<
東京市民活動コンサルタントArco Iris 緊急資料コーナー>
<年表>在日アフガニスタン難民問題の軌跡
2001年5〜7月:
入国(合法入国1名、密航等8名)。その後、難民申請・外国人登録。
密航の背景には2000年下半期からのアフガニスタンからの正規入国許可の徹底制限がある
。
2001年9月11日:
米国同時多発テロ事件。政府、内閣主導でテロ対策の強化実施(法務省入国管理局含む)。首相が「アフガニスタン人を摘発して取り調べろ」という号令。内閣危機管理・安全保障室がアフガニスタン人拘束・取り調べ方針を立てる。
2001年9月17日:
東京入管、アフガン人難民申請者等を一斉呼び出し。ターリバーン政権の武器庫の位置や、ターリバーン支持者の知人などについて聞く質問票(ダリ語)を用意して記入させる。彼ら9名も出頭するも拘束されず。
2001年10月3日:
東京入管と千葉県警、千葉県四街道、佐倉、八王子等を強制捜査、アフガン人9名を含む13名を拘束、東京入国管理局第二庁舎に強制収容
。「不法入国者を強制収容、退去強制を行う」と記者発表。※テロ事件以前より、アフガン人が空港で難民申請をして拘束、法務省入国者収容所に移送される事件相次ぐ。(国内で合計4-50名いると思われ、実態は法務省以外は把握されていない。)
2001年10月3〜9日:
難民問題に取り組む弁護士や支援者が面会、彼らアフガン人9名が全員難民申請者であったこと、テロ関連の取り調べを受けてきたことが判明。
仮放免申請などを行う。アフガニスタン難民弁護団が結成される。
2001年10月10日:
参議院法務委員会で福島瑞穂議員が在日アフガン難民問題について質問。
2001年10月15日:
大阪で98-99年に来日、難民申請を行って不認定となり、裁判闘争等で争っていたアフガン人4名をはじめ、各地在住のアフガン人合計14名が「大阪カトリック国際協力委員会」のコーディネイトで国会衆議院第二議員会館に集合、
法務省交渉、記者会見および「今こそアフガニスタン難民に難民認定を!市民集会」を実現
。東京のアフガニスタン難民弁護団も合流。
2001年10月19日:
アフガン人難民申請者9名、彼らの収容を命じる「収容令書」の発付処分を違法として取り消すことを求める訴訟(収容令書発付処分取消訴訟)および「収容令書」の執行停止を求める申立(収容令書執行停止申立)を東京地裁に起こす
。東京地裁民事第二部(市村陽典裁判長)に4名、民事第三部(藤山雅行裁判長)に5名が機械的に振り分けられる。
2001年10月19日:
衆議院法務委員会で肥田美代子議員(民主)が在日アフガン難民問題について質問。
2001年10月25日:
参議院法務委員会で福島瑞穂議員(社民)が在日アフガン難民問題について質問。
2001年10月27日:
参議院テロ対策合同審査会で野沢太三議員(自民)が在日アフガン難民問題について質問。
2001年10月27日:
朝日新聞が社説でアフガン難民問題を取り上げる(「この収容はおかしい」)
2001年11月1日:
参議院法務委員会で千葉景子議員(民主)が在日アフガン難民問題について質問。
2001年11月5日:
東京地裁民事第二部(市村裁判長)、収容令書執行停止申立を却下し、収容を継続する決定を行う
。4名は東京高裁に即時抗告。
2001年11月6日:
東
京地裁民事第三部(藤山裁判長)収容令書の執行停止を認める決定を行う
。決定の内容は法務省の難民政策自体を「国際秩序に反し、公共の福祉を侵害する」と厳しく断罪するもの。法務省は東京高裁に即時抗告。(
→論説
)
2001年11月8日:
参議院法務委員会で小川敏夫議員(民主)が在日アフガン難民問題について質問。
2001年11月9日:
東京地裁民事第三部の決定を受け、アフガニスタン人9名のうち、民事第三部で審理されていた5名の身柄が解放される。
2001年11月17日:
毎日新聞、政府がアフガン避難民受け入れ検討開始と報道。(
→論説
)
2001年11月19日:
収容継続中のアフガン人難民申請者の1人が自殺未遂。(
→論説
)
2001年11月22日:
難民心理学の第一人者である精神科医が、身柄を解放された5名を診察、全員をATSD(急性心的外傷後ストレス傷害)と診断
。再度の収容は彼らに計り知れない損害をもたらす可能性があると警告。なお、東京入国管理局は収容されているアフガン人4名に対する精神科医の診察を拒否。
2001年11月26日:
森山真弓・法務大臣がアフガン人9名全員に対して難民不認定とする処分を決定
し、東京入国管理局第二庁舎(東京都北区)で収容が継続されていた4名に通知。(
→論説
)
2001年11月26日:
東京高等裁判所第三民事部が、4名の収容令書の執行停止申立を棄却し、収容を合法とする決定を下す。
2001年11月27日:
森山真弓・法務大臣が収容中のアフガン人4名に退去強制令書の発付処分を行う
。4名は処分直後に茨城県牛久市の法務省入国者収容所東日本入国管理センター(以下、牛久収容所)に移送、収監。
2001年11月27日:
参議院法務委員会で江田五月議員(民主)が在日アフガン難民問題について質問。
2001年11月28日:
身柄を解かれていたアフガン人9名が東京入国管理局(大手町)に出頭、難民不認定通知を受理。
2001年11月28日:
法務省入国管理局の寺脇一峰・総務課長が記者会見し、「難民申請者の難民不認定理由を明らかにする」と称して、難民不認定理由と関係のない個人情報も含む9名の様々なプライバシーを暴露
。ちなみに、これは国家公務員法100条の公務員の守秘義務を無視する行為である。
2001年11月29日:
参議院法務委員会で浜四津敏子議員(公明)が在日アフガン難民問題について質問。
2001年12月11日:
国会衆議院第二議員会館で「アフガン難民申請者を収容しないで!世界人権デー集会」開催
。議員・議員秘書を始め、市民など合計65名が参加。(主催:集会実行委員会)(
→状況まとめ
)
2001年12月12日:
アフガン人難民申請者のうち、収容が継続した4名が東京地方裁判所に対して退去強制令書の取消/在留特別許可を与えない処分の取消訴訟および退去強制令書の執行停止申立を行う。民事第二部(市村裁判長)に2名、民事第三部(藤山雅行裁判長)に2名が割りふられる。(
→論説
)
2001年12月19日:
東
京地方裁判所民事第三部の決定によって身柄を解放されていた5名のアフガン人難民申請者について、東京高等裁判所第九民事部が、東京地裁の決定を覆し、彼らを再収容する決定を行う
。決定の内容は、アフガン人たちの訴えを理由なく退け、同様に理由なく法務省側の主張を採用した反動的なもの。(
→論説
)
2001年12月20日:
東京入国管理局が、収容令書に基づいて5名を再収容するため、東京入国管理局第二庁舎(東京都北区)への出頭を命令。
2001年12月21日:
アフガン人5名が東京入国管理局第二庁舎に出頭、収容令書により再び収容される
。(
→ドキュメント
)
2001年12月27日:
アフガン人5名に法務大臣が退去強制令書を発付、5名は牛久収容所に移される。(
→解説
)
2002年1月4日:
2
001年12月21日に再収容、27日に退去強制令書を発付されたアフガン人難民申請者5名のうち、ハザラ人4名が退去強制令書発付取消訴訟を提訴。
もう一名については、民族が違い、迫害の内容が異なるので、来週に提訴する予定。
2002年1月21日:
東京都港区の新高輪プリンスホテルおよび併設の「国際館パミール」でアフガン復興閣僚級会議が開催される(〜22日)。会場近くの品川駅西口で、在
日アフガン人の収容に反対するNGOメンバー30名が駅頭記者会見・パフォーマンスを行う
。
2002年1月22日:
社民党の衆議院議員・北川れん子氏が2001年12月6日に提出した質問主意書への
政府回答がなされる
。2001年のアフガニスタン難民申請者への難民認定はわずかに1件であることが判明。
2002年2月14日:
牛久収容所に強制収容
されているアフガニスタン難民申請者の1人が、手と背中を傷つけ自殺未遂。
その他の難民申請者たちも、ストレス障害、慢性疾患など健康状態が著しく悪化していることが判明。
2002年3月1日:
東京地方裁判所民事第三部(藤山雅行裁判長)、2001年12月27日に退去強制令書を発付され牛久収容所に収容された5名のうち4名を含む7名(民事第三部の審理対象となっていた人のうち、この時点まで牛久に収容されていた人全員)を事実上の難民と認め、
退去強制令書の収容部分も含む執行停止を命令。7名は即時解放される。
2002年3月7日:
牛久収容所(法務省入国者収容所東日本入国管理センター)、体調を著しく悪化させていたアフガン難民申請者一名を仮放免。
2002年3月8日:
東京地方裁判所民事第二部(市村陽典裁判長)、法務大臣により難民不認定処分を受けていた
トルコ出身のクルド人難民の不認定処分を取り消す画期的判決
。
本ページtopに戻る
アフガン難民問題indexに戻る