イラク戦争について思うこと

清瀬 六朗



13.

 論じ残したことはいろいろと思い当たる。そういうことについては、また機会を見つけてまとめていきたいと思っている。

 そういうなかで、思いつくことをいくつか最後に書いておきたい。

 まず、現在の「反戦」の論理についてである。

 現在の「反戦」の論理に広く共通しているのは、今回の戦争はイラクの「一般市民」に大きな被害を与えるから反対だという論理である。サッダーム・フセインやバース党が被害を受けるから反対だという論理にはあんまりお目にかからない。

 これはまずその通りだとは思う。

 しかし、この論理は、アメリカ合衆国・イギリス側によっても、サッダーム・フセインによっても宣伝に利用されている。アメリカ合衆国側は「だから一般市民には被害が及ばないように大統領関連施設に攻撃を集中しており、一般市民の安全は十分に配慮している」と宣伝する。それに対してイラクは一般市民に被害が出ていることを強調してアメリカ・イギリス側を非難する。

 別に宣伝に利用されても主張しなければならないことは主張しなければならないだろう。けれども、その論理が宣伝に利用される危険については、反戦運動の側でもっと注意しておいてもいいと思う。

 それと、この論理を突きつめると、一般市民に被害が出なければ戦争はいくらやってもいいということになってしまう。現にアメリカ合衆国はそういう方向で戦争を展開しようとはしているようだ。もっとも、これから地上戦が本格的に始まれば、現状ではやはり「一般」市民に犠牲者は出かねないし、ゲリラ戦的な戦闘が始まっているという報道もある。ゲリラ戦になるとだれが「一般市民」でだれが専門の軍人かという区別はつきにくくなり、「一般市民」をゲリラとして殺さなければならない局面にもなるかもしれない。

 だいいち、いくら爆弾が「一般」市民に当たらなくても、真夜中に爆弾が空から降ってくるのだ。真夜中に同じ街のなかでビルが燃え上がって崩壊するのだ。そのことが「一般市民」にどれだけの恐怖心を与えることか。そういうことをやって「一般市民に被害を与えていない」とはちょっと言いにくいのではないかとは思う。しかし、将来、ほんとうに「一般市民」に少しも被害を出さずに軍事施設だけ破壊するような戦争ができるようになったら、「一般市民が犠牲になるから戦争には反対」という論理がまだ通用するだろうか?

 原理的なところから考えても、この論理でほんとうに「反戦」の論理としていいのだろうかと思う。「反戦」というからには、「一般市民に被害が出るから悪い」というのではなく、「一般市民に被害が出ても出なくても、戦争は悪いのだ」という論理を立てる必要があると思う(ここで論じた点は、先日の六本木での「PAX JAPONICA Project」での岡部いさくさんの発言に教えられた)

 もっとも、今回のばあい、とくに日本や欧米ではサッダーム・フセインにまったくと言っていいほど人望がないため、戦争に反対するには「一般市民」を担ぐしか方法がないという特殊事情は考慮しなければならないだろうけれども。

 つぎに、前回のアフガニスタンでのタリバン戦争から今回の戦争までを見ていて、私は、「戦争とは兵器を実地で実験する場である」ということを印象づけられた。

 前回のアフガニスタンでは、核兵器以外では最大の破壊力を誇るという「燃料気化爆弾」とか、何と呼ぶのか知らないけど地下深くまで貫徹して地下施設を破壊してしまう爆弾とかが使われた。今回は、範囲を限定して、しかもその範囲のものを決定的に破壊してしまうような爆弾や弾頭を使っているらしい。

 兵器というのは、いくら実験してみても、実際に使ってみないとその効果は十分にはわからない。実戦では実験のように準備を整えてから兵器を使えるとは限らず、悪条件のもとで使わなければならないこともある。また、実験では、その実験によって予想外の被害が出るのを防ぐためのコントロールが必要であり、それが兵器の性能を見る際の制約になっている可能性がある。だいいち、兵器は戦場で使って効果を発揮するために作られているのだから、実験場で効果が出てもそれをそのままその兵器の効果と見なすことはできない。

 戦争で実際に使うことによって戦訓を得、その戦訓によって兵器を改良していく。戦争とは、その戦訓を得るための貴重な場なのである。

 それは、日露戦争の日本海海戦と第一次大戦のジュットランド海戦が大艦巨砲の実験場であり、真珠湾奇襲とそれに続くマレー沖海戦(日本帝国海軍の航空攻撃によりイギリスの二戦艦を撃沈した。真珠湾が動いていない戦艦に対する一方的な航空攻撃だったのに対して、こちらは洋上を走行中の戦艦に対する攻撃だった点が異なる)は航空機が艦船に対してどの程度の破壊力を持てるかの実験場だった。東京大空襲の「戦果」は都市への戦略爆撃の有効性を確認するための参考に供されただろう。広島と長崎への原爆投下は核兵器がどれだけ実際に都市を破壊できるかを実戦で確認した唯一の例である。

 それと同じ過程をいまアメリカはアフガニスタンとイラクで行っている。

 アメリカは情報通信技術を軍事技術と融合させて戦争を優位に展開する「RMA(軍事遂行上の革命)」という戦争のやり方を開発中だ。アフガニスタンの戦争と、今回のイラクでの戦争で、アメリカはこのRMAの有効性を検証し、今後の開発の方向性を探るためのデータを懸命に収集しているに違いない。

 これはいやなことではある。東京大空襲でも原爆投下でも多くの人の生命が奪われ、多くの人の人生が狂わされ、多くの人の安穏な生活が破壊されたのだ。しかし、戦争というものがそういうふうに進化していくことは、それはそれとして、いまきちんと見ておく必要があるんじゃないかと思う。それを見ないでただ「戦争反対」と叫ぶだけでは、戦争の現実に取り残されていくだけではないか。戦争は変化を遂げている。その変化についていかないことには、私たちは「戦争が起こること」に対抗できない。「戦争を起こそうとする人たち」にも対抗できないかも知れない。

 最後に、日本政府の対応についてである。

 私はこのイラク戦争自体を支持していないから、日本政府が戦争への支持を表明したことには賛成ではない。しかも、先にも書いたとおり、日本は軍事力の行使や軍事力による威嚇を国際紛争の解決手段としては認めないと書いた憲法を持っているのだから、その立場と、アメリカが軍事力で紛争を解決しようとするのを支持するのとは矛盾するのではないかとも思う(ほかの国がやるのならいいのだろうか?)

 日本政府はたしかに軍事力行使には新たな国連決議が望ましいという立場を表明していた。その望ましい方策が実現しなかったので、やむなくアメリカ・イギリスによる軍事力行使を支持するという論理のように思う。だが、日本政府はアメリカやイギリスに新たな国連決議を取りつけるようにどれだけ熱心に働きかけただろうか。アメリカ・イギリスが国連決議なしに戦争を始める移行を示したときにいちはやく熱心に支持を表明したのと同じような熱心さで、新たな国連決議を得るように働きかけたのだろうか? イラクの駐日臨時代理大使を呼びつけてフセインに亡命しろと説得したのと同じぐらい積極的にアメリカやイギリスの外交官に「新たな国連決議を得るように」と説得を行っただろうか? 日本政府がアメリカやイギリスを説得する熱意というものは私の印象にはまったく残っていない。これは私の認識がおかしいのだろうか?

 私は、国際政治上、理想主義が十分に力を持っているとは思わないから、外交上の現実的な判断というのは、消極的ではあってもいちおう認めたいと思っている。だから、最終的には、日米軍事同盟の下で安全保障を図っている日本としては、アメリカの軍事力行使を支持せざるを得なくなったとしても、しかたがないと思う。だが、日本は、いまほどの経済力もなかった時代に、アメリカの政策とは一線を画した対アラブ外交を展開した経験もある。もちろんこれには石油の問題が大きかった。そのため「アラブ寄りというよりアブラ寄り」などと揶揄されたりもしたのだ。けれども、ともかく、戦後日本は、大枠ではアメリカ合衆国の外交政策や世界戦略に従いながらも、ある程度の独自の外交を展開した経験はある。その時代よりも「大国」になってからかえって外交政策の自由度を狭めなければならないとすれば、それはどういう理由によるのだろうか。現在は北朝鮮の脅威があると言うかも知れないが、そう言うならばそのころには北朝鮮よりも大きなソ連の脅威があったのだ。

 外交政策の立案力や、国際情勢を分析する能力や、外交に必要な「勘」のようなものまで含めて、全体的な「外交力」が、いまの日本では昭和30〜40年代より低下しているのでなければいいと思うのだけれど。


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―― おわり ――




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