●市井義久の近況 その11 11月●

 遺影を用意した。早すぎると言われるかもしれない。平均寿命まであと26年、私が生きたいと思う寿命まであと40年。しかし5月は2度目の交通事故で救急車であったし、9月は12年ぶりの激しい喘息で一睡も出来ない日があった。慢性の高脂血症、人には迷惑はかけられない。しかしいざ選ぶとなると、ネクタイに笑顔に落ち着いた。私のすでに無人となった実家の仏壇にはもう70年くらい前に亡くなった人の遺影も置いてある。遺影おそるべしとか。


シネマファシスト 連載第11回11月号

『さゞなみ』

 スクリーンをはさんでこちら側では映画を観るという2時間の行為がある。しかしスクリーンの向う側では、時間の推移は映画によって異なり、舞台となる地域または、人種も実に様々である。観るこちら側の一義的存在と比較し、映画は想像力の産物であるからスクリーンの向う側の多様性は実に多種多様である。『さゞなみ』登場人物は日本人、時間は8月13日の旧暦のお盆までの約1ヶ月間、舞台は米沢と太地、映画の絵として映っているのは、これだけであるから極めて限定的な映画である。

 かっての大島渚『帰ってきたヨッパライ』のように時制がくり返される訳でもなければ、ホン・サンス『江原道の力』のように時制が入れ替ったり、場所が飛んだりする訳でもなければ『オー!スジョン』のように1つの事実を男と女、2人の視点から別々に描き分けている訳でもない。『帰ってきたヨッパライ』が公開された時、何人かの客が映写室に駆け込んだと言うが、大島は「映画は人生のように何が起るか解らない。映画は人生のように繰り返される」と言ったかどうかはさて置くとして、『さゞなみ』はオーソドックスな心理描写に徹しようとの意図の基につくられた映画である。この映画では、人生は映画のように何が起るか解らない訳でもなければ、人生は映画のように繰り返される訳でもない。

 映画を観る観客は、明らかに2時間、共通して映画を観るという行為を行う。しかし、映画館を1歩出るや、何が起るかわからないのであり、その映画館にはいる以前、予測不可能な事態を引きずったまま、映画館へと向った人も多いはずである。だから映画の感想は一様では無い。しかし『さゞなみ』父の突然の出奔、それ以来のさざ波、いや大波、展開が現実のようではなく、現実でさえ不可能な程に平板である。それが現実を生きる者をまず、いら立たせる。米沢という地域、太地という土地が。召喚するのかも知れないが、人間があまりにも自然に対して波弊しすぎている。すきまの多い空間、決して画面の半分以上を占拠することのない人間描写、これでは、現実のようなドラマすら生起するはずがない。いや映画は、現実のようでさえないのに、自然に支配された画面は、余りに空疎である。

 写真は1月25日(土)よりテアトル池袋で開催される「辛・韓国映画祭2003」で上映される、時を駆けるホン・サンスの『江原道の力』である。




市井義久(映画宣伝プロデューサー)

1950年新潟県に生まれる。 1973年成蹊大学卒業、同年株式会社西友入社。 8年間店舗にて販売員として勤務。1981年株式会社シネセゾン出向。 『火まつり』製作宣伝。
キネカ大森番組担当「人魚伝説よ もう一度」「カムバックスーン泰」 などの企画実現。買付担当として『狂気の愛』『溝の中の月』など買付け。 宣伝担当として『バタアシ金魚』『ドグラ・マグラ』。
1989年西友映画事業部へ『橋のない川』製作事務。 『乳房』『クレープ』製作宣伝。「さっぽろ映像セミナー」企画運営。 真辺克彦と出会う。1995年西友退社。1996年「映画芸術」副編集長。 1997年株式会社メディアボックス宣伝担当『愛する』『ガラスの脳』他。

2000年有限会社ライスタウンカンパニー設立。同社代表。

2001年
3月24日『火垂』
6月16日『天国からきた男たち』
7月7日『姉のいた夏、いない夏』
11月3日『赤い橋の下のぬるい水』


ヨコハマ映画祭審査員。日本映画プロフェッショナル大賞審査員。

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