●●作者近況●● 

その2 節分

 節分の日に、52歳が17歳の高校生と、2人きりではないが、食事をする機会があった。もちろん私の娘ではない。私の35年前は、貧しい時代の高校生であり、彼女は豊かな時代の高校生、時代の積層は異なっても、共通する部分が、案外と多いのにびっくりする。
 映画はもちろんだが、人間も時代の子であり、さらに35年後の高校生とも話ができるかもしれないと思うと、87歳の私の日々も楽しみである。鬼が笑うどころか、35年後の女子高校生との会話を楽しみにしているなんて、鬼も大笑いする今年の節分である。


シネマファシスト 連載第2回2月号

昨年の10月6日クランクイン、11月11日クランクアップ、 2月6日初号、カンヌ国際映画祭出品予定、10月公開予定の吉田喜重監督作品『鏡の女たち』と いう映画の宣伝をしている。 この作品は製作宣伝といって、製作現場から宣伝がスタートしている。 撮影期間1ヶ月間のうち、聖蹟桜ヶ丘、東北沢、広島、そして調布の日活撮影所と 約2週間は映画の現場にいた。映画はリュミエール兄弟(フランス語で光)が発明しただけあって、 ほんとうに光の産物である。東北沢ではドシャ降りの雨の中で、 秋の日の晴天の夕暮れを撮影したが、広島ではさらに、晴天に光を足して、 より晴天らしくしている。映画は生き物なので、製作現場では色々なことが起こる。フランシス・フォード・コッポラ『地獄の黙示録』と比較する訳ではないが、(なぜこのタイトルを持ち出したかと言うと、この映画の撮影でコッポラが滞在したホテルに私も宿泊したからである。ホテル・デ・バンにもル・グラン・インターナショナルコンチネンタルにも泊まった。)淡々とした撮影であった。

撮影に苦労すれば傑作が完成する訳ではないので、前回、前々回と過酷な現場であったので、この淡々さが快適であった。完成した映画から、逆に現場の雰囲気が推し量られるので、現場の空気は映画に反映するので、監督がつくる現場の空気は、作品にとっても大切である。

撮影現場の吉田喜重監督

『鏡の女たち』より、広島のシーン


市井義久(映画宣伝プロデューサー)

1950年新潟県に生まれる。 1973年成蹊大学卒業、同年株式会社西友入社。 8年間店舗にて販売員として勤務。1981年株式会社シネセゾン出向。 『火まつり』製作宣伝。
キネカ大森番組担当「人魚伝説よ もう一度」「カムバックスーン泰」 などの企画実現。買付担当として『狂気の愛』『溝の中の月』など買付け。 宣伝担当として『バタアシ金魚』『ドグラ・マグラ』。
1989年西友映画事業部へ『橋のない川』製作事務。 『乳房』『クレープ』製作宣伝。「さっぽろ映像セミナー」企画運営。 真辺克彦と出会う。1995年西友退社。1996年「映画芸術」副編集長。 1997年株式会社メディアボックス宣伝担当『愛する』『ガラスの脳』他。

2000年有限会社ライスタウンカンパニー設立。同社代表。

2001年
3月24日『火垂』
6月16日『天国からきた男たち』
7月7日『姉のいた夏、いない夏』
11月3日『赤い橋の下のぬるい水』


ヨコハマ映画祭審査員。日本映画プロフェッショナル大賞審査員。

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バックナンバー 1月

(レーコより)吉田喜重監督がメガホンをとるのは、実に88年の「嵐が丘」以来13年ぶりだとか。そういえば、バイト先の映画館でこの映画が上映されてました。主演は松田優作と高部知子。もうあり得ないキャストです。80年代が昔と感じる、2002年の春です・・・。


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