第54

8月号


シネマ ファシスト 第54回 2006年8月号
『日本沈没』


 見た日が8月15日のせいか、防衛庁の全面協力のせいか、私には特攻隊の映画に見えてしまった。(今後『俺は、君のためにこそ死にに行く』という映画もあるが。)国を守るためにとか、国のためにという台詞が出てくるたびに事は、戦争ではなく日本沈没であるのに、意識は同一であり、情況を取り巻く人々の対応もまた同一に見える。特攻隊を描いた映画はダメと言っているのではない。多くの特攻隊を描いた映画は、後に残された人の苦痛を顧みることなく自己犠牲のみで完遂し、ましてその自己犠牲が、多くの形容詞とともに描かれることが多いので、いつも違和感がある。

 日本を沈没から救うために、命をなくしたのは2人と、戦争のそれとは比較にならないが、それでも命を捨てたように見え、又意識も同一に見える。同様に戦争が特攻という愚かな作戦を考案したように、日本を沈没から救う方法が深海で、フタのあいたペットボトルに万年筆を投げ込むような方法しか考案できなくては、その執行者は死なざるを得ない。2人には愛する人がいて、その人を守ために死にに行くということだが、死んでしまったら相手は必然的に1人で生きざるを得ず、それが賢明な方策であろうか。長山藍子や石坂浩二のように、日本が沈むのなら沈む日本と運命を共にしようという方が、時間は限定的であっても賢明のような気がする。なぜなら皆んな一生懸命にそれぞれの年齢まで生きてきたのだ。しかし首相はそれを口にはできない。

 この映画の登場人物の意識も疑問に思うが特に草薙と柴咲の行動も疑問である。2人は広い日本の国土のどこにでも神出鬼没に出現する。日本が沈没するという大情況に遭遇した時の人間何人かの小情況と意識がきちんと描けていれば、日本沈没という絵空事が絵空事のまま終ることはなかったであろうに残念である。

 もちろん日本沈没など絵空事のままで越したことはないし、62年目の戦争もまた同様である。

●市井義久の近況● その54 2006年8月

 1日は、2本の瓶ビールと6缶の缶ビールと6回の風呂と4時間の昼寝でも終る。

 6月は来日キャンペーンがあって、1ヶ月間新聞も読めないくらいに忙しかった。そこで7月の15、16、17の3連休に2泊3日で温泉へ出かけた。16日は何もしないと決め込んで旅館だから朝と晩は食事が出るので下田の駅前でビールだけを買い込んで出発した。16日は朝食8時、夕食6時、コンビニもなくケイタイも通じない山の中なので、テレビを見るか部屋の露天に入るかのどちらかだと思っていた。さて今日の朝食から夕食までの9時間をどう過ごすか。他人の家なので家事をすることもない。山の中の1軒屋なので外出することもできない。しかし朝食を食べ終わったのが9時、夕食までの9時間があっという間に過ぎてしまった。テレビを見るヒマさえなかった。昼寝を4時間、風呂を6回、ビールは2本と6缶、それだけであっという間に9時間が過ぎてしまった。時は矢のようにはやく過ぎゆく、ではなく時は生のようにはやく過ぎる。何もしなくとも、時間は過ぎる。何もしなくとも1日1年1生は過ぎる。

 翌17日東京へもどり、18日はかつて朝日新聞の映画担当であった小池民男さんを送る会に出席した。媒体の映画担当は多いが、扱う映画の写真を、わざわざ配給会社まで取りに来たのは小池さんぐらいである。たまには宣伝の人と話したいということであった。なかなかできることではない。その会場で加藤周一を初めて見た。かっと目を見開いて眼光鋭く吉岡実のようであった。杖を支えにずっと座っていたが、巨人のように見えた。トイレに立ったのですかさず後をつけた。私よりやや低いくらいの上背である。それが巨人に見えた。2人とも何かを成した人である。

 7月30日叔母が死んだと知らされた。叔母と言ってもご主人と死別していたので私が高校を卒業するまでは一緒に暮らしていた。私が小学校2〜3年の頃、新潟から逗子まで急行佐渡で12時間以上かけて連れて行ってくれた。又夏にはいつもお盆の上にビールとグラスと枝豆を乗せて美味しそうに飲んでいた。29日の夕方はなんとその逗子の駅前でずっとベンチに座り行き交う人々を見ていた。89歳、彼女はなにかを成した人なのか。そして私は。


市井義久(映画宣伝プロデューサー)

1950年新潟県に生まれる。 1973年成蹊大学卒業、同年株式会社西友入社。 8年間店舗にて販売員として勤務。1981年株式会社シネセゾン出向。 『火まつり』製作宣伝。
キネカ大森番組担当「人魚伝説よ もう一度」「カムバックスーン泰」 などの企画実現。買付担当として『狂気の愛』『溝の中の月』など買付け。 宣伝担当として『バタアシ金魚』『ドグラ・マグラ』。
1989年西友映画事業部へ『橋のない川』製作事務。 『乳房』『クレープ』製作宣伝。「さっぽろ映像セミナー」企画運営。 真辺克彦と出会う。1995年西友退社。1996年「映画芸術」副編集長。 1997年株式会社メディアボックス宣伝担当『愛する』『ガラスの脳』他。

2000年有限会社ライスタウンカンパニー設立。同社代表。

●2001年 宣伝 パブリシティ作品

3月24日『火垂』
(配給:サンセントシネマワークス 興行:テアトル新宿)
6月16日『天国からきた男たち』
(配給:日活 興行:渋谷シネパレス 他)
7月7日『姉のいた夏、いない夏』
(配給:ギャガコミュニケーションズ 興行:有楽町スバル座 他)
8月4日『風と共に去りぬ』
(配給:ヘラルド映画  興行:シネ・リーブル池袋)
11月3日『赤い橋の下のぬるい水』
(配給:日活 興行:渋谷東急3 他)
12月1日『クライム アンド パニッシュメント』
(配給:アミューズピクチャーズ 興行:シネ・リーブル池袋)


●2002年

1月26日『プリティ・プリンセス』
(配給:ブエナビスタ 興行:日比谷みゆき座 他)
5月25日『冷戦』
6月15日『重装警察』
(配給:グルーヴコーポレーション 興行:キネカ大森)
6月22日『es』 
(配給:ギャガコミュニケーションズ 興行:シネセゾン渋谷)
7月6日『シックス・エンジェルズ』
8月10日『ゼビウス』
8月17日『ガイスターズ』
(配給:グルーヴコーポレーション 興行:テアトル池袋)
11月2日『国姓爺合戦』
(配給:日活 興行:シネ・リーブル池袋 他)

ヨコハマ映画祭審査員。日本映画プロフェッショナル大賞審査員。

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