イラク戦争について思うこと

清瀬 六朗



1.

 もう少し考える時間が欲しかった、というのが正直な気もちだ。

 心情的に言うと、私はこの戦争には反対だ。アメリカ合衆国自身が大量破壊兵器を大量に持ち、その大量破壊兵器の力を背景にして世界じゅうに自分の都合を押しつけようとしているのに較べれば、イラクの大量破壊兵器の何が脅威だというのだ。

 しかし、心情面での話を続ければ、私は10年前にはアメリカ合衆国がどうしてもっと徹底的にサッダーム・フセインを叩かないのだろうと思っていた。隣国に勝手な理屈を並べ立てて侵入し、その国を滅ぼしてしまうような指導者の政権をこれ以上野放しにしていいはずがないと強く思っていた。

 この二つの立場は、べつに矛盾はしない。10年前にサッダーム・フセイン政権を徹底的に叩きつぶしていれば、今回の戦争などは必要なかった。サッダーム・フセイン政権が存続したことには、アメリカにも責任がある。それなのに、何をいまさら思い出したようにサッダーム・フセイン政権を攻撃するのか。いったん自分でためらってやめたことではないか。

 しかし、もちろん、この議論には、法手続面からの反論があり得る。アメリカやその他の当時の同盟国がその時点でサッダーム・フセイン体制の存続を許したのは、「大量破壊兵器を廃棄する」という約束をサッダーム・フセインがしたからで、サッダーム・フセインはそれを誠実に履行しなかった。履行するための機会を何度も与えたのにサッダーム・フセインはあいかわらず履行しなかったのだから、攻撃して当然だという考えかただ。アメリカやイギリス(連合王国)はこの考えかたで戦争を始めたのだし、日本政府も同じ考えかたでアメリカ・イギリスを支持した。

 私は、それでも、今回のイラク戦争には反対だ。その心情から出発する以外にないと思う。

 ただ、なぜそう考えるかは、はっきりさせたいと思っていた。それを考えていくなかで、もし戦争を認めることになっても、また、戦争を支持することになっても、それは考えずに反対しているよりはいいと思っていた。

 だから、考える時間が欲しかったわけだ。けれども、戦争は先に始まってしまった。

 でも、たぶん「戦争について考える」などということには、いつもこの問題がついて回るのではないか。

 戦争を起こす人たちですら、考えに考え抜いて戦争を起こすなどということはほとんどないのではないか。たいていは、状況に迫られて、やむを得ず、さしたる考えもないままに、そして、先が十分に見通せないままに戦争に追いこまれてしまうという部分がある。19世紀のドイツのビスマルクのように、戦争と平和を操るのに天才的な手腕を発揮した政治家でさえ、戦争を始めたときから完全に戦争の行方を見通すことができていたとは思えない。それに、ビスマルクの時代は、フランス革命戦争後の、戦争のやり方がある程度までパターン化されていた時代で、先が読みやすいという一面もあった。

 一国を動かす政治家でさえそうなのだから、専門的に政治に携わらない「一般国民」が、「戦争」について十分に考えている時間などまずないのが普通ではないか。また「一般国民」には、「戦争」について考える情報も十分ではない。とりわけ、日本のばあい、「軍事」というのは自分たちの日常生活から切り離されたものごとだから、「戦争」について現実感をもって語ることこと自体が難しい。でも、ほかの国でも、「一般国民」が「戦争」について十分に考えている機会はあまりないのではないかと思う。絶え間ない戦争がもう何十年も続いている地域の住人だって、目の前の戦争という状況に対処することに追われ、「戦争」についてじっくり考えることなどあんがいできないのではないかと私は思っている。多くの日本人の前に「平和」というものがあらかじめ与えられているように、その人たちの前には「戦争」があらかじめ与えられていて、そして、私たちが「平和」を考える程度にしか「戦争」について考えていないかも知れない。

 戦争は、人間の思考を絶えず手遅れにさせていく。考える人間が、過去の戦争について懸命に考え抜いて「戦争とはこういうものだ」という結論に達したときには、その時代の戦争はそれとはまったく違うものになってしまっている。どうやらそういう面があるように私は思うのだ。

 もちろんそれは一面では意図的なものだ。戦略家・戦術家たちは、「前と同じ」ように戦争を戦うのでは優位に立てる可能性が小さい。だから、戦争のやり方をいつも見直している。その集積で戦争は変わる。

 だが、たぶん、戦略家や戦術家が意図する以上の速さで、戦争はその姿を変えていく。

 そういう「戦争」をどう考えたらいいのだろうか。


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