イラク戦争について思うこと

清瀬 六朗



2.

 「戦争は悪いことだから、戦争には反対だ」という、とてもわかりやすい立場は、私は取らない。

 たしかに「戦争は悪である」と感じること自体には私はとりあえず賛成だ。けれども、では、「戦争をしないことは常に善なのか」と問うてみよう。私はその問いに「その通り」と答えるにはためらいを感じる。

 こういう問題を考えるときのモデルになっている例を引こう。第二次世界大戦前に、ナチス・ドイツ(国民社会主義ドイツ労働者党政権のドイツ)は、南隣のオーストリアへ、ドイツ人が多く住んでいたズデーテン地方へ、さらにチェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)へと勝手に領土を拡大していった。そのとき、ヨーロッパの大国の指導者たちは、戦争を避けたいためにそのナチス・ドイツの行為を容認した。これを宥和政策という。この宥和政策が、のちにかえって大きい破滅的な戦争につながった。宥和政策をとらずに早い段階でドイツを叩いていれば、第二次世界大戦はあれほど大きな戦争にならなかったかも知れない。ズデーテンの段階で阻止していればチェコスロバキア全体が犠牲にならずにすんだかも知れないし、チェコスロバキアのときに手を打っていればポーランドがソ連とドイツに分割されるなどという悲劇も起こらずにすんだかも知れない。

 「戦争の悪」と「ナチス・ドイツのような危険な国家を野放しにすることの悪」とを比較考量して考える必要があるというのが、このときの教訓だと私は思う。もっとも、この第二次世界大戦前の「宥和政策」については、ある程度の現実性があったという学説もある。その説の立場をとるとしても、やはり「戦争の悪」と「危険な国家を野放しにする悪」を比較して得失を考えることの必要性は変わらない。

 このような言いかたに対して、「いや、戦争は絶対に悪なのだから、他の悪と比較すること自体がまちがっている。だから戦争には絶対に反対だ」という言い返しがあることは承知している。承知しているというより、かつての私自身がそんなことを言っていた。

 これは、たとえば戦争を倫理的に考えるのであれば、あるいはその通りかも知れないと思う。

 世のなかには、倫理的には「絶対にやってはいけないこと」が存在する。もちろん「絶対にやらなければいけないこと」もだ。具体的に言うと、「人を殺してはいけない」とか「弱い者いじめをしてはいけない」とかいうのがそれにあたる。そして、その「絶対にやってはいけないこと」・「絶対にやらなければいけないこと」を定める倫理の抑止がなければ、世のなかはとんでもない混乱状態に陥る。こういう倫理は、人間の行動や、国家を含む集団の行動を規律するたいせつなものだ。そして、「絶対に戦争はしてはいけない」というのも、そういう倫理的な決まりごとの一つだと考えてもいい。

 けれども、現実世界で行動するためには、倫理的に絶対に正しいことをだれもがいつも守っているわけにはいかない。「人を殺してはいけない」と決められていても、そしてそれを守らなければならないとわかっていても、自分が殺されそうになって、自分を殺そうとしている相手を殺すほかにその状況から逃れられない状況では、人を殺すしかないこともある。いや、そういうばあいには逆らわないで殺されるべきだという考えかたもあるだろう。だが、たとえ自分はそういう立場でも、他の人にまでその考えかたを強制することはできない。その立場を貫けば、ある局面では他人に死ぬことを求めることになるわけで、「人を殺してはいけない」という倫理自体に矛盾しかねない。ともかく、倫理的に「絶対にしてはならない」と決められたことでも、現実には行わなければならない局面が出てくるのだ。

 戦争を倫理的に考えることは、それはそれで必要だと思う。けれども、それが戦争を考えることのすべてではない。

 また、戦争の問題を論じるのに、憲法を引き合いに出す立場もあるだろう。日本国憲法では戦争放棄を定めており、従って、日本国は平和主義の国である。だから、その日本国民が戦争を認めたり支持したりしてはいけないという考えかたである。

 憲法のことについては、あとでいくつかの論点から触れたいと思う。とりあえず、ここでは、「日本は平和主義の国だ」ということばは、世界の戦争と平和の問題については何も言っていないと言っておきたい。せいぜい、世界には日本という国があって、その日本という国は「平和主義」という考えかたを採っているという説明でしかない。たとえば、アメリカは大統領制だが、日本は議院内閣制だといういうような「その国の政治体制の特徴」の説明の一つにしかならない。

 平和憲法をもつ日本人は率先して平和憲法の理念を世界に広めなければならないという言いかたもよく聞く。心情的には理解できる。そういう正面切った発言がさいきん少ないことに寂しさを感じさえする。これも昔の私ならばそういうことばで胸の奥が熱くなっただろう。しかし現在の私は賛成はしない。少なくとも、そういう発言は、「イスラーム(イスラム教)の正しい教えを世界に広めるのがわれわれの使命だ」という「ジハード」の論理と同じであることは理解しておくべきだ。

 イスラム教の「ジハード」の理念自体、「正しい教えを広めるための努力」なのであって、安易に「聖戦」と訳すべきでないことは承知している。平和な「ジハード」もあり得る。だから、「平和主義者は聖戦主義者と同じだ」などという中傷を行うつもりはない。  問題は、「ジハード」は、たとえ平和な「ジハード」であっても、「イスラム教(イスラーム)が正しい」という価値観を最初にうち立てなければ成り立たないということだ。それは、立場の表明にはなるかも知れないが、少なくとも、違う考えに立つ相手を説得する前提にはならない。

 たとえば、平和主義の日本人が「平和憲法の理念」を理由に戦争に反対しても、民主主義のアメリカ人が「民主主義を実現するためには断乎として戦うべきだ」と言って戦争を支持してきたら、両方の議論はそのままではすれ違うだけである。説得力を得るためには、平和主義と民主主義の関係はどうだとか、平和主義と民主主義がどうしても相容れないようなばあいは生じうるか、それが生じたときにはどう解決したらいいのかというようなところまで考えを進めなければいけない。

 また、「憲法がこう定めているから、この考えかたを守らなければならない」という思考がそこで止まるならば、それは近代法としての憲法の性格を見誤った議論だと思う。「法」が神や特別の賢者によって与えられていた古代ならばそれでもいいかも知れない。けれども、近代法は人間が作るものであり、それは近代憲法も同じである。そして人間はまちがうことがあるのだ。したがって憲法を含む法はまちがっていることがあり得る。だから、憲法を含む法は、その根拠は何かを絶えず問いつづけて、もし訂正が必要ならば訂正を加えていかなければならない。

 憲法に定められたことが絶対的な権威をもつのはあくまで法体系のなかでの話である。憲法に反する法律は無効というのがたてまえで、だから法体系のなかでは憲法に定められたことは絶対に守らなければならない。しかし、それは、社会のなかで憲法が絶対の権威をもつことを意味しない。もちろん社会が憲法に違反した状態にあるのを放置していいということにはならない。しかし、逆に、憲法も社会に根拠づけられている必要がある。憲法が平和主義を定めている。では、その憲法が平和主義を定めている根拠は何か。次にその問に進み、その十分な答えを見つけ出さなければならない。

 先に書いたように戦争は思考を出し抜くから、「十分な答え」を発見するのは困難かも知れないが、少なくともそれを見つけ出す努力はしなければいけない。その作業なしにたんに「平和憲法」と唱えただけで何かの説得力があった時代があるとすれば、それはその時代が平和の根拠まで考えずにすむ幸福な時代だったのだとでも答えるしかないだろう。

 だから、「戦争はいつでも悪だから、戦争はしてはいけない」とか、「日本は平和憲法をもっているのだから、日本人は平和憲法の理念に基づいて戦争に反対しなければいけない」とかいうだけで反対する気もちには、私はどうしてもなれない。

 もちろん、だからといって、イラクが大量破壊兵器を破棄しなかったから攻撃するとか、アメリカ国民の安全を守るためとかいう論理にも私は納得しない。「イラクの自由」作戦などと称しているが、アメリカが「イラクの自由」作戦を展開する権利があるのなら、イスラム原理主義勢力だって「アメリカイスラーム化計画」を発動する権利があるはずだ。アメリカ人にとって自由がかけがえない概念であるのと同様に、イスラム教徒にとって「イスラーム」はかけがえのない概念であるはずだからだ。日米同盟が重要だからそのアメリカ合衆国の行動を支持するという論理も、最初から全面否定する気もないが、すんなりと納得することはとうていできない。

 ではどう考えたらいいのか?

 じつは私はまだどう考えたらいいかすらわからない。最初の一歩すらおぼつかない感じである。

 とりあえず、感じたことから、一歩ずつ進んでいこうと思う。


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