イラク戦争について思うこと

清瀬 六朗



4.

 ニューヨークの民間の巨大ビルを旅客機の自爆攻撃で攻撃するのと、艦載機や長距離大型爆撃機や巡航ミサイルでバグダードの大統領関連施設を攻撃するのとはどこに違いがあるのか。

 ニューヨークでは、旅客機を使ったこと、目標が完全に民間のビルだったということ、事前の警告もないとつぜんの攻撃だったことなどに違いがあるのは先に書いたとおりだ。そこにテロリストの非人道性がある。ところで、では、九月一一日のテロリストが、何らかの警告を発した後に、巡航ミサイルか軍用航空機かを使用し、目標から世界貿易センターをはずして国防総省とホワイトハウスだけを狙って攻撃していたとしよう。その場合にも、アメリカ合衆国のイラク戦争は正当で、テロリストは不当だと言い得るのだろうか。

 この想定は残念ながら最初から成り立たない。

 あり得ないからだ。

 アメリカ合衆国が、その首都の、それも政治と軍事の中枢を攻撃すると事前に警告されて、なお防衛しきれないということはまずあり得ない。迎撃ミサイルを準備するなり、早期警戒管制機と戦闘機を飛ばしておくなりの対応を取れば、テロリストのミサイルや飛行機ぐらい阻止するのはそんなに難しいことではない。衛星だって使える。

 テロリストが大量のミサイルを使用し大量の航空機を動員できれば、多少は警戒網をすり抜けて目標に命中するミサイルや爆弾が出てきてもおかしくはないだろう。けれども、たとえどこかの国の大富豪に支援されていても、テロリストにそれだけの資金力はない。また、それだけの資金力があって、アメリカの防衛網を突破できるだけの準備をしていたら、準備段階でどこかで露顕するだろう。

 九月一一日のテロリストには、だれも想定していなかったあの方法以外に成功する方法はなかったのだ。そして九月一一日のテロリストはその方法を実行した。

 このことをともかく逆にしてみよう。アメリカ合衆国は、アメリカ合衆国に敵意を抱いているテロリスト組織が非人道的な方法で奇襲するしか達成する方法のなかったことを、通常の軍事行動で、とくに非人道的とされるわけでもない方法で達成できるだけの力を持っているということだ(もちろん戦争すべてが非人道的なのだという立場に立てば別だが、それでは議論が進まないので、ここではその立場には立たないことにする)。アメリカ合衆国とテロリスト組織にはそれだけの力の差がある。

 こうやって「逆にする」ことにもまた怒る人がいそうだ。

 アメリカ合衆国が国家として行う戦争は、ともかくも国際社会の納得を得る努力はいちおうしているし、何よりアメリカ合衆国は「正義」がなければ戦争を仕掛けない。それに対して、テロリストは、何の予告もなく、国際社会に説明もせず、不義の攻撃を行った。その差は歴然としている。そういう議論が出てくるかも知れない。

 しかし、ここの議論では、「正義」か「不義」かという議論はとりあえず先送りしている。また、繰り返すと、テロリストは、予告していると攻撃を成功させることができないのに対して、アメリカ合衆国は予告しても堂々と攻撃を成功させられる。そこの条件の違いを言っているのである。

 「国際社会への説明」という点については、九月一一日のテロリストの目的は実際に何だったかは本人たちが何も言っていないのでなんとも判断できない。もし、テロリストの目的がたとえば「イスラム諸国の貧困の原因はアメリカを中心にする現代資本主義体制にある」ということなのだったら、この連中は、「イスラム諸国の貧困は現実にあり、見ようと思えばいつでも見られるはずで、いちいち説明したり説得したりしなくても、国際社会はその問題性に当然に気づいているはずである。気づいていないとしたらそれはそのほうが悪い」という理屈を立てるだろう。あるいは、「それに気づかせるためにこのテロに及んだのだ。それでも気づかないならばテロを繰り返して注意を促し続けるだけだ」という手前勝手な理屈を並べるかも知れない。その点では、テロは、世界に対する認識のルールそのものを暴力的に転換させるという性格を強く持っている。「資本主義の発展」なんかよりも「「第三世界」諸国の貧困」を大きく認識せよというわけだ。けれども、戦争だって、世界に対する認識のルールを変える可能性をいつも持っている。絶対的な違いがあるわけではない。

 テロリストもテロリズムも擁護する気はまったくない。ここで言いたいのは、アメリカ合衆国には、正当な手続きを経て、自分の「正義」をはっきりさせてから戦争を仕掛けるだけの余裕があり、テロリストにはその余裕がないという条件の違いである。ともかく、現実にアメリカにはそれだけの余裕があるのだ。

 それが超大国の優位性である。

 あるいは、アメリカ合衆国の「アメリカらしさ」を高く評価している人は、こういう言われかたをすること自体が不愉快かも知れない。アメリカ合衆国の優位性はそんなところにあるのではなくて、自由の国であり、民主主義の国であり、しかもそれをきちんとした制度としてもっていることにあるのだと言うかも知れない。しかし、それを認めるとしても、アメリカ合衆国が超大国としての軍事上の優位性をもっているという事実は変わらない。いやでもアメリカ合衆国は超大国なのであり、そのことはどんな立場からでもまず認めなければならないだろう。

 超大国であることは不当なことなんだろうか?

 「超大国であること」について「不当」かどうかを問うのは難しい。また、かりに不当だと認めても、「アメリカ合衆国は大きすぎるから二つか三つに分割せよ」といってもほとんど実効性はなさそうだ。だから、ここでは、超大国であることは「公平」なのかということを少し考えてみたい。どこの国でも、努力さえすれば超大国になれるのだろうか、という問題である。

 自由競争主義の好きなアメリカ人や、自由競争主義の好きなアメリカ人の好きな日本人ならば、どこの国でも努力しさえすれば超大国になれると答えそうである。

 たしかに、多くの人と資源を動員することは、強制だけでは無理である。人と資源の動員を強制するために、やはり人と資源を必要とするからだ。多くの人が、多くの資源を持って、その国の下に自発的に集まってくるような構造がどこかに必要なのだ。その国が多くの人と資源を引きつけうる魅力のようなものと言ってもいい。よりそれらしいことばに直せば、それは「徳」ということばで表現されるだろう。「徳」のある国は多くの人と資源を引きつけうる。動員することができる。だから、どの国でも「徳」を積めば大国にでも超大国にでもなることができる。

 けれども、この「徳」は、私たちの考える「道徳」とは少し違うことにも注意しなければならない。

 私たちは、「徳」とは心情的なもので、冷たく非情な「法」とも違うし、まして「力」とは決定的に違うものだと考えている。けれども、中国の「徳」も、ヨーロッパのvirtueも、もともとは「力」の契機を含むものだった。中国の「徳」は霊力による威圧を意味することばだったらしいし、virtueはラテン語では「男らしさ」というような意味で(だからvirtual realityは「男らしい現実」ってこと?)、やはり「力強さ」という感じを持っていたらしい。

 大国や超大国になるために「徳」が必要だというならば、その「徳」は「力の感覚をともなった徳」であると考えたほうが適切だろうと思う。

 どこの大国でも、その大国が人や資源を引きつける魅力は「力」によって生まれる。それは経済力のこともあるが、たいていの場合は武力や軍事力である。軍事力で人や資源を引きつける。たいていの場合は、人や資源を動員できる集団を、軍事力で自分の支配下に収めることで、国は大国へ成長する。

 いつも軍事力を実際に行使する必要はない。むしろ、軍事力を実際に使わずに、威嚇として使うことのほうが多かっただろう。軍事力というのは、実際に使って、もし運用に失敗すると、逆に弱さを自ら暴露してしまうことになりかねない。

 第二次世界大戦までの海軍力や、第二次世界大戦後の核兵器は、それを行使したときに実際に相手に与える損害よりも、それを保持しているという事実自体で、国際政治のなかで意味を持った。それも決定的な意味を持った。海軍力は第二次世界大戦前の大国の実力をはかる基準だった。しかし、強大な海軍力による艦隊決戦は日露戦争のときの日本海海戦と第一次大戦のときのジュットランド海戦ぐらいしかない(「ジュットランド」は「ユトランド」の英語読みで、現地語主義で言うならば「ユトランド半島沖海戦」とでも呼ぶべきかも知れないが、「ジュットランド海戦」というのはあくまでイギリス側の呼びかたなので、英語で通しておく)。核兵器だって、実際の戦争のなかでは、第二次世界大戦の末期の広島・長崎でしか使用されていない(だから、日本のこの二都市は世界初の核戦争の戦場となったわけだ)。それだけの実績で、第二次大戦前の海軍力、第二次大戦後の核戦力は、国際関係を変える大きな力を発揮したのである。

 軍事力をある程度まで実際に使い、その威嚇によって人や資源を自分の支配下に吸収する。その繰り返しに成功しつづけた国が大国や超大国に成長することができる。

 経済学の投資理論に「レバレッジ」という概念がある。投資したおカネが何倍になって返ってくるかという率を表した数値である。軍事力の実際の行使で、その何倍の威嚇効果を挙げられるかを同じような倍数で表現してみたら興味深い結果が出るかも知れない。

 経済のほうではレバレッジが10倍(1万円を投資したら10万円が儲かるというぐらい)も出ればかなりたいしたものである(逆に言うとそんな高いレバレッジの投資にはかなりのリスクがある)。しかし、軍事力のレバレッジの標準はそれよりも二ケタ以上も上かも知れないと思う。1の軍事力を実際に行使するだけで、100も1000もの軍事力を行使したときと同じ結果が得られるかも知れない。しかも、投資のばあいにはいくらレバレッジが高くても自分で投資しないと儲けは出ないけれども、軍事力のばあいはそうではない。他の国の戦果がただで利用できるのだ。アメリカの核戦争(広島・長崎への原爆投下)の戦果は、ソ連にも、インドやパキスタンにも、北朝鮮にも、威嚇として利用することが可能だ。

 だから、大国は、いったん大国になってしまうと、中小国に対してかなりの優位を獲得できる。

 中小国は、もとになる軍事力が小さいので、軍事力による威嚇の効果にはかぎりがある。地理的要因も利用すれば、その周辺地域での中心国家になるぐらいの影響力は持てるかも知れないが、大国や遠隔地の中小国には影響を及ぼせない。

 しかし、大国は、その大国の軍事力が自分の国一国に向けられたらと想像させることで、自分の国よりも小さい国には絶大な威嚇効果を持つ。19世紀半ばまでは鉄砲・大砲と帆船の艦隊、第二次大戦までは巨砲を搭載した鋼鉄製の軍艦の艦隊、第二次大戦後はミサイルと核弾頭など、遠くにまで自分の国の軍事力を及ぼすことのできる手段を持っていれば、大国は遠隔地の中小国に対しても十分に軍事力の威嚇効果を及ぼすことができる。

 だから、かりに、どこの国も同じような規模の軍事力を持ち、経済力を含むその他の国力もだいたい同じという条件であれば、どこの国にも超大国になるチャンスはあると言えるだろう。けれども、いったん大国になってしまった国が出れば、ほかの中小国が大国になるのは非常に難しくなってしまう。ましてや、ある一つの国が超大国になったばあい、その超大国に不満だからといって、他の国がせっせと努力してその超大国と同じぐらいの勢力になるのは不可能に近い。

 もちろん、18世紀に確立した大英帝国が20世紀に解体したように、百年や二百年の単位で見ればそのような超大国の地位の交替は十分に可能だ。しかし、たいていの人間の一生はそんなに長くは続かないし、戦争も平和もそのとき生きている人間に直接にかかわってくることなのだから、そういう人間の一生を超えた時間についての議論だけで戦争の問題を論じてしまうことはできない。

 だから、現在の世界の戦争について論じるときには、やはりアメリカ合衆国が超大国であるという要素を無視して語るのは公平ではない。


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