羊通信 2004.1.1〜4.30

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ドーナツTYO & SKYDOMO羊通信ネタちょー(ネタ募集中)
★ 戦闘美少女だよん/★ 不過視界の精神分析/★ 2ちゃんねる宣言だよん

■マルホランドな混乱・・・   2004/4/30


もちろん『マルホランド・ドライブ』。

D.リンチ爆発な映像とストーリー?は、も〜〜〜な感じ。
どーにか、こーにかワカッタつもりで、ふ〜んとか思ってたらドンデンガエシの戸板返し、の連続つーか、まあ。(W)

1回目に観たとき、まあ加害者になっちゃう女の罪責念観と愛憎ゆえの典型的な分裂症状の忠実な再現みたいに
考えましたん。現実の症状では時空間感覚も何もかも錯乱しちゃうワケですが、デジャブのように過去完了だろうが、
予期だろうが、作為体験、強制体験、何でもありで、しかもソレらは、ある一定の規則性の反映でしかありません。

ま、千差万別の人間の一生ですが、その成長は受精卵・胎児のステージでの時間単位の構造変換から数年単位の
人生の日々まで栄養の代謝から情報の受容、それらによる構造の生成や変換、システムチェンジなど想像可能で
孝察OKなもの....。

と、さーて考えてみるかなっと思ってて、登場人物の名前が入れ替わっていくことを知って、
そーゆー分析の努力を止めました。ギョエー、そーかよー、そこまでされてもねえ。
名辞的な不動点を失う事による思考の限界はモロだしなあ。
中沢新一さんなんかはソコを突破したいんだろーけどさ。

まあ、リンチさんが好きに作ったとゆーことで、やっぱ、典型的な作品なんですね、と。
批評や解析のアプローチを天然で斥けられる作品性つーのは、究極の作品でしょー。

とにかく、スゴイよね、マルホランド〜







■鷺沢萠さんに確認できたこと・・・   2004/4/30


◆

鷺沢萠さんが逝ったと、4月15日のニュース。



◆

村上春樹への批評で、自分が考えた最重要ポイントを、
直接確認したのは鷺沢さんとの話しの中だった。

都会的感性と呼ばれるものは何か?
村上春樹の都会的な雰囲気はどこから生じるのか?

自分の村上作品に対する批評のポイントを
作家である鷺沢さんに話してみて、感想を求めたのだ。

同じようなスタンスでユーミンや自らを批評してみせた人に田中康夫さんがいるし、
宮台真司さんがメディアの初登場となったマーケティング誌「アクロス」の
トレンド分析なども同じようなスタンスの理論化を図ったものだった。
東浩紀さんのオタク問題定義も、大塚英志さんの自己確認も同じようなところにある。

鷺沢萠さんも、まるで当たり前のように、そのスタンスに立っていた。
彼女は呆気なく平中悠一『SHE'S RAIN』を村上春樹と同じように論じてみせた。
ポイントは、この2名が神戸出身であること。
つまり東京出身ではないことだ。

だから、彼らには<都会的感性>や<東京>というものが<ゼロ記号>として作用し、
自らの観念を無限大に拡大できる。それが<都会的感性>や<都会性>を仮構する
(可能性)動因であり、自分のローカリティから遠隔対称化された<都会性>が、そこにある
ワケだ。ただし作家としてはそれが自覚されていてはいけない。



◆

間違いかもしえないが、
本当は「サグサワ」なんです。
いいんですけど。
と言われた憶いがあって、いまだに引っ掛っている。

すごく感性が鋭くて、しかもそれを外へ出さない印象がある鷺沢さん。
正確には外へ出さないというよりも、自分の中に飲み込んでしまうような感じだ。

相手の挙動や反応を見ていて、突っ込みを入れられるところで、突っ込まないで
クスっと笑う。手強いなあと思わせるところ。そこが同時に器量や優しさを感じさせるところでもあった。

インタビューを申し込んだら、
二日二晩昼も夜も飲んだくれていた赤坂のホテルから4時間もかけて
元町のレストランまで来てくれた。
自宅近くを希望されたので元町のレストランをキープしたのだが、
本人は2日前からホテルで酔いつぶれていた?らしい。
「無頼だよね」と3割くらいは自慢話のように笑っていた。

写真に撮られるのが得意ではないようで、シャイな感じが、
ビートたけしのように露呈してしまうのが印象的だった。



◆

『スタイリッシュ・キッズ』『少年たちの終わらない夜』というデビュー時の2作に
ついては、その後不思議な印象があった。というより、この初期の2作で示されたものと、
その後の鷺沢さんのスタンスなり志向したものとの関連がわかり辛かいのだ。

初期2作ので印象的だったのは「日産サニー」の固有名詞と、
「ガタイがいい男の子」への評価。

当時一緒になったばかりの若手映画監督との経緯なども何気なく話してくれたが、
印象的だったのは間もなく別れたあとも相手を気づかっていたこと。

初期2作のあとで、自分に朝鮮・韓国の血が流れていることを知って、
彼女のスタンスが大きく変わったのは当然だろう。
そこに原因を求めれば、初期2作を書かせた対幻想的なものが、
偶然に民族の血が流れていることを知って共同幻想へと飛躍したことは確かだ。
対幻想を自己確定し得ないで共同幻想へ飛ぶことは、
ある種の不安定さを内在させたままになる。

何も知らないままに、数時間の会話と初期2作だけを頼りに
考えられるのはその程度のことに過ぎないのは残念だが、
作家としても人間としてもスルドイ感性の彼女に、<都会的感性>について
確認できたのは、ボクにとっては大きな意味があった。

GOOD-BYE



■左手右手の自他不可分・・・   2004/4/23


エライヒトビト

 哲学界の天皇陛下こと広松渉先生つーか、どこの大先生でもいいんですが、まあそーいった
エライヒトビトが提起しつつ、解答できずに、自問自答の嵐の中へ特攻隊のよーに突入してって、
誰も帰って来なかったよーな、そーゆー悲劇つーか、シェークスピアでもないので、誰も関心を
もってくれないし、やっぱ帰って来てほしくもないかもしれないよーな喜劇つーか、鈴木タイセツな
お爺ちゃんが、ふむふにゅふがあああ....とか聞いてくれそーな、そーゆー問題がありましたん。

 それは、たとえば、左手と右手が感じ合うことだったりします。
 左手と右手を合わせて、どちらがどのように対象を感得し決定しているのかとかなんとかとゆー
問題がありますが、お風呂なんかでも大きな問題が提起できたりします。ちなみに『世界の共同
主観的存立構造』なんつー本を読んでもこの問題の解答は見つかりません。
 この辺は浅田さんはエラクて、広松さんは単なる構造主義だからなっ、で評価は終わるわけです。



自他不可分

 自分の体温と同じ36℃程度の温度のお風呂に入ると、お湯の存在を感じにくくなります。
そうっと静かに入って、お湯に波を立てず、お湯の動きが無い場合なら、ほぼ何も感じない
でしょう。

 感覚器は自己と対象を判別できない状態にあるわけです。
 ただし「判別」できないけど、マテリアルには「自分」と「お湯」は別物です。
 ここに認識と事実の大きなギャップがあります。

 もうすこし詳しく説明すると、この<自分>は2重になっています。
 <身体>と<心>の2重です。
 <身体>と<心>は相互に疎外し合っています。
 <心>は<身体>をとおしてしか発現できず、
 <身体>は<心>をよってでしか機能しません。

 この<心>と<身体>2重の疎外のうえで、さらに<自分>と「お湯」という<外部>とを
判別できない状態があるわけです。これを<身体>と<心>と<外部>の区別がついていない状態と
して位相学的に<純粋疎外>の構造を想定できます。

 この状態の感覚が<純粋感覚>であり、それが視覚ならば<純粋視覚>ということになります。
 この<純粋疎外>と形容される位相と、生きているというコトだけで成立する、生命と環界と
の異和である<原生的疎外>の位相。
 この2つの位相の差異=ベクトル変容が<心的現象>あるいは<観念>そのものだと定義されます。

 <自他不可分>の状態とは、現実のなかで一瞬垣間見ることができる<純粋疎外>の状態です。



内部と外部

 自己と対象の峻別の問題は、心的現象の基本的な概念設定における根本的な重大な問題です。
 入力に対してダブルバインドな<決定不能性>が生じるのはベイトソンの指摘を待つまでも
なく大きな問題であり、同時に日常的なシーンですが、自己と対象の峻別が不能となり混乱を
きたす<自他不可分>の状態も日常的であり、必然であるとともに心的現象の根源を左右する
問題です。

 心的現象には2つの基本的で不可避な問題が想定できるワケです。
 論理的に考えてその内部における決定不能性と、外部との関係である自他不可分。前者は自己
言及におけるゲーデル的な必然的な矛盾であり、後者はシステム論的な位相性の境界の混乱です。

 精神的なものから身体的なものまで、障害とか病気とか、偏差とか異常というものは、すべて
これらの混乱や錯乱として考察することができます。



■<その人>とそうでない人の危険性・・・   2004/4/17


   窓の外へ向いて怒鳴っている人がいて、
   窓の内へ向くとニコニコしているの。
   その人は、窓の内にいる私たちには笑顔で、親切なの。


....という話しを女の子から聞いたことがあって、
たぶん<その人>にとって<窓の外>と<窓の内>は<敵>と<味方>とか、
<よそ者>と<仲間>みたいな区別があるんだろーな、と思ったことがあります。
これは精神病院の大部屋に入院していた女の子の話しで、そーゆーコトに興味をもった
大きなキッカケの一つですね。

<その人>は外と内を、敵と味方を、そーゆー反対の価値の反転する境界を<窓>という
空間性に象徴させて、外を向いては怒鳴り、内を向いては微笑んでいたワケです。

この窓というマテリアルは、心的な位相の空間性として肯定すべき対象と否定すべき対象
との境界を象徴してます。

現実に窓の外に敵?がいるかどうかという事実認定を除けば、<その人>の判断やレスポンス、
行為に異常はないワケです。

たぶん、このレベルで、現実の社会や世界は動いています。
必要なのは窓の外にヤバイ人がいるかどうかマテリアルにチェックする努力と、
その情報を発信できる自由でしょー。


ところで、現実には、<その人>とは異なるとゆーか逆?のタイプの人がいます。
つまり、まったくどこにも異常が無いように見えながら、その全体像がわかるにつれて?
を禁じえない人ですね。日常会話や日頃の様子からはわからない、ウケのイイ、つき合い
上手な人だったりします。私見でいえば、ヒッキーやオタクではなく渋谷系っぽいタイプ。
斉藤環さんや香山リカさんらの似た指摘もありますが。ファッションや趣味や信条などを
はじめ豊富な話題と巧みなコミュニケーション・スキルによって隠蔽され誤魔化されて
しまうもの。それが非常に危ないものであったり、とても異常なケースがあるわけです。
現実的な解決をコミュニケーション・スキルの向上に求めることを主張した宮台真司さんも、
そのことによって自他ともに隠蔽されてしまうものの危険性について再考しつつあります。

必要なのはそれを見抜くスキルであるのは当然ですが。



■『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』・・・   2004/4/15






評判と話題の大塚英志さんの『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』ですが、
タイトルのとおり1980年代論でもあって、背景となった社会現象や経済動向も
ケッコウ描かれているので、立派?な一般的な年代論として読んでも面白いで
す。宮台真司さんたちのフイールド調査をもとに若者の理念型モデルをつくっ
た『戦後若者世代の光芒 団塊・新人類・団塊ジュニアの軌跡』と併せて読む
とベストかも。ちなみに同書の正式?な姉妹本が『サブカルチャー神話解体 
少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在』ですね。年代論
や世代論を語るのに『戦後若者世代の光芒』を参照していないのはある種失格、
というのがプロの世界では常識。『サブカルチャー神話解体』だけを読むスタ
ンスは、それそのものがオタク的な理由がありそうです。


次つぎと編集者や出版元とケンカするために続々と絶版という噂?もあるの大
塚さんですが、この『「おたく」の精神史』は思想家?としての集大成的な世
界視線のもとに書かれていてベストです。「ライバルは浅田彰」とタンカを切っ
たそのスタンスが見事に「おたく」をめぐる通史を俯瞰しています。「おたく」
という記述の示すとおり大塚さんの私史ですが、歴史や社会史として通用する
ほどモノゴト史とそこから抽出されたエートス?が描きだされています。ちょっ
と異色だったギャグまんがの「ホモホモ7」を取り上げているなど、時代のディ
テールをマテリアルに把握していて、単に思い出して楽しむこともできる本に
なっています。


本書を読んで残念なのは中森明夫さんをクビにした理由からも明らかですが、
秋元康泉麻人などのメジャーな「オタク」または「オタク」路線からのメジャー
となったトレンドについては言及がありません。ホッドドッグプレスで自らメ
ジャー化するとともにオタク的アプローチそのものをメジャー化したいとうせ
いこうさんなどのピックアップがほとんどないトコが残念です。つまりTVや
マガジンといったマスへの影響が大きいメディアに関しては対象外になってい
るワケで、その方面でも大塚さんの緻密なアプローチと孝察があったら、スン
ゴイ成果だろうな、と思ったりします。以上、願望つーか。



■ウレシ・カナシ・・・   2004/4/13


HikkiのSINGLE COLLECTION VOL.1が260万枚売れた!
『世界の中心で愛を叫ぶ』が200万部を超えた!
100円ショップがコケた!
金魚屋が無くなった!


つーことでHikkiはDVDでコレクションしてるんで、まあ、いいかと。
クリップ集のNO.4はまだでせうかあ?
確信犯の片山恭一さん、いいですっ! もっと世界の真ん中でナンカ叫んでくらはい。
つきなみに映画化っつーのも、なんかなあ、ですが。
『きみの知らないところで世界は動く』なんかもタイトルいいね。まだ中身は知らないけどさあ。
凡なトコが、イイでっす。奇をてらってユニークとかいってるARTなバカな時代はもーオワッタんだもんね。 
 
オフィス近くの100円ショップがツブレましたん。サイテーな品質に見合ったエンディングでgooな感じ。
先日の気功の帰りに気がついたんだけど、メダカやタニシを買ってた金魚屋が無くなって、ワテの思い出の場所も
なくなったワケでござんす。Hikkiもここで淡水フグとか見たりしたのかなっと。あの店だよ、闇市跡の。(W

しかし路面店が減っていくのは残念。
今日もTVの『街道を行く』 に八王子の喫茶店が出てきましたが、あーゆーお店が末永くあってほしいです、っと。
ちなみにこの喫茶店は先日はあったのでダイジョーブ。
しかし武蔵小山の甘味屋はなくなったのでナミダな感じい。



■たとえば<世界視線>について・・・   2004/4/8


		
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 吉本理論の初期三部作の用語として有名になったのが<対幻想>や<共同幻想>という言葉。
 その三部作のなかの『言語にとって美とはなにか』を発展させた『ハイ・イメージ論』で登場
したキーワードが<世界視線>です。
 Y理論的には以下です。


   世界視線=過視的な世界像・世界観


 「世界視線」は簡単にいえばCG映像のような視覚イメージ。

 対象の表も裏も、前も後ろも、上面も下面も側面も自由自在に見ることができるのが世界視線
で、すべての方向方角において等価な視線です。それとともに、同時にその視点の在りかそのもの
も見えている視線です。


 Y理論的には視覚像にいくつかのレベル≒種類があります。

 対象的視覚像
   視覚感覚器に反映された対象像。別の言い方をすれば「視覚センサーに入力されたデータ」です。

 知覚的視覚像
   対象像を認識した視覚像。意識された視覚像。自己確定(決定)された視覚像。

 想像的視覚像
   想像力(認識力)によって形成された視覚像。経験値データによる範囲内。

 世界視線による視覚像
   想像的視覚像が予想データによって拡張形成された視覚像。予期データによって拡張形成された想像的視覚像。


 マテリアルなデータの入力から最終的な判断まで、その過程にはいくつかのステップがあり、
それぞれのステップでコントロールの構成が違います。また、コントロール不能の状態として
<感情>があります。

 サヴァン症候群に類似する視覚能力が言語野を抑制することで再現できることから、意識から
のコントロールを解除することで世界視線的な視覚像が得られる可能性があり、これは臨死体験
による自己客体視からも類推されます。

 問題は、CGとサヴァン的な視覚が対称的な理由によっていることです。CGは推論や予期データ
により、サヴァンは抑圧のない器官化した身体感覚によりますが、共通するのはサヴァンもCGも
入力データそのものが最大のファクターであること。また、推論プログラムにより最小限のデータ
から無限大へ向けて描画できるとすれば、この場合は当然推論プログラムそのものが最大のファクター
になります。この推論プログラムは心的現象では想像力にあたります。また、データ入力は感覚器官
による受容そのものです。

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....とかねえ。



■宣伝『心的現象論序説』つーかねえ・・・   2004/4/7


つーことで、『心的現象論序説』の宣伝?でーっす。プロパガンダでもいいやあ....。
つっても絶版になってるし、その後の吉本理論との認識論的切断?が生じてるもんなんで、
まー、なんでしゅが。

フロイトとマルクスと、オートポイエーシスの心的システム論なんかを参考にすると
難解で有名なこの『心的現象論序説』を理解するにはプラスですが、ソシュールもラカンも
紹介されてない33年も前に、これだけの思索をした吉本さんの驚異的な能力にリスペクト!


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ある意味で『心的現象論序説』はフロイトの理論をマルクスの疎外概念で再把握し、
自己組織論的な位相概念を導入したものです。

フロイトへの緻密な孝察は、フロイトを批判する各種の言説へのスルドイ検討をともなっていて、
その過程で実存主義や現象学へのラジカルな批判もなされています。それ以外の理論展開でも、
ベルグソン、ハイデガー、フッサール、ポンティといった思考の原理に迫るいくつもの思想への
鋭利で深い洞察がなされ、ジャンルやカテゴリーを超えた理論が展開されています。

現存在でしかない個体への身体理論的なアプローチや、心が生成する時のフロイト的な着想、
心を表出させる時のソシュールやチョムスキーを先取りする視点、統御されつつ変化する個体の
システム論的な孝察、倫理や宗教の原点をフォーカスする原理的な思考の射程....。

カテゴリーを超えた人間の原理論としてこそ評価されるべき内容が『心的現象論序説』です。
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■ネットでの削除でバレるもの・・・   2004/4/5


『ゲーム脳の恐怖』に対する斎藤さんの批判が削除されたという事件はネット社会が自由だと思ってる人には
オドロキでしょー。ネットワーカーの多くにとっては残念なデキゴト。

でも現実のネットでは圧力によって消失したサイトは無数。
巨大掲示版でさえ、ロスで日本人青年が謀殺された事件とかの真相追究サイトの紹介が削除されたり、
正統な主張が、削除の前提である理由の開示なしで何事もなかったかのようにその部分だけ削除されたり....。

ネットでこそ<権力>は不可視に、しかし、確実に行使される<強度>としてあるよーな気がします。

その<権力>とは?
<行使>しているのは誰か?

ただし、ネットでこそ、その正体が明らかになることもなります。
自己主張はするが、他人には削除を要求するような態度そのものがバレバレになるのもネットならでは。
削除の要求そのものが、その人の隠された狡獪なキャラを露呈させてくれるワケですね。
ちょっと検索かけると同じ人がいろいろなところで問題を起こしてたりします。
そーゆーの、一覧作ったりしても面白いね。(W


    極論すればインターネットでデンパやガイキチが増えたのではなく、
      デンパやガイキチの存在がインターネットで露出するようになったということであり、
      自由に表現できる空間だからこそ表現者の資質が露呈するようになったというコトだ。
      
                         (「■誰でもライターに....バレる 3」の「自己チュー表現」から)


ところでカナダで音楽データの無償交換がOKのジャッジ。
ヒサビサのグッドでした!



■『イノセンス』と『ブレラン』の解つーか・・・   2004/4/1


『イノセンス』の宣伝プロモを観た瞬間から気になっているのが、
『ブレードランナー』との共通性。
つーか共通の問題設定とか問題意識ですね。
それはベンヤミン以後フォーカスされているオリジナルとコピーとゆー問題であり、
アウラとアウラが消失したモノゴト性とゆーコトでしょうーか。

こーいったラジカルな問いへの、
ひとつの解答であり結論は、TPO=場所(的限定)とゆーことでえ。

ゴースト無き人形であり、
表情無き表情であり、
ブレードランナーでいえば
人工化する身体であり、
人間化を願望するレプリカント....。



■『イノセンス』批評つーか・・・   2004/3/31


  イノセンス
  それは、いのち。


....とゆー糸井さんのコピーはサイコーですがあ、
劇場の映像でしか見えないとゆー人形の瞳に映るものを確認できなくて残念。


ハリウッドでは作れない映像美を目指した映像が『アヴァロン』なら、
アニメでは「これ以上のものはできそうにない」アニメが『イノセンス』。

「アニメーションはこれが最後にしたいな」という押井さんのコメントは、
『アヴァロン』の実績を考えてみても、今後を期待させるものですが、
でも、やはり、このアニメ路線は末永く続けて欲しいモンです。

だってストーリーみたって意味ありげな少佐の過去の話へ興味がむくのは当然。
しかも当初から少佐を目当てに公安9課に侵入をはかった前作での人形使いの言い分を
聞いたって、人形使いとプロジエクト2501についてフォーカスしていくのが
正統で正当なアタシノオーダーハセイジョーナノってな風でしょ。

だから、少佐は人形使いと融合してすでに少佐ではない存在になってますが、
第3作は少佐の過去と人形使いをめぐるプロジエクト2501の解題として決定!てな感じがします。
つーか、やってよ3作目、てな感じでしょ。
少佐失踪の真相を公安9課の上層部が知らないワケもないだろーし....。

ああ、B166ERの事件にもつなっがちゃう内容だしねえ『イノセンス』は。



ところで、
『イノセンス』のタイトルは『火垂るの墓』からだというプロデューサーの鈴木さんの
コメントを新聞で見つけて納得。

怨み、未練、想いを残すということ。
「想いを残す」ということをテーマに押井さんが描こうとしたもの....は何か?


人形使いと融合した少佐は広大なネットをとおしてすべてを見通す存在となってるハズですが、
個別の具体的な事件を解決するにはバトーらの具体的な実行主体が必要なワケです。
可視が過視であっても現実には無力であり実効(実行)性にはリアルな主体が必要。
たとえば村上春樹の初期3部作では「鼠」が世界を過視する役であり、その非力さに
「僕」が力を貸し実行を代理することによって物語りはゴールします。


   鼠と僕の関係
   少佐とバトーの関係
   駐在さんと少年の関係


この関係にもとづいた批評というものをみたことがないですが、
それが日本の、今の、批評の水準ですね。
でも、多くの読者はこの関係に感動して作品を評価します。

クールであるはずの批評の目が何も見る能力を失っている以上、
享受者のレスポンスがすべてかもしれません。

それが良いか悪いかは知らないけどさあ。



■「あなたのそばに」、か・・・   2004/3/30


お茶をしにちょっと出かけ、シネマカフェの前を通ると、
手書きで「イノセンス 15:55」の貼り紙。
ん? やってんだ、ココで。

とゆーことで、イノセンス。
6Fのコジンマリとしたホールへダイブ。


   あなたがネットにアクセスするとき、
   わたしは、いつも、あなたのそばにいるわ。


戦闘美少女というより戦う女性戦士そのままの、公安9課からロストした少佐が、
ラストで口にする究極のセリフ。


ほとばしるマザーコンプレックスを満足すべく
女の子と女性を描いてきた押井さんと宮崎さん。
そして世界の北野たけしさん。

フーコーと吉本さんの通訳だけじゃなく、
たけしさんへのインタビューでも、
その才能を発揮? バイオレンスとマザーに対するコンプレックスを、
まっとうな答えとして引き出した蓮実さん。


いつもそばにいて、見守っていてくれるのが<神>ではないのが、
せめてものOK....つー感じです。

バトーがセクソロイドのゴーストに使用されていた少女を救うのは....恐らく
マザーの再生産のため。

まあ、男は....村上某さんのいうとおり消耗品として....
女性を再生産するために、その生を全うするんでしょー。



■第三世代システムとか・・・   2004/3/24


自己生成のシステム論といえばオートポイエーシスでしょーが、
その解説本も重要そうな本も読んだことがなかったです。



構造の生成にウエイトをおいたピアジェの構成主義や、
物理学としての動的平衡論など面白くて読んだものはいくつもありますが、
いつでも、いちばん楽しく読めたのは純粋な理論書よりも、現実の現象に即した本。
ウィルスとか心理現象とか社会問題といった観察と思索がパラレルで進行するレポートのよーなもんですね。
複雑系理論も現実のリソース解説が好奇心を満たしてくれる興味深いもんです。



斎藤環さんがハゲシク影響を受けたもようのオートポイエーシス。
その河本英夫さん同タイトル本を買って、今、読んでます。

これが驚いたモンで、
ウレシイ刺激でイッパイでした。

はじめてY理論と同じ記述に出会っちゃいました。
それも最もラジカルな問題設定であり大前提となる部分のもの。



心的システムの定義における主体と環境、「位相学的座標軸」や「空間的な表象」
「位相学的環界」といった概念です。
アヤフヤな面や説明不足のところもありますが、
これはY理論の大前提となる概念や問題設定と同じもんでしたん。

数あるラカン本には緻密な微分的検討があっても、
斎藤さんのように現実的解決をゴールとする
積分的思索と新鮮で大胆な孝察がほとんどありません。
ラカン理論構築が理念と論理の遊びになってしまってる感じです。
モノゴトはただ単に現実に解決してほしいもの。
ましてや心の問題ではリアルな解決こそが最重要でしょ....
とゆーことで『オートポイエーシス』(河本英夫・青土社)読んでます。

あああズバリ『心的現象論序説』なトコがあるなあ。






■出来ない固有名としてのハルキ・・・   2004/3/21


▲村上春樹はカルイか?

ある会社のOLが「片岡義男も村上春樹もカルイんだもん」と言っていたのでオドロク。
そのOLは片岡義男も村上春樹も「カルイからイヤ」なんだとか。
ビックリしたり関心したりして羊の頭に浮かんだのが大きな?2つ。


   片岡義男と村上春樹が同等なのか?という違和感。
   村上春樹をカルイと感じることへの違和感。


誰にも解答できない答えをココでだすとすれば、
それも2つあった。


   片岡義男は東京的だということ。
   村上春樹は都会的だということ。


以上、2つ。



▲東京的、都会的

「東京的」と「都会的」には同じ面と違う面がある。
「東京」は具体的なローカルな場であり、
「都会」はある抽象化された観念だ。

「東京」はマテリアルであり、テクノロジカルにハンドリングするもの。
「都会」は観念であり、そのイメージや思考は認識主体が自己言及をとおして自己コントロールするべきもの。

この「東京」と「都会」のある錯合したレベルそのものが、
いろいろな感想から思考までを左右し統合しているコンテクストそのものだ。

つまり具体的でマテリアルな東京と、
その東京への幻想と、さらにはその抽象化された観念として都会という概念。
それらから構築されたコンテクストが、その人における東京のイメージや思考を
形成している。



▲何が出来ないか、ということ

 村上春樹デビューの頃から、春樹ワールドを「暗いからイヤ」という感想はあったと思う。ヘビー
という評価ならなおさらで、そういう感想はすくなくないハズ。そして、そのヘビーさや暗さと向い
合うコトこそが春樹ワールドへのパスポートだし、魅力そのものだ。

 そこには、何が出来たか、ではなく、何が出来ないかということに気がついていく過程が描かれて
いる。だから、何が出来ないか、というベクトルの認識が出来ない人には興味がわかない小説でもあ
るだろう。その意味で、世界や歴史上なぜ悲劇が読まれ続けるのかという大きな問いへ応えるコトそ
のものが可能な作品でさえありさえするのが村上作品だ。

 初期3部作は「僕」「鼠」「女の子」をめぐるエピソード。僕と鼠の友だち関係は1人称と2人称
の関係をいろいろなパターンで具象しながら物語化していくけど、やがて僕が鼠を代理してあげてエ
ンドとなる。ここが初期3部作のゴールであり目標だ。クリアした僕はまるで初めてかのように泣き
出す....。

 この友だちに転移してはじめてひとつの完成をみるという物語は、ある種『スタンドバイミー』
などと同じ心理の
成長がテーマ。とても簡単にいえば、友だちの立場になってみるというコトをとおして<他者の立場
になる>という認識上のシフト=構成同一性を獲得していく過程そのものを描いているワケだ。そう
やってこそ友だちから見た自分というカタチで自分をも見ることができるようになる。

 その後の作品では女の子のウエイトが大きくなり、『ノルウェイの森』『国境の南、太陽の西』で
は女の子との距離を、絶対に救済不可能な存在として描き、終えている。登場する何人もの「女の子」
は、固有名を持たないかのように印象づけられる。田中康夫は『なんとなくクリスタル』で固有名を
階層や階級を特定する象徴として注釈するというオーソドックスなアプローチをしたが、村上春樹は
固有名を捨象する効果を持つ状況描写に成功したといえる。そして固有名性が希薄になったところに
自分を代入することはムズカシくない。村上作品では女性読者は誰でもドナになれるのだ。



▲コミュニケーションと固有名の否定

 初期3部作から続く女の子が登場するラインは、対幻想の生成とその限界を描いている。他方で
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『TVピープル』に象徴される不思議さ、理解の
不可能性は、他者や他者が登場する共同幻想への不可解さや距離を描いて秀逸だ。

 初期3部作そのものは対幻想の抑圧とそれによる遠隔化。その上での実効化がポイントになっている。
対幻想の抑圧とは相互に全面肯定されるという幻想の幻想性そのものに自己言及していく過程のコト。
鼠は「馴れ合ったってしょうがないんだ」と周囲とのコンタクトを絶っていく....。つまりコミュニケー
ションを遮断していくが、これは村上の学生時代の問題意識そのもので、当時、彼はコミュニケーショ
ンのなさを嘆いている。現在でいえば、このレベルで生起している問題が社会的にはひきこもりといわ
れるものだろう。だがホントの問題はもっと深く、ラジカルだ。

 それはコミュニケーションが対幻想を保証してくれるという最もラジカルな幻想に対する自覚がどこ
にもないコトだ。ラカンでいえばコミュニケーションの不可能性。その自覚がないまま、あるはその幻
想性のうえでしかない生を営んでいかなければならない人間というもの、踊りつづける存在としての人
間。それが『ダンス・ダンス・ダンス』の結論であり、結論としての作品だろう。

 以降、村上はコミュニケーションの不可能性ドキュメントに向かう。前者は悲劇として、後者は狂
気として描かれる。両者は固有名の否定を媒介としながら前者では普遍性を後者では現実性を描いてい
るといえるだろう。



■吉祥寺かあ・・・   2004/3/17


ひさしぶりの吉祥寺。
ん年ぶりの気功の帰りにラーメン屋に並ぶ....。

もーだめぽん。
とうとうラーメン屋の行列に並んじまったあ。

つっても、先頭だったんで、
知らずに並んでしまいましたん。
1〜2分で後ろに3人、4人、5人....
ああ、列が伸びていくう....

気功でゆるんでホカホカした身体で
チャーシューがぶりっメンつるりん。
左隣のマヌカン風ネーチャンにヒジをぶつけ、
河本英夫の本を落とし、
右にいるオタク風小デブのケータイ画面をのぞき見し、
食後のデザートが勝手に頭に浮かぶ妄想と戦い、
オレ流の礼儀としてドンブリとコップをカウンターに戻し、
もう黄昏な喫茶店ボアを目指し、
閉まってるんで自動的にレモンドロップスに向かう自分に
ヘキエキとし、道を間違えた脳ミソにアキレ、
次のコースに進む。


これで三鷹の太宰ゆかりの散歩コースをたどったら、
人間失格人生オワリだなあ、
と思いつつ、宇多田ヒカルの遊び場だったサンロードを横目に住宅街へ。

現在進行形のお店の変せんを確認しつつ、リーズナブルなスタンドカフェで
チョコケーキとアイスコーヒーの定番を注文。

この文章をメモ帳に書きつつ、
ここ数日は仕事がないだろうと反すうして、エンド。
スパンの長い仕事のことを考えつつ、
帰途につく....。
ホントは未帰還者になるのが希望なんだけど、さ。

いいよね、「ロストしる」とかって。



■アドラフィニル5発・・・   2004/3/15


ここ4日間でアドラフィニル5発。

時間外労働の方が正規就労時間より
多かった頃みたいに、半年も続いたら死亡確実か
未帰還者てな修行時代を経て知ってしまったのが
アドラなパワー。

残業が200時間てな銀座高野山時代には必要でもあった
アディクションエナジーでっす。

ビタミンRことリタリンより安全でしょーが、
健全じゃないのはジョーシキ。
まあイラクのアメリカ軍ご用達だったり、ドーピング禁止されてたり、
ナルコプレシー用だったりするんで、アブナイもんです。
6時間で効果が切れるといきなりグッタリするダウナーな効きも
何ともいえない。無理してる度合いがわかるワケでもありますよん。

しかし、申告書の作成ガイドで重要なポイントが間違っていた
おかげで数年ぶりにアドラ5発でしたん。


そーいえば、アドラフィニルが眠気を覚ましたり、
覚醒させたりする仕組みは、確か、アドレナリンのαレセプターを刺激するからとか。
麻酔前に使うサイレースはGABAの再吸収阻害効果によって本人のGABAそのものを利用して
鎮静効果を発揮するとか。アドラフィニルのアドレナリンに関する効果はどーなんでしょ?

斎藤さんと誰かの対談でサイレースが全然効かない患者がいるという話がコワかったりしますが。
もしかするとGABAがないとか、神経系がフツーと違うとか?
でも、いそーだなあ、そーゆーの....。



■元祖ヒッキーつげ作品・・・   2004/3/14


一人が得意で大好きなヒッキーは地上最強。
ついでに、自分しか信じなくて、
神・宗教なんかコケなもんで、これまた史上最高。
で、そのコトバは破壊力バツグン。

元祖ヒッキーでしかも現役ヒッキー。
もちろん対人恐怖症で、
収入サイテー。
生きるのやっとで、
眺める景色は多摩川だけつー強力な存在。
しかもサブカルの世紀末覇者....
....それが、つげ義春さん、でっす。

ヒット作は『ねじ式』や『紅い花』。
もちろんファンにとっては優劣順序無しの名作ばかり。
で、NHKアーカイブスでやってたのが『紅い花』。
見ちゃいましたよ。2度見ても新鮮、かな。
もちろん原作のつげ作品とは違って、
東京空襲で川へ逃れて行方不明になった妹を探す
というストーリーになってます。
山で育った妹とその友だちらの自然な生命力を描きながら、
隅田川をくだり、海へと出て行くルートにしか妹の行方を想像し得ない兄は、
最期に妹らの思い出を山へ返して、終わります。
あの聖歌たる「タンタンたぬきの歌」をモチーフに
摩訶不思議なつげワールドが再現されてます。



   お前が思っているほど、
   お前はたいしたヤツではない。


以上が、コトバの原理主義者糸井さんがつげ作品に感じるコトだとか。
ラジカルに人のプライドやアイデンティティを打ち砕くよーな破壊力のある印象つーか。
∞ヒッキーのつげさんの表出するものは、ホントに恐く温かいモンです。
多摩川の川原に落ちてる石を拾って売ろうとするよーな人生を生きてきた人だけが持つ、
透明な、透徹した眼差しに誤魔化しや装飾なんて意味がないんだね。


   今の幸せのために、つげ義春を読むべきではない。

という糸井さんのコトバも強烈。
こーゆー誘惑の文句を触発するつげ作品ですが、
竹中直人さん佐野史郎さん豊川悦司さん、
そして映像作家として佐々木昭一郎さん作品目録)の原点でもあるよーな、
ホントに影響力を持ったサブカルの金字塔でしょー。カウンターカルチャーととらえた人もいるでしょーが、
そもそもカウンターやカルチャーの概念とは離れた実存の、むしろ内向の世代なんかにも近い、そしてさらにマテリアルにも
疎外された世界の人たちの物語。ただ単につげ義春さんそのものであるよーな世界が、たまりません。
もちろんヒッキーワールドだもんね。最近は女の子のファンが多いもよん。



■<歌いっきり>という魅力・・・   2004/3/7


▲ヒッキーへのジャッジ?

ヒッキーのコンサート、つーことで。
新聞に宇多田ヒカルのコンサートの評がでてたけど、
声が出てないとゆーケッコー厳しいジャッジが書いてあったので、残念。
ヒッキーの歌唱力が、じゃなくて、その評論の凡庸さが、ね。
よくあることですが。

「Automatic」のレコーディングで声をかすれさせるためにワザと徹夜、
睡眠不足で録音したり、かすれ声や不安定さの創出(演出ではない)に
気を使ってる宇多田の水準に、批評が全然追いついてないというのは、
まあ、ホントにリアルだなっ、と。


▲プロへのジャッジ!

宇多田の声は高域が出ないというウソのデータをグラフまで使ってでっち上げた
『宇多田ヒカルの作り方』みたいな駄本は、他にもウソがいくつか書いてあるけど、
噂真並みのウソから噂真並みの運命を祈らせてはやまない魅力に溢れてたりするもんです。
まず分析のレベルも低くて、ブレイク以前に深夜の日産のCFで「Automatic」か
「Movin' on without you」使ってプレプロモーションしてた事実も知らないで、
プロモ無しでいきなり売れたみたいに書いてるしい。白々しいつーか、
ダサすぎるんだよね、批評の水準が。それで著者が音楽界の人間だつーのがサイアクだが、同時にリアル。
プロというもののザマがヨクわかるつーか。
つーことで、芥川賞へのコメントでも同じ。どこの世界でもプロってダイジョーブなのかあ?


▲ミスチルへのジャッジ!

以前ミスチルの批評を書いてよ!とゆーメールをもらいましたん。
それで、ずっと気にしてるんですが、ミスチルのCD持ってないし、
チャート番組で聞き流してるだけなんで、そのレベルの印象批評しかできないんだけど、
宇多田と桜井が同じとゆー認識はあって、それがすべてなんですね、コレが。

それは<歌いっきり>という事実のよーな気がします。
パワー出しっきり、気持ち思いっきり、てな感じの<っきり>ですね。
技巧でコントロールされた発声ではなく、その時点での<歌いきっている>感じです。

歌う技術とか声量やテクノロジカルに規定される表現ではなくて、
表出するときの形態に、表現のすべてが込められつつ、かつそれが肯定されてきた
体験が、その表出を享受するものに安寧を感じさせるものをまとっている....つーことです。



■矢印が示すもの・・・   2004/3/3


カタカナにすりゃカッコがつくフリーターとゆーコトバもなく、
お気軽以外には何もないバイト生活(公的?には肩書きが「アルバイト生活者」だった)の時、アルバイト先で変なものを発見。

どー考えても、よくわからん、けど、それだけ興味をそそるモンで、
その後もそのナゾを追いかけ、月日が流れ、バブルは崩壊し、私的には悟りをひらき? まったりとかグッタリとか日々をすごし....
『文脈病』を読むまで解答の手がかりもなく....

そーゆーナゾに、羊は出会った、んですね。


日本橋は室町、日銀そばにある歴史然たる財閥グループの古いビルのあるフロア。
ある机の上に、それはあったのです。

何本かの矢印。

東部戦線でドイツ軍が迷い、アルデンヌの森でアメリカ軍を混乱させた道標みたいなヤツ。

机の上にひかれた、何本かの矢印。

20〜30度ずつ角度をズラして、それぞれが何かを示している複数の矢印。

矢印の横にはA、B、C、Dとネームが入り、先にあるものを示しているもよう。


ある時、机の主が声を出して呼びます....

「Aくーん」
「Bくんー」

....てな感じで。


ごくフツーの人名の呼び方。
矢印は、その先の作業机にいるバイト学生を示していたんですね。
道標とゆーか人標です。


そして問題は時々起こりました。
とゆーか、そーゆー問題が起こることそのものが問題だなあ、と羊は思ったんですが。
たとえば
矢印机の主が「Aくーん」と呼びます。
すると矢印Aの先にいるバイトが「ハイ」と返答します。
でもね、それは矢印どおりにバイトがいる場合だけ。
だって矢印Aの先にBくんやCくんがいる日もあるワケです。
バイトのローテーションがあったり、誰かが休んでる日があったり、
席が入れ替わっている日があったり....。


ところが、矢印机の主は、矢印の先に誰がいようが、
矢印Aの先にはAくん、矢印Bの先にはBくん....
だと決めてかかっていましたん。



やがてナゾが明らかになりました。
矢印机の主は、人の顔が憶えられないのでしたん。
つまり、バイトの顔が憶えられないので矢印を頼りにしてるワケです。
矢印Aの先にいる人はAである....と。

???

スゲエ〜

スゲエ、って。何がスゴイかわかんないけど、オドロキ。
人の顔がわからない?とは....。

でも、最近、自分でも、人の顔を激しく忘れてるんで、
もっとオドロいたりしてます。
つーか、悲しむべきか、なんだよネエ。



で、そんな問題を真正面から取り扱っているのが
『文脈病』でしたん。



「顔」とは何か?
表情の無い顔に何を表すことができるのか....?
人形の顔から何を読み取ることができるのか?

誰でもない、無表情な自分の顔が好きなドナ。
それを求めるドナの心とは?

あるいはゴースト無き人形の起こす事件にインスパイアされる
バトーの気持ちとは?



■芥川賞ぶつぶつ・・・   2004/3/2


タトーでもピアスでも、
身体への加工が、
象徴界へのドライブorコントロール願望ではないのか?
指示決定への身体的な抵抗ではないのか?
ベロが蛇だったり○○がキングギドラなヤツだっている。
それがどーしたん?....
....なんつー今となっては凡庸かもしれない疑問なんかドーでもいいけど。



綿矢りさが『インストール』から読まれている事実と、
『世界の中心で愛を叫ぶ』がロングにしてビッグに売り上げてる事実なんかを
考えないとネ、と思いませんかあ?

<「現実主義」という名のイデオロギー>として浅田彰が田中康夫を誘って
今回の芥川賞と受賞者を批判する姿勢はあまりにもガキな感じがするでしょ。


『不可視なものの世界』のP25「精神分析の世界 斎藤環との対話」で
OSやインターフェースをポストモダンの自我モデルにした主張をするタークルの言説が
受け入れられる必然性そのものの探究を訴えている東浩紀とのギャップが目立つもの。
ホントに浅田彰は終わっちまったのか? さすが田中康夫は芥川賞の2人を全面否定はしてないけど。


     そのような言説が求められ、
   ひとびとがそれで自分たちのイメージを作っているのであれば、
   ここには何らかの必然性があるはずなんですよ。(東浩紀)



そのような小説が求められ、
ひとびとがそれを通して自分たちのイメージを探しているのであれば、
そこには何らかの必然性があるでしょ。

そーは思わないかい、アンタ!



第一印象がリアル。
ずいぶんリアルだなっと思ったタイトルの『蹴りたい背中』。
等身大の子が描いたのでなければ、何だろ?とゆー感じ。
文学してるなと思ったのが『蛇にピアス』。

高校時代に『風の歌を聴け』の感想文で入賞したとかいう綿矢りさのスタンスは
わかりやすいし、不登校でおませ?な金原ひとみもいま風?に軽い。
で、いいではないか?
もう一度、書く。
これで、いいではないか?

それとも、なんか、芥川賞が特別のものだとでも思ってんのかね、
ガタガタ言ってるヤツらは。
その方がウザイです。
ネットで三文知識ひけらかしてアイデンティティにしてるのと差がないじゃんねー。



つーことで、鳥の塩しめ焼き鳥食べながら、
ミッシェル・ポルナレフ聴いてんだよ、今さ。



■TwiSTER『イノセンス』・・・   2004/2/28


本日、KFCことケンタッキーでTwiSTERを求む。

ファーストフードの文化は好きだが味が好きじゃないのに、
ウン年ぶりにKFCに行った。

ツあーゲットは『イノセンス』!

つーことで、
『イノセンス』のプロモDVDをゲーット!

ケンタで『イノセンス』のキャンペーン中だとゆーのを
教えてくれた人に感謝しつつ、
デカくてナガ〜いチキン入りナン袋みたいなTwiSTERを
食べたん。
まあ、ウマイじゃん、と。

そーいえば吉野屋の牛ドンは一度も食べたことがなく、
よって、より複雑なお気持で最近のニュースなんかをみていた羊でちた。



■芥川賞批評だめぽん・・・   2004/2/27


批評というのは批評するサイドのレベルもバレバレになるもんですが、
今回の芥川賞でも、それはハッキリしてますねえ。しかしなあ〜〜〜

<連載第十八回「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル2004年1・2月号
★「現実主義」という名のイデオロギー>より

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 浅田彰

  いやぁ芥川賞はもう終わってるよ。っていうか、そんなことはずいぶん前からの常識で、
   村上龍が受賞した頃を最後に、芥川賞なんて話題にもならなかったじゃない? それが、
   平野啓一郎の回に続き、今回やたらに話題になることのほうがおかしい。どうも最近の
   人――とくに若い世代は、異常に同世代を意識して共感したり嫉妬したりするんで、若
    手に受賞させれば話題になるっていう戦略にまんまとはまっちゃったんじゃない?


 田中康夫

  (略)
   綿矢の書いてるものは、全然普通だと思うけど。なんかお澄まし顔して、腹の中は要領が
    いいというか、そういうタイプ。恋愛し慣れていない新聞社の学芸部の文学オヤジとか、
    コロリと騙されちゃうね。


 浅田彰

  綿矢りさって昔の言葉で言えば「ぶりっ子」でしょ。そういう計算はうまいんだろうけど、
    全然つまんないと思うよ。他方、金原ひとみの「蛇にピアス」は、ピアシングなんかをテー
    マにしてるわりに、良くも悪しくも素直に書けてて、新人賞ならまあいいかもしれないけ
    ど、それ以上のものではない。
  (略)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ダメじゃん、ぜんぜん。
ま、さすが田中康夫ちゃんは作品そのものは批判しないでチャカしてるだけだけどさあ。
浅田さんて、ここまでダメになったつーかオヤジになったつーか、そーか、どーでもいいよ、もー。
でもなあ....



■人間的・動物的・エクボん・・・   2004/2/20


●人間的反応は無表情に?

を流すと人間的だったり、
優しい笑顔が魅力的だったり、
大勢の支持と共感を得られる怒りがあったり....しますが、
いずれにも共通するのは、それが動物的反応だということです。

泣き笑い怒るという激しい感情は脳幹の反応。
わかりやすくいえばハ虫類脳レベルでのレスポンスですね。
そういった動物的反応とは正反対のものが人間的反応だとすれば、
人間的反応とは表象的には無感動な無表情なものであり、
外部からはうかがい知れないところに内在する反応だ、ということになるでしょう。
たとえばそれは思考です。

まあ無表情なところに限っていえば押井さんの『攻殻機動隊』から今回の『イノセンス』まで
表情が無いというコト、つまり斎藤さん式にいえば顔が無いコンテクストが無いということ....
はアリなのか?という根源的なテーマがあります。ゴースト無き人形はアリなのか?というのは
根源的な問いでしょう。バトーも『銀英伝』のオーベルシュタインも義眼だというのは意味深だったりするかもねえ。



●アバタがエクボになる理由は?

<アバタもエクボ>という言葉があります。
マテリアルにいえば頬っぺたの凹みが、皮ふのキズであるアバタに見えるか、
それとも可愛いさの象徴であるエクボに見えるか....ということで、
そこでフォーカスされている問題は、否定の対象であるアバタが肯定の対象である
エクボに簡単に変換してしまうという事実です。
もちろん変換しちゃうのは認識の方で、
凹みは単なる凹んでいるというマテリアルな事実に過ぎません。

認識というものはどんどん変るいい加減?なものだということ。
まあ可塑性が高いというのが適切ではあるんでしょーが。(W

<エクボ>は肯定性の認識ですが、それには対象であるマテリアルな凹みが前提としてあります。
<アバタ>という否定性の認識でも同じです。

ところでY理論では対象の空間性と認識構造の空間性との不可分なレベルにおいて成立する概念を<純粋>という冠詞?
をつけて定義します。<純粋疎外>とか<純粋視覚>などですね。

この<純粋>という概念の意味を理解できないまま対象化したと思われる概念がラカンにはあります。ラカンの場合は
肯定性の認識として、あるいは象徴界の起点や前提として把握しようとした趣がありますが、それが<黄金数>です。
残念ながらラカンにはその意味が説明できていないし、ラカン派にもその思索が乃んだ人は1人もいません。過剰なまでに
理論化をすすめ、見事な理念型モデルを構築したラカンですが、円周率が整数表現では割り切れない....というのと同じ限界
もしくは矛盾にあって立ち往生したフシがあります。その典型例がこの<黄金数>。ホントに残念だわあ、と。



●動物的反応は共感を得る?

ところで、涙も笑顔も怒りも他者が共感できるかどうかがポイント。
笑いや涙を誘うということは、他者の共感を得ようとする行為そのもの。
つまり動物的反応というのは共同性への導惑を基準として評価されているワケです。
すると人間的反応というものが動物的反応とは正反対のものだとすれば、
共同性への導惑とは反対のものがクローズアップされます。
つまり個人(個の確立)へと誘う反応ですね。
<共同性>や<共同体>の反対概念としての<個人>です。
個人をフォーカスしていくベクトルこそが人間的である、ということがいえるワケで、
実存とか現存在というのはフォーカスとしては正当な問題なワケでしょー。

フロイト的にいえばエスから離脱しようとする自我....という個を確立しようとする
ベクトルへの孝察は、まだまだ足りません。



■コロモご飯・・・   2004/2/18


2月18日

コロモご飯を食べた。
フライのコロモをとってソースがけ。
コロモをのせてゴマとご飯をまぜまぜするコロモご飯は
ボンビーな思い出のご飯。
やけにフラッシュバックがリアルだったりします。

おわり



■デイトレ・ポストモダン・世界の原理?・・・   2004/2/18


●デイトレーダーの可能性

一日で株価が10〜20円くらい上下する株式銘柄がたくさんあります。
そういう株式が1万株あるとすると、そこでは1日で10万円から20万円くらい
株価資産が増減してるワケです。
株価が下がったときに買って、10万円か20万円増えたところで売る。
株式投資の原理は、ただコレだけのコトなんですね。

それを毎日やっている人がデイトレーダー。

毎日ではなくても週に1、2回取り引きをするくらいのスイングトレーダーになると、
10〜20円くらいの上下幅を見つけるのは相当カンタンになります。
それを月に合計3〜4回実行できたとすると、30万円から80万円の収入に。

ところで、
13年間の経済の下降トレンドに終始符を打ったという分析がホントなら、
上昇に転じるハズのこれから少なくとも数年間はこういったトレードで充分に利益を得られるワケです。

年末年初の1ヶ月で5〜6倍になった株式もあり、20〜30%増しの株式であれば相当数あります。
問題はそれを見つけられるかどうかだけであり、ドライブできるかどうかだけ。
要は自分の全能力と自己コントロールの問題だけど。


直接金融という名のとおり資本主義へのダイレクトな参加とその行使である株式投資。
逆に、誰もが資本主義へダイレクトに自由に参加できる可能性を奪い、資本主義への参加に資格を設け、
さらにそれを独占しようとする動きをファシズムといいます。日本を第2次世界大戦へ向かわせた排外自閉的な
ファシズムのスタンスは銀行と官僚の在り方として現在も有効どころか強化された面もあり、
その程度の日本を生きていく困難は誰もが感じ始めている今日この頃でしょ。


●デイトレのリアル

デイトレ協会さんでは1日の出来高が300万株以上の銘柄を推奨。
つまりデイトレの基本は中長期ホールドでもOKな銘柄とゆーことで、
デイトレそのものが一般的な投資家以上の分析能力を前提とされてるワケです。

中長期トレードでは買いが年初の1月に一回、あとは値が上がったらその年末か年度末
までに売り、それで終わりとゆー方法があります。なぜなら年単位の株価総額はほぼ同じ
なので、買いのタイミングは単にテクニカルに値が下がったタイミングを捉えるだけ、
とゆー発想です。これは基本的には正しいもの。


経済成長率が高度成長期でも数%から10数%だったことを考えれば、
株式の上昇率も数%か数10%しかないのは当り前。
ところが実際には株価が倍増するものはあるし、8〜9倍になるものもあります。
最近の約一ヶ月で5〜6倍になった銘柄がいくつもあるほどだから。
株式はナゼ現実の経済成長率を超えて上下するのか?
ポストモダンの原理と現実がココにあります。


●ヘッジファンド

利益を確定しつつプールして元本を拡大させ、次々と投資額も利益も拡大させていくのが
信用の最大の特徴で、いわゆるプロの投資家はソレをテコの原理としてフルに活用するワケですね。
おまけに株価の下降局面でも空売りによって厖大な利益を獲得するのもOKです。


ところでブッシュの軍事帝国主義と戦っているのがグローバリストの代名詞でもあったジョージ・ソロス。
ヘッジファンド最強の資金力でエリツインを退任させ、シェワルナゼを倒し、ブッシュと戦かっている団体に13億円を寄付し
自らも反ブッシュ本を出版するなど激しく闘争中。ハンガリー系ユダヤ人として自ら民族を裏切る苦痛の中で
生き抜いてきた労苦による認識は強度そのものみたいなもんでしょう。彼に手を差し伸べたのはロンドンの金融資本家、
ロスチャイルドだったか。未熟児のメンタリティでしかないことがバレバレの国家主義民族主義的なグローバリズムや
ハゲタカファンドへの批判は、論外でしかないですね。宇野派マルクシズムの影響を多少なりとも受けている金子さんや
柄谷さんの限界は何なんでしょーか?


●加速度原理

株式の信用取引というのは、たとえば33万円を保証金にして、その3倍の100万円で取引きすること。
100万円で投資するわけです。

たとえば株価が5%上がって投資した100万円が105万円になります。すると5万円の利益。
これを現金化して5万円の利益を33万円の保証金に足します。すると保証金は38万円になり、
今度はその3倍の114万円を借りることができます。
次に114万円の株式が5%上がるとすると約120万円。当初からの差益分の20万円を
最初の保証金33万円に足すと53万円。今度はその3倍の159万円で投資できます。
159万円投資した株式が5%上がるとします。そうすると....

以上の連鎖がテコの原理の基本。経済が拡大再生産から加速度的に膨張する原理のテクニカルな側面です。
このテクニカルな原理のドライブに心理的な要因を組み込んだものがヘッジファンド。それは目前の利益という獲物を前にして
動物的にせり上がってくる欲望の論理と、もしかすると自らの利益を失ってしまうという恐怖の論理を組み合わせた、
世界を動かす論理そのものです。Y理論でいえば近隔化された対象遠隔化された観念、
つまり身体と意識の時点ゼロでの双数性をシーソーすることに生じたアンバランスを動因そのものとする原理ですね。
社会的総体としては不均衡累積過程の主体としての人間行為そのものの。


マクドナルドの椅子が硬くて居心地が悪ければ客は早く席を立ち、顧客回転率があがりますが、お持帰りには関係ないし、
居心地の悪さによって客が他店を選ぶようになるなら逆効果です。つまり椅子を硬くすることの効果の射程は時間的にも空間的にも短く
近視眼的な策でしかないわけです。ただひとつ効果があるとすれば、椅子の硬さによるような効果をすべてだと思い込むような
近視眼的な認識の持ち主を見事にさらけ出してくれること。サブカル論者のダメさをチェックするリトマス試験紙なワケですね。
東さんの仕掛けたトラップはスゴイもんです。(W


●世界の動因そして物語の原論理性

宮台さんが大きな影響を受けたという小室直樹さんですが、彼がスゴイのはノンジャンルでオールラウンドなとこ。
地球の6分の1を占めるソビエト社会主義共和国連邦の崩壊を予想し、日本のバブル崩壊を分析してみせたスタンスは
他のアカデミシャンや評論家にはないスルドサでした。そこで気になったのが加速度原理という経済の動因の説明。
詳しい説明が無いので、彼の言説もソコまで!というレベルでしかないんですが、責任感あふれるココではそーゆーことを
チャンと説明してきました。まあ上手くはないけどね。以上。
加速度原理みたいなものは識者の数だけある理論の類ではなく論理です。原理としての論理。
数値理論でさえその根拠は知覚によっている....と抽象観念と感覚器による具体的な知覚を隔絶なく説明できる
吉本さんがポストモダニストだといわれるのは興味しんしんかな。



■日暮らし・・・   2004/2/16


先日、多忙をモバイル環境でこなしつつ、
久しぶりに作業場へいくと、
資料棚が大きく傾いていて、
ロケット弾打ち込まれた隣の部屋風。
どーしたのかなっと。
資料棚の台になっているウッドチップ形成のデスクがナゼか斜め。
台になってるデスクの脚の一部が自重で潰れたもよう。
うーむ、ご苦労さん、と。

本日、ん日ぶりに作業場の屋上へいくと
日本一らしい象ガメくんつーかリクガメくんが
まとわりつくんで大家にキャベツをもらってあげると、ムシャムシャ。
昨日は春一番が吹いたし、たしかに暖かいかもしれないけど、
ペットショップで「25℃はキープしてあげて」とかいってたのに、
コイツは真冬でも陽があたると日向ぼっこをしてたしなあ。
たぶんアフガンとかロシア南部からきたヤツなんで、
ホントは寒さに強いんだろうな、と。
夕方になって陽が没むと、もそもそと野草の寝床へ入っていく姿がラブリー。

このハイランドな場所から生きたデータベースの街神田あたりへ
移転する可能性もあり、お先がまったく見当がつかないこの頃。

まあモバイルって便利だねえ。



■株価の乱高下の理由は?・・・   2004/2/13


ニューヨークの株式市場の10分の1の規模でしかない東京の株式市場GDP比では日本はアメリカの6〜7割の大きさ。しかし株式は1割という比率そのものが日本の特殊性、
あるいは異常性を現しています。
そしてその株式市場の動向も全然違います。

その最大の要因が銀行。

その銀行がこの2、3ヶ月の間、株の取り引きを激化させています。
理由は2つ。

一つは持ち合い解消売りという金融による企業系列の解消を目的とした売り。
その総額は04年分で3兆円といわれていますが、その多くが3月決算までに集中している徴しがあり、
03年の1年で6兆円だった総額と比して、3月決算までのここ2、3月に3兆円が集中する危惧があります。
03年は一ヶ月で5000億円の計算ですが、04年分がここ3ヶ月に集中すれば一ヶ月で1兆円の計算になります。


株価の乱高下からはそれがうかがえるワケです。

3月決算までに自己資本率の維持をはじめとする健全化ができないと公的資金注入などの
処置にあうため、という自業自得の問題。



■1兆円のポストモダンフイールド・・・   2004/2/6


▲1日に1兆円

今日は6日。
つーことで今日の売買高は1兆円を割りましたん。
まあG7の様子見で取り引きが控え目だったとか。
最近はほぼ1兆円のトレードが毎日あるわけで、
そーすると1ヶ月で20〜30兆円かな。
1年でその12倍つーと、
GDPに迫る総額は、控え目ながら
資本主義の現状を正直に反映してるわけです。
もちろんこの「控え目」になる要因は、
日本の属性そのものつーことですが。

そーいえばコミケの売り上げが2億円だか10億円だか。
それも年2回。一般社会に影響を与えることも無い規模と事実上経済的にも閉鎖系に
近い状態。毎日1兆円がトレードされ国内から全世界まで最大の影響を与えるポスト
モダン市場の株式という現実のアリーナとは比較にもならないですね。

株式市場は現実のポストモダンであり、
経済はマテリアルでテクノロジカルな社会人間関係そのもの。
まあ現実から乖離したやポスモダ論議はおろか文化論議なんて、
論者の自己認知願望以外の何ものでもないつーことですしょー。


▲個人投資家はネットで

個人投資家の割合はおよそ40%とか。
その70〜80%がネット経由。
信用取り引きの割合いは知りませんが、
信用の70%が松井証券とか。
まあ無期限信用取り引きの威力ですが、
やがてその影響も生じてくるでしょー。
ところで信用の何割がデイトレなんでしょーか?

昔から投資家に評価の高い北浜さんがデイトレを勧めるとゆー
ある種革命的とゆーかエポックメイキング?な出来事もあって、
時代の変遷は、まったくそのマテリアルとテクノロジーによるもんだなあ、
と唯物史観そのものみたいな感慨を持たざるを得ませーん。

ところで無期限信用取引では、半年を期限としてその1ヶ月や1週間を単位とした
分周された期限によるサインがあった制度的信用取引の目安が消失する可能性が
あります。イキっぱなしの市況というポストモダンな光景がまたまた生成するわけですね。
けっこう大変でしょね、コレは。本当のポストモダンなアリーナでどれだけの人が勝負
できるのかなあ。


▲勝率は1割?

デイトレーダー協会によれば「勝ち残るのは1〜2割」?
これにはふたつの読み方が出来まうす。

1つ目は....
リスクをヘッジするために業種別に分散投資しているとすれば、
ある時点で上昇している業種は1つか2つなので、特定の時点での勝率は
1〜2割です。てなことでコレは当り前。
2つ目は....
それを「勝ち残るのは1〜2割」しかないという否定的なニュアンスで認識するとすれば
それが何を明らかにしてるのかということです。
それは出来ない者による出来る者へのシットやヤッカミでしょう。
2ちゃんねんるなんかで散見するコトバですが「デキナイやつは、何をやってもダメ」
なだけ。そんだけのことです。


▲お金をばらまいたデイトレ兄さん

デイトレが注目されるべきとゆーか、
前提となるべきだなと思ったデキゴトがあります。
名古屋のタワーから100万円をばら撒いたお兄さんはデイトレーダーでしたが、
それへのニュースはデイトレへの評価がどんなものかがワカルものですね。

彼は公認会計士の勉強をしていたこともあって企業をチェックする能力はバツグン。
そこで株式投資をやったらカンタンに儲かったとゆーワケで、1日で1千万円失っても、
逆に1日で1千万円獲得する日もあり、貯まったお金は数千万円。例のあし銀の株価が
ストップ安で下落した時に購入。わずか数円で購入した株価が最高26円?とかまで上が
りましたね。たとえば1円で1千万円買った人はその26倍つまり2億6千万円をゲット
するワケです。こういう事態にあきれた彼が悪戯したのが現金ばら撒きだったとゆーワケです。

新聞記事ではデイトレをはじめて変になり、家族とも疎遠になりノートPCを持って
ホテルを転々とし、しまいにはイヤになってお金をばらまき、反省して、今後はもうけた
1億数千万円を資金に人間を相手にした事業をこころざすと決意し、彼は人間性を回復し
た....みたいな記事やニュースがありました。まるでかつてのオタク批判ですね、コレ。
ステレオタイプのデイトレーダーのイメージを作り上げ、そいつが事件を起こして反省し、
人間を相手にした事業をやりたいと人間性を回復して真っ当になった....というそれこそ
ステレオタイプの物語を作って報道≠オたりするわけです。

ココでわかることは2つ。

デイトレで大きな利益を出しつつ、人間と疎遠になった云々という彼そのものが、
もともと厳しい自己コントロールと孤独に耐えなければいけないデイトレそのものに
向いていない平凡な人間に過ぎないのでは?ということです。それから人間を相手にした
事業というが評価されてるのも? 人間を相手にした仕事は必ず相手である人間から利益
を獲得するわけで、そこには未だに拭えない互の損得勘定があり、時に大きく損する人も
いれば、相手から札束をもぎ取って得する人もいるワケです。しかしデイトレの市場には
相手がいません。ある種地球規模の巨大なゲームであるかのように、ドライブする自分自身との
戦い以外には、犠牲者もいないし敵もいません。まるで『アヴァロン』の世界。


ああ、そーいえば今月は押井作品月間か。『攻殻機動隊』のテクノロジカルな先見性から
『人狼』の物語性まで、納得と感動の日々を過ごせまうす。まったく『マトリックス』を
はじめとするハリウッドSFX作品のどこが新しいんだかなあ。

そうそう、これにはスッゴクこだわってますが『アヴァロン』のモニター画面でアイコンが
一つも登場しないのは意味深ですね。Windows?マウス?アイコン? なんだそりゃ。
ガキのオモチャじゃねーか、とタンカを切ってみたくなる、今日この頃でうす。



■もうだめぽ・・・   2004/2/6


今日も油そばを食べたん。
もうだめぽ。
四角飯店無〜念


■まただあ、油めん・・・   2004/1/2

■意外にウマイ、ラ王の油そば?・・・   99/2/3

■やっぱ気になるのは油そば・・・   98/6/14

■高級油ソバ『上海バン麺』の登場・・・   98/5/13

■正月そうそう、油ラーメン・・・   98/1/5

■油らーめん3 & ウサギ・・・   97/11/3

■油そば2(^^;;;・・・   97/10/22

■油そば・・・   97/3/14



■スターリニズムから見えるもの・・・   2004/2/4


『自由を考える 9・11以降の現代思想』(東浩紀/大澤真幸・日本放送出版協会)
は東さんのさまざまな問題意識が大澤さんの博学強覧によって整理されてて、
便利で面白いですが、いちばん興味深かったのはソルジェニーツインの研究以来一貫した
問題意識があることが明らかにされてることですね。
ウーン、優れた人はたった一つの問題意識を持ち続けるもんです。



   当時のソ連では、
   市民が逮捕されることにほとんど意味がない。
   あるのは数字だけなんです。
   そのノルマを達成するために市民が適当に集められ、
   収容所に入れられる。
   全体で見れば統計的な必然性があるんでしょうが、
   個人から見ると、逮捕されるかどうか、何年の刑を喰らうかどうか、
   というのは単に確率の問題でしかない。
                        『自由を考える』(P47)



   いきなり逮捕されたうえで、
   何で逮捕されたのかお前が自分で考えろと言われる。
   当局はそんなことは考えてくれないわけです。
                        『自由を考える』(P49)



スターリンらが立てた五ヵ年計画などの国家プロジェクトがあって、
必要な資金や資材、労働力が計算されます。
それが各級党委員会ごとに割り振られ、
各地区の共産党委員会に、地区ごとにノルマになっている調達すべき労働力が算出されます。
たとえばA地区からは1年間で300人の労働力を調達するという決定があり、
その数値目標をクリアするために党は市民を逮捕します。
あるのは数値目標だけ。その他に意味はありません。
これは東さんが指摘してるとおりです。
ここで確かにキーワードは「統計」や「確率」でしょう。
特に逮捕される市民のサイドからは統計や確率の問題としてしか把握できないものかもしれません。
そして、どんな問題もポイントはいつも把握できないところにあります。
つまりこの場合は「統計」や「確率」で把握できないところですね。


ところで、スターリニズム研究ではスターリンの個人独裁という問題や、
代表制と官僚制による独裁の進行を考察したトロツキーによる研究など、
いろいろな成果があります。
日本でも埴谷雄高のスターリニズム研究のように優れた成果があります。
これは階層構造をもっている一般社会そのものの研究や流行とかシンボルをも説明できる優れものです。  
また日本の企画院がレーニンの共産党独裁から学んだ法整備による統制(統制三法)などファシズムへの
研究はある程度の成果があります。
スターリニズムと呼ばれる現象は2000万人を犠牲にした恐怖政治でしたが、
2000万件全部にスターリンの裁可があったワケではありません。ポルポトの恐怖政治でもそうです。
400万人すべてをポルポトに殺せるハズがありません。

そこで現実に作用している力は何か?
コレがいちばん大きなナゾです。
ファシズムの政治と管理下では法律や規制といった強制力が大きな効果を発していますが、
それもその執行者なり執行力が存在しなければ実効しません。
現代ではテクノロジーが知らずして管理するシステムとなっていますが、
それも執行者によるスイッチONがなければ実現しません。

ところで冷厳に実行されるゴスプランによる全社会への統制は1991年のソ連邦崩壊まで続きました。
壮大な社会主義体制を目指したゴスプランの計画を現実に適用した結果がスターリニズム体制だったワケです。
過酷な労働人口を確保するために逮捕が行なわれました。


しかし、監視が行き届き、密告が横行したスターリニズム体制化でも、絶対に回避されているコトがあります。
もちろん統計や確率では全く把握できない事実であり、スターリニズム現象の核心となる現象です。
それは自分自身を逮捕する....というコトですね。
国家計画を実現するために自分を逮捕するほどに悟った?エライ共産党員や革命家など、どこにもいないワケです。
2000万人の犠牲を出したという加速度的な状況の悪化を招いたものは何か?
それは「恐怖政治」の文字どおりで「恐怖」です。対象に対する否定性の最たるものですね。
自分が犠牲になる前に、自分にとって都合の悪そうな他者を犠牲にしてしまえ....。
自己保身の否定神学としてスターリニズムは生成したといえます。

この当り前の自己保身というスタンスから演繹することがイチバン核心にアプローチできる分析でしょう。
たとえば埴谷雄高のスターリニズム研究などはそういったものです。
そして、自己の安全が脅かされそうになったり自己保身が危ぶまれる時に、
理性外から動物的にせりあがってくる心理が「せき立て」の心理
そのせき立ての心理を動因としているのがグローバリズムそのものであるマネーゲームを代表する
ヘッジファンドの理論。つまり「恐怖の論理」ともいわれる金融工学理論の確率過程期待論です。
ブロードバンドによって接続された高速コンピュータが、確率過程期待論による変数をシフトしながら、
自己のリスクをヘッジしようとする人間の恐怖心に基づいて経済を左右する世界環境....。

誰にでも共通する自己保身の論理が制御なく起動し稼動する世界環境。
つまり、人間は動物化してるのではなく、もともと動物なだけ、です。



■「三囚人のシステム理論は可能か?」から・・・   2004/1/25


『Inter Communication』に連載している企画「メディアは存在しない 6」の、
今号 47掲載分「三囚人のシステム理論は可能か?」を参考に。

前回指摘したようにテキスト全般が刺激的でいろいろ面白いですが、
今回はメインになっているトコを....。

ここで斎藤さんは
「時間と行為について、ラカンが導入したゲーム理論のエピソード」を紹介し、
間主観性の成立は主体の有限性によって可能であり、その主体の有限性は時間によって規定されている、
ということを論理的に証明しています。

それが三囚人のエピソードというやつで、斎藤さんがそこで問うているのは「三囚人のシステム論は可能か?」
という表題になっている問題ですね。
かなりショーゲキだと思います。ラカンのエピソードに基づいてルーマンの社会システム論を批判するというものです。
ルーマンといえば宮台さんですが、これは宮台さんへの批判でもあるんでしょーか? それとも大澤さんかな? ま、いっかあ、と。



「三囚人のエピソード」のゲーム内容は、単純化すると
自分の情報を知ることができたら解放される、というもの。


三囚人のエピソードを少し抽象化すると、

   3人がそれぞれ1個ずつの情報を持っている。
   本人は自分の情報を知ることができない。
   他の2人の情報から自分の情報を推測しなければならない。
   コミュニケーションは禁止されている。
   情報は全部で5個ある。内訳は白情報が3個、黒情報が2個。
   誰もこの情報の内訳を知ることはできない。
   つまり世界の内容を知ることはできない....


哲学的?に解すると....

   人間はそれぞれ情報を持っているが、
   自分ではそれを知ることができない。
   他者の情報を知ることはできるが、
   世界像を知ることができない。

   だから、人は他者の情報を知り、
   そこから推測して、
   自分の情報と世界の情報を知る。


....などとゆーコトが考えられますが、
これはあくまで静態的な、論理だけで
展開される世界のことだと限定づけられるかもしれません。

斎藤さんは大胆にも、ダイナミックに、この世界設定に行動を見出し、
それによって解を得てしまいます。
3人がそれぞれ他の2人の情報だけではなく行動をもチェックして、
それで自分の情報を推測するということを、斎藤さんは見逃さなかったワケです。
たとえ誰も行動しなくても、そこに「行動しない」という行動の意味を見出しています。

斎藤さんは、その理由として「あらゆる判断は、本質的に一つの行為である」(P151)とラカンによる指摘を
引用しています。もちろんラカンが指摘するまでもなく、それは真理でしょう。
認識が分節化する以前の乳幼児では想うコトと行動するコトが未分化。幻想も現実も分別はつきません。
デジャブもそういった心的状態のフラッシュバックだし、多くの精神病も同じです。
それは戦後最大の思想家によるY理論の徹底した射程と根本的な考察においても当然のことですね。


この三囚人の論理だけの世界から行動を見い出したコトはスゴイですが、
「行動しない」という行動から情報を見い出さざるを得なかった閉塞した世界における認識の特徴として
「せき立て」という切羽詰った心理状態をフォーカスした点もユニークで、そこには大きな可能性があります。

この動態的な認識を持ち込んだ斎藤さんのオリジナル?な、実効性のある批評は、
アニメ批評でも駆使されたもの。それは宮崎アニメの擁護というスタンスでしたが、
宮崎アニメに「運動」を見出したのは当たり前のものを発見したスゴサがあります。


ところで、ウチらは、世界を実際に動かしているような現象にも、同様な指摘が出来ることを示しちゃいたいと考えます。
それが確率過程期待論です。金融工学としてノーベル賞をいくつも受賞した理論でもあるけど、
それは何よりもまず人間の心理を要因とした統計上の確率論です。
もちろん人間と同様の心理が無い動物には関係も無く、7つの海を支配した帝国権力も数日で敗北させるほどの力ともなる、
ある種ポストモダンな力でもありまーす。
どこまでも、人間の心的現象がすべての原点であり動因であることを証明した理論でもありますね。



■東京でトップの企業は?・・・   2004/1/24


13年間の不況から、とうとう回復しつつのあるのがケーザイ、つーことで経済....
つまりマテリアルを媒介とした人間関係つーことですが。ケーザイのケの字も解説できない文化論議は
どーでもいいけど、ビンボな皆んなが生命を托した吉野屋の牛丼が危機だったり、意外に美味しい松屋の
カレーに感心したり、京王線沿線をシマにしてる梅本の立食いソバは午後3時になるとお汁が煮詰まって
東京味になるとか、個人的に大好きな焼きソバの立食いのお店がほとんど無くなっちゃったのはどーしてかと
剰余価値論よりムズカシイ疑問を持ったりして、絶不調の今日はモバイルがNEC群馬工場から戻ってきたので
いきなり元気になってます、ハ〜イ、と。

そんなワケで景気のイイ話しを思い出しマシたん。
リストラをやって社員のクビを切った分だけ資金が浮いて、それを黒字転換だというウソが今年からはバレてくるし、
合併してシステム構築の費用が数百億円浮いたのを黒字転換だとゴマかしてる銀行も3月決算を前に、株式市場では
終わりの数分間からなかには5秒位の間に大量のウリやカイを入れて必死コイてますが、まあ基本がヘタレだから、
もーダメだね、っと。

ところが一方で健全な企業や組織はモーかってます。つーか順調でっす。
去年東京で売り上げがトップだった企業がスゴイ。
東京といえば江戸八百八町の頃から世界一の都市。
その東京でトップの企業といえば世界でトップかも....。
まあ世界2位になったトヨタはスゴイし、トヨタで20年間かかった合理化を1年でやった日産は革命的ですが、
それより売り上げがデカイこともあったドコモなんかより巨額のお金をゲットした企業が東京にあるワケです。

その名も、大書して曰く....


   全労済


かつて労働運動なんかで職を失った運動家や活動家のために支援資金を積立てていた機関が、
全労済の前進だとか。
まあ、今やビンボーなボクたちや無職なアンタを支援してくれる組織ともいえるかもしれませーん。
資金運用も健全つーか上手で、毎年何千円とか還付金があるとゆーオドロキの保険です。

多摩ニュータウンにある全労済の計算センターもアメリカンな企業みたいで立派ですが、
まあ、東京でナンバー1つーとこがスゴイでしょ。
全労済の去年の成長率は32%とか。


   東京で32%成長!


みんな全労済へ入ろー、と言いたくなるワケでーす。



■問題の問題かあ・・・   2004/1/21


欧米の哲学や思想でスゴイと思ったものに<方法の問題>があります。
マルクスでは常識ですが、問題提起の仕方そのものが問題そのものの基底を明らかにしているという認識ですね。
サイードなんかだとダイレクトですが。

考える内容そのものより、考えるときの言語を問題にしたワケです。
<ワンワン>なら日本語だけど、<BOWWOW>だったら英語だもんね、とゆーそんなワケです。

マルクスやニーチェのスゴサは欧米語以外に可能性を発見したことであり、柄谷さんもそのことに気がついたわけです。
気がついただけですけどお、あのザマじゃー。だって言語の限界に気がついたあげくNAMじゃ話しにならないでしょー、と。
パラドキシカルジャンプは、あんなコトではないハズだしい。
まあ政治的なコトを否認するとゆー政治性や党派性を否定する党派性ほど欺瞞に満ちたものはないけどねえ。
そこいらじゅうにいるから、そーゆーヤツはさ。

人間は解決できる問題しか提起しない....というマルクスの諦観があります。(W
これはトートロジーではなく弁証法ですが、
それを別の形で指摘した哲学者にサルトルがいます。
その著作が『方法の問題』だったり、それからウィトゲンシュタインとかもそーか....。


たとえば<表現>というものに典型的にコノ問題は現れてきます円周率、3.14、Π(パイ)、3.1416..、......以上はドレもコレも
現実にはタイヤだのボールだの100円玉だのといった球体や円形として存在しています。
そういった現実を<表現>したものが「円周率、3.14、Π」です。
そこに現れている問題が「円周率」「3.14」「Π」といった表現の方法の問題です。
つまり表現の仕方の問題ですね。


この<表現の仕方の問題>に鋭敏に気がついた人の1人が東浩紀さんです。
論議の内容ではなく<論議の仕方>に問題のラジカルな面が露呈するのを東さんは見逃さなかったワケです。
それを系統的なタテの系での展開としてテーマにしたのが、あの名著『存在論的、郵便的』の問題意識でもあるでしょう。
ダイレクトには加藤典洋さんの『敗戦後論』を巡る論争で「語り口」こそがポイントであることを指摘できる東さんの
スルドサは他の論者にはないすぐれた点ですね。Y理論のタームも理解できなかった浅田さんとの大きな違いです。
この違いは大きすぎるほどだしい。アノ、浅田さんのクラインのツボへの指摘は、その指摘そのもののおマヌケさを露呈してますが、
Y理論への浅田さんの泣きじゃくりながらの文句は単に浅田さんのアホさと正直さが曝けだされただけでした。


TV   ボクは本気でフェイクだから


と繰り返し言っていた東さんの姿が印象的です。
コトバでは言い表せないから発言し続けるんだ、と番組の中で繰り返し語り、時に苛立ってみせたその姿は、
東さんのシンパや読者にこそ欠けてるものかもしれません。

東さんにとって最大のテーマは自分自身。
その東さんを最大の問題として捉える宮台さんや斎藤さんとゆー存在と併せて、
まあ、実に貴重なお方ガタだと思いマウス。


東さんが明快に書くことによって際立たせようとしたものが何であるか?
ここでの最終的に求められる解は....。
東さんには激しい自己認識があるでしょう。柄谷の明晰な書き方をパフォーマティヴだと
指摘しているところで、自身を除外してはいないハズなんですよね。自身への自戒?をも
込めた指摘ならば、それは読者(読解力)への戦略でもあるはずです。それはデリダ自身の
戦略と同じものです、これは。つまり、東さんは自分が向かった対象と同じ方法を自身で
採用してるワケですね。問題は読者がそれをどう受けとるかだけじゃないかな。実をいうと
“届かない”ことへの東さんの苛立ちは、受け取る側の能力への懐疑や批評が抜けてるかも
とか思ったこともありますが。受け取る側が批評できるほどの体裁をすでに成していない
のは解るけど...。だから動物化なのかなあ....とナゾは深まる、か....とゆーか、
カンタン過ぎるのかあ....。



■とくになんでもないですが・・・   2004/1/18


ちょっとはマトモなモバイル環境を手に入れて仕事OK、トレードOKな感じでしたが、
セカンドバッテリを追加してわずか数日でOKがKOになっちまって、
まあ作業場のISDNと30Mのブロードバンドでこなす今日この頃ん。
バッテリを追加して6〜7時間は電源レスでデキル状態は、もー、paradise!
医者の帰りにキャフェでトレード。メシをツイバミながら原稿メモ書き走り書きい。
作業場でもフイールドベッドのわきでもスイッチON。グローバルなポストモダーンバトルフイールドで、
恐怖の論理といわれた金融工学こと確率期待論をブレイクスルーすべく最深部突破で斉射。
時にパラメーターへの影響を確認しつつケリの一撃でアリーナから急速離脱。
ふー、今日も無事だったぜえ、てな謎の数日を過ごしたりして、まったり生きよーと。

ブロードバンドの技術者さんが、自分の所有回線は名目27Mなんだけど実測0.6Mだあとかナキ。
まあなあ、あの無料配布してるやつらしいけど、作業場では30Mの実測は28.5Mで、ロス率5%。
高速無線LANも状態100%から80%はキープしてるんでOKな感じイ。
欠けてんのは資本だけっと。

今年はファンダメンタルと実績チェックで企業が選別される傾向が弾むんで、
個人のデイトレさんもやりやすいでしょー。
まあすでにリアルなポストモダンフイールドでは松井御大将のもと個人トレーダーが過半数をセーハ。
そーいえばアリーナの戦士たちにも、月末には5000人集会オフ?もあるし。
ニュースでも無視はできねーだろーなあ。



■『現象学は<思考の原理>である』つーかさあ?・・・   2004/1/12


ニューアカだのポストモダンだのを象徴してくれたよーな問題?が、
あのゲーデルの定理でしたん。決定不能性を証明してくれたアレですね。


   「すべてのクレタ島人はウソつきだ」とクレタ島人が言った。


トカナントカゆーアレです。
これは現実と違って論理そのものは決定不能だよというメッセージだと、
論理の呪縛を軽やかにコケにしてくれる定理だと、
アタマデッカチのヤツが病理に追い込まれる要因でもあるよと、
だから論理から現実へのパラドキシカルジャンプが行なわれて、
現実つーのは、ハゲシクもまったりとイクんだねえ、と受け取ったモンですが、当時は。
哲学者たる竹田ナントカさんは違う。
2004年にもなって、こんなにハゲシイ並だ(間違い。正解は涙)とバクショウをお年玉プレンゼントしてくれるなんて、
落とし前つける必要さえ感じさせるのはナゼでしょーかあ。

この人って、決定不能つーかズノウがフノーだったらどーしよーとか、思いマセン?
どーしよーかあ....

いまや世界に2人しかい現象学の哲学者であると自称する竹田さんによれば「一般言語表象」と「現実言語」を混同する
から「クレタ島人のパラドクス」は「言語の謎」「自己言及の謎などと呼ばれ」「知的興味をそそ」るんで、それは間違い
だって?

そもそもクレタ島人のパラドクスつーのをニューアカさんたちが援用したのは、
言説や理論を形式論理に追い込んで内破させることによって、論理の無効性を曝したんじゃなかったの?
現実へパラドキシカルジャンプするための<力>を垣間見せて見せたんじゃなかったの?
とか思うだもーん。どちらにしろマテリアルな現実の前に理論や論理なんて何の役に立たないし、テクノロジーだけが有効じゃん、
てなコトだろ、オラオラ、まったく。

まあ、現実見ないヤツはダメだし、矮小な自分個人の実感でしか考えられないヤツもダメなんだけどさあ。
論理はもっとダメつーことでしょー。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

『現象学は<思考の原理>である』(竹田青嗣/ちくま新書)

 現代思想は総じて反=哲学であるという認識を前提に、その哲学に対する誤解は「現代の哲学者が 近代哲学の
  「観念論」という方法の意義を十分理解していない」からだという本書の指摘は説得力がある。

 しかし、だからといって著者が正解を用意している訳ではない。むしろ、本書で繰り広げられる現代思想 への
  反論そのものが見事に現在流布してるさまざまな錯誤の典型的な例として読めるところが面白いのだ。

 ハイデガーやポンティの陥っていった、その限界を的確に批判しながら、「現象学を哲学のもっとも本質的な
  可能性の原理として捉えようとしているのは、世界中で私と西研の二人だけになってしまった気味があるわけ
  です(笑)。」と(笑)マークつきで書ける元気のよさは見習うべきだろう(笑)。それが昨今の若者論でい
  われる<根拠無き自信>と同類のものでないことを願いたいが。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



■『IC47』斎藤さんのシステム論批判だ!・・・   2004/1/8


斎藤環さんが『Inter Communication』に連載している企画「メディアは存在しない 6」の、
今号 47掲載分は「三囚人のシステム理論は可能か?」というもの。
あのルーマンの社会システム論へのラジカルな批判です。
それは同時に批判する観点そのもののラジカルな検証が即座に可能なほどの、
スリリングなテキストになっています。

システム論への疑問の1つに人間の主体性はドコにあるのか?とゆー
哲学をはじめ諸学のブラックホールのよーな問題点があります。
もちろん人間の心そのものを探求してきたラカン派には「黄金数」のよーな
擬似的な解答可能性を見出したものはありますが、
それが解答そのものではないとゆーコトでは、同じでっす。

そーいったところに見出される共通する問題点は、
認識における基本的な空間性の混同があります。
認識が不可避にもつ幻想性と現実の空間性との関係がごちゃ混ぜになっている
という混乱ですね。


ところで、このルーマン=システム論への批判は、
日本では最初の本格的なラカン紹介のテキストだった『構造と力』と
オーバーラップする面もある、原則的な観点からされてます。
それだけに、このルーマン批判はより広い方面で応用が利く、
逆にいうとラカンの適用範囲を広げられる可能性のあるものです。

ただし、そこにこそラジカルなラカン批判(=斎藤批判)も成立する可能性も
あるでしょー。ホンとかなあ?っと。

以下、ちょっとだけえ。




   われわれがコミュニケートしあっているかのように見えるのは、
   単なる偶然でなければ、何らかの転移関係がそこにあるからに過ぎない。
                        『Inter Communication 47』(P147)

もちろんコミュニケーションが偶然であるハズはないですね。
むしろ「そこにあるからに過ぎない」「転移関係」だけを頼りに成り立っている
のがコミュニケーションの本質。だから偶然でしかないような危うい認識こそが
コミュニケーションの本質かもしれません。マテリアルな前提としては
ミラーニューロンなどさまざまな検証がススんでますが。コミュニケーションという
心的現象と分かちがたく、また心的現象そのものであるかのような錯誤を招いている
ほどのムズカシイ現象は、そんなカンタンに答が出るワケではないかもしれません。




   オートポイエーシス理論の特異性を一言で言うなら、
   有機体がそのシステムの境界を「システムそれ自体の作動によって産出する」
   という局面を記述可能にした点にあるとされる。
                        『Inter Communication 47』(P148)
	    
これはオートポイエーシスが並のどんな理論とも違う自己生成の理論だというものですが、
同時に、システムの全体性そのものが自己言及そのものであるというスグれた指摘ですね。




   外部からの入力を内部から見ると、
   起源が不明な撹乱として理解されるという。
                        『Inter Communication 47』(P148)
				    
ここでノイズ理論やカオス理論の援用が可能であるかのような印象を受けますが、
それこそが情報理論をはじめとする科学が絶対に人間そのものを描けない理由を
隠蔽してしまっているのかも。ラカン派ではこの「撹乱」を「黄金数」と認識評価する
かもしれませんが、これは<アバタもエクボ>という問題に過ぎません。Y理論なら。



■ハタラキ者とゆー病!・・・   2004/1/5


無能の人に続いてナマケ者とくれば、
ヒッキーマンセー。。。つっても何のコト?てな意味不明な
カキコをしてどーするかと。。。


学生のときにバイトをしていて、いちばん驚いたのが、
ハタラキ者のことです。

自分はナマケ者なんで、ハタラキ者をソンケーしていましたが、
ある日、ヤメました。
理由は、カンタン。
ある時、見抜いちゃったんです、ハタラキ者の本質を!

最初はオドロイて、ビックリして、
次に少しキョーフを感じて、
その後バカにして、
今は憐れんでまっす。
ハタラキ者のことをね。


官庁関係の報告書を作っていたんですが、
1o単位のグラフ作りなんかあってケッコー大変。
コンピュータの専門家が何人もいる会社でも、
数値グラフは手描きが大部分。

社員全員がポケコンを持っていましたが、
メインフレームはパンチカード入力だったりして、
電話すると絶対に2時間以内にやって来るIBMの技術者がスーパーマンに見える
時代でしたん。


バイトは社員の指示を待っているだけなんでお気楽。
自分の仕事が終わっちゃえばケッコウ自由で、シアワセな時代でした。
神田界わいの飲み屋をすべてセーハしたり、旅行の計画をたてたり、
女子社員にチョッカイをだしたり....と、夢も計画も妄想もふくらむ青春でっす。

で、ウオークマン聴いたりしてブラブラしてると、
先に仕事が終わったハズのヤツが、必死に図面のコピーなんかとったりしてます。
? アイツ、まだノロノロ仕事やってんの?
さっき図面もグラフもさっさと仕上げたハズじゃんか?....と思いつつ、
コピーをとる彼の手もとをのぞくと....。
彼は仕上げたハズのグラフなんかを、また描き直して、またコピーにとって....
なんですね。一度終わった仕事を最初からやり直してるよーです。
フーン、手持ち無沙汰だから、か?
仕事が終わっちゃって、ヒマだから、また仕事をやり直してるつーワケ、か。
ワザワザまた仕事をやってるワケ?
ヒマが出来たら、アソんでりゃいいじゃん、え?
会社サイドだって、別に評価しないだろ?
用紙のムダだし、コピーのムダだし、電気のムダだし。
こりゃ第3者がチェックしたって評価しないだろー。
どこからも誰からもオーダーされないのにワザワザ同じコトを2回も繰り返すなんて
ワカンねえーよお。

ケッキョク、自己満足だなあ。
そーか自己チューか。
たのまれてもない仕事や役割を自分からススんでやるワケ。
つーか誰からもたのまれてなきゃただのムダ。
別にエラクもねーな、コイツ。
役割の自己創出か。。。。。。。


自分も心理学のゼミに入ってましたが、
バイト先の友人にも心理学専攻が何人もいました。
そんな環境のなかで役割の自己創出ってなコトを考えて、
一見マジメに見える人間のサガに何かヘンなものを感じました。
そんなバイトでしたん。
もしかすると、
ハタラキ者の多くが、
同じだったりしてえ......。
疑念はフクラみまーす。


参考までに。。。。

人間や生物の集団性の研究では、
怠け者がいる集団の生産性効率がいちばん高いとゆー結果があります。
これはどんな生物でも共通とのコト。

   10パーセントの怠け者
   10パーセントの働き者
   80パーセントの普通の者
      
以上がベストな割合いだとか。
ちなみに怠け者は身づくろいをしてたり、ぼーっとしてたり、ひたすら食べてたり....
人間でもアリでも変わらないそーです。へへへ



■まただあ、油めん・・・   2004/1/2


   体調が良くない人は食べないでね


とゆー大きなただし書きをコケにしつつ、
天下の油めんにチャレンジ。

   ウンメー
   たまら〜ん

と心中にこだまする雄叫びをあげながら、合唱しちまった今日この頃。
ぶぶかは混んでいたな、っと。

そーいえば以前も体調が悪いヤツに無理やり油めんを食べさせて、
その後、その人は体調つーか運命つーか頭つーか、を悪くしたかも、
なんておせっかいで心配しちゃう、私は、優しい羊なのお。。。


新年から、めっちゃくちゃだなあ。



■今年もさまようぞー・・・   2004/1/1


去年書きかけたんで、あとでちゃんとUP予定。

で、斎藤環さんがヒジョーに元気です。
もしかすると、コレは、斎藤さんによる最大の問題提起かもしれなよ、っと。

斎藤さんがInter Communication 47の連載企画「メディアは存在しない 6」で、あのルーマンの社会システム論を
ラジカルに検討し批判してます。タイトルは「三囚人のシステム理論は可能か?」

日本でルーマンが有名になったキッカケは宮台真司さんなのは誰もが知ってるとーり。
その宮台さんと斎藤さんのスリリングな対談(『OK?ひきこもりOK!』等)は、
かつての柄谷さんや浅田さんの対談のよーに読者をインスパイアしてくれます。
しかも斎藤vs宮台はニューアカ対談とは違ってます。
宮台さんは自己のスタンスの大きな修正を表明したり、斎藤さんもこれまでの著作などでキビシイ自己限定を明らかにしたり、
それぞれかつてのイデオロギッシュな論者らの発信と違って、自己のスタンスそのものに個人の倫理を反映させた信頼できるもの。
自らの実存と、思想という普遍性を目標とするものの一致を目指すとゆー、ある種リアルな、負債そのものであるよーな立場。
つまり、人生そのものつーこと、か。

そーゆーとこに読者の信頼もあるし、
そのままさまよちゃってOKな、ニーチェあり!な感じですよ、ね。
で、羊もさまようワケです。
ただし、キモチよ〜く!!!
今年も、ね。