金沢旅行の往復を使って読んだこの本について読書メモ。 『ラグジュアリー』 と題するファッションデザイン展を先日観て、 去年出たこの本のことをふと思い出したので、さっそく読んでみました。
邦題がセンセーショナルだったので、 高級ブランドを単純に悪として告発する内容ではないかと少々腰が引けていたのですが、 かなりまともな内容でした。 確かに、この本のメインの主張は 「高級ブランド産業は儲け第一主義で、資産形成を競い合う「モノポリー」ゲームのようになっている。経営者の関心の中心はブランドの芸術性ではない。損益だ。」 (p.326) です。 しかし、現在の高級ブランド産業の利益追求の実態をルポルタージュするだけではありません。 原題の副題『ラグジュアリー (高級品、奢侈品) はその輝きをいかに失ったのか』が示すように、 王族貴族相手の職人からグローバルなコングロマリットへ至る高級ブランドの変遷や、 その周辺の職業 (スタイリストなど) の成立と変化も描いています。 高級ブランドを通して見る社会史としても興味深く読むことができました。
高級ブランドの歴史の転換点としてこの本が強調するのが、 1986年に高級ブランドのコングロマリットとして成立した LVMH (Moët Hennessy - Louis Vuitton) を 1990年に Bernard Arnault が全権掌握したこと。 これによって、高級ブランドが中間層大衆を相手に事業を拡大し、 グローバルに大量生産販売を行う完全に資本主義の論理で動く大企業となったと。
川久保 玲 (Comme des Garçons) や 三宅 一生 (Issey Miyake) が登場する 1980年前後までのファッション史については、 柏木 博 『ファッションの20世紀 —— 都市・社会・性』 (NHKブックス 831, 1998) [読書メモ] や 成美 弘至 『20世紀ファッションの文化史 —— 時代を作った10人』 (河出書房新社, 2007) [読書メモ] という本を通して知る所もそれなりにあったのですが、 『堕落する高級ブランド』で LVMH 以降を補完できたように思います。 これらの本に抜け落ちている1990年代以降のもう一つの動きとしては、 「ファストファッション」がありますが。
ちなみに、全ての高級ブランドが LVMH やそのライバル PPR (Pinault-Printemps-Redoute)、Richemont の ようなコングロマリットになったと、この本は主張しているわけではありません。 「本物の一流品を追求する姿勢を失っていないところ」として、 Hermes や Chanel を挙げています。 また、Tom Ford を高級ブランドビジネスの原点に戻ろうとしている「亡命者」として描いています。 Comme des Garçons (川久保 玲) や Issey Miyake (三宅 一生) のような 日本の高級ブランドがこの文脈の中でどう捉えられるのか興味あったのですが、 ほとんど言及が無かったのは、少々残念。 米国の高級ブランドもあまり出てこないので、 おそらく、この本の主対象とする伝統あるヨーロッパの高級ブランドとは出自が違う、 ということなのではないかとは思います。
ファッション・ジャーナリストだからこそ 多くの業界関係者に取材して書くことができたのだとは思います。 しかし、LVMH やそれを率いる Bernard Arnault のような人たちを 「関心の中心はブランドの芸術性ではない。損益だ」という 「儲け第一主義」者として描く、 ある意味で業界の裏を暴くような本をよく書けたな、と読んでいてつくづく感心してしまいました。
この本が興味深く感じられたもう一点は、 『堕落する高級ブランド』が描く高級ブランドの創業からの歴史が、去年読んだ 岡田 暁生 『オペラの運命 —— 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』 (中公新書 1585, 2001) [読書メモ] で描くオペラの歴史と、 パラレルに見えた所。 もともと王族の威信を示すものだったオペラが、 19世紀にグランド・オペラとして新興ブルジョワの娯楽となり、 20世紀に登場した大衆によって映画に取って変わられたように、 王族・貴族相手に作っていた職人が、新興ブルジョワ相手に高級品を売る小規模な高級品店となり、 最後には大衆相手の高級ブランド・コングロマリットなった、という。 高級ブランドがハリウッド・スターと密接な関係があるのも、さもありなん、というか。 そんなことを考えながら『オペラの運命』をざっと読み直したら、 「「ブランド産業」としてのオペラ座経営」という節に 「(前略)貴族御用達の仕立て屋はブティックを開いた。そのターゲットは本物の貴族ではなく、 貴族の真似をしたがっている連中だった。オペラ座も例外ではなかった」 (p.111) という下りを再発見。
『オペラの運命』は「ポスト・ワグナー時代の三つのオペラ潮流」として 「偉大な記念碑を崇拝する神殿」「聖遺物を保存する博物館」「過去の伝統を解体する実験場」を挙げ 「偉大な記念碑を崇拝する神殿」が映画に取って代わられたと言います。 これは、続く新書『西洋音楽史』での20世紀後半の三つの道 「ポピュラー音楽」「巨匠の名演」「前衛音楽」にほぼ対応します。 これを高級ブランドの話にあてはめてみると、 LVMH のような高級ブランド・コングロマリットは 「偉大な記念碑を崇拝する神殿」に取って代わった映画や「ポピュラー音楽」における メジャーの映画会社やレコード会社 (こちらもグローバルにコングロマリット化している) に相当するもののように思います。 一方、Hermes のような「本物の一流品を追求する姿勢を失っていないところ」は 「聖遺物を保存する博物館」「巨匠の名演」に相当するのかもしれません。 すると、相対的に見て Comme des Garçons (川久保 玲) や Issey Miyake (三宅 一生)、 Martin Margiela などは「過去の伝統を解体する実験場」「前衛音楽」相当なのかもしれません。 ここの話は多分に思いつきですが……。
Dana Thomas の 「高級ブランド産業は儲け第一主義で、資産形成を競い合う「モノポリー」ゲームのようになっている。経営者の関心の中心はブランドの芸術性ではない。損益だ。」 という主張の「高級ブランド産業」を「音楽産業」「映画産業」に置き換えると、 ポピュラー音楽におけるメジャー批判や映画におけるハリウッド批判における常套句です。 「新しい権力者 スタイリスト」の話にしても、 ポピュラー音楽業界におけるDJの話に近いものがありますし。 そういう点でも、LVMH、PPR 等のメジャーに対するインデペンデント/オルタナティヴ —— Thomas は「本物の一流品を追求する姿勢を失っていないところ」や「亡命者」を そうだと考えているのでしょうが —— にも、もっと焦点を当てて欲しかったようにも思いました。
ところで、この読書メモを書いている途中に、『ハイファッション』誌休刊の 報が。 同時に『銀花』も休刊になるという。 「セレブ」を取り上げたり恋愛関連記事を載せたり付録を付けたりと 消費主義的ライフスタイルへの指向が強いファッション雑誌の中において、 文化出版局のファッション雑誌のファッションデザイン的な視点が 良いと思っていただけに、残念です。 しかし、2誌同時に休刊とは思い切ったというか、かなり厳しいのかな、と。 『装苑』にはなんとか頑張って欲しいものです。 『装苑』は1982〜6年頃に読んでいた雑誌で、 自分のファッションだけでなく音楽等の趣味の原点の一つでもありますし [関連発言]。
Rebecca Horn 展 [レビュー] の他に、東京都現代美術館では 『ラグジュアリー: ファッションの欲望』 (1/17まで) という展覧会もやっていました。 10年前の『身体の夢』 [レビュー] に続いて 京都服飾文化研究財団 の企画のファッション展です。 しかし、前回がファッションとジェンダーの問題に取り組んだ意欲的な展覧会だったことを考えると、 今回はテーマ設定もかなり保守的。 それに、焦点を当てる現代のデザイナーが10年前と同じ 川久保 玲 (Comme des Garçons) と Martin Margiela。 1990年代に進行して2000年代に顕在化した 高級ブランドのコングロマリット化やSPAによるファストファッションなど、全く無かったかのよう。 ちなみに、関連する特別展示として 『妹島和世による空間デザイン COMME des GARÇONS』 があります。 また、直接関係する展覧会ではありませんが、 『スウェーディッシュ・ファッション: 新しいアイデンティティを求めて』 というのもやっています。