第7回

『秋津温泉』

 吉田喜重監督作品『秋津温泉』が描く内容は、1945年から1962年の17年間に渡る、新子と呼ばれる女性と周作と言う男性の魂の変遷である。かって時代と向き合っていた両者が、衰弱する時代とともに、時代を環境を隠避するようになる。1945年、その時死は男性にとって最も近く、生は女性のほうへと傾いていた。17年後、その両者は入れ替わり、女性は死者に男性はダラダラと生きてゆく。それは男性が復興とともにあった戦後の東京に生き、女性が秋津という昭和の進行によって失われゆく、かって豊かであった地で生き続けたからである。新子17歳、周作24歳(?)。新子は、敗戦という、価値観の崩壊によって生きることのほうへと解き放たれた少女であり、周作は戦争によって押しつぶされた病める自殺願望者である。

 しかし、新子はその17年後周作にとって代わって自死を遂げる。その自死へと向ういくつかの契機に、かって新子であった少女たちのさんざめきがかぶる。城山の公園の桜の木の下の2人、その金網の向こう側でバレーボールに興じる少女たち。新子が津山の駅の階段を下る、それと入れ替りに階段を登る少女たち。 新子は決してそれらのかつて新子であった少女たちに気がついてはいない。 しかし映画を見る私たちは、時代を隔てた鏡のように、その少女たちにかっての新子を見る。生へと向う役割は、はや他の少女たちにとって代わられてしまったのだ。その絵で観客は、新子の死へと向う流れを納得する。一方周作には結婚・出産・転勤・浮気・出世と、生に執着せざるを得ない出来事が次から次へと生起する。 新子は1945年に開放されたにもかかわらず、秋津荘、肉親、恋人とあらかじめ豊かであった者のごとく、奪われてゆくだけの戦後であり、周作は係累なく土地もなく、獲得するだけの戦後であった事が、2人の命運を分けた理由である。

 さて吉田喜重の戦後は、新子、周作のいずれであろうか。振り捨てた新子か、獲得した周作か。

 『秋津温泉』は明らかに神の手によって撮られている。 それは愛の力と呼び変えることも可能である。(写真はその吉田喜重と岡田茉莉子が30年ぶりに共演?した『鏡の女たち』である。)


●市井義久の近況● その7 7月

 吉田喜重監督作品『鏡の女たち』に出演していた室田日出男が6月15日午後10時5分、肺がんのため死去した。64歳であった。3月号で「郷田恭平(室田日出男)のすでに死者であるかのような面構え」と書いてから4ヶ月後の出来事である。6月19日、告別式の遺影を見ながら、この歯車が狂ってしまったような、居心地の悪さは、どこから来るのだろうかと考えていた。『仁義なき戦い』シリーズはリアルタイムで見た。私は大学生であった。追悼でほとんど触れられることはなかったが、『人妻集団暴行致死事件』もリアルタイムで見た。スーパーマーケットの店員であった。そして松本俊夫『ドグラ・マグラ』は配給宣伝を担当した。映画の仕事を始めて何年目であったであろうか。そして『鏡の女たち』である。告別式で葬儀委員長の深作欣二と吉田喜重が故人を偲んで話し込んでいた。不思議な光景である。64歳、やはり死者の年令では無い。酒とタバコに浸っていたと多くのメディアは伝えていたが、タバコはともかく、私とて酒を飲まない日は無い。量は比較のしようは無いが、中年の多くは酒に浸るしか無い。だからといってすべてが死者となる訳でも無いであろうに。

 出演本数は700本とも1000本とも書かれていたが、室田日出男は、見た映画見た映画の多くに出演していた、向う側、スクリーンの側の人である。それが、死者となり、いくら『鏡の女たち』の現場を共有したからといって、こちら側、私の側に降りて来てしまったような気がする。本来向う側の人である室田日出男と私が、互いに生者としてではなく、死者と生者と立場が別れて同じ場を共有している。それが居心地の悪さである。

 室田さん、私とあなたは10歳くらいしか、ちがわないのですよ。それが大学生の時から、すでにスクリーンの側、向う側の人であり、もう、すでに死者ですか。老いさらばえても、向う側の人で、あり続けてほしかったと思います。


市井義久(映画宣伝プロデューサー)

1950年新潟県に生まれる。 1973年成蹊大学卒業、同年株式会社西友入社。 8年間店舗にて販売員として勤務。1981年株式会社シネセゾン出向。 『火まつり』製作宣伝。
キネカ大森番組担当「人魚伝説よ もう一度」「カムバックスーン泰」 などの企画実現。買付担当として『狂気の愛』『溝の中の月』など買付け。 宣伝担当として『バタアシ金魚』『ドグラ・マグラ』。
1989年西友映画事業部へ『橋のない川』製作事務。 『乳房』『クレープ』製作宣伝。「さっぽろ映像セミナー」企画運営。 真辺克彦と出会う。1995年西友退社。1996年「映画芸術」副編集長。 1997年株式会社メディアボックス宣伝担当『愛する』『ガラスの脳』他。

2000年有限会社ライスタウンカンパニー設立。同社代表。

2001年
3月24日『火垂』
6月16日『天国からきた男たち』
7月7日『姉のいた夏、いない夏』
11月3日『赤い橋の下のぬるい水』


ヨコハマ映画祭審査員。日本映画プロフェッショナル大賞審査員。

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