イラク戦争について思うこと

清瀬 六朗



10.

 この九月一一日以後を語るまえに、この国際協調体制やアメリカ合衆国がイラクのサッダーム・フセイン体制にどう対処してきたかに触れておく。

 湾岸戦争の際、「多国籍」の連合軍はクウェート解放をなし遂げたあと、フセイン政権の打倒までは進まなかった。

 一面では、世界の「民主化」の流れから判断して、独裁者サッダーム・フセインの政権は、無理やり攻撃しなくても倒れるだろうという雰囲気があっただろう。

 イラクという国は、もともと、20世紀初めに第一次世界大戦が終結したときに、イギリスが北部のクルド人地域の油田地帯と南部のアラブ人地域の油田地帯を結びつけて作り上げた国である。

 第一次世界大戦では、このアラブ地域を支配していたオスマン帝国が、イギリスの敵であるドイツ・オーストリア側に参戦していた。イギリスにとって、アラブ地域は、イギリスの重要な植民地であるインド(現在のインドのほかにパキスタン・バングラデシュ・ミャンマーなどを含む)への通路として重要だった。そこで、オスマン帝国に対する戦いを有利に進めるために、アラブの有力者にこの地方に王国を作らせることを約束した(フセイン‐マクマホン往復書簡。この「フセイン」はもちろんサッダーム・フセインとは無関係である)。その結果として作られた王国の一つがイラクだったのだ。ちなみに、そのときには、同じイギリスの働きかけの結果として、イラク以外にも王国が作られた。その王国で現在も残っているのがヨルダンである。

 イギリスをはじめとする第一次大戦の戦勝諸国は、いったんはクルド人にも独立地域を与えることで合意していた。そのかわり、オスマン帝国は徹底的に解体され、いまのトルコの内陸部に細々と残る国家になるはずだった。ところが、戦勝国に対して無力なオスマン宮廷にかわって、ムスタファ・ケマル・パシャ(のちのケマル・アタチュルク)が指導する勢力がこの取り決めに抵抗した。ケマル・パシャのアンカラ勢力と第一次大戦の戦勝諸国との再度の交渉で、このクルド人地域の独立は否定された。クルド人の居住地域は、トルコ、イラン、イラク、シリアに分けられることになってしまった。

 だから、イラクはアラブ人とクルド人が住む国として成立した。しかも、ややこしいことに、そのアラブ人がイスラム教のシーア派の信者とスンニー派の信者に分かれていた。イラクの王家はスンニー派である。しかし、イラクの国土にはシーア派にとって重要な場所が多く含まれてしまった。そのむかし、シーア派成立のきっかけとなった大事件「カルバラーの悲劇」が起こったカルバラーの街とか、シーア派の最初の宗教指導者とされるムハンマドの娘婿アリーの墓廟のあるナジャフとか(両方とも今回の戦争で戦闘が行われた都市として報道されている)がイラク領に含まれている。住民も、先に書いたように、スンニー派よりもシーア派のほうが多数である。

 こうなってしまったのは、このイラクの地域が、近世に入ってから、イスタンブルに都を置くオスマン王朝領と、現在のイランに連なるペルシアのサファヴィー王朝領の抗争地域になっていたからだ。オスマン皇帝はスンニー派世界の中心だと自負していたし、18世紀ごろになってヨーロッパ勢力に圧迫されるにつれてその主張を強めていった。対するサファヴィー王朝は、その起源までさかのぼれば過激なシーア派教団で、シーア派の強硬派である。

 そういう場所に、イギリスは、アラブの君主を押し立てて、旧約聖書に出てくる時代のようなメソポタミアの王国を作った。それがイラクである。

 君主制は1950年代末に革命で打倒された。そのあと、政権を握ったのが、先に触れたアラブ民族主義のバース党(アラブ復興社会党。「バース」は「復興」の意味)である。イラク国内のアラブ系住民はシーア派が多くても、アラブ民族全体では圧倒的にスンニー派が多いから、バース党も系統としてはスンニー派系である。ただし、バース党は基本的には脱宗教的な傾向を持つ近代政党であった。社会主義的な要素も強く持っていた。近代化・社会主義化のなかでスンニー派とシーア派の対立は薄れていくという見通しがあったかも知れない。が、けっきょくその対立は解消されなかった。

 1970年代末にサッダーム・フセインが権力を握ると、ただちに隣国のイランに戦争を仕掛けた。イラン‐イラク戦争である。イランはシーア派の国だし、しかも、革命の結果、そのシーア派の教えを国家の支配に全面的に活かすという原理主義の国になっている。この戦争のなかで、イラク国内のシーア派は、イランに内通するのではないかと警戒され、弾圧の対象になった。サッダーム・フセイン政権とシーア派の関係は極端に悪化した。

 このときからアメリカ合衆国がサッダーム・フセイン政権にきっぱりと反対の立場をとっていたのならば、今回の戦争への流れもわかりやすい。

 まして、この戦争はサッダーム・フセイン政権が一方的に仕掛けたもので、その点でも後の湾岸危機に共通する面がある。大量破壊兵器に分類される化学兵器も使っている。だから、アメリカ合衆国が現在の理念を過去にも貫いていたならば、このサッダーム・フセイン政権の行動をこの段階で止めにかかっていておかしくない。

 けれども、残念ながらそうはいかなかった。

 たしかに、イラクのバース党は社会主義色が強かったから、ソ連よりの政権であり、アメリカとは対立してきた。しかし、イランのイスラム革命が状況を変えた。ホメイニーの率いるイランの革命勢力はアメリカを「大悪魔(サタン)」と呼んで敵視し、イランは過激な反アメリカ政策を展開した。いまと同じ共和党のレーガンが政権を握っていたアメリカはイラク支持の立場に立った。のちにイランとも妙な裏取引をしてその利益を中米の共産勢力弾圧に転用しようとするような事件も起こしているけれども、全体として当時の共和党政権はイラク支持であった。そして、イランは、アメリカの軍艦のミサイル「誤射」で旅客機を撃墜されるという事件を経て、「毒を飲むより辛い」講和を決断する。サッダーム・フセインは勝利者の栄誉を得ることになった。

 なお、このレーガン政権の副大統領は、のちの湾岸戦争を大統領として指揮するブッシュ(父)であった。そのG.ブッシュの息子がいまのG.W.ブッシュ大統領である。

 イラクには欧米にアピールする強味が一つあった。石油である。もともと油田地帯をつなぎ合わせて作られたような国だから国内に石油が豊富にある。しかも、世界の石油のなかでも質のよい石油がとれる。この石油を握っていることがサッダーム・フセインの強味となった。ただし、逆に、その石油は、外国の干渉を呼ぶ原因にもなりかねない。しかもブッシュ家は石油利権とつながりが深いと言われている。今回のイラク戦争でのブッシュ政権の目的がよく言われるようにこの石油の確保にあるとするならば、サッダーム・フセインにとっては石油を握っていたことが不運に働いたということになる。

 そのサッダーム・フセイン政権を待っていたのが世界の民主化の流れである。バース党体制は、東欧で脆くも崩壊した社会主義に近い体制だ。社会主義体制の中国は、1989年に民主化運動の大弾圧事件(天安門事件)を起こして世界から非難を浴び、孤立気味である。そういうことに危機感を持ったためかどうかは知らないが、サッダーム・フセイン政権は次はクウェートに侵入して一方的・暴力的にクウェートを併合してしまった。

 もともと、イラクにとって、イラクからペルシア湾へ出る出口を押さえるクウェートは目障りな存在であったし、バース党政権はこのクウェートはイラクの一部であるとずっと主張してきた。その主張をむりやり実現するかたちでクウェートを暴力的に併合してしまったのである。

 しかし、先に書いたように、民主主義的な国際協調体制が復活しつつあった国際社会がこの暴挙を見逃すはずがなかった。中国の天安門事件については、中国が国連常任理事国の一翼を担う大国であり、しかも人権問題であったとしても国内問題であったこともあり、国際社会は経済制裁程度で止めるしかなかった。しかしクウェート問題は国際問題である。しかも、国際社会に属する多くの国が独立国として認めている国を軍事力で無理やり併合したのだ。容認されるはずがなかった。

 その結果、国連の容認のもとで、アメリカ合衆国が中心になって「多国籍」連合軍が編成され、戦争を通じてクウェートの解放が実現された。これが湾岸戦争だ。ちなみに現地でアメリカ軍の指揮を執っていたのは、いまのパウエル国務長官である。

 しかし、アメリカ合衆国は、さらに進んで自らの力でサッダーム・フセイン政権を打倒するところまでは行かなかった。

 先に書いたように、あんな独裁政権は、これだけ叩いておけばほうっておいても倒れるのではないかという期待があったのだろう。

 それ以上にアメリカの国益にとって都合の悪いことがあった。

 サッダーム・フセイン政権が倒れれば、もともとイラクという国の成り立ちからして、シーア派アラブ人とクルド人が分離運動を起こしかねない。シーア派アラブ人はイランに親近感を持っている。イランに内通するんじゃないかと警戒されてサッダーム・フセイン政権に弾圧された経緯もある。もしイラクのシーア派アラブ人が自立すれば、中東でのイランの影響力が強まる可能性が大きい。ところがそのイランは反米主義の強い国である。現在のハータミー政権ではだいぶ変わってきたけれども、当時のイランは現在よりもずっと反米主義が強かった。倒れかけのサッダーム・フセイン政権が強い政権として復活する危険と、イラクのシーア派の自立を促して中東でのイランの影響力が強まる危険と、どっちを大きいと見るか。当時のアメリカ合衆国はイランの影響力拡大のほうを恐れた。その結果、イランのアラブへの勢力拡大の危険は避けることができたが、サッダーム・フセイン政権の復活のほうが実現してしまった。

 クルド人の自立もアメリカ合衆国としては必ずしも歓迎というわけにはいかなかった。イラクのクルド人が自立すれば、トルコのクルド人も自立への動きを強めるだろう。イラクがいちおうクルド人を国家を構成する民族として認めてきたのに較べて、トルコは、ケマル・アタチュルク以来、「クルド人」という民族が国内に存在することすら認めない立場を貫いてきた(最近は少し変わってきたような話もきくが)。そして、そのトルコは、冷戦初期からアメリカ合衆国の重要な軍事的パートナーである。イラクでクルド人の自立を促してトルコの情勢が不安定になってしまえば、これもアメリカとしては困ったことである。

 そんなわけで、サッダーム・フセイン政権打倒に動いたシーア派とクルド人の勢力は、両方ともサッダーム・フセイン政権の苛酷な弾圧を受けてしまった。シーア派勢力やクルド人勢力からすると、アメリカに途中ではしごをはずされたかたちとなった。しかも、この国家崩壊を阻止することができたことで、サッダーム・フセインはなんと「勝利」を宣言してその支配体制を固めることができたのだ。

 国連は、イラクが大量破壊兵器を廃棄することを求めて査察を開始し、また、経済制裁を開始した。イラクの石油輸出も禁止された。しかし、経済制裁は、けっきょくイラクの国内の弱者にしわ寄せが行くだけで、体制打倒には結びつかなかった。これはイラクのばあいだけではない。セルビアでも国連は経済制裁を行ったが、やはり経済制裁ではミロシェビッチ政権を打倒することはできなかった。けっきょくNATOの軍事力によって退陣に追いこむしかなかったのである。

 イラクへの経済制裁は「一般市民」の生活を圧迫しており、かえって人道主義に反するのではないかという声が高まった。国連は、資金の流れを管理しながらイラクの石油輸出を認め、見返りに食糧や医薬品を供給する援助を始めた。クルド人勢力が党派抗争で分裂した隙にサッダーム・フセインが軍を進駐させたときにも、国連もアメリカ合衆国も積極的に阻止することはしなかった。サッダーム・フセイン体制は再び体制を強化して行き、ついには口実を設けて国連の査察を拒絶するまでになった。査察拒否に対して、アメリカ合衆国とイギリスはバグダードへの集中的な空爆を実施したが、やはりフセイン政権打倒まで持っていくことはしなかった。このときには、湾岸戦争でアメリカに協力した周辺のアラブ諸国の支持も取りつけられなかった。このときの攻撃も中途半端に終わり、またもサッダーム・フセインは「勝利者」の立場を宣言して権力基盤を固めてしまった。

 この流れを見るかぎり、アメリカ合衆国とイギリスは、湾岸戦争後、中途半端な介入のしかたを繰り返して、結果的にサッダーム・フセイン体制の復活を許してしまったのである。たとえそれがアメリカやイギリスの本意でなかったとしてもだ。それに、この過程が進むにつれて、アメリカ・イギリスは国連との連携にあまり注意を払わなくなってくる。周辺のアラブ諸国との連携にも注意を払わなくなってくる。湾岸戦争後のイラク情勢の流れを見るかぎり、アメリカ・イギリスが両国の単独行動主義の傾向を強め、それと同時に、両国の中途半端な介入も絡みつつ、サッダーム・フセイン体制は権力基盤を再強化してきたということがいえるわけだ。

 もっとも、ここでのアメリカとイギリスの対応の「中途半端さ」を問題にするということは、「ここで今回と同じような戦争をやってサッダーム・フセイン体制を撃滅していればこんなことにはならなかった」という議論につながる。じつはそういう立場もあり得ると思うし、この文章の最初に書いたように、私自身がある段階まではそう考えていた。いまの私の考えは変わっている。それでも、1990年代に、アメリカ・イギリスと国連と周辺のアラブ諸国が対イラクの問題でもっと緊密に連携していれば、もっとフセイン政権を追いつめることはできたはずだということは言えると思う。

 けっきょく、イラク問題はこの手詰まり状態のまま、九月一一日を迎えたわけである。


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