羊通信 2003.4.1〜7.31

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TYO & SKYDOMO羊通信ネタちょー(ネタ募集中)
★ 戦闘美少女だよん/★ 不過視界の精神分析/★ 2ちゃんねる宣言だよん

■『動物化....』の示すものお・・・   2003/7/31


データベースによる分析で自分がプロファイリングされてしまうことに対して、
個人が反発してみせても、それがどの程度のものかという東さんの指摘がクール。


   「そんな数字の羅列は自分ではない」「私は私だ」と叫ぶのは
   簡単にできる。けれどもそれは自意識の問題に過ぎない。

          『自由を考える』P191東浩紀(東浩紀・大澤真幸/日本放送出版協会)


精神分析やラカン的な孝察を無効?だという東さんそのものが「自意識の問題」を
フォーカスしてるという事実が興味深い。


    
   大塚

   それは外的環境の問題でしかない。

   東

   でもそれしかない。

           『新現実』P122(創刊号)


データベース化であれ本源的蓄積であれ、そういった外的環境=マテリアルによって個人が形成されている
事実はK,Marx以来の基本認識。ラカンがそれを現実界と命名しようが、どこかの思想家が他者と
呼称しようが、それが異界だろうが外部だろうが、それらに個人が規定され規制されているのは
事実。そしてもう一つの事実は、個人はそれに働きかけることで生きている、ということだ。

人間の生は環境を認識し、物理的な運動を介在させて環境を摂取し....という不断の認識と
アクションの終わりなき日常でしかない。ハイデガーの示唆したとおり、環境へのあらゆる働き
かけは交換可能=資本主義だが、やがて死んでいくしかない個としての生はオリジナルだ。

あらゆる問題が個人の問題としてしか取り扱われなくなり、共同性が説得力を失い、象徴界が機能
不全に陥っているならばこそ、個人の精神分析がクローズアップされてくるのは当然だろう。東さんは
否定神学的に精神分析の必要性を訴求して廻っている。(W

東さんの『動物化するポストモダン』は、吉本さんが『共同幻想論』を書いてみた理由を考えると
興味深い。『共同幻想論』の前提になっているのは個人の認識=心的現象への孝察である『心的現象論』
だが、この難解で評判の理論は、その重要タームのひとつでさえ、いまだにまともに理解されていない。

東さんに関していえば、『動物化するポストモダン』における『心的現象論』はいずれか?という
問題が設定できる。しかもそれが、デリダの後継への戦略のように理解しにくい。あるいは探しづらい。
ただわかるのはこの東さんの意図せざる戦略こそが、キャラそのものなんだろうということかもしれない。

どーよ。ニャオン



■『FUTON』・・・   2003/7/27


おおお、今日も新聞の書評欄で○○評の隣に目立っているのが、『FUTON』への書評。
129回直木賞推薦候補でもある!!!つーことで、スゴイ。



     かくも手のこんだ仕掛けを
     一気に読ませる筆力は
     とても新人とは思えない。



という仏文学者さんの書評がすべてを物語っていまーす。



■日常の解決かあ・・・   2003/7/27


たとえば、「外化」「疎外」「表現」などがニュアンスは違っても同じ概念を示しているとゆーことが同定できない人間には、
マルクスや吉本理論はチンプンカンプンなのは当り前。
逆に、異なるモノゴトから同じものを見い出せる能力=構成同一性だとか同定認識があるならば、世界中のどんなデキゴトにも
解答をみつけることがカンタンだったりします。


     人間は人間に解決できる問題しか提起しない

というK,Marxのおコトバは真理かもね、っと。


日本の哲学界の最高峰だったらしい広松センセーをいずれにせよ構造主義≠ニ見切る
ことができた浅田さんを超えるべく、と。



     「疎外」とか「物象化」という概念がなければ、
      資本主義がなぜいけないかわからなかったわけですよね。

                    (『自由を考える』P203大澤)



とゆースルドクて当り前の指摘どおり、「物象化」だとか「疎外」とゆー象徴界認識がない限り、現実界そのものである
リアルワールド=資本主義がわかるワケはありませーん。
で、「外化」や「疎外」のちゃんとした定義もできなきゃどんな理論もわかりやしないし、ましてや共同幻想なんつー
タームでたじろいでるとマックの椅子の固さの意味なんかわかるワケがないでしょー。ウーム、東さんの問題提起って
いつもラジカルだし、人間が2人いれば権力が生じるコトをアッサリと示しちゃった宮台さんとか、日常と大衆に全てが
あるコトを知ってる思想家って、まあ、吉本さんをはじめスゴイワケです、とか思って今日のカキコだよん。
とゆーワケでえ、可能性の中心≠ヘあ、ドコでしょかー?



■キチがキャラになるとき・・・   2003/7/24


   何かのきっかけがあると、目から鱗が落ちたようになる。
   突然、秘められた関連が明らかとなる。
   その結果患者には現在と未来がはっきりする。

            (『統合失調症』P186に引用されたクレペリン『パラノイア論』)


これがキチさんやデムパさんが自分なりの心身の安定をゲットした瞬間ですね。本人は世界がわかったとか
悟ったつもりなんですが、マテリアルな状況や他者との整合性および共通コードがなく、まさしくキチな
世界観が独り善がりに成立し固定化しちゃいます。

キチ本人は心身共に安定しますが、これは「第二の屈折」とか「静止期」と呼ばれ「自分の世界像」を確立した
にすぎません。そして多くの場合この心身状況は被害妄想から移行した支配妄想でしかありません。
それは症状の固定化のはじまり、つまり「慢性化」です。

とゆーことで、ここでキチという病はキャラになってしまうワケです。
本人は悟ったりわかったりつもりであり、そこにハツラツとした喜びまで感じたりしています。
境界例とかもそーかな。


   ある程度発展した支配妄想に囚われる人は、
   それから離れることが困難になります。

   クレペリンのいう「精神的荒廃」への最大の道が
   この支配妄想の愉悦によりもたらされる、と考えられます。

            (『統合失調症』P123「第五章迫害妄想の展開」)


これを開眼だ覚悟だとする宗教者は少なくないワケです。つーかたいていがコレでしょ。マテリアルな環境との
整合性のない世界観を絶対視し、マテリアルな環境の方を間違いだと断定します。自分の世界観以外を平気で
否定する異常性がここに成立します。それを実行に移したのがオウムでしたね。ま、ナチスもそーだし。
何らかの他者への攻撃的な姿勢もそーだしね。

ただし、現在の最新の形態は宗教というより瘉しじゃないでしょーか。大きな物語が衰弱し共同性のレベルでの
アプローチが説得力を失った今、オレは神だ≠ニゆー荒唐無稽な妄想は消失しましたん。

んが、しかし、デムパな支配妄想的な自己充足は対幻想のニュアンスを強めた対面的な関係の中
ワタシがアナタをイヤシてあげる....とゆーような形態であちらこちらに散見します。
この場合「ワタシ」は「イヤシてあげる」ことでかろうじて自己認知を得ているワケで、あくまで自己を認知する道具として
他者である「アナタ」を使っているだけ。そのためにイヤシ行為を拒絶されたりすると「ワタシ」はキレたりします。
「アナタ」や他者の立場になって考える思いやりのかけらも無い異常性や犯罪性がここに発現しちゃうわけ。
末期がん患者にイヤシを拒絶されて「死んでしまえ」とその患者をののしった自称「パワー治療」「気功士」(おまけに宗教家も自称)とか、
まあ現実にはネットにもストリートにもsampleがオーバーフローしてるもんで、スゴイな、現代って、てなワケです。

もちろん、ジジェクが「妖怪」だと指摘した、カトリックによって最新の悪魔の形態と批判されたよーなたまごっちみたいなモノゴト。
これらは独り瘉し≠トなニュアンスをもった流行や現象でもあるでしょー。その総体が資本主義だし、尖鋭的に生成してくるのが
サブカルだもんね。

支配妄想を充足させるために相手を必要とするイヤシは他者にメイワクがかかりますが、
サブカルは独りアソビなんで、なんです、ウチワにウケル必要もあるし、商品として成立させていく必要性もあったりするんで、
意外とマットーだったりもします。サイテーゲンお仲間にウケないとだめだしい....と。W



■個の<動機>とかあ2・・・   2003/7/20








■マルクス吉本浅田だあ・・・   2003/7/18


ムズカシイのは読みたくないしー、と思いながら読んだのがマルクスの『経哲草稿』でしたん。経済哲学ノートね。
結局スゴク面白いんで、その後イロイロ読んでみましたが、いわゆるニューアカへのスタンスはマルクス読解のガイドを
期待したものだったよーなもんです。資本論のガイドなんつーのはガイドのガイドが必要なもんで、そーゆーメンドクサイのは
国内有数のマルクス系講義でウケてりゃイイワケだしい、てなもん。
まあ大学の講義じゃ日本初の東欧社会主義の分析の授業があり、しかも講師は東欧在住20年以上とゆー特派員。東ドイツ当局
なんかの信用もあって世界初の東西境界の地雷原の写真など資料も豊富。長期間の在東欧生活による観察は鋭くて説得力もありましたん。
労働者がみーんな別荘を持ってるとか、学費や医療費は無料とか。自由の無さを差し引いても現在の日本よりいい面もありそーで、
新鮮な情報と分析でしたね。おまけに2000年前後でのソ連の崩壊を予想したり、小室直樹先生のソ連邦崩壊の予言より早いワケで。
所有形態別の農地の収穫率や人口変動、民生品の技術レベルなんかを調べれば分かるのは当り前だしね。マテリアルとテクノロジーの分析つーこと。


アート系で興味があったのはシュールレアリズム。驚いたのはその表現でもなんでもなくて、思想的政治的スタンスです。
クセジュ文庫のシュールレアリズムの本を読むとそのベースはマルクスとフロイトだと説明されてましたん。芸術家が思想と精神分析かあ
などと思いながら調べてみると、ダリ以外の多くのシュールレアリストが共産党員だったりしました。アラゴンなどを除けば党を離れた人が
多いですが、それでも一度は完ぺきに政治に染り、また活動の最盛期はマルキシズムと精神分析を支えにしていて、最期まで思想的であり
左翼的であったことは注目に値するでしょー。日本でも大島渚だって安倍公房だって共産党員だったわけだしい。一般的に日本ではアート系は
非政治的で、あらゆる日常からも乖離してる印象がありますが。これがもー大きなマヤカシでありゴマカシであり自己欺瞞だとゆーのは当り前。
非政治的であることによってリアルな現実から距離を置いて自己保身を図っているだけのヘタレなワケでしょ、ホントは。


批評は他者や現実に切り込むことによって何をしようとしてるのか? 批評することの第一義は批評者の自己表現。これは仕事することの
第一義は労働者の自己表現だと分析した資本論の主張と同じですが。でもその次の展開が全然違うでしょ。資本論では自己表現で産出したモノゴトは
今度は商品として共同性のレベル=市場へ出ていくワケ。この時、商品の生産者は固有名の表現者から市場への普遍化のなかで
無記名性を高めていくんだとゆーこと。このココでのオリジナルな指摘は資本主義下で商品がアウラを失っていくという
ベンヤミンの指摘を実存のサイドから観たもので。そんなワケで批評性が作品(の在り方)として商品化する一方で、批評を気取った
低レベルの自己表現がオーバーフローしつつあるのも確か。以前表現者の卵としてはある程度いい質をもってるなあと思ったヤツが批評に否定的だったのに
著名になりつつも批評を仕事としてるのをみると、ちょっと複雑だったりしますが。W んなわけでえ、中森明夫さんや村上春樹さんの仕事はなかなか
超えられないもんでしょー。


最初から全集を買って読破したのは吉本隆明全集くらい。他の書籍はアトランダムで、必要や気粉れに応じて読むだけでしたが。性的コーフンを
覚えると三島由紀夫さんが宣伝した意味はわかりませんでしたが、その批評の仕事の辛らつさとラジカルさは確かにエキサイトするもんでした。
ま、それとは別に初期三部作の理論書は永遠で深遠な問題提起と分析に満ちていて、また詩人でありながら東工大モロダシのマテリアルでテクニカルな
アプローチが新鮮でしたね。ソシュールの紹介以前に言語論を打ち立て、マルクスの経済学批判を参照しつつ事実上の
政治学批判を問い、ラカンを手にする前に心的現象を理論化したワケです。特に難解で有名であり、それゆえにシカトされる事が多く、
今もってまともな分析や解説がどこにもない『心的現象論』は心の資本論みたいなもんで、吉本隆明さんの原点であるよーな問題の書でしょー。


『心的現象論序説』の18年後になる浅田彰さんの『構造と力』の登場は大きな期待でしたん。カタカナが多いトコなんかツカミとして大事
なんだけど(W)、内容的にはもちろんラカンの解説本であり、大学の新入生へのマニフェストでもあったとゆーオマケもつきます。精神分析だけではなく
言語から哲学までフォローし現実社会への分析を当然視したスタンスは欧米思想のダイナミズムを教えてくれます。これは吉本隆明さんがフーコーとの
対談で感じたダイナミズムとも通じるかもしれないですね。ところで浅田さんはある鼎談で吉本理論を激しく非難しました。タームがいい加減な造語で
メチャクチャで詩的だ、とゆーものでした。造語といえば<遠隔対称性>や<原生的疎外><純粋疎外>などなど。ちなみに共同幻想は
ME(マルエン)用語であり、対幻想がオリジナルな概念としてあります。理論的に行きづまった者が詩へシフトするのは柄谷さんや
浅田さんがハイデガーで指摘してるとうりですが、詩人の吉本さんが理論を生成せしめたのには圧倒されたんでしょーか?


クールなはずの浅田さんが駄々っ子のように吉本理論を激しく非難した姿に感じられるのは「知覚変容体験」風の発作で、わからないんだもの、という愚痴と
嘆きは発作の結果の「ベイトソンの「学習U」」の不全....てな感想を『文脈病』を参考にしながら指摘したくなっちゃう自分のサガも打ち止めにしたいな....
などとも思ってもいましゅが。でも浅田さんの部分的な思索と微分的な認識にとどまる主張からも大きな収穫がありました。それは対幻想への孝察を深める
ことと、何よりもそれを表現できる可能性のキッカケになったことです。『構造と力』などにでてくる<時点ゼロ>や<双数性>といったターム? 
<パラドキシカル・ジャンプ>のように理論と実践や具体と抽象の連関を示せるカンタンな言葉。そしていちばん重要な構造主義への始末をつけ
ラカンを超える道程を示した主張そのもの。問題はニューアカ世代でさえ、そのどれひとつをとってもクリアできてないコトでしょーか? もちろん宮台、
斉藤、それから大塚、プラス東といった人たちは独自に超えつつあるんで、ウレシイんだけどさあ。 



■個の<動機>とかあ・・・   2003/7/15


<あらゆる表現は何かの喩えでしかない>とゆー真実は批評の究極ですがあ、それだけじゃ、あんまり意味がありません。
そこにはちゃーんと探るべき大きなナゾが2つあります。

ひとつは、<何か>とは何なのか?とゆー大切な問い。
つまり、<何か>を探ることでーす。

もうひとつは、<あらゆる表現>が<喩え>だからコミュケート⇔表現・受容できるんだろ?とゆー問いとその答え。
もし<表現>が<何か>そのものならば、<喩え>は生成し得ないでしょー。

別の見方をすれば、<何か>そのものではコミュニケートできないワケですねー。
つまり、コミュニケーションの前提である受容→意味→価値判断とゆーもの以前の状態?とゆーか、
存在そのものみたいなものが<何か>そのものです。
まあ、意味以前つーことは<強度>なんでしゅけど。
または、<時点ゼロ>とゆーやつです。
あらゆる認識の原点にあり、共同性そのものを生成させ、
個の<動機>そのものですらあるもの、ですね。

この強度を原点とする動機が、いろいろな認識を認識したいよーな認識として生成させていきます。

つーことでサンプルがないとね....とゆーことそのものが
<喩え>がないとねとゆーことのサンプルだったりもしますがあ。にゃお


たとえばsampleってゆーのは....


   ずっと何か違和感があって なんだろうって考えてたら
   最近やっと自分が変なものが見えているのに気付きました
   それを意識して見ようと努力してみると
   それは真っ黒で 小指くらいの大きさのモロ「害虫」っていう嫌なフォルムで
   視界の上のほうをつねに飛び回っています
   僕がそれに近づこうとしても それは僕と一定の距離をとり 触る事が出来ません
   それはいつも僕が一人でいる時現れます
   心理学ではこんな時どうすればいいんですか?


こーやって某BBSからカットアップしてきたりします。
で、説明は次回、と。



■ひっきータンデム意味不明・・・   2003/7/10


「ひきこもり」が話題になりつつあったころ思い出したのがガキ時代。
小学校の頃とかどーしてかイジケちゃって学校へ来なくなちゃった友だちとかいなかった?
小学校にも中学校にもそーゆーヤツがいたもんね。まあいじけた原因は知らないんだけど。

で、一人は小学校の頃仲が良かった友だちだったよーん。
家から何10qも離れたサイクリングはそいつと一緒にいったっけ。
山道のカーブで、車が通り過ぎたら、それまで走っていた別のチャリンコ少年がいなくなったりしていた。
探してみると神隠しじゃなくて谷底に(落っこちて)いたワケで、近くの村の消防団の人に連絡してワテらはサイクリングを続行....
でもツキノワグマが出たんで危険〜〜〜てなスタンドバイミーな日々を過ごしてたもん。
で、谷底少年はダイジョーブだったんだろーか....。呼びかけに微かに動いたかどーかってな風だったけど。

が、残酷でクールな少年たちの任務はタイムテーブルどーりに続行されちゃうワケです。クール!
そーなんだよ、結構クールなんだよ、少年時代ってね。

このタイムテーブルどおりにいくことこそ通過儀礼の最たるモンだと思います。
だから途中で何があってもゴールまでの行程はタイムテーブルどおりに実行されていくんだよね。
途中で起こる何か=空間的な障害なんつーものは超えられるべきアイテムでしかないし、単なるダンジョンでしょ。

重要なのは「行程」をこなすことだし、「タイムテーブル」どおりに進んでいくこと。
で、この「タイムテーブル」には文字どおり時間的な延び縮みがあって、それが緊張と弛緩をもたらしてるのが文化だったりするね。
ま、個人的にはまったりだったりあせってたりイキがってたりトンがったりするもんで。
病理的には神経伝達物質の24時間分の定量とタイムテーブルが12時間に圧縮されたり48時間に伸長されたりするのが、
躁状態や統合失調症あるいは鬱状態だったりするわけで、マテリアルに体内代謝物から分析できちゃうもんでもあります。

ところでえ、
通過儀礼とかゆーと何か空間的なワクがありそーだけど、ワクなんつーモンは地域や文化によって異なってくるフォルムに過ぎないからね。
このフォルムを頑固に主張するのがナントカ主義とかイデオロギーに過ぎないもの、でしょ。
たいていはアタマが悪いヤツが主張するから地域的な呪縛から逃れられないで、その地域の面積の相対によって国家主義だったり
パトリオシズムだったりするだけ。所詮ワクにはめられらた認識でしかないね。これが個人の内面でのワクなら統合失調症レベルでしょ。

そんで、
フォルムAが地域Aの文化Aを枠組みとする通過儀礼ならば、それは地域Bでは通用するのか?
あるいは文化Cにおいてはどーゆー風に評価されるのか?
....つー問題があります。

うんで、
現実には地域Aで通過儀礼を経て成人してると認知された大人は、
地域Bへ行っても大人として通用するんでしょー。たいていは。

問題は地域Aの通過儀礼を地域Bでも同価値と見なすかどーかとゆーこと。
いわゆる価値観の違いなんですが、コレが文化の違いそのものであって、
文化と教育で争いや戦争はなくなるよ!なんつーヴァカな主張をみると、
「ガラクタ通りのステイン」なんか見ながらクスっとかクスンとかしてる方が、
いいです。

いきなーり、
HALCALIの「タンデム」聴いて、まったりステップしたりしてます。にゃお
庭に来るパルバンはうるさいしい、ウチには指輪トカゲみたいなヤツがいるしい....。

つーことで「タイムテーブルどおりに実行」とゆーのは時間経過のことじゃありません。
「行程」の順番のコトでーす。経過に費やされる時間は延び縮みしてていいんだよーん。
ま、いまどきは延び延びトレンドなんで、まったりね、っと。
そのご主人さまはひっきーさん、と。OK?



■「ひらきこもり」のすすめ・・・   2003/7/6


『「ひらきこもり」のすすめ/デジタル時代の仕事論』(渡辺浩弐・講談社現代新書)が面白いよん。
ひっきーやオタクについてスルドイ孝察を繰り広げてる理論書だのなんだのは、斉藤さん東さん宮台さん吉本さんまで含めて多いですが、
この『「ひらきこもり」のすすめ』は現場からの声そのもの。

内容は、一度も就職したことが無い渡辺さんの主張と彼への相談メールへのレス。
専門用語もなく平易な文章で、しかもどのページから読んでもOKでカンタンに分かるのでマル。
しかも元気になれる内容で、そのヘンが大変いいかも、とゆー風です。


   ひきこもりのどこが問題か、ちゃんと言える人がいるだろうか。


....なんつーコトバから問題提起されていくんで、何か勇気づけられちゃう人もいるでしょー。
こーゆーのって実際には一番大切な効果なんだよねえ。

ひきこもりが問題なのは本人の意識しだいである面が大きいのが重要でしょー。
この意識の分析こそが精神分析だし、その自覚による自己コントロールこそが、快復?であれ、
治癒であれ、持続であれ、いちばん大切なところ。
ひっきーが社会的な病理だとか、経済に悪影響だとかゆー外部からの論点は、
左右のイデオロギー闘争なよーなもんで、東・大澤ラインのよーに切断してほしいもの。
ひきこもりを生成可能にした環境への孝察は現在展開されてるよーにスルドイ孝察があるし、
その内面への分析も日々すすんでるのでOK。

なワケで、キキメ即効しかも批評性バツグンでもあるのがこの本でーす。

会社の仕事のホントの意味は、
自分の出番を作るための「仕事を作るための仕事」や「時間つぶしのための仕事」が8〜9割も占めていることを見抜き、
しかもそーゆーことでしかアイデンティティを保もてない人がいて、そーゆー人を守るための無駄な形式が会社だった
....とまで指摘しちゃうスルドサ。
まるで資本論どころかドイデ(W)なんかも思い出しちゃうほどラジカルな問題をカンタンにえぐりだしてるんで、
もー、OKです。にゃお、にゃお、ガオオー


   ごますらないとリストラされるって?
   上等じゃないか。
   自分の方から会社をリストラしてやればいい。


つーことで元気でサイコー。

そーいえば、ワテら下請け(公文書用語)クリエイターをコケにしていい気になってた会社に数億円から10億円?以上かも
とゆーマイナスをプレゼントしてあげたことがあったけど、「オマエに死をくれてやる」ってな感じで、
もーケンシロウっぽかったりして、自己満足なセイシュンを思い出したりしちゃいました。WWW
ギンギン裁判やって数百万円支払わせた知り合いもいたっけなあ。



■BVSCマンセー・・・   2003/7/1


世界の帝国アメリカにミサイルをつきつけ、
電光石火の攻撃でアンゴラ政府軍を救い、
イラケレの演奏にプロがぶっ飛び、
選手引退後の長嶋がビビッたキューバ。
NYのカーネギーホールで
陽気な革命国家の国旗をなびかせるエンディング。


ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ


村上龍作の高岡早紀主演映画『KYOKO』のダンスもよかったけど、
『BVSC』にはブッ飛びマウス。
村上龍さんが撮ってきたキューバのダンスのドキュメントがあったけど、
まだDVDとかであんのかね。以前LD買いそこねたのが残念だあーよ。

ガンコおやじカストロの独裁だけど陽気で明るいキューバ。
欧米で成り上がりとエラソーな俗物が吸う葉巻をモクモクとガキの頃から吸ってるキューバンボーイズの
ダンスもいいけど、枯れたジジイどもが踊る超スローなステップがたまりませ〜ん。

アフリカの内戦に電撃のよーに介入するキューバ軍に、
速攻の打撃と走りと展開で敵チームを破る野球と、
ストップモーションのよーに音楽を奏でるキューバのミュージシャン。
そして人生イケちゃったおじいさん達のスローなステップ。
まあ関内とか本牧あたりにゃこの手の人が居るかもしれないけどね。
本牧辺りでセミオープンカーで夜明けを待って星空を眺めて過ごしたりしたっけ、な。



■どーでもいいけどバカア・・・   2003/6/28


どーでもいいけどMステーションを途中でポイしたタトウー(t,A,T,u)ってやっぱバカ?
つーか自分たちだけの番組じゃなかったとかなんとか、疎外感を感じたとかなんとか....。

なんかなー、よーやくシンセサイザーとかが買えるよーになった新人類世代のセイシュンの頃にさあ、
新星堂とか楽器屋さんやメーカー主宰のバンドのトーナメントだの地区予選だので、
「こんなのサイテー」とかいってボイコットしたりする、バカなバンドと同じなんでさあ。
マテリアルな基盤がおくれてる国って、ほんとにメンタルな面でもおくれてクンなんだよね。
タトウーもカッペも東京で気おくれするのは当り前かもしれないけど。

今や東京はひっきーがイッパイ。
秋葉原つーか、アキバなホコ天はひっきー天国だしい、そーゆーとこって推定少女の方が似合ってる気がしますです、にゃお。
さすがシェリーの娘って、あーゆー顔なんだね、キレイでかわいくってどっかエロいもんにゃ。

タトウーはどーでもいいけど、
ロシアのスパイスガールズつーかチャーリーズエンジェルてゆーかバナナラマ(W)みたいな、
大人のロシア美人ビシバシのトリオのネーチャンはとてもチレイです。うふ
あれなんつーグループ名だったか忘れちゃった。



■見っけ!・・・   2003/6/24


あれ!

つーことで新聞の文芸時評欄に知り合いの顔写真を発見。
オーオーとうとう登場ですなってゆー感じで、今後の展開に期待。
最初から文章が上手かった数少ないライターの一人。つーか、ほぼ、この人オンリーだったかも。W
高橋源一郎さんもベタぼめするワケです。
それだけじゃなくディテールから帰納する視点がバツグンで、
コラムやエッセイを書いて、それを批評へ展開しても説得力があって、
まー、なんつーか、プロよりレベル高い人です、ホントに。もープロだろーが。
ココのWEBスタート時にも活躍してくれたし。


で、仕事の醍醐味はこーゆー人を探し出すこと。
担当した雑誌のバブル末期から崩壊後にかけての制作のコストは一号分で600万円くらい。
ほぼ1頁あたり10万円。海外取材ページやカラーグラビアにコストを集中させて、
モノクロページは費用を抑えるのが常識ですがん。
費用を抑えたモノクロページで考えたのが新人発掘。
才能のありそうな人を探し出してきてコラムやエッセイを書いてもらったり、
イラストや作品を写真で登場させたりするページ。
同業者としていいライターがいないので、ライター探しには特に力を集中したワケです。


 日本ではじめてストーカーという言葉と問題をひろめた人。

 日本ではじめてピアソラとその音楽を本格的に紹介した人。

 日本ではじめてコミックを外国の観点から批評した人。

 日本ではじめてOL研究の本を書いた人。

 日本ではじめてスタイリストとして有名になった人。

....つーことで、はじめてシリーズができちゃうほどの新ジャンルを
やがて切り開いていく人たちを何名も発掘。

こーゆー人たちを探し出した条件は2つだけん。
ギャラが安いこと、才能があること....
無名の新人でギャラをもらったことがない人なので安い!
でもいきなり記名で書いてもらいたいほどの才能!
....つーキビシイチェックをオーライした人だけピックアップ。
別仕事では有名ライターの原稿を没にするほどシビアな査定?をクリアして
登場してもらった面々は、さーすがなんだよねえ。
で、実際には他誌の数倍以上のギャラを払いまくりましたねん。
だって才能に対価はトーゼンでしょー。つーことで資本主義マンセーです。

他にもカメラマンやイラストレーターにテキストを書いてもらい、
ジャンル違いの人のライター能力に感激したりしました。
いちばんつまらないのは職業ライターだったので、
非ライターのテキストと、新人ではじめて記名テキストを書くライターの才能や視点には
日々感激の連続。掲載された原稿を読んで問い合わせてくる国内トップの雑誌社や大手の新聞社も
あって、手応えを感じたことは多いですが、実際にほぼ全員が今や有名人ですねん。
どの仕事も何もかも結局「人」なんだよな、とゆーあたりまえの結論は昔も今も変らないんでしょー。

発掘し登場してもらった人たちの多くがひっきー系。プレゼンや交渉が上手ではなく、ボンっと差し出す
原稿や作品に何かがみなぎってる感じ。数名は売り込みが上手だったり積極的だったりした人がいますが、
その後どーなったんだかな、な感じも無きにしも非ず。まいいかあ。
大多数が高い評価を得たり有名になった今ですが、ネットで宣伝・売文してる人がいないのも特徴かも。
このヘンに大きな秘密?があるんだよね。
技巧なしで、唯一第一の真剣な読者である編集者に挑み、テーマから内容、文体まで強大なチェックと抑圧を
受け、それをクリアしてきた人たちのスゴサつーこと。
誰にでも書けるものなんて、誰かにとって価値があるわけじゃないし、
安易な表出なんて、表現者のキャラが露呈してるだけでしかないからさ。
作品表現とゆーのはキャラ見せするコトじゃないからね。


うんでえ、それ以外にも、
専門誌以外ではじめてPC通信ネットワークの特集を組むとか、
専門誌以外ではじめてWEBの特集組むとか、
メディアではじめてメルマガを紹介するとか....。
それから少女民俗学で東京特集をやったり、
書評に必ずニューアカ系を紹介したり、
デカイ予算と権限を持つっていいね、と呑気に仕事しながら
100時間をヘーキで超える残業に身体はぼろぼろジョータイ。
つーか時間外労働時間の方が正規の就業時間より長いワケで、
おまけに新入社員が3ヶ月でマイコプラズマ肺炎になるよーな稲川淳二御用達のお化けビル勤務なんて、
人生も生命も捨てるよーなモンだったなっ、と。
前任編集長のどいつもこいつも数ヶ月の仕事寿命とゆー恐怖の銀座高野山。
まああそこまでプレッシャーがかかると何をやっても宗教修行以上のキツサ。
気がつくと身体はボロボロで、サイレースにやっかいになりながら、
歯ぎしりでへし折れたとこ治したり、メチオニンで活いれて仕事してんじゃ、たーまりませーん。

なんつーコトを、知り合いの紙面登場で、いろいろフラッシュバックしたりして楽しんじゃいましたん。

ところで、バブル当時にレースのF1関係のジャーナリストなんて、数十分のインタビュー記事が
30万円だったりしてビックリしたモンです。TVに出てるコメンテーターなんてロビーで数分立ち話で
5万円以上要求されたりとかさ。TVが雑誌の制作費の100倍とかいわれてたのはホントで、
ファッション雑誌のカメラマンなんかも日当が30〜60万円以上とゆー人がいました。
でもなあ、カメラマンいっぱい知り合いいるけど使える人って数名だよーん。
どこいっても、結局、キャラなんだよー。



■ゲシ・・・   2003/6/22


明日から、もー、日が短くなるんだよーん。



■すべては相対的ひきこもり?・・・   2003/6/21



   「ひきこもり」そのものを相対化させて考えてもイイと思う。
   大切なのは自分を知ることであって、ひきこもる対象じゃないからさ。


つーことをカキコしつつ説明を、とゆーことで。
「ひきこもれ!」とかなんとか「ひきこもりのすすめ」つーかひきこもりへの積極的な評価を主張してる人も少なくない。
吉本さんもそーだし、講談社現代新書にもひっきー?の人の本で、けっこう面白そうな本『「ひらきこもり」のすすめ』があったね。
また吉本さんのそういった主張をキビシク批判してる斉藤さんのマジメさもよーく分かるしなあ、と。
ITとかテクノロジカルな発達でひきこもりもOKでしょ、とゆー風なのが東さんか。
斉藤さんは共同体は必要だから、そこへのコミットがないとーてな感じ。

たださあ、臨床の現場で治療を目的としてるスタンスとは違うトコから考えてみる可能性だってあるでしょー、と。

まあ社会を眺めるときに特権的な立場や超越的な視点をコケにして、個別現存でしかない自己の立場をそのまま確保することができる
ポストモダンなジャッジは即効性もあってメリットもイッパイ、でしょ。
すべてを相対化できることの利便性はマトリックス並みだしい。(W

学校や会社がヒエラルカルに君臨し上位システムだと思われてる社会では、
学校や会社にいかない人はひきこもりだろー。
それと同じようにあるエリアに出て来ない人をひきこもりだとすれば、
クラブにいかないヤツ、カラオケをしないヤツ、吉野屋がキライなヤツ、病院がイヤなヤツ....
それぞれ(のエリア)に対するひきこもりじゃんよ、っと。
誰だっていきたくないトコや、得意じゃないエリアがあるだろー。

学校や会社へ行けない来れない=ひきこもり....とゆー発想は、
学校や会社が問答無用で権威化され、強制力や権力そのものになってる。

逆に、歴史的に見て宗教家や僧侶が世俗権力からアンタッチャブルだったのは
すべてに対してひきこもった存在だったから。

エラソーな大人が子供にアプローチできないとすれば、
それは子供に対してひきこもってる関係不全でしかないしね。

ひきこもりの根本にはあるエリアや物事が特権的に強制力を保持してるとゆー事実があることは
わかっていたいた方がいいよ、と思うんだけどさ。
どーよ?



■ひっきーメルヘン3・・・   2003/6/18


サイレースとアゴの骨に穴あけを何回か繰り返してたら7sのダイエットに成功!マンセー....つーのもつかの間。
体力消耗、やる気激減、痛み連日、眠気ガンガン、血清ドバドバで病人状態、つーか、まあ、口腔外科患者つーことか....。

つーことで、ひっきーのサカさんからのメールへのお返事その3で〜す....とカキコしよーかと思ってたら、
ココ読んでる本人からRESがきたんで、それにRESです。だからやっぱ「その3」つーことで。「その2」はこっち。


  >だから「ひきこもる心理的作用」は否定したくないけれど
  >ひきこもり続けることによっては社会的動物として生きることはできない、と。


「ひきこもる心理作用」は人間を個別的現存たらしめてる重要な志向性。いわゆるエスから離脱しようとする自我そのものだしー。
「主体を確立しようとするコト」そのもの。自我や主体性のベースになる大切なモンでーす、と。
極論すればあらゆる人間的営為のラジカルな大前提がコレ。論理的には自己言及そのものでもあって、それがないと
汝自身を知らないコマッタちゃんになっちゃうから、ダイジにダイジに大切に育むもんだと思いますヨン。いつか、また、そこに戻っていくことだって、あるしね。
それに「ひきこもり」そのものを相対化させて考えてもイイと思う。大切なのは自分を知ることであって、ひきこもる対象じゃないからさ。
何でも積極的でベラベラうるさいけど自分を知らないヤツなんてウザイだけでしょー。境界例や多重人格なんて他者には迷惑なだけ。


  >僕のような「ひきこもり」にとって大切なのは他者にコミットするタイミングなのではないかと思います。
  >確かに「自分探し系」の人たちよりは出遅れるかもしれません。
  >けれどうまく去勢されて通過儀礼を経ることでコミットできるのではないかと。
  >だから僕は確かに意識過剰だけれどそれによって去勢されつつあるのかもしれません。


つーことで、いきなり結論が絶好調つーか。

自らの生き方と意識そのものによって自らが「去勢されつつある」ことに気がついちゃってるワケで、
まあ、コレが、ひっきーならではの究極の自己言及だし、ムズカシイお勉強なんかしなくっても哲学にホイっと解答を
出せちゃうスゴサでしょー。わざわざエラソーな現代思想のナントカとかなんて読むまでもなく、シビアな内省から
こんだけのことに気がついちゃうのがひっきーさんたちのエラーイとこ。
哲学の入門書の字を読むのがやっとのヤツに限ってサブカル批評ゴッコなんてしてるのみると寒気がしますが。
ひっきーなスルドイメールや問い合わせには、あらゆる可能性の中心を見出したくなっちゃいます。



■自白剤?・・・   2003/6/11


つーことで、サイレ−スを注射される。
右腕の静脈に一回。

とたんに右腕から自分の身体が空間へ向かって融けだしていくよーな感じ。
あっという間に肘、肩へたっして、融けたマテリアルがデータになって拡散していくよーな....。
肩から首への浸透で、認識システムも宙に放散したもよー。

これは....いつか知っていたっけ....ディラックの海かあ....。

気持ちよく流体感覚を味わっていると、
無時間の浮遊から、
不意に人の声が聴こえてくる。

レーザー、レーザー

そしてドリルの振動。
無感覚の宇宙そのものを同期するかのように揺るがす低周波。

終わりましたよー
2時になったら声かけますからねー
休んでてくださーい

つーことで手術が終わる。
手術台で3時間ほど睡眠状態。

記憶にないけど、
なんか話しかけられて、
ハーイとか答えていたよーな気分。
スゴイ素直な自分がどっかにいたよーな....。
真直ぐに応答してる自分は小鳥の気分みたいな感じ。
人間からみれば自白剤をくらった存在並みかも。



   【商品名】 サイレース注 2mg1管 ( Silece )

   【一般名】 フルニトラゼパム ( flunitrazepam )

   【規格】 2mg/1mL

   【適応症】 1.全身麻酔の導入 2.局所麻酔時の鎮静



■ひっきーメルヘン2・・・   2003/6/7


つーことで、ひっきーのサカさんからのメールへのお返事その2で〜す。
順不同気味ですがいちおうメルヘン「その1」の続きっぽいよ、と。

周囲の人間が就職した後もバイトを続けながら何となく思っていたのが編集や出版の仕事でした。
しかし気持ちと現実には大きなギャップがあります。
ボク自身が小中学校の頃から作文が大キライで、読み書きの能力も優れてないんですよ。高校でも読解力以外はダメだったし。
やがて業界紙の編集プロダクションに入りましたが、自分で取材して記事も書かなければいけないんですよ。口ベタで作文が
不得意のヤツがやる事じゃないだろ!....と連日落ち込みつつ自業自得だから。先輩記者は「取材もダメ文章もダメか....」
と呆れられるし。しかし自己チェックしてみると業界のフォーマットにあってないだけで、自分の視点はマーケティングっぽいし、
文章はライター文体じゃないだけ、とオリジナルだと結論し、自分の能力を否定するんじゃなく伸ばす方に考えました。


  >ガンダムのアムロは「仲間」の元に帰っていきました。
  >キルケゴールは「自己」とは「関係が関係それ自身に関係するところの関係である」と言っていました。
  >他人とか社会を鏡にしなくては自分を確かめられないのだろうけれど
  >それは何の前提も無しにできることなんでしょうか?(キルケゴールは「絶望」と答えると思いますが)


「関係が関係それ自身に関係するところの関係である」という認識ができるのは人間だけですが、
関係や自己言及の連鎖というか入れ子構造は2重になるところまででOKだと思います。
たとえば悩んでいる自分を悩むというのは文学的かもしれませんが、それ以上のトートロジーは単なるウツ状態みたいなものでしょー。
相反する価値判断を悩むとすれば、その両極の判断の間で揺れるのを悩めばいいし、その「悩んでいる自分」をさらに悩む必要はないと思います。

個別的現存としてしか生まれ得ない<人間>が、同時に抽象的な感覚である関係意識(=観念)を持たざるを得ない<人類>という類的存在である
ことのギャップをいちばんダイレクトに問題にしたのはK,Marxの『経哲草稿』ですが、この問題は観念的に処理する以外にはない問題でしょー。
つーか<個><類>の問題を現実的にクリアしていく観念として対幻想がありますが、これは別にカキコします。
まあ<時点ゼロでバランスしている対幻想の双数性>が問題なんでしゅが....。

しかも意識の原初の志向性は個体志向か類志向かの相反する2つの方向しかありません。この2つの志向性の細分化と構造化が
人間だけの<関係が関係に関係する>ような認識を生んできたわけです。
神経回路そのものが同じような特性(情報の無限連鎖の可能性)を持ったシステムでもあり、そのために逆にそのマテリアルな構造化は
単に熱対流を合理化するという形態であることもわかってきています。情報の複雑さ(認識の複雑さ)は単に複雑さとして処理され、
物理的には情報処理によるエネルギー消費の効率を求めて進化して自然熱対流をそのまま模した形態が現在の脳の物理的な姿です。

マテリアルにはそういうものであり、どんな認識も価値判断もマテリアルな表出の合理性に収斂すると思います。
トートロジーで起動不能になるシステムは人間の特性であっても生命の利点や目標ではないだろうし、そもそも人間にとっても
それはある日ある時の通過点でしかないでしょー。
<終わりなき日常>という無限連鎖を今日は今日だけのものという風に過ごしていくのがリアルだと思います。
繰り返しでさえ無いよりはマシなジェットコースターみたいなもんなんだから。人生つーか、ね。


で、その頃はフリーターとゆー言葉がなくて「アルバイト生活者」と肩書きつけたら読者にシカられたことがあってショックでしたん。
友人知人が就職していく中でアルバイト生活なんて誰から見てもいい加減でヴァカだったんでしょーね。
その周囲のジャッジに無頓着だったのは羊くんのバカさであり、気にしないのは強さでもあるかも、です。
同調圧力に対して「関係ないもーん」とゆーことに勇気が必要な時代は窮屈であるとともに、強くなれるチャンスや必要性があったのも確か。

『構造と力』が漢字が少なくて気に入った羊くんは、カタログ文化にワクワクしてたタイプなもんで、
リストからザーッと選んでチョイスするよーなお気軽さと、選んだものを自分でオリジナルに加工するよーな
自己表現つーか自己実現のガキだったわけです。カタログ雑誌の代表だった「ホットドックプレス」がニューアカ用語とか特集してたのは
微笑ましい限りでございましたん。だってあらゆるものが商品化したわけだから、さ。

「ガンダムのアムロは「仲間」の元へ」帰るかもしれないけど、
羊くんは仲間とか友だちとかいう関係や共同性も特別なものには感じてないです。家族とか親類とかもね。
それより親しそうな関係性でもってリアルなバトルフイールドを覆い隠すよーな発想の方がイヤですね。
仲間も友だちもいつでも出会えるし作れるけど、そのコストより、自分個人へコストをかける方がいいもんね。
最近<一期一会>なんつーコトバがリアルなんで、少しフツーな感覚かなあ。



■「亀屋」でオフだよ・・・   2003/6/3


カツオ出汁ですが、なんつーか焦がしたよーなあの味。
えー、関西のウドン汁とは違う、あのカツオだしの味、わっかりますかあ?

そーゆーラーメンを食べながら、『博士の奇妙な思春期』をチェック。
斉藤環さんの戦闘モードがいいです!
コーヒーフロートのアイスも美味しいので、ペロペロしながらマーカーなんかひいてますが、
ここで通りをあのカイヤさんなんかが通ったら、なんつーかもー、ね。

甘味喫茶「亀屋」さんを後に帰途につきました。



■ひっきーメルヘン1・・・   2003/5/27


つーことで、

かつて2000文字とかのRESメールをだしてヨロコンでましたが、
あんたメディアもってんだからあ....という批判やご意見をちょーだいして、反省。

臨床つーか現場にいのちをかけてる斉藤さんたちのよーにマジメなワケでもなく、
浅田さん的お気軽つーか、ベンヤミン的ヘビーつーかにかこつけて、発信してるだけなんだけど、
メールへのRESなんかもココでカキコしちゃうものもあるワケで、そんな現在です、今。


で、ひっきーのサカさんからメールがきやした。
ココでオオヤケ?にして意味ありOKつーなもんを勝手にRESします。
そんなワケでメルヘンその1。


  >羊5さんが今の仕事の前に色々とアルバイトを遍歴されてきたようなので
  >お聞きしたいのですが社会的なリスク(既卒&年増)を負うことに対して
  >当時はどう考えていたのでしょうか?
  >もしよろしければ不安や当時持っていた見通しを教えていただけないでしょうか?


「社会的リスク」より社会からの同調圧力に自分が耐えられないリスクを考えてました。
個人的なリスクですね。友人知人には、個人的なリスクを回避するために就職しないヤツとか
大学院へ進むヤツとかがいました。もちろんバイトを熱心に繰り返して預金通帳をたくさん持ってるヤツとか、
就職しても転職を繰り返すヤツとか。転職やバイト生活がズイブン否定的にみられていたので、これらだけでも
勇気?や覚悟がいりましたです。

社会的なリスクそのものはあまり考えなかったですよん....とゆーよりあらかじめ社会を知りたくて
アルバイトをくりかえしていた感じです。社会に出るとか就職するというのは学校なんかよりずっーと長期にわたって
束縛されるわけで、それに耐えられる自信は全然なくて、その分アルバイトをとおして社会を知ろうとしてました。
仕事内容が社員と同じでもいつでも辞められるバイトは精神的にお気軽だから。

いろいろなアルバイトでの体験はキャンパスより役に立ちましたよん。武道館や中野サンプラザでの各種コンサートの裏から
名門企業での社内不倫や権力闘争、調査会社への政府の要求によるデータ改ざんや名門百貨店での価格決定の
メチャクチャぶりとか。土地転がしのブローカーの手伝い、正体不明の商社?や事業企画会社(なぜか欧米のある国への
直行便とかが無料で手配できたりした。いつでもホイッと乗れる)自分の奧さんをグルーピーとして差し出す興行関係会社の
社員とか。企業社会のオカシサをいっぱい知って経験値が上がりましたよ。

いろいろ経験して得られたひとつの結論はカンタンで、企業務めとか終身雇用とか、それに耐えられる人がやってるだけで、
それも考えてみればそれ以外はできないよーな人が赴いてるだけ、そー判断しちゃいました。

でも後日というよりその当時から企業務めができる人を尊敬してもいますね。自分ができないことや耐えられないことをできる人を
スゴイ!と思うのは当然かもしれませんが、後日カタナカ職業について仕事の現場でその絶大なギャップを知りました。
一見自由にみえるクリエイターとかって使えないんですよ。ただのワガママな自己表現でしかないものをクリエイティブとか
アートとかいってるオメデタさ。社会的コードを無視した表現は大衆を相手にした訴求力はないですから。自己チューぼうやは
全然通用しないのがプロの制作の世界なんですね。広告であれ雑誌であれ。デキル人は一度つぶれたつーか潰された経験のある人ですね。
だからリーマン経験のある人はデキル人ばかりでしたよん。まあアメリカなんかでも失敗の経験のある人しかトップにはなれないらしいですが。
敗北を知ってる人は強いし、何よりも人の痛みを理解できるワケで、バツグンの経験値なんですね。こき使われた経験があるとか、リーマンだったとかゆーのは。
よって抑圧された経験、こき使われた経験つーのは貴重でーす。無理やりワクにはめられるのは凄いストレスですが、何らかのワクがなければ
自己表現できないのも確かです。文法があるから言語表現ができるし、定型があるから詩は成り立つんで、自由詩は普遍化できないのも同じでしょー。
あとは自分なりのワクをつくっていけばイイワケだから。



■単・多細胞のギャップは?・・・   2003/5/24


単細胞生物と多細胞生物の決定的な違いは?

もちろん細胞がひとつか?orいっぱいか?なんつーことじゃーなくて。


地球に生命が登場して以来の大きな差異が単細胞生物と多細胞生物の間にあります。
そしてその差は生命に心=観念が生じる根拠にもなってると思われます。


ところで、
原初のバクテリアの無酸素代謝か有酸素代謝かという違いは、
代謝エネルギー量と効率の違いとしてそのまま運動量の違いとなり、
それは同時に移動の可能性の差となり、その結果は空間的な位置の違いによる多様化という、
そのまま生命発展の根拠にも目的にもなる現在の生物相を生成析出してきました。
それらは生物の多様性という空間的な属性としてあります。

そして問題は時間的な属性の最もラジカルなカタチとして現象したもの....ですね。
それは、寿命です。ある意味で年齢でもあります。


単細胞生物には寿命がありません。細胞分裂し増殖しますが、
年齢もなければ寿命もありません。分裂し続ける限り生き続けているのであり、
トラブルによる死はあっても年齢による寿命というものはありません。
不死です。単細胞生物は不老不死なんです。

多細胞生物には寿命があります。
そして各細胞間の連関が次第に乱れていく過程は老化として考えることができます。
やがてくる回復できないほどの乱れはです。


多細胞生物の必然であり大前提は、複数の細胞間の正常な連関であり調整です。
いずれの細胞も常に他の細胞の状態を把握しつつ自己制御を行ってます。
細胞間の連絡は内分泌系から神経系まで複数の方法がありますが、
恒常的に多細胞体全体の情報を集積しコントロールする場として神経結節が登場します。

これには分散処理型と中央集中型がありますが、
中央集中型に生じたものが脳です。

そして脳の機能を情報処理として考えると、
情報の収集、情報の記憶、情報の行動への反映(思考判断)などが考えられます。

もう一度細胞単位で考えると、細胞は相互に状態を把握し合うことが生命維持活動の絶対条件ですが、
直に隣接する細胞以外のことは直接には知ることができません。
どんな細胞も情報を媒介にしなければ他の細胞を知ることができないわけです。

細胞がそれぞれ身体全体の細胞の状況を把握し互いに調節していくには、
常時各細胞が全体に関する情報に自在にアクセスできるシステムが必要で、
そのために各細胞からの情報を効率よく集積し、それぞれが素早く判断(反応)できるシステムが
形成されてきました。それが中央集中型の情報システム=脳です。

各細胞が物理的に把握できるのは直に接する隣の細胞だけですが、
多細胞生物のシステムでは代謝系や神経系といった情報によって遠方?の細胞の状態を知り、
さらにはその情報とその集積された記憶(抗原からトラウマまで)により、
現時点での態勢や行為の最適化をはかることができます。

情報の集中と集積のはじまりが心の本質的な原点ですね。



■東京かあ・・・   2003/5/21


つーことで、用事があって久しぶりに東京駅近辺へお出かけ。

知り合いのカメラマンのスタジオがあった周辺をウロチョロ。
この辺はバブル当時にベイエリアの一部としてもてはやされ、
スタジオがいっぱいあってにぎやかだったけど、
その後のバブル崩壊でちょっと静かに?
で、最近は近隣の高層ビルへ移る事ム所や会社があって、
さらに静かってゆーか寂しーくなり....と思ったけど、
歩いてみれば落ち着きやローカルな路面店があって美味しくて便利な感じ。
しかも、実際には会社や企業が抜けた後に個人やベンチャーな人たちが入居したりして、
バブルの頃とは違った堅実な充実感がちょこっとでてきてるよーで、マル。

話が終わって帰途東京駅へ向かって歩いていて、
『ノーライフキング』のラストシーンみたいな感じがして新鮮。

そーいえば『ノーライフキング』って元祖ひっきー作品だよねえええ。
まあ、個人的には『浴室』の方が印象が強いけど、あれこそ究極のひっきーだよなあ。
それだと『箱男』だってそーじゃんとか考えて安部公房ファンだったのを思い出したりすましたあ。
んで、安部公房に惹かれたワケが、あの文体だろなって気がついたのもそんな昔じゃないしなあ、と。
ローカル色を消した文体ね、ホッホッホホホッ。
モダニストのケンシロウだからな安部公房って。
村上春樹や吉本ばなな以前にあんなスゲー大家が居たコトを忘れてた気がするんで反省。
確かアメリカも当時のソ連でも東ドイツでも安部公房への人気と評価ってスゴッたんだよね。


感動できるほど新鮮な気分で、以前歩き回っていた景色を眺めて、アタマが巡るままに。
カッペでにぎわうとかゆーウワサの新丸ビルは避けて、
アキバの帰りにも、政府外郭団体へのプレゼンの後にも、DTPを知らない博物館系デザイナーとの打ち合わせにも、
しょっちゅう立ち寄ってまったりしてた平野屋へ、と。
ビーフカレーは肉も増えて合格な感じい。無難な喫茶店の王道をいく味を飲み込みながら
周囲でまったりしてるオヤジリーマンたちの会話に耳ピン。
生の情報収集はリーマン茶店タクシーの運ちゃんつーのは情報通の初歩&隠れテク。

仕事の行き帰りに全店フォローしてみた八重洲口&丸の内+大手町地下街も、
なんつーか全然変化が無い面もあって、世界最大の都市の中心部地下街の風景から
ルフェーブルなんか思い出しちゃいます。


   人々は
   ストリートで出会うのではなく、
   ただ行き違う....


まあ村上春樹丸出しな感じもしますが、
その行き違っていくだけの人々の最大公約数にしてたった一つの共通する属性に、
都市革命の可能性を見い出したのは類まれなマルキストであってルフェーブルならでは、とか思って満足。
それは「消費者」とゆー「受動性」をただ一つの共通項として、
せわしく行き交う人々に革命家が見い出した可能性なんでしょー。
石原知事が斉藤環さんに対してひきこもりの価値や可能性を尋ねたときに、
「ひきこもり完全な消費者ですから」と返答した斉藤さんの常識的卓見にマンセーな気分。

で、この東京駅近辺を歩き回ってるリーマンはともかく、
見物の帰途らしきウロチョロしてる人たちを見ると、
なんかもー日本て、なんかこー、なんつーか、どーでもいいけどねえ、な気分なのです。
J・アタリが日本を大嫌いな理由も同じらしーけどーさあ。
ボクはあ、キライでもスキでもないよ、っと。



■カベアナウンドウ・イメージ・・・   2003/5/16


現実つーのは壁です。カベ。
壁の向こうがどーなってるのか、何があるんだか、わかりません。
わからないのは現実界。とゆーのがラカン派さん。
マルクス的にはマテリアルそのもの、ね。


で、壁に穴をあけます。アナね。

穴から壁の向こうを見ます。

つまり、ちょっとだけ現実が見られるワケ。


でも、穴の位置や大きさ、穴をのぞく角度なんかで、
穴の向こうにある現実の見え方が違います。

この穴のコトをラカン派は象徴界と呼ぶみたい。
そして穴の属性はメディアとゆーものです。

この穴を指示表出と呼ぶこともできます。ウチら、ね。
指示表出は感覚によって知覚されます。

指示表出は知覚されたマテリアルな現実であって、
その見え方が変わるのは、見方そのもののせいです。
つまり感覚と感覚への機制ね。それから知覚した情報をどーゆー風に統合処理するか、
つーこと。

で、見てどーゆー風に理解するか自己確定するかは想像力の問題です。
想像界とオーバーラップ、ね。
そしてどーゆー風に「見方そのもの」を変えていくかは、自己言及と行為の問題です。
アクション、ね。マルクス的には労働ですが。
アクションとゆーものは既に運動知覚を含んでるし、行為への志向性は統合処理が前提でもあります。
ウンドウするとゆーコトです。

そんなワケで、実践的行為で享受するハズの対象を観念化したものがあります。
別の表現をすると、観念を感覚的に対象化したような幻想があります。
あるいは、指示表出を自己確定しようとする志向性そのものの対象化されたもの....


それがイメージ、です。



■次の時代のための吉本隆明の読み方?・・・   2003/5/15


『次の時代のための吉本隆明の読み方』(村瀬学・洋泉社)


最初、感動したのである。
すぐに、?と思ったである。
それで、ムカツイたある。


今、吉本理論を考えるコトは、たぶん役に立つんで、
こーゆー本はいいなあ、と。

でも、吉本理論への解釈がヘンだと、
やっぱヘンだよなあ、と。

そのヘンなとこを根拠にして
斉藤さんや宮台さんをコケにしてるなんて、ナニ? と。


以上、まとめて、ダメじゃん、この本。
と思いつつ、著者なりのトーナリティがあるのは確か。
でも、吉本理論ガイドにはならないなあ、と。
それにゴーマンでもいいんだけど、全共闘世代にありがちな解釈どまりで、
しかも自己チュー。この人、昔は切れた人なのに....
いわゆる吉本派とか、
一時的でも影響を受けた人たちの主張がいろいろあるだろーけど、
共通するのは、どれもこれも吉本理論からの乖離はスゲーよ、
つーことでしょか。

ボクが個人的に吉本理論との補完や異化結合?に可能性を感じたのは
斉藤さんや東さんや宮台さんたちの仕事であって、さ。
サブカルだろーがメインだろーが
ポストモダンだろーが同じ風に批評できるでしょ、
とかオタクとパンピーは同じ、とゆー東さんや斉藤さんのスタンスって、
可能性バツグンなんだけど。

K,Marxの「public-illusion」つータームが共同幻想と意訳されたら
とたんに混乱してるワケ?てないちゃもんは無しにしても、吉本さん自らが、
共同幻想を知りたかったらマルエン全集読めや!とカキコしてきた気持ちってサブイだろーな、と。

4月17日発行の本を4月10日に読むなんざいつものことなんで、
なんですが、飛びつき買いしただけの価値はありましたあ。
理由は、ぜんぜん吉本隆明の読み方としてはダメで、
次の時代のためにもならないでしょー、でも、やっぱ、
この手の人はヘタレだったか、とゆーサンプルにはなります、てな。

つーか、デフレ批判で岩井さんがツブレ、9.11で柄谷さんのビョーキがバレ、この本で村瀬さんのボロがボロボロ....つー感じなんです。

で、何か?

あー、悪口だと思われたらどーしよーと思いながら、
この本の内容よりはマトモだわなっとトボケてみる今日この頃でしゅ。

今日は鼻水とクシャミがしますた。
SARSつーよりサマーズな気分なんでつけど。
Tシャツ一枚はやっぱ冷えたかなあ。
チョコナッツのドーナッツは美味しかったでーつ。



■『新現実』のクール(W・・・   2003/5/11


  (新現実創刊号P122)
    
    大塚

   それは外的環境の問題でしかない。

    東

   でもそれしかない。



マテリアルを直視するってイイでしゅねえ。
あとはマテリアルにどーゆー風に働きかけるのか、だけ、だから、さ。



■『新現実』の感想つーか・・・   2003/5/8


『新現実』で思ったこと。
『新現実』の感想を書こうと思ってダラダラしてたら
次の号がでちまったのれす。それももう先月だっけか....
そ、その正直な感想....このラインナップって、新人類世代ばっかじゃーん、と。
オヤジだらけ、と。
ま、覚悟できてる方々らしいんで、いいですけどお。
あれ、東さんは....?


ま、いいか....
『新現実』創刊号のハイライトといえば、
東大コンビのナットウ論議でしょ〜。東vs大塚コンビね。
ネチッコ宣言しちゃう大塚さんに、ガキンチョの東さんつー感じで。


でもね、ここで、東さんへの評価が変わりました。

いいんです、アレで!


たとえば上野さんに批判されて応答しなかったり、
浅田さんにシカトしたり....。
ガキかよ、コノヤローと思ったんだけど。


東さんはガキのままでいいんだよーん....
とゆーメールなんかもらって
チト、考えてました。

つーか、ずーっと考えてたね。
こーゆーことは。

そんで結論。


大人なんかいない!

みんなガキじゃん。

ま、だから大人にならなきゃいけないんだけどさ。

ガキだからこそ目標ができたワケで、
イイんだな、コレが。

大人になる!

つー目標掲げて、
今日も終わりなき日常を生きるワケ。

くり返しでも、
無いより在った方がいい
ジェットコースターみたいなもん。

でも、ホントは、シーシュポス....だとか。



■「電磁波」メイワク3・・・   2003/5/7


今日、朝のTV番組にデムパ現役信者さんが出演。

デムパの本音をダイレクトにしゃべっていたので笑えましたん。

それはキャスターに「どうして20年もキャラバンを組んでるのですか?」とたずねられて、
急にベラベラ答えだしたところ。


   もっと早く(私たちのことを)知ってほしかった。
      
      この平和な日本で、
      攻撃されて定住できない(キャラバンを組むしかない)人がいることを。


とゆーことでデムパさんはよーやく注目され認知されたと喜んでいるワケです。苦節20年つーことか。(W
当然ヨロコブ理由はカンタンで、どーしてかというと「注目され」「認知され」ることがデムパさんの本当の目的だからです。
ココでずーっと指摘し続けてるよーにデムパからサブカルまで「ワタシを見て」以外に大きな理由がないワケね。

問題は他者に対して自己への認知を求めるクセに、表出や受容の共通コードを無視してるバカさ、なんだよね。

この意味では宮台さんや東さんの「象徴界が機能してない」とゆー指摘は表層的には当たっているワケ。

そして主体の認識が健全に生成していく過程(ベイトソンの学習!)での大きなファクターは「メディアと想像界(鏡像界)の相互作用」だ
とゆー斉藤さんが、もちろんスルドク正当なワケでーす。


基本的にデムパさんとパンピーは同じですが、
一応パンピーは他人にメイワクをかけないてな風なオキテを守ったり作ったりしてます。
まあその総体が歴史でしょー。

想像力に欠けるデムパさんは時間概念がオカシイので、そーゆー歴史とか、
それどころか日時の感覚や概念がオカシイかもしれませんね。インテグレートや歴史や
DBとは無関係で場当たり的でしょー、たぶん。



■「7.引き寄せの構造V」とかあ・・・   2003/5/6


   個体の心的世界は、
   それ以外の世界に関連づけられることによってしか
   存在しない。

   心的な世界は、
   既にそれ自体が自己妄想であり、
   他の事象と関連づけられる時には
   受動態である。
      


つーことで心的現象論の根幹となる定理でもありますが、シンプルでGOOD。
分節化オタクの産物でしかないタームとその恣意的な組合わせを理論とか呼んじゃって、
しかもそれを真理への探究のツールだと本気で思い込んでいるデムパアカデミンの無様とは無関係な
スタンス。いっそうのことホントに大学なんかはレジャーランド化すればあ、と思っても
エンターテイナーもパフォーマーもいなかったりして寒かったりするわけです。
まあ享受者のレベルもなあ、つー世界だけど。



■「電磁波」メイワク2・・・   2003/5/5


   共産主義者や左翼によるスカラー波攻撃?


だったらデムパさんはどーして共産党を訴えたりしないのか?
いくつもある左翼系の団体に抗議したりしないのか?

それに今現在トレンディなのは北朝鮮やアルカイダの残党といったチョー有名で国際的認知度サイコーのコマッタちゃん。
しかし、デムパさんは現実のコマッタちゃんや具体的なテロリストグループを取り上げません。
ナゼか抽象的な敵をでっち上げてる感じがします。

ここが重要ポイントでーす。

   実際に相手に対して抗議するとかの具体的な解決策を実行しない。
   そもそも現実的具体的な存在を相手にしない。
      
この2点ですね。


実をいうと、ここにもデムパさんの特徴が現れてます。

デムパさんは解決のために具体的で積極的な行動をとることがありません。
それよりも仲間を増やそうとします。
デムパさんたちの主張を認めてくれる人や賛同者をつのります。

デムパさんは自らの妄想の解決よりも、妄想を共有してくれる人を求めます解決より認知を求める....
これがデムパさんのひとつの大きな特徴です。

つーか、デムパさんは解決より認知される方が大切なんです。
だって、解決しちゃったら認知してくれるキッカケやデムパさんたちの出番がなくなっちゃうから....。

これがデムパさんの本音です。

つまり、「一般的には「ウケ狙い」であり「ワタシを見て」といったものと同様の認識です。」
....つーことなんだね。

そしてメイワクで恐ろしいのはこの先です。
認知してもらうために「解決しなきゃいけないコト」をワザとでっち上げたりします。

「われわれは攻撃されている」....
そして....


   「世界は破滅する」という妄想を通して自分たちの存在意義を主張し、
   認められようとします。


そのために、
「世界は破滅する」という事実を自作自演したりしますサリン事件がその代表ですね。

でも、個人レベルではそーゆー異常な主張や行動がそのへんにたくさんあるんですよん。



■415名でございまSARS・・・   2003/5/3


SARSの犠牲者が415名とか。
ふーん、日本の自殺者の1週間分ですなあ。
で、対策は?
え? おらおら。。。。



■「電磁波」メイワク・・・   2003/5/2


デムパの概要


   共産主義者の人工スカラー波兵器によって支配されている。
   左翼が電磁波で攻撃してくる。


つーことで電波です。デムパ、ね。
ポイントは、もちろん、「電波」です!


で、この「電波」は症状が進むと「パワー」とか「光線」になったりします。

症状が統合失調症の基本形である受動態のステージでは
「電波」を受けたり、支配されたりという受動性が前面にでています。
これが被害妄想であり、より一般的?なデムパ状態です。

そして、病気が発展して能動態へ進行すると、
今度はデムパさん自身が他人に対して影響力を行使しようとして、
「パワー」や「光線」や「念力」を自ら発するとゆー妄想にとりつかれるワケですね。
これが支配妄想であり、被害妄想をベースとし表裏一体でもある症状です。
この「支配妄想」という概念は『統合失調症−精神分裂病を解く』(森山公夫・筑摩書房)で指摘解説されたもの。
かつて東大で一世風靡した吉本理論研究のリーダーだった森山さんが、数多い臨床の現場から得た大きな成果でしょー。


受動態=被害妄想のステージでは、
患者主体は日常的に被害妄想を覚え、
困難な状況に対する回避や逃避など特定の振る舞いをするために、第3者にわかりやすいデムパさんだといえます。

しかし、能動態=支配妄想のステージでは、
患者主体が積極的に他者に関わって行くため、
一見正常にみえたり、あるいは躁病と誤認されてきています。
もちろん、何らかの働きかけを受けた側では、
一方的なアプローチと独断的な判断に異常を察することができます。




デムパの分析


   「電波」が意味してるものは何か?
   「電波」が指し示しているものは何か?


とゆーことですねえ、まず。

分析哲学でも、
現存在分析でも、
精神分析でも、
社会分析でも、
何でもいいから、分析してちょー。


もちろん分析できないなんつーのは問題外でしゅー。




デムパの意味


   「共産主義者」
   「人工スカラー波」
   「支配されている」


ポイントはこの3語の意味するところ。


この「共産主義者」は世界視線であり指示表出を意味してます。
つまり自己表出ではないモノゴトですね。自らが納得しているワケではない、
自らが思考したワケではない、自らが関与していない認識による意味であり価値です。
たとえば指示表出の代表は名詞ですが、名詞(の意味と価値)には主体の関与が必要ありません。

大きなムーブメントや流行はこれと同様の認識構造によるものです。
自らが関与していない分だけ一時的にはカンタンに受容されます。
マスとしては短期的には膨大なヒットになります。そして消耗や否定のされ方も同じ。
たとえばTKのヒットがそうでした。エヴァンゲリオンも。


「人工スカラー波」というのは人為的であることの象徴で、
「人工」であれば「スカラー波」でも「台風」でも「ガス」でもOKです。

これは正確には「人為的であること」を必然とする認識の結果です。
それは他者による自らへの認識(認知)を願望してることの現われで、
「支配されている」という受動態を生成せしめる要因そのものです。

一般的には「ウケ狙い」であり「ワタシを見て」といったものと同様の認識です。




デムパ一般


手がかりはもちろんデムパさんたちの主張そのものの中にあります。

分析としては初歩的ですが、
「攻撃してくる」「支配されている」といった被害妄想が目立ちます。
ま、多くのデムパさんたちはこのよーな同様の被害妄想があります。

つまり「〜される」とか「〜されている」ということで、基本的に認識が受動態なんですね。
ついでにいうと統合失調症の大部分がこの受動態の状態にあります。
それは受動態として生きてきた時期=胎児→乳児→幼児→思春期→自立以前に原因がある
ことを示してもいます。別に珍しいことではなく、この受動態のステージにフラッシュバックした認識がデジャブです。


そして進行した症状ではこの被害妄想は支配妄想に発展し能動態になります。

いわゆるデムパさんの異常行為が第3者にメイワクとなる状態です。
この段階では周囲の人が異常に気がついたり、犯罪と認識するレベルのものになったりします。

症状が受動態であるレベルではデムパさん(患者主体)自らの表出がなければ、
周囲の人は何も気がつかないかもしれません。
しかし症状が能動態である支配妄想に発展すると
患者主体であるデムパさんは支配妄想にもとづいて行為するために、
必ずメイワクを受ける人が出てきます。

自らの生成過程における欠陥欠落を支配妄想によって補償しようとするとき、
いちばん目立つのは象徴界認識の異常であり、想像力の欠如です。

まあ、そのへんにイッパイいるんで、
どーでもいいかもしれませんが、
他人にメイワクをかけるのだけはヤメテー、って思いません?

サイテーゲンのことじゃん、そんなの。



■「6.引き寄せの構造V」とかあ・・・   2003/5/1


   対象に関する志向性は作為体験として、
   対象との関係そのものに関する志向性は不可避体験として、
   表出する。



「つつぬけ体験」「させられ体験」「運命」「因果応報」....
かっこ悪いタームの代表つー感じもします、ハイ。
すべて原初的な胎内体験から演繹されていく認識のベクトルなんだけど、さ。



■あの素晴らしい〜5回目(W・・・   2003/4/30


ああ、また観ちゃった、5回目だあ....



■『あの素晴らしい愛をもう一度』だあ・・・   2003/4/27


夜中に新聞を読みながらCATVをザップ。
で、今日で4回も見ちゃったのが今月の特集でリピート放映してる『ラブ&ポップ』。

つってもエンディングのエンドロールんところ。
典型的な都市型雨水河川を仲間ちゃんたち4人で歩いてるシーンね。
あれ渋谷つーか恵比寿つーか明治通りのあの辺でしょ?
まあいいや。

で、このエンドロールんとこだけ4回見たわけ。
『あの素晴らしい愛をもう一度』っていいよなあ、とか思いながら。
メロディが音楽だった頃の、あれだよね、アレ。
音楽がメロディじゃなくてさ....。
昔って刺激的だよなあ。
いいよなあ。
元歌唄ってる北山さんも京都で浅田さんなんかと勉強会とかしたり、
吉本さんとの対談があったりしますけど。
まあいいけど、そんなこたあ。



■『水のない晴れた海へ』とかCG−DVD・・・   2003/4/22




ガーネットクロウのDVDを買った。

楽しそうだなあ、とゆーのがその感想。

誰にだって、ちょっとは楽しいことがあるだろーし、
誰にだって、ちょっとは楽しい思い出があるだろー、な、と。

何人かの女の子の下宿にころがり込み、
村上春樹の小説みたいな恋をして、
東京郊外の駅でボッーとラストシーンを見送ってみたりした。



『水のない晴れた海へ』



なんとなくヘキルちゃんを思い起させる歌姫のMCが、ホッとさせる。
ビジュアル的には七ちゃんがそーなのは当然としてもー。
MCのたどたどしさが新鮮....というより、
この感じを受け容れて共有できる人たちのクラスやタイプを思い浮かべて、
ホッとしてしまうのかもしれない。

そーかあ、階級意識つーか、ごくわずかに残る共同意識だったか....。



歴史に残る革命家がこの人たちは鎖以外は失うものが無い....
と説明した階級=クラスがある。

もちろん、この言葉に説得力が無い。
だって、失うものですら無いんだからさ。
とゆーか、そんなものを意識はしない。
わからないことを感じたり、
知らないことを受けとめる人はいないんだよ。
たぶん。

そして「たぶん」ではない人は、その分だけちょっと不幸だ。
でも、不幸は幸せを際立たせるから。



村上春樹の都会味は自分のローカル色を否定したからさ....という
あるスルドイ人の批評を時々思い出す。評判のデビューを飾った
女性作家も同じことを言ってたっけ。

ローカル色を否定して生成されるのは....世界視線。
指示表出による世界観。
イデオロギーも都市的感性も同じ。

Ω

ジャンルはネオアコースティックらしいんだけど、
ネオアコで思い浮かべるのは19やゆずじゃんとゆーDBから
経験値によるバージョンアップは可能か?
それとも思考によるトライアルか?

ロッキングオンで学んだのは、
プログレは批評だという渋谷さんの哲学。

音楽で世の中は変わると主張していた人たちのコトバは
コンビニでパストラミサンドを食べると忘れ、チョコやソフトを食べると
思い出しもしなくなった。その程度のもん。



イタリアの有名ケーキ屋の名前らしいPFMのイントロを聴くと
ゴシックロマン風でさえある印象の中に明るさや力強さを感じさせるものがあったり。
単純な3コードをリリカルにしちゃうノヴァリスとか。
ジェネシスを聴いて暗さの中にスゴミを感じるたり。

そーゆー片鱗を一瞬感じさせるガーネットクロウ。

ECMレーベルのジャケットなんか連想させちゃう雰囲気を醸し出したり。
そんな香りの中で透明なジャズを感じさせる風景を思い起させながらポップではない批評性をベースにしてる....
なんていう感想を認める人がいるでしょか?

時代のトレンドや巫女としてアレコレ持ち上げられるユーミンのホントのスゴサは、
ラジカルなオーソドキシーにあるみたいに、
ガーネットクロウにも何かがあるみたいで....そういう感想をとりあえずカキコ。





■教授がウツかあ・・・   2003/4/10


ゼミで出欠をチェックするときにひとりの女の子が返事をしなかった。
教授がどーして返事をしないかたずねたら、
その女の子は出て行ってしまった。
そして友だちの女の子も同情して出て行ってしまった。
それを理解できないその有名な社会学教授はウツになった....

なんだかなあ



■リアルとリアリティ・・・   2003/4/10


●リアルとメディア

 どんなにリアルであっても現実そのものにはならないよん、と。

 TVで観るイラク戦争だろーが、大リーグで圧倒的な存在感を示したゴジラだろーが、
メディアを媒介にして視たり聴いたりする情報はどんなにリアルでもホンモノそのもの
ではないし、現実そのものですらないからねえ。

 で、絶対に認識できない現実を<現実界>として借定したラカンも、絶対に到達できない
現実=物自体を<物自体>と同定したカントも、同じことを指摘してるワケ。その現実や
物自体に働きかけていくのが人間でしょ、とゆーのがマルクス。強度の原点みたいつーか、さあ。


●生きるとゆーコト

 現実とゆーマテリアルに働きかけたところで、マテリアルを完全に享受しコントロールできる
わけじゃないけど、働きかけつづける=運動することそのもの人間の生じゃんとゆー単純明快な真理。

 そんなワケで終わりなき日常を生きろ、とズバリ説明した宮台さんてスゴイでしょ。シーシュポスの
神話が示すシンプルな真理を真っすぐに認めるところから現実ははじまるワケであります。


●見方や考え方

 そして、認識できない現実を認識しようとする時に問題になるのは認識の仕方そのもの。方法の問題だっね。

 どーゆー風に認識しよーかな?というアプローチそのものが認識そのものを決定づけている
最大のファクターなんだね。だからホントは現実そのものが問題なんじゃなくて、現実をどーやって
認識しよーか?ということそのものが最大のファクターになっているワケですよ。

 つまり、どーゆー風にモノゴトを見よーとしてるか?どーやって考えてるか?てなコト。


●クールとキチ

 妄想にリアリティを感じるキチと現世利益に敏感なクールなヤツにホントは違いなんて無いもんね。

 リアルそのものではなくて、リアリティそのものにラジカルな理由があるワケでしょー。


●リアリティのワケ

 リアリティの理由そのものに認識の原因?を探していくこと。

 たとえば事実を伝えよーとするジャーナリズムは、結局リアリティの理由を追究しなければならないワケ。

 マテリアルを探求するのは探求の仕方そのものを考えていかなきゃいけないワケでしょ。
まあ、ラボじゃ常識かもしれませんがあ。


●思考停止

 そしてリアリティの追究が最もハゲシイのがネットの世界。2chでも荒らしや特定の攻撃的な
メッセージでウワサやスキャンダルが利用されるが、すぐにネタやDQNとして消滅しちゃう。
リアリティの根拠や説得力のあるソース(源)を開示できないウワサは無視され削除されていくだけ。

 活字媒体のウワサを読んで憤慨してるDQNはネットでは相手にされない。なぜならウワサとゆー思考停止
もんには興味も説得力ないから。それぞれが持ってる情報のリアリティを追究すること。
そのスタンスそのものに価値を見い出しているのがネットだもんね。だからサヨもウヨも無いワケ。
あるのはソースへのマジな姿勢なんだよーん。


●リアリティの追究

 そんなワケで、スゲー前置きが長かったかもしれないけど、いよいよ武田徹さんがそのステージへ
ステップアップする時がきた、そんな気がしまーす。と、とってつけたよーなコメントで終わりです。
ホントにとってつけてみたんだけど、文句ある?

 それから、えーと、リアリティは感覚とメディアの関係(メディアと想像界の相互作用)だと見破ってるのが
斉藤環さん。その他大勢。(^^)v



■again『戦闘美少女の精神分析』の可能性・・・   2003/4/9


 『戦闘美少女の精神分析』が衝撃的だったのは、オタクと一般人が同じだと宣言したところ。
このことによって一般人はオタクという問題を無視できなくなるし、自らがオタクである可能性によって
オタク論の拡大と充実が考えられますよん。逆にオタクと一般人は全然違うものだというならば、
それはニューアカや新人類世代のマイナス面の代表であるすべてがバラバラになってゆくことの
単なる追認にしかならないでしょ。

 そーゆー認識の細分化ではなく、誰もがオタクという問題を自らのものとして考えられるキッカケを
提出した斉藤環さんの仕事の意義は大きいもんです。

 つまりオタクやサブカルを語ってもそのまま一般人への解析になるワケで、こんなに便利なものは
無いヨンとゆーこと。

 オタクと一般人とは違うと主張してオタクと一般人の差異を語るのは、ポストモダン―新人類で顕在化し
全面化した高度資本主義のメルクマール=差異化・差別化そのものでしかないしい。新人類以降本質的な意味で
世代交替していないとゆー指摘はそーゆーことを指してるんでしょー。だとすればそーゆー批判はマル。
 新人類、バブル、ポストモダンとゆー事態はそれそのものにおいて内破しなければ解決には至らない
とゆーのがココの基本的な認識だしい〜。

 他者との差異を主張することだけでしか自分のアイデンティティを確保できないオコサマは、結局誰から
見ても用がない代物なんだよね。差異を強調するが仲間がいないと何もできいないビビリから生まれるのは
せいぜいチンケな世代論者くらいだしさあ。


これ『網状言論F改』を買った直後に書いたんだけどー。
とりあえずそのままアプしますたあ。



■TVにクスクスおばさんがあ・・・   2003/4/8


イラク戦争がはじまる直前、
TVのニュースに知ってる人が写っていた。
これからバグダットに出かける人だ。
その人がまた今日TVでインタビューされていた。



アラブの代表料理の一つであるクスクスの料理法を教えてもらったことがある。
当日は杉並区の施設を使ってクスクスの取材と撮影をしたっけ。

チュニジアなんかの取材でクスクス攻めにあったことがあるカメラマンは
仕事前から白い目をだしてグロッキー?気味い。

羊くんにとってははじめて食べたアラブ料理のクスクスは興味もあって
美味しいかったけどね。料理を作ってる先生にはこだわりがあってクスクスの粉でも
ある製品のブランドしか使わない。日本でも入手できるクスクス粉は数種類しかない
ので、そんなに選択の余地はないけど、何かが違うらしい。


クスクス粉をご飯のように炊いて、お魚や野菜の煮込みと一緒に食べる。
味つけは、なんと、バラ。
煮込み料理は魚の塩気と野菜の甘味があるだけで、特に味をつけていないから、
シンプル?で物足りない。

そこでバラの花を蒸溜したローズウオーターをかける。
アラブ世界で万能のローズウオーターは同時に高級品でもあるらしい。

   香水として身体にすりこみ、
   病気のときは薬として飲み、
   ケガにもつける。

そして食事にふりかけ、味つけとともに万能の栄養として重宝されているらしい。
特にお客さんにはイッパイふるまうという。

天然ビタミンCのなかでも身体への吸収率が90%以上というバラのビタミンC。

羊はジャミーラさん手作りのローズウオーターをタップリかけてアラブ料理を堪能。
美味しかったあ....



イスラム公認の食材店ハラルの前には男たちが何人か立ち話をしてる。

利子が無いイスラム銀行がやがて資本主義に勝つ、という「イスラム潮流」のシーンを
思い起しながら、ジャミーラ高橋さん人間の盾へと突き動かす何かを考えてみた。

バグダットの浄水場に留まりながら手作りのローズウオーターを抱えていたんだろーか。
アラブへの親近感からイスラム教徒になり、緑のターバンをまいてクスクス料理を教えてくれたジャミーラおばさん。
こつこつと日本とアラブの文化の交流をすすめてきたおばさんが立ち去った途端にバグダット北部の浄水場は爆撃された。
パレスチナ人居住地区にはクラスター爆弾が2発。
思想オタクが帝国を語ってもこの悲劇は止めれらないが、おばさんやローズウオーターはアラブのための具体的な力だもんね。



■生中継の危うさ・・・   2003/4/3


   塀の外と塀の中、どっちが刑務所か?

とか

   ディズニーランドは、
   それ以外がディズニーワールドであることを
      忘れさせるためにある。

だっけか

まあ、そんなことをカッコよくシミュラークルなんつー概念で説明して見せたのはボードリヤール。
リアルで衝撃だったのは行政府はハイパーマーケットに吸収されていくてな展望だったりしたワケで、まあ国家消滅の実現可能な具体例だしねえ。
広告マンや企画屋、マーケッターなんつー脳天バブルな仕事人にもウケてたけど。
単なる消費されるカルチャーレベルでの流行とはまた違って、実業にダイレクトに関係する世界でのニューアカ?な論客なんかも
スゴイ人がいたりしましたん。それが、あのバブル経済ならではのC調ばか男とイケイケねーちゃんが乱舞する
路上酒池肉林な世界を演出したサイドの1コマであるのは確か。
....なんつータワゴトはいいとしてえ。

ターム並べて自己マン自己チューのタームおたく=インテリとは別に、
だけどインテリさん以上の論と実施検証を披露してくれたジャーナリストだって、います。
それは武田徹さん。「満州」や「ハンセン氏病」へのテッテーした取材と事実を追究しようとする強靭な洞察力から、
見事な仕事を鶏卵みたいにポコポコ生み出してるのも納得。
その武田さんの3月31日の新聞記事が興味深い。


   ジャーナリズムの基本は事実の報道だ。戦争でもそれは同じだ。
   しかし、特に戦争では情報操作や得られる情報が限定されることから、
   事実の報道だけでは、戦争の本質がわからない。情報を総合し、
      戦争の意味そのものを思索していく解説や論説が必要だ。      


つーことで、テッテー的にリソースにアプローチしてきた武田徹さんが、
「意味そのものを思索していく」ことの必要性を主張。
新しいステージつーか、待ち望まれていたスタンスでの活躍に期待しちゃおーかな、っと。

「必読のサイバーワールド・プロファイル」と評された『デジタル社会論』。その書評でも期待された
武田さんの今後のステップに注目でーす。


   ジャーナリズムをリアリズムとして把握する著者の可能性は
   必ずやサイバーな世界でも評価されるだろうが、
      その先にはもっと必要とされる役割があるのではないか。
      ディラックのような情報の海でもがく<実存>を
      ターゲットにしてこそ、ジャーナリズムの真価が発揮される。
      読者の期待もそこにあるハズだ。



■『ラブ&ポップ』かあ・・・   2003/4/1


つーことでたまたま『ラブ&ポップ』を観てしまいやした。
ひとことで感想をいうと、考えすぎ、かな。

まーそれだけ庵野秀明さんの思考やアプローチの仕方が露呈してるつーことですね、やっぱ。
映像だけなら90年代コギャル風物詩でも都市風俗の記録にでもなんでもなるんだけど、
吉井裕美役の独白でシラケルのがなんともいえない感じい。
間違いなく何らかの代表作とゆー評価になるのはOKなんだけど。
方法論も、その表現そのものつーか作品そのものも、やっぱクサイ。
ウザイの一歩手前だけど、考えすぎ、で、失敗かなっと。
つまりコギャル生態を媒介にした批評的カッコつけの、
ニューアカ的カッコ悪さがスゲーわけです。またもやスゲー、すげー、なんですねえ、まったく。

このダメさは浅田彰さんの映画『EUREKA』評のコッケイさに通じるもんね。


で、とにかく、映画『ラブ&ポップ』のダメさは考えすぎてるトコ、かな。
同じ村上龍作品でも『オーディション』みたいなものはサイコホラーとして楽しめるんですが、
コギャルの青春を現代文学しちゃうとこんなん?とゆーのは、文学とかゆーものそのものの問題なのかもね。
それを文学とゆー表現とジャンルにトドメをさしたハズのエヴァンゲリオン関係者が映像化するとこーなるとゆーのは....。

そもそもラブやポップは考えるモンジャないもーんねえ。
価値判断や思考といった認識以前の原認識のパースペクティブの強度こそが
ラブやポップとゆー表出でしょー。天才もキチも原点の動作原理は同じ。
まあOSとしての人間は同じでしょ。

文化的な表出とか社会的な現象をジャッジする時の根拠のダメさは、
その根拠も文化的で社会的でしかないとゆーコトでしょ。
で、ゲーデルかよ、つーか非ユークリッド的に語るのは、
キチの妄想と同じなんで、ね。

だから否定神学的にしか語れないのは当り前。
で、マテリアルに根拠をつめていきゃいいワケじゃん。
ユークリッドそのものをつめていく、つーか、
石ころ投げたり、水をガブ飲みしたりするわけよ。

でも、どーでもいいけどね。
もう春だしさあ。



■大ウソだよん・・・   2003/4/1


国民は女と同じだ、だまされるのを待っている。
ウソは大きなウソをつけ....てな安っぽい場末のバアのマスターの力んだ政治談議みてーなセリフは、
間違いなくメイワクなガイキチくん、アドルフちゃんの有名なお言葉ですが。

ホントにNHKなんかでどーどーとウソをいわれちゃうとまいります。マイッチャウてな感じイ。
それも繰返しだ! ざけんなよっと。曖昧な回答でゴマ化して逃げてる日木流奈問題みたいにね。

で、先月のTVでビックリした大ウソはお天気番組での視聴者への回答でーす。
夕陽はどーして赤いのかあ?とゆーやつね。

   夕方の大気は昼間の人間の活動でチリが多くなっている。
   それに赤外線が反射して赤く見える....
      
とか

   夕方の大気は昼の太陽熱で蒸発した水蒸気を多く含むので
      紫外線はそれに吸収されてしまい、逆に赤外線が反射して赤く見える....
      
とか、そんな風な回答でしたん。
で、こーゆー回答は多いよねえ。
これが気象学者や気象協会や      
あるいは物知り雑学なんかの常識なんだろーか?

ズーっと前から、この手の回答しかないんで、
人生や社会にたじろいでる羊くんだったりしまーす。

宇宙物理学者とかさ、なんか言えよ、まったく。

夕陽が赤いのはドップラー効果だろ!

正午を1秒でも過ぎたとたん、鋭敏な感覚の人にはバッチリわかるでしょ。
軌道の頂点を過ぎたとたん太陽光がドップラー効果で波長が間延びするのが。
燦々と輝く太陽光線が赤外線寄りに変化していくのが。

いったいマテリアルでテクニカルな思考とか観察とか認識とか、
あんのかよ? てなことを感じちゃったりします。

ホントは、もちろんどーでもいいです、そんなこたあ。