■ポスモダ3兆円がムダとか・・・ 2004/8/20
◆
8月20日
油らーめんを食べる。
◆
そーゆーワケで、
信用買い残3兆円っと。
つまり証券会社に借金して株を買って、そのままになってる金額が約3兆円。
買った株は売らないと利益にはならないので、買ったままの株が3兆円もあるのは
オカシイんですねえ。
みんなお金がほしいのに、株を持ち続けているわけです。
それはヘン。おかしい。
なんか理由があるハズ。
で、知るべきは、そのオカシイ状況を生んでしまっているその理由。
もちろん、その理由はカンタンです。世の中にムズカシイことってあんまりないもんね。
で、株を買ったままになっているのは、売っても儲からないから。
つーか、売ったら損するから、なんだね。
だって、買ったときより株価が下がっていたら、売ったら損するでしょ。
とゆーのがここしばらくの状況でっす。
そんなワケで、今、借金して買った株が3兆円分も、そのまま。
問題は、何か? つーか、どこか?
3兆円も、そのままだと、株式市場が正常?に動きません。
売り買いの動きがなくって、ヘタすりゃ縮小均衡で市場が凍るだけ。
株式で資金を調達してる企業も、買ってくれる人がいないので大変。
いわゆる直接金融が上手くいかないもんで、自由資本主義じゃない。
金融系企業からの融資だのみじゃバカな歴史を繰り返すだけだしね。
帝国主義の最終段階に君臨する金融独占支配を打破するのは、
ただ単に企業の株主が個人であることだけ。
つーことでネットトレーダーはリアルなポストモダニストであると同時に、
ホンモノの革命家なんであるよ。
◆
で、直接の理由である株価の低下はナゼか、と。
主な原因のひとつである原油価格の暴騰は....
アメリカのイラク政策のバカさ加減は当然で、
それを逆手にとったロシアの戦略だの、
9月のアメリカによる制裁発動を前にけん制の姿勢をとるイランの石油減産とか、
いろいろあります。現象は現象の数だけ、現実は現実の数だけあるから、当然ですが。
でも、どーゆー原因があろうが、株価の時価総額は、理念的には、ほぼ不変。
つまり、ある時に株価が上がったら、ある時に下がって、1年とおして考えると、
1年前とほぼ同じつーことです。経済理念的にはGDPの変化分だけ変化するけど、
まあ、実際の株価の変動と比べたらほぼ無視できる数値だし。
リアルでは、株価時価総額という全体値はほぼ不変ですが、個別の具体的な株の値段は
激変の毎日なワケで。投資家さん、ポストモダニストさんたちはサラ金にかけこんだり、
JR中央線にダイブしたり、突然超高層マンション買ったり、人それぞれの、ある種
精神分析の現場よりリアルで本質的な人々の姿が見学できたりします。さすぐわ、ポスト
モダンのリアルフィールドですね、株式って。ケインズやマルクスが知ったらどーするでしょ、
現実のポストモダン。
◆
時価総額は不変のまま、個別の株価は激変する....。
どーしてか?
それは個別の株を売買して儲けているのは投資家だけではなく、
むしろ銀行や機関投資家と呼ばれる企業による売買がメインだからですね。
つまり株式市場の主導権は企業が握っていて、いろいろな戦略で株価に影響を
行使します。基本的に株価は買いが多ければ上がり、売りが多ければ下がります。
基本的にはこの当り前の原則を使って株価を動かすが企業の戦略。
人気がある株が買われて上がります。
企業はケインズが美人投票と呼んだポストモダンな価値判断を逆手にとって、
その価値そのものを動かしていくワケです。複数の選択枝をある一点に向かって
絞り込んでいきます。
情報とその操作を駆使した戦略ですが、情報量、判断能力、決定スピード、実効能力、
などなどいろいろな能力で劣る?個人投資家は、カンタンには企業に勝てません。
銀行系列をメインとした株価誘導の戦略を見抜き、それにシラケつつ乗って自らの
利益をゲットするという戦略に個人の可能性があるワケですが....。
ところで、個人の損失分を利益として儲けてるように見える企業ですが、
実際にはそーでもなく、トータルで考えると、それは自業自得でダメなんで、
企業もちゃんと考えないと、あとが無くなるつーか大変な目にあうかもよ、
ってなもんで。
株価が下がると、2つの理由で、個人投資家は銀行の預金をおろしたり保険を解約したりします。
1つは信用で株を買っている場合、株価が下がると担保金の価値も下がるために担保金を
追加しなければなりません。もう1つは、株の売買から利益を得られないので、預金をおろしたり、
保険のお金を使ったりするケースがでてくるワケです。
この3、4ヵ月の株式市場の激闘のなかで余裕を失った個人投資家をはじめとして
信用買い残が3兆円もある一方で、銀行がナゼか4.8兆円も利益をあげています。
でもね、そやって困っちまった個人は銀行からカネをおろし、保険を解約するワケです。
1年をとおして不変の株価総額から利益を得るには、個人に吐き出させたお金を得るという
基本中の基本。しかし、銀行系列などのこの基本戦略は自らの市場を消失する可能性のあるもの。
これこそ資本主義は墓穴を掘るというマルクスの指摘の一つですが....。
◆
と、昨日1日で上等なリーマンの月収分をゲットして、
本日反転攻勢の祝宴を、と思ってメニューにも無い油らーめんを
注文するワタシはビョーキなの、ってしりめつれつなかきこレスネ。ブイ
■吉本theory独解すんだもんね・・・ 2004/8/14
つーことでアクセス不能になったBLOGのログをちと紹介でちゅ。
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80年代にリアルタイムの分析をとおして現代そのものを取り上げたのが『マス・イメージ論』
と『ハイ・イメージ論』。この2つの理論では吉本理論の初期三部作をベースにして、現在のテ
クノロジーとメディアによる特徴的な理論の拡張がはかられています。
吉本さん自身の説明(『イメージ論』あとがき・全撰集7・大和書房)によれば以下のような
ポリシーのもとに思索されたようです。
マス・イメージ論は現在版の『共同幻想論』である。
ハイ・イメージ論は現在版の『言語にとって美とはなにか』である。
言語の概念をイメージの概念に変換することによって三部作に分離していたものを
総合的に扱いたい。そして、イメージの概念によって総合することで、普遍領域に
ついての批評概念を目指したい。
また、そこで生じる問題を自らハッキリと把握し、その追究に力が注がれています。
ここでいちばん問題になったのは、言語と、
わたしがかんがえたイメージという概念が、
どこで結びつき、どこで分離して遠ざかるかを、
はっきりさせることだった。
その前提であり不可分でもあるラジカルな問題が『ハイ・イメージ論』の当初からの課題であ
る「イメージという概念に固有な理論、その根拠をつくりあげる」こと。これはCGへの孝察か
ら理論が展開されて「世界視線」の概念へと到達し、大きな成果を生んでいます。
そこでは視覚作用と想像作用によるイメージとが同致されて受容されることへの可否が問われ、
哲学や心理学で問われてきた認識論への全面的で根本的な解答がなされます。
この部分は基本的に『心的現象論序説』において詳細に孝察され、認識の障害や異常、あるい
は感情や夢への分析としても既に理論づけされています。そのため『イメージ論』は全般的に
『心序説』の演繹として読むことのできる内容になっています。
逆にいえば、『心序説』の射程の長さや深さは予想以上のものであり、またジャンルや領域を
超えたものであることがわかります。
それが、ここで『心的現象論序説』をメインに吉本理論を解読していくことの大きな理由です。
その結果をY理論として考えていきます。
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■あそーせかちゅーみん・・・ 2004/8/11
せかちゅーで純愛ぶーむはいいんすけど、
ユーミンを想い出します。とりあえず。
■夏の日だなあう・・・ 2004/8/7
★
ガキの頃にアメリカ軍基地のフェンスを破った秘密の抜け穴は、夏になると
背の高い草の陰で完ぺきに見えないし、花火大会が始まる夜ともなれば
パーフェクトな秘密の出入口と思って突入。1、2メートルのホフク前進のあと
カッコよく立ち上がると、もっとカッコイイ本物のアメリカ兵がカービン銃を
構えてて、ギョッ。「MP」のマークをつけたヘルメットの下で、こっちを観て
ニコニコ笑ってるとこが最高にカッコよくって、アメリカのスケールみたいな
もんを感じさせてくれましたん。会場のロープを張った最前列では、内臓の
一個一個まで響く火薬の炸裂する地響きに感動。ソ連でロケット発射に立ち会って
感動のあまり号泣したユーミンの気持ちがちよっとわかるかもんな風。
★★
今年の夏はボーゼンと、暑さのなかで、とうとう新宿駅の次に昇降客の多い記録を
不動のものにしたJR立川駅に、「花火大会」のポスターを見つけてボンヤリ。
新宿や渋谷での取り締り強化でこっちに流れてきたガキも少なくないらしい、
という噂のペダストリアンデッキで、汗がタラタラの毎日でやんす。
昭和公園での花火大会を見ていたら、大きな花火の下の方に、
マッシュルームみたいなのがポコポコ光ってます。『もののけ姫』に出てくる
森の精みたいなやつ。よく見るとポコポコは狭山丘陵の西武園の花火かも。
(http://jtnews.pobox.ne.jp/movie/database/treview/re676.html)
頭上と遠方に花火を見ながら、艦砲射撃みたいな音を楽しんでました。
地球がウーハーみたいな超低音は絶対16Hz以下つー感じだね。
★★★
遠くに見えるのはトトロの森がある狭山丘陵。
『となりのトトロ』(、http://www.aic.gr.jp/anime/ghibli/1988t.shtml)にでてくる森の精、
トトロの森があるのは狭山丘陵の西端。
お母さんが入院している八国山は東端。
八国山は、高校生の時にカンフー映画を撮った場所で、
暴走族に襲われそうになったり(結局笑顔で仲良くできたので幸いでしたんW)、
リアルな思い出があるとこ。
今はネコバスが走り回る畑や原っぱもたいてい住宅地になってて、
キュウイ畑があったりします。
いきなり府中のケヤキ並木がイイ気持ち、ブットイ御神木が何本もある、大国魂神社参道の、
フーテンの寅さんに出てきそうな吉田屋で冷し中華とカレーウドンを食べて、満足。
■『忘れものの森』イイネ・・・ 2004/8/2
8月2日、『ギルガメッシュ』が終わり。
エンディングの曲『忘れものの森』がよかったので、
観るようになったんですが、
オープニングの『Crazy 4 U』ももちろんGOO。
R&B系でも何でも宇多田ヒカル以外に気に入ってる声質の人のは
この倖田來未ほかちょっとだけ。
『忘れものの森』の声は安藤裕子。
この不思議な魅力の声、詞もいいしい、と....
GARNET CROW以来のいいもの出会いな感じかな。
■難解なことでも有名な『心的..』・・・ 2004/7/31
それなりに知られている「共同幻想」とか「対幻想」という言葉があって、
思想や社会を語るときに使われたりするし、このタームの発案者であるハズの
吉本さんやその思想を論議するときにも、当然のように使われます。
ところで、その吉本さんの思想で、いちばん基本となっている著作が『心的
現象論序説』です。この著作は難解なことでも有名で、おそらく日本の思想哲
学などの類で最も解読困難なものなんでしょう。内容的には理系的概念が駆使
されているので、ある意味では明晰な理論なのですが、実際には理解した上で
と思われる批評や論議がほぼ皆無なことから、ほとんど理解されていないとも
考えられます。
当然のように語られている「共同幻想」や「対幻想」といったタームについ
ても不思議なことがあります。吉本思想のいちばんの基本である、この『心的
現象論序説』には「共同幻想」や「対幻想」といった言葉は出てきません。
「幻想的共同性」と「幻想対」という言葉が角川文庫版ではP30に出てき
ますが、他には「共同観念」や「自己妄想」といった言葉があっても「自己幻
想」や「個人幻想」といった言葉もありません。
『心的現象論序説』に「原生的疎外」と「純粋疎外」という、おそらく吉本
思想のいちばんの基礎となる概念があります。フロイトの原理論をマルクスの
疎外概念で考察し直したものをベースとしたものですが、現代を分析した『マ
ス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』の重要な概念も、この「純粋疎外」
を前提として形成されています。ところがよく使われる「共同幻想」や「対幻
想」という言葉とは違って、この<純粋>概念に関してはほとんど言及される
ことさえありません。吉本思想のいちばんの理解者だと思われているある学者
でさえ「ありがたくない概念だ」と否定していて、自らの理解が及ばないこと
を隠蔽しています。
「世界視線」や「パラ・イメージ論」で駆使される概念や論考も、この<純
粋>概念を土台に構成されたものであり、そこでは自在にヴィットゲンシュタ
インやソシュールが批評されています。
この<純粋>概念に近いものでとても優れた概念としてオートポイエーシス
の「位相」概念があります。これは理論的孝察を推し進めるためにシステムの
空間的位相を仮構しようとするもので、吉本理論において「原生的疎外」や
「純粋疎外」の概念が用意されたのと同じ事由とみなせるものです。ただしオー
トポイエーシス理論ではシステムの外部からの情報を撹乱としてか定義してい
ないようなので、現実の生きている心的システムを考察するには致命的な盲点
があります。
■ナンデモナイ&一期一会・・・ 2004/7/30
★<出会い>がイッパイ
顔を寄せるように窓をふり返ると、窓ガラスを小さなこぶしでコツコツと叩いて、
ほんの2、3歩分だけ、寄り添うように歩く、そしてほんの2、3歩分で小さくなって
いく女の子の姿がある。混雑するはずの夜のホームの人影は見えても気配は無くて、
それが、この記憶のシーンに、不思議な印象を与えている。
深夜に、Animaxのプロモの女の子を見て、想い出したりするこの光景が、
具体的にどこの駅での思い出なのか、別のシチュエーションで国道編や海辺編が
あったのかどうか。すぐに想い出されるけど、そのリアルなデキゴトではなくて、
いつも想い出すのは、その、何かの、感覚だ。
いく度も繰り返された現実から、いちばん簡単に予測できるのは、
また繰り返すだろうというコトだけど。
そういう現実には、そういう現実を生みだす、もう一つの現実がある。
たとえば<別れ>が繰り返されるのは、
それだけ<出会い>が繰り返されている証拠。
★<別れ>がなさスギ
T.S.エリオットが生まれてつるんで死んでいくと、
哲学や宗教が必死になって探究してきた真理を何気なく詩に書いちゃう。
ヘーゲルを読みこなして宗門のリーダーとなった坊主が一期一会とかいうと
エラそうだったりするが、そんなことは誰でも知ってるし。
シェークスピアやキルケゴールじゃなくたって、
悲劇の解読はできるし、それどころか、そんなのは常識っぽい。
ITや交通のテクノロジーのおかげで、
誰でも、どこでも、誰とでも、出会えるのに、
別れがないような気がする。
匿名こそが不可能になりつつあるという優れた指摘みたいに、
別れが不可能か、少なくとも不能になりつつあるんじゃないか。
匿名とは、すべてとの別離の可能性であって、
それは個の確立という位相の面を持っている。
これがなくては、ホントの自律も自立もあり得ない。
★リアルな<別れ>を
セカチューみたいに生きてみな、っていったって無理かもしれないが。
村上春樹からレアな流行まで<別れ>話しのオンパレードで、ちょっとアキる。
<別れ>なんてあたりまえのモンで、感動したり、
その亜種バージョンでもらい泣きするメデタさが、キモかったり。
どれもこれも、リアルな別れとは違いスギ。
だから、ホントに別れてごらんよ。
たとえばヒッキーは、自ら、そのフツーでは無理な<別れ>、
すべてとの<別れ>を自演してるんじゃないかな、と思ったりする。
そこには、少なくとも、流行り言葉にもなったらしい自己責任というものの
比較的マットウな印象と、
他者依存の遮断という決定的でテッテー的な倫理がある。
自己認知を求めてケンカを売るストリートのバカとも、
自己チューな表現に異常という自覚が無いネットのデンパとも、
選挙でえらばれたのに大衆を見下すキチな政治家とも違う、
キビシイ倫理と自己抑制がある。
そして自分以外は信じない、
神などクズ以外の何者でもないことを知っている強度は、
本質的でラジカルだ。
★<出会い>と<別れ>のDB
引き出しにあるクマの人形に、一生忘れられないセリフを想い出したり、
フロアの縫いぐるみに何かの思い出があったり、
まるで映画みたいに車のキズにまで由来があったりする。
その、あふれるデータベースに、何の意味があるのか。
かつてビョーキの思想家がオタクに集める情熱を見出したりしたけど、
集めるだけ集めてそのまんまという状態に病気を見出した精神科医と、
どっちがエライのか、なんつーことはどうでもよくて、
あとは自分が、問題だね、やっぱ。
■ネットDBは忘却不能で認知不全・・・ 2004/7/23
主のいないWEBがイッパイ。
マスターはとっくに死んじまったHPがぞろぞろ。
つーのは別にジョーダンではなく、
5年かかって書かれた初のサイバー関係の文化論だった『デジタル日本人』から
知ったこと。著者の高城さんの西新宿の路上駐車の自動車の中で暮らしから、鈴木エドワード設計の
3億円の豪邸の床の間にストラトキャスターなんか飾っちまうまでもカッコイイけどさあ。ウチは体育会系
だよーんというノリも新鮮だったりしまうす。
ご主人様のいないLOGがそこら中にあって何かを訴えてるザマは、
賽の河原の石ころみたいなもんで、なかなか壮観な感じもします。
一方で裏HPや隠れWEBやアクセス制限なんかで、ネットとゆーデフォルト公共空間に
ありながらも隠れてるつもりのLOGやソースも、なんか惨め。
サイバースペースで完全な秘匿や隠蔽は、完全な無理でしかないし、
テクロジカルにほとんど意味無しで、
いまだにローミングが不全なネットの方が問題でしょう。
書かれてしまったもの、表出してしまったものは隠せないし消去できない....
というのがWEBのホントの属性であり最大の特徴ですね。
主人が死んでも、アクセス制限しても、表出してしまったものは
削除されないし隠せもしないワケです。
書いちゃったらそれまで、表現しちゃったらそこまで、なワケです。
常に問われるのは主体の責任と倫理だけ。
そしてバレるのは主体の本質&キャラくらい。もちろん表現内容のレベルや
質が問われますが、そもそも、それほどのものはあまりないし。
つーことで、ネットには忘却できない記憶と、認知されない戯言が、
デブのコレステロールみたいに溜まりまくり、心やさしいマルキストをはじめとする
奇特な人たちはそれを<本源的蓄積>なんて呼んで、歴史的必然として
受け入れていくんですねエ。
まあ、実態は「忘却できない記憶と、認知されない戯言」なワケで、
フロイト的原トラウマとラカン的審級ウンヌンとして
最高のsample、サイテーのrealとして、貴重にして普遍、
当り前にしてビックリな代物だけど現実よ....な世界なんですね。
そこではテクのロジカルなアプローチは有限でしかなく、常に問われるのは
一回性の、主体の、責任。WEBに<刷り込まれた>リソースは
そのまま本源的蓄積そのものであり、その不定形で無限大な情報は、やがて
全人類そのものに関係する世界そのものであるところのデータベースを
形成しつつあるワケです。
■文章を書かなくていい女性ライター?・・・ 2004/7/18
個人的に高度成長やバブルをリアルタイムで経験できたのは面白かったけど、
いかにもありそうな話しのオンパレードから一つか二つ、以下にカキコしまうす。
ある広告代理店の部長からの指示だとゆーことで頼まれたのが、
女性ライターを探すこと。
その条件がヘンで、?
女性であること
年齢は30歳まで
容姿は並以上
生活できる部屋は用意する
文章は書けなくていい
文章は書けなくていい?
はあ?
部屋はワンルーム程度が用意されるらしいが....。
女性ライターで文章は書けなくていい....とは?
なんのコトはありましぇん。
広告代理店の部長が囲える愛人を用意せよ....というオーダーだったんですねえ。
じつにバブル期の王様産業、虚業のキング、カタナカ職業の総本山、そして
あらゆる文化の司令塔にしてサブカルの産婆....広告や出版の世界の浮つきぶりが
セル画のような単価と人気で量産された1コマでしたん。
もっとスゲーのはトレイシーローズか誰かを1日100万円くらいのギャラで
米国から呼んだ某最大手企業の社長さんだったりします。撮影をまかされた
知人のカメラマンは一生涯でこんなにキンチョーしたスタジオワークはなかったよん、
と胸をなでおろしてましたん。まあスタジオの暗がりで待ってるお人が世界企業の社長
さんだなんて、そっちの方が緊張したとか。もちろんお写真はプライベートもんで、
ご本人はお持帰り、っと。これ以上書くとキケンなんで、オシマイ。
■<村八分>のホントのコワサ・・・ 2004/7/16
▲<村八分>のホントのコワサは、<村十分>ではないコト
中居くんが主演したドラマの『砂の器』でワザワザ「村八分」の説明をしてたので、
こんなもんまで説明しなきゃイケないのお、と思ったんだけど。
考えるとスゴーイ恐いコトなんで、まあ、説明も必要だろうなあ、と。
しっかし、
ホントにコワイのは八分(8割)のコトに関してハズされるとゆーコトじゃないんだよ!
無理にでも参加させられるコトの方が恐いんだね、ホントは。
村八分にはその言葉のとおり、あと二分があるワケで、これが最重要ポイント。
この二分に関しては参加を認められるとゆーか、参加させられるワケ。
つまり強制参加。強力な同調圧力つーこと。ホントにコワイのはココでしょ。
ココが最大の、そして、ラジカルなポイントでっす。
二分に関しては強制参加であるとゆーことは、
八分に関して排除しコケにしていながら、
二分に関しては、ちゃんと搾取する、とゆーことですね。
それが冠婚葬祭なワケ。
▲アキバとか、都市の基本は<村十分>なワケで
<村十分>であれば、完全に排除されるワケで、
お互いが近接した同じ空間に居ようが、気にしなければ、それまで。
OKでやんす。
この状態が歴史的な蓄積としてインテグレートされ、
そういう本源的蓄積さえ資本として機能しているのが都市....つーもんなんですが。
秋葉原も歌舞伎町も、同じようなもん。
都市は、実をゆーとデフォルトが<村十分>なところ。
少なくともそーゆー幻想が成立するところでしょ。
つまり、都会の魅力は、極論すれば、お互いの完全不干渉。
人間が生きていくためのマテリアルな機能以外は、
個人の自由選択による営為がその基本。
そーゆーゲゼルシャフトな究極の空間が都市なんですね。
ところが、村は違う。
これはゲマインシャフトへの批判や否定ではなくて、
ゲマインな関係を利用した権力の在り方というものが隠蔽されてる
とゆーことでしょ。
▲100円で100円のものが買えるのが都市
カンタンにゆーと、
人が100円の支出をすれば100円分の何かが買えるのが都市です。
100円だしたら100円のものが買えるという単純明快シンプルライフな
ライフスタイルが可能なのが都市生活の魅力ですね。
そこには道徳的な差別(まあ、差別の根幹は道徳にしかありませんが、何か?)や
軍事的な脅威さえもコケにする(武器は資本によって購入するもんですが、何か?)
最も道徳的な科学
....とマルクスが絶讚した資本主義があります。
資本主義ってクールだね!
ところが100円だしても100円のものが買えない状態があります。
正確には買えないとゆーより売ってくれないワケですね。
これが村八分、つーこと。
▲トドメは二分への強制参加
100円だしても何も売ってくれない、共同体上の何の連絡もこない....。
ところが共同体構成員の、特に支配的な地位や権力のある人間の冠婚葬祭になると、
それへの参加を強要される。
つまり....
オレのために喜べ
オレのために悲しめ
....とゆーこと。
これが村八分でも参加を強制される二分の実態。
経済を含む生活の多くの場面で排除されながら、
ご祝儀や香典という経済的負担を強いられる、という
現実的なツブしにあわせられるのが、<村八分>のコワイところ。
▲TOKYO圏の実態は
世界一の大都市TOKYO圏でも、
そんなニュースがあったりして、
ビックリしたりしますが、
ホントの<二分>はもっと巧妙に、
平静な趣きをもって、
そこいらじゅうにあるでしょー。
ボクのエンディングは
とっくの昔にセカチュー風に決定してるんで、
ある種ふっ切れてますが。
共同性がどのように個を侵蝕するか、とゆー観点の批評は、
ますます困難であるとともに、だからこそ必要だし。
また、その実態が、共同性を装った特定の複数者だったり、
時には個人だったりするのが、政治とビョーキの現われであるとゆー
マテリアルな事実には、マルクスの先見やシステム論や権力論のクールさに、
多少の可能性を求められる瞬間ですね。
今のところ何となく判るのは、
個をホントに守るのは、
圧倒的な情報の開示と、
言論の自由....ということだよね、と。
■吉本さんのTPOとか・・・ 2004/7/12
大衆の側からすれば、
吉本さんはもう一人の大衆にすぎないから、
もはや読まなくてもいいし、
評価しなくてもいいし、
注目しなくてもいい。
コレは橋爪大三郎さんの『永遠の吉本隆明』でのラジカルな指摘です。
そーなんだよなあ、とか思いながら、もう一つ気になる以下のような
スルドイ指摘もあって、いろいろ考えちゃいますが。
ま、考え、なんてその程度なんで、あとはヤルかどうかだけ。
もうチビチビヤッてきてるんだしー、と思いながら、
blogで書いたけどブッ壊れたので、ココにチョット書きまうす。
大衆社会が高度化し、消費社会とも呼びにくい、
ハイパーな状況に突入している。
吉本さんならこのハイパーな状況を記述できる、
と思うのですが、ただ、
社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?
こりゃスゴイ問題提起でっす。
吉本さんが現在を分析し記述しようとしたのが『マス・イメージ論』と
『ハイ・イメージ論』。その重要タームの<世界視線>はケッコウ有名
かもしれません。初期の3理論書で有名なタームといえば<共同幻想>とか
<指示表出>とかいろいろありますが、この世界視線も対幻想も、
理解されていないという点では同じなのかもしれません。吉本さんの理論は
一貫していてずーっと継続してきているものなので、基礎となるタームが
わからないとダメなんですが、大学の教授までが<純粋疎外>を説明できない
どころか否定している言説を見つけたりすると、現実がよーく解ったりします。
<疎外>や<唯物論>の説明もできないのに哲学やマルクスを語っているガキが
ひっきー型ねっとオタクであるかどーかなんて興味ないですが、ま、ダメなもんは
ダメだよね、っと。
■イク!・・・ 2004/7/8
忙しいとゆー字はん
心を亡くすとー
書くのねーん
とゆー編集コラムを書いたら、
クビになったことがあって、
人生って、カンタンだなあとか思って、
今に致る、羊くん。
プハー、暑い〜。
あれえ、
コピー入れるのまだだったあ、
とか思ったら、
コピーの部分だけ抜けた広告が印刷されてたりしてえ、
人生って、カンタン過ぎい〜
とか思って、今もカンタンな人生のワタシでっす。
ふっほほほ
その会社はねえ、
あのねえ、そんでねえ、
とか求められた情報を提供して
健全な資本主義育成に協力したら、
5億円の仕事を失った会社があったり、
すべての業務関係を解消された会社があったり、
やっぱ、ヤバいとこはキラれるね、と実感したりしましたん。
完全自業自得、
オイラガ大将なヤツがほぼ全員とゆーオカシナ国メリケン。
そのメリケンでもトップクラスのトレーダーが8人もアーメンな世界が
トレーダーがチョコパーを食べてるNYウオール街だったりしますが、
無期限信用で空売りがOKになっちゃう
来週からの東京市場は、もー、ポストモダーンの極致として、
想像を絶するアリーナだと思いましゅ。
フー、行くぞお。
■ラカン・鏡像論の間違い!?・・・ 2004/7/3
◆鏡像論の「一瞬にして閉塞し静止静態化する世界」
ラカンの鏡像論が、具体的な鏡であれ換愉としての鏡であれ、
鏡を見た者の姿がそのままが反映されるというのであれば、
そこで鏡像論は終わっている。
なぜなら、怒っている者が鏡を観たら、
相手が怒っているので、ますます怒ってしまう....という
トートロジーに陥るだけだからだ。
否定のサインを表出している者が鏡を観たら、
相手も自分を否定しているだけ....というのであれば、
否定性が亢進することはあっても、
他には何も可能性がないのではないか?
対立や闘争は起こっても、他には何も可能性がないのではないか?
そこには弁証法にもなり得ない形式論理的な状況が生じるのではないか?
一瞬にして閉塞し静止静態化する世界があるだけだろう。
◆鏡像論は「理性よりも時代の感性を信じる」結果
そして、もっと基本的な認識において鏡像論は間違っている。
この根本的な誤認は、ラカンが発達心理学や認知心理学から無視されてしまうほどの
根拠にもなっているのではないか。
鏡像論とは以下のようなものだ。
乳幼児にとって自己の身体はバラバラだが、
鏡を見ることによって、
そこに映っている自己の姿から、
自己の身体を統一されたものとして認知する。
つまり視覚象が内面による認識を先取りする。
これは大きな、決定的な間違いの可能性がある。
同時に時代の制約をそのまま体現しているところも面白い。
それは『構造と力』で鏡像論を強調した浅田さんの言葉どおりで、
「理性よりも時代の感性を信じる」結果だろうか?
■「私はテロリストを憎まない」という射程距離・・・ 2004/6/28
自分がテロで殺されても、
私はテロリストを憎まない。
憎むのはテロリストを生んだ、
その環境....
とゆー可愛い反戦少女の発言に場内騒然。
ウッソー。
んなあこたあねーだろ。
自分とか身近な人が犠牲になって口惜しくないのー?
とギャアギャア大騒ぎ。
まあ騒ぐのは思考能力や心的キャパなりに反比例しますが。
中国で虐殺を繰り返した日本軍が毛沢東の共産党人民解放軍に
捕らえられても、処刑されなかった理由はただ一つ。
それは毛沢東の次の言葉による思想と哲学の賜物でしたん。
罪を憎んで、
人を憎まず。
....ですねえ。
つーことで、
騒然となっちゃうスタジオは毛沢東の思想以下つーことですが。
もうちょいクールに考えると、
反戦少女の思考が、正常に遠隔対称化されてることがわかります。
主体がある行為に追い込まれていく環境というものまで
射程にあるわけで、倫理や道徳という問題はありますが、
大変よーく思考すべき対象の空間性がわかってるワケです。
現実を直視できない、自分の矮小な論理がすべてだと思っているような
ガキには無理ですが、「対象の空間性」というのは論理の原点です。
そこからスタートするものこそが論理。オブジェクトの論理ですね。
もちろんプログラムはオブジェクトの論理そのものであり、無機的自然そのもののコトだ。
リアルとは、それを、それそのものにおいて感得するコトにほかならない。
つーことでしょー。
■BANZAIとかデカパンとか?・・・ 2004/6/23
つるかめにデカパンさんがいた。
時々いるんだよね、この人。
BTO(バックマンターナーオーバードライブ)風なもんで、マッチョです。
目が悪いとツキノワグマと間違えると思うもん。
ステージでもオフでも同じカッコなんで、なんか、スゴイ....。
うんで、
アンルイスの『六本木心中』でロックなギターを聴かせてくれました。
ヘヴィーとかメタルではなく、ロックなやつです。
BANZAI!やTXBで活躍中。
デカパンさんとか谷川しろうさんとか、あとそうだな外道とかってさ、
究極の多摩のロックやろーですが、多摩のロックのルーツには
進駐軍の歴史がありますね。つーか立川も横田とかアメリカ軍の基地との
関係が切り離せないでしょ。
で、アンルイスや外道や谷川さんが出演する
でかいトレーラーの上にマーシャルを並べたなんつーカッコイイコンサートは
基地ならではのもんで。で、谷川さんだけオレンジのアンプだったりする。(W
ドキドキしちゃうのはグルーピーが金髪少女だったりするんで、
『ヴァージン・スーサイズ』のラックスみたいな娘が
ダルそうに芝生に寝ころがってたりする辺りは、
なんとなく甘い香りが漂ってたりします。
もちろん香水やコロンじゃなくて、アレだ。グラス。
■異和とゆーのは・・・ 2004/6/21
異和とゆーのは字の通りで、それそのものにおいて異なっていること。
生命はマテリアルですが、マテリアルそのものではありません。
もちろん絶対に非マテリアルでもありません。
マテリアルそのものとは異なっているけどマテリアルと和するものなんですね。
柄谷さんのインテリは大衆だが、自分が大衆そのものだとは思っていない....
というスルドイ指摘のとーり、かな?
生命はマテリアルだが、自分がマテリアルそのものだとは思っていない....
とゆーことです。
つまり自己言及しているかどーかなんだね。
異和は違和感を持ってるなんてゆーことと全然関係ないし。
シロウトはこの辺で引っかかるワケですね。
浅田さん式に表現すれば「はじめにズレがあった」てなコトです。
それが「異和」です。
■<イノセンス>は<STAND−>への解答・・・ 2004/6/15
<GHOST−>と<STAND−>に二分される『攻殻機動隊』それぞれが
提起した問題もそれぞれだ。
<GHOST IN THE SHELL>でハッカーの人形使いに語らせたように、
情報だけで肉体を持たない生命体がありうるのか....?という問いに
象徴される個体のアイデンティティの問題。
<STAND ALONE COMPLEX>で笑い男が提起し、素子らが追究しつづける
正義と、公安9課というそのためだけの共同体の在り方としての
STAND ALONE COMPLEXをひとつの解答とする個と共同性の問題。
いずれでも素子と人形使い、笑い男との合体による情報の量的拡大と
その質的影響への期待と懐疑が示される。
<GHOST−>の問題はマテリアルとテクノロジーによる規定を、個体が
どこかまで受けるのかという問題でもあり、
<STAND−>の問題はマテリアルとテクノロジーによる可能性や限界には
とらわれない、もっと根源的な問題として提起されている。
つまり前者はサイバーの前提となる問いであり、
後者はどこまでも哲学が生成しうる理由となるような問題だ。
そして<GHOST−>の問題は<イノセンス>で少女の人形が起こす事件として継承され、
そこで、ネットと化した素子によって用意されるのは、むしろ<STAND−>への解答だ。
このよじれそのものが<攻殻機動隊>という物語そのものの完成度としての可能性と
魅力を生みだしているだろう。
<GHOST−>と<STAND−>では素子とバトーの関係も違う。
<STAND−>で素子とバトーに<新しいラブシーン>を見出そうとしたファンもいるし、
<GHOST−>の主導権はどちらかというとバトーにある。
そして<STAND−>だけに登場するタチコマは、いちばん<STAND−>的な存在だ。
仲間をもちながら全く独立した存在であり、リセットされるのだがオリジナルティを
獲得していってしまう。それどころか素子らよりヒューマンであり、自分の無力さに
涙を流すカワイイやつらなのだ。昔の劇であれば狂言回しや稚児さんのような
マスコット的な存在だが、<STAND−>のファンにはもっと大きな意味があるだろう。
素子自身もその意味を考えながら、次の作戦という日常へ、終わりなきダイブを
こころみながら物語は終わっていく。
■「行くぞ!」STAND ALONE・・・ 2004/6/14
6月8日火曜日
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』が終わった。
「行くぞ!」
超高層ビルからダイブする素子。
マトリックスのオープニングにも使われた、
このシチュエーションをラストシーンに
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(略称:<STAND−>)が終わった。
全26話のはずなので番組欄の23話終了というのはマチガイなんだろけど。
正確には忘れたけど、トグサがつぶやく台詞で、
<STAND ALONE COMPLEX>の意味がわかる。
スタンドプレイの集積が成果となる、、、、
物語的には公安9課のポリシーで、その目的は正義....。
神山監督の<STAND ALONE COMPLEX>には、
押井さんの『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(略称:<GHOST−>)とは違う時代の特徴が現われている。
1人づつのそれぞれ独立した行為の結果が正義をまもるという成果を生む....
という理想?あるいは素子のセンスならば、それ以外に興味を持てないような<何か>。
<GHOST−>や<イノセンス>はサイバーな電脳テクノロジーを媒介にしつつも、
コアとしては、まるで内向の世代のように、つまりブレードランナーと同じような問題を描いている。
一方、<STAND ALONE COMPLEX>ではハッカーの笑い男が追究しようとした正義や、
トグサの台詞のような自分と仕事や仲間への関わり、素子のシンプルでクールだが
とらえどころの無い、獏とした目的?....。
これらは、いずれも、あるレベルへの認識を特徴としている。
あるレベル....それが共同幻想だ。
あるいは共同性へのアプローチそのものを対象とした何かが描かれている、か。
面白いのは共同性へのアプローチそのものを描きながら、
共同性そのものは否定的に扱われるか、わからないものとして、獏としたものとして....
描かれていることだろう。そこには捕まえることができない自分の影を追うような印象さえある。
しかも、こんな文学風なクサいことばは間違ってもいないのだが....。
<GHOST IN THE SHELL>に登場するナゾの敵役である伝説のハッカー人形使いと、
<STAND ALONE COMPLEX>の敵役ハッカーの笑い男も、対称的だ。
人形使いは権力つまり共同性の陰謀を背景にしつつ、その思惑を超えて析出して
しまった新たなる生命として起動し自律してしまう。人形使いが求めたのは素子との
合体だ。
イノセンスではこの合体した素子がネットワークのマザーのように登場し、バトーを済うことになる。
この素子との合体は笑い男の場合も共通で、その高いハッカー能力から笑い男は
素子らの仲間になるように誘われるが、彼はそれを断り、公安9課の連中はいままでの通りのメンバーで
次の作戦になだれ込んで行くのがラストシーンだ。
■<純粋視覚>について・・・ 2004/6/7
前に<世界視線>の説明で視覚のレベルというか種類を示しましたが、そこには、いち
ばん重要なものが抜けています。それが<純粋視覚>。
世界視線や対幻想といったタームよりもラディカルで重要なのが、<純粋>概念とそこ
から派生するいくつかの概念の一つである<純粋視覚>です。
認識のうえで<身体>と<心>と<外部>の区別がついていない状態を、位相学的に
<純粋疎外>として設定します。このY理論における定義に相当するものがオートポエー
シスでは<境界>です。しかしオートポエーシスでは<外部>を<撹乱>として捉え、
有意な定義ができません。これはシステム論の限界を如実に表しているといえます。
<純粋疎外>の概念は、個別の器官や特定の認識作用に際してある種の定点を仮構する
ものとして援用されます。初出は『心的現象論序説』ですが、その後の『イメージ論』を
はじめとした批評理論の構築においても、理論の根幹を支えるもとのとして行使されてい
ます。
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視覚像にいくつかのレベル≒種類があります。
対象的視覚像
視覚感覚器に反映された対象像。別の言い方をすれば「視覚センサーに入力されたデータ」です。
知覚的視覚像
対象像を認識した視覚像。意識された視覚像。自己確定(決定)された視覚像。
想像的視覚像
想像力(認識力)によって形成された視覚像。経験値データによる範囲内。
世界視線による視覚像
想像的視覚像が予想データによって拡張形成された視覚像。予期データによって拡張形成された想像的視覚像。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
上記の定義に以下の<純粋(疎外)>概念に基づいた<純粋視覚>を設定することによって、
いままで必要でありながら得られなかった定点と大きな可能性が確保できます。
純粋視覚
視覚の対象と視覚そのものが自他不可分の状態にある視覚。
<純粋>概念は、静態的な状態としては第三世代システム論のオートポエーシスにおける
境界概念と重なりますが、境界の外部を対象化し得ないシステム論にはそれ以上の意味や
可能性がありません。
<純粋>概念は、常に能動的である認識そのものの特異点を定点として仮構したものです。
これによって、その定点からどちらにむかってベクトルがシフトするかというアプローチが
でき、そのことによって明晰な分析が可能になります。別のいいかたをすれば、微分的解析
の陥る概念の微細化のようなデッドエンドを避けることができ、それは同時にデッドエンド
から超越論的認識へという、科学を装った認識の宗教化を回避することもできるワケです。
■永遠の吉本さん?・・・ 2004/6/2
わあああ、と。
BLOGが壊れてたよーなんで、こちらでプレゼン。
リスタートはどこのBLOGにしよーかなっと。
京都から東京へ移転とゆーアクションにイデーのアイロニカルを見出せる
<はてな>なんかイイかもん、っと....。
そんでまあ、BLOGの方にあった『永遠の吉本隆明』で〜す。
こっちもちょっと参考かなっと。
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DATE: 03/23/2004 12:43:30 AM
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BODY:
『永遠の吉本隆明』の著者である橋爪大三郎さんが
吉本隆明さんについて重要な指摘をしていて、勝手に簡略化すると以下のようなことです。
大衆社会が高度化し、
消費社会とも呼びにくいハイパーな状況に突入している。
吉本さんならこのハイパーな状況を記述できるだろうが、
逆に社会の側は吉本さんのことを記述できるのか?
大衆の側からみれば、
吉本さんも大衆の一人にすぎないから、
読まなくていいし、
評価しなくていいし、
注目しなくていい。
ハイパーな状況を記述できる....という面で吉本さんは宮台真司さん、東浩紀さん、
斎藤環さん、そして大塚英志さんたちと同じように
現在にリアルにリンクしている感じがします。こういうスタンスに共通するのは、
対象である大衆と自分を区別していないこと。
大衆のなかの一人である自分がその大衆について語っている、という自覚があると思います。
つまり自分について語っているワケで(も)あって、そこには真剣さや深さがリアルに感じられ、
自分自身の問題としての実存の意識がある気がします。
■<はこれねよ?パンだ>の示すもの・・・ 2004/5/25
はこれねよ?パンだ
コレは何か?つーと、コレはある文です。
どっかの外国語で「パンダ」や「パン」について語っているのかもしれませんが、
一応、ココ日本で、日本語で語られている日常的な会話のひとつである
<これはパンだよね?>とゆー文をバラバラにしてみたものです。
バラバラといっても単語や音韻までコワしていません。
詞や語をコワさないで、それらの順番を変えただけです。
これ.は.パン.だ.よ.ね.?
↓
は.これ.ね.よ.?.パン.だ
↓
これ.?.パン.よ.ね.だ.は
<は.これ.ね.よ.?.パン.だ>でも<これ.?.パン.よ.ね.だ.は>でも、
たいした変化はありません。共通するのは日本語として通用しないということでしょー。
詞や語をコワさないで、順番を変えただけで日本語として通用はしなくなるワケです。
正確には、日本語の<文>としては通用しないということですね。
一つ一つの詞や語としては間違っていませんが、バラバラではそれぞれの意味を確定するのは
困難か不可能です。
たとえば、
<は><だ><よ><ね>がどのような助詞なのか副詞なのかといったことは
わかりません。
<これ>は何かを指示していることはわかりますが、何が指示されているかは
わかりません。
<パン><?>が名詞と記号化した疑問詞だということがわかるだけです。
すると次のことがわかります。
<は><だ><よ><ね>といった助詞や副詞と思われるものは、文全体との関係が
ないと判断できないということ。
<パン><?>という名詞と記号は単独でも意味があるということ。
<これ>は指示代名詞で、助詞と名詞の中間のようなタイプだと考えられます。
助詞や副詞は単独では意味が確定できない。
名詞や記号は単独でも意味がある。
代名詞はそれらの中間で、何かを示しながら示されたものが何であるかは不明です。
基本的に言語は、この助詞から名詞までのグラデーションなかのどこかに位置づけられる
というのが、吉本理論の根本にあります。
つまり、
この助詞から名詞までのグラデーションを主体の表出の度合いの差異と考え、
そこに主体性を見出すワケです。
別のいいかたをすれば、
パフォーマティブからコンスタティブへのグラデーションということです。
また、
名詞のように主体の表出としての価値はゼロでありながら、
他者が容易に認識でき、共同性のコードとして機能するものがあります。
吉本理論的には助詞や副詞が自己表出で、名詞は指示表出です。
Y理論的には助詞が遠隔化したのが名詞だと考えられます。
主体の発声が客体化され、主体から完全に切り離されたものの典型が名詞だ
ということです。
ところで現実的な問題として、
<これはパンだよね?>の
<は>があります。
<は>は単なる助詞ではない、ということです。
■メダカとミジンコ・・・ 2004/5/21
5月10日、メダカとミジンコをビオトープに入れる。
はるばる送られて来たミジンコは、大きかったり小さかったりしてイロイロ。
つんつん直進してるやつや、ぐるぐる回ってるのや、じっとうずくまってるのや、
それぞれで、坂田明さんが一匹ずつ名前をつけた気持ちがわかります。
メダカには、今日は、もう、赤ちゃんがいて、
ミジンコより少し大きいだけ。
屋外なのにウオーターマッシュルームなんかが生い茂ってるのは、
やっぱ、ここがトロピカルな証拠かなっと思いながら、
アシナガバチがうるさいのが気になります。
日本最長寿のリクガメくんは、この灼熱ランドがお気に入り風。
JR中央線東小金井駅の下り線ホーム南斜面の土手に大きなトロピカルくんが生えてますが、
高架線工事するならくれるかなっと。枯らすくらいならちょうだい、というのは簡単だが、
移植が大変そうだけど、もう手配済みだったりします。ふははH
■『ハイ・イメージ論』のマテリアルとテクノロジー・・・ 2004/5/18
『ハイ・イメージ論』の「映像の終わりについて」に....
情念によって作りだされた反動や意味づけは、
倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
社会像の転換にはなにも寄与しない。
....というすさまじいジャッジメントが述べられています。しかし、考えてみれば透明なほど当り前なことが
指摘されていることがわかります。つまり、「社会像の転換」に「寄与」しているのはマテリアルとテクノロジーだ、
という認識。クールでシンプルな吉本さんのスタンスの表明がここにあります。
「高度情報化」しつつある現代社会を解析するための重要キーワードであり概念であるのが<世界視線>。
『言語にとって美とはなにか』の現在版としてのモチーフだという『ハイ・イメージ論』ですが、<世界視線>
というタームの基本となるのは、個人の感覚能力と認識力であり、ダイレクトに『心的現象論序説』の内容に
かかわってきます。
しかも、想像力や感覚、視覚的直観像といったM・ポンティやサルトル、そして認知心理学や哲学全般が
だせなかったテーマへの解答にもなっています。(オタクの問題としては斎藤環さんの『戦闘美少女の精神分析』が
すぐれた孝察をしています。)
<世界視線>の問題は、指示決定や象徴界認識の問題であり、さまざまな社会的なデキゴトやサヨクへの
否定的評価から大ヒットを連発した小室ミュージックの盛衰の理由までも解析しうるヒントがあります。非常に
ラジカルな歴史やリアルタイムの現在の問題にもなっています。
■<純粋>概念とゆー基本とか・・・ 2004/5/16
初期3部作をガッチリ読解しとけばイイかな、という自分の考えはアマかった。
ここしばらく『母型論』と『ハイ・イメージ論』の『U』『V』を読んでいてブッ
飛んでしまう。『ハイ・イメージ論T』は読んでいたけど『U』『V』がこんなに
緻密で新しい内容だとは。当然ではあるけれど新しい理論的な展開があって、しか
も、それが初期3部作の、特に『心的現象論序説』の基本タームと理論の上に構築
されているので驚き、はたまた感心してしまう。たとえば、その一つは<純粋>概
念をはじめとした理論展開。
『母型論』ではもちろん『ハイ・イメージ論』の<パラ・イメージ>や<世界視
線>という概念においても、そしてウイトゲンシュタインやソシュール、ラカンな
どを取り上げる場合でも、この<純粋>概念をベースにした概念が決定的な意味を
持っている。オートポイエーシスにおける<境界>に相当するような意味も含んで
おり、その汎用性も普遍性も高いが、これほど知られていない?と思われるターム
も少ないかもしれない。
例のごとく、基本タームの定義や解説がされていない。
<純粋>概念のように重要で吉本理論のなかで普遍的な用語でありながら、一度
もていねいな説明がされたことがない(『心的現象論序説』では一応の説明がされ
てはいるが)ものがある。これは<共同幻想>や<対幻想>でも同様で、はじめて
の読者には理解しにくく残念。そもそも理解できている読者がどれだけいるのかと
いう問題なのかもしれないが。
それから、文体が読みにくい。説明が繰り返されるのは別としても、もっとクー
ルで断定的なジャッジがあってもイイと思う。慎重さより全体像をつかむための融
通性のようなものがほしい気がする。
■Where、チビ1号・・・ 2004/5/12
♪
プールに行こうという誘いで、プールへ行く。
金がなくてもヒマがイッパイという学生の最大公約数を守りつつ、
ようやく埋まったひとつの空白に満足して、
夏の空にみたいにアッケラカンとしたサイフを握りしめて市営プールへ急ぐ。
プールサイドには、先に友だちが来ていた。
チビとノッポの2人。
ノッポは仲のいい友だちでトシという。
時々ブルーなディストーションでメタルを弾いているけど、
どこかサンタナっぽい。
ロックではないがマイルスをすすめたら即座に狂った彼のフレーズから、
クールな影響を聴き取れるかどうかが、ボクの趣味にもなっている。
批評するのは楽なもんだ。彼は5オクターブを上下するハモンドの音色から、
ボクの運指や、フレーズの由来を知ろうとする。ギターのようにキーボードを弾くことが
メルクマールになった時代があり、それは、音楽にはいい時代だったと思う。
ボクらにも、いい時代だった。
そういう日に、プールへ行った。
♭
チビが誰だか知らない。
コンニチハ、羊で〜すう。
彼は何か言ったが、ボクを見上げるようにして上目づかいに視線をオヨがせると、
CMの1シーンのような横顔になってしまい、遠くを見た。
そっちの方に何かいるのかと思ったボクまでが、そっちを見た。
トシは気づかうように笑って、保父さんか介護士のように、
彼に向かって何かを言っていた。
彼は、トシの顔を見ないまま、何かをつぶやいた。
それは叱られて、親の前にいる子どもみたいだった。
彼の名前はわからなかった。
だけどチビとはそういうやつなワケだ。
チビ1号だなあ。
そう決めると、泳ぎたくなった。
空はすごく青くて、みんなが泳ぎたがった。だからプールに来た。
そういう日に3人が出会って、泳いだ。
チビ1号は、CMのなかの男の子のように、前髪をぬらして、
どこかに目を向けながら、そこにいた。
しゃべらないが、楽しそうだった。
きっと、彼は楽しいんだろうと思った。
黙っていても気にならないヤツだった。
♯
トシや何人かの友だちとは、車でよく出かけた。
年がら年中出かけていた夏もあって、深夜、湘南のレストランから、
100台もの暴走族が通り過ぎるのを見ていたこともあった。
バイト代がすぐに底をついたり、あっという間に秋になっちゃう時間の中で、
すぐに年が変わった。何も代わり映えがしないのに、季節が変わる。
たいていは深夜のファミレスで、ほぼ同じ内容の話しを繰り返し、
誰かにガールフレンドが出来るとできる空席の分だけちょっとはシフトしたりする
話しが、その場のすべてだった。
それでも夜には出かけ、ガールフレンドではなく恋人に、バイトではなく仕事に、
今度は誰が空席とその理由をつくるのか。なんとなくお互いにさぐりを入れたり、
逆にさえぎるかのように将来のTMNの話をしたりして、少なくなりつつある日を、
過ごしていた。
ある日、トシが言った。
チビ1号の話しだった。
Ω
一緒にプールにいった、チビがいたでしょ。
あのずっと後、いつだっけかな、翌々年かな。
年賀状がきたんだよ、チビから。
それがさ、住所が山の、山にある、
あの、精神病院なんだ。山にあるでしょ、
あの滝のところの、精神病院。
えっ? 精神病院?
チビ? チビ1号か。
あのチビか....。
で、何で? 何で?
理由は?
それで、行ったんだよ、病院まで。
暖かくなってから。
面会したんだよ、チビに。
どうだった?
何で? 理由は?
入院の理由は?
僕は何でもない、って云うんだ。
本当に何でもないみたいなんだよ。
プールに行った頃と変わらないし。
オトナシイだけでしょ、彼、チビ。
大人しいだけなんだよ、チビ。
何でもないんだよね、アイツ。
でも云うんだ、本人が、「大人しいから」って。
親が「ウチのコは、大人しいから」って、精神病院に入れたって。
云うんだ。
いわれたんだって、親に。
そう云うんだよね、チビが。
オトナシイから精神病院に入れたワケ?
何でえ、大人しいからだあ?
何でえ、それが理由なのお?
何それ。
〆
ボクたちは、
お金もないが、時間もなく、責任感もないのかもしれない。
チビの話しは1日で終わってしまったし、
以後話しにでることもなかった気がする。
でも心の中では何かが大きくなったような気がして、
それがけっこう大切なことじゃないかと思いながら、
今でも、なんとなく、チビ1号の行方が気になったりする。
Where、チビ1号
■本日ポスモダ激闘カシオで100万円のヤツ・・・ 2004/5/12
言葉遊びのポストモダンなんてどーでもいいけど、
ケインズがズ〜ッと関わっていた現実のポスモダフイールドである株式市場は、
旧式なマルキストには想像さえもできない現実なんだろーっと。
(もちろんマットーなマルキストにはお見通しでしょー)
稲葉さんならどんな評価をするのかなっと....。
とゆーことで、昨日カシオの株式を5千株購入した人は、
今日は100万円儲けたワケで、(ワタシではありませーん)
多くのポスモダニスト=トレーダーがオーバーフローする情報に翻弄されて、
次々と打ち死にもしたこの約1週間。すごかったあ、です。
5千株程度はトレーダーの常識ラインだろし。
今日の正午までに担保の不足分を用意できずに木っ端微塵に散っていった少なくないコムラードに、
黙祷をささげつつ、この3日間が勝負であることを見抜いていたrealなポストモダニストの勝利に
乾杯ってな感じです。
ワザワザ日経の経済番組でこの担保不足で云々に関して何回か触れるほどなんで、
まあ、凄かったんでしょー。
インターネットが出来ればデイトレードができる!というオメデタイ妄想に飛びついた若造どもも、
まあ、経験値があがったと思って、数年後に、またポスモダのアリーナにログインすればいいワケじゃん。
まってるぜえ、イエ〜
人生における大きな失敗をしていること、
それも、できれば2回以上....
これが米国でのヘッジファウンドやマネーゲーマーの必要条件だというのはホントの話し。
何事でも失敗の経験のない人はつまらないし、それどころか何も出来ない、ね。
自愛で自己防衛ばかりの人なんて、話してもつまらいけど、何より人に迷惑をかけてることが多いのも事実。
そーゆー事実を指摘されたりするとキレるもんで、いつも繰り返しいってることだけど、どこでキレるかを
チェックすると、手にとるようにその人が判る。精神病のチェックと同等だわなあ。稲葉さんが学術書の目次で
どうどうと主張しちゃうくらい「ヘタレ」は多い。必要なのはそれを、スバリと指摘してあげることでしょ。
もちろん指摘するという批評行為は、批評能力そのものがバレバレになるからこそ、
スリリングでナイスなワケでやんす。
■『母型論』のナントカ・・・ 2004/5/8
人間はみんな神経症だ、とラカンが指摘して、たとえば斎藤さんはそれを周知テッテーするために
何冊も本を書いている。
今はもう、人間=神経症という見解はフツーになりつつあって、かわりにその症状の出現のひとつの
仕方であるヒッキーが問題になっている。
いちばんの理解者である斎藤さんは、ここでも力を尽くして活躍中だ。
ところで、ラカンは他にも重大なことをいっている。
女は、みんな、キチガイ
...というTVのインタビューでのコメントだ。
これを正面から取り上げたのは吉本隆明さんだけかもしれない。
そして吉本さんは次のような見解を基本にして心的現象論からの批評の拡大を目指している。
それは、つまり、
人間は、みんな、キチガイ
という理論だ。
その集大成が『母型論』
伝説の編集長ヤスケン時代、マリ・クレール掲載当時から話題の言説。
ラカンは「父性」による抑圧とその結果としての「言語」の生成をメインにして理論を構築した。
この抑圧による個人の内省化が欧米文化の源であることを吉本さんは高く評価する。
問題点は「父性」の由来や「言語」以前の認識について孝察されてないことだろう。
吉本さんは最初からそこにフォーカスして『心的現象論序説』を書き、理論を拡大してきた。ラカンや
ソシュール以前に着想し考察された心的現象論は、やがてラカンやソシュールへのダイレクトな比較検討を
おこないながら、現在というフイールドで展開させている。
吉本さんの理論は今まこそ読まれるものとしてみんなの前にある。
すくなくとも、フーコーは、そのように吉本理論を評価したワケだ。
あの対談をスレ違いだと判断するヤツこそ、ズーッと現実とスレ違ったままだろう。
....と思いマウス。
■指示決定から自己確定までのナントカ・・・ 2004/5/5
つーことで何年か前のメモですが、
そのまま載せます。
まあ、基本的なトコはココの認識のままだし、
また、ココの認識の基本でっす。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
ここに、バナナ3本、リンゴ3個、あります。
コレが現在のココの状況だとします。
カンタンな説明
キワめてカンタンな説明です。
●指示決定(表出)とは 1
<リンゴ>や<3個>....といった概念(とそれを現す言葉)です。
フツーにゆーと客観的な情報ですね。
ちなみに、指示表出の代表的なものは名詞です。
●自己確定とは 1
リンゴ3個とバナナ3本があるな....などと認識すること。
指示決定を認識すること。指示表出から確認できること、です。
もーチョット説明
キホン的な意味とかです。
●指示決定とは 2
<リンゴ><3個>
<バナナ><3本>....
思考しなくても認識できるモノゴト。
思考の介在なしで認識すること。
●自己確定とは 2
<リンゴ>や<バナナ>があるな....
<リンゴ>も<バナナ>も
<3>個と<3>本で同じ数づつだな、などと認識すること。
自己にインテグレートされている認識(のアーカイブ)と照応して確認すること。
自己確定の代表は納得すること。
モンダイの説明
フツーに日常的に無意識に行なわれる認識にこそモンダイのポイントがあります。
●指示決定とは 3
思考の関与しない認識。
思考を介在させたくないモノゴト。
思考を排除した肯定性。→(思考への否定性)
●自己確定とは 3
自己にインテグレートされている認識と照応させる時に思考がスタートします。
指示決定を抽象し、
再び構成して自己確定していきます。
指示表出上の差異を超えて
同一性を見い出すコトがポイントです。
2つ以上の<違う>モノゴトを<同じ>と見なすコト。
差異を超えて同定するコト。
これは共同性を成立させる最重要な認識です。
■ふあ〜、っと、むにゃ・・・ 2004/5/3
フイールドベッドから起きて2歩のトコロにモバイル一発。
ベッドには誰が持ってきたかクマとモンキーなヌイグルミなやつが転がり、
モニターの上には羊も一匹。
窓にはハエ獲りクモ....だなあ。
最近作業場へあまり行かないので、
お仕事場の様子がどーだかワカラン・パサラン。
ウワサによると会社は休業とか閉鎖とか。
ふーん、そ。
4月28日は、今年3回目の気功の帰りに国分寺の豊年屋で冷麦を食べた。
村上春樹がやっていたjazz喫茶、椎名誠のさらば国分寺のオババの、あの近くのお店でしゅ。
味もボリュームも大満足なんだけど、この手のお店がなくなっちゃうことが最近よくあるもんで、
心配したりする。
駅前にはもーすぐ24時間のデニーズがオープンとか。
29日府中の吉田屋で冷やし中華チャーハンセットを食べる。
フーテンの寅さんに出てきそーな雰囲気のお店。末永くここにいてくれよーとキボンヌ。
30日また国分寺のモスでロースカツバーガーセット。
ケータイにメッセージが入ってるみたいだけど、旧式&ヴァカなおかげで
チェックできず泣いてもしょーがないどころかCBしても相手もでない。
固定は受話器をつかもうとして落とすし、
何もなかったよーに1年ぶりのミックスナッツをワシづかみにして、
席に戻ると眠くなる。
むにゃ。
仕事でよくあることでショックだったのが、
自分の文章を読んで誰が書いたもんだかわからなかったこと。
あきらめモードは自分の文章を自分で校正することがデキナイこと。
他人のテキストはバッサリとチェック&クリティ−クなんですけどお。
と、ロシアとのナントカの取り引きのお話の連絡があって、
まあーいいけど浜マイクな人生よりどーにかなんねえ?
とか思いつつ神田の古ビルでアクビしてる自分がリアルだったりしマウス。
■ケータイと個人主義とか・・・ 2004/5/1
ガラクタのなかからケータイを発見。
打ち合わせ最中に相手が倒れて以来、ヒサビサのケータイとのご対面である。
ケータイなくても不自由しない情況にあらためて感激するとともに、
ケータイを持ってない作家綿矢りさたんを思い出したりするん。
ところでアメリカ人はある程度の割合でケータイがキライつーか使わない。
理由はヒッキーだから....じゃなくて個人主義だからん。
個人の空間にいきなりケータイとゆー他者からの暴力的アプローチがあることを
認めないワケで、代わりに発達しているのはメモとメールなワケです。
メモを書いて置いておく。連絡を受ける側は自分の都合でメモを読めるんで、
自分の時間が邪魔されないとゆーこと。
つーことで、ヒッキーは、やっぱテッテーした個人主義なんでしょ、か。
まあ、○○信者がゼロで、中身の無い連絡はとらないとゆーリサーチ結果からは、
完璧なindividualな個人像が浮かびます。privateじゃなくて。
ついでに、いちばん激しいヒッキー批判をするのは、
元ヒッキーorヒッキー出身者だという斎藤環さんの指摘なんかは、
いかにヒッキーが健全であるかの傍証かもしれません。
自分にキビシイということでしょ。

