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『油断大敵』 最初に11月、12月とお休みしたことをおわびいたします。読んで下さる方が1人でもいる限り続けさせていただきます。 1月17日初日有楽町スバル座他公開の『油断大敵』という映画を宣伝している。成島出監督デビュー作である。成島さんを私は昔から知っている。プロデューサーの渡辺敦さんも何十年も前から知っている。そんな縁での仕事である。 役所広司が役に成り切って演技をしている。少なくともそのように見える。泣いて笑ってというストーリー展開をメリハリをつけて大げさにならず納得させて見せる。映画はテレビのバラエティではないので、登場人物を場の中で生かし切らないと観客の笑いも涙もさそうことができない。その情況の中の笑い(悲しみ)をきちんと見せてくれる。この映画を見ていると映画が時代の子、時代の産物だけでは不具、片肺であると発見する。映画は時代の子であると同時に人の子でもある。いわば時代と人を両親として生まれ落ちたのが、1本の映画である。人とはもちろん監督だけでは無い。映画に関わったすべての人。『油断大敵』という映画を見ると映画が時代と人を両親として誕生することがよくわかる。それは私が一般の観客と比較してちょっとだけ映画の側にいるからだと思う。原作を読み、シナリオを読み、時には撮影現場に立ち合い、監督の話を聞き、プロデューサーや、役者の話を聞く。だからだと思う。 昨今のコンピュータが造った映画ばかり見ていると、その映画は時代の子ではあっても人の子、BではないAがつくった映画だと差別化して見れることが少ない。取材の場に立ち合い多くの発言を聞いていると『油断大敵』は成島さんをして、はじめて撮り得た作品であると思う。映画が人をつくるということもある。だから私は昔から、映画はもちろんそれに関わるスタッフ、キャストの全員とはゆかないが、何人かには連綿と興味を持ち続けてきた。だから成島さん渡辺さんと昔からの知り合いなのだと思う。映画には映画を表現する言葉も必要である。無くてもよいが、生の映画、裸の映画よりは、映画を取り巻く言葉があったほうがより映画はおもしろくなる。 |
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●市井義久の近況● その23 1月 何年かに1度、今でも吉祥寺へ行くことがある。東京都武蔵野市なのだから何年に1度などと、大げさに言わなくともよいのだが、事実そうなってしまった、その時は決って渋谷から井の頭線に乗る。新潟から上京した1968年、一年間だけ京王線、南平に住んでいたが、その後吉祥寺、吉祥寺、関前、富士見ヶ丘、井の頭公園、浜田山、東松原、高輪、逗子、高輪と11回の引っ越しのうち7回は井の頭線沿線であった。井の頭線に乗ると、普段はまったく忘れている昔を、スイッチが切り替わったように思い出す。井の頭線が富士見ヶ丘駅に差しかかるちょっと手前、渋谷方面からは右側に忘れられたような木造2階建てのアパートが見える。私が25才から1975年から10年間近く住んだ若松荘である。周囲はすっかり変ってしまった。このアパートだけが、取り残されたようにポツリと建っていて、今でも人が住んでいるらしい。その建物は私の青春のように周囲とは関わり無く今でも建っている。私はこのアパートで初めて電話を引いた。テレビを買った。洗濯機を買った。冷蔵庫だけはもらい物でもっていたが、それまではどうやって生活していたのだろう。フロもない1K、6帖と4.5帖の台所、木造10世帯のアパート、それまではフロも無く、トイレ共同、台所も共同、しかし若松荘で初めて、フロは無いものの独立したトイレと台所を獲得した。結婚してからは、風呂の無い所に住む訳にもゆかないので、井の頭公園に引っ越したが(ちなみに全11回引っ越した住居の中で、この井の頭公園が最も今でも高かった家賃である。)だから11回の住所歴の中で若松荘が最も思い出深い建物である。 生活した11軒の建物うち少なくとも6軒はもう無い。生家もすでに半分を失い。学校は小・中・高・大とすべてあるものの建物が存在しているのは、大学だけである。これが老いるという現実なのだと思う。しかし、井の頭線、富士見ヶ丘駅の若松荘だけは今もある。かつて私にもあった青春のように今もある。それもめんどうな手続きをふむ訳でも無く、井の頭線に乗れば見える。老いても、私が若い頃を過ごした建物が一瞬でも見えると、私にも青春があった事を確認させてくれて、それは今が存在しているということである。それを一瞬見せてくれるのが若松荘である。 |
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市井義久(映画宣伝プロデューサー) 1950年新潟県に生まれる。 1973年成蹊大学卒業、同年株式会社西友入社。 8年間店舗にて販売員として勤務。1981年株式会社シネセゾン出向。 『火まつり』製作宣伝。 キネカ大森番組担当「人魚伝説よ もう一度」「カムバックスーン泰」 などの企画実現。買付担当として『狂気の愛』『溝の中の月』など買付け。 宣伝担当として『バタアシ金魚』『ドグラ・マグラ』。 1989年西友映画事業部へ『橋のない川』製作事務。 『乳房』『クレープ』製作宣伝。「さっぽろ映像セミナー」企画運営。 真辺克彦と出会う。1995年西友退社。1996年「映画芸術」副編集長。 1997年株式会社メディアボックス宣伝担当『愛する』『ガラスの脳』他。 2000年有限会社ライスタウンカンパニー設立。同社代表。 ●2001年 宣伝 パブリシティ作品 3月24日『火垂』 (配給:サンセントシネマワークス 興行:テアトル新宿) 6月16日『天国からきた男たち』 (配給:日活 興行:渋谷シネパレス 他) 7月7日『姉のいた夏、いない夏』 (配給:ギャガコミュニケーションズ 興行:有楽町スバル座 他) 8月4日『風と共に去りぬ』 (配給:ヘラルド映画 興行:シネ・リーブル池袋) 11月3日『赤い橋の下のぬるい水』 (配給:日活 興行:渋谷東急3 他) 12月1日『クライム アンド パニッシュメント』 (配給:アミューズピクチャーズ 興行:シネ・リーブル池袋) ●2002年 1月26日『プリティ・プリンセス』 (配給:ブエナビスタ 興行:日比谷みゆき座 他) 5月25日『冷戦』 6月15日『重装警察』 (配給:グルーヴコーポレーション 興行:キネカ大森) 6月22日『es』 (配給:ギャガコミュニケーションズ 興行:シネセゾン渋谷) 7月6日『シックス・エンジェルズ』 8月10日『ゼビウス』 8月17日『ガイスターズ』 (配給:グルーヴコーポレーション 興行:テアトル池袋) 11月2日『国姓爺合戦』 (配給:日活 興行:シネ・リーブル池袋 他) ヨコハマ映画祭審査員。日本映画プロフェッショナル大賞審査員。 |
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