あー、なんか凄いことに なってますね…。ま、僕の場合、ズッコケているというか、凡庸という点では、 あまり人のこと言えない ところもあると思うし、多くは語るつもりないですが…。
しかし、増田論座の 8月 8日(火)20時45分18秒 の発言についてですが、 この掲示板で、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」というキーワード、 そんなに出てましたっけ? 自分ではほとんど意識してないつもりないんですけど…。 こんなメーリング・リストやってるくらいで、 「パンクに自己実現を仮託する」という指摘なら、わからないではないですが。 「80年代、オレはこんなにイタかった」という企画なら、以前にちょっと、 ここでやろうと思ったところもありますが、 なんかうやむやになってしまいましたね。最近、他にも こういう記事を 読んで、いろいろ思うところはあるので、ま、 自分の「80年代、オレはこんなにイタかった」みたいな話も含めて、少しずつ、 徒然なるままに、ここに書いてみようかと。
音楽について自分が趣味と言えるようなものを持ったのは、明らかに、 自分の部屋とラジカセを持つことができた、中学校に進学した1980年以降です。 そのラジカセで聴くために音楽を聴き出した、という感じでしたね。 最初はラジオやレンタル・レコードを中心に手当たり次第に聴いていたわけで、 もちろん、当時、大流行していた Yellow Magic Orchestra を 聴かなかったハズはないわけですし、ラジカセを買ってすぐの頃に買ったLPに Yellow Magic Orchestra (1978) や Solid State Surviver (1979) は確かにありましたが、そういうこと言えば、 大滝 詠一 『A LONG VACATION』 (1981) も出てすぐ買ったしなー。 幸か不幸か、洗礼というほど大いにハマることは無かったわけです。 洗礼という意味では、スネークマン・ショーの方が影響受けたかもしれません。 そして、僕にとって、B.G.M. (1981) が彼らの最後でした。 Technodelic (1981) はレンタルしたものの、もはや買うことは無かったです。
この B.G.M. → Technodelic の頃から、 ぐっと "New Wave" に趣味が絞り込まれてしまうわけですが。 当時まだ活動し始めたばかりの Rough Trade の音源の日本盤がリリースされはじめた頃でもありました。 特に、アルバムを一枚一枚聴く金銭的余裕が無かっただけに、 Clear Cut (Rough Trade / Japan, RTL-5, 1981, LP) のような日本企画の編集盤がリリースされたことが大きかったですね。 この徳間 Japan のシリーズは、なんだかんだ言って、 今の僕の趣味の原点になっていると思います。 そして、特に誰に強く勧められることもなく、 中学生の僕がこういうレコードを聴くことができたのは、 当時隆盛していたレンタル・レコードのおかげという面が大きかったと思います。 実際のところは、すぐに、学校の近くにあった 日暮里図書館のレコード・ライブラリを使うようになったのですが。
といっても、もちろん、この1980年代初頭のこの手の音楽の情報源としては、 やはり、NHK-FM の22:00から放送されていた、 「サウンドストリート」は大きかったわけです。 どの曜日も基本的に聴いてましたが、火曜日の 坂本 龍一 ではなく、 木曜金曜の 渋谷 陽一 (木・金) が一番面白かった記憶があります。 邦題、歌詞カードの対訳のデタラメを暴く「スティーヴ・ハリス・コーナー」とか、 似ている2曲をリクエストで募集する「著作権料よこせリクエスト大会」とか、 好きでしたねー。
あと、もう一つ大きかったのは、TVK (TV神奈川) の 『ミュージック・トマト』。 いわゆる、英米で制作が始まったばかりの 音楽ビデオクリップを紹介する番組だったわけですが。 この手の番組では、小林 克也 の 『ベストヒット USA』とか、 ピーター・バラカン の 『ポッパーズ MTV』 (は、時期的にもう少し後か?) とかも 思い出しますが、 『ミュージック・トマト』の平日の夕方毎日一日一時間という頻度は、 とても大きかったです。 今や音楽ビデオクリップなど滅多に観ないのですが、当時は面白かったですねー。 当時、プロモーション・ビデオを制作するのは、正統派のロックは少なく、 "New Wave" 系のバンドが多かったことも、趣味にいささか影響したかもしれません。
その一方で、『ロッキン・オン』はおろか、敵対誌『ミュージック・マガジン』も、 当時は "New Wave" 専門紙化してた『フールズ・メイト』も、読んでいませんでした。 音楽は聴いてナンボと思っていたところもあったようにも思いますし、 ラジオやTVの情報で満足していたという面も大きかったと思います。 そもそも、音楽雑誌の存在が全く視野に入ってなかったように思います。 むしろ、図書館やレンタル・レコードにリクエストのために、 『ぴあ』の新譜情報欄をチェックしていたことの方が多かったように思います。
こんな感じで、1982年には、「今年聴いたベスト盤は Depeche Mode, A Broken Frame (Mute, STUMM9, 1982, LP) と Michael Rother, Fernwaerme (Polydor (Japan), 28MM0203, 1981/1982, LP) だー」 みたいなことを部誌の編集後記に書き出す程度には、 "New Wave" な人になっていたわけです。
で、「パンクのインパクト」は? というと、 1980年に音楽を聴きだした僕にとって、あるはずがありません。 ちょっと変わった音楽、新しい音楽、実験的な音楽を聴きたい、 という趣向は強かったように思いましたが。 Rough Trade の音楽に飛びついたのは、単純にそういう面が強かったように思います。
あー、勢いだけで書いていたら、1980〜82年だけで、
こんなに長くなってしまいましたね…。うむー。
今晩はこのくらいにしたいにしておきますが。
しかし、話としても、「80年代、オレはこんなにイタかった」みたいな話ではなく
(無意識に守りが入ったかしらん。)、
どうも、90ならぬ
80みたいな話になってしまいましたね。
といっても、その筋では有名人の omo*8 氏と違って、
僕の音楽趣味の個人史に興味がある人がそれほどいるとは、
ほとんど思えないんですが…。
ここまで書いて、何のために書いているんだか、という気にもなったのですが、
ま、せっかく書いたので、載せてしまいます。
続きは、あるのかな…? ま、気分次第ですね。
Fri Aug 11 0:23:05 2000 の発言で、僕が "New Wave" がかった洋楽ファンになった 1980〜1982年の話をしたわけですが。その続きを、つれづれなるままに。
大学進学 (1986年) までは、日本盤化されたレコードを図書館やレコード・レンタル (といっても、JANIS のようなものは無く、「友&愛」という普通のレンタル。) で借りて聴く、というのがメインでしたが、 その一方、輸入盤店に行き始めたのも、この1982年でした。 通学途上に新御茶ノ水があったこともあり、 御茶ノ水の CISCO と disk union が、主に使った輸入盤店でした。 特に、御茶ノ水 CISCO には、壁に UK の "indie chart" が貼り出されていて、 買うつもりはなくても、それをチェックしに頻繁に寄っていました。 その他、中学高校時代によく行ったのは、 やはり通学途上に寄ることができた、秋葉原の石丸電気と 銀座の Maxi (明大前が本店だった。今は無い。)。 それから、ちょっと出かけたついでに寄った、渋谷の CISCO や disk union、 高田馬場の Opus One (当時はまだ東口にあった。)、 代々木の Eastern Works (今は無い。) 、六本木のWAVE などでした。 中学高校時代から電車通学だったこともあり、 こういった輸入盤店に通学途上に寄ることが気楽にできた、 というのは、環境としては良かったように思います。
1982年 (中学三年) から高校卒業するまでは、輸入盤新譜で買っていたのは、 主に12″シングルでした。 12″シングルはアルバムに収録されない曲が多かったですし、 アルバムは日本盤が出ればレンタルで借りれますし、 中古や安売セールで手に入る可能性も高かったからです。 ちなみに、最初にレコードを買い揃えようと決めたのは、 Depeche Mode / Yazoo と Joy Division / New Order で、 すぐに、Cocteau Twins が続きました。 翌1983年にはこれに The Smiths が加わり、 1984年には Everything But The Girl が加わって、初期の僕のレコード・コレクションの中心部分を形成していました。 ちなみに、こういったバンドの選択については、 UK の "indie chart" を参考にしたことが多かったために、 無意識にその上位をいつも占めているバンドを買いがちだった、 という面も大きかった、と、今では思っています。もちろん、それ以外も Rough Trade, Cherry Red, Mute, Factory, 4AD などの UK indie labels はもちろん、 もっとメジャーな英米の "New Wave" も好んで聴いていましたが、 レコードを買うのは余力があるときだけで、やはり、図書館やレンタルが頼りでした。
ラジオ番組としては NHK-FM の『サウンドストリート』は それなりに聴き続けていましたが、もはやエアチェックするほどでは無かったですね。 そんな中で影響を受けた番組といえば、 『Transmission Barricade』 (FM Tokyo, 土曜夜26時(?)〜) が挙げられるでしょうか。あまり周囲でこれを聴いていた人がいないのですが。 1983〜4年頃にあった第一回の放送から高校を卒業する頃まで、 ずっとエアチェックを続けていました。 僕の趣味に合ったものでは、 Crammed Discs や Les Disques Du Crepuscule の音源がよくかかった、 という印象があります。 Art Of Noise や Propaganda のような ZTT レーベルの音源が 繋ぎに使われがちだった印象も強いのですが、 繋ぎの定番の一曲に、Grandmaster Flash & The Furious Five, Adventure Of Grandmaster Flash On The Wheels Of Steel (Sugar Hill, SH-557, 1981, 12″) があったのが、とても懐かしいです。 歌ものは少なめで、ちょっと静か目の "New Wave" がよくかかる番組でした。 DJによる曲名紹介は全く無いノンストップで曲を繋げるというスタイルの放送で、 気になった曲を『FM fan』のような雑誌で調べるのも一苦労だったのを思い出します。 けれども、DJによるつまらないお喋りが入るよりは良いかな、とも思いましたが。 決め打ちしたミュージシャン以外のレコードを買う際は、 この番組を大いに参考にしていました。
音楽雑誌もろくに読まず、ラジオといってもこの程度だったわけですが、
そんな中学高校時代の音楽趣味に最も影響を与えた雑誌は、
ファッション雑誌の 『装苑』 でした。
特に自分から積極的に手を出したわけではなく、
1982年から西新宿の某服飾学校に通い出した経緯で姉が購読していたものを、
読んでいただけですが。(ちなみに、姉は特に積極的は音楽の趣味はなくて、
僕のレコードやテープを借りてばかりいました…。)
ファッション雑誌とはいえ、1980年代前半は月々の新譜紹介でも
Rough Trade の日本盤は全て紹介されてしまうような勢いだったのですが、
それよりも、ライターの名前は全く覚えてないのですが、
音楽コラムが印象に残っています。
なんせ、James Blood Ulmer や Rip Rig & Panic with Don Cherry の
1頁使った来日ライヴ評が載っていたりしましたから。
Ulmer の来日は Odyssey (Columbia, BFC38900, 1983, LP) で聴かれるような
変則トリオでだったわけですが、Rough Trade からのリリースということで、
James Blood Ulmer, Are You Grad To Be In America
(Rough Trade, ROUGH16, 1981, LP) の徳間 Japan からの日本盤を聴いてみて、
カッコいいけど予想外の音が詰まっていて、びっくりしたのが懐かしいです。
これとは違うライターの記事だったと思いますが、
「Grandmaster Flash と Linton Kwesi Johnson と Mark Stewart は
現代の都会の Arthur Rimbaud だ」みたいな趣旨の記事も印象に残っています。
3人の併置はよくわかるのですが、そこで Rimbaud を引き合いに出すなんて無茶な、
なんて、今から振り返れば思いますが。この記事に触発されて、
Linton Kwesi Johnson, Bass Culture (Island, ILPS9605, 1980, LP)
を日本盤で聴いて、これを契機に、British reggae にハマったのでした。
James Blood Ulmer にしても Linton Kwesi Johnson にしてもそうだったのですが。
気になったらすぐに学校の近くにあった日暮里図書館のレコード・ライブラリで
借りることができた、というのも、音楽趣味生活上、たいへん助かっていました。
リクエストするまでもなく、徳間 Japan からの Rough Trade の日本盤も
かなりが揃っていましたし、
一番最初に Cherry Red からの
ライセンス盤をリリースした
Trio-Kenwood の Modern Muzak Collection シリーズも揃ってました。
レコード・レンタルですら置いてあることが稀だっただけに、
無料でこういったレコードを片っ端から聴くことができたのは幸いでした。
そう、この Trio-Kenwood の Modern Muzak Collection というシリーズは、
当時は "Muzak" の意味も判っていませんでしたが、
今から思えばかなり無節操なラインナップでしたね。
Cherry Red からのライセンスといえば、
The Monochrome Set, Eligible Bachelors (Cherry Red, BRED34, 1982, LP) が
『カラフル・モノトーン』なんて凄い邦題とジャケットになって出たのは
衝撃的でしたが。その一方で、
Various Artists, Old Playfellows (Charry Red / Trio, AW-25053, 1983, LP)
という pre-Everything But The Girl の活動を捉えた日本企画の名編集盤もありましたし。
他に、Positive Noise のような Statik レーベルのレコードや、
Holger Czukay のレコードも
このシリーズからのリリースでした。さらに、
Everyman Band,
Without Warning
(ECM, ECM1290, 1984, LP) とか、
ECM 縁の Annette Peacock, Sky Skating (Ironic, 1982, LP) とかも、
確か、そのシリーズに混じっていましたから。このおかげで、
Pat Metheny や
Steve Reich
の ECM 音源の Trio からの日本盤に手を伸ばすこともできたのですが。
こういったレコードを借りに日暮里図書館に行くのは、
一人でではなく、同学年の友人とだったわけですが。
およそと同好者の集まりという感じではなかったですね。
一人はアメリカでのヒット曲を中心に追いかける洋楽ファンでしたし、
もう一人は「プログレ」や Frank Zappa を中心に追いかけていましたし。
それでも、気に入ったレコードとかを教え合うようなことはしていたので、
自分と違う趣味の人に自分の好きな音楽について説明する、
ということはよくしていたように思います。
他人に説明する、ということで思い出すのですが。
僕が通っていた中学高校一貫の私立だったこともあってか、
それなりにマニアックに洋楽を聴く層がいたように思います。
そして、1980年代初頭の頃だと、
サークルや委員会の2〜3年先輩のちょっとマニアックな洋楽ファンには
「プログレ」を好んで聴く人たちが多かったわけです。
そして、そういう先輩とも音楽の話をしたわけですが、
そのとき、"New Wave" の中でも pop な傾向を持つ音楽について、
「どうして、そんな音楽が良いのか」と、よく尋ねられたことを覚えています。
そして、そういう先輩に対して Go-Go's
(このバンドの意義を先輩に説いたことは、なぜかよく覚えているんです…。)
や Depeche Mode の意義を説く、というのは、当時の僕の最大の課題でした。
中学高校時代の僕にとって仮想論敵はこういった「プログレ」ファンでしたし、
そのときに意識するようになったのが punk による切断でした。
まだそれほど広く音楽を聴いていたわけではない当時の僕としては、
こういった、先輩や同級の音楽ファン友達とのやりとりの中で、
僕は、punk による切断を強く意識したのでした。
しかし、post-punk
という言葉を知るのは大学に入ってからですし、当時は、ロクな理論武装もできずに、
punk 前後の違いを感覚的に訴えていただけですが。
そういえば、僕は聴く方専門だったこともあって、
ロック・バンドをやっていた人たちとはあまり接点が無かったですね。
高校一年 (1983年) の修学旅行のときにそういう中の一人と偶然バスで隣になって、
聴いている音楽を尋ねられたので、ちょうどテープで持っていた
Orange Juice, Rip It Up (Polydor, 1982)
を聞かせたら、こんな線の細い音楽を聴いてないで、
もっと男らしいロックを聴けよ、みたいなことを言われたことが、
ちょっと印象に残っています。
今日のこの話の最後に、話はちょっと変わって、 増田論座 でも話題にちょっと出たテクノ・カットですが、 僕は今でも、モミアゲ無しの刈り上げです。 この髪型にしたのは、忘れもしない高校1年生の夏。 テクノ・カット、なんて言葉は知らなかったので、 Bernard Sumner (New Order) の写真のために『Fool's Mate』を買って、 それを持って「こういう感じの髪型にしてくれ」って、理容店に行きましたよ。 髪の質が違って硬いからこのようにはいかない、って嫌がられたのを思い出します。 そして、その髪型で学校に行ったら、むしろ不評だったのでした。 というのは、中学までは長髪が実質的に禁じられていたこともあり、 高校になって髪を伸ばしはじめていた人が多かったのでした。 そんな中で、刈り上げは「中学生じゃあるまいし」というわけだったのでした。
続きは、大学に進学した1986年くらいからの話でしょうか。 そろそろ、少しは、ネコアコ/ギタポに関係する話も出てくるでしょうか。うむ。
えっと「ジャズ事始」ですか。そんなに特別な遍歴があるわけではないんですけど。 話は平行した方が良いと思うので、まずは中学高校時代の話を。 実際のところ、この頃はたいして聴いていなかったのですが。
中学に進学 (1980年) して電車で通学するようになって、 通学途上に本を読むようになったのですが、 その時にまず手をつけたのが日本のSFだったのでした。 それも最初は短編やショートショートがメインだったのですが、僕がハマったのは 星 新一 ではなくて、筒井 康隆 だったのでした。 2〜3年もすると、筒井 自体には飽きてきたこともあり、 その界隈から 山下 洋輔 にハマったのでした。 といっても、音楽にではなく、エッセーに。 彼のエッセーで、Cecil Taylor, Sun Ra, Alex von Schlippenbach, Globe Unity, Willem Breuker, Anthony Braxton といった人たちの名前は 知ったのですが、いかんせん、図書館やレコード・レンタルでは こういったミュージシャンのレコードは見つからなかったわけです。 エッセーと関係ある 山下 洋輔 の1970年代のレコード (トリオ編成だったので、確か、Clay (Enja, 2052, 1974, LP) か Chiasma (MPS, 68.115, 1975, LP) の日本盤) を図書館で借りて聴いたけれども、さほど面白く思えなかったのも、 さらにエッセーに出てくるミュージシャンに聴き進もう気を殺いでいた ように思います。金銭的にも余裕があったわけではないですし。
むしろ、それに若干先行して聴いていた、 James Blood Ulmer, Are You Grad To Be In America? (Rough Trade, ROUGH16, 1981, LP) の方にシビレてましたね。 このアルバムが、実質、jazz 初体験だったわけですし。 で、ここから、なぜか Bill Laswell というか Material 界隈に聴き進んでいました。 The Lounge Lizards, The Lounge Lizards (Edition EG, EEG8, 1982, LP)、 The Golden Paraminos, The Golden Paraminos (Celluloid, CELL5002, 1983, LP) とか、 Herbie Hancock, Future Shock (Columbia, CK38814, 1983, LP) が好きでしたねー。 Herbie Hancock, "Rock It" などそのヴィデオ・クリップも秀逸で、大好きでした。 これらの日本盤は日暮里図書館に揃っていたのですが、 みんな、jazz / fusion ではなく rock / pop の棚にあったのが印象に残っています。 聴いている僕も、jazz というよりも、 rock における "New Wave" の jazz 界隈における対応物という意識が強かったです。 いや、こんなの jazz じゃない、と今でも思っている人は多そうですが。 ま、jazz であるかどうかは、当時もどうでも良かったです。
あとは、Trio-Kenwood の "Modern Muzak Collection" 経由で、 ECM レーベルに少し手を出していました。 日暮里図書館は jazz / fusion のコレクションは薄かったような印象があるのですが、 山下 洋輔 のエッセーにPAトラブルのエピソードで出てきた Pat Metheny が 図書館にあったので、そこから手を付けた覚えがあります。 特に、Pat Metheny / Lyle Mays, As Falls Wichita, So Falls Wichita Falls (ECM, ECM1190, 1980, LP) は気に入って、テープでよく聴いていました。
こんな感じでしょうか、僕の中学高校時代の jazz 体験は。
さて、音楽趣味事始の話の続きですが、大学へ進学した1986年くらいからの話を。
その前に、鍵となるその直前の状況から。Wed Aug 16 0:18:12 2000 に書いたように、
最初にレコードを買い揃えていたお気に入りの rock / pop バンドとして、
Depeche Mode, New Order,
Cocteau Twins, The Smiths,
Everything But The Girl
といったバンドがあったわけです。
しかし、Depeche Mode は
Blasphemous Rumours / Somebody (Mute, 12BONG7, 1984, 12″)
(アルバムだと Some Gread Reward (Mute, STUMM19, 1984, LP)) まで。
続いたシングル Shake The Disease (Mute, 12BONG8, 1985, 12″) が
好きになれずに、それ以降、彼らから遠ざかってしまいました。
Cocteau Twins も、
Pearly-Dewdrops' Drops (4AD, BAD405, 1984, 12″) で、
僕の中では終わっていました。
Everything But The Girl も、
Angel (Blanco Y Negro, NEG15T, 1985, 12″)
(アルバムだと Love Not Money (Blanco Y Negro, BYN3, 1985, LP)) で、
僕の中では終わっていました。
この頃はまだ The Smiths, New Order, Depeche Mode, Cocteau Twins が
四天王という感じで UK indie chart の上位5位くらいを常に押さえんばかりの
勢いだったわけですが。
The Smiths と New Order はまだ追いかけていましたが、
こういった最初に気に入ったバンドが軒並み、
そして、Rough Trade, Cherry Red, Factory, Mute, 4AD といった
レーベルのリリースも少なからず、僕にはつまらなく感じ出していたのが、
この1985〜6年頃だったのです。
そんなときに聴いてハマったアルバムが、
Various Artists, George Washington & The Cherry Tree
(Rough Trade / 徳間 Japan, 25RTL-3006, 1985)
でした。Rough Trade がライセンスしてリリースしていた
US indies のバンドを紹介する日本企画の編集盤
(Clear Cut は名乗っていないものの、その続きといえるもの) でした。
(Postpunk ML に投稿した、
1991年に書いた紹介記事
が発掘できたので、期間限定で公開。
ちなみに、当時、連載していた「USインディー講座」シリーズの4番目の記事です。)
それまでも、Talking Heads, Cars, B-52's, Devo, Go-Go's といったバンドを、
US の "New Wave" として好んで聴いてはいましたが、
レーベルはメジャーだし、UK indies の対応物ではない、と考えていました。
R.E.M. が US indies のバンドとして日本に紹介されはじめた頃でもあったのですが、
R.E.M. の音楽は好きでしたが、レーベルの I.R.S. は Go-Go's のレーベルでもあり、
その当時の僕からすると indies とは違うと思っていました。
そこで、この George Washington & The Cherry Tree を聴いて、
UK indies の US での対応物にやっと出会えた、と、思ったものでした。
特に、Violent Femmes には、
おおいにハマりました。
あと、この頃のこの界隈のアルバムというと
Rainy Day, Rainy Day (Rough Trade, ROUGH70, 1984, LP)
も今でもよく聴く大好きな一枚です
(と、George Washington & The Cherry Tree のものと一緒に
紹介記事が発掘されたので、ついでに紹介)。
音楽の趣味については、こんな状態で大学進学したわけです。
大学に進学するとアルバイト収入もあって、
中学高校時代に比べれば格段に金回りは良くなったわけです。
教養時代 (1986-1987) は時間にも余裕がありましたし、
キャンパスから渋谷から余裕で歩ける距離ということもあって、
渋谷でのレコード掘りに多くの時間を割くようになりました。
といっても、UK indies からの新譜が面白く思えなくなってきた頃ということもあり、
特に大学一年生 (1986) の頃は、新譜をどんどん買うというよりも、
中学高校時代に図書館などで借りて気に入っていたり、
FM番組『Transmission Barricade』で聴いて気になっていたレコードを、
中古盤で安く発掘することに精を出していたものでした。
あとは、中学高校時代は手薄だった US indies の補完作業。
高校3年生くらいから毎号買うようになっていた
情報誌 『シティー・ロード』 の輸入盤紹介の頁と、
青山骨董通りにあったレコード店 Pied Piper House
(その当時、CISCO は UK indies に比べ US indies の揃いは貧弱でした。)
が、最初の主な情報源でした。
George Washington & The Cherry Tree 界隈はもちろん、
Sonic Youth, Minutemen, Husker Du など、
Slash, SST, Twin/Tone, DB Recs といったレーベル界隈のバンドから
聴き進んでいきました。
しかし、大学時代に影響を最も受けた (そして、今に至るまで影響を受けている)
のは、大学一年 (1986年) の夏休みに
散策途中に涼みに入った都立中央図書館で偶然手にした本、
グリール・マーカス 『ロックの「新しい波」』
(晶文社, ISBN4-7949-5061-6, 1984;
Greil Marcus,
Real Life Rock)
でした。この本を読んで、
僕の好きな音楽について語る言葉がちゃんとあるのだと、気づきました。
特に、「プログレ」ファンを仮想論的に punk の切断を意識させられていただけに、
「ポストパンク (post-punk)」という言葉は、
まさに、我が意を得たり、という感じでした。
今まで音楽雑誌など読む習慣が無かったわけですが、この本を契機に、
Greil Marcus の翻訳の連載を読むために
『ミュージック・マガジン』 を読むようになったのも大きな変化でした。
最初はそこだけ立ち読みしてましたが、
1987年2月号から毎号買って読むようになりました
(これは1990年代半ばまで続きました)。
Greil Marcus の記事が主目的とはいえ、買えば他の記事も読みますから。
rock / pop の記事はもちろんそれなりに読みましたが、
むしろ jazz と world music についてキャッチアップするのに重宝しました。
その 『ミュージック・マガジン』 を読み出したばかりの1987年5月号に、
「英国インディーズの栄枯盛衰」という特集記事 (pp.22--) が掲載されたわけですが、
この記事で述べられていた The Cartel 体制の危機の話は、
Rough Trade, Cherry Red, Factory, Mute, 4AD といった1980年代初頭に出てきた
UK indies に幻滅しかけていた僕にとっては、さもありなん、という内容で、
その意を強くしたのを思い出します。
そう、Rough Trade 在籍のバンドの新譜は確かに面白くなくなってきていたのですが、
US indies からライセンス盤に面白い作品が多くなっていて、
Rough Trade がライセンスを受けてリリースしているアルバムは安心して買える、
と思っていたくらいでした。
例えば、Camper Van Beethoven には
おおいにハマりましたし、それに
Beat Happening, Beat Happening
(K
/ Rough Trade, ROUGH105, 1985/1986, LP) 。
Beat Happening は、『ミュージック・マガジン』1988年6月号
(オリジナルは、Village Voice 1998/3/29号) に掲載された
Greil Marcus の "Real Life Rock Top 10" の 3位 で
Jamboree (K
/ 53rd & 3rd, AGAS2, 1998, LP)
が取り上げられているのをみて、2枚をほぼ同時に買いました。
US indies ではなく UK indies ですが、
このコラムで知ってハマったバンドに Talulah Gosh がありました。
(ちなみに、『ミュージック・マガジン』1988年2月号に掲載された
"Greil Real Life Rock Top 10 (Dec. 1987)" の9位が、
Talulah Gosh, Talulah Gosh (53rd & 3rd, AGARR8T, 1987, 12″) でした。)
そして、Sonic Youth や The Pastels という古参もいましたが、
Camper Van Beethoven, Beat Happening, Talulah Gosh,
The Vaselines, Shop Assistants, Loop といったバンドが顔を揃えた
Various Artists, Good Feeling Vol.1 (53rd & 3rd, AGAS3, 1988, LP)
に、次世代の UK/US indies の登場を強く感じたものでした。
これと話しが若干前後しますが、1987年に、 1980年代後半を特徴付けることになった UK indies の guitar pop のショーケース Various Artists, NME C86 (Rough Trade, ROUGH100, 1986, LP) にも出会っていました。 今でこそ伝説的なアルバムですが、その当時は このアルバムは輸入盤店で特にプッシュされていなかったですし、 収録されていたのも当時はあまり知られていないレーベルの知らないバンドばかり。 Rough Trade からリリースされた編集盤でしたし、 なんせ、その100タイトル目のアルバムだったこともあって、 ちょっと躊躇しつつ買ったのを思いだします。しかし、これにはハマりましたね。 UK indies がつまらなくなっていたのは、Rough Trade やら Factory やらの 大手だけに過ぎなかったんだ、と、このレコードを聴いて思いました。 その中でも、特に気にいったのは、 McCarthy, The Wedding Present, Close Lobsters, Stump といったバンドでした。 そして、この編集盤には収録はされていなかったけれど、Talulah Gosh。 こんな感じで1987年後半くらいから、 この手の UK indies の guitar pop のレコードを買い漁るようになったのでした。
と、今晩も遅くなってしまったので、今日はこのくらいにしておきたいと思います。
というわけで、音楽趣味事始の話の続きですが。 Fri Aug 18 0:47:49 2000 に書いた1985〜88年頃の話の続きです。 ここでは、話の流れの都合上、dance-oriented ではない guitar band 形式の UK/USインディーズの rock / pop に焦点を絞って話をすすめます。
1987年後半くらいから、 Talulah Gosh, McCarthy, The Wedding Present, Close Lobsters といった guitar pop と呼ばれるようになったバンドを よく聴くようになったわけですが (関係するレヴュー 1, 2)。 しかし、Various Artists, NME C86 (Rough Trade, ROUGH100, 1986, LP) の前後で劇的にインディーズを巡る状況が変わったというわけでは無かったと思います。 むしろ、1990年頃までにずるずると地図が塗り替えられていたという感じでした。
音に関して言えば、例えば、Talulah Gosh や Close Lobsters の制作を手がけていた
John A. Rivers は1970年代末から Swell Maps や Felt、それに、いわゆる
Eyeless In Gaza 一派 (レヴュー) を手がけていた人だし、
当時の僕はむしろその連続性を音に感じて聴いていました。
パンク以降の英米インディーズの rock/pops の持っていた音楽の多様性から見ると、
確かに、時代ごとの流行によるスタイルの変化はありますが、
guitar pop 界隈の音作り歌作りは比較的保守的で、変化に乏しかったと思っています。
1986年前後の切断に関していえば、
例えば、Morrissey (The Smiths), Tracey Thorn (Everything But The Girl),
Roddy Frame (Aztec Camera) といった1980年代前半に歌手は、
1980年代後半以降の guitar pop に比べて
SSW (singer song writer) 的なキャラクターが強いように思いますが、
同時代の彼らのようには売れなかったバンドまで視野に入れると、
むしろ、売られ方の問題ではないか、と僕は思っています。
そして、音楽的な形式の問題というよりも、売られ方の問題、
というのがどういうことなのか、が、
今回、話をしようと思っていることです。
そう、1980年代後半というのは、パンク以降に成立した英米のインディーズが
初めて肥大化の危機に直面し (そのまま危機が常態化し) た時であり、
それを背景に、インディーズのレコードの売リ方が変わった時代だったと思います。
そして、1980年代後半の guitar pop の登場は
その変化に直結していたと思っています。
独立系レーベル (インディーズ) が成功して大きくなり、
メジャーに吸収されたりしてその独立系レーベルとしての役割を終える、というのは、
例を挙げるまでもなくよくある話なわけですが、
1980年代後半になると、パンク以降に成立した独立系レーベル、
いわゆるインディーズにも、その問題が生じ始めていたわけです。
当時のUKインディーズの売れ筋バンド
The Smiths, New Order, Depeche Mode, Cocteau Twins などは、
何万単位の初回ブレスをこなす必要があるほどのレコード売上になっていましたが、
そういうレコードの売り方をするのに必要な資金がインディーズには無いわけです。
それ以前であれば、こういう状態になったところで、バンドはメジャーに移籍したり、
レーベルごとメジャーに吸収されたりすることによって解決されたわけですが。
1980年代前半というのは、インディーズであることに
市場戦略的な意味付けがなされた時代でもあり、
そう単純なメジャーへの移行にはなりませんでした。
Rough Trade の Goeff Travis と Cherry Red の Mike Always が
メジャー WEA の資本、配給網を得て1984年に設立した
Blanco Y Negro というのはその危機に対処する最初の試みの一つだったと思いますし、
これに倣って1986年頃に Creation の Alan McGee は Elevation を設立しています。
(こちらは短命でしたが。)
これほどあからさまではないですが、The Smiths や New Order は、
独立系レーベルに在籍したまま、配給、プロモーションなどで
メジャーを利用するようになっていました。
その一方で、大量に売りさばく過程で資金が短絡して倒産するレーベル/配給会社
(1989年の Red Rhino とか) も出てきました。
Rough Trade や Red Rhino などを中心に1980年代に確立した
UKインディーズの配給網 The Cartel も危機の噂が絶えませんでした。
(ここらの経緯は、「英国インディーズの栄枯盛衰」
(『ミュージック・マガジン』 1987年5月号 pp.22--) に詳しいです。)
そして、USインディーズも似たような状況だったわけです。
NME C86 以降に英米から出てきた guitar pop を演奏する guitar band や、 彼らが拠点にしたレーベルは、こういった肥大化して身動きが取れなくなってきた 1980年前後に成立したインディーズの隙間から出てきたものだったと思います。 その売り方は、大手インディーズのようなメジャー紛いの売り方をせずに、 7″シングルによる小規模リリースを基本としたものでした。 どんな独立系レーベルも立ち上がり時期はこういう小規模リリースから始まるもので、 NME C86 直後の guitar pop の小規模なインディーズも、 当初はそういったレーベルに過ぎなかったのかもしれないですが、 1980年代半ばからのインディーズの混乱の中で その混乱の影響を受けない運営方法として注目されるようになり、 以後、それが常態化するようになったわけです。 そして、この7″シングル中心のリリースのやり方は、 1990年前後には、特にUSインディーズを中心に、 あらかじめ会費を徴収し、毎月リリースされる7″シングルを会員に届ける、 いわゆる シングルズ・クラブ というシステムとして確立されました。 例えば、1988年に始まった Sub Pop singles club など、その当時は特に有名だったと思います。 ま、お気に入りのレーベルに予めまとまった送金をして新譜が出たら送ってもらう、 という買い方が可能な小規模な独立系レーベルは、それ以前からありましたから、 それを明示的にシステム化したものとして見なせると思います。 1992年に Rough Trade が倒産し再出発したときも singles club から始まりました。 この頃になると、もはや中堅〜大手と目されるインディーズですら singles club を運営するようになってきていたと思います。
NME C86 以降の guitar pop と、それを演奏する guitar band は、
シングルズ・クラブに象徴されるような7″シングル中心のリリースの仕方と、
密接な関係にあったと思います。
シングルズ・クラブからリリースされる音のほとんどは、
足し引きはあるものの vocals/guitar/bass/drums を基本編成とするような
rock のイデオムを残した音楽性を持つバンド、guitar band のものでした。
ほとんどの guitar band と目されるバンドが
シングルズ・クラブにも関わっていました。
シングルズ・クラブが guitar pop の拠点だったわけです。
そして、7″シングルの場合、レコーディングのクレジットも省略されがちですし、
ミュージシャンの写真をジャケットや内袋に載せることも稀だったため、
1980年代前半のミュージシャンに比べて、ぐっと匿名性が増したように思います。
これは、メジャー的なプロモーションの省略とも関係あったとは思いますが。
punk 以前の rock の持っていたミュージシャンの作家性を付加しない売り方が、
音楽の形式的には rock のイデオムを踏襲しているにもかかわらず、
rock ではなく guitar pop と、rock band ではなく guitar band と呼ばれることが多い所以だと、僕は思っています。
逆に言えば、有名になって匿名性が薄れれば、同じような音楽をやっていても、
alternative rock と呼ばれた所以でもあると思っています。
(例えば、Nirvana は guitar pop か alternative rock か
という問題に関わる話ですが。)
ここで注意して欲しいのは、1990年前後の英米インディーズにおける
シングルズ・クラブに象徴されるような7″シングル中心のやり方は
guitar pop と密接な関係があったわけですが、こういうことが起きたのは、
あくまで rock のイデオムを残した音楽を演奏するバンド界隈に限ってのことです。
そもそも、dance-oriented なバンドはシングル中心のリリースが当然だったわけです。
そういう意味でも、シングルズ・クラブというやり方自体、
逆説的に、きわめて rock 的な文脈での現象だったのだと、僕は思っています。
ちなみに、ここで、guitar pop, guitar band という言葉を用いましたが、
これは英米の音楽雑誌でも見かける呼称だったと思います。
ニュアンスまで日本の「ギタポ」と共通するかは、判断しかねますが、
日本のように「1986年以降」というニュアンスはさほどなく、
もっとニュートラルな表現にも用いられているように思いますが。
例えば、Barry Lazell (comp.), Indie Hits 1980-1989:
The Complete U.K. Independent Charts (Singles & Albums)
でも、バンドのフォーマットや音楽性を記述する言葉として、散見されます。
1988年から1992年にかけて、僕はこの7″シングル中心にリリースされる
guitar pop をかなり楽しんで聴いていました。
音楽的に斬新だった、というよりも、その時の勢いに乗って出てきた、
という感もありましたが、そういう勢いも pop な魅力に繋がっていたように思います。
しかし、1992年頃から、聴いていてもぐっとつまらなくなってしまいました。
Beat Happening や Talulah Gosh, The Wedding Present といったバンドも
旬を過ぎた感じもありましたし、
新たに出てくるバンドなど彼らの二番煎じ三番煎じのような音が多かったですし。
シングルズ・クラブも、Sub Pop のものが注目され始めた1990年頃には
まだそのシステムに可能性を感じていましたが、
その頃には陳腐化してしまった、という感がありました。
そもそも、1986年以降の7″シングル中心のリリースによって、
英米の rock/pop のインディーズはその「危機」を脱出したのか、というと、
そんなことは全くなくて、ある意味で危機が常態化しただけだったと思います。
成功するミュージシャンやレーベルがある限り避け難いものだとも僕は思いますが。
メジャーがミュージシャンと直接契約したりレーベルを買収するというのではなく、
ミュージシャンやレーベルを市場価値のある「インディーズ」としたまま、
間接的に配給網をメジャーが押えるという形が、
1990年代初頭までに確立されたわけです
(参考に、1993年に僕が fj.rec.music に書いた記事)。
実際に、「インディーズ」というラベルを生かしたまま、
メジャー同様に売られている典型的なバンドとして、Smashing Pumpkins が
よく当時の英米の音楽雑誌に挙げられていました。
(このあたりの話は、Tower Records の
月刊誌 Pulse! が1990年前後当時年一回特集していた "Lone Wolves" という
独立系レーベル特集の記事がとても詳しかったのですが、
残念ながら僕の手元にはその記事が残っていません。)
シングルズ・クラブと共に登場したレーベル Sub Pop が
そのシングルズ・クラブというシステムを止めた1993年の翌年に、
Sub Pop レーベルが育て成功したバンド Nirvana が、
歌手の自殺という極めて rock 的な伝説を残す形で結末を迎えた、
というのは、1986年以降のここで述べてきたような動きの終りを感じさせるのに
充分な出来事だったと、僕は思っています。
実際、僕はこの年を境に、聴く音楽を、free jazz / improv や
reggae や techno 〜 breakbeats 物寄りに大きく重心を移したわけです。
post-NME C86 に連なり1990年代初頭に終わる動きというのは、
結局のところ、1980年代に rock/pop の文脈で「インディーズ」という言葉に
付加された特別な意味合いを取り除くために必要な過程だったのだろうか、
と、これを書いていて、僕は思うところがあります。
実際、1992〜4年から入れ替るように隆盛した post-rock の文脈では、
並行した techno 〜 breakbeats の文脈と同様、
そのバンドやレーベルが「インディーズ」であるかどうかは
重要でなくなったように思います。
実際、もはや、インディーズの「危機」など、語られもしなくなっていますし。
最後に、これを書くにあたって僕が念頭に入れていた、1994年当時に僕が postpunk ML に書いた 一連の記事を。 まだ用語の選び方も話の進め方も洗練されていないし、 若気の至りだったと思うような点も少なからずあるので、 公開するのもためらわれたのですが、 少しは自分の恥ずかしい過去も晒した方が良いかしらん、と。 当時の僕は、7″シングル中心のやり方やそこから出てくる guitar pop に もやは幻滅していて、それに執着する友人にいらいらしていました。 その現れが、この一連の記事です。 ある意味で、自分にとっての guitar pop に対する 決別の言葉だったのだとも思っています。
あと、これを書くにあたって、 omo*8 の ネオアコ や ギタポ に 関する話をちょっと意識しています。僕なりのレスポンスのつもりです。 どうも「ネオアコ」なり「ギタポ」という言葉を定義するというアプローチ自体が いささか不適切だとも僕は感じているので、 ちゃんと対応するような形では書きませんでしたが。
少し前のアクセス急増の影響が消えきらないうちに、 また、アクセスが増えているなー、と思ったら、 マスダさんの 日記から。 流れて来ている読者層がちょっと恐いですが。 いい加減なことが書けなくなったよーな気が…。
というわけで、Mon Aug 28 2:28:17 2000 で書いた話の
フォローアップを少ししておきます。
「英国インディーズの栄枯盛衰」 (『ミュージック・マガジン』 1987年5月号 pp.22--)
は、僕がパンク以降のインディーズについて考えるきっかけとなった記事でしたが、
『ミュージック・マガジン』には、
1990年前後のシングルズ・クラブの動向を伝える記事もあったと思います。
「”やかましいロック”の新興勢力、サブ・ポップ・レーベルとその周辺」
(『ミュージック・マガジン』 1991年7月号 pp.120--)
は、Nirvana など後に grunge 〜 alternative rock と呼ばれるような音楽を紹介する
記事だったと思うのですが、
その中でシングルズ・クラブの話も出てきていたように思います。
残念ながら、『ミュージック・マガジン』はバックナンバーを譲ってしまったために、
今はもう記事内容が参照できない状態なのですが。
ここで書いたような英米インディーズの業界的な話は、その当時、
USの Tower Records が出していた
月刊誌 Pulse!
を主な情報源にしていたのですが。
特に、1990年前後に年に一回のペースで組まれていた独立系レーベルの特集
"Lone Wolves" は、とても参考になりました。
これも、今年5月の転居の際に処分してしまったのが、ちょっと悔やまれます…。
1990年前後の特に米国のインディーズについて語る際の基礎的な資料として、
使えるものではないか、と思います。
僕は、この一連の Pulse! の独立系レーベルに関する記事のおかげで、
indie chart などのおかげでオーラがかっていたパンク以降の「インディーズ」も、
一皮剥けば単にメジャー配給を受けていないレーベルに過ぎない、
ということを実感することができたように思っています。
本当は、せめてこういった資料に再度当たりながら丁寧に書きたいと思ったのですが、
手元から失われており、再度入手もかなり大変だと思われるので、
こうして記憶に頼って書くことになってしまいました。
そういう点で、事実誤認や思い込み違いも多いだろうなぁ、と思っています。
というわけで、事実誤認の点についてのコメントも歓迎します。
ところで、Nirvana ですが、 僕自身はそれほど Nirvana が好きだったわけではありません。 1st アルバム Bleach (Sub Pop, SP34B, 1989, CD) は Greil Marcus' Real Life Rock に取り上げられたので買ったのですが、 それほど気に入ったわけではありませんでした。 だから、続くメジャー・デビュー作 Nevermind (Geffin, DGCD-24425, 1991, CD) も中古落ちを買った程度。他のアルバムやシングルも持っていないです。 そういう点では、Kurt Cobain の自殺よりも、 Sub Pop がシングルズ・クラブを止めた、 ということの方が、感慨深かったですね。 もし、Cobain が死んでいなくても、終わったと感じていたのは確かだと思います。 ただ、実はこの一連の記事の 最後の記事を書いた1994/4/5に Cobain は自殺したんですよ。 postpunk ML への投稿でそれを知ったのは それからしばらく経ってからだったわけですが。 こういうことを考えた直後の出来事だったので、 その出来事にシングルズ・クラブのような7″シングル主体のシーンの終焉が 僕の中で強く結び付けられて記憶に残っている、ということはあると思います。
そもそも1994年に劇的にシーンが変わったというよりも、 個人的には、1992年くらいから閉塞感を感じ初めていて、 1994年頭にはもはやそれが確信的になっていたという感じでしょうか。 例えば、1980年代後半の人気バンド The Wedding Present は 1990年代に入ってメジャー RCA と契約したわけですが、 彼らは1992年に毎月1枚7″シングルをリリースするという シングルズ・クラブのようなことをやって、これが、かなりヒットしたわけです。 確かに、ポップさという点でも、メジャーに移ってからの2枚のアルバム (Bizzaro (RCA, 1989) と Seamonsters (1991)) より良かったと思いますし、 当時も賛否両論だったと思いますが、「インディーズ魂」を取り戻した というような見方もあったように思います。 ただ、もはや7″シングル中心のリリースは「インディーズ」ならではのやり方ではなく すでにメジャーにとっても充分にペイするやり方になった、 ということを実感するに充分な出来事だったと思います。
シングルズ・クラブのようなやり方ではなく、 音に関して変化を実感したものとしては、 1992年にリリースが本格化した Too Pure レーベルがあります。 (というわけで、発掘した1992年当時のレヴューを 期間限定で公開。レヴューしている音盤へのコメントより、それを引き合いにしての UKインディーズとギターポップへの毒つき具合が、今読んでいて笑えます。) P J Harvey, Dry (Too Pure, CDD010, 1992, CD) の方が、 確かに、瞬間的なインパクトがありましたが、 1980年代後半の guitar pop バンド McCarthy が解散してTim Gane が結成した Stereolab の方が、 ボディブローのように効きましたね。 Stereolab は Switched On (Too Pure / Virgin France, 31002, 1992, CD) が最初に買ったアルバム (というか最初期の編集盤) だったのだけど、 McCarthy と全然音が変わってしまっていて、 McCarthy が大好きだっただけに、 「えー、もう McCarthy のような音楽はやらないんだー。」と、 当初はかなりショックだったのが印象に残っています。 しかし、いいかげんUKインディーズから出てくるギターポップに食傷してたので、 それよりは遥かにマシとは思いましたし、それ以降の展開に期待もしましたが。 (そして、その期待を裏切らなかったのはこの通り。 あ、ここで、1992年当時の噂を確認せずに、 「Too Pure のオーナーは ivo」と書いてますが、これは 正確ではないですね。) といっても、まだ、 政治的な歌詞にイージーリスニングな演奏、みたいな コンセプトも音楽的に充分は固まっていなかったですし。 そういう点では、Th' Faith Healers, Stereolab, P J Harvey を収録した、 Various Artists, Too Pure - The Peel Sessions (Strange Fruit, SFRCD119, 1992, CD) も転換点となった一枚だったように思いますし、それ以降の Too Pure がリリースする音楽は、 Seefeel, Pure, Impure (Too Pure, PURECD25, 1993, CD) にしても、典型的な guitar pop とは一線を画しはじめていたと思います。 こういう経験が、post-rock のレーベルというと、 最初に Too Pure を思い浮かべてしまう理由にもなっていると思います。
って、Mon Aug 28 2:28:17 2000 の話は、個人的な音楽遍歴というより、 当時の英米インディーズを巡る状況の分析みたいな話になってしまいましたが、 せっかく気楽な談話室ですから、個人的な音楽遍歴っぽい話を補足、ということで。
第三次ロックンロールとかパンク・リバイバルとか マスのレベルでは言われていたかもしれないけれども、 音楽ファンに真面目に受け取られるようなレベルの話ではなかったように思います。 確かに、音楽業界のありかた、というのは、その当時もよく語られていたけど、 Nirvana の登場がそのきっかけになったというより、 むしろ、そういうのが重要なものとして語られていた時期の 最末期に Nirvana がいたという感じですよね。
パンク以降の音楽業界のありかたを象徴するUSのメディアといえば、 CMJ (College Media Journal) だと思いますが、これが創刊されたは、確か1980年かその前後、 パンク以降のUSにおけるインディーズ、カレッジラジオといったものの インディーズ・イデオロギーを支えるような存在だったと思います。 このパンク以降のインディーズ・イデオロギー (実践はまた別の問題) は、 音楽表現における前衛主義、実験主義というよりも、 反商業主義とか DIY (Do It Yourself) 主義とかを強調するものだと思います。 そしてそれは、1970年代のロックのイデオロギーの中にあった一部が、 脱パンク期にインディーチャートや CMJ のようなものを通して、かなり戦略的に構築されたものだとも思います。 R.E.M. が全米でヒットするようになった1980年代半ばくらいから R.E.M. のヒットを支えるメディアとしてのカレッジラジオや、 それを束ねる存在としての CMJ が注目され始めて、 1980年代後半にはそれなりの影響力を持つようになったと思います。 レーベルをインディーズとして運営すること、そういうレーベルに在籍することは 反商業主義や DIY (Do It Yourself) 主義の証であり、 それが実験的、前衛的であることの条件であり、 それは良いことであり重視されるべきである、とでもいうイデオロギーが 英米のロックである程度の影響力を持つようになっていったと思います。 その一方で、インディーズがメジャーでの流行の先駆けを担うようになり、 そしてインディーズであることが商品価値を持つようにまでなったのが、 1980年代だったと思います。 「インディーズのネットワークがメジャー中心の音楽産業を根本的に変える。」 なんていう話も真剣に語られていたりしましたし。 (UKではそれが、インディーチャートなどを 通して確立されたわけですが。) 『ミュージック・マガジン』誌1990年10月号に、1980年代を総括するように 「CMJの果たした役割」という特集が組まれているわけですが、 その中の3つの記事のタイトルは、 北中 正和 「大手への対抗意識から生まれ、業界のアンテナ役へ」、 大鷹 俊一 「先鋭的な動きを捉え、新しい価値観を生み出す」、 田口 史人 「日本にも生まれてほしい、本当のカレッジ・チャート」です。 (本文は手元に無いので、中身に踏み込んで話はできませんが、 そのときの雰囲気は掴めるのではないかと思います。)
反商業主義、DIY主義に傾斜したインディーズ・イデオロギーにおいては、 インディーズがメジャーに買収されたり、 インディーズ在籍のミュージシャンがメジャーと契約することが、 ポピュラリティの獲得の成功として肯定的に見なされるのではなく、 「インディーズ精神の放棄」「メジャーへ魂を売った」と 否定的に見なされるようになったわけです。 もちろん、「メジャーの食い物にされた」とか 「メジャーによるインディーズの青田買い」とか そういうクリシェな言い回しもありましたね。 「メジャーに移籍してもインディーズ魂は捨てていない」とかいうのもあって、 実際にインディーズであるかということと、 インディーズ的であることとは、微妙な差異があったとも思いますが。 最初に僕がそういったことを意識したのは、USではなくUKでの話ですが、 Aztec Camera が Rough Trade から WEA に移籍したり Rough Trade の Geoff Travis らが WEA と Blanco Y Negro を設立し始めた頃。 ただ、その当時は僕もインディー・チャートを追いかけていたくらいで、 「Aztec Camera はメジャーへ魂を売った」とか、 「Blanco Y Negro は Geoff Travis がらみなのでインディーズ魂は捨てていない」 とか思いましたよ。けど、その後、成功してもメジャーに移籍なかったバンドで、 僕にとってはダメになるバンド (例えば Depeche Mode や Cocteau Twins) を 目の当たりにしはじめて、そういう問題ではないらしいと思いはじめました。 そんなときに、「英国インディーズの栄枯盛衰」 (『ミュージック・マガジン』 1987年5月号 pp.22--) を読んでさもありなん、と思ったわけです。 (Mon Aug 28 2:28:17 2000 の発言に書いたように。) といっても、そのときに一気にインディーズ・イデオロギーに 幻滅したわけでもないのですが。
それ以降、インディーズで成功するミュージシャンやレーベルが登場する度 (例えば、R.E.M. が I.R.S. から Warner Bros. に移籍する1988年前後。) に、 「インディーズ精神」や「インディーズのありかた」が問題になりましたし、 「インディーズの危機」は事ある度に浮上するようになったと思います。 年一回開催される CMJ のシンポジウムの様子を伝える雑誌記事とか読んでいても、 そういう話ばかり目についたように思いますし。 Nirvana がヒットして grunge が注目された際にメディアに出てきた 音楽業界のありかたのような話も、 少なくとも、僕にとっては、1980年代半ばから インディーズで成功するバンドやレーベルが出てくる度に繰り返される 「インディーズのありかた」「インディーズの危機」話の一つに過ぎないと思います。 そして、おそらく、そういうことがロック/ポップにおける主要な話題となった、 最後の時だったように思いますが。 grunge にしても、メジャーが一からでっち上げたわけではなく、当初は、 Sub Pop single club で人気のあった Nirvana をメジャーが拾い上げたら 全米規模でブレイクしてしまった、 ということから始まったという印象を僕は持っています。 確かにブレイクしてからは、メジャー、インディーズを問わず、 あやかろうという茶番劇と思うような話もありましたが、 それは、もはやロックに限らず、ブームになるような音楽にありがちな話で、 この話の文脈とは関係ないレベルの話だと思います。
Nirvana がメジャーになった1992〜4年というのは、 反商業主義的、DIY主義に傾斜したパンク以降のインディーズ・イデオロギーが、 インディーズであることが商品価値を持つようになってしまう状況に対して ほとんど無効になってしまった時だったんだと思います。 確かに、Nirvana はメジャー移籍はしましたが、 イデオロギー的にはインディーズでしたし。 例えば、僕の持っている Nevermind (Geffin, 1991) は メジャー移籍後ながら、Sub Pop 印を付けられています。 All Music Guide の Nirvana の解説でも "While its sound was equal parts Black Sabbath (as learned by fellow Washington underground rockers, the Melvins) and Cheap Trick, Nirvana's aesthetics were strictly indie-rock." とか、 "While Nirvana's ideology was indie-rock and their melodies were pop, the sonic rush of their records and live shows merged the post-industrial white noise with heavy metal grind." とか書かれていますね。 彼らの大成功とその終焉は、インディーズ的であることが商品価値を持つ状況と、 それに伴うパンク以降のインディーズ・イデオロギーの終焉を 具現していたように、僕には感じていました。 もちろん、アンダーグラウンドのレベルでも、 インディーズのDIY主義の象徴だった7″シングル中心のリリースすら 陳腐化してメジャーすら真似るようになるという状況が進行していたわけですが。
さて、Stereolab の方ですが、 インディーズやそれに近い音楽業界のイデオロギー的な風潮が 反商業主義的、DIY主義から前衛主義、実験主義へと反転した その時流に乗ったという感もあったので、 1980年代初頭の post-punk のこともありますし、 ポピュラリティを獲得したことに違和感はないですね。 ただ、1996年くらいにはその流れも終わったと感じています。 それは、今年の頭に書いた 1990年代の音楽趣味生活を振り返っての発言の通りです。 Stereolab も Emperor Tomato Ketchup (Duophonic UHF Disks, D-UHF-CD11, 1996, CD) でそのスタイルを完成させた後は、いまいちだと思っています。 (関係するレヴュー1, 2, 3) 1997年に post-rock を総括することができたのも、 シーン展開が一段落したからだと思っていますし。
今年の頭に書いた 1990年代の音楽趣味生活を振り返っての発言は、 1994年まで話を進めた僕の音楽趣味遍歴の話に繋がるものになっていて、 改めて1994年以降の話は書くまでもないかな、と、思っています。 その一方で、1986〜94年の間 guitar pop ばかり聴いていたわけではないので、 この間の guitar pop 以外の話もちょっとしたいなー、とは思っています。 ま、guitar pop 界隈の話が一段落した頃に、ちょっと話したいと思っています。
さて、一時的なアクセス増も過ぎ去って、だいぶ落ち着いてきた (正確に言うと、それ以前の半分程度とアクセス数は大幅減。うむー。) ので、 そろそろ、ひっそりと音楽趣味事始の話の続きでも続けようかと。 一ヶ月程間が開いてしまい、今までした話はすっかり消えてしまったので、 自分の発言の抜粋を一時的に掲載。 さて、guitar pop 以外の話ということで、話は、1980年代前半まで遡ります。
1980年代初頭というと、まだ electro pop 全盛とも言える頃だったわけですが。 そんな中で、かなり衝撃的だったのが、Yazoo, Upstairs At Eric's (Mute, STUMM7, 1981, LP) でした。 それまでの electric pop (synth pop) におけるシンセサイザーの使われ方というと John Foxx (Ultravox), Gary Numan, Orchestral Manoeuvres In The Dark など典型的だと思うのですが (これらも嫌いじゃありませんよ。)、 旋律重視でリードギターの代わりにシンセサイザーを使うようであり、 チープなりに音を重ねていくのが特徴だったわけですが、 それとは対称的に、旋律部はスカスカにして リズムの骨格をがっちり組み上げるような音作りが好きでした。 1982年頃からレコードを買い揃え始めた Depeche Mode や New Order にしても、それ以前の electro pop と音作りが違う、というのがポイントでした。 というか、electro pop (synth pop) の文脈というよりも、 1980年前後の脱パンク期に funk のリズムを導入したバンドが electro 化しはじめた (例えば、Gang Of Four の Song Of The Free (1982) や Hard (1983) (レヴュー)、 Shriekback (Dave Allen (ex-Gang Of Four) のバンド)。 US であれば、Talking Heads のサイドプロジェクト Tom Tom Club。) というのと近い文脈で、捉えていました。
hip hop については rap や grafitti、breakdance を含む都市文化として、 それなりに聞きかじっていましたが、音としてはっきり意識したのは、 Harbie Hancock, "Rockit!" (Future Shock (CBS, 1983) 所収) のヒットや、 Malcolm McLaren, Duck Rock (Charisma, 1983) が出てきたあたりからでしょうか。 Francois Kervorkian (Yazoo, "Situation" (1982) や The Smiths, "This Charming Man" (1983) のリミックス。) や、 New Order と共同制作しはじめた Arthur Baker などの、 鍵となるDJもいましたし、 英米の Post-Punk に聴かれるダンスビートのルーツ (というほど、実際は単純じゃないですが) として、 hip hop やその界隈の DJ を意識するようになったように思います。 といっても、その当時は funk と hip hop の違いなどよくわからず、 USの黒人のアンダーグラウンドのダンス音楽という程度の理解でしたが。 当時は Talking Heads から遡って P-Funk とか聴いてみようとは思わなかったですし。 hip hop について言っても、 「Grandmaster Flash と Linton Kwesi Johnson と Mark Stewart は 現代の都会の Arthur Rimbaud だ」みたいな趣旨の雑誌記事を読んで Grandmaster Flash & The Furious Five を聴いてみて カッコいいと思ってはいましたが、さらに探求しようとはあまり思いませんでした。
reggae / dub については、UK の Post-Punk / New Wave と British reggae は直接的な関係があったので、 比較的自然に入っていったように思います。 Public Image Limited, Metal Box (Virgin, 1979) reggae / dub の影響を受けた名盤もありましたし。 The Pop Group, Y (Raderscope, 1979) (レヴュー) を制作した Dennis Bovell 絡みということもあって、 Linton Kwesi Johnson (レヴュー) とか聴いていましたし。 UB40 も好きでした。 というわけで、British reggae は聴きましたが、 Jamaican reggae は Black Uhuru / Sly & Robbie が視野内にあった程度で、 遡って Bob Marley を聴こうという気にはなりませんでした。
というわけで、1980年代前半、Post-Punk の文脈で (少なくとも僕にっとって) ダンス音楽といったら、 electro (funk / hip hop) と reggae / dub でした。 といっても、まだ「ダンス音楽によるロックの脱構築」みたいな発想は 頭の中に微塵もなくて、単純に、electro のバンバンいうビート感や reggae / dub のズーンというベースラインが、カッコ良くて好きだった、 という感じなのですが。 しかし、遡るべきルーツかというと、ちょっと違うなあ、とも思っていました。 むしろ、Post-Punk の文脈での面白い音作りの触媒として 期待していたように思います。
と、話の区切りが良くなったところで、今晩はこのくらいにしておきます。
確かに、electro という言葉は当時は無かったので、不用意な使い方でしたね。
「funk / hip hop (後に electro と言われるような)」という感じで
話を展開すべきだったかと思います。
そもそも、hip hop における1980年代前半はまだ
New School / Old School という区別が言われ出す以前で、
hip hop 内に electro 云々のジャンルの区別など無かったです。
当時は音楽雑誌を読んでいなかったので「支配的」だったかは知らないですが、
1982年くらいから New Wave の文脈で流行した
2, 4拍目にバスドラがバンバンと入る打ち込みが特徴的な New Wave 界隈の音と、
hip hop 界隈との関係は、僕はその当時から意識していました。
1980年代前半当時の僕の hip hop 観というと、 「USの Soul / R&B における New Wave 相当物」という感もありました。 「Grandmaster Flash と Linton Kwesi Johnson と Mark Stewart は 現代の都会の Arthur Rimbaud だ」みたいな趣旨の雑誌記事もありましたし、 The Clash の前座で Grandmaster Flash が演った、みたいな話は伝わっていましたし。 ただ、George Clinton, Computer Games (Capitol, 1982) のように electro / synth pop じゃなく soul / R&B 物でも シンセサイザーや打ち込みの利用が一般化しはじめていた頃だったので、 USの黒人ダンス音楽の最新形というような感じで funk を捕らえたうえで、 funk (あと、ほぼ同義で disco) のやや下位概念、 というような感じで僕は hip hop を捕らえていました。 その当時は、Afrika Bambaataa は hip hop というより funk だと思ってましたし。 けれども、皆同じようなシーンから出てきているとは思っていました。
ちなみに、Post-Punk / New Wave 界隈だと、
funk という言葉が用いられることが多かったように思います。
Post-Punk / New Wave 系のバンドであることを強調するときは、white funk。
Pigbag や Maximam Joy のような The Pop Group 分派のバンド、
Gang Of Four や Shriekback 、A Certain Ratio 、D.A.F. あたりが
funk とよく呼ばれていました。
(で、これがもっとポップな音になると、
New Romantic や electro/synth pop の範疇になっていたように思いますが。)
そして、それらの音に、hip hop やシンセサイザーを多用しはじめていた funk との
共通点は感じていました。
というか、1980年代前半の hip hop って、
まだ他ジャンルとの垣根が低かったように思います。
Francois Kervorkian や Arthur Baker のように
Post-Punk 界隈のミュージシャンとコラボレーションするDJもいましたし。
Bill Laswell が仕掛け人となった、Harbie Hancock, "Rockit!" (1983) や
Timezone feat. Afrika Bambaataa and John Lydon, "World Destruction" (1984)
(レヴュー) のような
コラボレーションもありましたし。
Trevor Horn の制作した Malcolm McLaren, Duck Rock (Charisma, 1983) が
「Malcolm McLaren は punk と同じように hip hop を商売に利用している」
云々と言われたりした記憶も新しい1984年に ZTT レーベルの活動が本格化したり。
その頃聴きだした FM ラジオ番組 Transmission Barricade で、
The Art Of Noise や Propaganda 並んで
Grandmaster Flash & The Furious Five,
"Adventure Of Grandmaster Flash On The Wheels Of Steel" (1981)
が使われていたり。
そんな感じだったので、1980年代中頃から、
Post-Punk な rock/pop が rock 的なイデオムに回帰し始めたこともありますが、
hip hop も閉じられるほどシーンに規模を持ち始めたせいか、
hip hop と New Wave 界隈の間の縁が無くなってしまったぁ、と感じていました。
それに、バスドラがバンバンと入る打ち込みとか好きだったので、
scratch と rap へ傾斜する hip hop から遠ざかったように思います。
音楽履歴話 の続きですが。今回は、1980年代前半の僕が、 Post-Punk の文脈での面白い音作りの触媒として funk (hip hop) と reggae に期待していたものがどういうものだったか、 という話をしたいと思います。 理由も無く期待していたのではなく、期待させるような試みがあったわけです。
1984〜5年に、当時の僕が「Adrian Sharwood 三部作」と呼んでハマった、
3つのコラボレーションがありました。
一つ目は、Depeche Mode の2枚の限定シングル
People Are People (Special Edition)
(Mute, L12BONG5, 1984, 12″) と、
Master And Servant (An On-U Sound Science Fiction Dance Hall Classic)
(Mute, L12BONG6, 1984, 12″)。
二つ目は、Mark Stewart + Maffia の
As The Veneer Of Democracy Starts To Fade
(Mute, STUMM24, 1985, LP) と、
特にそのシングル Hypnotized
(Mute, 12MUTE037, 1985, 12″)。
そして三つ目は、Einstruerzende Neubauten, Yu-Gung
(Some Bizarre, BART12, 1985, 12″) です。
これらは衝撃的でした。
New Age Steppers など New Wave 的な dub を作る、
British reggae における Dennis Bovell の次の世代の
ミキシング・エンジニアとして Adrian Sharwood の名前は知ってはいましたが、
この3枚はもはや典型的な reggae 風の dub では全くなかったですし、
一方で funk や hip hop の影響を受けながら、
それらと全く異なる音になっているように思ったからです。
electro pop としてはメタルパーカッション風の音の多用がピークに達した
Depeche Mode の2曲を、
Adrian Sharwood をズタズタに remix したものも刺激的でしたし。
(この Adrian Sharwood による remix が今に至るまで、
再発 or CD化されていないのが大変に惜しまれます。)
続く、Mark Stewart の新作では、元々 Sugarhill のハウスバンドの面子として
Grandmaster Flash のバックトラックを作っていた
Fats Comet (Keith LeBlanc, Doug Wimbish, Skip McDonald) の3人が
Maffia としてバックアップしてヘビーなトラックを作り上げたうえ、
それを Adrian Sharwood がズタズタなリミックスに仕上げていたのです。
「Grandmaster Flash と Linton Kwesi Johnson と Mark Stewart は
現代の都会の Arthur Rimbaud だ」を、音として混ぜ合わせた結果がこれだ、と、
思ったのをよく覚えています。
もう一つ、この頃の僕が好きだったのは、ほぼ Some Bizarre 時代 (1982〜1986) の
Cabaret Voltaire です。
John Robie の remix による名シングル Yasher
(Factory, FAC82, 1982, 12″) から、急速に funk / hip hop 化し始めた
Cabaret Voltaire だったのですが、続いて Some Bizarre 移籍してのアルバム
The Crackdown (Some Bizarre / Virgin, CV1, 1983, LP)
で、そのスタイルは完成したように思います。そして、その音の方が、
以前までの noise 的な音よりも好きでした。
続いて Some Bizarre からリリース3枚のアルバム (うち1枚は12″x2 のミニアルバム。)
Micro-Phonies (Some Bizarre / Virgin, CV2, 1984, LP)、
Drinking Gasoline (Some Bizarre / Virgin, CVM1, 1985, 12″x2)、
The Convenant, The Sword And The Arm Of The Lord
(Some Bizarre / Virgin, CV3, 1985, LP) は、
いずれも electro 時代の Cabaret Voltaire の絶好調期だと思います。
実際、今でも僕が最も好きな Cabaret Voltaire の音は、
この Some Bizarre 時代のものだったりします。
1990年代半ばの electro リバイバルの際に、この頃の Cabaret Voltaire が
再評価されなかったのは、ちょっと残念でした。
この頃、ex-Throbbing Gristle の Chris And Cosey も electro pop 化し、
October Love Song (Rough Trade, RTT078, 1983, 12″)
のような名曲をリリースしましたし。
"October Love Song" の路線の3rd アルバム Songs Of Love And Lust
(Rough Trade, ROUGH64, 1984, LP) も気にいりました。
実際、Throbbing Gristle より Chris And Cosey の方が好きです。
そして、こういった UK indies 界隈における dub や funk (hip hop) に影響を受けた ダンス音楽の雰囲気を纏めあげた集大成的なコンピレーションが、 Various Artists, Funky Alternative (Concrete Prod., CPRODLP001, 1986, LP) でした。 収録アーティストは、23 Skido, Tackhead, New Order, 400 Blows, Cultural Thugs, D.A.F., Colourbox, Chris & Cosey, Empty Quarter, Nocturnal Emissions 。 この編集盤は、以降、electric body beat 系の編集盤として シリーズ化されたように記憶していますし、 今から見ればその様式のルーツとして見なすことができるように思いますが、 僕にとっては、Post-Punk 期の dub / funk の影響下による音の試みの、 一つの結論のようにも感じていました。 そして、その当時の僕は、 reggae / dub や funk / hip hop のルーツを遡ることよりも、 Post-Punk の indies 界隈からこのように出てくる音を追いかける方が 面白いと感じていたのでした。
1987年までの話しはもう少ししたいと思っていますが、 今晩は話のきりも良いので、これくらいにしたいと思います。
というわけで、Mon Oct 16 23:29:54 2000 からちょっと間が開きましたが、 音楽趣味履歴話の続きです。 どこまで話したかな、と思ってざっと読み返すと、 固有名詞の説明がかなり飛んでますね。 いちいち細かく説明していると話が進まないので仕方無い面はありますし、 ある程度知っている人にとっては自明なことなのですが、 あまりにひどいものについて遅ればせながら補足説明。 まず、Fri Oct 13 8:38:03 2000 の発言についてですが、
「Grandmaster Flash と Linton Kwesi Johnson と Mark Stewart は 現代の都会の Arthur Rimbaud だ」みたいな趣旨の雑誌記事というのを、鍵として使わせてもらっていますが。 hip hop と reggae と post-punk のミュージシャンが併置されているという点に 意味があります。 Arthur Rimbaud を引き合いに出すのは、今からみればとんでもないと思いますが、 その当時 (1982年/中学3年生) は Rimbaud についてあまり知らなかった、 という意味で、あまり気にならなかったです。それぞれについては、 Grandmaster Flash に関連するレヴュー、 Linton Kwesi Johnson に関するレヴュー、 Mark Stewart に関するレヴューをどうぞ。続いて、
Trevor Horn の制作した Malcolm McLaren, Duck Rock (Charisma, 1983) が 「Malcolm McLaren は punk と同じように hip hop を商売に利用している」 云々と言われたりした記憶も新しい1984年に ZTT レーベルの活動が本格化したり。 その頃聴きだした FM ラジオ番組 Transmission Barricade で、 The Art Of Noise や Propaganda 並んで Grandmaster Flash & The Furious Five, "Adventure Of Grandmaster Flash On The Wheels Of Steel" (1981) が使われていたり。ですが、Malcolm McLaren は punk ブームの火を付けた The Sex Pistols の仕掛け人、 ZTT レーベルというのは Trevor Horn の electro pop 色濃いレーベルで、 The Art Of Noise や Propaganda は1980年代の ZTT を代表するバンドです。 余談ですが、Malcolm McLaren, Duck Rock (Charisma, 1983) の直後に、 ZTT から Frankie Goes To Hollywood が出てきて "Relax" (1984) が いささかポルノ的な歌詞とビデオ・クリップで話題を作って大ヒットしたため、 ZTT / Trevor Horn はかなり胡散臭いというイメージがあり、 ZTT のレコードを敬遠していた、という頃がありました。
もう一つ、この頃の僕が好きだったのは、 ほぼ Some Bizarre 時代 (1982〜1986) の Cabaret Voltaire です。 John Robie の remix による名シングル Yasher (Factory, FAC82, 1982, 12″) から、 急速に funk / hip hop 化し始めた Cabaret Voltaire だったのですが、ですが、Cabaret Voltaire も Throbbing Gristle も1970年代後半にUKから出てきたバンドで、その当初は、 guitar band 的な rock のイデオムを用いず、 電気・機械ノイズやテープのループを多用した industrial とか noise とか言われるような音作りをしていました。
(中略)
この頃、ex-Throbbing Gristle の Chris And Cosey も electro pop 化し、
(以下略)
と補足説明はこの程度にしておいて、 話を先に進めましょう。 1987年までの話をもう少し、ということで、今回の話でとりあげるのは、 前回 (Mon Oct 16 23:29:54 2000) の最後に触れた Various Artists, Funky Alternative (Concrete Prod., CPRODLP001, 1986, LP) にも参加していたバンド、 Colourbox です。
僕が Colourbox というバンドを知ったのは、 This Mortal Coil, Sixteen Days / Song To The Siren (4AD, BAD310, 1983, 12″) というシングルを通してでした (レヴュー)。 もちろん、最も魅力的なのは Liz Fraser (Cocteau Twins) の歌声だったのですが、 その背景のドライヴ感のあるビートを作っていた Martyn Young (Colourbox) に 興味を持ったのでした。
で、Colourbox を聴いてみると、Liz Fraser とは対称的な soul / R&B 的な女性ヴォーカルをフィーチャーした electro pop。 好きだった Yazoo が既に活動停止状態になっていたこともあり、 それに続くバンドとして追いかけることにしたのでした。 実際、デビューシングル Breakdown (4AD, AD215, 1982, 7″) は、 Depeche Mode や Yazoo と同じく Blackwing Studios で Eric Radcliff によって録音されています。 といっても、ミニマルな Yazoo に比べて、 Colourbox は guitar solo をフィーチャーしたりと、もっと雑食的。 それが Yazoo とは違った魅力になっていました。
特に僕が気に入る契機になったのは、Yazoo には無かった reggae の要素でした。 最初のミニアルバム Colourbox (4AD, MAD315, 1983, miniLP) は、 Sly & Robbie / Black Uhuru の dub で名を馳せていた Paul "Graucho" Smykle を制作に迎えていましたし。 続くシングル Say You (4AD, BAD403, 1984, 12″) では、 early reggae の名曲 Ken Booth, "Say You" をカヴァーしています。 これは、オリジナルに負けない素敵な pop 曲 (といってもオリジナルを聴いたのは、 後のことなのですが。) になっていて、 特にアルバムとは違う dubwise な12″のヴァージョンが大好きです。 Colourbox は、後にも、roots 期の Jacob Miller の名曲 "Baby I Love You So" を カヴァー (Baby I Love You So (4AD, BAD604, 1986, 12″) 所収) しています。オリジナルを知って、オリジナルで聴くことも多い今でも、 "Say You" と "Baby I Love You So" が reggae の歌の中でも最も好きなのは、 やはり、この Colourbox のカヴァーの影響が大きいと思っています。
Colourbox は、実際のところは、R&B 〜 hip hop 的な要素の方が強いわけで、 60s Motown の名曲 Diana Ross & The Supremes, "You Keep Me Hanging On" の カヴァー (The Moon Is Blue (4AD, BAD507, 1985, 12″) 所収) も、electro hop hop 的なバンバンいうビートがかっこよく、とても好きです。 この "You Keep Me Hanging On" や "Say You" を収録した唯一のアルバム Colourbox (4AD, CAD508, 1985, LP) は、 当時、初回プレス10,000枚限定のボーナスとして付けられたミニアルバム Colourbox (4AD, MAD509, 1985, miniLP) のA面分と併せてCD化されており、 これからまず一枚聴くとしたら、このCDがお勧めです。
1980年代前半の僕は、Post-Punk の文脈での面白い音作りの触媒として funk (hip hop) と reggae に期待していたわけで、 そう期待させてくれた一つの試みが、前回 (Mon Oct 16 23:29:54 2000) 話した、 Adrian Sharwood の Depeche Mode、Mark Stewart、Eistuerzende Neubauten との 一連のコラボレーションだったわけです。 そして、僕にとって、Colourbox の音は、そのもう一つの試みでした。 確かに、前者の Adrian Sharwood の曲は ずたずたに解体されたような印象を受けるものであり、 後者の Colourbox の曲はとても pop なものでしたが、 かけ離れたものというよりも、同じ試みの裏表という感じで受け止めていました。 Adrian Sharwood がらみの Tack Head と、Colourbox が、一緒に編集盤 Funky Alternative に収録されているというのも、自然なことだったわけです。
以前 (Fri Aug 18 0:47:49 2000) に話したように、最初のお気に入りの rock / pop バンドだった Depeche Mode や Cocteau Twins も、1984年には飽きはじめていて、 New Order にしても半ば惰性で聴いている面もあった (特に、Low Life (Factory, FACT100, 1985, LP) があまり好きじゃなかった。) のですが、その代わりにという感じで、その当時は こういった Funky Alternative に収録されているような音を 追いかけていた、という面もありました。
しかし、それも、Funky Alternative がリリースされた1986年まででした。 その翌年に Colourbox と A.R. Kane によるプロジェクト M/A/R/R/S による Pump Up The Volume (4AD, BAD707, 1987, 12″) がリリースされました。もちろん、大好きな Colourbox がらみということで、 限定 remix 盤と併せてリリース後すぐに買ったのですが。針を落としてびっくり。 バンバンいう electro のビート感も、ズーンという dubwize なベースも無く、 このシャカシャカいうビートのノリが理解できなかったのでした。
話のきりが良いので、今晩はこのくらいに。って、既にかなり長くなってますが。 この Pump Up The Volume 以降の話は、また後で。
また、一ヶ月以上、間があいてしまった
音楽趣味履歴話
ですが、また、少しずつ続きを。Tue Oct 31 23:19:24 2000 の最後に触れた、
M/A/R/R/S, Pump Up The Volume (4AD, BAD707, 1987, 12″)
から後の話です。正直に言って、このリズムに、当時の僕は全くノれませんでした。
しかし、実際のところ、このリズムへとダンスの流行が変わっていきました。
1980年代半ばまでなら、synth pop やその後を受けるメジャーな UK の pop において
funk / hip hop 的な打ち込みが使われるであろう所に、
この acid house とも言われる
細かい打ち込みが入るようになっていったわけです。
Colourbox が M/A/R/R/S になったように、
funk 色の強かった Cabaret Voltaire も house に傾倒していきました。
このもっとメジャーなシーンでの典型の一つが、Madchester と呼ばれる
Happy Mondays などの一連のバンドの音だったと思います。
少なくとも Rave のような動きから切り離され音だけ聴いていた限りでは、
Madchester にしても、流行によってダンスが変化しただけで、
音の枠組み的にはそれ以前の快楽主義的な New Romantic や synth pop と
変わらないとも思っていました。
そして、このダンスの流行の変化だけが理由ではないとは思いますが、 1990年を挟んだ前後5年余りというのは、Acid Jazz から Electric Body Music まで、いわゆるダンス音楽に距離を置いていた頃でした。 雑誌や音盤店の店頭でそれなりに情報は入ってきましたから、 全く眼中に無かったわけではないですが。
funk (hip hop) と reggae を触媒として生まれた Post-Punk の文脈での 面白い音作りだと感じていた、Various Artists, Funky Alternative (Concrete Prod., CPRODLP001, 1986, LP) 界隈の音にしても、 それ以降、Electric Body Music と呼ばれジャンル化されるにつれて、 様式化されてしまったように感じ、面白く思えなくなってしまいました。
Acid Jazz にしても、1980年代初頭に The Pop Group 界隈や
Weekend 以降の Robin Miller の制作において試みられた
脱 punk の文脈において
jazz 的なニュアンスを持つ音楽の一つ流れを過度に洗練させてしまったもの、
という受け止め方をしていました。
Acid Jazz という名を初めて使い定着させた編集盤
Acid Jazz and Other Illicit Grooves (Urban, 1988) を
Gilles Peterson と共に編集した Simon Emmerson というのは、
実は、Weekend 〜 Working Week の Simon Booth だったわけですし。
Working Week が良いと思っていたのも
1stアルバム Working Week (Virgin, V2343, 1985, LP)
までだった僕にとって、Acid Jazz はもはや魅力的な音ではなかったのです。
それは、当時 "ground beat" と呼ばれた
Soul II Soul のような音にしても同様で、
1980年代前半の Aswad, Steel Pulse, Linton Kwesi Johnson は好きだったものの、
pop 化した Aswad や Maxi Priest のような British reggae には
興味を持てなかっただけに、それをさらに R&B などと折衷した
Soul II Soul のような音も、僕にとっては過度に洗練された感がして
魅力的な音ではありませんでした。
といっても、全く引っかかることが無かったわけではありません。 US の hip hop と距離を置いた文脈で breakbeats 的な試みをするUKのDJには それなりに興味がありましたが。そんな中で、最も好きだったのが、 Norman Cook (元 The Housemartins、現 Fatboy Slim) の Beats International でした。 特に「ネオアコ」なネタも多く含まれた 1st の Let Eat Them Bingo (Go Beat, 842 196-2, 1990, CD) には、かなりハマりましたね。 同じような音で、もう少しアンダーグラウンドなものとなると、 Adrian Sharwood / On-U Sound の脈に繋がる Tim Simenon の Bomb The Bass もそこそこ好きでしたが、 Coldcut となると house に寄り過ぎて、ちょっとダメ。 と、今から振りかえると、reggae / dub 色の濃さによって 好みに傾斜が付いていたように思います。
それから、 1980年代半ばに Einsturzende Neubauten, Yu-Gung (Some Bizarre, 1985) や Ministry, Twitch (Sire, 1986) などを制作し reggae 離れしていた Adrian Sharwood が reggae に回帰しはじめ、 Lee Perry + Dub Syndicate, Time Boom X De Devil Dead (Syncopate, SYLP6000, 1987, LP) や Akabu, Akabu (Viva, VV003, 1989, LP) のような 秀作を制作し、1990年にはついにメジャーから、 Lee "Scratch" Perry, From The Secret Laboratoy (Mango, 539 869-2, 1990, CD) をリリースしましたし。 Jah Shaka が唯一のメジャー盤 Dub Symphony (Mango, 539 884-2, 1990, CD) をリリースしたのもこの頃。 Linton Kwesi Johnson も活動を再開して Tings An' Times (LKJ / Shanachie, 1991, CD) をリリースしたり。 というわけで、それなりに British reggae への興味はそれなりに続いていました。 これが、今に至る reggae 趣味に繋がるわけですが。
話のきりが良くなったので、今晩はこの程度に。
さて、音楽趣味事始に関する話の続きです。 前回、Mon Dec 11 0:06:45 2000 の発言で、1990年を挟んだ前後5年余りというのは いわゆるダンス音楽に距離を置いていた頃だった、と書いたわけですが。 そういう点で、ほとんど音だけを通して接していた僕にとって 「セカンド・サマー・オヴ・ラヴ」というのは、あっても否定的な影響の方が大きく、 見方もけっこう冷ややかでした。 そんな僕にとって、techno 〜 breakbeats 方面への興味を繋ぎ止め、 1990年代前半に techno 〜 breakbeats 方面の音に手を出し足がかりとなったのは、 Madchester 界隈や Creation レーベル界隈の音ではなく、 post-punk 期から活動するバンドのブロデュースやリミックスの仕事でした。 特に、僕にとって重要だったのは、 New Order と Wire でした。
確かに、Low Life (Factory, FACT100, 1985, LP) は好きになれなかった New Order でしたが、続く Brotherhood (Factory, FACT150, 1986, LP) は、 "Bizarre Love Triangle" のような名曲も収録していてとても気に入っていましたし。 "Fine Time" のような acid house の影響も聴かれる Technique (Factory, FACD275, 1989, CD)、 メジャー移籍後の Republic (London / CentreDate, 828413-2, 1993, CD) も大好きでした。当然、シングルも追いかけていたわけで、 (The Rest Of) New Order (London, 828 661-2, 1995, 2CD) (レヴュー) として纏め上げられることになる、 London に移籍してからのシングルのリミックスの音を通して、 Paul Oakenfold, Andrew Weatherall (Sabre Of Paradise), Justin Robertson (Lionrock), Fluke, Hardfloor といったDJへの興味を持ったように思います。
一方、Wire に関して言えば、1970年代末の活動
(レヴュー)
は同時代的に体験しませんでしたが、1980年代前半には聴いて気にいっていました。
1986年の再結成後の活動も好きでした。
特に、A Bell Is A Cup Until It Is Struck (Mute, CDSTUMM54, 1988, CD) と
It's Beginning To And Back Again (Mute, CDSTUMM66, 1989, CD)
は今でも大好きなアルバムです。
この頃は、synth pop 的な音作りも、当時の僕に受け入れ易かったです。
Robert Gotobed が一時抜けた後の、
Wir, The First Letter (Mute, CDSTUMM91, 1991, CD)
から、post-rave 的な techno 〜 breakbeats 色が濃くなるわけですが。
そして、シングル So And Slow It Grows (Mute, CDMUTE107, 1991, CD) から
The Orb や LFO 、
さらに Warp レーベル界隈へ
興味を持っていったように思います。
特に、Warp レーベルは、
Sheffield のレーベルで、
第一弾のアルバムが Richard H. Kirk のプロジェクト Sweet Exocist の
C.C.C.D (Warp, WARPCD1, 1990, CD) ということで、
当時は興味を失いかけていたものの、
Cabaret Voltaire
がらみのレーベルとして気にかかっていました。
といっても、リミックスとかは好きでも、 リミックスを手がけたDJを熱心に追いかける程ではなかったです。 そのDJがらみのCDがあれば余裕があるときに買ってみる、という程度でしたし。 その頃は、やはり、リミックスの仕事の方が好きでした。 この関係が逆転し始め、リミックスではない techno 〜 breakbeats の作品も 楽しむようになったのは、1994年くらいからでした。
もう一つ、僕にとって New Order や Wire が重要だったのは、 彼らの脱パンク期以来の活動が、 1992〜7年に進行した post-rock のような音楽表現の変化を同時代的に捉え、自分なりに理解する 大きな手がかりになったからです。 もちろん、彼らの音だけではなく、この頃 (1992年頃) に読んだ本、 サイモン・フリス 『サウンドの力 ― 若者・余暇・ロックの政治学』 (晶文社, ISBN4-7949-6026-3, 1991; Simon Frith, Sound Effects: Youth, Leisure, and the Politics of Rock'n'Roll, 2nd ed., 1983) も大きな手がかりになったわけですが。 以前 (Fri Aug 18 0:47:49 2000) に 書いたように、グリール・マーカス 『ロックの「新しい波」』 (晶文社, ISBN4-7949-5061-6, 1984; Greil Marcus, Real Life Rock) が、僕に、自分が好んで聴いていた音楽について語る言葉を与えてくれた、 音楽についての文章を書こうと思わせてくれた本だとすれば、 『サウンドの力』は音楽を聴き、それについて語るにあたって意識すべき枠組みを 与えてくれた本でした。そして、その言葉と枠組みは、音楽だけでなく、 現代美術や映画、その他様々な文化についても応用できるものだったと思っています。 この2冊の本がなかったら、 音盤雑記帖はもちろん、 歴史塵捨場に書いているような レヴューは書いていなかったように思います。
話のきりもよくなったので、今晩はこのくらいで。
かなり間が空いてしまった 音楽趣味履歴話は、 去年末までに、1990年前後くらいまでのダンス音楽の話を一通りしたわけです。 話を変えて、今回は、音楽趣味履歴とインターネットの関係について 話をしたいと思います。 というのは、1990年代の僕の趣味生活はインターネットに多くを負っているからです。 実際のところ、今、こんなこと書いている場合でもないんですが、 『ネット者クラブイベント盛衰史』 を目にしてしまって、つい勢いで。 それに、こういう勢いがあるときに書かないと、ずっと書かないような気がして…。 ま、僕はいわゆる「ネット者クラブイベント」が流行り出した頃から それらと一定の距離を置いてきたし、 それらを支えてきた音楽趣味を中心とする個人サイトの輪から このサイトは外れた場所にあるので、 もはやこのサイトはその存在すら知られていないと思っています。 というわけで、正統な歴史を語る立場には無いと思っていますし、 そもそも、そのつもりもないです。もっと気楽に語りたいと思っています。 といっても、私的な『ネット者クラブイベント前史』にはなっていると思います。
僕が、今のインターネットに繋がるコンピュータ・ネットワーク環境に 接するようになったのは、1988年。大学の教養から学部に進学し、 大学の教育用計算機センター のアカウントを貰ってからでした。 その当時はまだ、WWWなんてアプリケーションなど存在しませんでしたが、 キャラクタ表示のパソコン端末から UNIX OS が動いているホスト計算機を使って、 学内ローカルだけでなく JUNET / USENET で繋がったメールや ネットニュース (NetNews) (って、今やあまり知られてないように思いますが。) を利用することができました。 ちょうど、グリール・マーカス 『ロックの「新しい波」』 (晶文社, ISBN4-7949-5061-6, 1984; Greil Marcus, Real Life Rock) を読んで、自分の聴いている音楽についての文章を書きたい、と思っていた頃で、 教育用計算機センターを使い始めてしばらくした1988年の夏ごろには、 今書いているようなレヴューを 学内向けの (教育用計算機センターの) ニュースグループへ投稿し始めました。 (実際は、音楽以外の話題の投稿が多かったですが…。) ちなみに、"Cahiers des Disques" というのは、 学内向けのニュースグループへの投稿記事の Subject として付けていたものです。 (さすがに、fj への投稿で止めたのですが。) それ以来、13年近く、ずっとレヴューを書きつづけているわけです。
しかし、読者が極めて限られる学内のニュースグループではたいした反応が得られるはずもなく、 次第に投稿の場を、当時、日本国内向けでは唯一だった fj ニュースグループ の fj.rec.music へと移していったのでした。(すぐに fj.rec.music に投稿しなかったのは、 当時は学内・社内のニュースグループで経験を積んでから fj にデビューする、 という暗黙のルールが存在したからです。) そして、大学院生になった1990年には、fj.rec.music の常連となっていました。 まだ、理工系の大学関係者かコンピュータ関係の会社の技術者・研究者が ユーザの殆どを占める、ユーザ層の極めて限られたネットワークでしたが、 それでも、fj.rec.music には、僕の他にも punk 〜 US/UK indies rock に 関する記事を投稿する常連が数人いました。 そして、今からちょうど10年前の1991年3月、 僕や現在もシステム管理者をしている 蛯原さんなど4人で、ネットニュースではし辛い話 (非常にマニアックな話、 音源や歌詞カードの複製の交換などの話) をする場を作ろうという話 (って、当初の目的はあっというまにどこかに行ってしまいましたが) を契機に開設したのが Postpunk ML でした。 (僕の手元に残っている最古のメールは通算9通目のもので、日付は1991/3/29。) postpunk という名前にしよう、と言い出したのは僕だったのですが。 もちろん、Greil Marcus の影響などもあったのですが。 その当時、fj.rec.music のサブニュースグループとしてあったのは、 fj.rec.music.progressive のみ。 progressive に対する post-punk という気持ちも、当時はあったように思います。 当時、fj で告知されている全国規模で運営されている音楽趣味のメーリングリストは、 多くなく、それも、ある特定のファン向けのものが中心。 ジャンルで区切るようなメーリングリストは、他には、 今でも京都大学計算機センターで運営されている Jazz ML くらいしか無い頃。 手本になるものは多く無く、最初の頃は、 システムの面でも運営ポリシーの面でも手探り状態で試行錯誤、 というようなものでした。
そして、Postpunk ML が立ち上がったのとほぼ同時期の1991年4月頭 (3月末?)に、 それに先立つ2月半ばに fj.rec.music で提案されたパーティとして、 Rock'n'Netter's Party (RNP) が開催されました。もちろん、僕は第1回に参加しましたし、第2回では幹事もしました。 RNP は、まだ「ネット者」に限らず日本でクラブイベントが一般化する前のもので、 クラブでのイベントではなかったですし、ロック色が濃かったですし、 最初のうちは単なるオフライン・ミーティング、という感じのものでした。 次第に、参加人数が増え、楽器を持ち込むようになり、 人か多く集まることができ楽器が持ち寄れる場所で開催されるようになりました。 1991年夏の井の頭公園オールナイト、1992年春の東工大大岡山など、 強く印象に残っています。 最初の2〜3年間は、WWW以前の音楽「ネット者」が会するイベントとして、 2〜3ヶ月おきに定期的に開催されていました。 In Dust-Real をはじめ初期の「ネット者」関係のイベントの拠点となる メーリングリスト (techno-heads など) を運営して イベントにおけるシステム構築運営も手がけていた 蛯原さん (RNP の第3回の幹事)、 『ネットトラベラーズ'95』に Postpunk ML の紹介 (これ、タグが狂ってるなぁ。) などを執筆し 最初に Second Summer of Web と言い出した (というより日本のWWWの草分けとして有名な) 高田さん (RNP の第7.2回の幹事)、 今や Rock.jp で知られる モーリ さんも、 この RNP に参加していました。 (あ、皆 Postpunk ML のメンバーでもありますね。) クラブイベントではなかったですが、 「ネット者」が音楽を鍵に集う場を作ったという点で、 「ネット者クラブイベント」 の先駆といえるもののうち、自分に身近で起きたものを一つ挙げるとしたら、 この Rock'n'Netter Party を僕は一番に挙げます。
ちなみに、RNP のメンバーは、それに先立つ1989年から開催されていた J2 (Junet Jingisukan; JUNET / 国内インターネットのユーザを中心にしたジンギスカンパーティ。) に音楽隊として参加するメンバーとも重なりがあり (というか、第7、8、11回の三回、RNP の主要なメンバーがJ2の幹事をした)、 J2の音楽版、というほどではないものの、運営の仕方、精神という点で 影響を受けていた (影響し合っていた) ように思います。 というか、DIY的で自発性を重視したオープンで自律的な運営というのは、 RNP や J2 に限らず、当時の JUNET/USENET 〜 インターネットの文化 といえるものだったと思います。 ちなみに、僕も、初期のJ2にはよく参加していました。 『ネット者クラブイベント盛衰史』 に出てくる、1994年? の多摩川河川敷のパーティというのは、 1993年5月の第8回J2以降何回か続いたJ2の前夜祭のことのような気がします。 もしそうなら、Postpunk ML のイベントではなくて Rock'n'Netter's Party ですね。
ちなみに、第2回の開催が決まったのを受けて、連絡用として、 RNP Mailing List が開設されました。Postpunk ML での経験はすぐにここで生かされました。 そして、購読者もメールの量も増えるにつれて、次第に、 蛯原さんが管理する メーリングリストが分割・新設されるようになりました。 Reggae ML は比較的早い時期、 1991年の半ばくらいにはできたように思います。 noise / industrial を扱う Cult23 ML や、 techno を扱う Techno-Heads ML といったメーリング・リストも、この界隈から発生したメーリング・リストでした。 そして、立ち上げ当時は顔ぶれが重なっていたそれぞれのメーリング・リストも、 新たな購読者が増えるにつれ、それぞれ、色を変えていったように思います。 インターネットのユーザ自体が増えてきたということも、 このような厚みが出来て分化するようになってきた理由の一つだと思いますが。
ここまで話したような、僕のメールやネットニュースの利用に伴うさまざまな人との交流は、
僕の音楽趣味生活 (だけでないですが) を大きく変えるものでした。
それまでは、同じ嗜好を持った人が周囲にいかなったこともあり、
音楽の趣味で友人と盛り上がることは稀で、
僕にとって音楽体験は個人的な面が強いものでした。
しかし、Postpunk ML や Rock'n'Netter's Party を通して、
音楽を通して他人と場を共有する (それはコンサート会場やクラブに限らない、
メーリングリストのようなものも一つの場だと思っています。)、
ということを実感したものでした。
そして、もう一点、自分の聴く音楽の幅がぐっと広がったように思います。
他人との音楽に関する会話は、漠然と否定的な印象を持っていたり
なんとなく距離を置いていたあまり詳しくない音楽を
聴いてみよう、という思うきっかけにもなりました。
そう、様々なジャンルの音楽に対して寛容になったように思います。
なんだかんだいって、それまで聴く音楽は rock / pop に偏りがあったわけですし。
Reggae ML や Jazz ML が無かったら、
今のようにまで reggae や jazz にのめりこまなかったように思います。
と、WWW前夜の話だけで、充分に長くなってしまったので、今日はこのくらいで。 インターネットにWWWが登場してからの話、 In Dust-Real の第一回の開催経緯、1996年3月の Postpunk ナイト @ colors の話、 など、話のネタはまだまだいろいろあるんですが…。
さて、音楽趣味履歴話の続きですが。 前回 Sun Mar 4 23:35:10 2001 はWWW前夜までで話が終わってしまったので、 その続きでしょうか。
商用インターネットやWWWの登場でインターネットのユーザが一般化し始めた 1994〜5年頃の話でしょうか。WWWの登場それ自体は、音楽趣味の観点では 当初は Mailing List や NetNews の延長以上のものは無かったと思っていますが、 ユーザ層が急激に広がり「ノリ」が変わってきたのが、この頃でした。 そして、僕がそれを一番実感したのは、 1995年春の In Dust-Real の第一回に関わったときでした。 結局、Techno-Heads ML のパーティとして開催されたこのイベントですが、 企画が持ちあがった当初は、 僕や Reggae ML の久保田さんも DJをする予定で、 蛯原さんの管理する、 Postpunk ML / RNP 周辺で成立した Mailing List が 相乗りするイベントという感もあったのです。 ある程度話が進んだ後、ひと悶着あって、 結局、techno のみのイベントになったのでした。 ま、トラブルの原因の多くは主催者間の意思疎通不足が原因だったと思いますが。
1991年春に Rock'n'Netter Party (RNP) の第一回を呼びかけた春木さんは HR/HM ファンでしたが、僕が第二回の幹事をしたことからわかるように、 それに応じたのは HR/HM ファンだけではありませんでした。 初めの1〜2年は、Postpunk ML と RNP の参加者の重なりも大きく、 Postpunk ML でオフライン・ミーティングを開くことはなく、 RNP が実質その役割を担っていました。 ジャンル毎に分かれて何かするほど母集団が大きくなかった、 という面が大きかったように思いますが。 結局のところ、音楽の趣味そのものではなく、インターネットのユーザであることに、 RNP のアイデンティティの多くを負っていたように思います。 しょせん、コンピュータ業界人の集まり、というか。 それから4年、音楽の趣味と、インターネットのユーザであること、 との関係が逆転したということがはっきり表れたのが、 In Dust-Real の第一回の企画時の出来事だったのだと思います。 もちろん、幹事も持ちまわりでDIY的で自発的な参加に多くを負っていた (それゆえ、宴会的なものから抜けきれなかった) RNP から、 主催者によってもっとオーガナイズされたクラブ・イベントへ、 という面もあったように思います。 そして、そういった所に、Rock'n'Netter Party とそれ以降のいわゆる 「ネット者クラブイベント」 の間の転換点があったように思います。
この In Dust-Real 第一回企画時のトラブルが、僕がそれ以降に盛り上がる 「ネット者クラブイベント」 から距離を置くきっかけになったわけですが。(そういうきっかけが無くても、 そこには僕の居場所は多くは残されてなかったように思いますが。) その代わり、というほどでもないですが、 周囲が「ネット者クラブイベント」で盛り上がっているのを横目に いきつけのジャズ喫茶 に入り浸るようになったのでした。あと、クラブに踊りに行くなら、reggae のクラブ。 今や、reggae クラブに踊りに行くのも稀になりましたが。 自分の音楽趣味履歴の観点からすると、 今くらいまでに reggae や jazz に傾倒することになったのが、この頃でした。
さて、自分の話からちょっと離れて。
「ネット者クラブイベント」
に関していくつかのコメントをみかけるわけですが。
omo*8 さんの
コメントを読んでいても、やっぱり世代が違うんだなぁ、と痛感します。
Postpunk ML が立ちあがり、
Rock'n'Netter Party が始まった1990年前後は、
インターネットの上にサブカルの情報などろくに無かったのです。
もし、ディスコグラフィがネット上にあったら有り難いだろうなあ、
と思ったら、まず自分で作って提供する、
という状態だったわけです。
HR/HM から indie rock/pop まで音楽の趣味を異にする人たちが
Rock'n'Netter Party に集まることができたのも、
まだ趣味的なものはたいして何も無かったインターネットにも
音楽を鍵に集まることができる場があったら楽しいだろう、
という思いを共有していたからだと思います。
そういう点で Rock'n'Netter Party は、
インヴィジブル・クラスメイトというのとはかなり違ったように思います。
その当時、インターネットの技術的な面からの可能性は魅力的に感じていましたが、
実際の利用の観点では魅力的なものにするのもしないのも自分次第。
インターネットを、自分が使いたいような、そして、皆も使いたくなるような
魅力的なものにしたい、というのはその当時の自分にはそれなりにありましたね。
当初の書き始めるきっかけを越えて、今まで
Postpunk ML に
「長大なレヴュー」を書き続けていられるのも、
今でも十分に情報が得られているわけでなく、自分も情報が欲しいから、
という面も大きいですし。
そのレヴューを集めていつでも読めるように、
1994年以降のWWWの一般化に伴いこのサイトを開設したのも、
そういう情報がインターネット上にあったら自分でも有り難いと思っているからです。
といっても、オフィシャルサイトや専門的なサイトが増えた現在、
基本的な情報の提供の役割はほぼ終わったと思っています。
それでも、自分の欲しい切り口で情報を提供する場所、
という面は今でも強いですね。
そして、それが今でもこのサイトを続けている原動力になっています。
それから、 美術版 に関して、ちょっと余談ですが。 日本の (現代) 美術のWWWサイトの先駆けといえば、 1994年頃からボランティアベースで始まった 水戸芸術館現代美術ギャラリー のサイトですが、その当時にそれを手がけたのが、 蛯原さんと、 Rock'n'Netter Party の第一回を呼びかけた 春木さん だったんですよね。RNP には「ネット者クラブイベント」だけでなく、 WWW の立ち上がり時期に鍵になるような人たちが集まっていたんだなぁ、と思います。 ファン倶楽部MLが 立ち上がったばかりの時は僕も参加していたのですが、参加したときに、 RNP の第一、二、三回の幹事が揃っているなんて因果な、とか思いましたが。
さて、音楽趣味履歴の観点からすると、 以降の「ネット者クラブイベント」に影響を受けることは無かったですし、 クラブイベントに関する話はこのくらいにしておきたいと思います。
さて、音楽趣味履歴話 ですが、 Fri Aug 18 0:47:49 2000 の発言以降、 聴く音楽の情報源としていた雑誌とか、よく行っていた音盤店とかの 話をほとんどしていないので、そこらへんどの話を。 というか、そういうものの重要度がどんどん低くなっていたんですよね。
僕が渋谷の音盤店によく行っていたのは、 大学のキャンパスが近くにあった1986〜7年でした。 しかし、通うキャンパスが本郷に移った1988年頃から、 近くの上野 CISCO や御茶ノ水 disk union にも行きましたが、 柏木、というか西新宿に最もよく行くようになりました。 (と、西新宿にレコードを買出しに行ったときのことをネタに使った 長い髪 (その72)。舞台の公園は何公園でしょう?) 当初は、特に Vinyl と Chicago へよく行っていたように思います。 渋谷から西新宿へ音盤店巡りの拠点を移した理由は、 今ではよく覚えてないのですが。
音楽趣味履歴話の始めのの頃に書いたように
中学高校時代に荒川区立日暮里図書館のレコード・ライブラリーを
利用していたように、就職する以前の僕にとって、
無料で利用できる公立のレコード・ライブラリーは重要だったのですが。
本郷キャンパスに通っていた4年間は、
近くにあった文京区立小石川図書館のレコード・ライブラリーを活用してました。
(と、1989年2月頃の小石川図書館が舞台の
長い髪
(その31)。)
まだそれほど本格的に聴いておらず買うには敷居が高かった
jazz の音盤を聴いてみるのに重宝していました。
(ちなみに、シャノン=ジャクソン というのは、
Ornette Coleman's Prime Time の初代 drums 奏者
Ronald Shannon Jackson のことですね。最近はあまり聴いてないので、
関連するレヴューはこれくらいですね…。)
そう、この小石川図書館のレコードライブラリー、存続の危機にあるみたいですね。
(Free Improvisation
きまぐれ伝言板 の2月21日(水)11時35分57秒 の発言を参照のこと。)
Art Ensemble Of Chicago の初期の作品、確かに借りた覚えあったりして…。
就職してからは全く利用していないライブラリですが、
そういう噂を耳にすると、ちょっと感慨深いですね。
日暮里図書館もそうだったように思いますが、1980年代はまだ、
「シャープなラインナップ」の公立の図書館がそれなりにあったように思うのですが。
そういうものがどんどん消えていっているんだろうなぁ、と。
雑誌は1987年から『ミュージック・マガジン』を毎号買って読んでましたが、 1990年前後に最も良く聴いていたのが UK/US indies の guitar pop だったわけで、 むしろ、良く聴いていた音楽のためではなく、 自分があまり聴かない/良く知らない音楽について とりあえずのキャッチアップするのを主目的に読んでいた雑誌でした。 特に、当時からそれなりの興味はあった jazz や world music に関する情報が 他の rock 関係の雑誌に比べて多かったのは重宝していました。 ま、買っていたメインの理由は、 Greil Marcus の "Real Life Rock" の翻訳連載、そしてそれが終わった後暫くは マーク・ラパポートのコラム「じゃずじゃ」だったんですが。 US/UK indies についてなら、雑誌なんかに頼らなくても、 輸入盤店巡りしていればなんとかなる、って思っていました。 実際、他の rock 系の雑誌を立ち読みしても、 そんなに自分の欲しい情報は載ってなかったですし。
1992年に就職した頃から、洋雑誌の購読とメール・オーダーの利用によって、 このパターンが変わり始めました。 就職して学生時代ほどには音盤店巡りに時間が割けなくなったから、 ということもありますが、一番大きかったのは、この頃から、 UK/US indies の guitar pop がつまらなくなってきたからです (音楽趣味履歴話 の Mon Aug 28 2:28:17 2000 の発言)。 UK/US indies rock/pop を扱う輸入盤店の guitar pop 中心の品揃えに不満を覚えて、 情報や音盤が入ってこないだけで、 他にもっと面白い音楽があるんじゃないか、と思うようになっていました。 (もちろん、jazz や reggae については、 それらを中心に扱っている店にも行っていましたが。) そこで、もっと欧米の情報を近い位置で得たい、と、その頃から読み出したのが、 Option という "Music Alternative" という副題の付いた 隔月刊のUSの音楽雑誌 (現在は廃刊) でした。 Tower Records の洋雑誌のコーナーで扱われていた雑誌の中で、 indie rock / pop の話題が中心でも、 それなりに、dance music や同時代の jazz も扱っていた、というのが、 その雑誌を選んだ理由でした。1995年に The Wire を 購読しはじめてからも、それから暫くは2誌を購読していました。 その一方で Greil Marcus の連載が終わった 『ミュージック・マガジン』の購読もしばらくして止めました。 で、そういった雑誌の記事やレヴューでミュージシャンや音盤をチェックして、 手紙で直接海外のレーベルとカタログ取り寄せや注文などの コンタクトを取るようになりました。 当時はまだインターネットは学術・研究中心、 電子メールではなくエアメールを使ってのやり取りは反応も悪く面倒でした。 もっとも敷居が高かったのは送金で、 小規模なレーベルではクレジットカードが使えないことも多いですし、 国際郵便小為替 (IRC, International Money Order) の手数料は1000円もしますし、 その当時は郵便局の本局に行かないとIRCは送れなかったのでした。 というわけで、やっぱり、輸入盤店に入荷するのを待つことが多かったです。 ただ、情報収集のために店に行くことはだんだん少なくなり、 小型の専門店でも大型量販店でもどちらでも良くて、あるところで買う、 という感じにもなりました。 大型量販店の方でもちゃんとチェックすれば意外な作品の入荷はありましたし、 むしろ、閉店時間が遅いという点で大型量販店を重宝するようになりました。
それから、送金などの手数料を抑えるために、 輸入盤店でオーダーしてもらうということも時々していました。 この輸入盤店でのオーダーは、最初のうちは、1992年に西新宿にオープンした Rough Trade Shop を使っていました。(というわけで、1994年に Postpunk ML等に投稿した 記事。) 実際のところは、店の品揃えに合ってないものをオーダーするせいか、 次第に店員に疎まれて注文を断られるようになったんですが。 で、Rough Trade Shop の代わりに注文に使うようになったのが、 当初は reggae のレコードを目当てによく行くようになっていた 西新宿の Warehouse でした。 そこで紹介されている怪しげな critical beats / electronica 関係の音盤とか、 あまり店の品揃え (実は punk / hardcore とかかなり多い) と関係なさそうでも 気持ちよく注文を受けてくれたので、重宝していました。
1990年代半ばになると、こんな感じでまだ西新宿が音盤店巡りの拠点でしたが、 その使い方はめっきり変わっていました。 少なくとも、僕にとって1990年代というのは、 輸入音盤店から自分の音楽趣味の羅針盤的な意味が失われた頃でした。 中古盤やセールを除けば、 今やインターネット通販が音盤購入の主な手段になっているわけですが。 単にインターネットが便利になったというだけでなく、 自分にとっては音盤店に音楽に関する情報源という意味合いが無くなってしまった、 ということも大きいかなぁ、と思うところがあります。
というわけで、1990年代の自分の音楽趣味と音盤店や雑誌との関係はこのくらいで。
さて、音楽趣味事始に関する 話が続きますが、今まで、 rock / pop 〜 dance (techno / breakbeats) に偏った話をしてきたので、 それ以外の話も少し。というわけで、jazz 〜 improv. に関する話を。
大学に進学する (1986年) くらいまでに、jazz 〜 improv. 界隈で聴いていたのは (Wed Aug 16 23:55:34 2000 の発言)、 Lounge Lizards や Bill Laswell の界隈や、 ECM レーベル界隈程度でした。 特に積極的な情報収集もしてませんでしたし、周囲に聴いている人もおらず とっかかりも無かったんですが。
しかし、Greil Marcus のコラムの翻訳が目当てだったとはいえ、 1987年から『ミュージック・マガジン』誌を読むようになると (Fri Aug 18 0:47:49 2000 の発言)、 その jazz に関する記事も読み、それを参考に聴いてみるようになりました。 特に、購読し始めて直ぐの1987年8月号に載った JMT レーベル (現在 Winter & Winter を運営している Stefan Winter が 1980年代に興したレーベル。参考となるレヴュー。) と Minor Music レーベルに関する特集記事 「JMT / Minor Music, イキのいい若手ジャズを紹介する新レーベル」 (pp.76-89) は、 まだまだこの界隈に面白そうな動きがあり、今後この界隈を手がかりに聴き進もう、 と思わせるだけのものがありました。それから、その特集で Steve Coleman にインタヴューをしていた マーク・ラパポート の記事・レヴューは、 その後、始まった連載コラム「じゃずじゃ」を含めて、 いつもとても参考になっていました。 といっても、1992年くらいまでは、『ミュージック・マガジン』にレヴューが載る メジャー配給レーベルで日本盤もリリースされるようなものを聴く程度でしたし、 UK/US indies の rock / pop の音盤を買う量に比べたらわずかなものでした。 この頃に主に聴いていたのは、レーベルでいうと、 Elektra / Nonsuch や Antilles, JMT, ECM などのメジャー配給レーベル。 ミュージシャンだと、 James Blood Ulmer や Ronald Shannon Jackson のような Ornette Coleman school の人たち。 それから、Marc Ribot や Bill Frisell の変な guitar とか好きでした。 当時は管楽器はちょっと苦手だったんですが、それでも、John Zorn や Tim Berne、 それから、World Saxophone Quartet。 あと、Steve Coleman や Cassandra Wilson のような M-Base 界隈も、という感じでした。 ま、jazz を聴く、といっても、昔の名盤を聴く、という考えはほとんどなく、 新譜を中心に追っていました。
1992年頃ころから UK/US indies からリリースされる rock / pop が つまらなく感じられるようになってきたわけですが (Thu Aug 31 0:09:58 2000 の発言)、 その頃から読み出したのが、 Option というUS音楽雑誌でした (Thu Apr 12 23:29:45 2001 の発言)。 読み出した当初の目的は indie rock / pop の情報だったのですが、 この雑誌は、それなりに、同時代の jazz も取り上げていました。 特に、jazz 関係で興味深かったのは John Corbett の書くもの (関係するレヴュー) でした。 この John Corbett の記事と、マーク・ラパポートの「じゃずじゃ」を頼りに、 hatART (Hat Hut) や Black Saint / Soul Note のような欧州の独立系レーベル物や、活動を本格化しはじめた US の Knitting Factory 界隈、 そして、free / loft jazz からより free improv. 寄りの物に 手を出すようになっていきました。
そして、「もはや、UK/US indies rock/pop はもうダメだ」という感覚が 確信になった1994年の頭に、jazz に関する情報を求めて、 京都大学計算機センターで運営されている Jazz ML (Sun Mar 4 23:35:10 2001 で書いたように、 全国規模の ML では最古参のもの一つ。当時は唯一ともいえる jazz に関するML。) へ参加することにしました。参加する以前から NetNews の fj.rec.music を介して やりとりしていた人もそれなりにいて、すぐに馴染むことができたように思います。 free jazz / improv. 界隈の話題ばかりではなかったわけですが、 そこでのやり取りを刺激に、手を出す音盤の量も格段に増え幅も広がっていきました。 そして、1994年の夏頃、特に free jazz / improv. 方面に興味を持つ人たちを中心に オフライン・ミーティングを開こう、ということになったわけですが、 その時に会場に選ばれたのが、今や僕のいきつけのジャズ喫茶になってしまった Mary Jane だったのでした。 このときに、初めて行ったのですが。
Mary Jane へ初めて行ったときのことは、今でも強く印象に残っています。まず、店に行ったら、 Max Roach & Cecil Taylor, Historic Concerts (Soul Note, 121100/01, 1979, 2CD) が大音量で流れていて、とうてい会話ができる状態じゃなかったのでした。そこで、 Anthony Braxton をリクエストしたら、Max Roach & Anthony Braxton, Birth And Rebirth (Black Saint, 120024, 1978, CD) がかかったのでした。 さらに続いて、Abdullah Ibrahim (a.k.a. Dollar Brand) と Roach の duo (何だったかまでは覚えていません。) と、 Max Roach 3連発、というかなり強烈な選曲が、印象に残りました。 しかも、その後に、jazz から外れて Ari Farka Toure with Ry Cooder Talking Timbuktu (World Circuit, WCD040, 1994, CD) と繋いだのも、とても印象に残りましたが。
これを契機に、Mary Jane に通うように なったわけですが、それ以降の話は、 去年の頭に書いた1990年代を振り返っての発言 の通りです。