第10回

『鏡の女たち』



 今月号も『鏡の女たち』である。12回の連載のうち4回、それはもちろん理由はある。

 クランクインが去年の9月26日、もう1年以上たっているのに、この映画は実は今だ、公開されていないのである。クランクアップが11/11、完成したのが2/6、4/17には、ル・テアトル銀座にて完成披露試写会を行った。その時の公開予定が、カンヌ国際映画祭出品後の6月であった。しかし6月には公開されなかった。そして次の公開予定が10月であったが、10月にも公開されることなく、ついに公開は来年の4月上旬 東京都写真美術館ホールに決まった。長い道のりであった。宣伝は私だが、劇場を決めるのは配給会社で、その経緯は不明だが、去年の9月26日から、おそらく4月5日まで1年と7ヶ月、その前後もあるので2年、長い長い宣伝期間となった。

 その間室田日出男さんが亡くなり、一色紗英さんの結婚出産。映画の外側でも映画のように生起した。私は、5月、2度目の交通事故で救急車、8月ついに生家が無人、9月12年ぶりの喘息と、しかし今だこの映画と別れられずに居る。あと半年、この映画について、思考するだろう。言説を振りまくだろう、それは、『鏡の女たち』と私の蜜月がさらに続くという事であれば私とこの映画は、まれな、幸福な出会いをしたと思う。




●市井義久の近況● その10 10月

 女は背伸びをするが、男は振り返ると言われている。したがって映画の場合、女性は自分より下の世代が主人公である映画は見ない。ただし下の世代が男性である場合はその映画を見る。しかし男性は主人公が上であろうと下であろうと見る。男は郷愁にひたるのが好きらしい。だから私は過去を切って来た。今年の8月生家を2/3程壊してしまったが、整理して残り1/3の家屋に移すのがめんどうだったので、私が18年間寝起きした部屋もろとも、中に置いてあった18年間の蓄積も捨ててしまった。小学校の同窓会は1度も出席したことが無い。いや開催されているのであろうか。中学は卒業して30年ぶりの会に1度出席しただけである。高校は大学生の時に1度出席した。大学は卒業してから30年1度も出席したことがない。なのに9月29日(日)初めて大学の同窓会に出席した。それは会場が行形亭という料亭であったからである。その存在を初めて知ってから30年、昼10,500円から 夜20,000円からとても行けるとは思わなかった場所が、会場であったからである。

 認識したらすぐさま実行できることなど、たいした価値が無いのではないか。なにせ300年からある料亭であるから、名称だけは、子供の頃から知っていて、30年前に前を通り、とても私が来るような所ではないと思った。敷居が高いと思った。その時はもう就職していたので無理すれば、払えぬ額ではなかったろうが、やはり私には金ではなく敷居が高かった。それは湯布院の玉の湯とて同じである亀の井別荘とてそうだが、存在を見たのは25年前、しかし初めて宿泊したのは、やはり7年前である。ともに80年の人生を逆算しないと出来ない事だったのである。すぐにでも実行に移せることは所詮、それだけの価値しか無いのだ。



市井義久(映画宣伝プロデューサー)

1950年新潟県に生まれる。 1973年成蹊大学卒業、同年株式会社西友入社。 8年間店舗にて販売員として勤務。1981年株式会社シネセゾン出向。 『火まつり』製作宣伝。
キネカ大森番組担当「人魚伝説よ もう一度」「カムバックスーン泰」 などの企画実現。買付担当として『狂気の愛』『溝の中の月』など買付け。 宣伝担当として『バタアシ金魚』『ドグラ・マグラ』。
1989年西友映画事業部へ『橋のない川』製作事務。 『乳房』『クレープ』製作宣伝。「さっぽろ映像セミナー」企画運営。 真辺克彦と出会う。1995年西友退社。1996年「映画芸術」副編集長。 1997年株式会社メディアボックス宣伝担当『愛する』『ガラスの脳』他。

2000年有限会社ライスタウンカンパニー設立。同社代表。

2001年
3月24日『火垂』
6月16日『天国からきた男たち』
7月7日『姉のいた夏、いない夏』
11月3日『赤い橋の下のぬるい水』


ヨコハマ映画祭審査員。日本映画プロフェッショナル大賞審査員。

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