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シネマ ファシスト 第87回 2009年5月号 『美代子阿佐ヶ谷気分』 (申し訳ありません。これを7月に書いております。) ![]() と、ここまで書いて映画を見に行った。ビデオで70年代は映せない。それは『突入せよ!浅間山荘事件』でも感じたが、美代子の髪の色が70年代ではない。美代子阿佐ヶ谷気分というのが、ラスト、リゾートホテルにいるようなものというのが落ちなのか。映せたのは、『八月の濡れた砂』のポスターのみ。私が阿佐ヶ谷にいた、1973年と74年はちょうど安部愼一が阿佐ヶ谷にいなかった時期である。とすれば映画の阿佐ヶ谷気分と私の気分が異なるのは当たり前である。 この映画は、ビデオ撮影ではないのかもしれないが、ビデオで撮った70年代とフィルムで撮った70年代くらいの違いを感じた。私の70年代の阿佐ヶ谷はフィルムの阿佐ヶ谷である。 | ||
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●市井義久の近況● その87 2009年5月 今年も間もなく半分、あっという間である。同じことを繰り返していると早いというが、去年の11月から4月までは『食客』、去年の12月から5月までは『浪漫者たち』、そして1月から6月までは『築城せよ!』同じことの繰り返し、やはりあっという間である。3本並行していたので、ほとんど映画も見ていない。無理しても見たくなるような映画はなく、そもそも映画は無理して見るものではない。平日はこの3本の宣伝、休める土日は、家で何もせず過ごしていた。たとえ何もせずとも1日は早い。この半年間、幸運にも、葬式に参列することはなく、結婚式は1度だけ出席した。母はグループホーム関川から三面の里に転院した。私は変らず生きている。60年近く生きてきたことに意味があるかは分からない。しかし行けるところまでは行くつもりだ。今は戦時中ではないが、私の年齢を待たずに死んだ多くの人に代わっても、生きてゆきたい。私も、もうそんなには残っていないが、やれるところまで、行けるところまでは行く。 映画もあたる作品とそうでない作品の落差が激しい。パブリシティも出る作品と出ない作品の差が激しい。個人の労働とは違うところでそれが決まっている。徒労感が募る。同時に肉体の衰えもある。しかし行けるところまでは行く。そこがどこであろうと。 | ||
市井義久(映画宣伝プロデューサー) 1950年新潟県に生まれる。 1973年成蹊大学卒業、同年株式会社西友入社。 8年間店舗にて販売員として勤務。1981年株式会社シネセゾン出向。 『火まつり』製作宣伝。 キネカ大森番組担当「人魚伝説よ もう一度」「カムバックスーン泰」 などの企画実現。買付担当として『狂気の愛』『溝の中の月』など買付け。 宣伝担当として『バタアシ金魚』『ドグラ・マグラ』。 1989年西友映画事業部へ『橋のない川』製作事務。 『乳房』『クレープ』製作宣伝。「さっぽろ映像セミナー」企画運営。 真辺克彦と出会う。1995年西友退社。1996年「映画芸術」副編集長。 1997年株式会社メディアボックス宣伝担当『愛する』『ガラスの脳』他。 2000年有限会社ライスタウンカンパニー設立。同社代表。 ●2001年 宣伝 パブリシティ作品 3月24日『火垂』 (配給:サンセントシネマワークス 興行:テアトル新宿) 6月16日『天国からきた男たち』 (配給:日活 興行:渋谷シネパレス 他) 7月7日『姉のいた夏、いない夏』 (配給:ギャガコミュニケーションズ 興行:有楽町スバル座 他) 8月4日『風と共に去りぬ』 (配給:ヘラルド映画 興行:シネ・リーブル池袋) 11月3日『赤い橋の下のぬるい水』 (配給:日活 興行:渋谷東急3 他) 12月1日『クライム アンド パニッシュメント』 (配給:アミューズピクチャーズ 興行:シネ・リーブル池袋) ●2002年 1月26日『プリティ・プリンセス』 (配給:ブエナビスタ 興行:日比谷みゆき座 他) 5月25日『冷戦』 6月15日『重装警察』 (配給:グルーヴコーポレーション 興行:キネカ大森) 6月22日『es』 (配給:ギャガコミュニケーションズ 興行:シネセゾン渋谷) 7月6日『シックス・エンジェルズ』 8月10日『ゼビウス』 8月17日『ガイスターズ』 (配給:グルーヴコーポレーション 興行:テアトル池袋) 11月2日『国姓爺合戦』 (配給:日活 興行:シネ・リーブル池袋 他) ヨコハマ映画祭審査員。日本映画プロフェッショナル大賞審査員。 |
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