのプロテクターを必要とする爪につかまれたり、くちばしで突かれたらタイヘンだろーなあ、とゆー風でした。


そーいえば鎌倉周辺はトビがいっぱい。
さすがのカラスも大人しくしてます。
トビが多いのはリスが食べ放題だからでしょー。
鎌倉とか逗子のハイキングコースってリスがうるさいくらいいるもんね。
ちなみに井之頭公園にリスの放し飼い自然定着が進まないのは、
犬自慢のバカな大人がデカイ犬を連れて来るからでーす。
やめろよ、犬。
公園に連れてこないでくれえ。
リスが居る方がいいもんね。



■信者 vs パンピー・・・   2001/5/12


伝説のBBS....とゆってもかつてのNiftyserveですが。
とうとう電子ネットワークでも宗教戦争とかなんとか雑誌のネタになったりしてた頃のBBSは、
ましさく今や伝説のサイバー空間つーかデンパとかオキョーとかマントラとかアンタらとかの
ハゲシク、でいりでぇでいりでぇ、ってな感じのマジだけに笑える余興空間でしたん。

ま、そこに普遍化しうる何だかだかを探し当てられればそれこそサブカル主導のお祭りにも意義があるワケで。
会議室でカンカンガクガクの末に大ヒットしたエヴァから、
その関連の公開?メールでガゼン注目をあびちゃった東さんたちまで、
面白かったのは確か。
どーも山形さんみたいにパソコンネット通信のNiftyserveにトラウマ?もったかもしれない人から、
某宗教最高幹部逮捕直前の声明まで、連日情報の乱舞と(笑)の嵐風の空間には、
インターネットにはない濃さがあったも確か。

政治的な宗教論争とは別にやり取りされてたものもあって、
個人的には大きな収穫もありましたん。


筑波大学のよーに宗教が学べるエライ学校には、
どっかのお山の将来を約束された坊主の御曹司が来てたり、
そーじゃなくっても、お家の後継問題から僧門宗門での悩みまで抱えた選ばれし門前小僧どもの
シリアスな自覚がウリでしたね。やっぱ、シリアスじゃないとさ。こーゆーもんは。
ウケ笑い取りながら自己発現しよーなんてゆーガキの出る幕じゃないから。

政治的な宗教論議から、
いくつかの教団への左翼や市民派からの批判、
いつのまにか転ぶ(信仰を代えるコト)アジテーター風味のデンパっぽさ。
そーゆーとこでも興味のあったのがニューアカ組と宗教者の論争。
左翼出身の新保守がチョイと手ゴワイレトリックで取り繕ったりするのと同じで....
まあ、この手ゴワサを本気でウケてたら単バカだけどね。レトリックが見破られたら西部みたいにゴミ扱いだしい。

ポストモダンorニューアカターム武装組が宗教者と激突すると面白そーと思ってたら、
いませんでしたね、そーゆーのは。
だって格が違うからでしょ、格が。
真剣な宗教者に、
ニューアカ用語解説特集が組まれてるホットドッグプレスの読者レベルが対峙できるワケがない、
つーことでしたん。
で、どーしても宗教者とマジな左翼の論争は、
理想を掲げることの相互承認と思想信仰の自由の共有ってな大団円?で終ります。
ウップぅ〜


ちょっと異色の宗門ボーヤがいて、
誤配のまま成り立ってしまう世の中に愕然としてたりしましたん。
マジメなんだねえ、ボーヤは。

認識は認識のままだと不都合が生じますがあ、
認識を超えてマテリアルな事実であるコトが自覚できればOKでっす。
失望や不安や愕然とする事態が単なる事実だと自己確定できた瞬間から、
事態に対する働きかけとゆー<力>を行使する契機が生まれるんですねえ。
『構造と力』の書かれていない結論つーか目的つーか、そんなもん。マテリアルな働き、ね。
対象への働きかけ、つまり<労働>です。まあ「労働」とゆーと、なーんだと思っちゃうけど、
読経も労働だしい。
マルクスってデキ過ぎなんだよな、まったく。

そんで、マジメなボーヤにはマルクスでも教えてやろーかと。
まあ、でも、教えてやろーかなんてゆー思い上がりはイヤん、てな自己確認のもと、
気がついたのが、ある事実。ウーン、ちょっとポストモダンチックだけれど、当り前の、
とゆーかどちらかとゆーと禅問答でもあるよーな認識です。


信仰者とパンピーの論議なんて、行きつくトコが決まってて、
「神の存在を証明してみろ!」ってなUFO風?問答から、
「信仰のない者には分からないよ」とかゆー無責任ヒキョー度100%な捨てぜりふまで、
アクビの範囲内ですよねえ。

でもちょっと考えてみると事態はカンタンな感じがします。

「信仰のない者には、信仰が分からない」....
とゆー非信仰者(パンピー)に対する批判?は、
逆転すると
「信仰のある者には、信仰のない者が分からない」....
とゆーシンプルな認識になります。
簡単過ぎい!じゃーないですかい。


「信仰のない者には、信仰が分からない」とゆー主張には
何故だか「信仰」を一段高いレベル?に置いているとゆー暗黙?の前提があります。

本来クールに考えれば「信仰」とそれを「分かる・分からない」とゆーのは同じレベルで扱われているハズ。
手順として、まず、
「信仰」の内容が「分かる・分からない」と問われる以上は前もって「信仰」が説明されるのが必要条件でしょー。

ところが「信仰」の内容そのものはアンタッチャブルなところへ棚上げされて、
「分かる・分からない」とゆー問いそのものが抑圧されます。

何故なら「信仰」の自由が憲法で保障されてるから....なんつーのは
憲法=シンタグムが論理的な決定不能性を回避する為に予めゲーデル的決定不能性に陥るのを
クラスタリングによって避けるように生成しているから....なんつーコトバ遊びは今回はやめときましょー、と。
まあ、こりゃ、キリスト教のトレント公会議なんかの贖罪規定とアニミズムベースの慣習法の関係みたいなもんだね。
ホントは、すんごく重要なんだけどお。
こーやって<個>の<志向性>が遠隔対象化されてバケモノみたいな共同性がデキちゃうんだけどさあ〜。


突き詰めるとゲーデル的決定不能性に陥る<問う・問われる>とゆー問題を暗黙のうちに回避しつつ、
さらに自己の依拠するものを「分かる・分からない」とゆー思考の論理に制限されない別次元へ設定する、
つまり依拠する対象概念の指示決定化の手続が無意識のうちにとられてます。
カンタンにゆーと、思考の回避による無制限の自己正当化が行なわれてるワケですね。
それも二重に。二重だよ、二重。
思考すれば答えが出ちゃう問題は、思考そのものを回避するしかない....
とゆーテッテー的な否定性にのっとった逃避が無意識に行なわれてます。
コワイでしゅねえ。

まあ、コレは分裂症や自閉症的な認識と同じもんかもしれないけどさ。
自己言及を回避したいために一人称 and 二人称を回避する病識のことね。
このレベルでは斎藤環さんの主張する「一人称の不在」は「主体化への恐れ」という指摘は説得力があり、です。
自閉症、分裂症、宗教者(他者に説明不能の物事に依拠して自己を絶対化させている人)では
他者への関係性がそれぞれ違うけど。



■旬坊の豆乳らーめん・・・   2001/5/8


つぶれた自称地域一番店がポリシーのそごうグループのなかで、
割と売れてるらしいのが東京八王子の駅ビルのそごう。

そんなのはどーでもいいんだけど、
どーしてもラーメン通が食べるべきなのは、
このそごうのレストランフロアにある『旬坊』のラーメンてな気がする。
豆乳を使ってるラーメンなんだそーですが、美味しいよ、っと。
まあ油っこいのが好きで、味蕾も神経も鈍いんで濃い味が好きなヴァカモノには無理な味。

どんな問題でもそーだけど、対象をジャッジすれば、
ジャッジ能力そのものがアラワになるとゆーとここそが見所じゃん。
ジャッジの仕方で認識主体の属性こそがバレバレになっちゃうのがポストモダ〜ンだもんねえ、と。

『旬坊』の第一印象は薄味。
濃い味しかリアルに感じない人は問題外つー毅然たる態度が通のラーメンたらしめてるかもねん。

「和風チャーシュウ」を食べたんだけど、
なんか憶えがあるなあとか思って思い出したのが『鏡花』の味でしたん。
そーいえば『鏡花』はラーメンのTV番組で東京でナンバーワンになったとか。
『旬坊』もなんかに取り上げられたらしいけど、まあ、そんなのはどーだっていいや。

お値段がリーズナブル気味なんで家族が目立ってましたん。
でも薄味だからかな、八王子地元のガキンチョはいないね。
4月29日日曜日の混み具合としちゃ地味かなあ。
つーことで意外に穴場でコリャええわい、てなトコです。



■よーぐるとん・・・   2001/5/7


ろんぱあにケられておきにいりのふるーつよーぐるとをおとす。
じんせいにいいことはないとゆーはっけんはするどいひとがつぶやき、
ぼくがかためた

■「不過視界の精神分析」1から6までえ・・・   2001/5/1


他力本願なポストモダン企画つーか他人の主張にケチつけるだけのサービス産業最先端的な企画がコレ。(^^;)

『不過視なものの世界』巻頭企画の「精神分析の世界 斎藤環との対話」をダシにした安易な物言いですが。
ラカンてそこまでなのね、てな感想を得てちよっと脱力。浅田さんが『構造と力』でラカンにケリをつけてから18年。
その後の理論的な発展はあったのかよっ、てな期待に肩透かしなのは現代思想からサブカル論議までお約束な感じい。
まあ、いっぷくしよーかな、てな感じもします。フワア〜 (゜o゜)

ラカンが、女はみんなキチガイ、と言ってるのは半分正しいですが、半分違います。
正解は、人間はみんなキチガイ、ってなことでしょかね。

吉本さんの『心的現象論序説』はそーいった前提に立った唯一の論考なんで、まあ、面白いワケです。
認識を時空間性の錯合の構造として捉え、その各錯合の次元を設定し、
その次元内部での生成と次元を逸脱した変成を考察するコトで合理的に異常や病的を捉えた希有な認識論なワケです。
マテリアルとリソースが次元ごとにカチッカチッと設定された構造をモデルに展開される論理はマシニックでサイコー。

文芸批評とゆーいい加減さの極致みたいなエセ・インテリジェンスの中にあって、これほど論理的な論考もスゲーなあ、
とゆーのがその魅力でしょーか。理系化学出身の詩人である吉本さんの戦後最大ブリ爆発のテキストですが、
確かに文体がなんつーか、です。ハイ
特に助詞に関係詞的なニュアンスを込めてる吉本文は東京以外の人には難解。

事実この手の微妙な助詞の意味読解で日本の半分の地域の人が理解できないことが言語学会でも報告されてて、
笑えるんだけど、事実なんだよね、っと思うと寒かったりします。限定可能性の助詞とかさ。
寒がってもしょーがないんで、まあ、力として行使されるもんでも眺めてよーかなとゆーのがウチのスタンス。文句ある?
強度ないもんに興味ないしい。



■ラカンの「分裂病」とは? 不過視界の精神分析−6・・・ラカンの限界とか   2001/4/26
■「自分たちのイメージ」とは? 不過視界の精神分析−5・・・自覚のないイメージとか   2001/4/20
■「ひきこもり」とは? 不過視界の精神分析−4・・・トラウマのない困難とか   2001/3/30
■「象徴的同一化」とは? 不過視界の精神分析−3・・・否定性をとおした生だな   2001/3/24
■想像的(イマジネール)なものとは? 不過視界の精神分析−2・・・幻想論へ発展しなきゃね   2001/3/12
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