イラク戦争について思うこと

清瀬 六朗



6.

 ところが、その「現実」は、「国際社会は対等の国民国家によって成り立っている」という理念とは決定的に矛盾している。その理念を体現する役割を背負ったのが国連(国際連合)である。

 国連はそれでも一応は大国による世界支配という現実をある程度は反映している。第二次大戦前の国際連盟が失敗したのを、あまりに理念に走りすぎて国際関係の現実を無視しすぎたためと解釈したからだ。だから、安全保障理事会(安保理)の常任理事国は、第二次世界大戦末期の連合国の主要五大国と定められ、これらの国には拒否権が与えられている。それによって国連は国際社会のなかの力関係を反映して編成されたわけだ。

 ただし、当時の現実の力関係が持ちこまれたわけではない。安全保障理事会の常任理事国は、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソ連(現在はロシア)、中国である。当時、フランスはドイツの占領と対独協力のヴィシー政権の支配が長期におよんでいて疲弊していたし、中国も日本の侵略への抵抗戦争のなかで国民党と共産党の主導権争いが収まらずにがたがたの状態だった。ソ連も、大戦末期には巻き返していたとはいえ、ドイツにモスクワまで迫られて大損害を出していた。イギリスも植民地帝国を維持するだけの力を失いつつあった。第二次大戦ですでに文句なく「勝者」の立場にあったのはアメリカ合衆国だけであり、その意味では「アメリカ一人勝ち」はそのときから始まっていたのだ。だが、当時のアメリカ合衆国は、まだ世界を一国だけで主導するだけの信任を連合国側の大国のなかでも得ていなかった。

 安保理常任理事国は、当時の連合国を指導していた大国が、「戦後世界で大国としての主導権を担うべき国」として指定した国なのである。国際連盟よりは現実の力関係を反映しているとはいえ、そこには国際連盟とは別の理念が入りこんでいる。そこには、第一次大戦前後の世界秩序観が色濃く反映している。つまり、世界秩序の中心はヨーロッパの大国であるという第一次大戦前の世界秩序観に、第一次大戦後に世界に影響力を持つようになったアメリカ合衆国を加え、ロシアをソ連に差し替えたものだ。もちろん敵側であるドイツ、オーストリア、イタリアは除いてある。その「敵方を除いたヨーロッパの大国とアメリカ・ソ連」に、日本といちばん長く戦った中国(中華民国)が加えられているだけだ。その五大国が協調して世界の秩序と平和を守る。それが国連安保理常任理事国制度を支えている世界秩序構想なのである。

 ともかく、安保理常任理事国の制度は、第二次世界大戦の末期の連合国側の「戦後世界秩序」によって作られた。そしてその構成をいまも持ちつづけている。第二次大戦末期の連合国の戦後構想がいまも生き続けている組織なのだ。

 ところで、日本国憲法も同じ第二次大戦末期の連合国側の戦後世界秩序構想に沿う内容で構成されており、いまもそれが生き続けている。その点で、国連安保理事会の常任理事国制度と日本国憲法には共通する性格があるのだ。憲法の前文には、日本は国際社会で名誉ある地位を占めたいということが書いてある。この「国際社会」とは、具体的には、安保理常任理事国制度に反映されているような理想を体現した国際社会なのである。

 だから、その国際社会像が冷戦というかたちで崩れたとき、安保理常任理事国制度は十分に世界秩序を管理する役割を果たせなくなった。安保理常任理事国制度に組みこまれていた「五大主要国が一致しないときには安保理は動かない」という消極面ばかりが目立つことになった。それに対応して定められていた日本の非武装方針も維持できなくなった。日本は日米安保体制のなかに組みこまれ、自衛隊を持つことになった。それは、日本が世界でもトップを争う経済力を身につけた段階で「日米軍事同盟」として再解釈されることになる。

 国連安保理常任理事国制度が力を持ちはじめるのはソ連崩壊の前夜からである。ソ連とアメリカが一致できるようになったからだ。依然としてソ連型社会主義体制に固執し、1989年の天安門事件で民主化運動を弾圧したために他の国と距離があった中国はいちおう別にして、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連のあいだに体制の違いはなくなった。その中国も、「改革開放」政策を推進するためには自由主義・資本主義の諸国とあまり深刻に対立するわけにいかなかった。今回の戦争のコメント役としてあちこちの放送局の番組に出演している放送大学の高橋和夫教授によれば、ここから国連安保理は「幸福な時代」を過ごすことになる。

 冷戦が終結してソ連が崩壊する時期は世界の「民主化」の時代だった。ソ連型社会主義で一党独裁体制をとっていた「東ヨーロッパ」諸国が西側と同じ民主主義体制に次々に変わっていった。その動きを率先して進めたのはほかならぬソ連だった。独裁政党の組織と秘密警察に守られていたはずの独裁体制も、国民の支持を失えば何ともかんたんに倒れるのだ。そのことが印象づけられた。

 ただし、強大な軍事力を持つソ連が率先して変化していなければ、こんな変化はあり得なかった。冷戦下では、ハンガリーやチェコスロバキアが同じように西側の体制を採り入れようとして、ソ連を中心とする軍事介入でその変革をつぶされている。このときは、ソ連が率先して変化したために、かえって従来のソ連型体制にとどまることのほうが危険だった。そういう軍事的背景はあったはずだ。だが、映像で伝えられるかぎり、その動きは、民衆の圧倒的な力が独裁体制を打ち倒して民主主義を勝ち取ったように見えた。

 もちろん、いかにソ連が先に変化しており、しかもそのソ連が圧倒的な軍事力を持っていても、体制変革を求める大衆運動がなければ東ヨーロッパの体制変革はあのようなかたちでは進まなかっただろう。だから、この東欧の民主化革命での大衆運動の力は重要である。ただ、この東欧民主化革命を「国民が立ち上がればどんなに強固な独裁体制でも倒れる」とだけ解釈するのでは、その現実の一側面を見落としてしまうということにはやっぱり注意を払うべきだと思う。

 民主化はソ連と東欧だけで起こったのではない。フィリピンのマルコス独裁体制も倒れた。韓国の軍事体制も、台湾の国民党一党支配も変革を遂げ、急速に民主化していった。独裁体制は倒れ、政治的自由主義に基づく議会制民主主義体制に変化していく。それが当時は世界の潮流だと考えられていた。

 サッダーム・フセインがクウェートに突如として侵入し、一方的・暴力的に「併合」を宣言したのは、ちょうどこの時期だった。その10年ほど前、同じサッダーム・フセインがイランに侵入してイラン‐イラク戦争を起こしたときには十分に対応することができなかった国連は、サッダーム・フセイン政権に対する武力行使を正当化する決定を下すことができた。それをもとに、アメリカ合衆国を中心に「多国籍」の連合軍が結成され、この連合軍によってクウェートは解放され、イラクは大きな打撃を受けた。冷戦時代の遺物である独裁政権が何か問題を起こせば、国連がその独裁政権に対して軍事力行使を含む制裁措置を決定し、軍事力を行使するばあいにはアメリカ合衆国が中心になって反独裁政権連合軍を組織する。民主化の潮流のなかで、そういう国際協調関係ができあがってきたように見えた。

 また、カンボジアでは、冷戦のなかで崩壊していった国家を国連が中心になって再建することが試みられ、いちおう成功したと評価された。日本の警察官が殺される事件など混乱はあったが、カンボジアは議会制の政府を持つ民主的な王国として再出発することができた。

 第二次大戦の終結時に連合国の主要国が構想したはずの「民主的な国際協調体制」が、冷戦による長い中断を経て実現したように思われた。そんな理想主義的な雰囲気が1990年代前半の世界を覆っていた。


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