羊通信 2004.9.2〜.12.31

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ドーナツTYO & SKYDOMO羊通信ネタちょー(ネタ募集中)
★ 戦闘美少女だよん/★ 不過視界の精神分析/★ 2ちゃんねる宣言だよん

■自己チューというよりセカチュー?・・・   2004/12/31


●自己チューというよりセカチュー?

 自己チューといったら自己チューですが、なんかセカチューという言葉こそ現状を現してます。つまり
動物的世界観ですね。動物化した世界観。

 「動物化」というタームは別に難しいモンでもなんでもなく、『資本論』に出てくる概念であり、状況
です。これを知らないというのは単に当該資料を読んでいないとゆーこと。読んでなくてもいいでしょー
が、読んでないからワカラナイとゆーのは単に想像力が足りないだけ。それだけでのコトでしかありませ
んからネエ。

 コジェーヴの観たアメリカはマルクスが見たアメリカでもあり、アドルノが見たアメリカでもあります。
商品として再生産される、商品である音楽の典型例としてジャズが嫌いだったよーな?なアドルノの音楽
への孝察や資本主義社会へのビョーキっぽい否定性は無視して、マルクスやコジェーヴはよくアメリカを
見ています。そこで気がついたのがテッテーした消費。そして、消費のみの人間主体、ですね。それが動
物概念です。

 ぬあんと『ハイ・イメージ論』だけがこの「動物」概念についての考察をしていて、それも資本主義の
基礎として位置づけた論考は見事。そこには構造主義やオートマトンをはじめ数々の思想の流行と闘争し
たオーソドキシーなマルキストA・ルフェーブルにも通じる原理的な孝察が見られます。

 極論すると、人間に生産主体と消費主体の2側面を設定し、後者を「動物」として考えたものです。こ
の動物的存在に対して『ハイ・イメージ論』の論考では分析においては中立、ある状況においては社会へ
の強力な影響力を持ちうる主体として認識しています。A・ルフェーブルでは一歩進んでいて、その著書
『都市革命』では消費主体の受動性にこそ革命の契機を見出すという論考がされています。このへんフラ
ンス人らしいとゆーか....

   ボーブルを破壊するには、ボーブルへ行け

....てな決め文句が得意なボードリヤールみたいなトコがあります。ディズニーランドへ押しかけて、
ディズニーランドを潰せえ、みたいな、モン?


動物概念はもっと認識論的に考察すると面白いもの。『心的現象論序説』でいうと<近隔化>とい
うタームになります。吉本理論全体でも2箇所しか出てこない概念ですが、あの<遠隔対称化>の反対概念
であり重要。人間のマテリアルな重要な側面である身体性や感覚、知覚への孝察なしに哲学や思想を検討
ても普遍的な意味はないし、それはただの文芸でしかないでしょう。


ああ、大晦日にガラーンとした空席率90%のシャノアールで、デガラシコーシー飲んで、こんなメモ作っ
てる時間てダーイ好きなんだよねえ。



■サヨウヨうようよのゲーイン・・・   2004/12/29


●サヨウヨうようよのゲーイン

 無制限転向なボクには関係ないんですが....。(W

 よく切れる包丁は板前さんにとってもアブナイ人にとっても都合がいいように、包丁というマテリアル
なツールへの評価は使用者がどんな人かに関係なく成立するでしょー。そーゆーワケで、よく切れる包丁
としてのマルクスなんかは、使えるギアですね。

 まあ、人間が依拠するものとしての属性としては、マルクスは世界視線(的)。つまり観念的。だから
観念性とそれを成立せしめる論理性としては、想像力によるところが大きく、それゆえに世界視線的なワ
ケです。つまり考え行使する使用主体の能力次第でツールの効力や威力が左右されるワケです。方法の
問題≠ナもあるワケでっす。


 そんなワケで、世界視線的な属性に左右されてるのは、一般的には左翼の特徴右翼が左右されてるの
は身体性であって観念性じゃないから。

 右翼やウヨが共同性を重んじるのは、自らが自己言及によって自らの身体性をコントロールする能力が
足りない証拠....とゆーか自らの身体性を自由にコントロールできないコトの無意識の自覚こそが身体性
へ依拠させる理由にもなってます....というトートロジーといよりは反復こそが、その根拠。だから根拠
=反復を截断するもの、解体するものへの不安こそがウヨの根拠ですね。怯え、です。原初的な、ね。

 すると、怯えとか不安がベースあることが分かりまうす。
 しかも、原初的な不安には基本的な属性、志向性は2パターンしかありません。それがエスからの離脱
か、回帰か....の2つのベクトルです。


 こういった問題に言及してるのが『心的現象論序説』。厳密?には言及というより、それこそがその論
考の出発点であり、吉本さんの思想のスタート点かもしれません。
 一般に吉本理論を読解しようとするときにマルクスだのフロイトだのアルチュセールだの....フーコー
もか....だのからの影響や引用を検討したり比較したりする人?が多いみたいですが、たぶんそれは先入
観にはなってもオリジナルな読解にはならないもんです。

 思考するときの基本概念や論理性として数学的、幾何学的、科学的な推論などの基礎をツールにする吉
本理論にとっては、すでに価値概念に拠ってしまっている思想というものはあらかじめ捨象されてしまっ
てるからです。ラジカルに思考方法そのものからして屹立しているということでしょう。



■ケータイがあるので社会がわからない?・・・   2004/12/28


●ケータイがあるので社会がわからない?

 ケータイがあって、いつでもどこでもコミュニケーションできるんで、社会がわかりませーん....
とゆーコトで、よくある話し、とな。
 ケータイは基本的に1対1のコミュニケーションのためのツール。対幻想のためのツールということ
ができるワケで、ケータイが使用可能な時空間は対幻想を現実化する時空間でもあるとゆーコト。
 ケータイそのものに関して2つポイントを取り上げると、手で使うというハンドリング、耳で聴くと
いう聴覚....がキーかなっと。

 カントだかなんだかの言葉どおり手は外部の脳≠ナあり、手でコントロールできるのは人間にとっ
てケッコウ快感であり満足感にもなったりします。大脳皮質の理性によるハンドリングが視覚と聴覚を
媒介としたレスポンスを生むというのは、観念と感覚のフィードバックで、聴覚を媒介としているのは
個体=主体の原点へも遡行しうるラジカルな説得力を持つ運動でしょ。脳と身体のダイレクトなダイナ
ミズムに脳も身体も充足感が得られるワケです。
(手によるハンドリングの快感について、インターネットのスタート時に発行された『デジタル日本人』
で高城剛さんが指摘してたのは新鮮でした。まあその5年も前からこの本の原稿はコツコツと書かれて
いたんだし、何よりも、サイバーやデジタルなカルチャー論議?で、サブカル論議に閉塞しがちな日本
人でありながら、人間工学的なコトや日本の民族性による世界観を分析したり、本来思想や民俗学、文
化人類学などのヒョーロンカな人たちが語るべきことを当り前のように語れる高城さんてもっと評価さ
れるべきだったと思いまつ。サギまがいも多いIT企業でも高城さんはキチッと株価評価からキャッシュ
フロー、信用管理までやってるホンモノの事業家だし、そーゆー面でも日本人的じゃないトコがイカッ
たなあ、この本と著者。)


   ケータイがあって、
   いつでもどこでもコミュニケーションできるんで、
   社会がわかりませーん

....というのは、文字どおり、「いつでもどこでも」「ケータイがあって」「コミュニケーションでき
る」から「社会がわかりませーん」とゆーことで、まあ、ダイレクトでありリアルな実感ですね!
 社会がワカラナイ理由がこんなにハッキリ、カンタンに表明されてるなんて、ワザワザ社会を分析す
るナントカ学者とか評論家とか、イラナイじゃないですかあ! てなワケですが、かってに自分の出番
だと思ってカキコするヌルイ年末だったりしまあす。

 ここでワカルコト、そして重要ポイントは「コミュニケーションできる」から「社会がわかりませー
ん」とゆーことでしょー。逆に考えると〈コミュニケーションできない〉のなら〈社会がわかる〉とゆー
こと。つまり、コミュニケーションへの抑圧が社会を意識させるとゆーことですね。しかもそれが自覚
されてるという....ワケかや?

 それは、ココの基本的な認識とタームから説明すれば以下のとおりです。

   対幻想への抑圧が社会を意識させる。

あるいは、

   コミュニケーションへの抑圧が共同性を生成する。
   想像界への去勢こそが象徴界を生成せしめる。

....ということで、吉本理論とラカン理論がほとんど同じ認識をもっているということでもあります。
まあナゼか斎藤環さんなんかは吉本理論をほぼ全面否定しているようですが、どっか具合いでも悪いん
でしょーかあ。

 では、どうしてケータイでコミュニケーションするだけで社会への非知や否認が説得力をもってしま
うのか? それもカンタン。
 前後しちゃいますが、ケータイについてのポイントは上記のとおり。<ハンドリング>と<聴覚>で
す。この2つの運動性と体性感覚が<ケータイ>を特別なものにしてます。個別にいえば<聴覚>につ
いては音楽と同じ訴求力や受容性を持っているということであり、<ハンドリング>は自発的な運
動性のクイックなレスポンスが自発性そのものを媒介とする自己言及性によって、あるいは自発性のへ
の再帰的フィードバックによって担保されるから....という理由によって、いわゆる人間にとっての魅
力や価値となっているコトでしょー。いわゆるアディクテッドでもあり、対幻想を体現するときの自
己萌えでもありまうす。(WWW〜〜〜

 このアディクテッドというか自発性による身体性の魅力や価値が、観念に依拠する社会性や共同性を
超えるのは当然でしょう。
 これは<動物化>のある側面でもあり、その阻止のため社会や共同体への帰属を不可避に刻印すると
いう社会的儀礼や通過儀礼が用意されます。象徴界的な刻印をその身体にするワケで、共同体の成員化
は<動物化>の阻止や防止でもあるんですね。もちろんそれは別の動物化です。
 ここにポストモダンで保守が勃興する?理由なんかもあります。
  でも、マルクスが『資本論』で指摘した「動物化」やそれを理論的な突破口にしようとした吉本さんの
『ハイ・イメージ論』における「動物」概念はもっとラジカルな問題提起....。


ああ、ケータイ解約したら、なんか、気分がイイでっす。(W



■『ハイ・イメージ論』と「世界視線」・・・   2004/12/17


やっぱり読んでると感心するのが『ハイ・イメージ論』。本質的でラディカルな
マルクス批判を含む論考は未踏の領域ですが、その批判の根拠こそ人間にとって
「自由」そのものであり、自然との代謝についての深い孝察です。

それでは、アレから流用....。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 この本で有名?になったタームが「世界視線」。吉本さんの思想で「共同幻想」
「対幻想」につぐヒツト?となった言葉でしょう。でも内容的には、このイメー
ジ論以降、激しく反発され否定されたようです。おそらく、その理由はカンタンで、
視覚情報をメインとした現代のカルチャー論議の中で、自分たちのフィールドを侵
犯されると怯えた評論家やインテリさんたちの必死な反発があったということでしょ
うか。

 問題なのは「世界視線」の定義も理解もできないレベルの批判がほとんどだった
こと。吉本さんの全思想の大前提になっている心的現象論の基本概念である「原生
的疎外」や「純粋疎外」への理解がほとんどないのと同じで、この「世界視線」へ
の理解もヒドイものでした。理論的にいえば「純粋疎外」の延長線上に「世界視線」
は成立するものですが、本書ではそれが臨床的な事実に即してわかりやすく解説さ
れています。

 臨死という生命の弱化は、簡単に説明すれば心身の統合されたシステム維持能力
の低下です。この心身の統合が低下し、システムのバランスが崩れるというのは、
肯定的に表現すれば心身の各能力の変成であって、そこには通常では考えられない
認識や受容性が生じます。そこで仮構された認識のある位相を「純粋疎外」と借定
するわけですが、「世界視線」は比較的に日常でも遭遇しやすい「認識」として説
明されています。

 さらには、その「日常」のレベルこそ超高度資本主義の成果であるとして、ハイ・
イメージ論は驚異的な広がりと射程をもつ論考として展開されていきます。「世界
視線」を可能にする変成は統合失調症そのものであり、基盤となる日常のレベルと
いうものは経済状況と個人の観念の弁証法的な統一である特定の「階程」であり、
あらゆる文芸は「世界視線」の表出という意義を持っている....。コム・デ・ギャ
ルソンにJ・ケージ、精神病から高橋源一郎、村上龍、ブレード・ランナーやラン
ドサット....縦横無尽の探求の中、コアとなる部分でヘーゲル、マルクスがシビア
に検討されていきます。本質的に、欧米の思想とガチンコできた唯一人の思索者か
もしれないと思わせる迫力が、そこにはあります。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


■マルクス・組み込み・動物・・・   2004/12/7


●<組み込み>というマジック

 ホント?にマルクスを読んだ人間ならばワカルコトに「組み込み」とか「埋め込み」という
概念があります。ヘタな例えをすれば、免疫の仕組みやオートポイエーシスのシステム論のよ
うなもの。

 体内に入った異物は白血球によって捕捉されてはじめて<異物>つまり自分とは違うものと
して認識されます。つまり異物は白血球の内部に<組み込>まれてはじめて<異物>として認
知されるワケです。免疫機構は<異物>を<組み込>むコトで<対象化>するという仕組みに
なっています。

 マルクスは同じように<人間>は<労働>を媒介にして<自然>を<組み込>んでいく....
と考えました。マルクスのいちばん難解?な<人間的>とか<有機的自然><非有機的>だの
<自然的>とか<人間的自然>とかいう概念の定義や相互関係は、この<組み込>の論理によっ
てトーナリティを持ち、それがマルクスの世界観の基礎を形成しています。また唯物論そのも
のがこの<組み込>みを通してマルクスの思想に内化されているともいえます。


●マルクスの<組み込み>への批判

 <自然>を<組み込>むことで構成される<人間的>世界は、それがひとつの時空間の系と
して<入れ子>となり単独の世界を構成しています。

 これに対しての批判的な検討というものを見たことはありませんが、吉本さんが『ハイ・イ
メージ論U』の「自然論」でライプニッツの神から必然性を導き出し、ヘーゲルから自然の人
間への組み込みを考察し、そこからマルクスの<組み込み><埋め込み>概念の検討へという
仕事をしています。その論考そのものが貴重なものですが、驚くべきは、そこで吉本さんがマ
ルクス批判をしていることです。
 この<組み込>まれるものを<精神>に置き換えた論議は吉本さんとフーコーの対談でのテー
マでしたが、両者が相手に可能性を見出そうとするところで終わっており、残念であるのは吉
本さんの読者共通の思いかもしれません。

 『ハイ・イメージ論U』収録の「自然論」におけるマルクス批判は以下のようなもの。

   P180)
   本来的にいえば摂動(ゆらぎ)として、余裕、反響、戯れ、遊びとして
   存在した交換作用を、ぬきさしならない「組みこみ」の概念に転化してしまった・・・

   P180.181)
   ほんとうは人間という自然の一階程は、
   そのなかに非有機的な階程と、植物的な階程と動物的な階程を
   ぜんぶふくんでいて、これが余裕、反響、戯れ、遊びとしての摂動(揺らぎ)を
   人間にあたえているにちがいないのだ。
   これは本質的にだけいえば人間の不変の条件としてあるはずなのに、
   マルクスの人間という自然からは消えてしまった。


●<考えられらたもの>の限界

 科学的な認識だの論理的な孝察が概念の均一性を前提としたある蓋然性に依拠したものであ
るという思考の限界の中で、たとえばフーコーは中国の分類方法に何らかの可能性を見出そう
とし、最期には、それもある蓋然性でしかないことに気がつき『言葉と物』における自身の方
法論に懐疑を持ちます。

 フランス革命を準備した百科全書だろうが、世界を革命できると説いた唯物論弁証法だの史
的唯物論だろうが、自然と人間の入れ子構造のトーナリティである関係をマテリアルの基本に
据えつけたマルクスだろうが、それが思念されたもの、考えられたものでしかない....という
限界に、吉本さんは気がついてしまいます。
 奇書とさえいわれる『アフリカ的段階』のベースにある問題意識はそういうものです。そし
て、そういうスタンスこそがフーコーが可能性を見出そうとした博物学や民俗学からの成果を
現実のものとして探究のなかに取り込んでいける唯一の可能性でしょう。


●<身体>の<階程>へ

 A.スミスの論考に労働から哲学が生じるポイントを見出したり、価値の差異を身体の内臓の
差異にまで還元する論理を探し当てたりした吉本さんは、ついにマルクスの<組みこみ>の概
念にも限界を見つけてしまったわけです。
 しかもこれは三木成夫の解剖学をはじめとするあくまでマテリアルな基礎を前提とするもの。
身体内に植物的階程と動物的階程を峻別することによってはじめて可能となる孝察であり、そ
れぞれの階程とその環界に対するそれぞれのレスポンスを統合的に内化していくシステムとし
ての身体にあらたな人間主体を見出したともいえるでしょう。もちろんそのような概要なり前
提が理解できないものには「奇書」という評価が限界かもしれないのが、現在のレベルである
ことも確かかもしれません。

 コジェーヴがアメリカに見出した「動物化」はマルクスが資本主義に見出した「動物」その
もの。しかし吉本さんはそのマルクスの「動物」的概念を、個々人に内在する動物的階程への
還元という....A.スミスが労働する身体に哲学や価値を見出したのと同じ手つきで....ベク
トルで探究していきます。

 『ハイ・イメージ論V』の「消費論」では現在の消費資本主義の日本をテーマに「動物」概
念が考察され、その後の展開は広く開かれたまま終わります。
 『ハイ・イメージ論』は批判学ですが、『アフリカ的段階』他いくつかの言説ではまったく
ちがったベクトルを見出せるものもあり、人間の肯定としてのそれらの論は文芸をはじめとし
たあらゆる表現への賛辞としての趣をもっています。そのスタンスで書かれたのがコム・デ・
ギャルソンへの評価であり、J.ケージ論です。



■心的・オートポ・純粋・・・   2004/11/22


吉本隆明さんが多くの隠れたリクエストに応えて『心的現象論序説』を角川書店から文庫版化したのが1982年。
単行本や全集でも評価の高かった同書は同時に難解の書でもあって、心理学や精神科関係の専門家以外からは
レスポンスもなく、ただ難解であるコトが話題になっていたほど。文庫化するにあたってテニオハなどの修正
があったよーですが、チョット不明です。

ベルクソンが想定するような時間性の生じる起点における現存在の定義において、時間以前にどのような基本
構造があるのかという孝察はフロイトのエスの概念以外にはありません。この存在や認識の原点となる構造を
想定しない限りは、どのような哲学も認識論も心的現象の解釈も蓋然性以外の何ものでもなくなってしまいま
す。

ところで心的システムも含めてシステム論では入力も出力も無い状態=閉鎖系を想定しているようなので、た
ぶんこのような問題はシステム論には存在しないのでしょう。また逆に、このような問題を提起できないのが
システム論だともいえます。

オートポイエーシスの心的システム論では位相学的概念の設定を主張しながら、システムへの外部からの入力
を錯乱としてしか定義し得ないという自己矛盾に陥っています。たとえば消化器官を設定しながら食事は禁止
という矛盾ですね。入力と、そこからの組成と、その維持....システム論が汎用性が高いのは普遍的な前提に
立っているからでありながら、入力を捨象しようとするスタンスは何故なのか? 

あらゆる科学は蓋然性だと主張するサルトルの指摘は彼の実存主義のシニカルな表明に過ぎないことを喝破し
うる可能性を、吉本理論に見出した人がいました。フーコーです。フーコーと吉本さんの対談に対する評価を
見ても、日本の寒々とした光景が浮かびますが、そんなことは気にしないのがY理論だったりもします。

ところで<自己と対象を判別できない状態>を吉本理論では<純粋>という概念を導入して定義します。視覚
対象を捉えつつ対象と自己の峻別がつかない状態を<純粋視覚>と呼びます。

無機的環界に対して異和である生命そのものを原生的疎外と定義し、その原生的疎外をとおして環界を把握し
ようとする動きの構造を純粋疎外と定義します。この原生的疎外と純粋疎外のギャップが心=観念です。数学
的な概念が駆使されている吉本理論では純粋疎外は原生的疎外のベクトル変容であるという明晰で的確な説明
がされています。

吉本理論では自己と対象との分ち難い状態を<純粋>概念として想定しますが、Y理論では現実に自他不可分
の認識そのものを<純粋>概念とします。吉本理論においては理念型のモデルとして概念が設定されますが、
Y理論では現実に生起する問題として概念を設定します。これは完成した論理モデルである心的現象論序説と、
現実に心的現象が生起するところにフォーカスしようとするY理論との違いであるにすぎません。また心的現
象論序説をとおして現実を考察しようとするスタンスであり、アプローチの仕方の違いに過ぎません。



■『物語消滅論』で思ったことチョット・・・   2004/11/10


かつて柄谷・浅田さんに代表されるニューアカを「時代に合致してただけ」と
ポッキリ評価し切った?のは宮台さん。宮台さんはメディア初登場だったアクロスの
インタビューでも、大塚さんを「民俗学で社会が読めるか?」とゆーよーに批判
....記憶が瞹眛ですが....。

で、その大塚さんの自負?に「ライバルは浅田彰」とゆーのがあって、どの本だったか
忘れましたがハッキリそー書いてありましたん。
そんな大塚さんを評価してるらしい浅田さん。
でも浅田さんは大塚さんが高く評価する吉本さんを読解できないで、かつて
「いい加減な造語」とか「詩的で」「最悪」とか悪罵を浴びせてましたん。読解力が無いのは
自分のせいだろ....と思いつつ....。

まあ、ライバルを蹴落とそー?とするのはどこの世界でも同じかあ? 党派闘争?
....てな風でどーでもいいんですが、ココではニューアカは吉本さんを踏絵にしてた
とゆー大澤さんの主張をふふふと笑顔で受容しつつ、吉本理論なんかを考えてきました。

         
そんな時にでたのが、『物語消滅論』でっす。

ウオー、あの『物語消費論』の続編つーか、その後の社会の変遷を踏まえたご本ですね。
大塚さんは東さんともやとりしてるし、互に参照しあっているワケですが、吉本、浅田、
宮台、東とゆー交流点そのものみたいな大塚さんのポジションは面白いし、オタクから
文芸、流行、商品開発や各種企画に関係し、そしてバブル期の仕掛人の1人でもあると
ゆー貴重なとゆーか時代の生き証人っぽい人なんで、いろいろな面で参考になります。
それに消費者でも生産者でもあり、しかも民俗学とゆーフィールドワークから、
マルクス主義への理解、おまけに親父さんは六全協(!)以前のモノホン革命家?
さらには作家でもあって作家になるための教室の先生でもあるとゆー人寄せ万能パンダ
っぽい人です。チョット意味不明かも....。


たしかに『物語消滅論』の主張どおりで


    キャラクター化する「私」
    イデオロギー化する「物語」


....てな、キャッチーなコピーは作家的才能を超えてアタリ!だと思います。

が、そーゆーテーマをさらに探究するのがココのポリシーなんで、ちょっとカキコ
しま〜す。

いきなりリオタールだったりしますが、「大きな物語」がなくなったのはホントでしょー
かあ? 最近こーゆー問いそのものに疑いをもったりして、あえて問題を提起するのが
オツムの自主トレとか思ってやってますが。「大きな物語」がどーだろーが、ポスモダの
流行さえも廃れよーが、キャラがレイヤー化しよーが、人間てそんなに変わらないよねえ
とゆー認識のもと、ちょっと考えることがあります。

以前書いた?よーに「イデオロギー」は世界視線化した「物語」先端テクノロジーを言語としたTKを見よ! エラソーにい)だし、
「キャラ」はTPOにマッチングさせた振る舞いだと思います。


もちろんTPOへの認識がズレてて、ゆえに自ら仮想した認識に仮託した人格がキャラな
ワケで、そこにはピエロやドンキホーテっぽい哀愁が漂ってたりしますよね。その究極が
「イタイ」と形容されるキャラだしさ。


さて、「イデオロギー化する「物語」」とは認識そのものにおいてどーなのか? 何なのか?


「物語」には文法的なものがあるとゆーのは大塚さんが指摘するとーりです。問題はもっと
細部にわたって分析する必要があるとゆーことですね。まあ、チョムスキーでもラカンでも
そーなんだけど。

音声と概念、エクリチュールと意味、楽譜と音のよーに感覚器が受容する1次刺激(感覚情報)
さえそのシニフィアンとシニフィエは1対1で対応するとは限りません。この<限らない度合い>
そのものがズレた認識=認識の異常性=精神病の度合いであって、そんなものはどこにでも
ある現象でしかありません。

このズレが決定的な解離になって、もはや感覚的な受容や認識とは関係なく成立するように
なったのがイデオロギーです。だからイデオロギーは時空を超えるわけで、TPOなど
場所的限定に規制されない制限されない思念として存立します。もちろん場所的限定を受けない、
制限されないというのは逆に普遍的だということでもあるでしょー。それは吉本理論的、
Y理論的には遠隔対称化した観念の体系そのもの。ただし、その認識システムの主体としての
個体が正常な振る舞いを維持するために普通は常時周囲の環境から感覚を通して情報を受容し、
周囲に対して最適化した振る舞い=行動をとります。これができない個体は単なる「アヤシイ」
人か「オカシイ」人でしょー。まあ、その程度のモンでしょ。人間をめぐる問題なんてさあ。
まあ、心理実験で「周囲の環境から感覚」を遮断すると30分くらいで幻聴や幻覚を見ちゃう
から、人間てどーってことないですけどー。

つーことで、最近ナマケテたんで、イキオイで、いい加減なことカキコしちゃいましたあ。



■『文学界』「断えざる移動としての批評」だあ?・・・   2004/10/23


『文学界』十一月号の討議「断えざる移動としての批評」が面白いです。
メンバーは柄谷行人、浅田彰、大澤真幸、岡崎乾二郎の4名。基本的に柄谷さんの
『定本 柄谷行人全集』の刊行を記念したマンセー座談会みたいな趣ですが。

結論をいっちゃうと「可能なるコミュニズム」を可能たらしめる方途および認識として
「消費者としての労働者」の闘争という観点を提起し、「マルチチュード」を超える
定位としてXと呼称したるところのアソーシエーションを提出する....というもので
....それが、ちょっと、アノ、な感じですよね。

今日は、もう、2004年の10月23日なんだもんで。金融工学でノーベル賞だらけの
ヘッジファンドさえ夏前からボロボロな状態。「恐怖の論理」といわれる確率過程期待論を
武器にグローバリズムの権化みたいなポストモダンな連中も右往左往とゆーワケです。
心理学でせき立ての論理と呼ばれる認識に先立つ行動原則さえまったく無効な現況を前に、
ポストモダンという言葉さえ虚ろな毎日....とゆーのが実感。

それで、まあ、『文学界』の討議の第一印象は、既にマルクスが言ってることを蒸し返しか?
....てなもんでしょーかあ。

『経済学批判序説』でマルクスが指摘している<生産←→消費>というテーゼ、
つまり「生産は消費」であり「消費は生産」でもある....といった明確な指摘を、
まるで、自分たちがオリジナルに、新発見したかのようなハシャギ方が不思議だし、
不気味。ダイジョーブかあ? この人たちい....


アメリカ・デリダ派の拠点でもあったイエール大学のポストモダン派を体現するような存在
だった柄谷さんと、そのエピゴーネンとしてニューアカを先導し、団塊世代御用達の吉本理論の
<対の発想>に対して<A-O-S>の論理を援用し示差するものとしてのラカン紹介である
『構造と力』を高々と示してみせた浅田さん....だったよなあ、たしか。


この討議には、1958年のパリ五月革命以降にタケノコやキノコみたいにボコボコと生まれてきた
構造主義や数理学、言語学の諸潮流をマルクスの弁証法で迎えうってみせたA・ルフェーブルの
達観は、ありませんね。当時、自らもフランス共産党を除名されつつ、1人で探究を深めた
ルフェーブルは、村上春樹みたいな見解に結論を得て充足します。


   ストリートで、人々は出会うのではなく、スレ違う....


このレベルだとまだ文学的?ですが、シュンペーター、ボードリヤールなどを検討しつつマルクスの
読解をススメる吉本さんは90年代前半からの『ハイ・イメージ論U』と続く『V』でその成果を示してくれました。
それどころか84年の埴谷vs吉本の論争で
すでに高度資本主義のOLをモチーフに消費者の存在を際立て支持した吉本さんのスルドサは
早過ぎたのでしょうか? 

とゆーより、まあ、この討議が遅スギとゆーか、
このメンツって....とゆーことだよね、っと。フウ〜



■日本の強さつーのは?・・・   2004/10/8


▲日本の資本と1400兆円を超える個人資産はどこへ?

ところでアメリカの10分の1程度しかない自由資本以外の資本は
どこへ行ってしまっているのか? それが預金と保険だ。
そして保険会社と銀行がアメリカに莫大な投資をしていて、それでニューヨークには
資金があふれていた、ということになる。しかも銀行と保険会社の、この異常性は
自由市場経済では消費者のジャッジを受けるワケで、今や日本の銀行と保険は
弱りつつある。消費者はちゃんと保証してくれる保険会社に乗換え、預金をおろして
株式に投資し、外国の銀行を選んだりネット銀行を利用し始めたりしている。それでも
従来どおりに残る不自由な資本というものはアメリカ人と日本人のキャラの差によるものだ。
つまり安全志向か冒険志向か、セロトニン受容体とドーパミン受容体の遺伝的な差に
還元できるようなレベルでの話しだ。

弱った日本の銀行や保険会社はアメリカへ投資を続行できない。かわりにアメリカへ
投資し続けるために強化されたのが政府の為替介入準備資金だ。言い訳は円高是正であり、
日本とアメリカが合同でマッチポンプを演じるだけの話し。もちろんホワイトカラーの
民主党政権では日本の民間企業である保険会社や銀行がアメリカに投資し、
保守のブルーカラーによる共和党政権ではアメリカ国債を日本政府が買う
というカタチでの投資になるワケで、今年のその準備資金は去年の6倍である120兆円に
までワクが拡大された。これはブッシュが人気取りのためにやった減税処置の目減り分に
プラスアルファの絶妙な数字である。しかも日本政府が国民に向けて発行する国債はゼロ金利とか。
いったい日本政府は莫大な金をバラ撒きつつ、何を担保してるのか? それは国民の預金を
はじめとする1400兆円を超える個人資産だ。将来の年金請求権利分を含めて2000兆円の
国民の財産が政府の担保になっている。狭量でも正直な国家主義者は政府のやっていることを
売国奴だと批判するだろうし、反グローバリズム運動からも激しい抗議行動は続いている。


▲NYのエリートはどう自覚したか?

TVを開発したアメリカだが、現在アメリカ企業でTVを生産しているメーカーはない。
アメリカは自動車王国と呼ばれてきたが自動車3大メーカーはすべてマイナス成長であり、
日本のトヨタはとうとうフォードを抜いて世界2位になった。導体と絶縁体を組み合わせた
画期的な発明だった半導体トランジスターもアメリカが発明したが、大量生産したのは
日本だった。ビタミンブームはアメリカから起こったがビタミンCの大量生産は武田薬品1社だ。
アミノ酸の世界生産では味の素が7、8割を占めている。

アメリカは自由を守るために自らが敗北することに甘んじてきたのか?
ソビエト社会主義共和国連邦というかつてアメリカを圧倒する陸軍を誇り、いまだに
アメリカが防衛できない戦略ミサイル部隊10万人を残した国家はロシアというカタチを残して
崩壊した。この時ニューヨークにいた女性特派員に話を聞いたらウオール街のエリートたちは
「次は私たちの連邦(合衆国)が崩壊するだろう」と心配していたという。誰もアメリカが
崩壊するなどと思わないだろうが、当事者自身が、それももっともススンダアメリカ的な
ウオール街のエリートが自国は崩壊すると考えたという、その根拠は何か?


▲日本は特殊か?

そーゆー観点から考えると、資本を銀行に預けるのは経済的にも政治的にも民主主義的
ではないし、自由経済でも市場経済でもない。それは銀行が勝手に恣意的に資本を運用してしまうからだ。
たいてい銀行は銀行業のマザーである中央銀行と、それを管理運営する国家の意向に
沿って行動する。ナチスのライヒバンカ法は、それを典型的に取り決めた法律で、
日本の銀行法はそれを真似たもの。
それによって日本はファシズム体制を強化した。家父長的な封建的に近代的な金融ファシズムを
組み合わせたワケであり、第二次世界大戦の準備を整えたワケだ。
いろいろなところからみんなが流れ着いた移民の国であるアメリカは違う。みんながそれぞれに
日々を生きて富を築いていったからだ。そこにあるのは封建制ではなく勝ち取るコトを目的にした、
強者の論理だ。銀行はその富を保護し膨らませるためにあり、勝手に運用するためにあるのではない。

こういったマテリアルな基盤とその変化を把握しない限り、カルチャーはもちろん
キャラの分析もできないマテリアルやテクノロジーを超えるキャラなど無いし、
<超えたつもり>なのは単なるビョーキに過ぎないからだ。たとえば<飛べる>コトと
<飛べるつもり>には連続性さえないのが事実。リアルとリアリティの違いにも大きなギャップがあるワケよ。



■強いアメリカつーのは?・・・   2004/10/03


▲アメリカ、最強ー!

世界を一極支配してるかのよーなアメリカ。
自由資本主義の帝国として120カ国以上に軍を進駐させ、
大きいコトはいいコトだと、とゆー何十年か前のCMコピーのまんまに
ダダをこねるアメリカ。

アフリカ大陸全体の資本より大きな財産をゲットしたビル・ゲイツも、
5日間のマネーゲームでイギリス国家を敗北させたジョージ・ソロスも、
忙しいから大統領になるヒマがないと言ったラテン系移民の魚屋も、
みーんなアメリカ人だ。

世界を制覇するマクドもコーラもWindowsもアメリカ産。
そーだ、トランジスタもTVも自動車もアメリカからだったね!
で、アンタ、なんか不自由した?

ビル・ゲイツが最初にIBMからの受註を独占できた理由はカンタン。
「価格はライバル会社の10分の1でいいです」と営業して、
ライバルのデジタルリサーチに勝利したワケ。
ついでにゆーとWindowsのスクロールバーは大阪のダイナウエアの
オリジナルソフトだったダイナウインドウのマネだったとか。
当時はウィンドウスタイルが複数あったからね。
ところで、今、リナックス系が売れ始めてる理由もカンタン。コストが安いから。
理念で売れてると思ってる人はオメデタイかも。もちろん理念をススメることも大切で、
イデオロギー闘争はその典型だけどね。


▲スタミナのもとは?

この強くて無敵のアメリカを支えているものは何か?

アメリカの資本主義システムの根幹はウオール街。
第2次世界大戦は、このウオール街の株価が暴落してはじまった。
ウオール街は世界資本主義の中心でもあるワケで、
それは同時に民主主義の中心でもあることを意味している。

このウオール街の資本総額は3000兆円やそこらあるらしいけど、
その1000兆円近くが日本の資本だとゆー説がある。
大雑把でも800兆円くらいが日本の資産だったのは、
バブルで崩壊した日本の負債が同程度だったコトからも類推可能。
バブルそのものがアメリカへの投資を実現するための仕掛けでもあったのは
確かな事実だからだ。

日本の経済規模はアメリカの6〜7割程度。
だから日本の証券市場もアメリカの6〜7割程度になるはずだけど、ならない。
東京証券市場は300兆円程度。アメリカの10分の1でしかない。
あまりにも差が大きい。この差こそが日本がアメリカと同じ自由市場経済ではないことを示してる。
とくに資本の自由度である流動性では統制経済体制並み。事実、ファシズム法である統制3法が
いまだに有効であり、表面的な改革はされても実質的に官僚システムの強化がされてしまって
権力者無き支配システムが強化されつつあるワケ。
この状況をフーコー的な権力論でクリアできると考えることそのものがすでに陥穽のなか。
フーコーが求めた吉本理論のスゴサとは、何だったのか?



■借金1000兆円でもOKかあ?・・・   2004/9/26


●キビシイ現状ですねえ

国と自治体でもうすぐ借金が1000兆円とゆーのは
経済同友会の予想よりも早く、悲観論を振り回して自分の出番を
作ってるような評論家や経済学者の予想よりも早い、とか。

まあ、赤字国債発行を抑制するといった公約を守らず、
公約なんてどうでもいい、大事なのは構造改革....とかなんとか、
政治家自ら公約破棄を正当化し、政府の権限強化を構造改革と強弁する
人間が首相なんだからしょーがないでしょーがねえ。

民間企業のリストラと個人の忍耐の10年以上にわたる努力で
よーやく立ち直りつつある経済を「構造改革のおかげ」と
ウソをいえる竹中さんはもちろん官僚。大蔵省外郭団体の政策投資銀行から
慶応大学へ天下りして「民間」になったと人間マネーロンダリングを
しただけのこと。当初から竹中さんのいい加減さを見破っていたのは
榊原元財務長官や小沢一郎さんなど一部だけだし。


●個人向け情報は遮断強化へ

インターネット証券と個人投資家に追い詰められ、
もはや何もできない大手証券会社の守旧派がとった苦肉の策が、
個人に対して市場の情報を開示しないこと。

毎日だった信用残高の公表を週1回にし、しかも翌週送り。
売買手口も非公開にするなど、個人投資家への情報遮断は強化された。
信用売りの個人への規制も大きな損害と市場の縮小をもたらしてまっす。
株価が下がるときの最大のヘッジだった信用売りを個人に対して規制すれば
市場が滞るのは当り前。投資家が3兆円の資金をコゲつかせる一方で、
銀行は5兆円近い利益だもんね。

それだけでは安心できない、アタマが弱い分だけデカイ会社が
とった攻撃的な策が、取り引き回数に応じて東証への負担金を増やすという
策略。個人投資家が圧倒的に多いインターネット証券はデイトレードじゃなくても
取り引き回数は多い。ターゲットは露骨にインターネット証券でしょ。
野球なんかどーでもいいから、ライヴドアも楽天も、インターネット証券の現状を
よく考えた方がいいですよん。

つーか、インターネットだけの証券市場つくれば?


●ダメさが現れた数字=株式時価総額

経済的な比率で考えて、株式市場の時価総額が異常に少ない日本の現状は、
経済民主主義の低さ、金融独占資本である銀行の強さ、
そして民度の低さ全般にも通じるものだし、その反映。

PL法をはじめとしてアメリカ的民主主義や消費者中心の発想がことごとく
ないがしろにされていく日本。まあ、憲法のないがしろがその象徴でしょーかあ。

ダメでも生きてける度合いがオタク度の高さじゃないかと考えると....
まあどーでもいいですが、時代のテーマとか、旬のものレアものつーのは、
ホントに生々しいモンです。

それがリアルつーもの、だけどね。
ホントのポストモダニストは無制限適応なリアリストでしょ?



■『綿矢りさのしくみ』だねえ・・・   2004/9/19


     


ちょっと前に買ったのが『綿矢りさのしくみ』。


ライターと文芸批評家と評論家の3名による構成で、
世代的にも3世代にわたっているのがイイ。
内容もそれぞれその世代なりのスタンスがハッキリしている。


「綿矢りさ原理主義」を唱えるライターの吉本謙次が、綿矢の同世代にインタビューし、
綿矢への是非を通じて彼ら個人個人を浮き彫りにするのが1章。登場するのは吉本の
ホームグランドでもあるらしい現役の早稲田の学生ばかりだが、その分リアルで説得力
のあるものになっている。今にありがちな多弁に過ぎる感、あるいはもっとバイアスを
かければ....という印象はあるが、大変価値のあるインタビュー内容になっていると思う。


2章で『蹴りたい背中』の表現技術をテッテー的に検証するのが渡部直己。団塊の世代で
あり、一時期ポストモダンな位置づけもされていた論客として何よりもウルサイ批評家の
イメージがある。綿矢の作品にも主題にもまったく興味がないゆえにその技術だけを吟味
するというスタンスが、モロに渡部自身の批評の力量を露呈させていているところがイイ。
綿矢のような多くの支持を得る作品が逆に批評の力量を世間にさらすトラップ?になる
ことは多いが、ある意味でそれは作品というものの大きな価値のひとつだろう。


3章で読ませる批評文の魅力を披露しているのが新人類世代の小谷野敦。同世代の旗手と
された浅田彰の綿矢に対する悪罵と比較すると面白い。それだけみても同世代が同質だ
というありがちな言い分も幻想に過ぎないことわかる。もちろん幻想に囚われるのは思考
能力が劣っている証拠だが。小谷野は綿矢の基本的な能力を高く評価しつつ、同時に自ら
が一定以上の興味を持っていないことをサラリと表明する。しかし、趣味的な楽しい指摘
と期待のクールな示し方は、批評はこうでありたいと思わせるものだ。


とゆーことで、ひさしぶりに面白い本だったです。


参考までに....(W

   
   『綿矢りさのしくみ』-吉本さんのパートについて

   
   『綿矢りさのしくみ』-渡部さんのパートについて

   
   『綿矢りさのしくみ』-小谷野さんのパートについて



■サブカルが芥川賞を取った理由?・・・   2004/9/14


『蹴りたい背中』へのマットウな批評がないなあと思いながら、
ホントのテーマをキャッチコピー風にいっちゃえば....と思ったのは30分前のコト。

   サブカルが芥川賞を取った理由

とか、ナントカ、カントカ。


もちろん、いちばん興味あるのは、
サブカル論者が何か分析できたのかな、っとゆーことか。
自称他称のポストモダンな人たちの能力(特に思考)を知りたいだけ、かな。

浅田彰さんのコメントは勝手に再構成すると、
「全然つまんない」「ぶりっ子」が「もう終わってる」「芥川賞」を取っただけ....
とゆーことらしいけど。毎年紀州の山の学校へ行かなければ鈍磨し衰弱しちゃうような
感性の浅田さんは、その告白のとおりでもう終わってるワケだし。
『構造と力』で構造主義の限界としてのラカンを紹介し、同時にポストラカンを
示差しながらも、その後何の展開もない日本て、アレだよね。アレ、あれ?



■蹴りたい批評・・・   2004/9/8


         

『蹴りたい背中』でも『なんとなく、クリスタル』でも、
小室哲哉でも、共通するものがあるよーな気がする。
つーか、ある種共通する扱いを受けている気がする。
つまり、本格的にジャッジされたことがないとゆーことだ。
もちろん悪口は多かったし今も多い。
思い出してみれば、村上春樹も当初はズイブンひどい扱いだった。

ただ、そこにはある隠せない特徴があって、
それさえ分かってしまうと、悪口を言ってる人たちが可哀想にもみえるもので、
それに気がついてからボクはなんとなくホッとしてしまったほどだった。

それはあるカンタンな事実だ。
たとえば村上春樹の場合。
文学のプロほど彼をけなし、読者ははじめから熱烈に歓迎した....という事実がある。
それから個人的な体験で、自分の周囲でおこった現象に、
消費者とともにあること以外には存在意義がないかもしれないコピーライターたちが
村上の文体の研究をしたということがあった。

有名な作曲家や音楽家にさんざん罵倒された小室哲哉の場合も同じようなもの。
当初のアニメソングからのコアなファン15万人をはじめ、
NHK紅白の常連扱いを支えたとも思われる膨大なファンによる支持は首相まで
巻き込んだ。TK現象とまでいわれたが、それに対して批評として成り立つものは
1、2つしかなかった。もちろんファンの間での小室評は無数にあったはずだけど、
罵倒もまた無数にあった。問題はプロからのまともな批評がほとんどなかったこと。
例外は楕円とガイコツの一冊。これは最新の音楽理論でもあり、M・ウエーバーの
音楽社会学にまで言及した異色のポピュラー音楽評論だ。ニセのデータのグラフまで
載せて小室罵倒を主目的にしたような『宇多田ヒカルの作り方』のような詐欺的な
偽書とはレベルが違いすぎる。

で、最初に書いた「本格的にジャッジされたことがない」とはどーゆーことだろー。
「そこにはある隠せない特徴」とは....。
これもホントにカンタンなコトで、それぞれ答は1つづつ、計2つしかないのだ。

ジャッジされたことがないのは、ジャッジする能力がある人がいないだけ。
隠せない特徴は、批評したら批評能力がバレちゃうということ。でしょー?

カンタンだよね世の中って!
         
■赤ちゃんとゆー原点・・・   2004/9/2


▲誰でも赤ちゃんだった!

人間は誰でも赤ちゃんだったことがある。

たぶんどこかにいるカモしれないクローン人間でさえ、赤ちゃんだったことがあるし、
タンクの中で漂う無数の綾波レイだって、赤ちゃんだった過程を通って
きてるんだろーし。


▲赤ちゃんとは何か?

器官なき身体なんつータームもあるのかもしれないけど、
まず、全てが未分化な存在が、赤ちゃんでしょ。

羊水に浮かぶ赤ちゃんは胎盤を通して栄養の供給を受けます。
これは分子レベルでの欲求と充足。
このレベルでは欲求と供給はプラスマイナス・ゼロな自然な均衡状態で、
必然的に自動的に行なわれてます。


▲4歳以下の記憶では?

4歳以下の子供にインタビューすると
出産時の記憶があったり、子宮の中でのデキゴトを憶えていたりするらしい。

しかも、早く外へ出たかったという気持ちを持っていた子も少なくないみたい。
帝王切開では手術されてメスが体内に入ってくるのを憶えている子供もいるくらいです。
恐かったという子もいたとか。


▲分離不安はホントか?

つーことで、出産にともなう<分離不安>というのはホンモノか?
という疑問があります。

フロイトやキルケゴールは、人間の不安の根源的な根拠を出産・分娩にともなう分離不安として
取り上げてるけど。現実の出産時の記憶では「生まれるのはイヤだった」という子はいないようで、
その逆に「早く生まれたい」という記憶があるケースはあるみたい。