羊通信 2003.8.1〜.12.31

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ドーナツTYO & SKYDOMO羊通信ネタちょー(ネタ募集中)
★ 戦闘美少女だよん/★ 不過視界の精神分析/★ 2ちゃんねる宣言だよん

■いそがしー・・・   2003/12/30


つーことで、
カーソルと4、5桁の数字入力と、
リターンキーでもって
20万円ゲットしちゃった今日なんて、
ナマケ者マンセーなんだけど、
デイトレの頭脳労働も立派な資本主義へのコーケンだろ....
とか思いながら、
ナマケててススまない作業場の片づけに今日も死にそーな羊でしたん。
明日も、いそがしー。

医者のツケが200万円、そもそも住居維持に1800万円、貸し付け受けた返済が400万円、
他にも借りてるんでン100万円だったか....。
それでも14億円の借金がある知人の方がお気楽なのは、
やはりテッテーしてるからでしょーかあ。
来年はもっと楽になるぞおーっと。

まあ、作業場は廃止した電話の撤去に来られないほどメチャクチャなんで、
もーサンクチャリなんだけど。ISDNにつながった電話とFAXが作動しないのを
気にしないのって、もーオワッテル感じがするのは、本人だけではないかもね、っと。
高速BB回線でOKなんですが、増強したモバイル環境も数時間でオシャカ。
なんだかなあ。



■『心の起源』マテリアルを超えようとする能力?・・・   2003/12/25


つーことで、マテリアルな規定を受けないモノゴトなんてこの世には無いですが、
そのマテリアルな根源にある時空間性を原初のリソースとして生を授かったこの世の
生きとして生けるものには、あるとってもスゴイ必然とその後の努力によって、時空間を
超えようとする能力を発展させてきました。マテリアルな限界を超えようとする能力です。
それが時空を超える能力であるかのように思える観念ですね。つまり、心。
もちろん、どんな心の作用=心的現象もそれ自体でマテリアルな限界を超えたり、TPOの
規定を避けることはできません。でも、記録することによって情報を時間や空間の制約を
超えて伝えることはできるし、観念の自由度はほとんど全てのことを可能にさせてくれる
可能性があるでしょー。

で、その心は、物質に対して情報を記録するコト=分子結合=遺伝子からできた情報が原点だ
とゆー当り前にしてクールな思索による内容が、この『心の起源』です。

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『心の起源』(木下清一郎・中央公論新社)

 著者は発生生物学者だが本書の内容は遺伝子から数学的公理の解釈まで含み、それらをフルに活用して
生物が形成する集団社会まで論じながら、心というものに迫っていく。記憶が心の起源であることを示す
とともに生物が自己複製反応を繰り返しながら進化することを論証する。それゆえの自己言及から必然的
に生じる矛盾。著者はその生命の不安定さに<入れ子>世界を想定することで秩序の確保とさらなる進化
を仮定し期待している。実をいうとこの部分は言語学や哲学、思想といったものがポストモダン以降閉塞
している状況をブレイクスルーする理論そのものとして援用できる可能性がある(逆説的にいえば他には
ない)。生命に即した科学書であるとともに、デッドロックでフラットなザマをさらしている人文科学に
新しい可能性を与えてくれる書でもある。

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■来年はアメリカに40兆円あげるかも、か・・・   2003/12/18


つーことで、来年度の日本の国家予算を見ると、イロイロなことがわかりますう。
結論からいうと、アメリカはガタガタになっちまうんだろーか、と心配になったり....。

為替介入のために日本政府は40兆円もワクを用意するとか。
今年度が20兆円なので、来年度は2倍になるワケ。

円高が進行したら、円安へ誘導するために円を売ってドルを買う、その資金を用意するわけですが、
そこにカラクリが、あるんだよん。スゴイからくりがね、

ドルを買うといっても、ドルという通貨を買うんじゃないんですね。
ドル建てのアメリカ国債を買うんです。
それがこの経済問題の隠れたコアです。
あーん? わかってんのかあ?
アメリカの財政赤字を補てんするために、日本政府がアメリカ国債を買うワケですよ
その公的な上限が40兆円だ、と。1年間でね。
これが何を意味してるのか?

憲法で禁止されている政教分離をコケにする宗教政党が支えてる政府がやることなんて、
こーゆー風に支離滅裂。まあ実際にやってるのは自己保身以外には何もデキない官僚と、
長い間北≠ノまで送金してきた自称保守政党、それらと同じメンタリティのマンション反対とか
清掃工場反対とかいってるエゴとプロ市民....最近は瘉し系のボッタクリ「ハンドパワー」のNPOまで
登場するありさま。掲示版で発作的に宗教法人設立の出資者を思いつきで募集するニセ気功師とか、さ。
もー、メチャクチャなんだけど。

でも、ねえ、
売国奴が支配する国家と、非国民が右往左往するストリート....
なんつーのも、ケッコウすごしやすかったりするかも。

田中康夫さんがTVで、日本はハワイの次の州かも、とか言ってましたが、
ボクはそれでもいいですよん。そのかわり、いろいろなジャッジの基準も
アメリカのいいところは学んで、実力主義、結果主義を評価する、
マテリアルなプラグマティズムあふれるステートになってもらいたいモンです。

サブカルがどーのこーの、しゃべり場がどーの、とか、そんなレベルの問題じゃないんだね、
すでに起こっている事は、さあ。


つまり為替介入用の資金は、アメリカの国債を買うのが目的でもあるワケ。

なお、日本政府が日本政府の国債を買うために用意する資金は120兆円とか。
ぎゃははははははははははは

オマエはすでに死んでいる、つー感じの、ニッポンでしたん。



■闘争力は日常の所作から・・・   2003/12/9


つまらないTV番組が多いなかで好評だったのがNHK人間講座の<「古の武術」に学ぶ>!!!。
西欧的な筋力とか鍛えるとかゆー強迫観念ゼロの、日常生活の所作にベースをおいた武術つーかワザの講座。

「柔よく剛を制す」とゆー講道館直伝の師範から柔道を習ってたことがあるんですが、全然力と体重と大きさの
世界で幻滅。闘うことがイラクのアメリカ軍みたいにパワーだとか装備だと思ってる強迫観念が常識化しちゃった
スポーツや競技のつまらなさ。

ボクシングのスーパーヘビー級が200キロのパンチ力を誇っても、
それは腕周りが太ももみたいに太ければ当り前の、筋肉量に比例しただけのパワー。
ワザなし能無しの当り前の力の世界だけでしかないんですね。
ところがヤセテルお兄ちゃんでも中国拳法なんかはコブシに200キロの破壊力を込められまーす。
ナゼかあ?

そんな、武道や身体運動に関して持っていた疑問を、解き明かしてくれると共に、
納得させてくれ、再確認させてくれたのが、甲野善紀さんが講師を務める<「古の武術」に学ぶ>でしたん。

そーいえば、以前あの吉本隆明さんの「試行」に武術についての孝察を載せていたスルドイ武術家がいましたが、
誰だったのか憶えてないので残念。なんか単行本になってたよねえ。

要は、完全にオブジェクトの論理で運動できるかどーかが問題移動する体重を全部一点に負荷できれば、そのポイントの破壊力は簡単に数百キロになるしね。
筋力に頼ってる欧米的闘争力イデオロギーは意味なし能無しでありやんスウ。



■大ヒットの良書『バカの壁』のワケ・・・   2003/12/2


『バカの壁』200万部に迫る勢いの大ヒット。

『バカの壁』はひさびさの良書?ですが、
それがバカが多いことの証明だったり、
バカに迷惑している人が多いことの社会的な表現だったり、
タバコの自販機よりバカな出版界にめずらしくまっとうな人が登場したからだったり....。

まあ、どっちにしろ、笑えるし、正しいし、いいコトなんだと思いますが、どーですかあ?

で、まず、読んだのは発売当初なんですが、
その第一印象は、ラカンや吉本さんに並ぶ心理学?の書だな、とゆーもんでしたん。
ま、心理学つーか認識全般に関するアレですが。

興味があるのはその結果?なんですが、それは、もー、なんつーか、残念シゴク、現世はジゴク、
東京はバグダットってな感じのもんです。多くの読者による読後の結果ね。


ホワイトカラーなんつートライヴがちょっとインテリぶって社会を斜め読みするフリをする姿が
スデにアナクロニズムですらないコトに気がついていないオメデタイ誌面ながらも時々よいテキストも
あるかもしれない『論座』12月号思考のラディカリスト養老さんコトバの原理主義者糸井さんの対談が
載ってるんですが、コレが、イイ。題名は「「バカの壁」の向こう側」。

養老さんは脳のブームを作った人でもあるけど、『バカの壁』の脳科学的な専門書として
『人間科学』などの本も書いてます。スゲーのがそーいった養老さんの本へのレスポンス。


   『人間科学』(筑摩書房)という本を一生懸命書いた。
   そしたら高級な人は読んでくれたけど、やっぱりみんな「わからない」って。
     それをここ(『バカの壁』)まですると、ある程度わかってくれたみたいだけど、
   でも何がわかったのかと聞くと、「難しいってことがわかった」って。


その分析こそが『バカの壁』の根幹なんですが、養老さんはそーゆーことを簡単に説明しちゃいます。
ステキなの。だってクールじゃーん。


   じゃあどうして皆さんが難しいと思っているかというのは、
   やっぱり「バカの壁」なんですよ。だって「自分」という前提を
   置いているからです。


このクールなコメントを斉藤環さんの力作である『文脈病』なんかでもって説明すれば、
それこそ学習障害ですね。《学習U》レベルの障害。ここで何度も繰り返し指摘してる構成同一性の無さ....つーこと。

まあ、世のなかsampleだらけなもんで、不自由しませんが、自分が自分に不自由するのが、ナンなんだよねえ。



■銀行が黒字というウソん・・・   2003/11/26


大手銀行が黒字に転換したとゆー話題が明るいニュースになるよーじゃ、
日本はオシマイなんだけど、もっとオシマイつーか既に終わっているとゆー感じがヌグエナイのはん、
それがウソだから、だよーん、と。

貸し出業務は依然減少中。貸し渋りと貸し剥がしでもって数千以上の中小企業を潰しつつ、
テメーが助かろうとする銀行くんは、甘い。ヒジョーに甘〜い。
国債なんかの債権を売って手数料を稼いでるだけ。しかも国債の信用の裏付けは国民の所得そのものなワケで、
みんなの預金を差し押さえる預金発動はペイオフ解禁を言い訳にしつつ、本当はもう見当されてるのは、
副島さんの指摘を待つまでも無いね。とっくの前にココで指摘してたとーりで。

で、大手銀行の黒字転換は、
東京都庁が外形標準課税に関して徴収した税金を銀行に返還したのが最大要因なワケなだけ。
そんで、銀行はカロージテ、帳簿上黒字になっただけ。業務上の利益が上がったワケではありません。

つーことで、来年はますます実態がともなった経済活動にだけ評価が与えられますんで、
鉱工業生産数値をメインにチェックを忘れたもうなトレーダー諸君!とゆーのは釈迦に説法なんで、まあ、と。




■『永遠の吉本隆明』ねえ・・・   2003/11/20


でました、ちょっと流行の吉本論?
橋爪大三郎さんの『永遠の吉本隆明』でっす。
題名がなんか文学してるモンで、ナンですが、
先日の大澤さんの吉本論に続いて、それなりに参考になる内容ですね。
まあ心的現象論については、またもやまったくハズシテルもんで、もーどーでもOKですが、
三浦つとむやチョムスキーへの言及など面白いところがあります。
スルドイけどアバウトな芹沢さんの吉本論なんかと比べると、
橋爪さんのスタンスがハッキリしていて、スッキリした気分で読めます。
吉本術語への評価は浅田さんが赤面しそーな感じでGOO。
橋爪さんと浅田さんて、ズイブン読解力に差があるんだね、とゆー意地悪なトコに気がついた人はステキです、きっと。(W

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100人の人間がいれば、100通りの意見がある。世界に対する解釈もそうであり、これを免れる人間はいない。
だがマテリアルな事実というものは一つであり、それを探究しようと目指した認識が唯物論だ。吉本隆明は実直に
この唯物論にのっとって、最も唯物論的ではない現象である人間というものにアプローチした思想家だろう。

その吉本理論を社会学者である橋爪がジャッジを試みたのが本書。
もちろん橋爪の解釈も100通りのうちの一つでしかないことは明白だが、唯物論的であろうとするスタンスが、
読み応えのある吉本理論の紹介を可能にしている。

これまでのいかなる論者もまともな読解ができていない「心的現象論」について、橋爪なりの深い問題意識が
一定の判断を示していて参考になる。「共同幻想論」の評価におけるデュルケムや構造人類学への参照、
「言語にとって美とはなにか」に関しての三浦つとむやチョムスキーについての指摘など、新鮮な刺激にもなるだろう。

本書の中でも特に「吉本思想、八〇年以降の仕事について」は若い読者や論者にとってもラジカルな問題提起であり、
読者そのものが問われている問題だ。

だが「心的現象論」についていえば、その序説である『心的現象論序説』はすでに完結しており、本論である
「心的現象論」そのものが未完であることへは橋爪の指摘する「傍証であって、証明は終わらないから、『心的現象論』
は終わらなかった」というのは、やはり間違いだろう。『心的現象論序説』でもって原理論的な構築は終わっている
と考えられる。それよりも、そういった指摘や批評が存在しえない現状こそ、吉本理論の解釈者がいまだ不在である
証左でもあるワケだ。だからこそ吉本理論は読者を触発し続けるのだが。

吉本理論へのいちばん辛辣な評価は浅田彰による『近代日本の批評』での「テニヲハが合っていない」「用語が我流」
で「論理的につながっていない」「最悪の意味で「詩的」」というものだが、橋爪は「吉本術語は」「最小限の用法」
で「読者の多くが知っている概念になるべく即して、自説を展開しようとする」と評価し、「フランス現代思想」を
「あるところでは先んじている」と「高く評価できる」としている。本書は吉本理論の読解だけではなく、また、
橋爪の思想や能力にとどまらず、思想へ対う者へ根本的な何かを問う書にもなっているようだ。

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■健康長寿の沖縄と長野県の共通点・・・   2003/11/15


健康で長寿といえば沖縄。
その秘密を探るために沖縄料理の研究会があったり、
沖縄のライフスタイルそのものが評価されたり。

沖縄の人はのんびりしてるから長生きとかゆー憧れ半分の理由づけと、
ご老人でもブタとゴーヤをいっぱい食べてるからとゆー栄養学的な指摘があったりと....
いろいろみんな一生懸命に健康と長寿のワケを探って必死だったりします。
だってさあ、誰だって自分が健康で、んで、長生きもしたいんだもん、と。

だったら、もっと考えよう、とゆーことで。
たとえば本州でいちばん長生きの長野県との共通点は?
なんて考えた人はいませんか?っと。

すぐに気がつくのは、ぬあんと共通点ではなく、相違点、でしょ?

沖縄は暑くて亜熱帯気候。
長野は涼しくて温帯気候。

沖縄は海に囲まれてて、
長野は山に囲まれてますう。

さーて共通点はあ?
まあ、どちらも自然が多いとか、空気がキレイとか?
でもさあ、自然が多くて空気がキレイなのは、日本ではめずらしくないかも。
いろいろ問題はあっても、北海道なんてそーだし、
東北だって北陸だって四国だって九州だって、自然とキレイな環境は豊富でしょ。
しかし、健康と長寿は沖縄と長野がダントツでっす。


ところで健康と長寿の理由を探るのには、不健康と短命の理由を探るのが手っ取り早い、かも。
まあー弁証法的でも否定神学的でもナンデモいいんでしゅが、
重要なことは、不健康=病気と短命=不長寿の原因を探れば、いいワケで。

それで、生活習慣病とか老化の大きなポイントは? と考えちゃいます。
そこで以前から栄養学的な立場から指摘されてきたのが活性酸素。

物理学者で栄養学関係に大きな功績を残した三石博士が指摘したのもコレ。
ビタミンカスケード理論なんつー見事な主張には健康問題全般をラジカルに再検討させる重大な意義がありましたん。
で、栄養の大きな要素に、この活性酸素から身体を守るという働きがあるワケです。
おもにビタミン系の働きで、ビタミンCやビタミンA、ビタミンEなどに代表される機能が
この抗酸化作用ですね。

呼吸で吸引される酸素の100分の1が活性酸素化するとか。
心臓がドッキン、ドッキンと鼓動をうちますが、
この<ドッ>と<キン>の間となる瞬間、活性酸素が発生。
あとは免疫系や代謝異常でのトラブルから活性酸素が発生し、これが繰り返されて
細胞組織が傷つく=酸化することを長年繰り返して老化するワケですね。
ちなみに酸化は身体の全体像としては老化ですが、
部分的で急速に進行する酸化は病気です。


で、どーして沖縄と長野は、健康と長寿が多いのか?
カンタンにいえば、身体が酸化する度合いが少ない環境にあるんですね。
身体内で発生する活性酸素量が少ないとゆーこと。

具体的にはどーゆーコトでしょーか?



■300万円で50万円?・・・   2003/11/10


ハイテク株が崩壊してデイトレーダーの第一世代がコッパ微塵になったのも夢の跡? (W
デイトレさんたちは、同時にインターネットの使い手でもあって、株取引の手口情報から
信用残高までネットには有用な情報がアフレテましたん。

ところが手口情報が非公開になっちまって、信用の売り買い別残高が過去1ヶ月分チェックできた
情報サイトもクローズ。一日も間違わずに売り抜けた数百万エンの思い出は今や幻かと....。

情報公開がジョーシキの現代にあって、手口非公開、信用残高のチェック困難といった策を弄したのは、
情報が公開された完全な自由市場では勝てない守旧派のバカな分だけカラダがデッカイ某N社の画策。
今やCATVの経済専門チャンネルが頼りにするのは、日本でアメリカの証券関係保険に認知された
唯一の会社である松井証券の情報だけ。ネット証券の雄であるのは誰でも知ってますが、あの社長の
「大企業はスゴイ目にあわせてやる」といった過激なTV発言なんかもイカッタりするんですね、コレが。

で、まあ、いいけど、300万円投資して50万円稼ぐのがネットトレーダーさんたちの目標とか。
それも松井の無期限信用を駆使して1000万円単位のトレードだと、それが一日の目標になっちまうんですね。
一ヵ月に300万円投資して50万円の利益つーのは一般的な商売と比しても同程度。
そこにはネットや株式であることのメリットが見つからない気がしまーす。
ましてやIT常識時代にネットトレードで、情報がビンビンなら、そんなフツーな利益率なワケが無いだろ、っと。
まあ、モノゴトはそんなにカンタンじゃないだろーけどね。
でも5000株単位でも1日で数十万円の利益があがるのも事実。

ネットトレードじゃなくても、あの「バカの壁」は歴然として存在するし、
ダメなヤツは何をやってもダメなのは確かん。
ホントの悟りはそのへんをさり気なく肯定しつつ平常心へ致らせてくれるヨーですが、
アメリカのナスダックなんかで鳴らしたデイトレの達人さんが何気なく「悟った」と発言してるとこが、イイですね。
困難だったのは自己コントロールだけ、とゆーのも達観。
スゴイ人は、スゴイよ、ホントに。



■がんばれ、チヨジ!・・・   2003/11/5


いちばんハードな制作チームに抜擢されたときに、
アブないプランナーにプレゼントされたのが『無能の人』。(W

あんまりにも自分にピッタシなんでビビリつつ、
初めて古本屋でガロの「ねじ式」を手にして、
ブッ飛んでしまったことなんかを懐しく思い出しながら、
独り、裏銀座の、徹夜の夜明けをカラスが教えてくれる空なんかを眺めて
銀座高野山....とかつぶやいてましたん。

この15年、漫画を描いていない漫画家、元祖ヒッキーで対人恐怖症のつげ義春さんが
3日の新聞にちょこっとインタビューされてます。

あのウサギのいる多摩川あたりにすんでるつげ義春さんの初期傑作短編集が出版されて、
今売れてるとか。ウチにあるのはたぶん個別の初版のオリジナルとかだろなあ。

インタビューは選挙についてだけど、
「日本を変える」自民党 vs 「つよい日本をつくる」民主党....に対して、
「いずれにも、ついていけない世界がある」とつげ義春さん的世界を紹介。
「「生来の怠け者」で、社会から孤立した生活を送ってきた」つげ義春さん。
家の前の多摩川の川原でウサギになんかながめてんのかな、と思いながら、
この人をホッとさせる不思議な漫画家が、今人気なのは、なんかいいな、と。

以前、ニセ気功師が「怠惰な引きこもりはダメ」とカキコしてるのを見て、
自己の正当化しかできない人の厭らしさに辟易としたけど。そーゆーモダンな
強迫観念に囚われてる人の一生って寂しいだろーなーと思いつつ、
自業自得と因果応報の隠れファンであるボクは、ナゼかうれしかったり。

「いずれにも、ついていけない世界がある」.....
そんな世界を探しにいくのも人生だぜえ、とか吉本さんなんかは言いそうな気がする。

モダンのいちばん異常なカタチが『心理学化する社会』で指摘されてるように
瘉しとトラウマのマッチポンプ市場を形成しつつあるなか、


   がんばれ、チヨジ!


なんてゆー小さな呟きが、
すごくエロチックで無邪気な生の強度を提供してくれる、
そーゆー漫画をサブカルの強度として示してくれたのに触れられるのは、
シアワセなんだよ、なあ。

チヨジは、いっぱいいるからね!

見つけられないのは....自分のせい、でしょ。



■50万400万500万エーン・・・   2003/11/3


最近つーっても忙がしいから忘れちゃったけど、
あるお寺に行ったら、檀家?からの寄付が書き連ねてあって、経済的なお勉強になりましたん。

いちばん大きな寄付の金額が50万円。
たしかガキの頃に400万円とか寄付してる人がたくさんいたんで、
時代の変遷を確認しちゃいました。

400万円が50万円にシフトしたと考えると....。

モノゴトは大雑把にトレンドをつかむのが大切で、
まあ400万円 → 50万円とゆー変化は、
ある経済的なポイントが8分の1になったことを示してます。

だいたいバブル崩壊後の地価の下落や、担保資産価値の減少に比例してます。
逆に債務が8倍になったのかもしれないし、
あるいはマネーサプライから逆算した株価平均の最低値にも一致しますね。
最高理論値5万円の株価平均が6、7千円台まで下がったりね。


それでも東京の物価は世界最高。
どこがデフレなんだあ?

この構造デフレの説明は榊原元財務官がいちばんマトモな感じですが。
金子さんなんてデフレには反対らしいんで、またひとり真っ当な人が消えた感じです。(W
ダメなヤツは、ダメなんだね。


ところで、
インターネットバンキングの手続きしたら、1日の移動可能金額の上限が500万円とか。
ふーん、それ以上の取り引きや必要があっても出来ないとゆーのは問題かも。
中小企業は意外に動く金額が大きいから。

産業労働省は在庫まで担保として認めて融資する法案を作るとか。
まあ東京都の中小企業社債市場?も好評で第5回目の募集も好調とかナントカ。
全然報道されないのが不思議だけどさ。
中小企業やベンチャー企業にスポットが当たるのはいいことでしょー。



■『心理学化する社会』・・・   2003/11/1


斉藤環さんの『心理学化する社会』がスゴイです。
何がって、今の状況をこれだけラジカルに批判しつつ、
それを引き受ける倫理をも示してるから。
ついでに、その解≠ワで、ラカン派という立場から用意しようとする宣言は、
何よりも自律的で、ハゲシク、キビシイもんですね。

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 かつて浅田彰はラカンの紹介文である『構造と力』でデビューしてニューアカブームを作った。それはラカンを
構造主義の限界として扱い、それを超えていく方途を示すはずであった。しかし浅田はその後事実上沈黙してしまっ
て理論的な作業はしていない。<力>に希望と可能性を見い出しつつ、その説明をしなかった(できなかった?)
ワケだ。ただ批評活動は活発で、多弁な言葉は継続された。

 その中で印象的だったのがオウムに関する「あれは単なるバカだ」という発言と、ベストセラーになったトラウ
マ語りの小説『永遠の仔』に対する「甘ったれだ」という評価だった。これらの言葉に感覚的に同意はできるのだ
が説明がないのは致命的な落ち度ではないか? すぐれた批評?も説明が無ければ罵倒にしか過ぎないだろう。

 そういった浅田のスタンスは香山リカにラジカルに批判されたし、大塚英志によって真正面から説明し直されて
いった。「ライバルは浅田彰」という大塚の言葉はだてではなかったといえる。その後浅田は東浩紀の登場によっ
て自分は終わったと宣伝文句を書いているが、それは無責任というものだろう。ここで東を否定しているのではな
く、方法論があまりにも違い、東自身にとっても、浅田の後継的位置づけを望んでいるわけでもないだろうからだ。

 斉藤環はこの『心理学化する社会』で呆気なく、浅田が正当な批評としては提出できなかった「瘉し」ブームや
「トラウマ語り」への批判を、現場に即した説得力と今後の展開への可能性を期待させる理論的な視点と共に掲げ
てみせた。臨床と理論の説得力だけではなく、それらを可能たらしめた厳しい自己倫理とラカンのさらなる可能性
を示してみせたスタンスは近頃では稀にみる思想家としてのものである気がする。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



■戦闘美少女再びつーか・・・   2003/10/27


オタクを真正面から取り上げ、ラカン派精神分析的観点からオタクの定義を試みた本書は、
そのオタクそのもののアイデンティティの書といえるような位置づけを、そのオタク自身からされているよーです。

斎藤さん自身は「多重見当識への過度の没入」とオタクを定義し、その理由を「性の虚構性」にオタクが
「気付くこと」によると説明します。そして「虚構コンテクスト」による「現実」という担保を必要としない
「生の戦略」によって「神経症者の生」を生き抜くことを主張します。

典型的なオタク論を装いつつ、1人の読者も捉えてはなさない、つまり一般人すべてを包含する普遍的な
「生の戦略」が示されます。コレって、もっともラカン的なスタイルかもしれません、と思ったのは羊くんだけでしょーか。


   「私はおたく的な生の形式を全面的に肯定する」

   なぜなら

   「彼らこそが誰よりも「現実を知る」ものであるからだ」


その後、オタクとやおいの差異にも注目して「性の非対称性」を主張し、個人レベルから他者をも包含した
観点に立ちつつあるよーです。

この「性の非対称性」こそ「対幻想」の前提であり、全人類にとって普遍的な人間としての原点となる差異でしょう。
この類的な差異と、もうひとつ個体(個別的現存)として内在化された差異があります。それは無機的な自然に対する
生命体としての自らの存在の差異です。

人間は人類としての位相と個体としての位相の二面性をもっています。でもマテリアルな存在としては個体としての
存在です。つまり個体としての存在でしかないが、観念としては人類である位相をもっているというワケです。
そして個別的現存としての内面に喚起する、観念としての、人類を可能なものとする機能が対幻想です。その前提
となるマテリアルな条件が「性の非対称性」であり、それへ対応するものとして「多重見当識」という認識が生成される
と考えられます。

現在斎藤さんは全方位の活躍をしつつありますが、異端に見えるもっとも正統なラカニアンとしても、社会全般を
考察できる批評家としても、そしてなにより解決を実効あるものにできる可能性のある人として期待されるでしょーね。



■株が急落するワケ・・・   2003/10/22


10月22日ニューヨークの株価急落の影響をもろに受けて日本でも株価が急落。
原因は? といってもまともに言い当ててるコメントは皆無で、笑えるんだけど、
日産の株価は200円がテキトーという発表をして与党よりバカなことがバレてしまった野村ショーケンみたいな、
問題外のレベル、しかも2回も発表したんだよな、野村は。そんなヘタレが現在の状況ねっと。この先もそーだしなあ。
今日産はいくらかね? それどころか日産の関連会社はいくらになった? それも複数だよーん、と。


で、今日の急落の原因は、と。
イラクと北朝鮮、といってもありきたりなもんじゃなくてね、
それらを巡る情勢に原因があるわけです。

ひとつは全米労組のブッシュ批判。
つまりブッシュは中国に人民元レートの問題を説得できなかった、とゆーのと、
もっと決定的なのは日本の円高への政府介入を止めるように説得できなかった、
とゆーやつね。

それからラムズフェルドが政府高官にだけ配った報告書。
アルカイダを弱体化できていない、イラク問題は勝ってるか負けてるかもわからなくなってきた、アフガンやイラクなど
今後の対テロ戦争の行方がわからない、これからいいことはない、いつ終わるかわからない...
とゆーラムちゃんの弱腰つーか本音の泣き言レポートね。
これでニューヨーク市場はびっくらこ、っと。

でもさあ、いわゆる地合いがーどーのこーのとゆーのは、
共同幻想に囚われてるだけの強迫観念なんでねえ。
査定がキビシイ外資や外国の企業が期待してる企業はガンガン株価も上がってるし
イレギュラーはないね、ホントに。

野村に出向してた松井さんは大手の手の内を知り尽くしてるしねえ。
ネット証券各社が健闘してるんでOKな感じ。


ところで、
全米労組やアメリカ中部の製造業の成果が集約されてるのが自動車。
再びブッシュ政権が日本に対して自動車協議を持ちかけてくるかもね。
小泉政権下でこの要求を2回は退けてるけど、今後はどーでしょ。
事務次官がMicrosoftを使うなと主張したり、日本の官僚にも気骨があったりもするんですが、
今後はどーだかなあ。



■サイードがあ、である・・・   2003/10/20


日本の憲法は世界の目標だ、とサイードが言っていたとゆー記事が新聞にあった。
もちろん、あの平和憲法のことだろーね。

欧米の思想に追従?するのも日本的なるものを主張するのも、
なんだかものの見方がお子さまなんで興味はないですが、
構造主義が毛沢東の『矛盾論・実践論』から生まれたものであること、
特に矛実論にインスパイアされたアルチュセールが構造主義を超えるために
思索したことなんかは常識であってほしいと思ったりもします。

それが常識ではない異常さとビョーキぶりこそ、
全部サブカルである日本の本質なんですが。
アルチュセール読んでて理論と実践の関係がつかめないとか、
認識とその処理における論理的な順序の類がまったくわかっていないとか、
まあ、どーでもいいですニッポン! てな世界ではあります。

日本人が外国を知ってるほどには外国人は日本を知らないのもジョーシキ。
アメリカのニュースを聴いてても日本の政治家の固有名は出てこないもんね。
大統領と首相の対談の報道でさえ「KOIZUMI」は聴こえなかったもんな。
ただ「Minister」だけだったりする。どーでもいいけど。

まあそんなアメリカ人でも何でも、日本の憲法を説明されると、
ブラボーだったりファンタスティックだったりするでしょー。
『矛盾論・実践論』が破壊的な影響さえもったよーに、
日本の憲法はラジカルな影響をもてるもの。
問題は発信してるかどーかだけ、でしょね。



■『現代詩手帖』版・共同幻想論大澤解説?その2・・・   2003/10/19
共同幻想論大澤解説?その1

   吉本にとっては、国家の最小限の条件は、    共同幻想が、直接(血縁的)関係から独立に現れること、である。 たったこの一言で、政治学最大のテーマである国家生成の根幹を吉本さんから読み取った大澤さんの読解力はエライですが、 それ以外の吉本論者に同様の見解がないのはブザマなお笑いかもしれましぇん。 家族→親族→部族→民族→国家という対幻想の遠隔化(観念化)していく過程こそが国家生成の過程 そのものであることを示してるワケです。 ちなみに日本ではヤマト王権を支える豪族の婚姻関係が奈良盆地の外部へ遠隔化していく過程が国家生成の空間的なあらわれです。 これを説明するために吉本さんは「古事記」を素材としたワケですが、大澤さんは見事にその意図に則って正当に以下のように読解しています。    対幻想は、共同幻想論の構成の中で決定的な役割を演ずる。    対幻想こそが、国家形成への媒介の位相を形成するからである。    吉本の考えでは、日本において古代国家へと変遷するのは、    「姉妹(宗教権)−兄弟(政治権)」の対幻想のつながりを    基底にした、母系的かつ母権的な氏族共同体である。 そしてラカニアンやDG派が学ばなければいけないような対幻想への重要な指摘がされています。 それが次の一言。    他方では、対幻想は、国家の共同性にとっては、拮抗でもある。 この「共同性」と「拮抗」するという「対幻想」の状態こそ、主体が自らの観念の中で行っている認識のシーソーです。 このシーソーのバランスを自己幻想か共同幻想のどちらかへ動かそうとする本質的な力がいわゆる強度。 これはある種の志向性ですが選択可能な方向の範囲は相反する2つの方向しかありません。 さらに哲学や言語学それらと不可分の心理学といったジャンルを俯瞰し通底するかのような要約がされています。    「普遍性」との関係では、対幻想は、    そこへと至る媒介でありつつ、    同時にその障害でもあるという両義性を呈することになる。 「普遍性」を「象徴界」に置き換えるとオモシロイです。ラカニアンはがんばってトライしてみてね。できるなら。 以上のところまで、とっても役に立つガイドなんですが、次のような危ういところもあります。    吉本は、自己幻想と共同幻想の中間に対幻想の領域が存在している、としたのである。 対幻想の機能としての位置づけは中間的かもしれませんが、対幻想は幻想性としてはゼロ記号そのものであって、岸田やその辺で 流布してる幻想論とは全く異なるし、対幻想のなかにある自己や共同性への幻想が無くなることはないのです。ラカンの 三界の相互関係と同じで、3つの幻想は不可分です。 自己幻想さえもその基本は自己を対象化した対自認識としての対幻想です。このオリジナルな認識は『心的現象論序説』 によって提示されたものですが、その後説明が簡略化され、安易な誤解だけが伝わるようになっています。特に『世界認識の方法』 で吉本理論が総括的に解説されたときにタームの解釈が簡略化されてしまいました。以後のほとんどの論議はオリジナルな『心的現象論序説』 の原理を参照することなく行なわれていて面白味もなければ豊富な展開も期待できません。オリジナルなラカニアンや システム論者の方が吉本理論との共有しうる面が大きく、実際そういった可能性を追究するほうが楽しく豊富な内容が得られるのは 現況を考えれば明らかということになります。

■なんのテレビ?・・・   2003/10/17


重要な用が終わって東急目黒線のある駅前商店街を歩いていたら、
「TV出てくれませんか?」といわれたので
モデル2名の年齢を当てるクイズを駅前広場のセットで
録画されたんだけど、
何の番組か知らないまま帰ってきちまいやした。
TBSだったかなんだか。
考え事してたしなあ。

昔オールナイトフジの「アナタのパンツ見せてください」からは
コンパのメンツとわーわー逃げたっけ。
センター街はうるさいけど、
都会だなあつー活気があったよねえ。

....と独り言



■『現代詩手帖』版・共同幻想論大澤解説?・・・   2003/10/15
共同幻想論大澤解説?その2

『現代詩手帖』の10月号の特集が「吉本隆明とはなにか」。 さっそくムッジーのシャツとともに購入しましたん、が。 高橋源一郎さんや大澤真幸さん以外は?な感じで、まだ全部は読んでませーん。 でもね、大澤さんはさすがにスルドイ指摘をしていて、『自由を考える』で最高位訓詁学者風オシャベリを披露してるだけある 貫禄モンのテキストがいい感じ。とっても貴重だと思うのは、この大澤さんの主張だけが新人類以降のものなんで、 それだけでも新鮮でしょ、この特集の中では。で、これはあの東工大でのシンポジウムのマトメらしいので、その点でも、今は いちばん注目される見解なんだねっと思いつつ、ふふふとヤサシイ微笑が自然にこぼれてきちゃったりする今日この頃なんですね、 コレがあ。 大澤文のタイトルはあ「<ポストモダニスト>吉本隆明」で、「現在形の読解」というコーナーの3つのテキストのひとつです。    1980年代の日本では、「ポストモダニスト」たちにとって、    吉本隆明を批判することが、踏み絵的な儀式であったことがある。 この踏み絵をリードしたオサレな思想家といえば浅田さん。まあ、いまさらなんでどーでもいいですが。 で、大澤さんは「ハーバーマスによれば」「マルクス−ニーチェ−フロイト」が「ポストモダニスト」の教祖だという指摘をしつつ、 その方法こそが「モダニズムの理論の常套手段」だとし、「吉本隆明が、「マチウ書試論」で試みたのも」そのひとつだと説明します。 大澤さんのこのテキストは、いちばんマットーな吉本理論のガイドなんだけど、やっぱり心的現象論についてはすこしも書けてないトコが “その他大勢”な感じで残念。それでも世界視線やアフリカ的段階について説明してるとゆートコが親切で、参考になります。とっても 大澤さんチックな特徴がでている解釈なんですね、コレが。 いちばんポピュラーな吉本理論といえば共同幻想論ですが、それを「国家の起源を問う試みである」というシンプルにそのままスバリと 指摘してるとこがステキでっす。 政治的な思い入れがある人は共同幻想論を幻想を解体しようとする理論と読み、哲学や心理学的な興味がある人はそれをすべては幻想 なんだよとひとり納得しちゃうんですが、どれも読みたいように読んでるだけ。その点、大澤さんはそーゆー自己のエゴからは離れることが できてます。思想はマイブームじゃ語れないからね。 その共同幻想論が「遠野物語」と「古事記」という日本ローカルな素材を使っているのは日本という現実において有効な理論にしたいという 吉本さんのハゲシイ願望によるものでしょ。対象も含めて抽象化する一方のありがちな理論とは違うワケです。(そーゆー理論にあるのは その主張者の見て見て君ぶりだけだからさ。)ハゲシクてキビシイ理論なんですね、共同幻想論て。ちなみにハイ&マス・イメージ論は その現在形。それから「動物化するポストモダン」は東さんの共同幻想論なの、ワカる? これは大事な認識ですよ、と。 大澤さんの共同幻想論の要約もオリジナルの主張にそっていてイイです。    「遠野物語」を素材に「未知に対する素朴な恐怖の共同体が作りなす原初的な共同幻想が」    「「他界」の観念を獲得するまでが描かれる」    「古事記」を素材に「その共同幻想が、「国家」へと結晶する機序が論じられる」 今や少なくない人がテキトーに使っちゃう共同幻想というタームと、たぶん発言者の数だけある吉本理論への批評やコメントのなかで、 ほぼ唯一のストレートで完ペキな解説は、この大澤さんのこのテキストだけかもしれません。わずか14行、輝く第一段落つー感じです。

■推定少女モチダ風・・・   2003/10/8


つーことで、「情報」も「ワレモノ」も気に入ってる推定少女。
このあいだTVでたまたま最終回を見たんで、
そこでやってた曲なんか気に入ちゃって、
買っちゃいましたAMAZONだのみ。

「情報」イントロのメタルなつーかハードなギターを聴いて、
ZONEの「GOOD DAYS」なんかフラッシュバック気味い、
なんですが。

ああーアニソンの王道かあなどと思いながら、
「ワレモノ」のメロも声質もまるでELTモチダなんで、
予想外の展開にちょっと感動。

裏切られたのは、
日本版t,A,T,uみたいなイメージの方。

こりゃリアルタイムあみんなんだね、推定少女。
まあホンモノのあみんも復活するみたいだけどお。

東さんの『動物化するポストモダン』がリアルタイムな『共同幻想論』かどーかつーよーなもんですが。(W



■ラカン突破への重要なメモかな・・・   2003/10/1
■ラカンへの重要なケチつけ
▲ラカンの間違いは....ドレ!


ラカンをはじめとした西欧思想の限界はいろいろあるが、
その代表的なものは言語への認識そのものの限界にみられる。
もう一つは視覚そのものへの誤認だ。

『構造と力』という当時としては画期的なラカンの紹介論文も、
既に視覚への誤認を訂正することなく、むしろそれにのっとって展開されていた事実には
ショックさえ覚えたほどだった。


鏡像段階を説明する「視覚の早すぎた発達」という定義はいろいろな誤認を拡大再生産させてしまっている。
たとえば、それは


   彼が鏡の中に彼の像を見て取ったとき、
   視覚は姿勢覚に比して早くから発達しているため、
   内面の不統一にもかかわらず、
   視覚像によって、
   自己の統一性が実現されてしまう。
   自己の統一性は、
   内面から支えられるより先に見えによって先取りされることになる。

                 『ラカンの精神分析』(新宮一成・講談社現代新書)


というような間違いに代表されている。

「視覚は姿勢覚に比して早くから発達している」というのは根本的な間違いで、
最初に自己の場の確認に至る感覚こそが「姿勢覚」つまり重力に対して自己の姿勢を制御する全身感覚である。
これは全生物に共通する感覚でもあり、他の感覚はここから派生、または分節化していくものである。
たとえば触覚は運動をともなって姿勢を制御している。この触覚が空間的外延をもったものが聴覚であり、
空間的外延を光刺激を媒介としているものが視覚だ。視覚の無い生き物はいるが触角の無い生命はあり得ない。

「内面の不統一」という認識もラカンの命題そのものに関わる大きな間違いだ。
胎児から乳幼児まで、その発達というものは、原初的な統一体(=器官なき身体)の適切な分節化(器官化)と
「内面の」の外面化(表出)であって、その逆ではない。また最新の研究では、ピアジェ的な環境による刺激が
主体の反応を引き起こし成長させるという説も否定されつつある。主体性とその発現は生後2ヶ月の劇的な変化を
経て意志化することが確認され、その過程は遺伝による先験的なリーチングによりアフォードされると考えられる。
視覚はリーチングの一つであり、自己確認において何ら決定性は無く(先天的視覚障害を考慮せよ)、また成人後も
1週間ほどで位相のチェンジができるほど可変的、つまり絶対的ではないのだ。

もちろんラカニアンの多くが鏡像段階における「鏡像」が視覚ではなくあらゆる対他認識における自己確認の
メタフォアであることは承知しているだろう。だとしても大きな間違いを払拭できてはいない。それこそラカン
らしくないアバウトさから逃れることができてはいない。

それは視覚の定義そのものについてである。
具体的な鏡像をめぐる論議は視覚についてのものであるが、メタフォアとしてのそれは認識上のものであり具体的な
視覚像との峻別がなされていない。これは致命的な陥穽になっている。
つまり視覚情報とイメージ情報の区別、感覚的受容と思念される概念との位相など決定的で重要な前提において
初歩的な定義さえされていないのだ。

これは象徴界を視覚情報で代理しているという錯誤や、ありがちな視覚とイメージの混同、夢の拙劣な解釈など、
多大な誤解と心的現象への探究の停滞となり、ソーカルのような批判の正当性を補償するものでさえあるだろう。



■ラカンへの重要なケチつけ・・・   2003/9/30
■ラカン突破への重要なメモかな
▲ラカンの間違いは....ドレ!


視聴覚は常に優先的に作動し、人間の日常の営為においても多大な影響のもとに認識と行動を統率している。

その原因はラカンの主張するような「視覚の早すぎた発達」でもなんでもない。
ヒントはその逆でなぜ「視覚」は「早すぎた発達」をするのか?というところにある。
より正確に、そしてラジカルには「視覚の早すぎた発達」ということそのものでさえ疑問がある。
胎児は妊娠20週で音を聴くようになり、24週には聴覚器官が一応完成する。視覚の発達はその後で、しかも一歳未満の
乳児の段階では、まだ有意な視覚対象の選択性を確立していないと考えられている。動くものを見るのが基本で、
TVなどに見入ってしまう状態にあるのだ。

ただし視覚(と聴覚)が重要視される理由は充分にあり、その必然性とそれへの期待から
「視覚の早すぎた発達」というような早とちりな認識が生じることは推察できる。


視聴覚が重要視される理由は、
結論からいうと人間は統合認識(観念的認識)が優先するからである。

文と単語とどちらが先か?という問いのように、
全体の認識と個別の意味のどちらが優先かということだ。


各感覚器官がそれぞれ個別の対象空間を知覚する個別認識と、それらを統合したうえで思考判断する統合認識がある。

人間以外の動物ではコレが逆になる。

統合認識という高度な学習を経た認識をメインとする人間と、感覚器官レベルの知覚にダイレクトに反応し行動を喚起する動物との違いである。
人間では統合認識が優先する。つまり文が、そしてコンテクストが優先するのだ。

この統合認識にとって近接空間を均質的空間として認識し、統合認識の判断に大きな補助データを供給するのが視聴覚なのだ。

そのため「視覚」は「早すぎた発達」をするのではなく、統合認識=観念的認識から起動する人間にとって、思考の補助もしはく認識を
アフォードするものとして均質空間への知覚が優先されるということになるのだ。さらに聴覚は視覚より早く胎内の段階で発達が始まっている。


別のいいかたをすれば、
「早すぎた発達」をするのではなく
早く発達することが要請されているというコトなのだ。



■吉本再評価のトレンドつーか・・・   2003/9/28


今日日経新聞の書評欄に吉本隆明再考再評価の記事を発見。

だから問題は....浅田彰ちゃんがボクわかんないんだもーんとダダをこね、
わからないことを吉本さんの造語のせいにしてテメーのアタマの悪さにシカトしたのをはじめ、
吉本理論の基本的なタームさえ理解できないヤツが、吉本批評をやったりその理論の解説だの新たな解釈だのナンだのを
やってることじゃん、てなことでしょ。

そんなワケで、
村瀬さんとか小浜さんとか、なんだあれえ....



■対幻想の重要なメモだーんよ・・・   2003/9/25
■ラカンへの重要なケチつけ
■ラカン突破への重要なメモかな


▲ほとんどの問題が....アレ!


対幻想と逆立ちする幻想は2つある。
共同幻想と個人幻想だ。
この<逆立>は当初は<対立>とも表現されていた。
Y理論ではこの<逆立>を<シーソー>のような観念の運動として考える。

対幻想と逆立ちする2つの幻想は互いにどのような関係にあるのだろうか?
つまり、共同幻想と個人幻想の関係はどのようなものなのか?

共同体と個人、公と私、ほとんどの問題がこの関係に表出されるといえるかもしれない。



▲ラカンの間違いは....ドレ!


対幻想への否定性が共同幻想を生成していく過程は
たとえば、宮台真司さんの『権力の予期理論』が明晰に描き切っている。

相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じ、

  劣位者の対幻想の共同幻想化
  対象(優位者)の象徴化
  象徴にともなうシステム化が生じる。

ラカンはこれを主体からみた父性(優位者)との関係として、そこに象徴界の生成(システム化)を見い出そうとする。

ラカンの間違いは、対他認識が2つの個体(あるいは主体と対象の)=2者間で行使されることを無視して父性=第三項を暴力的に介在させたことだ。
逆にいえば暴力=力を顕在化させるには母=子に対して父を登場させることが条件の最適化ではあるが、そのことによって
〔<母=子>⇔父〕以前の認識や論理に関しては不可知にならざるを得ない。その不可知な領域を現実界として顕在化させたならば、
それはラカンのアクロバットな知恵かもしれないが、そのことが〜以前=EXCE^{'}Sの状態として不問に付されることのイイワケにはならない。
「原初的不調和」という認識を提出しても、それ以上の探究が免除されるわけではない。

このように過剰な論理性に依拠する理論こそがラカンの本質なのかもしれない。だからこそラカン自身による
「フロイトへ帰れ」という言葉がスローガン化しうるワケでもあるだろうが。

その他の功の面はたとえば斎藤環さんをはじめ現在的な展開が図られつつあるだろう。「臨床/理論の組み合せの正当性を保証するものは、
そこに生ずる唯物論的な相互作用にほかならない」という『文脈病』の言葉は当り前であるがゆえに当然に期待されるワケだ。
「構造主義のリミットに立つラカンは、最後に乗りこえるべき対象として立ち現われる」という「構造と力」の章を締めくくる浅田さんの
言葉は、今現在どのような印象をもって受けとめられているのだろうか? この言葉の18年も以前に既に乗りこえていた思想もあることを
顕在化させることが、今こそ意味があるのではないか?と思うのだが。



▲生命が起点だから....ソレ!


生命の起点にあるのは、その生命=個体が肯定されるという条件だ。
また類が存続していくには性を構成する個体の肯定が前提だ。

対幻想というのは性を構成する個体相互の全面肯定という原初的認識(の条件)に他ならない。
相互の全面肯定だけが性(差)を通じて類(の存続)を可能にするからだ。


相互の全面肯定という対幻想は、逆に相互に差異があること(これが斎藤環さんが主張する性の非対称性)が前提になっている。
もし相互に差異がまったく無く同一であるならば、自己同一性をもって類の同一性とすることができる。
生物学的には単性生殖である。

しかし、複雑な環境に対応していくには個体間に大きな差異を設定し、環境へのレスポンスにも多様性を保障し、そのうえで
最適化できる能力を相互に交換し合える個体関係が必要だ。それが性差であり、n個の性(DG)である。

類を構成する個体にとって必要なのは、個体間におけるあらゆる差異であり、類を前提とした二個体間における性の非対称性である。
男女の性、それだけが人類を可能にしている。このことに気づき、このことから人類の問題を洞察し、具体的に政治経済の共同性を
考察したのがマルクスだ。



▲前にもカキコしたけど....コレ!


   個体発生段階で、つまり受精卵から胎細胞の構成体へと発達して行くプロセスで分子生物学的な代謝や反応(認識)
   が複雑化・高度化するでしょ。そのマテリアルな反応に照応した意識の位相が形成されていくのは今や常識じゃん。
   粘菌やアメーバの運動が単に物質的な反応なワケがないでしょ。
   単に物質的だったら化学反応そのもののように同一条件下で全く同一な再現性があるワケでしょ。
   生命活動がまったく完璧に再現するかあ?
   複数の同じ大きさのアメーバが、
   ある距離にあるエサに向かって全く同じようにいっせいに行進するみたいに移動するかなあ?

   ちょっと離れるよーだけど『不過視なものの世界』で東さんが触れてるよーに「系統発生を考えないと」いけないし、
   それが同じ対談で斎藤さんが指摘してるように「系統発生的なものはちょっと出てこない」「そこがラカン理論の限界」
   てな状況を突破しないとダメなんだよなあ。
                              (■面白いなあ・・・   2000/12/20)


ウーン、作業場の散乱と混乱はモロに影響してまーす。
整理整頓片付けがでけない、できない、ちない、もんね。



■対幻想のホットとクール・・・   2003/9/23


マルクスが27歳のときの切実なテーマが個人と人類の関係だった。
人間は具体的には個別的現存にすぎないのに、なぜ人類が成り立つのか?という問題だ。
それは商品は具体的(使用価値)なのに、貨幣は抽象的(交換価値)なのはなぜか?という問題とパラレルでもあるだろう。


人類が成り立っている直接の契機は性関係であり男女の関係である。
生物学的には生殖なのだが、それが恋愛であり、愛や憎しみという感情をとおして社会全域にわたって人間を人間たらしめている
根本的な動因でもあるだろう。文化から戦争、政治から宗教まで、あらゆる人間活動の源泉であり目的そのものなのだ。
それを吉本理論では対幻想と呼称し最重要概念として定義した。愛が憎に憎が愛に、個人が共同性にそしてその逆に、
意識の志向性が容易に転化することの論理的な説明が遠隔対称性である。
個体は環界の中で遠隔対称性を行使しシーソーのようにバランスしながらアイデンティティを維持しているワケだ。


対幻想という多義的なタームの中心となる概念であり、より抽象化されたものが遠隔対称性だ。原生的疎外や純粋疎外についての
正当な解釈がほとんどないように、この遠隔対称性についての理解は皆無である。しかも、このタームこそが吉本理論解読の
最重要ポイントでもあるのだ。


マルクスはヘーゲルの観念論を逆立させた....という認識はかつて常識だったかもしれない。そのような状況のなかで書かれた
吉本理論は、そのような常識を前提にしていて、あえて共同幻想が対幻想と逆立する≠アとや自意識が遠隔対称化されて
共同幻想を生成していく≠アとなどの説明において、「逆立」や「遠隔対称性」について注釈さえしていない。


....つーことで、実にクールな本でもある、と思っちゃうこともあるワケでーす。



■休刊は正当だわなあ・・・   2003/9/18


先日、音楽に関して社会学的な探究をしてる新進のアカデミシャンが新聞に出ていた。
音楽にアプローチするときに何故ミュージシャン個人を通して分析するのか、という自らの疑問に応えるべく
現在、何らかの方法を模索してるとか、であった....確か。


で、かつて彼が渋谷の飲み屋で語っていたことが思い起されるんだよ。
それは、これから「噂の真相」は読まれるようになる!とかフラッグになる!とかゆーものだった。
現実には休刊になる、とゆーことで、ネットではあまり関心も高くなく、サヨ雑誌が減る....程度の認識だろー。
気なる休刊の理由は相次ぐ裁判での賠償金だとかなんとかとか。

ある意味、それでヨカッタのかも知れない。
反権威を標榜するスキャンダル誌が、権力そのものである裁判の連続によって力尽き、
最後のサヨとゆーか細い声のコールの中で休刊する....。
なかなかお似合いの最後である気がするモンね。


でも、ソコに隠されているコトはハッキリさせといた方がいいでしょー。
権威権力との闘争で力尽きた、とゆーのはホントか、どーか、ってな問題だ。

私見じゃ、それは違うとゆー気がする。
とゆーよりも、ネットや2ちゃんねるなどでの噂真の扱いを見れば一目瞭然だろー。
大きな話題にすらなっていない、とゆー事実が何を示しているのか? てなことだよね。
今回のリアル休刊の話題性によって多少は論議されてるものの、
渋谷の飲み屋で社会学の院生が熱く語った「読まれるようになる!」とか「フラッグになる!」とゆー予測とは
大きく外れていたのが事実。


以前にも書いたけど、ネタはいらねーよ、てなネットワールドのシンタグムの前には、
スキャンダル雑誌程度のものは一つの荒らしのタイプ....程度にしか認識されていないワケだ。

ネットワールドの加速度的で不可避な拡大と進化にともなったサイバースペースから自然に析出した
シンタグムは、ネタはノー、とゆーものだからね。
つまりリアルとは何かとゆー問題じゃん。


インテリジェンスを商品にしたマリ・クレールとゆー以外には、
ガタガタうるせーとゆー印象しかない安ケンの「吉本は死んじまえ」を引用する程度のことしかできない
スキャンダル誌が、戦後最大の思想家より早く消えてくれるウレシさは格別のものだったりするかもねん。(W
マイナスイオン機器への批判も斉藤環への揶揄も、アタマの無さと無知誤認の自己表明だけで、
何の役にも立ってないどころか総体的にはマイナスかもね、と思わせるとこがもーヘタレでしょ、ね。
すべては市場が淘汰するからOKなのさ。評価するのも市場だしね。


田中康夫や中森明夫の起用以外にはネタオンパレードで立ち読みさえも辟易としてたけど、
週金や各種サヨ雑誌のようなプレゼンスを示すこともなかったね。これらには多かれ少なかれ
フラッグとしての意味はあるからさ。

意義ある反権力情報の提供以外の面では、
シット、ヤッカミ、センボーをベースにしたよーな劣情スキャンダル誌は、
ネットのスピードとモロダシに全く追いつかず、
リアルとは何かとゆー最大のニーズに触れることさえできず、
党派的な政治力を行使する知能もリソースも無く、
消えるだけえ。

ネタも含めてありとあらゆる情報リソースに対する絶え間なきチェックこそが、
今や日常を生きていくことの最大のニーズだし強度そのものだからね。
これはウワサだからとゆー最初から免責を念頭においたサンクチャリからの罵詈雑言なんて、
ただのネット以下に過ぎないのは今や常識だろー。ただのデムパさんでしかないじゃん。

ネタのオタク的列挙で、誰かを傷つけること以外に、
何か生産しましたん? あーん?

まあ、サイゾーとかあるしさ、
スキャンダル誌のアボーンなんて何の問題もないけど。



■sample 17才ひっきーの幻覚 2・・・   2003/9/7


さて、ある心理学のBBSに相談した17才ひっきー君の幻覚ですが。
彼は一人でいる時に見える幻覚について「モロ「害虫」っていう嫌なフォルム」だと述べてます。

ここが重大なポイント。

たとえ幻覚でも、一般的に実験で体験する幻覚が特に「嫌な」感じがしないとすれば、
ここで「嫌な」感じという否定的な価値判断をしている理由は何か?ということ。


幻覚が現れるのは「一人でいる時」なので、
「嫌な」感じがするのも「一人でいる時」なワケです。

それが一つの答え。
もちろん他にも答えはありますが。

カンタンにいうと17才ひっきー君は「一人でいる」のが「嫌な」なんです。
別の言い方をすれば、それは<見られたい>という認知願望が満たされていないということでしょー。


で、認知願望を満たすことができるのは共同体の一員として認知されるか、
異性によって承認されるか、という2つのパターンがあります。
これらを両極とした認識のバイアスのどこに視点を置くかというのが吉本理論。
つまり、共同幻想や対幻想という概念がフォーカスしている位相の問題....ですね。

コミュニケーションにおいてモチベーションが補償されるとゆーのは宮台さんが主張してることですが、
コミュニケーションは現実界で起こる、それは郵便的だとゆーのは斎藤さんや東さんが指摘してることですね。

では、どーして現実界で起こる郵便的なコミュニケーションだけがコミュニケーションで、
そのコミュニケーションが絶たれると幻覚が生じるのか、てな根本的な問題があります。

そして、「認知願望を満たすことができるのは共同体の一員として認知されるか、
異性によって承認されるか、という2つのパターン」なのですが、
この2つとも両親、特に母親からの承認というものが原点になっています。
具体的には、共同体の一員として承認されるかどうかの初源には父性による承認があり、
異性による承認の初源には母性による承認があります。

いずれにせよ、個別的現存である17才ひっきー君が必要としている承認は、
父性や母性といった決定的な影響と、それによる承認ですね。

正統な承認を得られない場合、承認してくれない(してくれるはずの)相手を、
承認してくれないが故に否定的な対象として認識します。

それが「嫌な」感じとしてしか認識できない理由です。
統合失調症をはじめとする病的な意識が被害妄想をベースにし、
対象に対して否定的な認識しかもてない理由もそこにあるワケですね。



■sample 17才ひっきーの幻覚・・・   2003/9/2


いろいろなデキゴトがあって、いろいろな人間のレスポンスやアクションがありますが、
そーいった人間の行動や認識には必ず<動機>があります。

そして、それは幻覚や幻想にもあるんですね。
....とゆーか、その動機が自覚できないことそのものが幻想性を高めているんです。
しかも、この幻想性はいくらでも<他者性>に変成し得るし、<共同性>にもなります。

やっかいです、すごく。困るんです、とっても。
ま、逆にゆーと、幻想やビョーキ、認識の異常さをコントロールできる可能性も
そこにあります。つまり、動機を知ること、でっす。
ホントはカンタンなんだ、ね。解決なんてさ!

ちなみにいちばんポピュラーな<動機>は<認知願望>です。
ずーっと繰り返し指摘してるけど、ワタシを見てえ、てな感じのアレです。
どこにでもあるでしょ。

で、とにかく


先日ちょっとカキコしたのが以下の例。
心理学のBBSに相談した17才ひっきー君の幻覚ですね。



   ずっと何か違和感があって なんだろうって考えてたら
   最近やっと自分が変なものが見えているのに気付きました
   それを意識して見ようと努力してみると
   それは真っ黒で 小指くらいの大きさのモロ「害虫」っていう嫌なフォルムで
   視界の上のほうをつねに飛び回っています
   僕がそれに近づこうとしても それは僕と一定の距離をとり 触る事が出来ません
   それはいつも僕が一人でいる時現れます
   心理学ではこんな時どうすればいいんですか?



幻覚が見えるという症状ですが、
幻覚が現れるのは「一人でいる時」です。
つまり重要なポイントは「一人でいる時」ということ。
そこには他者性や共同性がありません。

一人でいる時にいろいろなコトを空想したり夢想したりするのは普通ですが、
それが意識できずに行なわれてしまうと、夢想の結果に表出したものは意識できない
不可解なものになってしまいます。それが幻覚です。
既に幻聴レベルは超えて視覚の異常という夢幻様状態なので統合失調症としても重いのかもしれません。


もう一つの重要ポイントは「ずっと何か違和感があって」ということ。
つまり「ずっと」続いてる何かが違和感や幻想と関係があると考えられます。
この人のずっと続いてる状況というのはひきこもり状態です。
つまり他者や共同性と断絶してるワケで、近接するところに他者性や共同性がない状態が長期間続いてます。

他者性や共同性がない状態で違和感がするのは正常なことで、人間の認識には原初から
他者性や共同性を生成する志向性があります。その志向性が複雑化して現実の社会を認知していくわけです。
そこで認知すべき対象となる他者性や共同性がないとするればどうなるか?

認識は擬似的に他者性や共同性をフレームアップします。あるいは他者性や共同性の代替となるモノゴトを
デッチ上げます。普通の人でも30分くらいで、そういったデッチ上げをしてしまう、幻覚をみてしまう状態になります。
とても簡単におこせる現象なんですね、幻想をみるというのは。

認識の基本は対象を対象化して何らかの形で具象化、具現化することを目的としています。
認識(内化)し、思考し、表出(外化)するわけです。
この表出するときに自覚がなければ、その表出されたものは最初から自分にとってはヘンなものでしょー。


「モロ「害虫」っていう嫌なフォルム」というところにも大きなヒントがあります。
この「モロ「害虫」」で「嫌なフォルム」というジャッジには17才ひっきー君の気持ち、
価値判断がハッキリと現れてますよね。
無刺激室に入室して30分で妄想をみてしまう実験では、
その妄想や幻覚に対してイヤだとかキライだとかいう否定的な価値判断はされることがありません。
それは実験は被実験者にとって中立だからです。本人の同意なしで調べたりスパイに自白させたりするのとは違うから。

17才ひっきー君は幻覚妄想に対して否定的な価値判断、嫌悪感を示してます否定的な価値判断で生じる認識はラジカルに人間の思考を規定してしまいます否定性が大きな決定的な影響を持っているのは、生物が生命を維持するのに必要な最大要素だからで、
敵との遭遇や危険なことイヤなコトといったダメージは避けていかなければならないからです。
これは人間でもまったく同様でしょー。

ただし人間の場合は価値判断を逆立ちさせて認識することがあります。
それがいちばん人間的な認識でもあるわけですが。
愛vs憎の転化みたいなもので、ね。

で、「モロ「害虫」っていう嫌なフォルム」というジャッジが現しているのは、何か?



■あと2、3日でアボン・・・   2003/8/28


医者から「あと2、3日で死んでましたよ」といわれた知り合いが2名います。
他に実際死んじゃったやつもいるけど。
理由はひっきーだから....。

えっ? 何それ、と思うでしょ。
ボクもそー思ったし、実際に当事者に会って、まあ、納得しましたが。(W
 
「あと2、3日で死んでましたよ」とゆー理由は簡単で、
それは栄養失調つーか、まあ飢死にでっす。
ひきこもってて何も食べてなかったとゆー単純明快真理はカンタン生命はシンプル、てなもん。

そのひっきーになって死にそこなった2名つーのが虚飾の世界カタナカ稼業のディレクターさんとプランナーさん。
1人は仙台で神童と呼ばれた、まあ、秀才どまりだけどなまけ者。
あと1人は学生時代からダンパを仕切ってたりしたイケイケくん。
でもなー、この手の人に、よく理由がわからず会社に来なくなっちゃうタイプとか、
取材やロケに行ったまま消息がわからなくなる人っているんだよね。

ある日から連絡が取れなくなったんで、あとで拘まえて問い詰めたら、
「電話が遠くにあって聴こえないことがあるんです」とかイイワケ。
テメー、ワンルームだろーが、とゆーことで軽くブッ飛ばしたりしてみました。
だって電話があるのはベッドの頭の位置から20cm位のとこらしいしい。
これが有名なアパレルグループ企業の敏腕秘書出身なんて信じられな〜い、感じだもんね。

それからクライアントのハウスエージェンシー。
連絡なしで会社を休んで数日。1週間後、心配になった上司がアパートを訪れると、
衰弱して横たわっている人間を発見。至急医者に....。

で、神童くんは繰り返す。
誰も連絡を取れないまま数日。すると深夜、多忙な同僚ディレクターにささやくよーな声の電話。
「ずっ〜と何も食べてないので、食べさせてえ〜」
驚いた同僚ディレクターは真夜中車を飛ばして神童くんのワンルーム近くのすかいらーくへ。
よろよろとやってきた神童くん、せっかく1週間ぶりぐらいにメシにありついたが、
食べるともどすっ、ゲロゲロっ〜〜〜。

すげーなあ、バブル崩壊からそーやって生きてきた人が少なからず居るワケでっす。
親がいる間はいいけど、社会人になってからのひっきーは大変だねえ。
その後神童くんは社長になって頑張ってたりします。
ひきこもりは改善しなかったけど、
女の子を紹介されて、そのマンションに転がり込み、
更生したっつーかなんつーか、だよん。



■象徴界は想像界とシーソー?・・・   2003/8/26


     ラカンの誤読は、至るところにある。
     つまり「象徴界を想像的に把握しうると信ずること」だ。

                         (■戦闘美少女の理由・・・2000/9/28)で引用


あーあ、もう3年も前なんだあ。
つーことで『戦闘美少女の精神分析』に感動しつつ、その問題提起から何かスゴイもんが見つけられそーとか思って、
何となく吉本理論との同定を探りつつ、今日も暑いんだもん、と。

それで、象徴界をどーゆー風に把握すると、ちゃんと把握できるのかってことですよね。
まあ、非想像界こそが象徴界なんで、そーゆーことじゃん、てな感じです。


つまり、現実界から想像界を差し引いたものが象徴界とゆーちょっと乱暴な、でも、基本になる認識が可能なんじゃないかと。
想像界と象徴界の排他的な連関を指摘できればとりあえずOKじゃないでしょか?
現実界という無限性の中にあって、どーにか想像力をめぐらしても、想像力の根拠なり依拠するトコを完全に対象化することは不可能でしょー。
この想像力による決定不能の認識界こそ象徴界ということ。


で、本当は順序が逆で、決定不能だからこそ象徴界だ、だとするといろいろ考えるコトができます。
まず、認識力が形成される時間的順序から考えると、「想像力による決定不能」であれば、想像力が獲得される以前からの認識が象徴界だとわかります。
これは<負の記憶>(『心の起源』木下清一郎・中央公論新社)と呼ばれる本能の段階のレスポンスを可能とする認識の状態です。
生命反応的なもので、これに刷り込みによる定型的な学習が加わり、現実の環境への認識が可能になっていくワケですね。


想像界と象徴界は排他的な連関ですが、それは同時にシーソーのような関係です。
たとえば想像力が未熟であれば、それに応じて象徴認識に頼るしかなく、
逆に象徴認識、刷り込み認識に依拠する分だけ想像力を必要としない....。


2つの認識はシーソーの関係にあり、また互いに遠隔対称化した関係にあるワケですね。



■そーゆーワケで「シーソー」宣言・・・   2003/8/24


対幻想とその論理的な機序である<遠隔対称性>ですが、
ボクはこれを「シーソー」として用語化します。W

まあ<時点ゼロの双数性>とゆー表現ができるんだけど、
<均衡>の概念を入れたいので<シーソー>の方が適当だし、
わかりやすいでしょー。

で、大書していわく....



     シーソー
     Seesaw




シソーラスの意味も踏まえてるんで、そこんとこヨロシク状態なの。OK?



■EDGEの東浩紀さんを見たん・・・   2003/8/24


東さんがCATV84CHに出ていたんよ。
で、コメントがナイスでっす、おっす。
ドキュメントですね、この番組。
向ヶ丘遊園地の廃墟で「大きな物語」の終わりについて話したり。



     かなり本気でニセものです、ボクは。


     哲学は一発がないとダメ。
     デリダなら「脱構築」、ハイデガーなら「存在」とか。
     一発でわかる、概念が集約された一言がないと。
     「動物化」は自己評価で50点。


     ボクと浅田さんの対立の発端は批評空間を巡る評価。
     ボクは批評空間は読まれていないと言ったんだけど、
     浅田さんは読まれていると言う....。
     そこから始まったんです。



偶然途中から観たんだけど、面白かったよーん。



■『火垂るの墓』を見たん・・・   2003/8/22


『火垂るの墓』
『火垂るの墓』
『火垂るの墓』


1988年、戦争の記憶の消滅と、平和憲法へ無効のジャッジが目立ち始め、
全面バブルの頂点を極めようとした頃、どーしてこのアニメ映画が制作されたのか?
原作も含めて大ヒットし、説得力を持ち、確かな影響を与えることができたのか?


これを戦争(批判)アニメだという人が多いのかもしれないけど、
それは違うと思う。

ひとことでいえば兄妹がコケにされていく....そーゆー物語。

共同幻想=権力の萌芽であり、同時に対幻想の原点でもある<兄妹>の幻想(生きていけるハズ)が
伯母とか近所の人に象徴される共同性によってヘーキで踏みにじられていく内容。
稚過ぎる権力(生の意志)が、大人の狡獪な権力(日常)の前に無力に潰されていくワケね。

戦争とゆーのは踏みにじって行く側のイイワケであっても、この物語の主題じゃない。
ましてやこの4歳と14歳の兄妹の思いに戦争への反発とか悲惨とかの自覚はない、とゆーかメインではない。

戦争とゆー状況設定のなかで、コケにされていく兄妹の姿がさらしているのは、
親族とか他人という存在のホントの姿だし、
また重巡洋艦の艦長である父や母の健在という公へのプレゼンスだけがこの兄妹を庇護し、
その生活を保障し得ていたという事実への直視だ。

それから注目の存在が駐在所のお巡りさん。
野菜を盗んで農家に暴行される兄を見逃してくれるのがこのお巡りさん。
ふつうならコワイ存在として描かれそうな駐在所のお巡りさんが、
その権限で百姓の暴力を戒め、そっと兄を逃がしてやる。
地縁血縁とは無縁で、しかも公的な権力である存在が、
飢えから盗みを犯した兄を護り、逃がす....。

宮崎監督の作品には、この類の人間、他の登場人物と何らかの縁がなく、
しかも公的な共同性の意義を持った存在がある種のキーパーソンとして登場することが、
ひとつのポイントなのかも、と感じたりもしましたん。
そーいった公準に、私的な個への救済をなんとか求めよーとするスタンスは、
宮崎監督の希望なんだろーか?
つーか、まあ、そのか細い希望が多くの表現作品の重要なポイントなのは
確かかもしれないね。


「4歳と14歳で生きようと思った。」

....という糸井さんのコピーがすべてかもしれない内容。







■遠隔対称化する三界・・・   2003/8/



     身体の拡張なんて、モロに、遠隔対称性だからね。
     ラカン三界論の想像界・象徴界・現実界の相互の関係もそーでやんすが。


などとゆーデカイ?ことを書いちまったけど、自らビビッちまうのは、
こーゆーことを主張してしまう文責の重さなんかじゃなくて、
こんなに真理はシンプルなんだね、とゆー事実と、それがこんなにカンタンに表出できるんだね、
とゆー現代のコンビニエンスな便利さについてなんだよーん、と。


そーゆーワケで....


     想像界が遠隔対称化すると象徴界に、
     象徴界が遠隔対称化すると現実界に、
     現実界が遠隔対称化すると想像界に、
     想像界が遠隔対称化すると....
     ....∞....


ホントかよ、っと。
と、無限ループするのが生きるつーことですが、
ま、アタマの限界とかマテリアルな限界がストップをかけてくれたりします。


ああ、まだ途中だあ。。。。。



■「メディアは存在しない」だあ・・・   2003/8/17


つーことで先月
サイレースカンタン手術を受けにいった途中
本屋で見っけたのが....


   InterCommunication No.45 Summer 2003


気になったのが....P146の....


   メディアは存在しない 4
    マクルーハンの法則



で、執筆者は斎藤環さん。

なんつっても、内容が、気になりまするう。
だって、この展開なら、<遠隔対称性>の話しになるだろー....
つーか、ウチだったらそーする、とゆー類のテーマでしたん。

身体の拡張なんて、モロに、遠隔対称性だからね。
ラカン三界論の想像界・象徴界・現実界の相互の関係もそーでやんすが。
吉本さんが、もっとダイレクトにラカンを語ったら面白いのにな、っと。

  

■「マクドナルドの椅子」は主観か?・・・   2003/8/14


     「楽しい」というのは、「痛い」と同じで、
     きわめて主観的な心理状態ですから、
     本人が「楽しい」と自己申告してるかぎりは誰も介入できない。

                    『自由を考える』(東浩紀・大澤真幸/日本放送出版協会)



つーことでいつも問題提起王ナンバーワンの東さんは、ここでもナンバーワンでっす。
その王道を突き進んで内破しちゃうどころか、どこにも帰結しないで「凡庸な実践を積み重ねていく」という
日常を生きる姿はヨクもワルくも今必要な生きザマだっし。

で、問題発言ですが、「楽しい」のと「痛い」のは「同じ」じゃありませっん。
また、「痛い」という否定性の方は「主観的」でもありまっせん。
否定性は主観的ではないから象徴的同一化を生成するワケでしょ。
つーかホントは逆で象徴的である以上は主観的じゃないとゆーことですが。
まあ主観で左右できるのは象徴じゃないから、さ。

それから、「楽しい」ことがメインになっていくのはオタキングが主張して注目されたオタク化する社会の属性であり、
現在の特徴でもあるでしょー。そこでの問題は楽しくないこと=否定性については判断できなかったオタキングの限界....
であるのは羊通信で97年7月に指摘したとおりです。


東さんのいいところにムズカシイことを身近な簡単な事実で説明し、解読していくとゆースタンスがあります。
その最近のヒットは「マクドナルドの椅子」。これはマクドナルドの椅子が硬くて10分も座っていると席を離れたくなること
を指してます。こーやって意識しないうちに動物的にコントロールされちゃう現実に「動物化」を見い出しているワケですね。

もちろんバブル時代からマーケット関係に応用される社会工学的な知見では、お店のドアの幅だとか、照明の明るさだとか、
椅子の硬さだとかゆーものは比較的初歩的な工作のひとつです。そーゆーのを考えるプランナーやディレクターが理論として
飛びついたのがボードリヤールだったのは業界関係者は身をもって知ってますよね。そーゆーBBSもあるし。それらが商業的な
あるいはホーソン実験みたいな資本主義の効率化のためのテクノロジーだったのを、あらためて権力の形態として大衆の側から
フォーカスしたのが東さんですね。もちろん個人の内面に喚起しつつそれが社会システムとなっていくのを看破したのは宮台さんです。
そこで悩める人の心を探るのが斎藤さん、とゆーワケで。また楽しいコトをメインに消費される選択消費がGDPの過半数を占めている
経済状態が先進国(G7とかG8だとか)だという風にマテリアルな根拠をカンタンに説明して見せたのが吉本さんでしたん。


んで、「痛い」のが「主観的な心理状態」なら「マクドナルドの椅子」も主観的なんで大して意味はない?
....つーことなんですかね、東さんにとっては?
「マクドナルドの椅子」が硬いとゆーのは「自意識の問題に過ぎない」....とか?
それから「椅子」を硬くした意図や、早く客を店から出す(顧客回転率を上げる)という目的意識についての評価は?
このヘンて、形態はともかく、権力の一角であることは間違いないんだけどさ。

つーことで、現在的なナゾって、東さん的そのままだったりするかもね、と。
どーであれ、ナゾは解明されるためにあったりします。(W



ところでオタク第一世代だろーが新人類世代だろーが、「マニア」本なんつーのが出始めた頃の人たちの言い分から
割とスンナリと想像したり演繹できるのは、彼らが圧倒的に肯定性でもって愉しんでたから、でしょー。
これに否定性が介在したら精神分析的なものなしで理解するのはムズカシくなるですよん。
まあ、単純明快なオタキングの主張から以下のコトを考えるのはカンタンだったけどね。


   好きなことや楽しいことといった“肯定性”というのは人それぞれ。
   人の数だけ同好会があるよーなもんで、人の数だけオタクがいるんですよ。世の中って。

   逆に“否定性”というものは多くの人々にとって共通です。
   イヤなことは誰にとってもイヤなもの。痛いこと苦しいこと大変なこと、イジメられること、
   恋人にフラれちゃうこと・・・こういった否定性は実際のところ少ないどころか多いのが現実。


にゃお



■「幻想対の表出と逆立ちするもの」?・・・   2003/8/10


たとえば....


     フロイドの体系の欠点は、社会をその現実において考察し、
     それを心的内容に織り込みえなかったということではなく、
     社会における幻想的共同性が、
     家族あるいは一対の男女における幻想対の表出と逆立ちするものであると
     いうことを洞察しなかったところにあった。

                              『心的現象論序説』(吉本隆明/角川文庫版)P30


とか解釈できなかったんだろーなあ....。



■Y理論いくぞー・・・   2003/8/10


吉本理論をめぐる状況について、
4月10日に<あ〜あ〜><しまったあ>と思ったことは書いたけど....。

社会科学として何に触れるときでも絶対に必要になるのが<共同性>への認識。
コレがないとどんな認識もアヤフヤでしかないし、いつでもゴマカシの効く代物になっちまうのも確か。
で、その共同性の根拠についてケリがついたのが、ぬあんと2年も前だったワケで、
つまり2年以上もサボってたワケねとゆー反省はともかく、
それよりニューアカ以降のこの汎くて永い時空を経ながらも、
一部を除けば真っ当な認識がなされていない現況ってスゲーなと思うワケです。



■感情の生成するとこは?・・・   2001/7/29
■共同(幻想)性の生成するとこは?・・・   2001/7/26
■心的ぶつぶつ・・・   2001/7/21
■38度℃・・・   2001/7/20
■心的現象論ぶつぶつ・・・   2001/7/18
■暑くて心的現象論にケリだあ・・・   2001/7/17
■暑くて心的現象論だあ・・・   2001/7/16
で、ファイルサーバーは数回目のトラブルで沈黙してるんでテキストが取り出せるかどーかなんだけど、 まあ、タイピングがこれまナンで難なんでどーしよーか状態。にゃあああ。 くっ、グチを書いてもナンなんだあ....。 たとえば『次の時代のための吉本隆明の読み方』なんかはさすが村瀬思想と呼ぶ人もいるほどの、 それなりの完成度がある主張になってるワケですね。特に対幻想や共同幻想に対する理解をはじめ思考するときの 基本的なスタンスが吉本オリジナルより狭量で個人的な見解の域を出ないものなんですが、トーナリティには優れていて、 他の人々の主張より説得力があり実効性もあるでしょー。だからこそ手強いとゆーかメンドクサイできごとでもあります。 単に、間違いは間違いだからさあ。 ウチのY理論(吉本理論)解釈へのスタンスは実効性と応用性を高めることがひとつ。 つまりタームの定義の概念に関して抽象度を高めて思索して演繹します。 構成同一性に準拠?したとゆーかクロマニヨン人的?つーかね。(W だから「幻想的共同性」「幻想対」「共同幻想」「対幻想」てなタームの違いに出合って泣きじゃくっちゃうニューアカの旗手に 関しては容赦をしないワケです。キャパが無くて、違うモノゴトを同定できないなら、思考することの意義はないからね。 バカは単にバカなだけなの。それより「だいたい」や「要するに」とゆー思考やスタンスの方が「日常を生きる」パンピーにとっては 大切なのさあ。

■「見られる」ということの断念・・・   2003/8/7


『OK?ひきこもりOK!』(斉藤環/マガジンハウス)の対談で東さんがスルドイことを主張してます。
データベース化する社会を背景に「若い世代」や「若者たち」がどんな基本認識を持っているか探ると、
社会を俯瞰しようとするひきこもり(斉藤)は人間的で、他方では動物化した人たちがストリートにいる....。

問題は人間的に世界観を持とうとすると....



     いまの世の中で世界理論をつくろうと思うと、妄想に行きがちだと思います。
     それよりは、世界全体が見渡せないという断念があったほうがいいだろうとは思う。

          『OK?ひきこもりOK!』(斉藤環/マガジンハウス・対談東浩紀「もう人間はうんざりだ」P244)



とゆーことで世界観(≧コンテクスト)を目指すことが人間的でもあると同時に妄想への危険性が高いということも示してます。
これは『文脈病』(斉藤環・青土社)でテーマとなっている<コンテクスト>が観念そのものであるということの傍証でもあるでしょ。
コンテクストや共同幻想は観念そのものなんだから。

で、今日の問題は、っと。

<世界観の断念>はあるレベルでの説得力があるんですが、現実にはひきこもりの増加のように個人的に<世界観の確立>を求めたり
あるいは<確立>しちゃった人間の増加が有意にあるワケです。
つまり断念すべきは世界観でもなんでもないんですよ。
『自由を考える』で東さんや大澤さんが指摘したように「見られていないかもしれない」という不安が重要なポイントでしょー。

前回ここで指摘したよーに「見られていないかもしれない」という不安から予期できるのは....



     「見られたい」とゆー現在の願望にして欲望



だからホントに必要なのはこの「見られたい」「見られる」ということの断念なんですね。
これは永劫に続く去勢でもあるかもん。

そして、この程度のことなら、他者に指摘されるまでもなくすでに実行しちゃってる100万人もの存在が
ひきこもりなんですよ。

世界観を求めつつ「見られる」ことを拒絶したところで、ひっきーはどんな認識を持ち、どんな風に生活を営んでいくのか?
今のところサイテーゲンわかっているのは自分を「見てくれる」他者を必要としないために、結果として他者に迷惑をかけていない
ということではないでしょーか?

ここが自己認知を求めて、他者や相手が認めてくれないと追いかけまわすストーカーやキレると迷惑をかけるキチとの違いですね。
これに統合失調症的な支配妄想(被害妄想から発展する)が加わると、宗教や政治の異常性、そして個人レベルでは瘉しや占いなどの
相手を必要とする妄想系が発現しちゃうワケです。

「ウケたい、見られたい、こーゆー認知願望」を自己抑制できないコマッタちゃんには、逆にその願望どおりに曝してあげるとゆーのは
ネット社会ならでは適切な処置かもしれません。
たとえばジャーナリズムというものはそういう意義をもって登場してきたハズでしょー。
表出する表現するが一切の過不足無く疎外そのものであるという哲学的な認識はもちろん真理だしね。



■「見られたい」とゆーことさあ・・・   2003/8/3


『自由を考える』(東浩紀・大澤真幸/日本放送出版協会)が面白かったでーす。理由は2つ。

東さんのもろもろな考えが大澤さんの博学強覧によるリソースの開示によって
思想史的に位置づけできることとか....。
読んでるうちに気がついたのが何かに似てるなあ、とゆーこと。
そーです、あの『逃走論』に似てます。といっても内容がじゃなくて、思索する2人の対話が、ですね。
浅田さんが「口頭試問の記録」と評した『逃走論』での浅田vs今村とゆー当時としてはラジカルでスピードを感じさせる、
あの対話でしたん。アルチュセールによる構造主義批判を前提にドウルーズ・ガタリを読解していくところが分かりやすくて
GOOD!でしたね。

つーことで、『自由を考える』を考える、と。



   大澤
     パノプティコンは、「自分が見られてるかもしれないという不安」を人がもっていることを前提にしている。
     ところが……。


   東
     ……見られていないかもしれない。

   大澤
     そう、「見られていないかもしれない」というのが現代の不安になっているわけですね。

   東
     その本はまだ読んでいないのですが、それは正しい認識ですね。





とゆーことで、「見られていないかもしれない」という不安をズバリと指摘してくれてます。
人間が生きていく基本的な動機と強度そのものは不安の解消という一点に収斂します。

それがつまり<見られたい>とゆー現在の願望にして欲望ということでしょー。
「見られていないかもしれない」という不安....よーやくここまできてくれた指摘なんですが、まあ、この冗長性がインテリさんかな、っと。

『暴走するインターネット』(鈴木謙介・イーストプレス)などで端的に指摘されているテーマはこれですね。
問題は<見られたい>なら見られるためのマテリアルやテクノロジーやルールがあるとゆーこと。
でしょー、ね!

ウケたい、見られたい、こーゆー認知願望は自己を認知してくれる他者の存在が前提ですが、
その他者を無視した認知願望の発現はただのキチでありデムパであり、コマッタちゃんなワケです。
多いんだあ、そーゆーのが。

つーことで、チャーハン作らなきゃならないから、まったねえ!!!
で、次はあ、東さんたちが出すべき結論や
すでに出しちゃってる人たちなんかについて、カキコしないとなあと思いつつ...