猫の独りごと

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(2004年)




2005年がよい年でありますように

 町に出るともう松飾りを飾っているところがある。個人のお宅もあるかも知れないが、目立つのは会社だ。仕事納め前に新年の準備を整えているのだろう。松飾りは何日も先の出番のためにもう持ち場について準備万端整えているわけだ。それに引きかえ、こちらは、年末になってなぜか急にたくさん湧いて出た仕事をまとめて新年の年頭に先送りしてやっとひと息ついているところで(年の初めから修羅場か〜(^^;)、新年を迎える準備どころではない。コピー本を作る計画はあきらめたけど、まだ「チラシぐらいは作るかな〜」とか迷っているあたり往生際が悪い。

 年末は冬のコミックマーケットが終わってから始まるというのが私の常識だ。したがって年賀状を書くのは、毎年、31日になってからだ。大掃除ができないどころか、コミケで買ってきた同人誌の片づけもできないまま新しい年の始まりを迎える。ただ、以前は正月三が日がなんとも退屈だったけれど、いまは1月1日になっても年賀状書きが残っていて、退屈さを感じずにすむ。

 2004年は、国内的にも国際的にも、たいへんなことや憂鬱なニュースが多かった。景気が回復したというけれど、中国など海外の生産活動が活発になって鉄鋼や機械や原材料が売れて景気がよくなっているだけで、そういう現場に関係のない生活をしていると、景気回復の恩恵など実感できない。仕事場から人が減って、いつも仕事に追いまくられていて、これって「活気がある」というのと違うような気がするんだけど。自律的に景気がいいのはアニメ界と「おたく」界と「萌え」界ぐらいなもので……これはたしかに景気のよさを実感してはいる。『赤ずきんチャチャ』とか『りりか』とか『ラストエグザイル』とか『ローゼンメイデン』とか買っていると財布が軽くなるのの速いこと!(なにやってんだか……)


 こんなことを書いていたら、ニュースを見るたびにスマトラ島沖インド洋地震の津波被害の犠牲者数がすごい勢いで増大している。ニュース映像に出てくるのは観光地や都会が多いけれども、沿岸の農漁村とかではさらに大被害が出ているかも知れない(これを書いているのは12月27日夜)。直接の人的被害も大きそうだし、さらに家や家財が流されたとか、漁船が流されたとか、農地が使いものにならなくなったとかの被害を含めると被害がどこまで及ぶことか。しかも震源地に近いアチェーでは独立運動が激化していて、さらにインドネシアは政権が交代したばっかりで、この自然災害がこの地域の人々の生活にどういう影響を及ぼすか――いろいろと気にかかる。

 2005年が世界にとって幸いな一年でありますように! 今回は「決まり文句」としてではなく、本気で祈っておかないとまずいように感じてもいる。

2004年12月28日

電球色

 暖冬だ暖冬だと言っていて、今年が暖冬なのがあたりまえになったとたん、本格的な寒さが居すわり始めた。12月はこれぐらいの寒さが普通なのだろうと思うが、この気温の変化は身にこたえる。風邪を引いたりはしていないけれど、やっぱり外に出るのが億劫になるし、外出しても寄り道せずに家に早く帰りがちになる。

 寒くなり始めたころから台所の蛍光灯の調子が悪くなり始めたので、ぜんぶ取り替えた。店に行ってみると「電球色」の蛍光灯というのがある。ボール型の蛍光灯に電球色があるのは知っていたが、普通の長い蛍光灯で「電球色」があるのは知らなかった。部屋の蛍光灯の色がぜんぶ電球色になるとおもしろそうだと思って、すべて「電球色」にした。

 取り替えた最初は違和感があった。気のせいか、電球のような温かさが感じられない。白と電球色を混ぜた、なんか水で薄めたミルクセーキみたいな、いかにも人工的な味気ない色に感じてしまう――もちろん人間が作った光の色には違いないのだけど。それどころか、色の白さが減ったぶんだけ前より部屋が暗くなったようにも感じた。何か蛍光灯の笠がよごれていたときのようだ。

 しかし、しばらく他の部屋にいて台所に行ったり、外から帰ってきて台所の電灯をつけたりすると、やはりその色は温かいと感じられる。とくに色の違いを感じたのが台所の壁に貼ってある『カードキャプターさくら』のポスターで……(^^;。藤田まり子さんの描いたさくら(木之本桜)の絵で、取り替える前の白い蛍光灯のときには肌の色の白い美少女だったが、いまは血色のよい元気な女の子に見える。最初に感じた「暗い」感じも慣れるとまったく感じなくなった。

2004年12月23日

またまた多忙の言いわけ

 というわけでまたお詫びから始まってしまいます。今回も更新が予告より一週間と一日延びてしまいました。今回は何をしていたかというと、やっぱりWWFさんの最新刊『WWF No.29』の原稿を書いたり、編集に参加したりしていたのです。今回は押井守論と並んで恒例となった「萌え」の特集で、清瀬はまた性懲りもなく東浩紀さんの「オタク」論に批判めいたことを書いたりとかしております。先に編集を終わりました『WWF NO.13』再刊とともによろしくお願いします。

 ほかにも年末進行で処理しなければならない仕事とか書かなければならない書類とかが山のように押し寄せてきまして。会計年度の締めが3月末というのもなんか考えものかなと思ったりもします。つまり、3月末に会計をきちんと整えるためには年末に書類がだいたい揃っていないといけないわけで、年末で忙しいのと年度会計の締め関係で忙しいのがぶつかってしまうのですね。かといって、会計年度末を12月末とかにしておくと、会計・経理以外の人たちは経理関係の書類の提出が9月ごろになって忙しいのが分散できるけど、会計とか経理のひとが半端でなく多忙になってしまうし、6月を会計年度末にして会計年度を半年ずらすというのも考えられるけど、少なくとも現状では株主総会の時期とかに重なってしまうし……難しいですね。ようするに、書類で必要のない情報まで集めるのをやめたり、デジタルデータで蓄積されている情報をセキュリティー管理をきっちりした上で各人が自分で修正できるようにしたりすれば、煩瑣さもだいぶ減るのだと思うけど、大組織の経理の仕事を自分でしたことがないのでよくわからないです。

 というより、そんな時期に同人誌の原稿書いたり編集したりしているのが最大の元凶か?! う〜む。

2004年12月16日

同人誌から「成果主義」を考える

 まず最初にお詫びです。このページは11月18日に更新しているはずでした。ところがその更新が29日にずれこんでしまいました。理由は、「本業」が予想外に忙しくなったとか、サーバーの調子があまりよくなかったとかいろいろあるのですが、主な理由は『WWF No.13』(特集:『赤ずきんチャチャ』)の編集作業に予想外に時間をとられたことにあります。そのために、今回はアトリエそねっとのページのみの更新になってしまいました。

 同人誌の編集作業をやってみると、編集作業に手間と時間がかかるところが、必ずしも目立つとは限らないことがわかる。目次の作成とか、行間の調整とか、ほうっておくと横に向いてしまう英数文字を縦向けに直すこととか、そういうことに膨大な手間がかかるのだ。単純作業だが、いちいち人間の判断が必要で、かんたんに自動化できない部分――それがじつはいちばん神経も使うし、時間もかかるしで、くたびれるということがよくわかった。

 企業の世界では「成果主義」というのが定着しつつあるらしい。でも、それってうまく行くのか――というのが、同人誌づくりで私が実感したことだ。同人誌でいちばん目立つ仕事をしたひとといえば、記事(文章や絵)を書いたひとだろう。そして記事を書くにもたしかに苦労は必要だ。けれども、たとえば、読みづらい箇所が出ないように行間を調整したりするのにもやはりけっこうな苦労は必要なのだ。文章書きも編集も自分で分担しているのでそれはよくわかる。目立っているから、他にはできない独創的な内容のものを書いているからといって、ここで文章を書くひとの苦労だけに高く報いるような制度を作ってしまったらどうなるだろう? だれも「目立たないし、格別の独創性も必要ないが、ともかく疲れる仕事」をやろうとは思わなくなるだろう。それでいい製品ができるかというと、同人誌のばあい、たぶんできないと思う。「成果」を評価するひとがちゃんとした「評価する目」を持っていればいいんだけど、「思いつきでものを言う」ような上司が、そんなけっこうな「仕事を評価する目」を持っているなんて期待しないほうが安全だよねぇ……。

2004年11月29日

やっぱりねぇ...

 仙台は楽天ですか。ともかく仙台と近隣の人たちには「地元球団」ができたことに何より「おめでとう」と申し上げたいと思う。ただ、近鉄とオリックスの未公開での「合併」交渉に早々に異を唱え、先に仙台をフランチャイズにしたいと言い出したライブドアが「落選」したことにはやっぱり強い違和感を感じる。楽天合格はライブドアを是が非でも排除したいがための陰謀だと言われないためには、「プロ野球界は目に見えて変わった」と実感させてくれることが必要だ――ということなんだろうけど、プロ野球にはあんまり関心がないからどうでもいいや。また阪神タイガース優勝とかいうことになると大騒ぎするんだろうけど……でも次に阪神が優勝しそうになっても私はたぶん去年ほど関心を抱かないだろう(とか言ってても、実際に優勝しそうになったらたぶんまた大浮かれするのだろうなぁ……)

 で、アメリカはブッシュなのね。まあ、ブッシュ優勢はずっと伝えられていたし、むしろケリーが意外にがんばったというのが正直な感想だ。得票の分布を見ると、ケリーはやっぱり都市部のインテリの大統領候補だったんだなと感じる。公開討論で理屈で勝っても選挙にはそれだけでは勝てないということなんだろう。ともかく、ブッシュは、二度の選挙で二度とも票の集計でごたつくという、あまり名誉ではない記録を持った大統領として歴史に名を残すことになる。民主党としては一矢を報いたというところだろう。

 ブッシュは世界の人たちが「アメリカの民主主義」に対して持っていたかも知れない幻想を打ち砕いてくれた。アメリカ寄りの一握りのカネ持ちだけが権力を握り、その支配に反抗する者にはヘリコプターからの爆撃と銃弾をお見舞いする――それが「アメリカの民主主義」なのだ。だから、もしこの世界で「アメリカ帝国主義の手先ではない民主主義者」でいたいなら、「アメリカの民主主義」への幻想をいったんご破算にして、最初から考え直さなければいけない(考え直してそれでも「アメリカ民主主義がいい」という結果になったなら、それはそれでいいと思う)。そのことをブッシュは教えたくれた。十分に教えてもらったから、あと4年はもうちょっとおとなしくしていてほしい。ブッシュに期待することはそれだけだ――というより、最初からあんまり期待してないけどね。

2004年11月5日

夏への扉

 今年の夏は雨が降らなかった。天気予報が雨だから遠出の予定を取りやめると、当日はよく晴れているということが何度もあった。秋になったらこんどは雨の日ばっかりだ。10月らしい秋晴れの日が少なかった。10月の前半分は9月の秋の長雨と台風シーズンのつづきだった。後半は初冬のように寒い日が多い。10月はいったいどこに行ってしまったのだろう?

 夏のあいだにもっといろんなことをやっておけばよかったと後悔するのは毎年のことだ。だが、私も生まれてから40年前後という年を重ねてきて、その後悔の中味は少しずつ変わってきている。以前ほど「時間をむだにした」という悔恨は感じなくなった。何もせずにただむだに時間を過ごしたと思っていても、じつはその「むだな時間」に考えたことがあとでものを考えるときに役立ったり、ただの暇つぶしにやったと思っていたことがあとで思わぬ役に立ったりすることが何度かあったからだ。人間はたぶん自分で感じているほどには有益に時間を使ってもいなければ時間をむだにもしていない。そういう「諦めの感覚」が私のなかに生まれてきている。

 逆に、この年齢になるとそろそろ「先延ばしはできない」という気分にもなってくる。今年にできるはずだったことが来年にできるとは限らない。もし客観的条件が変わらなくても、今年に先延ばしにしたことはよほどのことがなければ来年も先延ばしにするだろう。そんなこともわかってきた。だから、どうしてもやっておかなければいけないことを厳しく選り分けて、ためらわずにいまやっておくことが必要なのだろうけれど、それができるようならば最初からこんなことは考えていない。

 この世界のどこかに夏につづく扉があるとするなら、まだ初冬にもなっていないのに、私はもうその扉を探したい気分になっている。

2004年10月31日

ブラームスはお好き?

 フランソワーズ・サガンという作家の名を、私は『悲しみよこんにちは』と『ブラームスはお好き』という小説を書いたひととしてのみ知っていた。残念ながら読んだことはない。ただ私はブラームスが好きなのでこのタイトルだけはよくおぼえていた。

 『ブラームスはお好き』は1961年に映画化され、『さよならをもう一度』というタイトルで公開された。イングリッド・バーグマンやイヴ・モンタンという往年の大スターが出演した作品らしいが、この映画も残念ながら私は観ていない。ただ、映画で使われているのが、ブラームスの交響曲第三番第三楽章だということだけ知っている。

 サガンの訃報に接してこの第三楽章を繰り返し聴いている。この楽章は甘美で哀愁に満ちた「ブラームスらしい」音楽としてよく紹介される。「ブラームスらしさ」はけっして甘美さと哀愁(あと暗さと渋さ?)だけではないと私は思っているから、私はこの楽章だけ取り出して聴くということはめったにしないのだけれど、いまこうして聴いてみるとやっぱりいい音楽だ。

 反ワーグナー運動の旗頭に担がれたという経緯もあって、ブラームスは保守的な音楽家で、古典的な曲作りの枠にとらわれつづけたというのが定説らしい。けれども、ブラームスより前に、交響曲の第三楽章に「甘美で哀愁に満ちた」曲を置いた作曲家がどれだけいただろう? 第三楽章は軽快な三拍子の曲を置くというのが古典的な作りかただ。で、ブラームスのこの曲も速度指定は「少しだけやや快速で」(Poco Allegretto)で、三拍子だから、古典の形式は守っている。けれども、「終わりの前の楽章」に「甘美で哀愁に満ちた」曲を置いたことは、私にはむしろマーラーの交響曲第五番の第四楽章(これも映画で有名になったらしい)や第六番の第三楽章へとつづいていく、この時代としては「新しい」曲作りだったのではないかと思っている。あまりにしろうとっぽい感じかたかも知れないけれど。

2004年9月27日

レイニーブルー

 今週はこのあたりあのあたりで「レイニーブルー」がはやっていたので、雨の日のお話しをひとつ。あんまりロマンチックじゃありませんが……。

 しばらく前に新しい靴を買った。それまでの靴が最初から足に合ってなかった上に、半年ももたないでダメになってしまったので、こんどは慎重に足に合わせてもらい、ちょっと高いけれど丈夫なウォーキングシューズにした。たしかに履いた感じがぜんぜん違う。前の靴よりずっと重いのに、足が自由に動く感じがする。これはいいと思って出かけたら雨が降ってきた。

 それでこの新しくて履きやすい靴の思わぬ問題点が明らかになった。アスファルトやコンクリートの上はいいのだが、マンホールや滑り止めしていないタイルの上ではてきめんに滑るのだ。滑りやすい場所だから少しぐらい滑るのは覚悟していたが、もう一歩ごとに滑るのでうまく歩けない。これではいつ転ぶかわからない。危ないことこのうえないので、買った店に行ってその話をした。店員さんはまじめにカタログで靴のスペックを調べてくれたが、原因はわからないという。けっきょく、頑丈に造ってあるので靴底が硬く、そのぶん滑りやすいのだろうという話になった。いずれにしてもこの靴は雨の日は履けない。帰宅後、近所の商店街の店に行き「雨の日でも滑らない靴をください」というと、店員は「滑るのは歩きかたが悪いからだからしかたがない」と言って取り合ってくれない。けっきょく、あんまり期待していなかった百貨店の靴売り場の店員さんの対応がいちばんていねいだった。滑らないように加工した靴は売れてしまったということで、ある程度は滑るのは覚悟してほしいと勧めてくれた靴を買って帰った。

 どっちにしても、靴に慣れるまでは、雨の日に遅れそうになって走るなんて論外――雨が降ると外を歩くときには用心して歩かないといけないなぁ……。

2004年9月18日

「弱」は「弱」にあらず

 9月5日の日曜日の夜から翌朝にかけて、伊勢湾の沖あたりを震源とする地震が、私の知っている限りで三回起こった。

 この地震でいちばん大きかった揺れは「震度5弱」である。この「弱」という表現に私は違和感を感じる。「震度5」に「弱」と「強」があるのは、もともと「震度5」だったのを、揺れの程度で細分化して「5弱」と「5強」にしたからだ。しかし「5弱」というとどうも「弱い地震」という感じがしてしまう。

 台風の強さにはいま四段階しかない。何の修飾語もつかない無印の「台風」、「強い台風」、「非常に強い台風」、「猛烈な台風」である(最近、「猛烈」なんてことばは気象用語でしか聞かない気がする)。ところが、昔は「弱い台風」と「並み(の強さ)の台風」という表現があった。「弱い」といっても、台風である以上は一定以上(風力7=風速34ノット=風速約17.2メートル以上)の風速がある。台風ではない熱帯低気圧よりは風が強い。風力7というと、小枝が折れ、風に向かっては歩けない風速とされる。けっして弱くない。台風について「弱い」とか「並み」とかいうとなんか弱っちくて安っぽい感じがして住民のみなさんが警戒を怠るからか、軽蔑された台風が奮起して大被害をもたらすと困るからか、「弱い」と「並み」は廃止になって無印「台風」になってしまった。

 地震の震度についても、以前は数字といっしょに「微震‐軽震‐弱震‐中震‐強震‐烈震‐激震」という表現が使われていた。震度3が「弱震」、震度4でようやく「中震」である。しかし震度3の揺れを「弱」いと感じる人はそれほど多くないだろう。家や道路に災害をもたらすような地震に較べて「弱」いというだけだ。そのためかこの「微震‐軽震‐弱震……」の表現も最近はお目にかからない。だったら、数字のほうも、「弱」を抜いて、たんなる「震度5」と「震度5強」でいいじゃないかと思う。

2004年9月8日

記録ラッシュの夏

 オリンピックで、日本選手団は、メダル総数が過去最高、金メダルは東京大会とタイという結果に終わった。メダルだけじゃなくて「入賞」っていうのもあって、男子マラソンで二人(5位と6位)も入賞してるのは日本だけだったりするんだけどなぁ。

 記録というと、私の住んでいる東京都で真夏日連続記録が更新され、最高気温も「最低気温の最高記録」も記録的と、そういう面でも記録ラッシュな夏であった。う〜む、バテたよぉ〜。おかげでホームページ更新も滞ってるし……(と、天気のせいにする。でもいちばん暑かったころはちゃんと更新してたよなぁ(^^;)。最高気温が39度以上に上ったときも暑かったが、それより前、梅雨がまだ明けていないころに35度近い気温になったときも暑くて苦しかった。10分間だけ外を歩いただけで疲れ切ってしまったこともある。

 台風の到来も記録的に多いらしい。ふつう、台風は、南西諸島付近まで西に進み、このあたりで停滞しつつ「転向」してそこから九州・四国・本州のほうにやってくる。ところが、先週末に来た台風16号はその停滞・転向の場所が九州に重なっていた。台風だけではない。梅雨前線も関東地方梅雨明けのあとに暴れ回った。今年の夏、どこかの町や村が水浸しになって、まるで濁った川か湖のようになってしまう映像を何度も何度も見た。

 台風の転向点が九州付近にずれ、熱帯のスコールのような集中豪雨が多発するのは、「地球温暖化」のせいで日本が亜熱帯気候になってしまったからだろうか? しかし、地球全体の気候の変化という現象をひと夏のできごとだけで速断するのは「トンデモ」に類するだろう。それより、日本の国土ってこんなに水害に弱かったのか? これまで大金を投じて治水対策を行ってきたというのに? たしかに江戸時代のオランダ人に「日本には川はない、あれはぜんぶ滝だ」とまで言われた日本の川の治水が難しいのはわかるが、それにしても……と思う。被災者の方がた、被災地の方がたにはお見舞いを申し上げる。今夏は、私の住んでいる東京二三区附近は、たしかにむちゃくちゃに暑かったけど、幸い大水害も大風害も免れたし、大地震災害も起こっていない。それはたんなるミルフィーユ・桜葉的偶然の幸運なのだろうか?

2004年9月1日

寝不足です、まあいつものことだけど

 GA(『ギャラクシーエンジェル』、東京地区で午前1時〜)の放送を見届けてからホームページを更新しているぐらいだから、日付が変わっても起きていることにそれほど抵抗がない。それで生活やお仕事に支障が出たことは……いろいろあるけど、ヨーロッパでやっているオリンピックを生中継で見るには便利な生活習慣ではある。

 中継を見ていて「おもしろい」と思った競技は女子バレーボールだった。何をいまさらと思われるかも知れない。だが、私にとって、バレーボールは、高校の体育の時間にボールからひたすら逃げ回るしかできなかった厭な思い出があるので(だって当たったら痛いじゃないですか)、反感すら持っていた競技だったのだ。それに、大会が始まるまで選手から監督までマスコミに大きく取り上げられて、そんな種目を私がわざわざ応援するまでもないと思っていた。ところが、見てみると、競技自体がおもしろい。どこが、と言われると、何しろこれまで避けまくってきたスポーツだけに説明することばを持たないのだけど、システム的に組み立てられているし、駆け引きはあるし、かと思うとダメかと思ったところでポイントが取れたりして、ともかく見ていて飽きない。こういうのは中継で見ているから感じられるおもしろさで、中継を見るのをがまんしてまじめに働いておられる方には悪いけど、ハイライトとメダルの数だけ見ていてはわからないと思う。日本女子チームはけっきょく準々決勝で中国に3−0で負けたわけで、その数字だけ見れば完敗みたいだけど、どのセットも途中までは競っていて20ポイント以上は取っている。勝てれば奇跡かなとも思ったけど、奇跡は十分に起こるような気はしていた。ともかくよく闘ったと思う。競技自体のおもしろさを発見させてくれただけで、日本女子チームとその相手チームには感謝しなければならないだろう。

 でも、このページを次に更新する日には、オリンピックなんかはるか昔の話になっているんだろうな。

2004年8月25日

百日紅

 今年の夏、私が「発見」したのは百日紅(さるすべり)の花だった。

 もちろん、百日紅の花は、去年も一昨年も、私が生まれるずっと前から夏にずっと咲いていたに違いない。しかしいままで私は夏にこの花があちこちでいっぱい咲いているのに気づかなかった。

 「さるすべり」という木があることは小学校のころから知っていた。小学校の校庭のまわりにはいろんな木が植えてあった。それで小学校の子どもたちが騒ぐ声もいくらか遮られ、外から小学校の校庭や校舎が見えるのもある程度は防いでいたのだろう。そういう木のなかに「さるすべり」があった。松や鈴掛(すずかけ)の木が大きかったのにくらべて低い木だった。たしかにすべすべで、「猿も滑る」という木の名まえの名づけかたに感心したのを覚えている。ただ、猿がほんとうに木登りが得意かどうかは確かめたことがなかった。いまもない。動物園で見るかぎり、得意そうではあるけれどね。

 そのころ百日紅に花が咲くことを知らなかったのはなぜだろう? たぶん、花の時期が夏休みに重なっていたからだ。ラジオ体操やプールや遊びで夏休み中も学校にはけっこう行っていたのだけれど、校庭の少し引っこんだところにあった百日紅に気づかなかったのだろう。

 今年の夏、いつも仕事で行く街をたまたま仕事以外で歩く機会があった。その道の両側に鮮やかな紅い花が咲いていた。それが何だろうと思って確かめてみると百日紅だった。

 もし仕事でしかこの街に行っていなければ、いまも気づかなかったかも知れない。

2004年8月18日

「つるべ落とし」の季節の始まり

 よく晴れた日の午後、新宿から西のほうへ歩いてみた。

 まだ再開発のために整理中の空き地がいっぱい残っている。まわりの街がなくなって、第二次大戦後すぐに建てられたお地蔵様だけが残っている場所もあった。空き地を囲うフェンスのあいだに曲がりくねった細い道がつづく。昔はその道が街路だったのだ。その後ろに新宿の高層ビル群がそそり立っている。バブル期によく見た風景だ。もうそんな風景は東京のどこにも残っていないだろうと思っていた。

 ここもいつかは小ぎれいなビルが建ち並ぶ瀟洒な再開発街になるのだろうか? だが、再開発でできたビル街と、昔の、狭い路地の両側にたぶん雑然と広がっていたであろう木造住宅や低層ビルの街区と、両方の写真を並べて人びとに「どっちが住みやすい街だと思う?」とアンケートをとったらどうだろう? あんがい昔の街区が善戦するんじゃないかと私は思う。いずれにしても、昔の住宅街も未来の再開発ビル街もいまはここには存在しない風景だ。

 山手通りに出てから左に折れて代々木上原のほうに向かう。トルコ政府の支援で建てられたというきれいなモスクの尖塔が見えてくる。近くの細い路地にはいると急に暗くなってきた。家で魚を焼いている煙が懐かしい気もちをさそう。空を見ると夕日が低い雲のあいだに沈みかけていた。時間は午後6時を少し回ったばかりだ。そうか、午後6時で暗くなり始める季節になったのか。

 昼間の日射しは暑く照りつける。けれども夕方からは「夜長の季節」が少しずつその領分を拡げ始めている。

2004年8月11日

無宗教の驕傲

 「日本人は無宗教だ」と聞いて私が違和感を感じるのは、私が日本人でありしかも無宗教ではないからだろう。けっしてまじめな信者でも熱心な信者でもないし、教義についてもまったく無知だけれど、それでも私は仏教徒だという自意識は持っている。

 それ以上に違和感を感じるのは、「日本人は無宗教だ」と認識することで世界のできごとを単純に捉えすぎているのではないかという点だ。パレスチナでは「ユダヤ教徒」と「イスラム教徒」が対立し、南アジアでは「ヒンドゥー教」のインドと「イスラム教」のパキスタンが核兵器を抱えてにらみ合っている。宗教は世界に無用の対立を生み出している諸悪の根源だ。その諸悪の根源に汚染されていない日本人は幸いである。そんな感じかたがあるのではないか。

 宗教が地域紛争や国家間紛争と結びついていることは否定しない。また、人が暴力的行動に向かおうとするときに、それを後押しし正当化するような教義が宗教にあることも否定しない。日本人の「宗教的寛容」もよい伝統だと思う。だが、国際紛争を宗教対立として図式化してしまう思考には強い抵抗を感じる。国際紛争にはさまざまな「根源」がある。それを「宗教」一色で塗りつぶしてしまうことで、貧困とか飢餓とか資源の争奪とか、その背後にある国際経済の構造とか、それを支えている現在の主権国家体系とかいうものと紛争との関係がごまかされてしまうなら、それは問題だ。

 むしろ、宗教がこれだけ紛争に関わりながら、それでもどうして世界の人びとが宗教を信じつづけるのかということを考えてみるほうがいい。人間を宗教に向かわせるものが人間のなかにもともと存在しているのならば、宗教がどの紛争にも姿を見せるのはむしろ当然なのかも知れない。紛争は人間が起こすものなのだから。

2004年8月4日

夜更けのフォーマルハウト

 暑い。あいさつの一部として「ほんとに暑いですね」がもう定番になっている。が、どうやら拙宅はとくに熱さがこもる構造になっているらしくて、特別に暑い。しかもそのなかで長時間テレビをつけていたりPCを使っていたりするものだから、なお暑い。

 都会の夏が暑くなった原因の一部には確実にPCの普及があると私は思っている。すさまじい熱を発する高クロック周波数の機械を一つのオフィスで何十台とか使うからだ。その熱はエアコンを通じて都市の街中に放出され、都会中を暑くしているのではないか。もうこうなったら太陽電池とベルチェ素子を組みこんだ服でも着て自衛するしかないか。

 夜になっても拙宅の温度は下がらない。外に出てみれば風はけっこう涼しいのだ。ところが、部屋のなかを風が通るようにしておいてもこもった熱さが消えない。寝ているあいだに冷房をつけて体調を崩したことが何度もあるのだけれど、冷房をつけずに寝たら翌朝起きたときに汗だくになっていて、朝から疲労感が倍増していたりする。

 そんな夜更け、ベランダに出てみると、東のほうのビルの谷間に涼しい光を帯びた星が見えた。星の高さは夏の星のアンタレスに近いけれど、夏の星が夜更けに東のほうに見えるはずはない。それは秋が更けた夜空に一つさびしく輝く(と『星の瞳のシルエット』にも出てくる)フォーマルハウトだ。

 南の空にこの星が輝くころには、「今年の夏はもう戻ってこないのだ」という悔恨の感覚も何の驚きも生まなくなる。夜空の寂しさはあたりまえのことになり、これからやってくる冬の肌寒さを予感して身震いさえするようになる。

 私は、この暑さが早く終わってほしいと願いながら、夏が終わってその寂しさの季節がやってくるのを心の底から恐れてもいる。

2004年7月28日

ENDURANCE

 アトリエそねっと夏に出す本の下調べで極地についての本を少しずつ読んでいる(今回はいきなり宣伝か……って、まあ「夏」も近いことだし)。そのなかで出会ったのがアルフレッド・ランシングの『エンデュアランス号漂流』(山本光伸(訳)、新潮文庫)だ。

 この本は1914年末に南極大陸横断の壮挙をなし遂げようと南極に向かって失敗し、南極圏の厳しい環境の下から全員の帰還に成功したシャクルトン探検隊の記録である。人間が南極点に到達したのが1911年12月だから、それからわずか3年後に「ただ行った同じ道を戻る」のではない「大陸横断」を試みたのだ。南極の厳しい環境下で、行きに設置した設備を利用して帰るのと、南極点到達後も新たに道を切り開いて進むのとでは困難さが段違いに違う。人類が南極大陸横断に成功するまでシャクルトンの失敗から40年あまり、そして南極大陸横断の10年ちょっと後には人間は月に降り立っている。

 原題の Endurance (エンデュアランス)とはシャクルトン探検隊の船の名まえだけれど、同時に耐久力とか忍耐とかいう意味でもある。この漂流記はひたすら耐えつづける物語だ。氷と寒さに耐えつづける。暖かくなって氷が解けてくるとかえって生命の危険にさらされる。船が沈んでしまったので、氷が解けると南極の海に落ちるしかないからだ。その生命の危険がつづく状況に耐える。隊員たちは一致結束してはいるけれど、いやなやつや性格の合わない相手もいる。その仲間とのいつ果てるともない生活に耐えつづける。その生活は希望を失わずに耐えつづけるという美しい物語を超えている。希望がなくても耐えるしかないのだ。

 シャクルトンも絵に描いたような理想的リーダーではない。判断ミスもしているし、それで隊員から恨まれたりもしている。でも、この記録を読み通すことで、人間はうんざりしながらでもけっこう耐えることができるということはわかる。希望さえ持てない状況でも耐えて生き残ることのできた人たちがいたんだ――そのことはどんな美しい物語も与えてくれない種類の勇気を与えてくれているように感じた。

2004年7月22日

なんと...

 報道によると、日本中世史研究家の永原慶二氏が亡くなったという。

 この分野ではつい先ごろ網野善彦氏が逝去されたばかりである。このときには私もこのページに追悼の一文を掲載した。それから「シュレディンガーの猫」のページを3回しか更新していないのはたんに私の不徳の致すところだけれど、半歳をおかずに永原氏も逝去されるとは!

 永原氏は網野氏とは対照的な研究者だった。論敵であったと言ってもいい。永原氏はアカデミズムの方法をきっちりと守る研究者だった。また、マルクス主義歴史学に基礎づけられた歴史観を自分の基本としてきっちり守りつづけた研究者だった。硬直した見かたしかできない教条主義者ではけっしてなかったが、研究によって新たな事実やものの見かたを見出しても、それを必ずマルクス主義的な社会発展論と照らし合わせて解釈するという堅実な学風の持ち主だった。

 史料から奔放な発想を働かせ、マルクス主義的な枠組にとらわれずに発想する網野氏の方法を永原氏は批判しつづけた。網野氏は、日本中世史のなかで「非農業民」の役割を重視し、農業・農民を基礎に中世社会を特徴づけるマルクス主義的な歴史観を批判しつづけた。これに対して、永原氏は、やはり中世社会は農業社会であって、「非農業民」は存在したとしてもそれほど大きな役割を果たしていないと厳しい批判を加えつづけたのである。

 日本中世史を専門としていない私のような者にとっては、どちらかというと、苦手な、真価を理解しにくい研究者ではあった。それでも『新・木綿以前のこと』(中公新書)や『内乱と民衆の世紀』(小学館)は読んでから10年近く経っても私の印象に強く残っている。人柄をうかがわせる端整でていねいな文章だった。

 ご冥福をお祈りする。

2004年7月14日

暑い七夕

 全国ニュースで流れていたとおり、私の住んでいる東京は暑かった。それにしばらく本格的な雨に遭った覚えがない。朝がたに弱い雨が降っていたということはあった。けれど、梅雨の雨というのは、一日じゅうしとしと降りつづき、明日もあさっても雨かとため息をつきながら薄墨色の空を見上げるような雨だったはずだ。前に台風の強風と雨に出会ったことはあったけれど、そんな梅雨らしい雨に出会ったのもずいぶん前だったように思う。天気図を見ても梅雨前線は北のほうに北上して消えかけている。とくに、関東平野は、太平洋親潮上空から入ってくる北東の風には弱いが、西と北を山でブロックされているために西からの雨を阻止してしまうことがある。関東平野にかぎればもう真夏だ。いったん梅雨明け発表をして、また梅雨前線が復活したら再梅雨入り発表をしてはどうだろうか。それにしてもそろそろ水不足の心配をしたほうがいいんじゃないかと思う……てゆーか取水制限?(アンゴル・モア@能登麻美子モード)。

 というわけで、湿っぽい熱帯みたいな空ながら織女も牽牛も見えた。だが天の川は見えない。東京の街のなかで天の川を見たことは一度もない。東京では、天の川は、取水制限どころかとっくの昔に干上がってしまったのだろう。天の川が干上がってしまえば、天の川の両岸は陸続きになって織女と牽牛はいつでも会えるじゃないか。そのかわり農作業もできなければ綿花も枯れ果てて機織りもできなくなっているかも知れない。織女も牽牛も何やっているんだろう?

 ところで本来の七夕は旧暦の7月7日である。国立天文台では、太陽が春分点から150度進んだ「処暑」の日の直前の新月の日を「旧暦」7月1日と見なし、その日を含んで7日めを「伝統的七夕」としている。

 この日なら少しは涼しくなってるかな〜? あんまり望めそうもないな。でももしかして異常気象でこのころにはもう秋本番に突入している可能性も……。

 少なくとも、コミケが終わって一週間経っているので、その方面の熱気は少しは落ち着いていることでしょう。でも「夏→冬」は間隔が短いのですぐ準備にかからないとな。

2004年7月7日 グレゴリオ暦の七夕

子どもを救え……

 昨日(6月29日)NHK『クローズアップ現代』で、小学生の持つ「死」の観念がヘンだというので現場の教師が困っているという話を見た。小学校高学年の児童が人間は死んでもよみがえると考えている。これは平気で人を殺したり人が死んだりするゲームやマンガの悪影響に違いない!――というので、慌てて人間の「死」について教育を始めたというのだ。

 だが、人間は死ぬとその存在はすべてなくなってしまう――そんな認識が「正しい」とだれが証明したのだ? 「死んでから人間がどうなるか」という議論に参加できる人間は死を経験していない。だから想像はできても断定はできないとしか言えない。少なくとも、人類史を見れば、「霊魂の不滅」とか「輪廻(りんね)転生」とか「最後の審判の日のよみがえり」とかを信じてきた人が圧倒的多数で、死ねばその人間は生き返りもしないし転生もしないなんて信じていた人はごく少数だったはずだ。いまでも「神や同胞のために死ねば死後の世界でよりよい暮らしが送れる」と信じて、自爆して多くの人を巻きこんで死んでいく人びとがいるという。

 子どもが「死」を理解していないと言う。だが、では大人はどれだけ理解しているのか? たとえば、イラクで米軍の掃討作戦で何十人もの人が死んで、それがたった10秒程度のありきたりのニュースとして流される。そんな世界で、私たちはどうやって「いのちの大切さ」を知ることができるというのだろう?

 大人にとって「死」はやっぱり最大の不条理だ。そのことを脇に置いて子どもに「死」を教えようとして、はたしてうまく行くのだろうか。私の小学校のときの担任の先生は、子どもたちがあてられてアホな答えをすると平気で「死ね!」と言っていた。それでも、私の同級生は一人も自殺も人殺しもしなかったし、反抗的な子はいたけど(私もその一人だったり……)学級が荒れもしなかった。明るいクラスだった。それがあたりまえという感覚がいつからなくなってしまったんだろう? ふしぎだ。

2004年6月30日

風の街

 台風が日本列島を通り抜けて行った日、私は東京の郊外を歩いていた。ビルのあいだにさしかかったとき、いきなり強い風に背中を押されるように感じた。立ち止まることもできない。前からの風ならば身をかがめて通り過ぎるのだろうけど、後ろから押されているからどうしようもない。風に押されるまま、前に転ばないように足を前に突っぱりながら、急な下り坂を下るような姿勢でビルのあいだを通り抜けた。道の両側を見ると、無惨に分解したビニール傘の残骸があちこちに転がっている。

 その時間帯には台風の中心は日本海上にあり、東京は「15メートル以上の風が吹く強風域」の端のほうだったはずだ。それでこれだけの風が吹く。ビルの谷間に風の流れが集中したビル風だったのだろう。しかも両側のビルはそれほど大きなビルではなかった。片側が4階建て、もう片方も10階程度の東京郊外では珍しくないビルである。

 立っていることもできないほどの強い風に遭遇したのは、もう何年もまえ、やはり台風が接近していたときに那須連峰の峠の一つを無理やり越えようとしたとき以来だと思う。

 ビル風が吹き抜ける街というと、「企業戦士」がそれぞれ孤独に戦いつづけている「戦場」にふさわしい荒涼としたロマンティシズムが漂う。でも、一千メートル級の山の峠と同じ強さの風が吹くところをスーツと革靴で歩いているのだから、当人たちにとってはたまったものではない。こういう事態が起こるのはやっぱり建築計画と都市計画の失敗だと思うなぁ。

 ビルの建築計画や都市計画で日照に与える影響が考慮されるのは知っている。けれども荒天時にビルの周囲の風や雨の流れに与える影響はどこまで考慮されているのだろう? ビル風をやわらげるような建築の造りかたというのはないものなのだろうか?

2004年6月24日

偶像崇拝?

 一か月半ぶりに時論「シュレディンガーの猫」のページを更新した。ここまで更新期間が空いてしまったことについては、たとえばモーダルシフトの話を調べたのに恭仁(くに)京の連載のほうに書いてしまったとかいろんな言いわけはあるのだけど、ともかく私の怠慢によるものである。読者各位にお詫びする。

 で、今回は「イスラーム」(イスラム教)について考えたことを書いてみた。それに関連してふと思いついたことがある。

 「イスラーム」は厳しく偶像崇拝を否定することで知られている。で、このあいだ、神社の前を通りかかったとき、ふと「あれ? 日本の神社も偶像崇拝してないやん?」と思いついた。神社はいろいろあるし、(まつ)っている神様もいろいろなので、一概には言えない。でも、神社のご神体として偶像や画像を祀っているところはそんなに多くないのではないか? 「イスラーム」のモスクは中に偶像とかがないのですっきりしている(いろんな装飾のあるところもあるけど)。そのシンプルな清々しさは日本の神社にもあるような気がしたのだ。そのとき、日本で神社にお参りするひとが、神様を「偶像で描かれたような身体を持った神様」としてイメージするのかなとふと思った。私はそんなことはないように思う。天神様のように具体的人物を神として祀っているばあいでも、お祈りするときにその人物の画像とか具体的な経歴とかを思い浮かべるようなめんどうなことはしないのではないだろうか。

 もちろん「イスラーム」の立場からすれば神社のお社に向かって頭を下げるのも「偶像崇拝」ということになるのだろう。だいいち多神教は「イスラーム」では認めていない。でも、「偶像崇拝の否定」の精神は「神を信じる心を途中でそらさない」ということにあるわけで、そういうところは他の宗教と「イスラーム」とのあいだで共通するところがあるのではないだろうか。「イスラーム」を遠い宗教として感じる必要はないのかも知れないと思った。

2004年6月16日

「帝国」論とファンタジーの領域

 「帝国」論がはやっているらしい。たしかに大きな書店で政治とか社会とか歴史とかの専門書を置いた棚のところに「帝国なんとか」というタイトルの本が何冊も平積みになっていたりする。

 まあそうなんだろうなぁ。アメリカ(合衆国)がここまで平気で世界を自分の思いのまま動かそうという姿勢を示していれば、そのアメリカはどう見てもかつての帝国主義国を思わせる「帝国」に見える。自由や民主主義という「よいもの」を世界に広めようとしているだけだとアメリカやアメリカびいきの人たちは言うのだろう。けれども、それが事実だとしても、19世紀の帝国主義だって「自分たちは文明を世界に広めるという名誉ある使命を果たしているのだ」と植民地主義を正当化していたのだ。たいして違いはしない。しかもアメリカは政治的・軍事的に支配しようとしているだけではなく、アメリカ生まれの情報通信技術を駆使して世界の科学・技術や文化まで支配しようとしている。そういう「帝国」が目の前に存在している以上、やっぱり「帝国」への関心というのは高まるのだろう。

 ところで、「帝国」とは、政治学や歴史学のことばとして使われる以上にずっとファンタジー的なことばだと思う。それは、権力への野心という昂揚した気分、全世界から物と人が集まる首都の華やかさ、その背後に忍び寄る倦怠と頽廃、噴出する支配の矛盾、そして「帝国」との絶望的な闘いを戦い抜くことの壮烈さや「征服」ということばにどうしても表れてしまうこっけいさ(『ケロロ軍曹』や『究極超人あ〜る』に漂っているような)……という物語をただちに連想させることばなのだ。「学」のことばになったときに、「帝国」ということばがこのファンタジー的な感覚を持ちつづけていられるだろうか?

2004年6月9日

ちょっと疲れた話

 新年度に入ってから電子メールをいっさい使わない交渉ごとをいくつかやった。相手がメールを使わない人や組織だったからである。

 「疲れた」というのがそのどれにもあてはまる感想だった。

 最近は、仕事でも仕事以外でも、打ち合わせとか交渉ごととかは電子メールを使うのが普通になった。電子メールをまず関係者全員に同報で流し、スケジュールを調整したり、事前打ち合わせしたり、不都合な点をあらかじめ洗い出したりしている。行事の決行日や直接に会って打ち合わせをする日を先に決めておけば、あとの詳細は数日前からメールを交換して詰めれば間に合う。

 それに慣れているから、メールを使わずに交渉ごとを進めるとひどくめんどうに感じるのだ。それぞれ電話で話をするのだが、関係者の一人に伝えたことが他の人に正確に伝わっていなかったり、一人の人が重大な違いとして強調したことが他の人には「細かいニュアンスの差」としてしか伝わっていなかったりして、混乱する。複数の人と電話で話をしてみてはじめてそのうちのだれかが大きな勘違いをしていることに気づいたりもする。自分の予定が、私の都合などにはお構いなしに、他の人に勝手に決められていることも何度もあった。また、メールで情報を共有できないから、かなり細かい点までかなり前から根回ししておかないと「そんなことをいまさら言われても間に合わない」と苦情を言われる。ほんとうに気疲れした。

 でもほんの5年ほど前まではこれが普通だったのだろう――いまでは記憶も定かでないけれど。電子メディアの普及でコミュニケーションのしかたが社会全体で急に変わったのだなと実感した。でも、そのことに私たちの認識がついて行けているかというと、かなり不安だ。しかし、社会全体で起こっているそのコミュニケーションのしかたの急変にその社会全体の認識が追いつけなければ、いずれかなり困ったことが起こって来るに違いないと私は思う。

2004年6月2日

逃げ水の季節

 5月下旬というのに肌寒かった一日、アスファルトの道路で逃げ水を見た。

 意外だった。逃げ水は強い日射しの照りつける夏の日にしか見えないものだと思っていた。この日は気温は20度に達していなかったし、薄曇りで日射しも弱かった。

 逃げ水は蜃気楼の一種だ。遠くのアスファルトの上にさらに遠くの空や景色が映っているように見える。水たまりに映っているように見えるが、少し近づくだけでその場所に映っていたものはさっと消えてしまう。かわりにこんどはその場所より少しだけ遠くに空や遠くの景色が映って見える。その場所に水たまりやオアシスがあると思って追って行ってもいつまでもたどり着けない。だから逃げ水という。

 地面と地面の少し上の空気との温度差が大きいときに、地面のすぐ上で光の流れが屈折する。5月も後半となると、太陽が一年でいちばん高いところから照りつける夏至まで1か月を切っている。だからじつは日射しは強い。その強い日射しで薄曇りでもアスファルト舗装の地面は温まっているのだろう。その上の空気が冷たかったせいでかえって温度差が大きくなり、逃げ水が見えたのかも知れない。

 蜃気楼が映すのは幻だ。逃げ水は水そのものを見せてはいない。でも遠くの景色が地面に映っているように見えると人間が勝手にそこに水があるように思ってしまうのだ。

 逃げ水の幻が見せている水場にたどり着くことはどうやってもできない。そのことはすぐにわかるだろう。けれども、自分が逃げ水で見ている場所の人のほうから見れば、逃げ水に映って見えているのは自分だということも、やっぱりわかっておかないといけないことなんだろうと思う。

2004年5月26日

ずいぶん早いお出ましで...

 なに〜? もう台風来るの? だってまだ5月だよ?

 なんか去年の夏から天候不順である。8月にはやたらと涼しくて、9月に逆に暑くなった。今年の冬も、2月が暖かく、3月に東京あたりで桜が咲き始めたら急に寒くなり、4月のはじめまで寒いままだった。おかげで桜の花は長持ちしたけど。その前はたしか東京あたりの雨が異様に少なかったのではなかっただろうか?

 しかし、思い出してみれば、夏のコミックマーケットがやたら寒かったことは会場が有明に移ってからもあった。11年前の夏は、昼過ぎになると必ず空に黒雲が湧いて雨が降るという天気がつづいて、「夏らしい夕立」にしては陰鬱な天気だなと思っていたら、米不足で外国産米を輸入しなければならなくなった。異常気象は去年から今年にかけてだけの話ではない。

 「異常気象」ということばは子どものころからずっと聞いてきたように思う。じっさい20世紀末には歴史的な異常気象が連続して起こっているという説も読んだことがある。そういう時期に生きているとだんだん「異常気象」の「異常」さにも慣れっこになってしまう。でも、慣れっこになっていられるのは、日本が経済的に豊かな国で、天候異変で人びとの生活が受ける打撃を吸収できる余裕を持っているからだ。

 1990年代後半に、中央アジアからモンゴルあたりにかけて異様な乾燥化が進んでいるという話があった。現在はどうなっているのだろう? その前から言われていたアフリカの沙漠化の進行はどうなったのだろうか? 産業の発展が進んでいない国ぐにのなかには、天候不順が人間生活を襲ったとき、その打撃を吸収するだけの十分な余裕がない国も多いだろう。世界では天候異変によって私たちがちょっと想像する以上の多くの人たちが犠牲を強いられているはずだ。その人たちのことを忘れてはいけないと思う。

2004年5月19日

春はゆきぬ

 恋いつつも今日は暮らしつ霞立つ明日の春日(はるひ)をいかにくらさむ

 恋しい思いを抱きながら今日は一日を過ごしました。でも、霞の立つあしたの長い春の一日をどう過ごせばいいのでしょう?

 恋しい気もちがもうおさえられません、早く会いたいです――という歌だ。万葉集を眺めていて見つけた(巻十、春相聞、霞に寄する)

 う〜ん、こんな歌があったんだね、1300年前に。いまの歌としても十分に気もちの伝わる歌だと思った。そう思ったのは堀江由衣の「Love Destiny」を聴いたあとでこの歌に出会ったからかも知れないけれど。

 ただ違うのは、現在の日本の人はこういうところで「春霞」は使わないだろうということだ。この霞は、焦がれる気もちの急さと春の情景ののどかさを対比しているだけではなさそうだ。万葉集の同じ項目の歌を読めば、霞は自分が思いを寄せている人の姿を映すものと感じられているようでもある。

 「春に霞が立つ」ということをいまどれだけの人が認識しているだろう? 春は霞がたなびいてのどかだと言われても、年度替わりでバタバタしてるし、花粉症もまっ盛りだし……。まして霞に自分の思う人の姿を見るなんてことは感じられないかも知れない。ただ、この歌は山に囲まれた大和盆地の春だから生まれた歌かも知れない。日本列島のどこでも春の霞が同じ感覚を呼び起こしたとは限らない。列島のどこでも春の同じような気象現象が「霞」と感じられていたかどうかもわからない。「霞」といっても、その本体は「霧」や「(もや)」、もしかすると薄くて低い雲と違いはないのだから。

2004年5月12日

景気が回復してよかったね

 景気が回復しているらしい。たぶんそれはほんとうのことだ。

 その証拠に、最近になって「売る気のない店」にお目にかかる機会が増えた。このあいだ立ち寄った酒屋では、店員は、客にはかまわず、客の通る通路を酒瓶のいっぱい入ったかごで塞いで、瓶を棚に並べることにばかり熱心だった。そのとき店にいたお客さんがレジの前に立ってもレジは空けたままだ。声を立てて呼んでもなかなか店員がレジに来ない。私はそれを見て早々に店を出たので、そのあとそのお客さんが無事に商品を買えたかどうかは見届けていない。

 近所の飯屋では店員が客をほったらかしにしてふざけあっていた。たしかに客の少ない時間だったから業務にはあんまり支障がないのだろう。だが、そんなに広くない店のなかをバタバタと歩き回ったり、戸口の内と外で鬼ごっこみたいなことをやって戸を開けたり閉めたりする。だから飯を食っていてちっとも落ち着かない。しかも、店の偉い人がいっしょにいるのだけれど、それをちっとも注意しないのだ。別の店では、私が店に入ろうとすると、どこか外に出ていたらしい店員がいきなり割りこんできて、私を押しのけて自分から先に店内に入って行った。

 店員が顧客のことをぜんぜん考えていない。店にも店員に顧客へのサービスを教えこもうという気が最初からないらしい。こんなサービスでものが売れるということは、よほど景気がいいのだろうと思う。日本経済の前途も安泰なんだろう――たぶん。

 徹底した顧客志向で世界市場を切り開く日本経済像は、たぶんもう時代遅れなのだ。そんな暗くていじらしい日本経済像はさっさと忘れたほうがいいのだろう。

 いやぁ、景気が回復してよかったよかった。

2004年5月5日

こんなに読みやすくていいのかしら?

 長いあいだ連載を中断している「九三年政変とは何だったのか?」の執筆を再開すべく(まあ気にはしてるんですよ……)、1993年から1996年の村山内閣総辞職・(旧)民主党旗挙げまでの時期に活躍した政治家の書いたものを何冊か読んでみた。気がついたのはそのほとんどの本が読みやすいということである。同じぐらいのサイズの同じぐらいのページ数の本と較べると半分ぐらいの時間で読めてしまう。

 こんなに読みやすくていいのだろうか?

 いいわけがない!

 もちろん内容が十分に詰まっていて読みやすいのなら、それはいいに決まっている。問題は内容だ。こういう激変の時期の政治家があとになって書いた本だから回顧談が多い。それはそれで意味がある。けれども、政治についての本なのに、全体として政治論が十分に展開されていないのだ。「非自民」という。なぜ自民党ではダメなのか? そして一年も経たないうちにこんどは「反小沢(一郎)」連立政権ができる。どうして小沢氏ではダメなのか? やりかたが非民主的だからだという。では小沢氏の何が非民主的なのか? 言いたいことはわからないではない。小沢氏が日本の政治文化のなかで「民主的」でものわかりがよさそうなイメージを持たれる人物でないことは感覚的には理解できる。だが、自民党の「ダメ」さについても、小沢氏の「非民主」性についても、理論的に詰めた議論が乏しいのだ。たとえば、政治家である自分にとって民主主義とは何であり、そのどういう点に反しているから小沢氏は非民主的でキケンなのかを、気分で書くのではなく、きちっと論証することを私は政治家の文章に求めたい。そういう話を、経験や感情によらずに、理詰めの議論で展開する能力こそ、政治家が世人にアピールすべき能力なのではないだろうか。

2004年4月28日

救いを求める心への敏感さ

 先々週の土曜日、東京上野の国立博物館で開かれていた法隆寺の夢違観音の特別展示に行ってきた(この展示はすでに終了しています)。その日は、早朝から、悪夢を見て目が覚め、そのまま中途半端に眠りに落ちたらまた悪夢を見るという繰り返しだった。夢違観音は悪夢をよい夢に変えてくれる観音様だという。これはお祈りしに行くしかないと思って出かけたわけだ。あとから考えれば、暖かくなっているのに冬の布団をすっぽりかぶって寝ていたので寝苦しく、それで悪夢ばかり見たのだろうけど。

 「観音経()」というお経を読んで、私は観音菩薩は万能の力を持っている仏様なのかなと思っていた。なにしろ、火の中に落ちても大海に流されても、ほかのどんな災厄に遭遇しても、観音の力を念じれば必ず助かると説かれているのだ。けれども、帰りに博物館の資料室で調べてみると、それは観音様の力が強いからではなく、観音様は救いを求めるどんな微かな声も聞き逃さない仏様だかららしい。人びとが救いを求める心に敏感な仏様なのだ。

 特別展示のあった法隆寺宝物館の一階には法隆寺にまつられていた多数の小さな仏像を展示した部屋がある。夢違観音と同じ時代に造られた仏像で、当時の豪族たちが自分の家でまつっていた仏像らしい。その多くが観音菩薩像だった。ただの流行なのだろうか、それとも、多くの人たちがやっぱり観音様の救いを求める心への敏感さに何かを求めたのだろうか?

 夢違観音はどちらかというと朴訥そうな表情の仏様だった。人の姿で造られているが、ずっと見ていると、顔の表情や身のこなしなど、人間ではとてもあり得ないような、文字どおり「ありがたい」姿に見えてくる。日本の仏像を見ていると、「偶像崇拝は神を人間のレベルに引きずり下ろすから禁止だ」という論理がひどく的はずれなものに感じられるのだ。

2004年4月20日

「バカの壁」にも意義はある

 このあいだ、ある大学の前の飯屋で晩飯を食っていると、隣の席に映像業界への就職を目指しているらしい二人連れの学生がいた。その二人が話している。

 「アニメなんて絶対にあり得ないような話を勝手に作って感動を与えるなんてずるいよね」

 じゃあ自分で作ってみたまえ、エリート学生君。

 映像作品のなかで事実とフィクションの境界はそう明瞭なものではない。事実だって編集すれば必ずフィクションの要素が入りこむ。『プロジェクトX』の「感動のドラマ」だって、実際にはそのプロジェクトが動いている途中にはうんざりするような同じ仕事の繰り返しもあり、だれもが送っているような日常生活もあっただろう。「感動」を誘う要素を拾い出し、そこを強調して演出するから「感動」映像になるのである。逆に、アニメだってドラマだって、それが感動を誘う映像に仕上げるには、その作品の世界ではそういうことが事実として起こりうるよう世界を設定しなければならない。緻密な作業が必要なのだ。いま映像業界に就職したいのだったらそれぐらいわかっていてほしい。

 けれども、自分の体験を振り返ってみれば、私自身だって、学生時代には世のなかの「職業」のことなんか何も知らないで、しかも偉そうなことを言っていたと思う。最初から仕事の難しさとか奥深さとかを知っていれば恐ろしくて就職活動なんかできないだろう。就職活動には、ある程度の無知と思い上がりはむしろ必要なものかも知れない。自分の無知と思い上がりに気がつかないのが養老孟司氏の言う「バカの壁」現象なのだろうけど、「バカの壁」にはそれなりの存在意義がある。

 就職活動、がんばってね!

2004年4月13日

チェリーブロッサム

 東京では今年は3月の下旬に桜の花が咲いた。それと同時に寒くなり、しかもその寒い気候がしばらくつづいた。

 それから思い出したように温かくなり、ときには半袖の服で出歩いてちょうどいいくらい暑くなり、そしてまた思い出したように寒くなる。ともかく気候の変化が極端だ。けれども、今年は、2月が暖かかったぶん、3月の寒いのが身にこたえた。

 でも、その寒い気候のおかげで桜の花は長持ちしたようだ。東京あたりでは、卒業シーズンから入学シーズンまで桜の花が咲きつづけている。

 桜の美しさのポイントの一つは散るときの美しさ・潔さだという。たしかにソメイヨシノの花が風に散るときには花びらが一枚ごとに分かれて降るように散る。晴れているとその淡い色の花びらが一枚ごと日の光に映えて美しい。桜が咲くころの日射しは残暑の厳しい9月ごろと同じくらいの高さから照る。けっこう明るいのだ。

 けれどもどうなんだろう? 花が散ったあとの桜の木にはみずみずしい若葉が茂る。桜の花が散るのはつぎに萌え出でる新しい生命に場を譲るためなのだ。花は散るかも知れないが桜の生命はいよいよ旺盛につづいていく。それに、潔いと言えば、花ごとぼとっと落ちてしまう椿のほうが潔い散りかただという考えもあってよさそうなのに、あんまりそういうとらえ方は聞かない。

 花のあとの桜の木のいとなみやほかの花の散りかたと切り離して、桜が散るということにだけ過剰な意味を見出すのはやめたほうがいいのかも知れない。

2004年4月6日

慌ただしき歳月

 年度替わりの季節である。3月後半から4月前半のほぼひと月のあいだに、これまで毎日のように会ってきたいろんな人と別れて、これまでいちども会ったことのないいろんな人と出会う。とくに、今年が卒業、入学・進学、就職などという大きな転機にあたっているひとのなかには、この季節に生活のほとんどすべてが変わってしまうひともいるだろう。この季節にそんな出会いと別れが日本じゅうで繰り広げられるのだ。

 以前、「シュレディンガーの猫」欄に「暦の現在」を書いたとき、主としてヨーロッパとアジアの暦がどうなっているかを調べた。それでわかったことは、アジアの多くの人たちは複数の暦を持っていて、使い分けているということだ。世界共通の暦としてグレゴリオ暦も使うけれど、日常生活の一部やお祭り、宗教行事などは自分たちの文化が昔から持ってきた暦を使っている。ヨーロッパやアメリカ合衆国でも、復活祭の決めかたなどに太陰暦の名残があるし、学校年度も9月始まりで、必ずしもすべてがグレゴリオ暦どおりに区切られているわけではない。

 なぜ一つの暦に統一しないのだろうか? いろんな理由があるだろう。いま感じているのは、いろいろなものの転機を一年の同じ時期に集中してしまうと、その時期が忙しくなりすぎるからだということだ。忙しすぎると何がなんだかわからなくなるし、いろんなものごとが変わる時期に体の調子も崩しやすくなる。

 この3月から4月の生活の激変期も慌ただしすぎる気がする。正月三が日のように3日の休みは無理としても、この時期に別れと出会いの「緩衝地帯」的な休日が欲しい気が私はしている。

2004年3月30日

時代小説書きの独言

 アトリエそねっとのページで昨年から時代考証のいいかげんな時代小説を連載している。で、その時代小説書きの立場から言うと、やっぱり「ほんわか恋愛小説」は書きにくい。時代小説でも、斬った斬られたという関係とは無縁の「市井もの時代小説」はやっぱり私には書きにくいだろうと思う。

 なぜ恋愛小説や市井ものは書きにくいか? 恋愛経験も生活経験も浅いからだと言えばそれまでだ。けれども、経験の深い浅いを言うのだったら、剣を握って斬った斬られたという経験はなおさらないのだから、剣戟(けんげき)(チャンバラ)ものの小説はさらに書けないはずだ。

 そこで考えついたのは、最後には剣を交えて斬った斬られたという決着が使えることにしておくと、物語が作りやすいという理由だ。実際にはチャンバラの場面まで行かなくてもいい。ただ、どんなに物語がもつれても、最後にはチャンバラの場面に持ちこめばなんとかなるという見通しを立てておけば、物語がこんがらがったときにも物語を進める方向を探りあてられる。

 ところが恋愛小説や市井小説ではそうはいかない。どうやれば終わらせられるのかという基準がないのだ。だから難しいのである。

 しかし、現実の世界では、斬った斬られたという暴力がむき出しになる場面まで持っていけばそれですべてが終わるわけではない。暴力を使ったあとも現実の世界ではさまざまなできごとが休みなく進行していく。暴力を使ったことで情勢はますます混迷し、悲劇的なものになっていくことも多いのだ。

 敵の「大ボス」を殺して悪夢のような物語が終わりになるのはまさに物語のなかの世界だけだ。そのことを私たちは気に留めておいたほうがいい。

2004年3月23日

火星を覚えていますか?

 去年の夏に夜空にぎらぎらと輝いていたあの火星はどこへ行っただろう? いまも夕方から夜の早い時間の空高くに見えている。でも去年の夏のような明るい星を探しても見あたらない。夕暮れどき、空の高いところには赤く輝く明るい星(恒星)が二つ見える。おうし座のアルデバランとオリオン座のベテルギウスだ。そのアルデバランから少し西へ行ったところ、明るく華やかに輝く金星に近づいたところに、もうひとつ、「そのあたりの空としては明るい」という程度の地味な赤い星が見える。これが火星だ。昔から知られている五つの惑星は水星、金星、火星、木星、土星で、そのなかではいま火星がいちばん暗い。

 昨年の夏には火星の約6万年ぶりの大接近がマスコミで大きく報道された。すこし前には、アメリカ合衆国の火星探査機がその火星の表面を写した写真が公表され、大量の水が存在したことが報道された。水があった以上は火星に生命が存在した可能性も高くなったとの報道もあった。しかし、そういうニュースはそのとき大きく報道されるだけで、その後のマスコミの報道では情報の量が急速に減ってしまう。何か「驚くようなこと」や「非常に珍しいこと」がないと報道されないのだ。しかも、いちど報道されると、その内容は「あたりまえのこと」になってしまうので、次にマスコミで報道されるときにはそれを大きく上回る衝撃力がないと報道の受け手の心には残らない。もし、次に「火星に生命が存在したことが明らかになった」と報道されても、すぐに火星に生命がいたことなんてあたりまえになってしまい、すぐに忘れられてしまうだろう。

 でも、もしかすると、マスコミの報道に何でもかんでも期待してしまうというほうがおかしいのかも知れないと思う。

2004年3月16日

なんでこんなことするかねぇ?

 4月から消費税の表示方式が変わるそうだ。現在の「内税」方式に統一される。税金の入っていない「本体」の値段だけを表示する、現在の「外税」方式は禁止されるのだそうだ。

 二つ以上のものをいっしょに買うときに、税がいっしょに表記されているほうが計算しやすいという理由があるらしい。でもなぜ「禁止」するかねぇ? 明らかな詐欺や不正でないかぎり放任して、いろいろな方式を併存させ、使いやすい方式やわかりやすい方式を消費者が自由に選択するというのが自由経済の原則では? また、まず、買うものの本体の値段を合計して、それにその5パーセントを足すのがそんなにめんどうな計算かという疑問がある。5パーセントというと何か難しげかもしれないが、つまりは20分の1なのだから、ケタを一つずらして10分の1にして、さらに半分にすればすむ計算だ。「学力低下」とやらが懸念されているこのご時世、それぐらいの計算をする機会は日常的にあってよさそうなものだと思う。それとも、「学力低下」は高校生までの話で、そのコドモたちを育てる立場にあるはずの大人は関係ないわけ?

 もう一つ、税金には一定のわずらわしさはあっていいのではないかと思う。たしかに、制度がややこしくて、いま払うべき税金をどう計算していいかわからないというややこしさは困る。制度は、あくまでも合理的で、シンプルで、透明性が高いほうがいい。しかし、その合理的でシンプルで透明な制度にそって、自分がいくら税金を納めるのかは、納税者自身が計算する機会を作るべきではないか? そのわずらわしさを経験することで、納税者の側で税金を納めているという意識が繰り返し確認できるのだ。

 もしかして、そんなことして納税者が税金の使い道に関心なんか持ってくれては困る――なぁんて、民主主義国家日本の政治家や官僚が考えてるわけないですよねぇ?

 あっ! 確定申告のことすっかり忘れてた……。

2004年3月10日

ランドマークタワーの夕景

 横浜に行ったついでにランドマークタワーの展望階に上ってきた。よく晴れていたが、遠くのほうは靄がかかってよく見えなかった。日暮れが近かったからかも知れない。そのかわり、太陽が富士山の南の裾野に沈むところを見ることができた。円い太陽が稜線の向こうに隠れていく。最後に山の一隅に残った太陽の円盤の端のほうまでまぶしく輝き、そして赤くて控えめな夕焼けを残してすっと消えて行った。地上ではあちこちで人間の灯す明かりが灯り始める。ほんの少しの時間しか経たないのに、窓の外は夕景から夜景へと変わっていった。

 昼のあいだはぜんぜん目を引かないビルが、夜になってネオンサインを点灯すると目立ち始める。逆に、ゲームをやっていない野球場は、日のあるうちは目立つけれども、夜は闇にまぎれてぜんぜん目立たなくなる。昼から夜へと時間が変わると世界の見えかたはまるで変わるのだ。

 ついこのあいだまで横浜‐桜木町間は京浜東北線と東急東横線が並んで走っていた。しかしみなとみらい線の開業で東横線のこの区間は廃線になった。目の下の京浜東北線の線路は輝いて見えたけれども、旧東横線の線路はただ錆色に見えるだけだった。電車が走らなくなってすぐに錆びてしまったと友人に聞いた。そのとおりだった。夜になると、京浜東北線の桜木町駅は明るいのに、旧東横線の駅だけ暗く取り残されているように見える。

 この高さから見ると人は小さく見える。けれども人はちゃんと人に見える。地上から展望階まで300メートルしか離れていないわけだから、当然といえば当然なのだが、ふしぎとそのことには心強さを感じた。

2004年3月2日

直線的な彗星と小ぎれいな彗星?

 今年、明るくなりそうな彗星にLINEAR(リニア)彗星とNEAT(ニート)彗星というのがある。もし望遠鏡も双眼鏡も使わずに見えるようになったらまたマスコミが大きく報道することだろう。

 ところで、この二つの彗星はリニアさんとかニートさんとかいう個人が見つけたものではない。地球にぶつかりそうな小天体を探すプロジェクトが世界でいくつか行われていて、LINEARもNEATもそのプロジェクトの名まえである。夜空の広い範囲を撮影して、そのなかから動いて見える天体を洗いざらい洗い出す。そのなかから未発見の天体を探し出し、軌道を調べ、近い将来に地球にぶつからないかどうかを調べる。CCD(要するにデジカメ)やコンピューター技術が飛躍的に発達したからこそ可能になった方法だ。そうやって天体を探していると、ときどき副産物として新彗星が見つかってしまう。今年、明るくなるかも知れないのは、そういう新彗星のうち二つだ。ちなみに、最新号の『天文ガイド』誠文堂新光社に出ている彗星の「観測のための軌道要素表」掲載の84彗星のうち、LINEARの名がつくのが35彗星、NEATの名がつくのが14彗星あり、そのうち3つはごていねいにもLINEARとNEATの連名である。両方合わせて半分以上だ。しかもこの表には新発見の彗星以外も載っているので、新発見の彗星だけを挙げると「LINEAR彗星」と「NEAT彗星」の比率はさらに高まる。

 大量検索の「副産物」で新彗星がたくさん見つかるのであれば、ねばり強く夜空を双眼鏡で探しつづけ、いつかは新しい彗星を見つけて自分の名まえをつけるなどというアマチュア天文家の夢は過去のものになってしまうのだろうか。もしそうだとすれば、だれでも双眼鏡を手にすれば新彗星の発見者になるチャンスがあった時代からすると宇宙が遠くなるような気がする。

 ところで、LINEARやNEATの「本命」の、近年中に地球にぶつかりそうな天体はまだ見つかっていないようだ。

2004年2月24日

銀行の支店統合

 もう10年以上も使ってきた銀行の店舗が支店統合の準備ということでなくなることになった。しばらくは支店名はそのままで近くの店舗内で営業するという。やがてはそちらの支店に吸収されるのだろう。

 支店の統合自体はしようがない。なんせ廃止される店舗から統合先の店舗まで歩いて1分もかからなかったのだから。もともと別の銀行の支店だったのが、銀行が合併したために同じ銀行の支店になってしまった。いままで両方の店舗がよく生き残っていたと思う。

 それよりも、利用者として疑問なのは、広くて、ATMなどの機械も新しくて、従業員のサービスも行き届いているほうの支店がなくなって、必ずしもそうではないほうの支店が存続することである。広いほうの店を残してもこの地域ではそれに見合うだけの収益が上がらないと判断したのか、それとも、旧銀行ごとの派閥のあいだの力関係でこう決まったのか。旧銀行の派閥の関係で決まったとしたらとんでもない話だと思う。

 メガバンク化することで利用者の利便が向上したのだろうか? ATMは新しくなって機能が増えたかも知れないが、店舗数は減っている。少なくとも私がよく使う支店では窓口の待ち時間が短くなったようにも思えない。ATMにはすぐ行列ができる。

 メガバンク化することで競争力は強化されたかも知れない。しかし、競争力が強くなることと、実際に活発に競争が行われ、よい結果が出てくることとは別だ。小口の預金しか持っていない個人の立場から見ると、メガバンク化がどんなよい結果をもたらしたのか、私にはぜんぜんわからない。小口利用者の使い勝手という点から言えば、メガバンク化の直前、旧銀行の枠組のなかで懸命に生き残りを模索していた時期がいちばんよかったと個人的には思っている。

2004年2月18日

アキハバラは萌えるだけでいい

 10日の昼過ぎ、仕事で御茶ノ水駅附近を通りかかると、頭上を2機のヘリコプターを通過した。いまの東京でヘリコプターはべつだん珍しくないが、2機いっしょにすぐ続いて飛ぶというのはそんなにあることではない。見上げた空のはるか上を陽光をいっぱいに浴びて青空を背景に旅客機も飛んでいて、きれいなもんだなと思う。それにしても、2月の東京でヘリコプターと来ると劇場映画『機動警察パトレイバー2』を思い出してしまうのは押井マニアの悪い癖である。

 しかしお茶の水橋の近くまで来て見ると、2機どころか、おそらく10機近くのヘリコプターがお茶の水から秋葉原上空を旋回している。しかもかなり大型の機もまじっている。通行人も橋の上に並んでヘリコプターの乱舞する空を見上げており、何人もが秋葉原のほうに向けてカメラつき携帯をかざしている。たしかに異様な光景だった。ヘリコプターは御茶ノ水駅上空にも飛来して、東京医科歯科大の建物のすぐ上を掠めて飛び去っていく。

 たくさんのヘリコプターが飛び回るなかで、一機だけ低空で停止(ホバリング)している巨大な機がある。それが赤い機体で(それが普通の機体の三倍の性能かどうかは別にして。『もえたん』36頁参照……しなくてもいいです)、消防のヘリコプターらしいことと、その下あたりから淡い黒い煙が立っていることから、これは火事だなと思った。それにしてもこんな大騒ぎになるなんて、よほどの大火事か、それともまさかテロかなどとけっこう気を揉んだ。帰宅してからニュースを見るとヤマギワソフト館の火災だった。秋葉原に行けば必ずと行っていいほど通るあたりである。秋葉原は「萌える」ぶんにはいくら萌えてもかまわないが(ホントか?!)、燃えるのは困る。関係者にはお見舞いを申し上げたい。

2004年2月11日

日露戦争開戦100周年

 いまからちょうど100年前の1904(明治37)年2月、日本がロシアに宣戦布告して日本とロシアのあいだの戦争が始まった。日露戦争である。

 日露戦争は日本近代史の大きな転機になった。それまで帝国主義列強の圧力をどうはね返すかという課題を追求してきた日本は、この戦争を契機に帝国主義国へと成長する。「遅れた」アジアの国が「進んだ」ヨーロッパの大国をともかくも打ち破り、ヨーロッパの国と肩を並べる覇権国として当のヨーロッパ諸国から認知されたのだ。また、一面では、この戦争は「専制に対する立憲制の戦争」として正当化された。議会すら持たない「遅れた」専制帝国であるロシア帝国に対して、議会を持ち、政党が活躍している「進んだ」立憲政体の日本が戦いを挑む。それはまさに10年前の日清戦争につづく「文明の義戦」という性格を持っていた。当時の「進歩的」な知識人たちは、戦争をためらう政府を非難し、開戦を歓迎したのである。日露戦争に勝った日本は、帝国主義国としても、立憲国家としても、世界の「一流」国の仲間に入った。「大国」としての日本の基礎は揺るぎないものになった。

 では、この日露戦争に負けていたらどうなったか?――と仮想するのが、新作映画『イノセンス』の公開が迫って注目を集めている押井守の「Pax Japonica(パックスヤポニカ)」プロジェクトである。昨年と同様に2月26日に六本木でイベントを開催するということだ。詳細は→こちらに掲載している。イベントに参加したい方は、締切まであとわずかなのでご注意いただきたい(昨年のイベントの報告は→こちらに掲載している)

 ――というわけで今回はイベントの宣伝なのでした。

 附記 イベントは終了いたしました。また、イベント案内及び2003年イベントレポートは現在は掲載していません。あしからずご了承ください。

2004年2月4日

寒中お見舞い申し上げます

 「シュレディンガーの猫」では、「新年にふさわしい話題を」などと思って暦について書いたのだが、書いているうちにもう「新年」でもなくなってしまった。いや〜日の経つのは早いもんです……。

 というわけで、このホームページを開設してから2回めの新年を迎えた。基本的に週一回の更新を目指しますが、なかなか目標どおりいかないのが世の常でして……。昨年は更新が一か月以上も滞ってしまったことがありましたが、今年はあんまりそういうことが起こらないように努力したいと思います。これからもよろしくお願いします。

 それに関連して、「シュレディンガーの猫」のページはこれまでページ更新のたびに新しいアーティクルを掲載していましたが、今回からはほぼ月に2回のペースの更新にしたいと思います。気軽に書いた短いエッセイを更新のたびに掲載していこうという考えで始めたのがこの「シュレディンガーの猫」だったのですが、いつの間にか、なぜか長い文章を載せるようになってしまいました。この長さだと毎週更新するには準備時間と執筆時間が足りないので、これからは、月に2回のペースで更新するという方針で書いていこうと思います。また、それでこれまでの更新ペースとほとんど同じになるはずです。

 文集「ムササビは語る」に連載中の「九三年政変とは何だったのか?」は第三回です。「へたのよこずき」のページに、昨年、横浜で見た展覧会上海博物館展の感想を掲載しました。このページって新規掲載するの10か月ぶりだな……。そのほか、以前に掲載した鈴谷 了さんの「タイガースファンの「心理」とタイガースフィーバー」のうち「タイガースはなぜ「関西の代表」か」に関連して、リンク先を改訂しました。

 アトリエそねっとのページでは、ようやくというかなんというか、「『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界」の連載を開始しました。

 今回のトップページはお知らせだけでいっぱいになってしまいました。

2004年1月20日

ほんっと弱いのな...

 私はいちおう将棋は知っている。ただし、ここ10年以上、一度も勝ったことがことがない。昨年暮れにはある人と対戦し、玉があっぱれな頓死(あっけなく詰むこと)を遂げて敗れた。そのまえには駒の動かし方すら十分に身につけていない初心者に速戦を挑まれて敗れた。

 弱い原因はわかっている。先が読めないのだ。なぜ読めないかもわかっている。自分で将棋盤に駒を置いて考えないからだ。なぜ自分で駒を置いて考えないかというと将棋盤と駒を持っていないからで、それで将棋に関心を持つのがそもそものまちがいのような気もする。それはともかく、私のばあい、テレビで解説を聞いたり本を読んだりしているだけでは、「こういう手筋があったのか」と感心はできても、自分で身をもって覚えないのである。考えたつもりでも致命的な見落としがある。将棋は持ち駒を打てるのでなおさら見落としの可能性が高まる。やっぱり将棋というのは自分で駒を置いて「身体で覚える」ことが必要なゲームなのだろうと思う。

 ただ、そんなに弱い私であっても、指しかたにその人の性格が出るというのはなんとなく感じる。暮れに私を打ち負かした人は、堅実な指しかたでこちらの隙を見逃さない人だったけど、一度だけ、私が手に窮して定跡ではやらない飛車の動かしかたをしたときだけまごついた(矢倉で飛車を中飛車に振ったのである)。たぶん、この人は、定跡どおりの手筋は身につけており、その定跡で対処できる「初歩的な手筋」への対処法は知っていたのだろうけど、それ以外の手への対処法は十分に知らなかったのだろうと思う。そのあとの展開を工夫できていれば私にも勝機があったのかも知れない。いずれにしても自分自身がその飛車をもてあまして敗れたのだから大きなことは言えない。でも、このとき、将棋はもしかすると「だれを相手に指すか」という要素の比重がチェスなどとくらべて大きいゲームなのではないかと思った。

 今回はアトリエそねっとのページのみの更新です。

 末筆ながら、本年もよろしくお願いします。

2004年1月6日