この週末土曜は渋谷松濤で展覧会を観た後に円山町へ移動。この映画を観てきました。
フィンランドの映画監督Aki Kaurismäkiの Kuolleet lehdet [Fallen Leaves] 『枯れ葉』 (2023) [鑑賞メモ] の前作2017年作です。 当時は観なかったのですが、Kuolleet lehdet [Fallen Leaves] が良かったので、 Cinema Laika 『キノ・ライカ 小さな町の映画館』 [鑑賞メモ] に合わせて企画された 特集上映『アキ・カウリスマキ傑作選』での上映を観ました。
内戦のシリアを中心に大量難民がヨーロッパへ押し寄せた2015年欧州難民危機を受けた作品で、 主人公の一人はシリアを逃れ貨物船経由でフィンランドへ不正入国した Khaled。 難民申請をするも却下されて収容施設から逃亡し、極右に付け狙われ、ホームレス状態となった中、 彼を匿い雇い入れることになったのは、アル中の妻と別れ、服のセールスマンを辞めて、ギャンブルに勝った金を元手に飲食店経営者となったもう一人の主人公 Wikström。 Khaled も、周囲の助けを得ながら、ハンガリーで生き別れた妹を探し出し、妹を呼び寄せます。 そんな、難民が直面する難民申請手続きの不条理や極右による差別と、 そんな中で見せる市井の人々のささやかな思いやりや助けの手を差し伸べる様を、 Kaurismäki らしいセリフや感情表現を抑えたオフビートなユーモアを交えた演出で描きます。
といっても、難民への取調の場面で Khaled が自身の経験を語る場面や、 アレッポは安全だと難民申請却下を告げるくだりの直後にアレッポ空爆のTVニュースを見る場面を繋ぐモンタージュなど、 Kaurismäki にしてはかなり直接的な社会的コメンタリーで、そこに難民問題での不寛容への怒りが感じられました。 その一方、Khaled を助ける人々、特に、Wikström の店の店員たちの中のぶっきらぼうで不器用な人情は、 Kuolleet lehdet [Fallen Leaves] における Ansa と Liisa の連帯に繋がるものを感じます。
主要な登場人物を演じた俳優がほとんど Kuolleet lehdet [Fallen Leaves] に出演しているということもありますし、 初期の Kaurismäki のような救いの無さに比べささやかな人情が人を救う様の描写なども共通していて、 Toivon tuolla puolen [The Other Side of Hope] と Kuolleet lehdet [Fallen Leaves] は、 地続きの世界を描いているように感じられました。
Kuolleet lehdet [Fallen Leaves] で Aki Kaurismäki の良さに改めて気付いたので、 過去の作品が映画館で上映される機会を使って少しずつ見直したいものです。
この週末土曜は昼過ぎに渋谷松濤へ。この展覧会を観てきました。
まるで本物かのようにリアルな草花の彩色木彫とそれを使ったインスタレーションを作風として、 1990年代から現代美術の文脈で活動する作家 須田 悦弘 の、1990年代から現在に至る活動を追う回顧展です。 現代美術のグループ展で観る機会は多くありましたが、美術館クラスの個展を観るのは『泰山木』 (原美術館, 1999) [鑑賞メモ] 以来、四半世紀ぶりです。
学生時代など最初期の作品が多く展示されており、 卒業制作《朴の木》 (1992) や銀座の野外の駐車場で展示された《東京インスタレイシヨン》 (1994) に、中に入る形で体験できました。 『The Ginburart』 (1993) などゲリラ的な街中展示の1990年代を思い出しつつ、 自律した彩色木彫作品というより、スタート時点から空間というか鑑賞体験を演出すること込みの作品だったのだと、改めて認識しました。 ちなみに、卒業後に1年在籍した日本デザインセンターでのパッケージデザイン、イラストレーションの仕事まで展示されていました。
彩色木彫だけでなく最近はプラチナな金のものもあるようですが、 主張の強い現代美術作品の中で、時には雑草のような草花の彫刻を展示することで見落としがちな所へ視線を誘導するようなささやかなインスタレーションに、 内藤 礼 の作品に近い趣があります。 密度の高い展示でささやかさの趣はだいぶ削がれてしまったかなとは思いましたが、 それでも、隅っこなど建物の所々に仕掛けられたインスタレーションを楽しみました。
最も新しい作風の作品は、2023年以降、杉本 博司 の依頼により始まったという古美術の補作。 といっても古美術をネタにしている所など、須田 というより 杉本 の作品に近いセンスを感じました。
美術館に着いたのは12時半頃、館内はそれなりに人が多いと感じる程度で、入館の列はありませんでした。 しかし、14時前に美術館を出る時には、入口の外に入館を待つ行列ができていました。 まさか行列ができるほどの人気とは予想していなかったので、びっくり。混雑する前に観るられて良かった。
4日は昼過ぎに八重洲へ。この展覧会を観てきました。
La Biennale di Venezia 2024の日本館で個展をした 毛利 悠子 による、 La Biennale di Venezia 2024 帰国展ではなく、 アーティゾン美術館のコレクションも交えて展示する「ジャムセッション」の形式の個展です。 『日産アートアワード2015』 [鑑賞メモ] や 『新しいエコロジーとアート』 (The 5th Floor, 2022) [鑑賞メモ] などのグループ展や ギャラリーでの個展 [鑑賞メモ] で 水が滴り流れたり物音が疎らに鳴ったりするプリコラージュによる無用の装置のような立体作品を楽しんできましたが、 美術館規模の個展で観るのは初めてです。
会場入口に鎮座した「歌い」ながら熟して腐敗していく果物静物 «Decomposition» (2021-)、 Bozak のせいかその映像を使ったバリエーションにも感じられた «Piano Solo: Belle-Île» (2021-/2024) など、近年の近作や、 奥の展示室を使って暗闇の中に浮かび上がる鉄琴を鳴らすインスタレーションなども良いのですが、 やはり、«I/O» (2011) や «鬼火» (2013) のような、ブリコラージュ感満載の作品の方が好みでしょうか。
そういう点では、近代以前の西洋美術のコレクション展示を主とするアーティゾン美術館では難しいと想像されますが、 «Moré Moré (Leaky)» のような水を使った作品が無かったのは残念でした。 この美術館に期待することではないとも思いますし、自分が今までこの作家の作品を観てきた場所の印象に引き摺られているようにも思いますが、 過去の痕跡の残る古い建物を使ったオルタナティブスペースに置かれたブリコラージュの持つ雑然さが持つ面白さが漂白されてしまったようにも感じました。
アーティゾン美術館のコレクションも交えて展示する「ジャムセッション」の形式の個展という点も、 ブリコラージュ的な共通点も感じられる Marcel Duchemp や Joseph Cornell の作品も展示されていましたが、 毛利のインスタレーションの存在感の向こうに霞んでいました。
この後、銀座から有楽町にかけて正月セールを覗いてみたのですが、収穫はなし。 40歳前後から20年近く定番としていた Issey Miyake Men がなくなって以来、ここというブランドが無くなってしまい、着る服を選ぶのに難儀しています。うーむ。
3日は恵比寿の後に六本木へ移動。この展覧会も観てきました。
1911年フランス生まれで1930年代にニューヨークへ移住、1940年代から2000年代まで現代美術の文脈で活動した Louise Bourgeois の回顧展です。 それなりに観る機会のある作家ですが、美術館規模の回顧展で観るのは Homesickness (横浜美術館, 1997) [鑑賞メモ] 以来の四半世紀ぶり。
Annette Messager [鑑賞メモ] などども共通する、 後のフェミニズム・アートへの影響も大きい、部屋のようなインスタレーションなどを改めて体感しつつ、 1940年代から作品を制作していたものの、1970年代からフェミニズム・アート的なインスタレーションを手がけるようになり、70歳代となる1980年代に注目されるようになった、という時代性を、改めて認識し直しました。
しかし、Bourgeois の作品そのものよりも、展示室に Bourgeois の言葉を投影する Jenny Holzer の Bourgeois × Holzer Projections (2024) のシャープさが強く印象に残りました。 「おぞましきもの」を示す作風という点で Bourgeois と共通するところもある Cindy Sharman がむしろ社会の中での女性のイメージを扱うのに対し、Bourgeois が扱うのは自身の親との関係性などグッと私的。 こういうところが後の世代の作家 [関連する鑑賞メモ] との違いだと思いつつも、 Holzer のプロジェクションによって「私的なことは政治的なこと」と言われたような気分になりました。
この後、晩は地元の行きつけの店へ初詣してスイーツ呑み初め。正月らしい1日を過ごしました。
ここ20年程の年末年始の過ごし方となってますが、年末29日に大掃除して、30日は若林時代の大家さん宅での餅つき宴。 年末年始は実家で過ごし、自宅へ戻って、3日は美術館へ初詣。 美術館初詣の定番は写美、ということで、昼に恵比寿に出てこの展覧会を観てきました。
2000年代以降に活動するアメリカの写真家 Alec Soth の個展です。 グループ展やコレクション展示で観たことががあるかもしれませんが、 2022年の神奈川県立近代美術館 葉山での個展は見逃しており、意識して観るのは初めてです。 生活感のある室内の写真やポートレートなど私的な雰囲気の強い作風でしょうか。
最初期の Sleeping by the Mississippi (2004) など David Lynch など連想するアメリカン・ゴシック的な雰囲気もありました。 しかし、本展覧会の核 I know how furiously your heart is beating (2017-2019) などに典型的ですが、 ガラスの映り込みや浅めの焦点を使ってレイヤー感を出したポートレイトの、焦点の定まらない雰囲気が印象に残りました。
アニュアルで開催されている写真を主なメディアに使う新進作家展です [去年の鑑賞メモ]。 方向性を強く出さない企画ですが、特殊詐欺を取材してコラージュに仕上げた 千賀 健史、私的な題材を取り上げた 金川 晋吾、ゴミとして捨てられる写真を題材とした 原田 裕規 など、ドキュメンタリ色濃め作品が目立つ構成でした。
その中では かんのさゆり の東日本大震災の津波被害地 (女川でしょうか) 復興の風景を撮った写真は、 題材の点で 畠山 直哉 の陸前高田を撮ったシリーズを思い出されつつも、風景の中に「津波の木」 [鑑賞メモ] のような画面に緊張を持たせる存在に欠け、 住宅の撮り方にしても、正面を避けて建物の輪郭がわからないようなフレーミングにしてタイポロジー的な型を避けるよう。 その撮り方が生むうつろさはむしろ ホンマタカシ の『東京郊外』[鑑賞メモ] に近く感じました。
大田黒 衣美 の作品はドキュメンタリ的ではなくむしろ造形的なもの。 オブジェを組み合わせての写真は20世紀半ばの美術ぽい形式性と思いつつ、 チューイングガムで作ったものを猫の背中に乗せて撮ったものと気付き、その光景を思い浮かべて、微笑ましくなりました。
担当学芸員のギャラリートークがあったので聴こうかなとも思ったのですが、 展示室に入りきらずロビーいっぱいとなるほどの人の多さに、断念。 今年は仕事初めが6日ということもあるのか、3日に美術館へ来ていた人も多かったのでしょうか。
話は前後しますが、年末28日は午後に新宿東口のシネマカリテへ。この映画を観てきました。
アメリカの Sara Varon によるグラフィック・ノヴェル Robot Dreams (2007) の スペインの映画監督 Pablo Berger によるアニメーション映画化です。 アニメーション映画を撮ったのは初めてのことで、実写での映画の作風も知らないものの、 Festival international du film d'animation d'Annecy 2023 Contrechamp セクション長編のベストだったこと、 実現しなかったものの当初は Cartoon Saloon との協働を望み、 The Secret of Kells (2009) [鑑賞メモ] に参加した Benoît Feroumont をアニメーターに迎えたこと、 といったことに興味を惹かれて観てみました。
登場人物は全て擬人化された動物で、主人公は犬 (Dog) と、そのパートナーとなったロボット (Robot) です。 原作は読んでいませんが、原作ではセリフが無いとのことで、アートハウス系のアニメーション映画ではよくある手法ではありますが、映画でもセリフを用いていません。 シンプルな描線によるキャラクター造形をそのまま生かし、1970年代頃のセル画アニメーションのようなベタ塗りの彩色の2Dアニメーションとして仕上げています。 また、原作は時代や場所を特定できるような描写は無いとのことなのですが、映画では1980年代半ばのニューヨークに舞台設定されています。
孤独な都会暮らしの青年 Dog が友達ロボット Robot を購入することで始まる、 出会いと突然の別れ、そしてそれぞれの別の出会いと、すれ違うような再会を描いたストーリーです。 セリフよりも音楽と動き (ダンスではなくアニメーションですが) で展開する所がミュージカル的に感じる時もあり、 新しいパートナーとの将来を選ぶほろ苦く切ないエンディングに Jacques Demy: Les Parapluies de Cherbourg 『シェルブールの雨傘』 (1964) を思い出されました。 といっても、2人を隔てる階級差のようなものはなく、別れの原因も兵役ではなくオフシーズンのビーチの閉鎖、意図しない妊娠のような要素もなく、後味はそこまで重くはありません。 Dog と Robot は友情以上に親密な関係とは思いましたが、映画中では恋愛とも友情とも取れるようなプラトニックな描写のみ。 性別やエスニシティを明示するような描写はほぼありませんでしたが、 大きくフィーチャーされた Earth Wind & Fire のヒット曲 “September” もあって Dog と Robot の関係にゲイ的なものを感じました。
映画において舞台とした1980年代半ばのニューヨークのディテールも具体的です、 ニューヨークは2003年に一度一泊したことがあるだけで1980年代当時は知りませんので店などの固有名詞は分かりませんが、 1980年代半ばというとちょうど高校生の頃でTV等のメディアを通して垣間見る機会はあり、 Gayla Kite や Chupa Chups などの小道具を懐かしく思いました (これらの流行は1970年代のようにも思いますが)。 Dog の部屋のレコードコレクションにはThe Feelies, R.E.M., The Smiths, Talking Heads, Blondieなどニューウェーヴ/インディロックのジャケットが見え、 いかにも社交的ではない孤独な都会の青年の趣味っぽくあります。 (当時、自分もその手の音楽をよく聴いていたので、懐かしくもありました。) 映画中では Earth Wind & Fire “September” が象徴的に使われていましたが、 そんなファンク/ディスコとレコードジャケットから推測されるニューウェーヴ〜インディ・ロックとは受容層が被らないので、 “September” は Dog ではなく Robot のフェイヴァリットなのでしょう。
Dog の部屋の中の描写といえば、Pierre Étaix の映画 Yoyo (1964) [鑑賞メモ] のポスターが貼られていました。 アートハウス系の映画館に通っていそうという Dog の性格付けという面もあると思いますが、 Yoyo もセリフを極力排した無声映画的な演出という点も符合します。 Dog の不器用で不甲斐ないキャラクターは、Étaix より Jacques Tati に通じるかな、とは思いますが。 というか、Dog の悲哀と笑いとのアンビバレントを感じさせるキャラクターは Chaplin や Buster Keaton のサイレント映画をも思わせるところがあります。 特に中盤の Dog と Duck の出会いやデートの場面は Buster Keaton 演じるダメ男の台無しデートコメディのようです。 他にもクラシックなミュージカル映画のオマージュと思われる場面も少なくなくありませんでした。
もちろんそんな予備知識無しにも十分に楽しめると思いますが、 1980年代当時を知る人やクラシックな映画を知る人にとっては懐かしくもあり、 多くの出会いと別れを重ねてきた大人には心に沁みるという、 大人向けの寓話アニメーション映画でした。
観終わった後は湘南新宿ラインで一路鎌倉へ。 その前の週末に体調を崩して行かれなかったカフェ・アユーに年末の挨拶がてら顔を出してきました。 月1程度しか行かれていませんが、こういう店はありがたいので、大切にしたいものです。
2024年に入手した最近数年の新録リリースの中から選んだ10枚+α。 展覧会・ダンス演劇等の公演の10選もあります: 2024年公演・展覧会等 Top 10。
2024年に歴史の塵捨場 (Dustbin of History)に 鑑賞メモを残した展覧会やダンス演劇等の公演の中から選んだ10選+α。 おおよそ印象に残った順ですが、順位には深い意味はありません。 旧作映画特集上映や劇場での上演を収録しての上映などは番外特選として選んでいます。 音楽関連は別に選んでいます: Records Top Ten 2024。
あけましておめでとうございます。
この一年を振り返りつつ、2024年の展覧会・公演等Top TenとレコードTop Tenを選びました。
2023年に続いて2024年も映画へウェイトかかっていたかなと思っていたのですが、振り返ってみると、 2024年はコンテンポラリー・ダンス/サーカスの公演を多く観たほどではないものの良いものが多かったな、という気付きがありました。 音楽については、レコード/CDの新譜情報すら疎くなってしまい、コンサート/ライブからも足が遠のきがちで、Top 10を選ぶ程ではなさそうだったのですが、 いざ選び出してみると意外にTop 10を選ぶのに困らない程度は聴いていたのかな、とも思い直しました。
元旦の能登半島地震に始まった2024年は、12月に入ってからもシリア・アサド政権崩壊、韓国非常戒厳令・大統領弾劾不成立に、アゼルバイジャン航空旅客機撃墜事件と、大波乱の国際情勢続き。2023年に続いて夏の世界的な異常高温も記録的なものに。 こんな世の中だからこそ、ささやかながらでも趣味生活を続けていけたらと思っています。
そろそろtwitterも辞めどきかと思いつつも、移転先のSNSが定まらず、ツイートも途切れがち。 フォローも少ない自分の場合はSNSへ投稿したからといって多くの人の目に触れるわけでもなし、 むしろ、このサイトの鑑賞メモをちゃんと継続した方が良いかと思いつつあります。 今年も引き続きマイペースで続けたいと思っていますので、よろしくお願いします。
27日は昼に白金台で展覧会を観た後、渋谷円山町へ移動。この映画を観てしました。
ヘルシンキから車で1時間、人口1万に満たない町 Karkkika に映画監督 Aki Kaurismäki が2021年にオープンさせた、 鋳物工場跡を改装した映画館 Kino Laika (Cinéma Leika はそのフランス語表記) のオープンまでの1年を追ったドキュメンタリー映画です。 映画館というよりも映画を核とした地域コミュニティセンターのような場を、 Kaurismäki 自らスクリーン張りや大工作業もするようにD.I.Y.的に作っていく様子を捉えています。
しかし、Kaurismäki や住民の映画館への熱い想いや困難の乗り越えるための苦闘を感動の物語として描くようなものでは全くなく、 Kaurismäki の映画同様、むしろ、淡々として、かなりオフビートな作りです。 インタビューされる Kaurismäki 縁の人々、Karkkila の人々の言葉も、 映画館への想いや Kaurismäki の人物像にきっちり焦点は合っておらず、 例えば、Kuolleet lehdet [Fallen Leaves] (2023) に登場した 姉妹インディ・ポップ・デュオ Maustetytöt が出てくる場面でも、むしろ Kaurismäki との縁はほとんど無かったと語るよう。 Kaurismäki もラストに「Karkkila へ恩返しをしたい」と語る場面はあるけれども、 雄弁に意図や想いを語ることはせず、むしろ、自ら映画館作りの作業をするその姿を通して示すよう。 そんなところに Kaurismäki らしさを感じたドキュメンタリーでした。
映画を観た後は、公園通りにある馴染みのレコード店、エル・スール・レコーズへ。 といっても、渋谷からかなり足が遠のいていますし、週末の外出パターンと開店時間も合わなくなりがちで、 店に足を運んだのも1年余りぶりでしょうか。久しぶりに行くと、楽しいものです。 通販とは違う実店舗での出会いという面白さはもちろん、いつまでここで営業できるのかという状況とも聞きますので、あるうちにもっと足を運びたいものです。
26日で仕事を納めて、27日は昼に白金台へ。この展覧会を観てきました。
鉄を素材に使ったサイトスペシフィックな立体作品を主な作風とする 青木 野枝 と、 ヴェネチア・ムラーノのガラス工房でグラス・アート (ガラスを素材にしたオブジェ作品) を制作している 三嶋 りつ恵 の、二人展です。 2人の作品が同じ部屋に展示されていたのは入口脇と本館3階のウィンターガーデンのみで、コラボレーション的な展示構成はありませんでした。 東京都庭園美術館でグラス・アートの展覧会は以前にも観たことがあり [鑑賞メモ]、 三嶋のガラス作品については展示空間に映えるだろうとは思ってました。 しかし、青木の作品 [鑑賞メモ] は鉄を切り出したディテールの重めの質感もあり、 アール・デコの洋館という癖の強い展示空間にここまで馴染むとは予想していませんでした。
三嶋 りつ恵 のガラス作品は、ムラーノとはいってもカラフルなものではなく、無色透明なもの。 ガラスケースやライトボック上で50 cm 程度のオブジェを見せるようなオーソドックスな展示も良いのですが、 小ぶりの菊の花の形のガラスを床に並べた«Crisantemo» (2024) や庭木の枝に粒の連なりのようなガラスを懸けた«Rugiada» (2024) など、 小ぶりな作品のシンプルな白い輝きで視線を誘導するかのようなインスタレーションは、 内藤 礼 のようなミニマリズムとは違いますが、窓から差すぼんやりとした日差しや室内照明の微妙な光や輝きも含めて感じさせるような作品でした。
一方の 青木 野江 の作品は、石鹸を使った作品などもありましたが、鉄板から切り出した円や直線から構成したサイトスペシフィックな作品をメインとした構成です。 大きいながら、向こうが透けた、球体や回転放物面のような曲面からなる形状もあって、実際の重量ほどの重さを感じさせません。 その金属の質感がアール・デコの金属装飾に近かったこともあってか、異質なもので空間を強烈に異化するのではなく、隠されていた構造を浮かび上がらせてるよう。 そんな展示空間に寄り添うようなインスタレーションでした。 しかし、狭い展示空間いっぱいに作り込まれたものも多く、どうやって搬入して組み立てたのだろうと思うような作品も少なからずありました。
正門横スペースで、2024/11/29から2025/01/13までの間、 「そこに光が降りてくる カフェ・プロジェクト 光のカフェ」 という、三嶋りつ惠によるグラスやプレートを実際に使ってワイン等の飲み物やチーズ、ケーキを楽しめる カフェスペースを営業しています。 アールデコ装飾された室内での展示を観たあとのせいかカフェにしては若干殺風景にも感じましたが、 こういう試みも悪くはありません。
先週末土曜は晩に横浜山下町へ。 YPAM – 横浜国際舞台芸術ミーティング連携プログラムの 愛知県芸術劇場 × Dance Base Yokohama 共同製作 Performing Arts Selection 2024 のAプログラム2作品を、 Dance Base Yokohama (DaBY) の活動を垣間見る良い機会かと、観てきました。
中盤のクリノリン風のスカート枠を2人で取り合うかのようかの場面や、 敷かれた白い方形のシートの上に横になってペンで描き合う場面など、 後者は後方に大きく映像上映するなど、工夫していましたが、動きが細か過ぎて、そのニュアンスを感じるというには厳しいものがありました。 歌舞伎の性表現や歌舞伎に多く登場する女の幽霊に着想した作品とのことでしたが、そういったコンセプトが、例えばクリノリンのような道具や、 観客への幽霊を信じるかの問いかけや、子供時代に一度だけ幽霊を見たという記憶の独白が、どのように繋がるのか腑に落ちるようなこともありませんでした。 こぢんまりとした親密な空間で20〜30分程度の長さで上演されればばまた違ったかもしれませんが、空 間・時間を使いきれていない印象を受けました。
12人のダンサーによるナラティブな要素はほぼ無い抽象的なダンス作品です。 音楽の使い方も控えめで、そもそも無音での動きが多く、音楽を視覚的に表現するというより、動きによって視覚的な音楽を作り出すよう。 4〜5人のダンサーが絡みながらの動きがメインで、12人が舞台上に揃う時も全体で動くというより 4×3くらいの組み合わせが感じられることが多かったでしょうか。 ダンサーの動きもシャープで、その点は楽しめました。 しかし、そんな抽象度がそれなりに高い舞台だったせいか、衣装や動きにおけるジェンダーや、 大人数になった際の舞台正面に向いた、もしくは背を向けた方向性の強い動きの多用が、気になってしまいました。
今週末土曜は午後に早稲田へ。桑野塾の今年を振りかえる会に参加してきました。 前に参加したのが去年11月でしたので1年ぶりです。 アピールしたいものを持ち寄って一人数分話をする会なので、ネタが無いと厳しいのですが、 今年はちょうど Аж Гай Гуде: Українські звукові архіви [Even the Forest Hums: Ukrainian Sonic Archives] 1971-1996 (Light In The Attic, 2024) という後期ソ連後半の1970年代からソ連崩壊直後の1990年代半ばにかけてのウクライナのポピュラー音楽のアンソロジーCD付きの本を入手したばかりだったので、それと関連するCDを数枚持参しました。 他の人の話もとても興味深く、読んでみたくなった本も何冊か。 いろんな人から様々な刺激を受けるためにも、時々はこういう会に顔を出したいものです。
先週末土曜は日帰りで箱根へ。会期末になってしまったこの展覧会を観てきました。
現代美術の文脈で1990年代から活動するフランス出身の作家 Philippe Parreno の個展です。 Nicolas Bourriaud: Esthétique relationnelle 『関係性の美学』 (1998; 辻 憲行=訳, 水声社, 2023) で言及され、 リレーショナル・アートの作家として知られます。 個展としてまとまった形で観る良い機会かと、会期末に駆け込み鑑賞しました。
リレーショナル・アートというと、ワークショップを多用したりワーク・イン・プログレスの展示だったりで、 展示自体はそれらのドキュメントだったり、DIY色濃いとりとめないものだったりすることが多いものですが、 今回の展覧会はポーラ美術館という場所のせいか、その後の作家の作風の変化か、むしろ、しっかり構成演出された展示でした。
最も印象に残ったのは、Marilyn Monroe が1955年に住んでいたニューヨークの高級ホテル Waldorf Astoria のスイートルームを題材とした作品です。 人のいた気配はあるけれども無人のスイートルーム内を漂うように捉えつつその様子を語るようで微妙に食い違いのある女性のナレーションが添えられたビデオが大きく投影されます。 ほぼ同じナレーションで2巡目に入ると、軽い機械の音を背景にホテルの便箋に文字をダブらせるようにペンを滑らす様子が投影されるのですが、 やがてカメラが引くとペンを走らせていたのはプロッターであり、スイートルームもセットであったことが明かされて、ビデオは終わります。
そのビデオは壁自体もしくは壁掛けの薄いスクリーンや液晶ディスプレイで上映されるのではなく、 ステージのように張り出して設置されたうっすら半透明のパネルに投影され、 パネルの後ろにスピーカーや照明が置かれ、 ビデオが投影されていない時は後ろに枠状に並んだ照明がポツポツと透けて見えます。 また、ビデオの伴奏の音楽も、録音を流すのではなく傍に置かれた自動ピアノで演奏されます。 さらに、上映されている空間はブラックボックスのままではなく、上映が終わる度に暗幕がひらき、外の可動式のリフレクタを使い外から陽が差し込ませられます。 そんな仕掛けもあって、ブラックボックス内でループで上映されているビデオ作品を鑑賞しているのとはかなり違う、 ピアノ伴奏も機械仕掛けて映像の中も無人であるものの、ライブでの上演を観たのに近い感覚になりました。 ラストでメタな視点が入ってくるビデオの構成も舞台上演を収録した映像に近く感じられ、そういった時間空間の演出に合っていました。
ビデオ作品 Anywhen (2016) の上映も Marilyn ほどでは無いものの、 他のインスタレーションの動作と組み合わせて上映されていましたし、 ドローイングの展示でもガラスケースのガラスを調光ガラスにして断続的に不透明化してケース内と手前の視野を切り替え、 空間の奥行きや時間展開を鑑賞させることで、Marilyn に類似した、時間空間を忘れた鑑賞とは異なる体験をさせるようでした。
そういった時間空間演出とは違うものの、窓越しの周囲の緑と外光が美しい展示空間を生かし、 そんな空間にヘリウムガス封入の魚型のバルーンを漂わせた My Room Is Another Fish Bowl (2018) も、 親しみやすく空間を異化する楽しさを感じました。
展覧会を観た後は森の遊歩道へ。 2019年の『シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート』展以来常設の Susan Philipsz: Wind Wood (2019) [鑑賞メモ] や、 2021年の Roni Horn: When You See Your Reflection in Water, Do You Recognize the Water in You? 展以来常設の Air Burial (Hakone, Japan) (2017-2018) [鑑賞メモ] と再会してきました。 しかし、2010年代末から現代アートの企画展が増えたのでもっと足を運びたいと思いつつ、2〜3年に1回程度。 箱根という好ロケーションですし、もっと足を運びたいものです。
この週末は、新国立劇場バレエ団 『DANCE to the Future 2024』はチケット争奪戦に敗北。 同じく会期末になってしまった大阪中之島美術館 の 塩田 千春 『つながる私』 とどちらへ遠征すべきか悩んだのですが、天気が良かったこともあり、温泉もある箱根にしてしまいました。 Philippe Parreno の方も、いかにもリレーショナル・アートな展示では無いかと危惧していましたが、結局、よく演出されたとても好みの展覧会でした。 紅葉はあまり綺麗ではありませんでしたが、美術館レストランのランチはもちろん、日帰り温泉では野生猪の温泉しゃぶしゃぶで晩酌。 日帰りながら箱根を満喫できました。 直前に行くのを決めるので日帰りになってしまいますが、やはり、一泊で行くくらいのんびりしたいものです。
先週末土曜は午後に新宿東口へ。新宿シネマカリテでこの映画を観てきました。
セリフをぼぼ使わない映画を撮ることで知られるドイツの映画監督 Veit Helmer の新作は、 グルジアの山間の村の谷を渡るロープウェイのゴンドラを舞台にした、女性乗務員2人が主人公のロマンティックなコメディです。 父の死をきっかけに戻った村でロープウェイの乗務員と働き始めた Iva と、 航空会社の客室乗務員を志望している先輩乗務員 Nino の、2人の間の関係をセリフを使わずに描いていきます。 最初のうち、ロープウェイを行き来しながらチェスをするあたりまでは、長閑な田舎でのちょっとギクシャクしつつの微笑ましい交流かなというところですが、 相手を喜ばすために仮装したりゴンドラを改造するようになるあたりから、次第にリアリズムから外れてファンタジー色濃くなります。 中盤頃までは2人の間の関係、気になる相手から次第に好意を寄せる相手に、そして、仲違いから仲直りへ、などの二人のロマンチックな関係の機微を、 表情や仕草、音楽や環境音はもちろん仮装やゴンドラ改造の方法などを使って、微笑ましくもコミカルに描いていきます。 しかし、終盤に入って、それまで駅長 (Chef) に乗車拒否されていた車椅子の男をゴンドラから吊り下げて谷を渡らせてあげるあたりから、 シスターフッドによる現状の打破というほど強いものではないですが、現実からの飛躍が寓話的に描かれます。
登場するゴンドラが Veit Helmer の親友だったタジキスタンの映画監督 Бахтиёр Худойназаров [Bakhtyar Khudojnazarov] [関連する鑑賞メモ] Кош ба кош [Kosh ba kosh]『コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って』 (1993) と同じ型式のもので、 ファンタジー色濃い展開になってからは Лунный папа [Luna Papa]『ルナ・パパ』 (1999) も思い出させられました。 Бахтиёр Худойназаров [Bakhtyar Khudojnazarov] の作風から、 ポストソ連の混乱に対する風刺 (とセリフ) を抜いて、優しい寓話に寄せたような作風に感じられました。 セリフを使わず状況と動きでクスッとした笑いをとる所は Jacques Tati も思い出します [関連する鑑賞メモ]。 相手の気を引き喜ばせるための仮装やゴンドラ改造、車椅子の男に谷を渡らせること、ラスト近くの村人総出の鳴り物演奏も添えられた夜のゴンドラパーティの場面などは、 ファンタジックなクレイアニメーションなどで使われそうな表現でもあります。 しかし、そういったことを実写でこんなにチャーミングな映像にできるのか、と。 もう少し風刺を効かせてもいいのではないかとも思いつも、このご時世、この邪気のない浮世離れ感が貴重に感じてしまいます。
派手な映像効果演出は無くファンタジックな場面でも手作り感満載で、そこが味わい深いのですが、 当初予定していたロープウェイが故障で使えず、代わりのロープウェイは単線だったため、ロープウェイのすれ違いの場面などはコンピュータでの合成とのことでした。 駅の乗り場が片面しかないので少々不自然に感じていたのですが、そういうことかと。
監督の Veit Helmer は Чулпан Хаматова [Chulpan Khamatova] 出演作を度々撮っているので名は知ってましたが、作品を観るのは初めて。 こんな面白い映画を撮る監督と知り、今まで観ていなかったことを悔やみます。 Tuvalu (1999) や The Bra (2018) など、他の作品も特集上映して欲しいものです。
ジョージア映画祭2024で予告編を観て、これは良さそうだと楽しみにしていたのですが、期待違わず大変に好みの映画でした。
映画の後、夕方には鎌倉へ移動。マスター復活、営業再開を祝いに鎌倉、カフェ・アユーへ。 さらに、二軒目に雪の下の喫茶邂逅へ初めて足を運んでみました。 こんな所に店あるのかなと住宅街を進んだ先に、個性的なお店がひっそりと。 渋谷に居場所がなくなりつつある中、小杉からの便はいいし、鎌倉かなあと思いつつあったり。
先の水曜晩は万難排して仕事帰りに三軒茶屋へ。この公演を観てきました。
スウェーデンのコンテンポラリーサーカスのカンパニー Cirkus Cirkör の6年ぶりの来日公演は、2013年の作品の再演です [2018年の鑑賞メモ]。 「平和を編む」というタイトルで、Call to Knit という編み物を通して平和を呼びかける運動も公演と並行して進められています。 といっても、舞台作品中の中では前回の来日作品 Limits のような映像投影などによる直接的なコメンタリはなく、 毛糸の編み物に着想した舞台の優しい雰囲気を通して平和への気持ちを感じさせるような舞台でした。
開演直後の舞台上で目に付くのは、上部に回転する吊り下げの機構を持つ高さ約7メートル径約12メートルの櫓、 そこから下げられた解れかけた毛糸の編み物を思わせる白のロープで編まれた穴のあちこちにある巨大な編み物のようなものです。 これは装飾としてだけでなく、上り下りしながらエアリアル的な技を見せる場としても使います。 前半の中頃でそれは下がってしまいますが、代わりに出てくるものも、シルクやトラペーズのような分かりやすくサーカス用の器械を使うことは極力避けられ、 ロープやスラックラインを使うときも複数本を組み合わせ、玉乗りの玉や倒立の台にも毛糸玉をしたテクスチャを付けるなど、 白い毛糸による編み物のイメージでビジュアルが統一されていていました。 基本、白で色が統一されていたので、時々使われる流血を思わせる赤が効果的でした。
そんなビジュアルもあってか、複数本のスラックラインを使って綱渡りしながらフィドルを弾いたり勢いよく回転するスリリングな技も、ほんわかとした柔らかい雰囲気に包むような印象を残しました。 エアリアルやハンドスタンドを使った表現が多用され、エアリアルでも落下技のようなダイナミック技は控えめ。 シルホイールも他のパフォーマーたちにに見つめられながら回ります。 派手な動きで目を引くというより、落ち着いた動きの中でバランスの良さを感じさせるパフォーマンスが多く、それも柔らかいビジュアル・イメージに合っていました。 そして、そんな技とビジュアルに、平和への思いを感じた舞台でした。
音楽は前回来日作品 Limits を含めて Cirkus Cirkör の多くの作品で音楽を手掛ける Samuel “Looptok” Andersson がライヴで伴奏していたのですが、 Knitting Peace では舞台後方の中央上方に演奏ブースが設けられ、 フィドルで時折北欧フォークらしいフレーズも織り込み、 ルーパーなどのライヴエレクトロニクスを効かせたフィドルやパーカッションの演奏の様子を見せるよう。 伴奏の様子が見えることでパフォーマーとの絡みがよりはっきりとして音楽が生きて聞こえました。 ちなみに、2010代前半 (ちょうど Knitting Peace 初演の頃)、 Looptok はスウェーデン/フィンランドのフォーク/ロック/エレクトロニカ混交 (日本ではラジカルフォークと呼ばれていた) のバンド Hedningarna のメンバーとしても活動していました。
この週末土曜の午後は少し遅めに京橋へ。 国立映画アーカイブの上映企画『没後50年 映画監督 田坂具隆』も後半。 16日に「田坂監督ゆかりの人々とその作品」からの2プログラムを観てきました。
小津 安二郎が「愉しき哉保吉君」として企画したものの松竹では実現できず、内田 吐夢 が日活で映画化したものです。 元々99分の長さがあったものの、戦後のリバイバル公開の際にハッピーエンドになるよう改変され、 1954年に内田が中国から復員した後、改変版から意に沿わない部分を削除して本来の演出意図を字幕にして挿入したといいます。 今回上映されたものは、その英語字幕版77分でした。 そんな経緯のある映画で映画本での言及や資料展示では度々目にすることはあったので、これも良い機会と観ました。
小杉 勇 演じる50代半ばのサラリーマンが定年制の施行により退職となり人生設計が狂う様を コミカルに描いた小市民映画です。 物価上昇や娘の嫁入りの準備などに苦慮しつつのサラリーマン生活の描写はいかにも小津らしく、それを奇を衒わず映像化していました。 しかし、急遽定年退職を言い渡されるも、その現実を受け入れられず、部長に昇進したという妄想に取り憑かれてからは、ほとんど妄想の中の場面しか残っていませんでした。 現実と妄想が交錯するようなプロットは小津だけでなく松竹大船の映画で見らるようなものではなく、それをどう映画化したのか興味を引かれるだけに、その点が惜しまれます。
このプログラムでは、併映で『トーキーステージ竣工式実況』 (日活, 1936, 10 min.) も上映されました。 こちらは式の様子というより当時最新の鉄筋コンクリート建てのステージの様子が伺える点が興味深い物でした。
様々な家の事情を超えて童謡歌手デビューを果たす少女、そしてそれを通しての一家の和解をを描く、 主題歌『母に捧ぐる歌』をフィーチャーした歌謡メロドラマ映画の童謡版です。 女給ゆえに亡夫の実家に受け入れられず娘から引き離される、というのも戦前映画らしいプロットでしょうか。 はっと目を引くような場面はありませんでしたが、ストーリーも演出も堅実で、メロドラマらしく泣かせる映画でした。
伊奈 精一 は 田坂 具隆 と同じく1926年に日活で監督デビューし、長年交友関係があった縁でこの企画に取り上げられたようです。 『母に捧ぐる歌』の併映で以下の映画の部分も上映されました。
小説 Hector Henri Malot: En Famille 『家なき娘』 (1893) の翻案映画化です。 同小説に基づく 田坂 具隆 『愛の町』 (日活太秦, 1928) [鑑賞メモ] との翻案や演出の違い、 特に戦時色濃くなる1939年という時代にパターナリズム的とはいえ労働問題を扱った原作をどう翻案したのかという興味がありました。 上映されたのはオリジナル73分のうち断片的に残存した中間部分32分で、上映された部分もかなり傷が多いものでした。 主人公の父親にして社長の息子の葬式以降の労使対立やその後の労働環境改善の場面がほとんど残っておらず、それらがどう描かれたのかは伺えませんでした。 『愛の町』との翻案の相違点といえば、『愛の町』ではあまり目立たなかった工場での Perrine の親友 Rosalie 相当の役が時子として、また、 Perrine の味方となる技師 Fabri に相当する相川が時子の許嫁という関係となっていました。 『母に捧ぐる歌』と同じ年に同じ監督とスタジオで撮られ出演俳優も美嶋 まり、宇佐美 淳、浦邉 粂子など重なっており、『家なき娘』の断片からも似た雰囲気を感じました。
上映企画『没後50年 映画監督 田坂具隆』で足を運んだのは 前半10月の3プログラム [鑑賞メモ] と合わせて5プログラム。 田坂 具隆 『愛の町』 (日活太秦, 1928) に出会えたのは良かったのですが、 田坂 具隆 監督作品を3本 (うち1本はダイジェスト版) しか観られませんでした。 戦前日本映画はここ10年余り現代劇映画中心にそれなりに観てきましたが、松竹がメイン、次いでPCL/東宝で、それ以外はあまり観られていませんでした。 この上映企画で日活や新興キネマの映画を観て、少し幅を広げることができたでしょうか。
この日曜にあった兵庫県知事選挙で、パワハラなどの内部告発を巡り県議会で不信任決議を受けた知事の当選が確実になりました。 まさか、アメリカ大統領選挙と同じような流れになるとは。言葉もありません。
11月上旬はドイツ出張。 過密スケジュールだったのですが、最終日8日は帰国便待ちで2〜3時間の余裕があったので、Frankfurt 旧市街の散策。 Kleinmarkthalle でランチした後、 近接してある現代美術館 MUSEUM MMK (Museum für Moderne Kust) を覗くも展覧会はやっておらず、 Gallusanlage 公園に面した高層ビル内にある TOWER MMK を案内されたので、そちらへ。
Metzger は1926年ドイツ・フランケン地方のニュルンベルグ生れながらユダヤ系のため1939年に最後の Kinderstransport (ナチス支配地域からの子供たちの組織的な救出活動) でイギリスへ。 戦後に Fluxus にも近い位置で活動した作家で、 1960年に提唱した Auto-destructive art (自動破壊芸術) は、 Ealing Art Collage 時代に彼に師事した Pete Townshend のロックバンド The Who の破壊パフォーマンスの着想源としても知られます [NME Japan の記事]。
そんな背景から、お騒がせ荒っぽいパフォーマンスを記録したドキュメントを中心とした雑然とした展示を予想したのですが、むしろ、会場はスッキリ。 最初期のドローイングに始まり、ユダヤ系の背景を持つ作家らしくホロコーストを題材としたコンセプチャルでミニマリスティックなインスタレーションなど。 ボコボコにした自動車 “Kill The Car” (1996) など、らしい作品もありましたが、むしろ、結果として現代アートのトレンドに沿うような作風。 Auto-destractive art の腐食する物体をとらえた写真や動画なども、むしろ、同時代の抽象表現主義 (Abstract-Expressionism) にも近いものを感じました。
Metzger の作品をまとめて観る機会など日本では滅多になさそうなので、観てよかったでしょうか。 伝説的に言われていることを通して知ることと実際に作品を観ることの違いを実感した展覧会でした。
MUSEUM MMKからTOWER MMKへは、せっかくなので、中世の雰囲気の残る Dom St. Bartholomäus (大聖堂) や Römer Platz を経由しつつ。 展示を観た後は hauptwache 駅まで Goethe Haus、 Die St. Katharinenkirche と Johann Wolfgang von Goethe 聖地巡礼 (生家と洗礼した教会)。 のふりをしつつ実は『アルプスの少女ハイジ』聖地巡礼 (クララの家のモデルとハイジが登った教会の塔)。 時間がなく前を通過しただけですし、教会は外装修復中でしたが。
ドイツへ往路の機中で映画 Alex Garland: Civil War 『シビル・ウォー アメリカ最後の日』 (DNA Films / IPR.VC, 2024)。 近未来、分断が進むアメリカ合衆国で、テキサスとカリフォルニアからなる西部連合と政府軍の内戦を戦場カメラマンの視点から描いた映画です。 内戦となった経緯・背景が全く描かれないのですが、 テキサスとカリフォルニアという正反対の性格の2州が連合するという設定からして、 その推測すら排除して、内戦という状況のみにフォーカスします。 その結果、登場人物へ降りかかる災害のように内戦を扱った災害映画のようでした。 映画中に Lee Miller への言及があり、dOCUMENTA(13) [鑑賞メモ] を少し思い出したりもしました。
そんなアメリカは11月5日の大統領選挙で Donald Trump が大差で勝利し、次期大統領として再任されることに。 世界状況はまだまだ先の見えない状況が続きそうです。
先週末の土曜は、京橋の後は与野本町へ移動。この公演を観てしました。
Chaillot - Théâtre national de la Danse 芸術監督 Rachid Ouramdane の今回の来日では、 2022年来日公演でのCompagnie XYとのコラボレーション Möbius [鑑賞メモ] に続き、 アクロバットのパフォーマンスを使った作品を上演しました。 それも、2名の女性フライヤー (上でバランスを取ったり投げられたりする役) を含む8名のアクロバット・パフォーマーに、 ハイライン (highlining) とフリークライミング (free climbing) という2種のエクストリーム・スポーツのパフォーマーを1名ずつ加えた編成です。 ハイラインは崖の間のような長距離高高度の2点間に張った幅数センチのベルト (スラックライン / slackline) の上を歩いて渡るもので、 フリークライミングは安全確保目的以外で人工的な支点を使わずに岩壁を登るというものです。
舞台後方にはボルダリング (bouldering) 用のホールドが配された白い人工壁面が立ち、 高さ5m程の所に上手前方から下手後方へスラックラインが張られていました。 ハイライナーの1名は終わり近くを除きほぼスラックラインの上でしたが、 フリークライマーの女性1名はアクロバット・パフォーマーたちと入り混じり、 フリークライマーもフライヤーになったり、アクロバット・パフォーマーもボルダリングもこなして、パフォーマンスを繰り広げます。
人工壁面はビデオ投影用スクリーンとしても使われ、 最初に、自然の中の極限的な環境でハイライニングする様子を捉えたビデオが投影され、 パフォーマンスの動機や最中の感覚などの証言が (日本語吹替で) 流されます (証言はビデオ中のパフォーマーのものですが、舞台上のパフォーマーは別の人です)。 その映像の後、それを受けるかのように、スラックライン上のパフォーマーと アクロバット・パフォーマーたちが触れ合いそうで届かないようなパフォーマンスが繰り広げられます。 中盤にはビデオ投影なしでフライヤーの証言が舞台上のフライヤー1名 (やはり証言者と舞台上のパフォーマーは別の人) の静かな身振りを重ねつつ流される場面が、 後半にはフリーフライミングする映像を投影しつつその証言が流される場面がありました。
アクロバットのパフォーマンスでは、フライヤーを投げる技、壁面のボールドから飛び降りる技も使いましたが、力強くダイナミックに大技を見せるような技の使い方はせず、 むしろ、大きな動きをせずに繊細に力を加減してバランスを取っていくハイライニングやフリークライミングに寄せた動きが多用されていました。 ハイライニングやフリークライミングは大自然の中の極限的な環境の中でこそのパフォーマンスです。 ビデオでその様子は見せるものの舞台の上で極限的なパフォーマンスを披露するのではなく、 パフォーマーの証言に垣間見えるハイライニングとフリークライミングにおける意識を集中した時間の中での静かに研ぎ澄まされた感覚を、 8人のアクロバット・パフォーマーを加えてのパフォーマンスで変奏して可視化していくのを観るようでした。
3つの証言うちハイライナーとフリークライマーがポジティブな内容である一方、フライヤーの証言は失敗時のネガティヴな内容です。 また、2022年のMöbiusでは音楽としてテクスチャのような電子音が使われていましたが、 この作品では、エフェクト強めで音数少なめなフレーズを訥々と弾くエレクトリック・ギターが多用されていました。 抽象的な電子音の方が極限的なパフォーマンスと精神のスタイリッシュな表現には合ったかもしれないですが、 少々感傷的な音楽を使い、ネガティブな証言も交える所に、むしろ、パフォーマンスの中に垣間見える人間味ある奥行きを感じました。
この土曜は、午前中に新型コロナ6回目+インフルエンザの予防接種。 新型コロナワクチンはモデルナ、ファイザーは経験済なのでレプリコンを試してみたかったのですが、近場では見当たらず。 結局、5回目に続いてファイザーになってしまいました。 去年の新型コロナ5回目+インフルエンザの接種の予防接種に副反応がほとんど無かったので、今回は特に予定を空けることはせず。 午前に接種したことをすっかり忘れて、うっかり、公演後にクラフトビールの店で一杯やってしまう程度には、副反応はありませんでした。
先の土曜は、夕方に京橋に出て美術展巡りしてきました。
2017年に上野公園界隈で「東京初の野外型国際フォトフェスティバル」として開催された『T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO』ですが [鑑賞メモ]、 2000年から東京駅東側エリアでのアニュアルの国際写真祭として開催されています。 去年までも国立映画アーカイブへ行ったついでに屋外展示を観ることはありましたが、 今年はギャラリーが集積する京橋エリアの雑居ビルの部屋を使っての「Exhibition 1」「Exhibition 2」を観てきました。 今年は1974年にニューヨーク近代美術館 (MoMA) で開催された New Japanese Photography から50年ということで 「New Japanese Photography: 50 years on」という写真祭のタイトルが設定されていました。
Exhibition 1のタイトルは『NEW JAPANESE PHOTOGRAPY 1974→2024』。 この50年の日本写真史を辿るものではなく、50年後の「今」を切り取る企画です。 明示的なやり方ではなく歴史的な経緯のある箇所をコンセプチャルに撮る「くにをあるく」、より形式的な作風の「象ることの意味」、ドキュメンタリ的な「分からなさを分ける」の3部構成でしたが、 やはり「象ることの意味」が好みでした。 中でも、変化がある箇所を差分情報としてデータ化する動画のエンコーディングの特徴を使い 動きのある箇所だけブロックノイズのある動画からスチル写真を切り出した 福嶋 幸平 の作品が印象に残りました。 ブロックノイズのようなものを作品に取り込む場合、デジタル的な面を強調するような使い方が多いように思うのですが、 自然を捉えた写真に対して部分的なテクスチャ加工をするような使い方が新鮮でした。
Exhibition 2『その「男らしさ」はどこから来たの?』は、男性のみで構成された New Japanese Photography を意識し、 男性中心主義的価値観やホモソーシャル性に焦点を当てた展示でした。 この展示のキュレーター 小林 美香 による資料展示中の『「男らしさ」の広告観察』が、広告表現のステレオタイプをこれでもかと数多指摘していてとても面白かったのですが、 その面白さに他の展示が霞んでしまいました。
Exhibition 3『Alternative Visions: A Female Perspective』は、 New Japanese Photography に含まれなかった 1970年代初頭までに活動していた6人の女性写真家 (今井 壽恵, 西村 多美子, 岡上 淑子, 常盤 とよ子, 渡辺 眸, 山沢 栄子) を取り上げた展示でしたが、 会場の東京スクエアガーデン アートギャラリーがオープンしているのが平日のみで、屋外展示はパネルは観ることができましたが、メインのギャラリー展示はガラスウォール越しに見ることしかできませんでした。
束芋 はアニメーションを主なメディアとして現代アートの文脈で活動する作家です。 最近は大掛かりなインスタレーションや舞台作品でのコラボレーションに積極的に取り組んでいましたが [鑑賞メモ]、 今回はコマーシャルギャラリーでの個展ということもあってか、 壁一面のビデオ作品1点以外は 立体作品や平面作品とアニメーションを組み合わせた小規模な新作からなる展示でした。
印象に残ったのは、オブジェとアニメーションの組み合わせ、 それもオブジェへ投影した、というより、オブジェへと投影とオブジェを透過しての壁への投影の 2つのレイヤーを感じる作品でした。 例えば、『夜と赤』では、ドールハウスのようなミニチュアの家の内部に泳ぐ金魚などが投影される一方、 その向こう側の壁にはシルエットになった夜の家の中で金魚が泳いでいるのが灯りの付いた窓越しに見えるよう。 ホルマリン漬けに使うガラス製標本容器に液体や標本の動きのアニメーションを投影する『ホルマリンに聴く』でも、容器越しに淡く拡散したアニメーションが幻想的でした。 そんな、オブジェ越しのプロジェクションの妙が楽しめた新作個展でした。
先週の土曜は、晩に与野本町へ。この舞台を観てきました。
2015年以来、南仏モンペリエの国立振付センターICI-CCNの芸術監督を務める フランスの振付家 Christian Rizzo による振付作品の来日公演です。 2003, 2004, 2014年と日本で作品を上演していますが、観ておらず、今回が初めて。 作風にほぼ予備知識なしで観ました。 タイトルから物語性のある作品が予想されましたが、物語性のあるスケッチすらほとんど感じられず、かなり抽象度が高い作品でした。 インタビューによると「ダンスの「公式」な歴史と、多様な場所や時代で踊られてきた庶民のダンスを並行化してダンスにできないか」という問題意識から生まれた作品のようです。
舞台は下手後方一段高くなった所にドラムセットが2組、1脚の椅子と周辺の小物が上手前方に置かれただけ。 衣装も濃淡あれど彩度の低いほぼグレーのTシャツとパンツのみ、映像もなく、照明演出のみ。 そんなミニマリスティックな舞台上で、ツインドラム2人の生演奏で8人の男性ダンサーが踊ります。 腕を広げて、肩を組んで、手を繋いで、もしくは、後ろ手で緩くステップ踏むような動きが多用されます。 特に、腕を広げてたり肩を組んで踊るさまは、 トルコのサイベク (Zeybek)、ギリシャのザイベキコ (Ζεϊμπέκικο [zeibekiko]) はもちろん、 ノルウェーのハリングダンス (Hallingdans) なども連想されました。 しかし、視覚的にミニマリスティックな舞台に加え、 複合拍子などの民族舞踊的なリズムや民族楽器を使ったりはせず、 ドラムセットが刻むロックのイデオム強めのビートが、そんな動きを抽象化していました。
民族舞踊的な要素を鍛え上げられた身体で舞台舞踊としてショー化するのではなく、 宴席や祭、もしくは、居酒屋などで音楽に合わせてオヤジたちが気ままに緩く踊る様を、 そのささやかな楽しみ、時には、哀しみなどの雰囲気は残しつつも、 抽象化した上で舞台化したように感じられました。
先週末三連休中日の日曜は昼過ぎに町田へ。この展覧会を観てきました。
版画・印刷物を通して20世紀初頭の戦間期の欧米や日本のモダンな文化の諸相を見る展覧会です。 Gazette du bon ton のような20世紀初頭のモード挿絵本 (ファッションプレート)、 Cubism, Abstruction-Création や Surrealism などの作家グループの作家性の高い版画作品から、 ワイマール時代ドイツの Neue Sachlichkeit の社会主義色濃い風刺画、ソヴィエト・ロシアの絵本やプロパガンダ印刷物まで、 多面的にこの時代を浮かびあがらせるような展覧会でした。
戦間期の文化が好きということもあり、 Art Deco の高級挿絵本 [鑑賞メモ]、 ワイマール時代の風刺画 [鑑賞メモ]、 ソヴィエト・ロシアの絵本 [鑑賞メモ] など個別の展覧会もそれなりに観てきていますが、 所蔵作品を中心とした構成ながら、見応えある展示でした。
展示は、関係する作家の第一次大戦前 Belle Époque 期の仕事に始まるのですが、 この時代の André Hellé の L'Assiette au Beurre での風刺画の色濃い作品をある程度まとまった形で見ることができました。 また、Erik Satie: Sports et Divertissements 楽譜 Charles Martin 挿絵も見ることができました。
1923年にフランスで設立された Société des peintres-graveurs indépendants (独立版画家協会) 関連作品を集めたコーナーがあり、 この協会の設立した Jean-Émile Laboureur の20世紀初頭の版画が一つの展示の軸となっていました。 George Barbier らのモード挿絵の華美とは違った、Laboureur のモノトーンの優美さに気付くことができました。
ドイツの印刷物の中では、やはり Neue Sachlichkeit の作風のものの存在感がありましたが、 1922-1924年に発行されたドイツのモード挿絵本 Styl の展示が目を引きました。 いかにも Art Deco 期のモード挿絵ですが、他と違い Lieselotte Friedländer や Anni Offterdinger といった女性作家が活躍している点に興味を引かれました。 また、同時代の日本の雑誌として『婦人グラフ』が、元ネタの Art Goût Beauté と並置されて展示されていました。 モード挿絵本の展示の充実には、デザイナー/研究者として知られる 伊藤 和之 氏のコレクションが大きく寄与していました。
展示が焦点を当てているのは戦間期ですが、戦中戦後への繋がりを意識した最終章が設けられていました。 その中では、1933年にパリで設立され、第二次世界世界大戦勃発でニューヨーク移転し、Surrealism と Abstruct Expressionism を繋いだ Stanley William Hayter の版画工房 Atlier 17 を取り上げている点に、版画・印刷物を対象としたこの展覧会らしい着眼点を感じました。
先の週末三連休前日金曜と初日土曜は午後に京橋へ。 国立映画アーカイブでは上映企画『没後50年 映画監督 田坂具隆』を開催中です。 田坂は、1924年に日活大将軍 (京都) へ入社、1927年に監督となり、戦後1960年代まで活動した監督です。 まずは、サイレント映画を伴奏付き (1本は弁士も) で観てきました。
溝口 健二 『滝の白糸』 (入江ぷろ, 新興キネマ, 1933) [鑑賞メモ] に続く 入江 たか子 主演作、 相手役は 高田 稔 で、スター2人の独立プロダクションによる製作です。 結婚を約束した恋人が結核に罹り自殺してしまったことを契機にサナトリウムの看護婦となった道子 (入江) と、 彼女の働く八ヶ岳・富士見高原のサナトリウムで療養していた進 (高田) の、この2人の間の愛を描いた約2時間半の長編メロドラマ映画です。
進に許嫁、後に妻となる弓子がいるということはありますし、道子へ寄せられる一方的な好意もあったりしますが、 結婚の障害となるような階級・貧富差や周囲の反対ははっきりとは描かれません。 むしろ、修道女のように生きようという道子のこだわりが2人の愛の道に塞がる苦難を作り出し、それを通して道子の気高さを描くようでした。 進をめぐる道子のライバルに当たる弓子の描写が薄く魅力的な人物として描かれておらず、 道子をめぐって進のライバルになるような男性も登場せず、恋愛の綾を演出するような展開がなく、 男女の運命のままならさ、やるせなさのようなものを感じさせません。 そんなこともあり、メロドラマとしては物足りないものがありました。
しかし、高原を疾走する汽車列車を捉える構図やサナトリウム内や後半の刑務所内での道子 (入江) を捉える構図などモダンな構図も良いですし、 高原や海岸の風景や、象徴的な花の使い方、そんな中で絵になる 入江 (特に修道女のような看護婦白衣姿) や 高田 の存在感など、 画面の美しさを堪能することができました。 当時のモダンな風俗を感じさせる要素があまり映り込みませんでしたが、舞台がサナトリウムや刑務所だったりするので仕方ないでしょうか。
『月よりの死者』は、弁士 片岡 一郎、ピアノ伴奏 柳下 美恵 で観ました。 予定されていた弁士が急病のため急遽変更での登板でしたが、そつなくこなしていて、さすがです。
現存する最古の 田坂 監督作品です。 10分のダイジェスト版ですが、断片ではなく、粗筋が追えるよう編集されていました。 恐喝しようとして金を恵まれた貧しい男がそれを契機に更生して事業者として財を成す一方、 金を恵んだ富豪は火災で没落するが、没落した一家を見つけ出し恩返しを果すという物語です。 後の『愛の町』にも繋がる雰囲気が感じられましたが、これだけでは絵や物語の面白さはなんとも言い難いものがあります。
『ペリーヌ物語』としてTVアニメーションシリーズ化もされた小説 Hector Henri Malot: En Famille 『家なき娘』 (1893) の翻案です。 満州で貧困の中で父を亡くした輝子は、日本へ帰る船上で到着する間際に母も亡くし、母の遺言に従い父を勘当した工場経営者の祖父を訪れます。 駆け落ちした両親に対する祖父の怒りを知り、輝子は身分を隠して祖父の工場で働きますが、 秘書として働く中で頑なだった祖父の心を解きほぐし、和解するという物語です。 優しさと誠意を持って接すること通して祖父の心を和らげていく過程を、 工場の劣悪な労働・生活環境と対立的な労使関係からの労使協調しての労働・生活環境改善と重ねていきます。
資本家と労働者の対立を背景に祖父と孫娘の私的な和解に工場での労使協調・労働環境改善を重ねて描くというストーリーだけでなく、 特に、職工町の火災で助けを求めて社長宅へ押しかける労働者やその家族たちの群衆の描写や、労使和解後の溌溂とした労働者たちの描写、画面の絵作りなど、 ロシア・アヴァンギャルドの映画や Fritz Lang: Metropolis『メトロポリス』 (1927) も想起させるところがありました。 1928年というほぼ同時代にこんなモダンな映画が日本で撮られていたのか、と。 しかし、労使和解はラストの大団円で象徴的に描かれ、改善された職工町は遠景のみ、ディテールが描かれなかった点は、少々物足りなく感じました。
また、ロシア・アヴァンギャルド映画にありがちな闘争のマッチョさはこの映画には無く、 むしろ、『月よりの死者』とも共通するような花を用いた演出など、 夏川 靜江 演じる輝子の可憐さ、健気さを引き立たせる描写も目立ちます。 原作にはないこの映画オリジナルのプロットですが、 祖父との和解、労使関係の改善に加えて、輝子と技師 手塚の間の恋も控えめに、しかしラストは結婚という形で絡めます。 そういう点はむしろ世界名作劇場的というか、少女小説・少女漫画的にも感じられ、そこに良さを感じました。
実は、TVアニメーションシリーズ世界名作劇場『ペリーヌ物語』 (1978) と同じ原作だとはすぐには気付きませんでした。 小学生時代 (1974-79) に世界名作劇場を観ていましたが、後に再放送などで見直す機会があった 『アルプスの少女ハイジ』 (1974)、『母をたずねて三千里』 (1976)、『赤毛のアン』 (1979) 以外は、 『ペリーヌ物語』だけでなく他の作品も言われてみればそうだったかなと思う程度でほとんど覚えていないということに気付かされました。
『更生』と『愛の町』は併映で、共にピアノ伴奏 天池 穂高 で観ました。 『愛の町』ではサイレントであることを忘れるほど没入して観て、エンディングでは思わず涙ぐんでしまいました。
田坂が助監督時代に師事したという 三枝 源次郎 の監督作品で、田坂の妻 瀧花 久子 がヒロインを演じています。 将来を嘱望された優秀な若手の蒸気機関手 森 茂 と、幼くして売られて心ならず曲芸団員となった娘 おみよ の間の、 曲芸団に おみよ を連れ戻そうとする曲芸団長や列車運行のための 茂 の職務などの障害を乗り越えていく、2人の恋路を描いています。 貧しいながらも実直で人情味も感じさせる恋路の描写に、こういう所を田坂は引き継いだのかと思うところもありました。 しかし、鐵道省の後援で製作されたという事で、やはり、運転操作なども本格的な描写で迫力のある蒸気機関車、列車を捉えた場面が、この映画の一番の見どころでしょうか。
先の『特急三百哩』の主演の、そして田坂の映画での主演も多かったという 島 の監督転身後の作品で、芥川賞受賞作の映画化です。 貧乏小説家 眞木 と妻と娘の三人暮らしをユーモラスに描きます。 全78分中現存する29分の上映ということで、コミカルな場面を集めたスケッチ集のよう。 その描写は松竹大船の小市民映画にも通じる所があるかなと思いつつも、機微を捉える繊細な日常の描写に代えて、喜劇的な表現に置き換えたように感じられました。
『特急三百哩』 と『暢気眼鏡』 は併映で、「田坂監督ゆかりの人々とその作品」という枠での上映でした。 サイレントの『特急三百哩』は伴奏 神﨑 えり で、鉄道映画ということで、『鉄道唱歌』の変奏を織り交ぜつつ、ピアノだけではなく時にピアニカも交えていました。
先週末の土曜は午後に恵比寿へ。8月に行った際に見逃していたこの展覧会を観てきました。
東京都写真美術館のコレクションに基づく展示は、写真と、それに関する写真家自身や批評家などの言葉を並置するという企画でした。 白黒もしくはカラーでも比較的彩度が低い、構図や焦点のコントロールの効いた形式的な画面作りをした、 しかし、抽象度が高いというよりかすかにナラティブが湧き上がってくるような、そんな写真が多く集められていました。 その写真と言葉の組み合わせの妙を、というより、そんな写真たちが作り出す落ち着いた雰囲気を楽みました。
構成としては、Berenice Abbott を入り口に、彼女が見出した Eugène Atget や彼女が師事した Man Ray を補助線に、それらの作風などに絡めて他も選ばれているようでした。 杉浦 邦恵 [鑑賞メモ] など以前に個展を観たこともある作家の良さを再確認したりしましたが、 今まであまり意識して観ていなかった最近の作家の良さに気付かされたりもしました。
寺田 真由美 の写真は、ミニチュアで作られたミニマリスティックでひとけの無い屋内をモノクロで撮ることで、その光の差し加減を前景として浮かび上がらせるよう。 また、陳維 [Chen Wei] の写真は、カラーながら荷物だけの待合室やガラスブロック越しの街の灯でその華やかな街の中にある虚さ寂しさを撮っているように感じられました。
この週末は仕事で潰れる可能性があったので予定を空けていて、1ヶ月余前にはそれはないと確定した後も予定を入れ忘れていました。 気になる舞台があったのに、予定が読め無いので日が近づいてから考えようと保留している間にスタックの底に沈み、すっかり忘れて見逃してしまいました。 実は、その前の週末にも同様に見逃した舞台があって、思い立った時にチケットと日程を押さえないとダメだ、と、つくづく。
先週末の土曜は午後に清澄白河へ。この展覧会を観てきました。
日本の現代美術の世界最大級のコレクションである高橋龍太郎コレクションに基づく展覧会です。 それ以前からのコレクションもありましたが、本格的にコレクションを始めたのは1990年代半ばで 「ザ・ギンプラート」 (1993) や「新宿少年アート」 (1994) といった時期から始まり、 モダニズム/シュールレアリズムというモダンアートの2つの系譜の後者にコレクターの関心があったようで、 以降は具象もしくはナラティブな作品がコレクションの中核にあるようでした。
自分も1990年代半ばの街中アートイベントを好んでいたので、イントロこそ当時の雰囲気を思い出して懐かしさもありました。 しかし、自分自身はむしろモダニズム的な系譜の作品へ興味が移っていったので、 自分にとっては疎い作家・作品が多く、1990年代以降、こんな動きもあったのかと、気付きもありました。 しかし、やはり自分の目に止まるのは菅 木志雄 [鑑賞メモ] や 東納谷 裕一 [鑑賞メモ] など、抽象度の高い作風のもの。 「菅 木志雄 の作品もコレクションしているのか」などと思いながら観ました。
『日本現代美術私観』の導入部でもある1990年代半ばの廃校舎や街中を使ったアートイベント (IZUMIWAKUやモルフェなど) に パフォーマンスを含めた作品で参加していたのを度々観ていた 開発 好明 の個展です。 今の自分の関心や好みとはすれ違ってしまった感はありましたが、 自分がチェックしなくなった2000年代以降のプロジェクトが多く、 1990年代当時観たものがこういう形で展開していったのか、と感慨深く観ました。
竹林之七妍 は女性作家7人 (間所 (芥川) 紗織, 高木 敏子, 漆原 英子, 小林 ドンゲ, 前本 彰子, 福島 秀子, 朝倉 摂) の特集展示でしたが、女性作家の特集に「竹林之七妍」というタイトルを付けるセンスは少々古くないか、と。 福島 秀子 の作品が観れたのは良かったのですが、展示されていたのは平面作品。 昔観た舞台美術・衣装デザインの展示 [鑑賞メモ] はレアで、あの時に観られてよかったと実感しました。
9月15,22日とジョージア映画をまとめて観たら、ジョージア料理を食べたくなったので、 この日の晩は目黒にあるロシア・ジョージア・ウズベキスタン料理の店Anna's Kitchenへ。 最近この手の料理からご無沙汰していたので、久しぶりに食べて楽しかった。 またいきたいものです。
日曜となった秋分の日は前日までの猛暑はおさまったもののはっきりしない天気。 そんな中、お彼岸の墓参を済ませ、昼過ぎに銀座へ。シネスイッチ銀座でこの映画を観てきました。
ロシア出身の舞台演出家・映画監督 Кирилл Серебренников [Kirill Serebrennikov] による 悪妻として知られたチャイコフスキー [Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky] の妻アントニーナ [Антонина / Antonina] を、 彼女の視点から描いた映画です。 といっても、19世紀後半のバレエ音楽で有名なチャイコフスキーの関係者の伝記的な面への興味ではなく、 2022年に観た同監督による Петровы в гриппе [Petrov's Flu] 『インフル病みのペトロフ家』 [鑑賞メモ] の作風への興味で、足を運びました。
冒頭のチャイコフスキーの葬式の場面で、弔問に来た妻に対してチャイコフスキーが蘇って罵倒する演出で期待したものの、 以降しばらくは、結婚に至るまでは少々執着が強いとはいえアントニーナのチャイコフスキーへのアプローチを中心とした描写で、比較的普通の演出の伝記映画のよう。 プーシキン [Александр Пушкин / Alexander Pushkin] の小説を原作とする チャイコフスキーのオペラ Евгений Онегин『エウゲニ・オネーギン』 (1879) における タチアーナ [Татьяна] とエウゲニ・オネーギンの関係を踏まえているかなと思いつつ、期待したものとは違ったかもしれないと感じました。
アントニーナハ憧れの人チャイコフスキーと結婚できたものの彼は同性愛者で、結婚生活は形式的なものとなり、ついにチャイコフスキーはアントニーナを遠ざけます。 そうなってから、少しずつ長回しで現実と妄想を行き来するような表現の割合が増えて行きます。 映像の中のアントニーナは社会的な自立の選択肢がほとんどない当時の女性の立場の中で可能な選択をしているようでありつつ、 映像演出を通して彼女が精神的に壊れていく様を描くよう (実際、アントニーナは晩年を精神病院で過ごすこととなった)。 ラスト近くの狂気のコンテンポラリー・ダンス的な身体表現による演出など、舞台演出もする監督ならではでしょうか。
チャイコフスキーが同性愛者であったというタブーに触れているということが話題になりがちですが、 描写の中心はアントニーナで、同性愛者であることは形式的な結婚生活の前提として使われる程度。 むしろ、少々妄執的な面のあったアントニーナが当時の女性の置かれた立場と不幸な結婚の中で壊れていく様を主観的な映像を通して体験するようでした。
先週末土曜午後は、先々週末に続いて渋谷円山町へ。 渋谷ユーロスペースで開催中の 『ジョージア映画祭2024』で、 『母と娘−−ヌツァとラナ』と題されたプログラムの4作を観てきました。
1930年代後半ソビエト大粛清の際に父が銃殺、母が流刑となり、街に一人取り残された娘と流刑地での母の体験を描いた劇映画です。 監督のლანა ღოღობერიძე [Lana Gogoberidze]も大粛清の際に父が銃殺、母が流刑となっており、 タイトルは母ნუცა ღოღობერიძე [Nutsa Gogoberidze]の流刑先での体験に基づく短編小説のタイトルから撮られています。 監督は母が流刑の間、叔父の元で暮らすことができたようですが、 この映画では娘は赤軍将校と暮らすことになり、その将校も粛清され、孤児院へ行くことを決意して終わります。
大粛清の大状況を群像劇的に描くのではなく、 女性受刑者たちを収容してくれる収容所もなくペチョラ川 (シベリアではなくバレンツ海に注ぐヨーロッパ・ロシア北部の川) 沿いを彷徨う母の視点と、 両親がいなくなった後に家に来た赤軍将校に追い出されることなく奇妙な同居を続けることになった娘の視点の、2つのミクロな視点から大粛清の辛い体験を静かに映像化します。 大粛清の犠牲者として挙げられる政治家、軍人、芸術家は男性がほとんどですが、流刑地での女性を描いているという点、 それも、有力な男性の囚人の情夫になるなどの男性的な視点ではなく、女性たちが流刑地でいかに尊厳を保って生きたかを描くところは、さすが女性の監督ならではでしょうか。 一方、娘と赤軍将校の同居の描写では、文化的にも豊かさを感じさせる娘一家の生活と、農村出身の赤軍将校の貧しかったであろう生い立ちが窺われる描写が多く、 そんな所にも大粛清の背景を見るようでした。
流刑先のペチョラ川の最後の場面で、女性受刑者たちはワルツを踊るのですが、そこで使われる音楽は Johann Strauss IIの “An der schönen blauen Donau”。 ელდარ შენგელაია [Eldar Shengelaia] 監督の映画 მრავალჟამიერ [Mravalzhamier] 『ムラヴァルジャミエル三部作』 (2022) 中の『井戸』[ჭა / Cha] でもこの曲が使われていましたが[鑑賞メモ]、ジョージアで何か象徴的な意味のある曲なのでしょうか。
ლანა ღოღობერიძე [Lana Gogoberidze] 監督の過去の自作の場面を 映画監督だった母 ნუცა ღოღობერიძე [Nutsa Gogoberidze] との関係の視点から抜粋しつつ、 また、埋もれていた母の映画の発掘の経緯や、発掘された映画の一部の抜粋を交えつつ、 母と自身の歩みを振り返るドキュメンタリー映画です。 映画的というよりARTEで放送/配信されそうなしっかりとした作りのドキュメンタリーで、 背景に疎かったこともあり、前に観た『ペチョラ川のワルツ』や、後に観た『ウジュムリ』、『ブパ』の理解の助けに大いになりました。
ソビエトの最初の女性監督と言われる ნუცა ღოღობერიძე [Nutsa Gogoberidze] のサイレント劇映画です。 舞台はジョージア西部サメグレロ [სამეგრელო / Samegrelo] 地方のマラリアが猖獗する低湿地で、 タイトルはそこに住むとされた伝説の悪霊の名から採られています (ここではマラリアもこの悪霊の名で呼ばれています)。 当時のソビエト映画らしく、新世代にあたる低湿地に干拓開拓に取り組む青年団と旧世代に当たる伝統的な生活や伝説を重んじ開拓を妨害しようとする地元の名士だった人々との対立と、新世代の勝利、旧世代の謝罪と新世代の赦しを描きます。 新世代を代表するのは実家は貧しいながら青年団を率いるリーダーとその妻、旧世代を代表するのはリーダーの義父やその老母です。 義父や老母の仕掛けた罠にかかりリーダーが沼にはまって死にかけるも、妻や青年団の仲間の活躍で救われるというのが、映画のクライマックスです。 1934年作ということで、まだ、クロースアップや極端な構図を使ったアバンギャルド色濃い作風ですが、 Carl Theodor Dreyer: La Passion de Jeanne d'Arc 『裁かるゝジャンヌ』 (1928) [鑑賞メモ] を思わせる顔のクロースアップの多用が、特に印象に残りました。
『ウジュムリ』の前に撮られた、 ジョージア・ラチャ [რაჭა / Racha] 地方のコーカサス山脈の山深い山村を捉えたサイレントのドキュメンタリー映画です、 タイトルはこの地方にある氷河の名前から採られています。 山の斜面での農作業や農閑期のコーカサス山脈越えの出稼ぎ、土砂崩れや洪水などの天災など、厳しい山村の生活が描かれる一方、 水力発電所や保養所に象徴される近代的な暮らしがそんな山村にも着実に近付いてきている様も捉えていました。
ნუცა ღოღობერიძე [Nutsa Gogoberidze] 監督は大粛清で流刑となっておりその映画は長らく行方不明となっていましたが、 娘 ლანა ღოღობერიძე [Lana Gogoberidze] の尽力もあり、 『ブバ』は2013年、『ウジュムリ』は2018年にロシア国立映画アーカイヴ Госфильмофонд [Gosfilmofond] で再発見されました。 今回はデジタル修復され Giya Kancheli の音楽が新たに付けられたものが上映されました。 そのアナログおぼしき電子音も交えた音も興味深くありましたが、画面の雰囲気と比べ現代的な音に違和感もありました。ピアノ伴奏の方がすんなり観られたかもしれません。
先週末三連休中日の日曜は午後に渋谷円山町へ。 渋谷ユーロスペースで開催中の 『ジョージア映画祭2024』で、 『ギオルギ・シェンゲラヤ監督と「ピロスマニ」』と題されたプログラムの3作を観てきました。
გიორგი შენგელაია [Giorgi Shengelaia] 監督の劇映画第1作です。 都会に住む男が、旧弊な祭と聞くカヘティ [კახეთი / Kakheti] 地方のアラヴェルディ修道院 [ალავერდის მონასტერი / Alaverdi Monastery] の祭を訪れ、 祭に参加していた人の馬を拝借して野を駆け回ることで祭に一旦は騒動をもたらすが、 その後、修道院からのカヘティ平原の眺めを観て人々の営みに覚醒する、という物語です。 祭の場面は実際の祭の中で主人公の目付きの鋭い男が歩き回る形で撮影され、そこにナレーションが付けられます。 祭の中で感じる疎外感を説明的ではない詩的な映像で昇華させたような映画でした。
გიორგი შენგელაია [Giorgi Shengelaia] の兄 ელდარ შენგელაია [Eldar Shengelaia] による、 近年に亡くなった3人に捧げた1作20分程度の3作からなる短編集です。 タイトルの მრავალჟამიერ [Mravalzhamier] は長寿を讃える伝承歌から採られています。 1作目『井戸』[ჭა / Cha] は映画監督 მიხეილ კობახიძე [Mikheil Kobakhidze] に捧げられ、 昔ながらの風情の街中で水の来ない井戸を掘る8時から進まない時間を描く不条理をユーモラスに描いています。 最後に井戸から水が湧く所で音楽に Johann Strauss II の “An der schönen blauen Donau” が使われます。 2作目『歌』[სიმღერა / Simghera] は ანსამბლი რუსთავი [Ensemble Rustavi] の ანზორ ერქომაიშვილი [Anzor Erkomaishvili] に捧げられたもので、 伝統的な地声合唱で歌を贈りに結婚式へ行ったら戦場になっていたが、その中で戦闘を止めるかのように歌うと話です。 映画中では結婚式のための新曲といった扱いでしたが、歌われるのは ხასანბეგურ [Khasanbegura] という伝承歌です。 3作目『小鳥』 [ჩიტები / Chetebi] は弟 გიორგი შენგელაია [Giorgi Shengelaia] に捧げたもので、 解き放った保護していた小鳥たちがアラヴェルディ修道院の周囲を飛び回ります。 いずれも不条理な現実と幻想が風刺の効いたユーモアと共に交錯する作風ですが、不条理なユーモアが効いた『井戸』が最も好みでした。
19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したジョージアの画家 ニコ・ピロスマニ [Niko Pirosmani / ნიკო ფიროსმანი] の伝記映画です。 貧しい農家出身で正規の美術教育は受けず放浪しながら酒場などの看板絵などで収入を得ていたことで知られる、 同時代の Henri Rousseau などの並んで Примитивизм [Primitivism] や Naïve Art の文脈に置かれる作家です。 そんなピロスマニに関するエピソードを、アーティスト的な内面を掘り下げるのではなく、 正面性、対称性の強い様式的な画面作りと、断片的なエピソードを重ねていくような構成で、映画化しています。 様式的な画面作りに、 絵となった場面や描かれた経緯をエピソードの積み重ねが加わり、彼の物語を追うのではなく、画集を繰るようでした。
先の週末土曜の夕方、有楽町から初台へ移動して、会期末になってしまったこの展覧会を観てきました。
1960年代末から活動し2020年に亡くなった日本の服飾デザイナー 高田 賢三 の回顧展です。 年表やそれに関連しての資料展示はありましたが、衣装展示は1970年代、1980年代の2コーナーのみ。 衣装展示で焦点を当てられた、パリに進出した1970年以降、KENZOブランドがLVMHに買収された1993年より前の間が、やはり創作のピークでしょうか。 自分が服飾デザインに興味を持つようになったのは1980年代ですが、 黒白を基調とした comme des garçons や Y's (Yohji Yamamoto) とは対称的カラフルなブランドという印象がありました。 自分の好みは前者ということで、当時、KENZOの服はほとんどチェックしていなかったのですが、 今回、展覧会で見直して、花柄使いも特徴的な欧州のフォークロア (民族衣装) を引用再構成したものと気付かされました。 ファッション展ではありがちではあるののですが、メンズの展示がほぼなかったのも、このデザイナーのボジションを示しているように感じられました。
2021年まで『オープン・スペース』と銘打っていたアニュアルのグループ展の2024年版です。 印象に残った作品は、 香港出身の Winnie Soon による «Unerasable Characters» (2020-2022)。 低い書架に大きく投影されたランダムに見える文字などスタイリッシュなインスタレーションに SNS, マイクロブログに対する検閲の問題を浮かび上がらせていました。 古澤 龍 の《Mid Tide #3》 (2024) は、 高谷 史郎 の《toposcan》 (2013) にも一見似ているのですが、 しばらく眺めていると、走査してフリーズさせるかのような《toposcan》とは異なり、 波動を動きがあるままに圧縮伸張していくところが面白く感じられました。 Ravel: Bolero の81種類の演奏 (interpretation) 音源をぼやけた音像に組み上げた 木藤 遼太《M.81の骨格——82番目のポートレイト》 (2024)、 郊外や埋立地の工事現場をパフォーマンスに使う舞台のように象徴的にギャラリー内に再構成した 青柳 菜摘+細井 美裕 《新地登記簿》(2024) なども、印象に残りました。
9月中ばになれど猛暑日近い暑さの土曜は、先週末に続き、昼過ぎに有楽町へ。 今度はこの公演を観てきました。
ドイツ Pina Bausch Foundation とイギリス Sadler’s Wells が セネガルの伝統舞踊とコンテンポラリーダンスの学校 École des Sables との共同制作した アフリカ13カ国35名のダンサーによる Pina Bausch: The Rite of Spring [Le Sacre du printemps] 再演です。 2020年にコロナ禍で公演中止になり2021年に初演、やっとの来日公演です。 オリジナルの Tanztheater Wuppertal Pina Bausch の上演は映画 Pina で [鑑賞メモ]、 この再制作版はセネガル・ダカールの砂浜での上演を Sadler's Wells の Digital Stage で [鑑賞メモ]、 それぞれ観る機会がありましたが、上演を生でみるのは初めてです。
ブラックボックスな舞台での上演では砂浜での上演のような色彩の逆転の妙はなく、むしろオリジナルの上演に近い印象です。 良席が取れなかったこともあるかもしれませんが、迫力という点では映画/映像の方が上だったかもしれませんが、ライブならではの生々しさがあります。 若々しく力強く踊るダンサーたちの資質もあるかもしれませんが、 犠牲になる側の壊れやすさというよりも、むしろ、暗示的な男性の女性に対する暴力性や凄惨さの方の印象を受けたパフォーマンスでした。 Pina Bausch の振付・演出は男女に分かれての構成が多いのも、その一因かもしれません。 生で観られたという感慨はありましたが、 そのミニマリスティックな衣裳デザインもあってか、アフリカ内とはいえ13カ国から集められたダンサーの多様性が捉え難かったのは、惜しかったでしょうか。
The Rite of Spring は休憩を挟んだ後半で、前半はソロダンス2作。 まずは、Tanztheater Wuppertal Pina Bausch のゲストダンサーだったこともあるという Eva Pageix による Pina Bausch の最初期のソロ作品 PHILIP 836 887 DSY。 Pierre Henry の往年の電子音楽を使ってのアブストラクトな小品で、こんな作品と作っていた時期があったのかと、感慨深く観ました。 続いては、École des Sables を主宰するアフリカにおけるコンテンポラリーダンスの先駆者的存在である Germaine Acogny のソロ。 踊りといういうより、静かな身振りとナレーションされる言葉を通して厳しい時代を生きた祖先への祈りの儀式を見るかのようでした。
先週末の土曜、有楽町へ出たついでに、7月に観た東京国立博物館での展覧会の連携企画が銀座で始まったので、それを観てきました。
展示に使われているモチーフなど、東京国立博物館との共通点も多く、第四会場的な位置付けもあるのでしょうか。東京国立博物館との間のシャトルバスも運行されていました。 例えば、8階ギャラリー上に張り出した9階から吹き抜け越しに望むブロックガラスの壁の上に貼られたチラチラを微かに光って見える直径1 cmほどの鏡 (向かい合わせの白壁にも同じ鏡が貼られている)、 北側のギャラリーの大きな台の上に置かれた5 cmほどの八角形の鏡の上に置かれたケシ粒大の白い物体、 宙の浮くような色の玉に当てたスポットライトが作るぼんやりとした丸い影など、 こちらの展示の方が、展示の中から細やかな煌めきを探すような楽しみ方ができました。 また、観他のがちょうど18時前後の日没の時間帯で、ブロックガラス越しの外光の、明るい夕陽から夕闇と広告看板などの明かりへの、移ろいを感じました。 自然光の入る第二会場も、日没頃の時間帯の方が良いのかもしれません。