イラク戦争について思うこと

清瀬 六朗



9.

 したがって、1990年代の国際協調主義は、その矛盾を克服するところまでは行かなかった。そして、その矛盾はさまざまな国に跳ね返って行った。

 日本は「平和を実現するための軍事力・軍事費の負担」を求められて、その国際協調体制を「アメリカのわがままを実現するための軍事的な制度にすぎない」という反発を強めた。

 アメリカ合衆国は「なぜ自分の国ばかりが負担を押しつけられるのか」という被害者意識を持った。その傾向はクリントン政権時代からあり、G.W.ブッシュ(ブッシュ(息子))政権時代により目立つようになった。自分の国の産業に打撃を与えるといって京都議定書から離脱し、自分の国の兵士が裁かれるのはいやだからと国際刑事裁判所に消極的な姿勢を示しつづけた。ほかの国が核兵器を開発することは阻止しようとするのに、自国では「核爆発を伴わない」核実験を繰り返し、核兵器の均衡を崩すミサイル防衛構想を推進するためにロシアとの条約を破棄したりもした。

 アメリカ合衆国がそういう「一極主義」に走るのには、もちろん、指導者ブッシュとそのブッシュを支える政権中枢の性格が大きく影響を与えている。しかし、同時に、アメリカ経済の急速な減速感という要素も挙げておかないとやっぱり不公平だろう。クリントン政権が、何やかやと文句を言いながらも、国際協調体制に協力的でいられたのは、当時のアメリカ経済が「二度と不況に陥ることはない」といわれたほどの絶好調のただ中にあって、それだけの余裕があったからだ。経済的に余裕があれば、国民も「自分の国は世界の役に立っている」という誇らしさを求めようとする。しかし経済的に余裕がなくなれば「自分の国は世界に不当に軽くあしらわれている」という感覚のほうが強くなり、自国中心主義を支持しやすくなる。アメリカは唯一の超大国だから、その自国中心主義が「一極主義」として世界的な影響力を持つことになってしまう。

 さらに、貧しいイスラム諸国には、この世界秩序に参加したために自分の国の人たちの生活がより貧しく苦しくなったという考えが広がった。アメリカ合衆国がパレスチナでイスラエルに有利な立場をとりつづけたことも、アメリカはイスラム教徒を軽視しているという反感をかき立てた。

 また、イスラム諸国のイスラム教徒の多くはスンニー派(スンナ派)という教派に属している。そのなかで、イランは、非スンニー派のシーア派に属するイスラム教徒が多い。ある程度以上の規模を持つ国でシーア派が多数を占めているのはイランだけである。じつはいま問題のイラクでも、国民の構成割合としてはシーア派信者のアラブ人が多いのだが、イラクの政権は、成立当初の王制のころからサッダーム・フセインに至るまでスンニー派が握っている。

 そのイランは1970年代末に「イスラム革命」を成功させた。アメリカ合衆国の圧力に抵抗しつつ、シーア派の教えにしたがったと称する国家建設が行われた。イスラム諸国のスンニー派のなかに、これに刺激される者が出てきた。スンニー派でも同じような革命が可能なはずだというわけである。

 そういう素地があったところに、冷戦後の自由市場経済の広がりでイスラム諸国の貧困の問題が目立つことになった。しかも、そのイスラム諸国は、アメリカ合衆国をはじめとする欧米主導の秩序が無視しているという感じかたが広がる。さらに、イスラム教徒の信仰の中心であるメッカ(マッカ)を支配するサウジアラビアに湾岸戦争に際してアメリカ軍が駐留したこともイスラム教徒の反感をかき立てた。

 そういう状況のもとでイスラム原理主義が影響を拡大し始めたのである。

 そのうえ、反イスラエルの立場で結束していた中東諸国も、1980年代に入ると、アメリカに支持されたイスラエルの存在をともかくも認めざるを得なくなった。

 1950年代から1970年代にかけて、反イスラエルの思想を支えてきたのはアラブ民族主義という考えかたである。このアラブ民族主義は、アラブ人は、いくつもの国に別れているけれども、本来は一体のものであり、しかも、そのアラブ人は欧米主導の国際秩序のなかで不当に低い地位に置かれていると考える。だから、アラブ諸国は結束して欧米主導の国際秩序と戦わなければならないというわけだ。イスラエルの存在は、このアラブ民族主義のもとにアラブ諸国の国民を結束させる役割を果たした。

 しかし、「アラブ民族は一体だ」という発想そのものが必ずしもほんとうではなかった。アラブ諸国のあいだで、アラブ民族のリーダーの地位争いが起こったり、自分の国の利益を確保するための争いが起こったりした。そんなことで、1980年代には、このアラブ民族主義は影響力を失ってしまった。

 ちなみに、サッダーム・フセイン支配下のイラクの政権政党バース党(アラブ復興社会党)は、このアラブ民族主義政党の生き残りである。

 このアラブ民族主義の魅力が薄れるとともに、イスラム原理主義勢力の活動が活発になった。

 イスラム原理主義勢力といってもテロばっかりやっているわけではない。そういう過激派もいるけれども、一方では、地道に慈善活動をやったりして支持を拡げている穏健派もいる。一つの組織が、過激な軍事部門と、地道で穏健な活動をする福祉部門とを持っていることもあるという。一方で、イスラム原理主義は、もちろんヨーロッパやアメリカやアジア・アフリカのリゾート地で欧米人を標的にテロ活動したりするけれども、自分の国でもテロを起こしたりする。自分の国でのテロをやったばあい、犠牲になるのはその国のイスラム教徒である。だから一面ではイスラム原理主義勢力はイスラム諸国の人びとにとっても迷惑な存在である。だから「イスラム原理主義はテロで支持を拡大した」と考えると、それは、イスラム原理主義運動に対しても、またイスラム教国の国民やイスラム教徒全般に対しても、非常に一面的な理解になってしまう。

 なお、私がここで「イスラム原理主義」という表現を使うことへの異論もあるだろう。「イスラム原理主義」とは、イスラム原理主義者が自分で使う表現ではない。「原理主義者」というのはもともとアメリカ合衆国のキリスト教徒の一派を指す表現である。このキリスト教原理主義者たちは、当然ながら、強烈な反イスラムの立場に立つ。それと同じ表現で呼ばれるのを「イスラム原理主義」者たちが嫌うのは当然だろう。「イスラム原理主義」者たちは、自分たちの運動を「イスラーム復興運動」と呼ぶのが適当だと考えているようだ。

 ただ、「イスラーム復興」と言ったばあい、それは「イスラム教の原初の教えに立ち返るべきだ」といういわゆる「原理主義」以外の立場も含んでしまうのではないかというのが私の疑問である。つまり、イスラム教(イスラーム)を復興するためには、イスラム教を今日に適合したかたちに変えていかなければならないという主張も「イスラーム復興」には含まれるだろう。それと、現在の世界はイスラム教の本来の教えからかけ離れているので、イスラム教の本来の教えを取り戻すのだという「原理主義」の立場は異なるように私は思う。だから、私は、ここでは、本人たちには不愉快かも知れないけれど「イスラム原理主義」という表現を使っておく。

 しかし、イスラム諸国でもイスラム原理主義運動は政権をとることにほとんど成功していない。シーア派のイランだけである。サウジアラビアは、現在の原理主義運動が盛んになるはるか以前からイスラム原理主義的な国家体制をとっているが、これも例外である。

 そういえば、現在ではもう忘れられかけているけれども、もう一つイスラム原理主義勢力が国家権力を握った国があった。アフガニスタンである。

 アフガニスタンは、1970年代後半に起こった革命後の混乱を収拾しきれず、けっきょくそのうちの一派を後援するかたちでソ連が軍事介入した。それに対してイスラム教勢力が抗戦を繰り広げ、ソ連を撤退に追いこんだ。ソ連がその社会主義体制を見直すきっかけの一つには、このアフガニスタンでの敗北があった。

 しかし、このイスラム教勢力が、ソ連撤退後に再び分派に分かれ、それぞれが軍を擁して抗争を繰り返したのである。もともと乾燥気味の高原の国で貧しい。その国土で、それぞれの勢力が軍隊を維持するために人や物の徴発を繰り返した。全体として既存のイスラム教勢力が国民から反感を買っているところに新興勢力として出てきたのが、極端に原理主義的な勢力のタリバン(「イスラム神学生党」とでもいうのだろうか)である。国民はその廉潔さに期待したのだろうか。けっきょく、このタリバンが政権を握ってしまった。

 けれども、タリバンがこのように政権を握ることができたのは、国に満足な中央政府が存在せず、各地の勢力が勢力争いに明け暮れているような状態があったからだ。ほかの国では原理主義勢力は政権をとることができなかった。

 政権をとることができないから、その一部が過激化してテロに走ったりするのだ。かつての左翼運動で何度も繰り返された動きがイスラム原理主義運動には見られる。

 1990年代の後半から、国連の国際協調体制からは、アメリカ合衆国が離脱する動きを見せ始めた。一方で、イスラム原理主義勢力は、国家を握ることができなかったため、国際協調体制の外側に置かれつづけた。「国際協調」の「国際」ということばは「国家と国家の関係」をまず意味しているから、国家を握ることができなければ国際協調体制のなかには入っていくことができない。せいぜい国際協調体制の側から一方的に配慮してもらえるかも知れないだけの立場である。最近はたしかに国家から自立したNGO(非政府組織)が「国際社会」の重要な構成員として認識され始めている。しかし、テロリスト団体はもちろん、イスラム原理主義運動の団体やイスラーム復興運動団体が国際社会で国家に並ぶような発言力を獲得しているという話はきかない。

 あるいは、アメリカ合衆国が、パレスチナ問題の解決に当たって、もっとパレスチナ側に有利な妥協を率先して進めていれば、イスラム原理主義過激派が影響力を強めることは阻止できたかも知れない。パレスチナ側にとっては、イスラエル国家の存在を認めたこと自体が大きな譲歩だった。しかも、イスラエルに国家を認めながら、自分たちは「暫定自治区」のままである。そのうえ、その「暫定自治区」のなかにもイスラエルのユダヤ人が「入植」と称して住み着いている。パレスチナの土地から見ればユダヤ人入植地は豊かに見える。けっきょくはパレスチナ政府というのは暫定自治区のなかで条件の悪いところだけを支配しているに過ぎない。その現状を受け入れるだけでパレスチナ人は十分に譲歩しているという意識が、パレスチナ人だけではなく、中東のイスラム教徒のあいだにはある。イスラエルがより大きく譲歩しなければ、そのパレスチナ人も、パレスチナ人を支持している中東のイスラム教徒も納得させることはできなかった。

 もちろんイスラエルにはイスラエルの立場がある。とくにソ連・東欧の体制崩壊と急速な自由主義経済の浸透が大きく影響している。ソ連・東欧に住んでいた貧しいユダヤ人たちがイスラエルに押し寄せたのだ。このユダヤ人たちに豊かな暮らしをさせるためにはパレスチナ人の土地にでも「入植」させないと土地が足りない。イスラエルは民主主義国家だ。先に書いたように民主主義国家は国民の欲望を最大限に満足させようとする本質がある。たとえパレスチナ人を犠牲にしてでもユダヤ人たちを満足させなければ、政府が持たない。

 イスラエルにも、パレスチナに譲歩してでも和平を達成すべきだと考えている人たちはかなり多くいた。現在でもいる。けれども、けっきょくイスラエルの軍事行動と、パレスチナ過激派のテロとの応酬で、和平派はイスラエルでは少数派になってしまった。

 で、アメリカ合衆国は、国内に大きなユダヤ人集団を抱えている。19世紀末から20世紀前半にかけて、ヨーロッパで迫害されたユダヤ人は、イスラエルにも向かったけれども、それより多くの人たちがアメリカ合衆国に向かった。二大政党制のアメリカ合衆国では、選挙になればこのユダヤ人集団の支持を得られるか得られないかが大きな意味を持つ。

 それだけではない。アメリカ合衆国は植民地から独立した国家だ。イスラエルもやはり外からやってきて住み着いたユダヤ人たちが作った国家である。国家の成り立ちが似ている。歴史的経緯もある。第二次世界大戦当時、イギリスがパレスチナに住み着いていたユダヤ人たちを投げ出しかけたのを、アメリカが強力に援助した経緯もある。それはナチス・ドイツのユダヤ人迫害と戦うアメリカの姿勢を具体化したものとしての意味を持った。つまり、パレスチナのユダヤ人を支持することは、反ファシズム・反独裁の象徴的意味を担っていたのだ。そのうえ、政治的にもイスラエルのほうがアメリカの理念にかなっている。パレスチナの体制はあまり民主主義的とは言えない。その中心人物であるアラファトは本来は権威主義的な政治家で、党派心も強いと言われているし、そのわりには自分の党派「ファタハ」を十分に統率できてもいないようだ。それに対して、イスラエルは成立当初から選挙を行って指導者を決めてきた自由で民主主義的な国家だ。

 そういういろいろな要因が組み合わさって、アメリカ合衆国はイスラエルにより好意的であった。少なくとも、周辺のイスラム国家からはそう解釈されてもしかたなかった。周辺イスラム国家はその現状を変えるだけの力を持たなかった。それがイスラム原理主義勢力に反アメリカ感情を募らせ、度重なる反アメリカのテロを引き起こさせることになった。

 しかし、この1990年代の国連中心の国際協調体制に、比較的 居心地の良さを感じていた国ぐにもあった。ヨーロッパ諸国である。ヨーロッパ諸国にも様々な立場があるから、どの国も同じようにというわけにはいかなかっただろうけれども、それでも、ヨーロッパ諸国はこの国連中心の国際協調体制に比較的よく順応していたと考えていいだろうと思う。

 まず、先に書いたように、国際協調体制そのものがヨーロッパ諸国間の協調体制を基本にして組み立てられている。ヨーロッパにはなじみやすい発想である。それに、ヨーロッパは、1990年代に、それぞれの国の政府が国民にかなりの無理を強いてまで通貨統合をなし遂げた実績もある。ドイツとフランスの主導権争いもあったが、それもなんとか政治的な妥協によって解決した。そして、何より、国際協調体制の下ではヨーロッパ諸国の発言の権利が、その時代の経済力や軍事力にかかわらず保障されている。第二次大戦後、米ソ対立のあいだにはさまれて相対的に発言力を弱めていたヨーロッパにとっては、国連の国際協調体制は居心地のいい体制である。

 ただし、ヨーロッパといっても一枚岩ではない。アングロサクソン系の国としてアメリカ合衆国に近い立場のイギリスは最初から「ヨーロッパ」的性格のやや薄い国だから除くとしよう。すると、ヨーロッパが一つにまとまるときには、ドイツかフランスが中心になる。1990年代にはドイツの影響力が強く、21世紀に入るとドイツが経済低迷などの問題を抱え始めたことから、フランスの影響力が強まった。が、どちらにしても、中世以来、ヨーロッパの中心勢力であったドイツかフランスがヨーロッパの中心になる。当然、周辺諸国は、ヨーロッパのなかでドイツやフランスの影響力が強くなるのを警戒する。ヨーロッパの伝統的な勢力均衡の考えかたから言ってもそうだ。アメリカ合衆国の世界規模での「一極主義」は好ましくないが、ヨーロッパ内部でのフランスやドイツによる「一極主義」が実現しても困る。そういう感覚をヨーロッパの中小諸国は持っているはずである。

 ここでまとめを入れよう。

 1990年代の国際協調体制は、「民主主義の国際協調」という難しい問題を最初から抱えていた。民主主義国は自国の国益を最大にしようとする本質を持っており、一方で、国際協調とは協調のために国益を抑制する必要があるから、原理的には諸国の民主主義的体制と国際協調とは矛盾する。1990年代にはその難しい条件下でなんとか諸国が国際協調体制を維持し発展させるためにそれぞれ舵取りを試みた。

 しかし、そのことが国際協調体制へのさまざまな不満を蓄積させていくことになった。

 アメリカ合衆国は国際協調体制を維持することを負担と感じ始め、国際協調体制を維持することはアメリカ合衆国の国益に反するという面を次第に重視し始める。1990年代の経済の好調さがかげり始めたとき、アメリカ合衆国は国際協調体制の維持よりも自分の国の国益を優先するという姿勢をはっきり示し始めた。京都議定書から離脱し、国際刑事裁判所の創設に反対し、独自のミサイル防衛構想の実現を強行しようとして、「一極主義」の傾向を強めはじめる。もちろん「一極主義」だからといって国際協調の立場を捨てたわけではない。けれども、次第に、国際協調への貢献を「一極主義」の下に組みこもうという姿勢を強く示すようになってきたのだ。

 いっぽう、ヨーロッパ諸国は、通貨統合を通じて国際協調を実現したという自負もあり、また、国際協調の下でより大きな発言力を保障されていることもあり、国際協調主義を支持した。しかしヨーロッパ諸国の利害が完全に一致しているわけではない。フランスやドイツなどのヨーロッパ大陸内の大国が「ヨーロッパ単一の声」として世界に向けて発言することには、ヨーロッパの中規模国にはなお抵抗が強い。

 アジア・アフリカなどの諸国は、全体としてこの国際協調体制のなかに組みこまれる方向を選択した。自由や民主主義や市場経済という価値観を全体としては受け入れた。中国でさえ、「政治的自由」はなかなか主張しないけど、「民主主義」を発展させるというような言いかたは使うし、何より自由市場経済を大々的に導入して世界市場でその大きな存在を誇示している。東南アジアのリーダーには、欧米諸国の自由や民主主義や市場主義の強要には異論を唱えている人もいるけれども、全面的に拒否しているわけではない。そういうのもをより自国に有利に運用できるようにするための発言力を留保しようとしているだけである。

 そのなかで、その国際協調体制の外に置かれつづけてきたのが、いわゆるイスラム原理主義勢力であった。

 そういう状態で世界は2001年9月11日を迎えたのである。


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