2012年以前の「桑野塾」に関する談話室発言は以下にアーカイヴしてあります。
先週末5月11日土曜は雨。そんな中、午後に早稲田へ。 久しぶりに、桑野塾 [2012年の関連発言] に出席してきました。 去年後半全く出席できなかったので、去年6月に発表して以来、ほぼ1年ぶりでしょうか。
前半の報告は、門田 直人 『忠犬ハチ公ならぬ地下鉄“ハチ公”』。 2001年の殺害後、2007年にその像が建てられたモスクワの野良犬 Мальчик [マリーチク] [Wikipedia] の話でした。 マリーチクはモククワ北西郊 Менделеевская [メンデレエフ] 駅に住み着き、乗降客に可愛がられていた野良犬でした。 2001年11月、そこを通りがかった女性モデルが連れた犬と喧嘩となり、彼女に衆前で惨殺されたといいます。 その後、この事件を悼み動物愛護を訴える像を作ろうという運動がアーティスト達を巻き込んで盛り上がり [“A group of Russian artists shocked with the young girl's brutality initiated the making of a monument to the killed dog”, Pravda, 2005-11-09]、 2007年に像がメンデレエフ駅に設置されました [The unveiling of «Compassion» monument to stray pets, Moscow Metro]。 関わった人々の話を引きつつ、そんな運動が盛り上がった背景には人々が人情深かったソヴィエト時代へのノスタルジーがあったのではないか、ということ。 低い台座に寝そべって足で頭を掻くような正面のない姿勢というのは、 権威的な像とは対照的という参加者からの指摘も、説得的でした。 2年前にモスクワへ行った時に野良犬の多さに驚かされたものですが、 そんな犬たちの中にも地域で可愛がられていた「地域犬」もいたのかもしれません。 そのモスクワの街歩きでは、通りがかりのおばさんが一緒に建物を探してくれたこともあったり、と、 人々の人情に触れる機会もありました。そんなことも思い出される面白い発表でした。
後半は、桑野 隆 先生の登場。 「『ドストエフスキーの創作の問題』を読む」と題して、 最近出版された ミハイル・バフチン [Михаил Бахтин] の 訳書『ドストエフスキーの創作の問題』 (平凡社ライブラリー) について、 その翻訳の仕方というか考え方を発表しました。 桑野 隆 『バフチン』 (平凡社新書, 2011) にも手が余った程で、 正直に言って、ほとんど話について行かれませんでした。 しかし、翻訳でこだわった箇所というのは重要な箇所ということで、 何がキーワードというか鍵となる概念なのか伺われるような発表でした。 これを参考に新書の方を読み直したら、少しは理解が進むかもしれません。 あと、発表中、自分の誤訳を率直に認めるような所が何回かあって、 そういう所も桑野先生らしくて良いなあ、と思ったり。
土曜は昼過ぎに家を出て午後早めの時間に早稲田入り。第17回の 桑野塾 [関連発言] に参加してきました。
今回は自分の発表の番。一番手として、 『2012年夏ドイツ美術旅行レポート』と題した報告をしました。 去年のドイツ旅行の話を、 主に dOCUMENTA(13) の話を中心に1時間余。 有名な国際美術展の話なのでひょっとして釈迦に説法になるのではないか、 もしくは逆に分野違いになって話が通じないのではないか、 そもそもどういう切り口で話するのが良いのか、 今までの桑野塾の発表の中で準備中に最も思い悩んだ発表でした。 結局、去年書いたレビューの通り、 自分がこの展示をどう読み解いたのかを軸に据えて話しました。期待以上にウケが良くて、発表してよかったかな、と。
続いて、武隈 喜一『消された〈ロマンス〉 —— 作曲家ボリス・フォミーンについて』。 1968年に Paul McCartney プロデュース、Apple レコードによる Mary Hopkin のデビュー曲 “Those Were The Days” [YouTube] がヒットしました。 日本では漣健児による日本語詞が付けられた「悲しき天使」で知られます。 Gene Raskin 作曲とクレジットされているものの、 この歌の旋律は1924年作のロシアの歌 «Дорогой длинною» 「長い道を」から取られており、この作曲をしたのが Борис Фомин [Boris Fomin] でした。 その Борис Фомин [Boris Fomin] と、この歌のジャンルであるロマンス (Романс) が 1910年代から1940年代にかけて辿った道を、その歌を聴きながら辿り直すという内容でした。 1929年以降、ロマンスは「反革命的」と見なされ、Борис Фомин のような作曲家は活動も容易ではなかったとのこと。 しかし徹底的に弾圧されたというとそうでもなく、録音が残っている程度には大目に見られていた時もあったよう。 その一方で、Фомин は1926-1928年にアジプロ劇団 Синяя блуза (青シャツ) で音楽を担当したり、 独ソ戦中にはアジ劇団 Ястребок (ヤストレボク) を結成しドイツ軍の迫る1941-1942年のモスクワで活動を続けたりしています。 また、«Дорогой длинною» は革命後ロシアを離れてパリをはじめ世界を放浪して活動した 歌手/キャバレー芸人 Александр Вертинский (Alexander Vertinsky) の持ち歌となり、 亡命ロシア人たちの間でも親しまれたといいます。 そして、それがロシア民謡として Gene Raskin らの耳に入り、“Those Were The Days” になったという。 音楽ジャンルという面から弾圧されつつ、アジプロ劇団等で活動した面もあり、かつその歌は亡命ロシア人にも愛聴されたという所に、 歌 (に限らず芸術一般に言えるのでしょうが) の本質的な多義性を見るようでした。 ロシア語がわからないので実際の録音を聞いて歌詞の意味を聴き取ることは出来ませんでしたが、 いかにもロマンスっぽいものだけでなく、ジャズやフォックストロットを思わせる編曲のものもあり、 むしろそういう曲に、1920s-1940sでもそのスタイルは世界と繋っていたのだなあ、と感慨を覚えました。
土曜は、薄ら寒い雨の一日。そんな中、午後に早稲田大学 早稲田キャンパス 16号館へ。 桑野塾 [関連発言] の第19回に出席してきました。今回のテーマは、「歴史の闇に鋭く切り込む、若き研究者の報告」。
前半の報告は 玉居子 精宏 「大川塾が秘めていた可能性」。 『大川周明 アジア独立の夢——志を継いだ青年たちの物語』 (平凡社新書651, 2012) の著者の方です。新書の内容をベースに、書けなかったエピソードの紹介なども。 大川塾 というのは 大川 周明 が1938年に設立した 東亜経済調査局附属研究所 で、 「将来日本の躍進発展に備えるために海外各地に派遣し該地の政治、経済及び諸事情に精通せしめ所要の調査に従事」 する人材を要請するために開設されたもの。 太平洋戦争直前に設立され、南方進出のためのスパイ養成学校とも見られていたそうです。 ここでは、大川 のイデオロギーはさておいて、そこでの教育を受けた人々の実際を見るという内容でした。 中卒程度の学歴の者を集めて現地の言語 (宗主国を含む) を学び、 大使館や商社の現地雇員として派遣されたといいます (大卒なら職員なのですが、中卒相当なためその下の職位とのこと)。 派遣された国の独立運動を支援した人も多かったそうですが、 復員後に郷里に帰り再び海外への仕事をすることなく、多くは普通の生活へと戻ったといいます。 この発表で 大川 周明 を知ったくらいこの界隈の話には疎く、 この話で 大川 の思想なり人となりがわかったわけではないのですが、 官僚・エリート養成ではなく、海外進出に必要となる実務中心の人材の養成も行われていたのだなあ、と。 ちなみに、今年頭に 大川 周明 を取り上げたTV番組 『日本人は何を考えてきたのか 第10回「昭和維新の指導者たち~北一輝と大川周明」』 (NHK Eテレ, 2013年1月20日0:50~2:20) が放送されたのこと。 NHKオンデマンドでは見られないようで、少々残念。
後半の報告は 島田 顕 「モスクワ放送の歴史 調査報告」。 1929年に始まったソ連の国際ラジオ放送「モスクワ放送」の設立期から 第二次世界大戦終戦後のシベリア抑留からの復員の頃まで、 その設立の経緯や放送内容を現地の資料の発掘を通して調査を進めており、 その経過報告とでもいう内容でした。 コミンテルンやソ連国内政治との関係を中心に辿る内容で、 そこに疎い自分にとってはフォローするのも厳しいものがありました。 しかし、発表後の活発な議論にもありましたが、 1920〜40年代というのはまだラジオが「新しいメディア」であり、 政治的な経緯だけではなく、当時の世界的なラジオというメディアの発展に 体制や内容が規定されていたこともあったのだろうなあ、と。
自分の疎い分野の話だったので、興味をひかれるような部分もありつつ、話に付いてくのも厳しい感じではありました。 しかし、当面の興味から外れる話しも聴いておくと後で意外な所で繋がったりすることも多いので、 たまにはこういう話を聴くのも良いかしらん、と。
日曜はうって変わって暖かい一日。上着無しでも、歩いているとうっすら汗ばむ程でした。 しかし、ここ数日だいぶ体調が戻ってきてはいるものの、 この先一週間また厳しいスケジュールなので、完全休養日としたのでした (弱)。