第22回

10月号

●市井義久の近況● その22 10月

 高田肇、10月1日午後11時50分膵臓癌にて死亡。享年59才。

 私はかつてメディアボックスという会社に1997年4月から3年間在籍した。その当時の社長であった。その後東京テアトル映像事業部長となり、私は間接的に東京テアトルからも仕事をもらっていた。私がメディアボックスに入社して間もない頃、ある日の午前11時、電話を切るやいなや高田さんが、机に体をぶつけながら、取るものもとりあえず、会社を飛び出して行った。私はてっきり、奥様が事故かと思いきや、なんとかに道楽××店の足が1本落下した(故障した)、という事であった。私はそれ以来彼をカニ屋と呼んで、はばからなくなった。

 6月下旬高田さん含め4人で酒を飲んだ。調子が悪いとか、酒のはいりがどうもとかいう話は一切出ず、うまそうに、4人で酒を飲んだ。入院したとも、体調が悪いとも知らされず、次に私に届いたのが訃報である。私とは年齢差6才、何事も無く酒を飲んでから3ヶ月、人は死ぬのである。カニ屋と呼ぶ声もこれからは空を泳ぐ。しかし、思えば酒を飲むだけの関係であった。社長だったり取引先の部長だったりしたが、酒を飲むだけの関係であった。年令も近く、入院を知らされていた訳でも無い人の死はつらい。10月7日のお通夜、お清め、2次会、3次会、最後はワインをジョッキで飲んでいた。8日は出社はしたが、食事もまったく受けつけず、つらい1日を送った。カニ屋不在のこれからはちょっとさびしい。

 私は7日東宝本社8Fの試写室で『油断大敵』という映画のマスコミ試写の立合いをすませ、桐ヶ谷斎場でのお通夜へと向った。写真は1月17日公開 成島出第1回監督作品『油断大敵』。(今月は都合により映画の連載は休ませていただきます。)





市井義久(映画宣伝プロデューサー)

1950年新潟県に生まれる。 1973年成蹊大学卒業、同年株式会社西友入社。 8年間店舗にて販売員として勤務。1981年株式会社シネセゾン出向。 『火まつり』製作宣伝。
キネカ大森番組担当「人魚伝説よ もう一度」「カムバックスーン泰」 などの企画実現。買付担当として『狂気の愛』『溝の中の月』など買付け。 宣伝担当として『バタアシ金魚』『ドグラ・マグラ』。
1989年西友映画事業部へ『橋のない川』製作事務。 『乳房』『クレープ』製作宣伝。「さっぽろ映像セミナー」企画運営。 真辺克彦と出会う。1995年西友退社。1996年「映画芸術」副編集長。 1997年株式会社メディアボックス宣伝担当『愛する』『ガラスの脳』他。

2000年有限会社ライスタウンカンパニー設立。同社代表。

●2001年 宣伝 パブリシティ作品

3月24日『火垂』
(配給:サンセントシネマワークス 興行:テアトル新宿)
6月16日『天国からきた男たち』
(配給:日活 興行:渋谷シネパレス 他)
7月7日『姉のいた夏、いない夏』
(配給:ギャガコミュニケーションズ 興行:有楽町スバル座 他)
8月4日『風と共に去りぬ』
(配給:ヘラルド映画  興行:シネ・リーブル池袋)
11月3日『赤い橋の下のぬるい水』
(配給:日活 興行:渋谷東急3 他)
12月1日『クライム アンド パニッシュメント』
(配給:アミューズピクチャーズ 興行:シネ・リーブル池袋)


●2002年

1月26日『プリティ・プリンセス』
(配給:ブエナビスタ 興行:日比谷みゆき座 他)
5月25日『冷戦』
6月15日『重装警察』
(配給:グルーヴコーポレーション 興行:キネカ大森)
6月22日『es』 
(配給:ギャガコミュニケーションズ 興行:シネセゾン渋谷)
7月6日『シックス・エンジェルズ』
8月10日『ゼビウス』
8月17日『ガイスターズ』
(配給:グルーヴコーポレーション 興行:テアトル池袋)
11月2日『国姓爺合戦』
(配給:日活 興行:シネ・リーブル池袋 他)

ヨコハマ映画祭審査員。日本映画プロフェッショナル大賞審査員。

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